四聖諦の特徴



 現代の西洋の仏教者や学生は、東洋の仏教者が四聖諦について話すことが少なすぎるのを怪訝に思い、ほとんど話されていないといっても良いほどで、話すのは奇跡や新奇なことに関わる儀式や四聖諦に関係のない論争ばかりと軽蔑まじりに言います。反対に西洋の仏教教団員が話したり書いたりするのは、三蔵についてより四聖諦に関しての方が多いほどです。三蔵には四聖諦がいっぱいなのに。これは一考する価値があることです。

 東洋の仏教教団員には、四聖諦は直接滅苦に繋がるという感覚がないのかも知れません。だから我武者羅に、誰が射た矢か分からないうちは抜き取ることを拒んでいるということもあり得ます。だから四聖諦は何か、人間にとってどのように重要かを正しく理解すれば、興味のある物、あるいは非常に実践する価値のある物になります。

 述べたように、四聖諦は仏教の最初の論理の話なので、仏教の心臓部に至る門として、あるいは四聖諦の教えと一致した日常生活行動から、涅槃、あるいは滅苦までを生じさせる物として、関心を持たなくてはならない話です。

 そして四聖諦は八正道であり、八正道は四聖諦であると述べた理由で、直接実践であり、理論だけではなく、四聖諦と一致する実践項目で実践すれば、当然どんな技法もない滅苦をすることです。

 他の系統を学んだことがあり、他の技法に慣れている人が四聖諦の話を聞くと、最初に心を捕えられ、真実と違ってしまいます。つまり一方的に苦だけを捉えて「すべては苦ばかり。苦に関係したことばかりで、他のことについての話はない。最高に良くても苦の終わりについてで、幸福について語ることはない」と驚愕します。これらの人は、仏教は悲観的な教義、あるいは教えと決めつけ、そしてほとんどは難癖をつけて仏教に関心を持ちません。

 仏教、あるいは仏教の要旨である四聖諦は悲観的な面だけに注目する理論、あるいは実践でないと同時に、楽観的な面だけに注目するのでもありません。四聖諦の四項目には、苦を指摘して見せることと、苦を消滅させる道のどちらも揃っていて、苦がなくなれば、当然幸福になります。

 譬えるなら、柔らかくて暖かく快適な寝床や座る所、住む所のように、ガラスや瓦の破片や棘があちこちに散らばっていれば、これから座るか寝るかする人は、先に危険物を取り除かなければ、当然それらの尖った物に刺されますが、危険物を非常に細かい、目に見えない破片まですべて取り除いてから寝る人は、快適さが得られます。

 同じように世界、あるいは人生は、苦、あるいは危険に深く包まれていますが、この項目の真実を知って、煩悩の棘と苦の棘を、粗いのも中間のも微細の物もすっかり取り除く方法を知っていれば、世界はその人にとって少しも凶悪でなくなります。

 その人の人生は純潔になり、危害や毒がなくなり、原因と縁がすべて消滅する時まであるのは、穏やかさだけです。真実がこのようなら、仏教の要旨である四聖諦は、本当には悲観的に見るだけでなく、非常に緻密で隠れた悪を善い物に変える角度がある物と言うことができます。

 四項目を同時に広く見れば、四聖諦は悪い物を善くする完璧な理論であり、そして正しさを保証する、あるいは望みどおりにするための規則です。

 体の病気の治療をするには、医師はその時現れている病気について、そして反対の状態、つまりその原因がない、あるいはその病気の原因を、何時からとハッキリ知らなければなりません。自分がしようとする仕事が望む物質として、その目的に沿った成功である結果を生じさせる行動である、いろんな手法の知識がなければなりません。、 この例の病気は四聖諦の第一項の苦で、病気の原因(たとえば便秘が頭痛の原因など)は四聖諦の第二項の苦の原因で、病気の原因を取り除くこと(たとえば下剤、や便秘を直すこと)は四聖諦の第三項の、欲望を消滅させることである苦の消滅に相当し、薬の処方やその他いろいろな病気の原因を絶つ方法(下剤を処方することや、便を吸引するなど)は、当然四聖諦の第四項の滅苦の道である八正道です。

 このような譬えで、四聖諦は悲観的な面だけに注目する話、あるいは最終的に悪い結果になる話ではなく、反対にいろんな悪い病気の治療法であり、自然な状態まで完治させ、まったく苦のない純潔にすると理解させます。

 ある教典はこの項目に関して簡潔に、苦は「米が不作で、ビンロウも高値で死人が出る」ことに譬え、「集」つまり苦の原因は旱魃に譬えられ、「滅」つまり苦がないことは飯とおかずが豊富なことに譬えられ、「道諦」である滅苦は、良いお湿りに譬えられると言われているのもあります。

 この譬えの要旨は、当然このような原因で苦を消滅させれば、正常な幸福になるということを説いています、だから仏教、あるいは仏教の要旨である四聖諦は、述べたように悲観的な注目だけをする教義という誤った捉え方、あるいは見方をされるべきではありません。

 私たちの滅苦は、『家の土台や基礎を作らずに家を建てるという人は家を持つことができないように、四聖諦の知識を使わずに正しく苦を滅すという人は、苦を滅すことはできない』とブッダが言われているように、四聖諦の知識なしにはあり得ません。だから「四聖諦は直接滅苦の原因」と、独特( Characteristic )の規定をするべきです。

 別の角度から、つまり自然の法則の面から見ると、四聖諦の四項目は絶対に変わることのない永久不変な自然の法則です。他の自然の法則は、太陽や月やいろんな星の軌道など、現在自然の変わらない法則と言われているものは、言われているように不変の法則ではありません。永い時を経れば、いろんな軌道の法則がすっかり違う物になってしまうこともあるからです。

 現在法則としているいろんな科学的な規則も、時や時代が変われば、その法則の基盤である物が変化することで、法則でなくなってしまうこともあります。

 四聖諦の話の自然の法則は、どんな時代でも、この世界でも別の世界でも、過去でも現在でも、どんなに遠い未来でも変わることのない不変の法則で、どこも変える必用はありません。苦はいつでも煩悩である、欲望あるいは取から生じ、苦がないことは煩悩、または欲望、あるいは取を滅すことだけによって生じます。

 その上半分植物半分動物のような下等な植物から、畜生・人間・天人・悪魔・梵天まで、どんな動物にも使うことができ、どんなに下等でも高等でも、どんな時代でも、どこの国のどんな場所でも、当然この法則の下に落ちています。

 だからブッダは『比丘のみなさん、不変で何にも変わることがない四つの物があります。その四つの物とは、苦はこのよう、苦の原因とはこのよう、滅苦はこのよう、そして滅苦に至る道はこのようという真実です。これこそが不変であり、どんな変化もしない物です』と言われています。

 述べた状態で、四聖諦はブッダの本当の本物である自然の法則と言えるほど、変化を知らない自然の法則の状態があると、四聖諦独特の状態を規定できます。

 四聖諦の規定の状態についてより深く熟慮すれば、滅苦の法則の並び方には、それ自体に不変の順番があり、違う順に並べ変えれば途端に多少合わない、あるいはあり得ない事態が生じると分かります。

 四聖諦の並び方は、ブッダは初めに苦について述べ、次に対であるその原因、それからその反対の状態である苦のない状態を三番目に述べ、対としてそのような状態に確実に至る道を四番目にしたと、私たちは簡単に、明らかに見ています。

 パーリ(ブッダの言葉である経)にあるような簡潔な「苦・集・滅・道」の並び方を論理の面から熟慮しても、論理学的にも正しい順序であり、少しの欠陥も無いと言うことができます。だからこの四項目の真実は「とは何か」「何故に」「何のために」「如何にして」という規定が、あるいは何について論じるにも完璧で十分な態勢があると言うことができます。

 「とは何か」は四聖諦の第一項で、世界、あるいは命、あるいは「苦」などの代名詞で呼ぶことができる物についてで、それは何か、あるいはどのような現象が現れるか、何に似ているか、あるいはその結果はどのようかなどに言及しています。次の項目の「何故に」は四聖諦の第二項「集」で、世界、あるいは命、あるいは苦と呼ぶ物は何から生じるのか、何が根源か、あるいはなぜ維持できるのかについてに言及しています。

 次の「何のために」は、四聖諦の第三項である「滅」で、世界、あるいは命、あるいは苦、あるいはこれらに関するすべての真実は苦を消滅させるためにあると明示しています。真実を学ぼうとする人は、世界は滅苦のためにあるという真実を正しく見るべきです。

 命は滅苦に至るためにあり、苦は最終的に消滅させるためにあり、四聖諦のすべては、論理になる部分も実践になる部分も、目的はただ一つ、苦を消滅させることだけです。最後の「如何にして」は四聖諦の第四項「道」で、このような方法を実践すれば、あるいはこのように歩けば滅苦が現れ、これ以外の方法でこのような結果が生じることはないと明示しています。

 要するに仔細に熟慮すればするほど、正しさ、ふさわしさ、あるいは完璧さが見え、この四聖諦の教えに満足が増します。だからこの機会に、仏教教団員のみなさんが本当に完璧な話しをしたいと思ったら、ブッダが四聖諦で用いられた論法で話すよう努めてください、とアドバイスさせていただきます。そうすれば理論的にも文章としても完璧で、反論や避難する余地はありません。


 簡単に原則をまとめると「これは何か」「これはどうしてか」「何の利益があるか」「どうしたら成功するか」とはっきりと説明することです。どんなに智慧のある人が批判しようと調べて見ても、一つの欠点も見つけることはできません。

 これがブッダの四聖諦の論法の完璧さです。「この四聖諦の並び方は、サマナ・バラモンも、天人も悪魔も、梵天も、誰も変えることができない定形」とブッダは言われ、苦を四聖諦の第一項、集を第二項、滅を第三項、道諦を第四項にして説明されています。この原則を掴めば、四聖諦の特長は論理としても誰も反論できない、ブッダが厳格な形に配置した真実の法則と規定することができます。

 そしてすべての仏教教団員が何かを説明する時、継承して用いるべき論法です。だからこれは仏教の教えは論理的にも正しく、そして明確に説明されていて他の宗教には見られないと、私たちの誇りにします。

 世尊の四聖諦を規定の観察すべき状態はもう一つあります。誰かの反論や支持に言及してないことで、誰かが気に入らなくて、その人が連れ立って抗議したり皮肉を言ったりしないだろうかという動揺がなく、反論や皮肉を言う人がいても、それが心に衝撃を生じさせません。

 ブッダはどのような人達からも、見解の一致や称賛、あるいは敬意を期待しないからです。誰かがこの件で賞賛したり尊敬しても、これは智慧のある人は誰でも実践するべきと、本当の知識でこの真実を提唱しただけと思われただけです。

 ブッダは『比丘のみなさん。私は昔も今も、苦と苦を消滅させる道だけを規定し、教えています』と、最後通牒のように言われています。これは、ブッダが規定したものは純粋な規定で、自分にも世界にも触れず、タンマ、あるいは真実についてだけ言及し、すべてが率直に本質であり、最初の部分も、基本として愚かな聞き手の信仰に依存する必用はありません。

 聞き手の心を惹くため、あるいは基礎として信仰や満足や何らかの歪曲が必要な期待を聞き手に生じさせるために、直接にも間接的にも歪曲はありません。これを原本とすれば『四聖諦はブッダが純粋に規定された教えで、自分についても他人についても言及せず、周到に純粋に完璧に規定された真実についてだけ述べられている」と、四聖諦の状態を規定できます。


 別の角度から考えて見ると、四聖諦は、ブッダが悟った他のすべての教えの中から、何よりも素晴らしい物を選び出した教えと見ることができます。ある時、ブッダは、ゴーサンピーの都に近いある森の中に座っておられ、地面から一握りの枯葉を掴み上げて『この一握りの枯葉と、森全体の木の葉と、どちらがどれくらい多いですか』と比丘たちに質問なさいました。

 比丘たちが「森全体の木の葉の方が、一握りの木の葉より比較にならないほど多いです」と答えたのは当たり前です。その時ブッダは『比丘のみなさん。それと同じで、私が明らかに悟った非常にたくさんの真実を、私は教えません。それらを教えない理由は、利益がなく、涅槃に至る梵行の切っ掛けにならないからです。だから私はそれらをみなに教えません。それなら何を取り上げて教えるのでしょうか。

 私が教えるのは、これが苦、これが苦の原因、これが滅苦、これが滅苦の道という最高に素晴らしい真実です。なぜ教えるのでしょうか。私が取り上げて教えるのは、これだけが、涅槃に至る梵行の糸口になる利益があるので、私はこれをみなさんに教えます』と言われました。

 一握りの木の葉と森全体の木の葉を比較した時、山全体から一粒のダイヤを取り出すように、ブッダは外皮、あるいは内皮でしかないもの中から、心髄である物を選び出したと見ることができます。この項目は、四聖諦はブッダが悟ったすべての物の中で、最高に価値があると明らかに見せます。

 その結果、四聖諦はブッダが悟った膨大な物の中から、特に人間のために選び出した素晴らしい真実であり、人間にとって何より関心を持つべき真実と、四聖諦の状態を規定できるほどです。私たちは自分がブッダとして悟ることはできなくても、自分で悟ったのと同じ結果を生じさせる物を得ることができます。


 また別の角度から詳しく熟慮して見ると、四聖諦は、本を読んだり、人から話しを聞いたりして学び、暗唱して思い出せる知識という意味ではなく、煩悩や無明を撃退できるまで明らかに知るための真実を意味すると見ることができます。

 以上の理由から、四聖諦についてすらすら暗誦できる人、あるいは毎日読経している人も、四聖諦を知っている人ではありません。ある時ブッダは、三蔵の九部経の学習に長じている人、つまりブッダの言葉である経文を知ってはいても、ヤーナ(智)で四聖諦を知らない人を非難されて、

『穴を掘っても住まないネズミのよう』、あるいは『家を建てても住まない人のよう』、あるいは『色は熟しているように見えても熟していないマンゴーのよう』、あるいは『水が満タンのように見えて空っぽの鍋のよう』と言われています。

 これをこの規則で熟慮して見ると、本当の四聖諦は記憶するだけ、あるいは学んだ理論で理解するだけの知識ではなく、四項目の真実に生じるヤーナのある人の心にだけ現れるものと分かります。すなわち自分自身の心に生じている苦の味を感じ、自分の心を焼き焦がしている欲望の害を知り、どんな欲望にも妨害されない心の味を推測し、そして欲望が干乾びて二度と妨害しなくなるほど正しく生きる明らかな感覚があります。

 このような明らかな内面の明らかに知ることを「ヤーナ(智)」と言い、考えること、あるいは記憶した事柄から生じる知識と違います。それらは最高に良い呼び方でも「知識」でしかなく、ヤーナではありません。この教えを捉えれば、四聖諦は本物のヤーナで明らかに知るべき物であり、穴を掘ることしか知らないネズミと貶される知識だけで分かる物ではない、と定義することができます。


 更に詳しく熟慮すると、四聖諦の知識がないことは、ブッダは『他の知識がどれほどたくさんあっても、価値は、まったく知識がないのと同じ』と言われていると、ハッキリと見えます。

 仏教の教えでは、本当の知識、あるいは知識と呼べる類の知識は、四聖諦の教えで苦を消滅させる経過になる、つまり本当に、確実に苦を滅すことができなければなりません。その他の膨大な苦を生じさせる経過になる知識は、何を知っていても、どんなに驚異的で珍しいことができても、極めて愚か、あるいは迷いと見なします。

 たとえば世界の凄い知識と評判の知識は、四聖諦を学ぶよりはるかに多大なお金と労力と時間を費やさなければなりません。その上最終的には複雑困難な結果、あるいは世界に以前より更に複雑で根深い苦をもたらします。このようで、知識があると言うべきか、ないというべきか、どちらでしょう。

 誰もが幸福、あるいは穏やかさを望んでいるのに、どうしてそれらの人々の知識は、幸福、あるいは平安でない物をもたらすのでしょうか。知識あるいはそのような行動に本物の知識がまったくなければ、そのような知識を無明、あるいは無知と見なす仏教の教えに賛成します。

 無明とは何かと質問すると、ブッダは『比丘のみなさん。苦を知らないこと、苦の原因を知らないこと、滅苦を知らないこと、滅苦の道を知らないことの、どれを知らないことも無明と呼びます。そして無明の人とは、このたった四つの真実を知らない人です』と答えられています。

 明の側についてブッダは、反対の状態で『苦を知り、苦の原因を知り、滅苦を知り、滅苦の道を知る知識を明と言います』と言われ、『明のある人とは、このたった四つの真実を知る人です』と言われています。この教えにより、仏教で知識と呼ぶ物は、直接四聖諦の知識のことです。

 よって私たちは、四聖諦とは本当の知識(明)と呼べる知識を得るための物、と新しく定義することができます。あるいは世界の知識と違って、知る人が滅苦できるようにさせる、仏教で知識と呼ぶ物と、四聖諦のもう一つの状態を新たに規定できます。世界の知識は、それを知っている人を以前と変わらぬ苦、あるいは更に複雑巧妙にな苦にするので、知識と呼ぶことはできません。知るべきでない知識、知ることができない知識を知識と勘違いするからです。

 教えることの面から熟慮して見ると、世界に平安と幸福をもたらす物として、教え継ぐべき物として、四聖諦以上に教える価値のある物は他にないと見ることができます。すべての世界の知識は二種類に分類することができ、一つは将来使うことができる一般的な能力、あるいは賢い知性を生じさせるもので、もう一つは既にある知性や能力や力で、自分の望みどおりの結果を出すためものです。

 しかしこの二種類の知識はまだ無明に覆われている知識で、覆っている無明をなくして明るさ、あるいは本当に自由な状態に行くことはできません。だからどんなに学習、あるいは教育しても、苦を消滅させることができず、あるのはますます自分の知識という陥穽に落ちるだけです。この種の教育が発展すればするほどそうなります。

 この種の教育がどんなに華麗な発展をしても、本当の滅苦だけをめざす聖人方は関心を持ちません。そしてそれらの知識を教え広めることにも関心がありません。聖人方はそれらの知性、能力、あるいは際限ない力を創出することに興味がなく、欲望や煩悩でいろんな物を創造する知識にも関心がありません。

 だから自然の完璧な知性と、直接滅苦に関わりがある四項目の聖なる真実を自分で明らかに知り、他の人も知ることができるよう公開する十分な能力があれば、そのような知性、あるいは能力、あるいはそれほどの生産力はありません。

 これについてブッダは「遠い昔でも、遠い未来でも、現在でも、出家僧やバラモンの誰かが真実と一致して正しく知っているタンマを公開するなら、公開する物は他でもない四項目の素晴らしい真実でなければならない」と言われています。

 この話の重要点は「人々に公開するべき物は四聖諦以外にはない」という点にあります。私たちは、四聖諦は明らかに開示するべき唯一の物で、それ以外の物は人間をどんどん複雑で深い苦に引きこむ物だけと、新たな四聖諦独自の状態を規定することができます。

 ブッダご自身の場合、四聖諦は、明るさや勇気を木っ端微塵にしてしまう獅子王の獅子吼のように、迂闊な動物を驚愕させた最初の説法でした。

 ブッダが「この世にブッダが誕生した時、動物たちに教えるタンマを、苦はこのよう、苦の原因はこのよう、滅苦はこのよう、そして滅苦への道はこのようと分類しました」と、ある所で言われると、幸福で健やかな長寿を維持していた天人たちは、それを聞いて驚愕し、憐れを感じ「自分は安泰で永久不変で、どんな苦にも支配されることはないと惑溺していたが、本当は常に苦の原因である物に支配され、憐れな状態だ」と顧みることができました。

 この項目の重要点は、最高に高い階層の天人たちを驚愕させ、油断に気づかせることができるのは四聖諦しかないという点です。四聖諦以外の教えは、高い階層の天人に鳥肌が立つような衝撃を与えることはできません。他の教えは四聖諦のように事実である真実を説明していないからです。

 このような理由から、四聖諦は最高度の油断と有頂天に陥っている人の油断と有頂天を木っ端微塵にすることができる物、獅子王がすべての動物の上にいるように、ブッダを天人たちの上に立たしめる特別の商標と、四聖諦の特徴を規定することができます。





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