インタビュー形式の伝記「日没前に」





第一章 生家



1.生家



問 : 先生。申し訳ありませんが、生まれた時から、家族の生活振り、先祖のことまでお話しいただけませんか。

答 : (笑) 私は一九〇六年、プムリエン(現在はチャイヤー郡の町)の生まれで、家は、当時の物は何でも売っていた商家です。家は木造で、屋根はニッパヤシ葺きでした。当時トタン葺はまだ少なかったです。母の名はクルアン、父の名はシエン、母の弟、つまり叔父はシエン(父とは綴りも声調も違う)、もう一人の叔父はアンと言いました。

 父方の先祖は中国から来ました。祖父が中国生まれかタイ生まれか、聞いたことはありません。タイで生まれたのかもしれませが、知りようがありません。話を聞いた限りでは、中国から来たように思います。絵描き職人で、ガラスに絵具で絵を描きました。福建から来た中国人で、元々の姓はクェー、あるいはコー、潮州の発音ではクォーと言いました。

 ラーマ六世の時に姓を使う法律ができて、役人たちが「パーニット(商いという意味)」と変えさせました。商売をしていたからです。郡長がつけてくれたようなものです。当時商売をしていたのは父の家だけでした。

 母はタイ人で、ターチャーン(郡)の人で、母はそこで生まれました。祖母や先祖もそこで生まれました。父はプムリエン生まれで、祖父母たちはずっと前からプムリエンに住んでいたので、既にプムリエンの人でした。

 家は商店で、今風に言えば乾物屋で、そんなに大きくありません。兄弟は三人で、末っ子は女です。私は、元はグアムという名前で、その下がジークーイ、つまりタンマタートです。妹はキムソーイという名前で、結婚してバーンドーンに住んでいて、夫の姓ヘーマクンを名乗っています。兄弟は三歳ずつ離れています。家の身代はそれほど良くなく、彼らのように金持ではありません。暮して行けるだけです。領主たち、私たちよりお金持の、何でももっている中国人たちもいました。






2. 母の影響



問 : 先生、お母さんの影響はどんな面ですか。

答 : 節約だと思います。母から受け継いだものを言うなら、節約とお金を倹約することです。節約するように教えられたので、足を洗う水もたくさん使っちゃいけないし、飲み水も、少し飲んで残りを捨てではだめ、炭を使うにも必要なだけ使い、無駄には使わせませんでした。

 燃え切っていない炭は消して、もう一度使い、倹約できる物は何でも倹約しました。いっぱいあります。いろんな方法で節約するので、習性になっています。役に立つように節約するにはどうするべきか、いつも見ていました。

 中国人だった父は反対に、あまり節約しないで、普通にしていました。母は何でも節約して、時間も節約しました。時間は何でも、有益に使わなければなりません。休憩時間も無為にしないで、何かすることがあります。節約の例は、ココナツミルクを搾るとき普通の人は二回搾りますが、私の家では必ず三回搾りました。

 二回搾った後、更に搗いてもう一回搾ると、ココナツミルクはまだいっぱい取れました。ほとんどの人は面倒だから二回で捨ててしまいますが、私の家では、もう一回搗いて搾ると、水が真っ白になりました。それからもう一度、四回目を搾りました。それくらい節約しました。他の家ではこれほど節約はしません。

 私は節約して少し使うのが習性になりました。しかし自慢するためでもありました。節約を自慢するため、つまり節約技術を見せることは、最高に良く知っていることになります。節約する必要がなくても、できることを見せるために節約しました。

 でも今の人は節約するのが面倒になって、あまり節約に気をつけません。昔は、中間層の人は何でも自分でして、人を雇いませんでした。お金を出したがりませんでした。物や道具も、倹約のために修理して、すぐには捨てませんでした。他の人は捨てても、私は捨てない物もありました。古い釘などは、他の人は捨てましたが、私は切って調整してもう一回使うために取っておきました。

 父はあまり家にいなくて、母はいつも家にいたので、父よりも母の方が親しかったです。台所で手伝いをしなければならないので、母の方が親しかったです。だから私は母ができる炊事は何でもできました。そして父は、普通の女の人より上手いというほどできました。祖母が上手で、何種類ものお菓子を作って売っていたので、父も何でも作れました。

 お寺に住んだ時、私は台所のリーダーでした。同じ寺に住んでいた子どもたちは、私が作れると信じず、沙弥も信じなくて、私がホーモック(潰した魚肉をバナナの葉に包んで蒸した料理)を作れるか賭けをしたことがありました。

 寺に住んでいる子供全員が、私がホーモックを作れると信じないので、賭けをして、腕前を見せました。簡単な物から難しい物まで、作れない物はなく、ホーモックや水牛カレーなど、上流の主婦のレベルの物も同じように作れたので、お寺の中で料理を教えました。ほとんどの子は作れませんでした。

 美味しい料理を作るのは、技術の意味があります。父が女の人のように作れたのは、祖母が強制し、環境が強制したからで、私が作れたのは、小さな時から、母が台所の手伝いをさせたからです。汁(主にカレー類)に入れるナムプリック(ハーブペースト)を搗かせ、ココナツを削らせました。

 しかしココナツは、私が削ったのを母はあまり好まず、タンマタートが削ったのが好きでした。彼は細かく削るので、ココナツミルクがたくさん採れたからです。私は粗く削るので(笑)、あまりココナツミルクが取れず、滓が多かったです。タンマタートは力がない人のように削るので細かく、ほとんど搾る力がいらないほど、簡単にミルクが出ました。

 母は、何をするにも最善を尽くすよう注意し、雑にすると指摘されました。美味しい料理を作るのは技術だというようなのは、その後、三要素が必要だという原則を掴みました。つまり汁に合った肉や野菜があること、汁の素材を美味しくするナムプリック(ハーブペースト)があること、そして油、つまりナムプリックを溶かす働きをするココナツミルクがあることです。

 それを汁に合った肉や野菜に混ぜます。私の家では、油はココナツを使いました。動物の脂を嫌わない地区の人たちは動物の脂を使います。見てください。どんな汁にも、いつもこの三つがあります。

 さつま揚げも魚肉とナムプリック(ハーブペースト)と油があります。油は中に含まれるココナツか、揚げる油です。ホーモックも、三つがあり、魚肉とナムプリックとココナツミルクを混ぜ合わせて蒸します。肉を良く潰すと、ココナツミルクがナムプリック(バーブペースト)と具を絶妙に調和させ、ナムプリックがココナツミルクに溶けて、肉と一体になります。

 水気のない物の場合は、木で包んだものを水気が無くなるまで焼いて、この村ではチャンローンと呼びますが、良く焼けたら割って出します。もっと美味しくするには焼き終わったら切って、更に濃いココナツミルクで炒り付けます。

 液体状でも、ドロドロの物でも、水気のない物でも、ゲーンソムのように完全でない物以外は、三要素の例外はありません。出家した後、沙弥や寺の子に教えたこともあります。沙弥や寺の子が作り方を知らないので、教えて作らせました。私が教えていた時、村の人が通りかかって匂いを嗅ぎ、我慢できずに「味見をさせてください」と顔を出した人もいました。(笑)

 甘い物にも三要素があります。粉と砂糖と油です。粉は生地で、砂糖は甘く味付けし、そして油はココナツミルクで、コクを出します。ほとんどのお菓子はこの三要素があります。ピアックプーンやカノムピアックは、粉と砂糖とココナツミルクを捏ねた物に他なりません。これは昔からの原則です。そして味をつける物を何か加えます。

 動物の脂を嫌わない集落の人は、ココナツミルクの代わりに動物の脂を使い、私たちの手本であるインドでは、牛乳を使います。今でもあります。三要素を原則にした基本のお菓子をカラメーと言って、この村ではパヤーカノムと呼びます。

 私は、元はインドから伝わって来たと理解しています。インドで見たことがあります。店の主人に、いつの頃からあったのか聞きましたが、知りませんでした。しかし大昔からあったに違いありません。彼らはカラメーと呼ばず、フラワーと呼びます。牛乳と粉と砂糖を練り合わせ、タイのよりも粘りが強く、透明で、掬うにも、何するにも大変で、それに値段が肉のように高かったです。

 濃いものはみな、ココナツミルクの代わりに煮詰めた牛乳を使います。タイのお金にしたら可なり高額です。これがアジアのお菓子の起源だと思います。ヨーロッパ、西洋はまた別です。粉の部分に卵が入り、バターが油の代わりをし、砂糖は同じです。彼らは卵を加工する知識があります。これも三要素から外れません。生臭物も甘い物も、食べ物に関して三という数字はどんなに神聖か、見てください。

 ポルトガル人が来て、初め、彼らはケーキしか知りませんでしたが、タイ人がケーキの材料でトーンジップ、トーンヨード、フォーイトーン(長崎の卵そうめんと同類の菓子)にしました。西洋にもあることはありますが、何種類もなく、それにトーンジップ、トーンヨードほど素晴らしく美味しくはありません。それが教えに来た先生を進歩させました。

 今一つ思い出しました。昔のタイ人は、何をしても先生より上手だと感じます。これは、誰もあまり感じないタイ人の固性です。装身具などはインドから伝わり、チョンクラベーンなどは、私たちでタイ風に素晴らしくし、美しくしました。汁物(カレー類)も同じで、汁物はインドから来ましたが、インド人の汁は、あまり食べられる物ではありません。

 しかし私たちはゲーンキヤオワーン(グリーンカレー)や、何から何まで作ったので、インド人も夢中になります。(笑) 生臭物、甘い物は、タイ人は先生より上手です。ゲーンリエンなどは中国から来ましたが、タイの方が本家より良い物にしました。

 詩歌は、タイと並べる国はどこにもありません。つまり内押韻(同じ句内の押韻)です。初めは多分インドから来て、外押韻(異句間の押韻)だけで、とても少ないです。あるいは全然ありません。カターパッダヤワット、サーマンカター、あるいはいろんなチャンダなど(すべて詩型。あるいは種類)、インドの押韻は少しか、あるいはまったくなく、あるのは音節の数を数えるのと、重音、軽音だけです。

 タイへ入って素晴らしい変化をして、内押韻、外押韻、クローン、チャンタ、カープなどになり、クローンは最高に心を捉えます。中国から来たものも、インドから来たものも、常に本家より良くしてきました。西洋の詩などは比較になりません。

 音楽もそうで、タイ人の手に掛かると元より確実に良くなりました。チャケーは琴よりずっといいです。(笑) 歌唱もそうで、タイの歌は、どこの国にも越えるものはありません。歌について勉強したことがあれば、この真実が分かります。私は歌にずっと憧れていましたが、機会がありませんでした。しかしだいたいは知っています。タイの歌の音楽は、二重、三重に複雑で、非常に繊細です。これほどにできる国はありませんよ。

 次に踊りや芝居を見ると、インドの長太鼓踊りが来て、タイに伝わってから絶えず改良して、元のパパッと飛んだり跳ねたりするものが、たおやかで美しく優雅な舞踊になりました。そして芝居に外劇(庶民が観る男性だけで案じる芝居)に、コーン(浄瑠璃のような舞踊劇。ラーマキエンのみしかない)やら何やら、いろいろになりました。

 何でも、本家より良くしなかった物はありません。何でも先生を超えました。これが私たちの先祖たちの天分です。タイの独自性が好きな人たちは、この項目を考えるべきです。しかしクルンテープの人たちは認めないかもしれません。彼らは見方を知らないから。タイの独自性に、何でも本家より良くするというのを入れなければならないと、私は言います。

 母から受け継いだものは何かと言うなら、節約と倹約です。






3.父の影響



問 : 先生。それでは先生が性格として受け継がれた、お父さんの影響は何でしょうか。

答 : 何と言ったらいいか、難しいですね。父は大工仕事が好きで、私も好きです。訓練を受けられればもっと良かったです。言い方を変えれば、作るのが好きでした。スアンモークのいろんな物は、自分たちで作りました。手作りです。父はアマチュアの船大工と言うことができます。

 本職は、それほど手広くもない商売で、アマチュアの仕事は船大工でした。最後に作った舟は未完成で、売りませんでした。今でも憶えています。腐るまで船台の上に放置してありました。

 もう一つ受け継いだのは、父は詩を作るのが好きで、いろんな形式の詩を作ったので、私も好きになりました。父が墓地に作った東屋に、詩を書いたのを見ました。お寺に寄進した便所にも詩を書きました。そして医薬に関した詩を書くのが好きで、ノートを見たこともあります。私も詩が好きです。父は手本どおりに正しく作れましたが、仕事に縛られていたので、あまり時間がありませんでした。

 最後の舟が完成しなかったのは、詩のせいです。最後は椰子林が欲しくて作ろうとしていましたが、完成しないうちに病気になり、そうこうしているうちに亡くなりました。シエンという叔父も詩を書くのが好きで、よく呪術を風刺する詩を書きました。初期の頃の佛教新聞を見てください。「ターナーソン」という号(筆名)で、呪術を風刺する詩を書いています。カーパヤニー(詩の形式)はほとんどこの人です。

 しかし叔父はあまり家にいないで、クルンテープへ行って出家しました。出家して間もなく、パトゥムコンカー寺の住職属の最下位の僧になったので、何年もせずに還俗して、ロンチュウという船会社の支配人になりました。シーヤーパイ一族の本家の、プラヤーワチーサッタヤラックの汽船で、この人がクルンテープ-シンガポール間を運行する汽船を所有していて、叔父は商品部、船倉部の支配人でした。

 その後社長が、チュンポーンの、財産も名誉も何でもある人の娘を妻に貰うように世話してくれたので、チュンポーンに住んだままです。だから一固まりの親戚がチュンポーンにいます。今は叔父の子供の世代で、孫が大勢いて、息子の五人以上は、まだプムリエンにいます。

 もう一人の叔父はプムリエンにいました。息子はなく、娘が一人いて、この叔父はかなり若い時に亡くなりました。船でクルンテープへ行って仕入れて来た物を売っていましたが、航海中に腸チフスで亡くなりました。しかし人はコレラだと言っていました。チュンポーンのサウィー郡の辺りを航海中の船の中でした。

 操縦士が言うには、そこに埋め、チュンポーンにいる叔父が遺体を掘り出して、そこで火葬し、骨を持って来てここで供養をしました。この叔父は短命で、まだ何も役割りがありませんでした。しかし人から聞いた所では、この人も芸術家で、良く歌を歌い、習ったこともないのに、上手にタイの昔の歌を歌ったそうです。

問 : その当時先生は、ご両親を何と呼ばれていましたか。

答 : 子供は、父のことはティヤ、母のことはメーと呼びました。中国の血を引く子供はみな、父のことをティヤと呼ばされていました。中国人の子供は父をティヤ、孫の代もティヤと呼びました。家の向かいのプラヤーアッタクロムも、中国系だったので父親をティヤと呼んでいました。当時の子供たちは、中国系であることを恥ずかしいと思わず、欠点と感じませんでした。

 父がいた頃の家は、春節や華僑の盆の行事をしました。父が亡くなった後、母は無関心でしたが、懐かしさでしていました。行事が近付くと、盆や正月に作っていた菓子を作り、托鉢僧の鉢に入れたり、近所に分けたり、自分の家で食べたりしました。豚肉入りチマキは、母より上手に作る人はいないと感じました。どうして最高に美味しいかも知っていました。

 他の人と作り方が違って、必ず亜麻の葉を使いました。私も隣の家に貰いに行かされ、それを良く搗いて、緑の水を搾って、豚入りチマキを作る粉に混ぜて捏ねます。蒸し上がると匂いも違い、亜麻の葉の香りや味がし、味は特に違いました。

 誰も作っているのを見たことがありません。何十軒もあって一軒か二軒で、ほとんどは粉だけでした。亜麻の葉を搾った水を入れると暗い緑色になるので、心に残って忘れません。このような菓子は、誰も母に敵いませんでした。母も代々伝わっている昔の人を手本に作りましたが、他の人は面倒がって、作りませんでした。

問 : 先生、お父さんは中国語を話されましたか。どこで勉強して詩が作れるようになったのですか。

答 : 父は、中国語は少ししか話せませんでした。シンガポール-クルンテープ間を航行する時、中国人と連絡しなければならいことがあったので、叔父の方が良く話せました。タイ語は寺の子(小姓)の時に勉強しました。詩作は見様見真似で、学校へは行きませんでした。学校では勉強しませんでした。

 もしかしたら叔父、つまり弟は勉強したからこういう知識があり、知識の交流があったかもしれません。訪ね合い、いつも手紙で連絡を取り合っていて、当時の珍しい物、新しい物があると、叔父は手紙で父に知らせ、それが勉強になっていました。あの話、この話、病気の治療の話も。

 お爺さんが一人、祖母の兄ですが、マイプムリエン寺で出家していて、死ぬまで出家でした。このお爺さんは、タイ方医に関心があったので、父にも伝わり、父はタイ方薬を作るのが好きでした。誰かがタイ方薬に関した本を印刷すると、買って勉強し、それまであった知識と一緒にしました。

 私が寺の子だった時には、昔の処方による丸薬を作って売ることができました。初めて作って売った薬は丸薬で、効能書きの印刷をクルンテープに注文しました。当時は薬がすごく安くて、たった三サターン、四サターン、十サターンでした。

 瓶入りの水薬は滅多にありませんでした。子供が飲むと元気になる有名な処方があり、この村の言葉ではターンカモーイと言いました。痩せ干乾びて腹が膨れ尻に肉がない子供に、この薬を酒に溶かして飲ませました。飲むと眩暈を感じ、耳が赤くなります。この薬は普及して良く知られました。私も飲んだことがあります。飲まされましたが、あの臭いは好きじゃありません。

 処方は複雑で、何十種類もの生薬を使いました。特別な原料はパーチャナイ(沈丁花科の木)で、ローティンのような力があり、あるいはローティンと同じかもしれません。非常に良く似ています。熱いもので、非常に熱いですが、それを直接飲む訳ではありません。他に沢山の物と混ぜ合わせて、それを丸薬にして、酒に溶かして飲みます。パーチャナイの根は毒があり、良く搗いて水に浸し、その水を運河に流すと、魚が列になって死にました。とても不思議です。

 沼ならもっと簡単です。パーチャナイの根をほんの少し搗いて水に浸し、その水を撒くと、沼全部の魚が死んでしまいます。ある知人が、搾った毒で魚を獲って、手を洗わずに、カニや貝をむしってアヒルにやったら、アヒルが全滅してしまいました。パーチャナイは蔓性で、葉はとても小さく、厚い幕が根を覆っていて、小さな芯が中にあります。この薬は「ヤーファイアーウッド」という名前でした。

 非常に良く売れたのを憶えています。何でも治りましたが、結果が大きいのは、子供の腹が膨れてやせ細る病気です。チュンポーンにいた叔父も、薬の知識がありました。昔の処方で薬を作るお祖父さんと、同じお寺にいたことがあるからです。




4.家庭の雰囲気

問 : 先生。先生のお宅は、たとえば商売の験を担ぐなど、呪術の雰囲気はありましたか。

答 : 観察して見た所、多少はありました。風俗としてで、多くはありません。むしろ風俗習慣で、本気でしているように見えません。たとえば、ソンクラーン(タイ正月)の時にどの家でも祭るソンクラーン神などで、女神を迎える時、子供たちを呼んで、門の裏でロウソクと線香に火を点けて拝みました。これは何も理由のない風俗習慣です。

 母は考え過ぎるのが嫌いな人で、人がしている習慣はしていましたが、心で強く信じてはいませんでした。たぶんする方がしないより良いと考えていたのでしょう。両親は仏教を信仰していると呼ばれていましたが、こういう民間信仰も昔からしていました。

 父はこういうことには興味がありませんでした。たぶん信じていなかったのでしょう。商売に関係ある幸運、たとえばナーンクワック(招き女)やクマーントーン(胎児の遺体で作る霊験のある幽霊)などは何もありませんでした。置き場所がないので、サーンプラプーム(精霊の家。日本で言えば、昔どの家にもあったお稲荷さんのように一般的なもの)もありませんでした。

 バナナが偶然、木の途中を突き抜けて、蓮の花のように白い花を咲かせた時は、不運にならないように、習慣に従ってロウソクと線香をに火を点けて何か唱えましたが、私は知りません。

問 : 先生、当時の社会のお化けを信じる雰囲気は、土地の人はそう信じていたのですか。

答 : たいてい信じていました。プムリエンの集落には、憑依する人がいましたが、今の交霊者のようでなく、憑依して良妻賢母になったり、歌を歌ったり、歌や踊りをしたりしました。要するに、ほとんどは人々の風俗習慣で、一部に呪術の信仰がありました。

問 : 先生は子供の時、お祖父さんお祖母さんが亡くなった日に、他のお祖父さんお祖母さんの霊が訪ねて来るというのを信じましたか。

答 : 考えたことはありませんが、みんなと同じように話しました。ほとんどの人は信じていませんが、風俗習慣でしていました。本当に信じていた人はごく一部だと、私は言います。でもしないと不運や損害があるという伝統習慣による恐怖でしていました。

問 : ご両親はワンプラの日や宗教的に重要な日にはお寺に行かれましたか。

答 : 母は行くこともあり、特に年を取ってからは定期的に。父はまったく行きませんでした。私の子供の頃は、宗教的に重要な日はあまりなく、子供にとって楽しかったのは、雨安居明けの行列で、ちょっと大行事でした。

問 : お父さんはどれくらいの期間出家なさったのですか。

答 : 知りません。しかし一雨安居(三か月)の間だけだと思います。

問 : 子供の頃、先生は幽霊を信じましたか。幽霊に騙されると言って脅す人はいましたか。

答 : 普通の子供と同じで、子供だから信じました。大人は脅しませんでしたが、子供同士で騙し合いました。私は生意気で、少年の頃から幽霊を怖がらず、怖くない態度、信じない態度を取りました。この地域、スラータニーやチャイヤーには幽霊の話はあまりありません。イサーン(東北地方)と違って、信じる人は非常に少ないです。

問 : 呪術や霊の話に抵抗する気持ちは、叔父さんの影響ですか。

答 : 何も抵抗はしません。からかっただけです。叔父が先導者でした。

問 : お父さんはお酒やタバコは呑まれましたか。

答 : まったく飲みません。中国の春節の時には、友達や土地の人が酒を振る舞いますが、父は口もつけませんでした。博打もしません。したのはタイ将棋くらいです。

問 : 先生、しつけなどはお父さんの仕事でしたか、お母さんの仕事でしたか。

答 : ああ、そういう聞き方は正しくありません。それは協力し合うことです。父は道に厳格で、母は一般の風俗習慣で教えました。父はあまり話さず、人の恩を知ることについてあまり話しませんでした。母はいつでも忠告していました。子供たちが、人がしているようにするよう教えなければならない風俗習慣です。特に強調する美徳がどの項目にあったか思い出せません。

問 : しつけで、ご両親は説教をなさいましたか。つまり先生は叩かれたことがありますか。

答 : (笑) おー、風俗習慣で、しょっちゅう叩かれました。母はすごく叩きましたが、父はほとんど叩きませんでした。マヨムの枝で叩き、籐のような丸い棒で叩かれたことはありません。弟妹と喧嘩をするとどちらも叩かれ、双方が責任を取らなければなりませんでした。後で聞いても、重要ではありませんでした。

問 : 泣くほどですか。

答 : 当たり前です。泣かなければ叩くのを止めません。泣けば止めます。母は怒りのある人ではないので、怒りで叩きません。一番よく叩かれたのは、兄弟ゲンカで大騒ぎをしたことです。罰で叩くのは、秩序を守らせる習慣だと思います。あまり説教や説明はしないで、「間違っている。悪い」と言って、叩きました。(笑) お寺の説教のような理由は教えませんでした。

問 : 子供の頃は丈夫でしたか、ひ弱でしたか。

答 : ひ弱な方で、あまり丈夫ではありませんでした。丈夫でがっちリとした体ではありませんが、やせ細ってもいませんでした。出家してから丈夫になりました。

問 : 学校のしつけで、何か印象に残っていることはありますか。

答 : 思い出せません。秩序のために習慣でしたと知っているだけです。

問 : よく叩かれたということは、先生もいたずらっ子でいっしゃったのですね。

答 : いたずらとは関係ありません。他のことではなく、兄弟間のつまらない問題があっただけで、遊んでいるうちにケンカになることが多かったです。「弟妹を怒らせる」という言葉があって、弟や妹が言いつけたり、泣くと、よく叩かれました。結局子供の頃のことは、何もありません。

問 : しかし現代では、幼児期はその後の人生に大きな影響があると見なされています。

答 : そういうこともあるかもしれませんが、私は関心がありません。それにほとんど忘れました。





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