四聖諦を知ることの基盤である物






 滅苦と輪廻を止めるために輪廻の輪を折ることは、同じと広く知られています。この話の観察すべきは、輪廻の輪を破壊するほど四聖諦を知ることと同じ意味か、違うならどう違うかという点にあります。別の言い方をすれば、四聖諦を知るとは、輪廻の輪のどの部分を知ることかです。

 このことに関してもう一つ、特に奇妙なことは、仏教の教えでは、何か一つの物を「これは原因、これは結果」と断言することはできません。原因だけ、あるいは結果だけの物は何もないからです。この真実は、一つの物は必ず原因であり、結果でもあると、至る所で見ることができ、これは原因、これは結果と一面だけを明示するのは、一つの時と場所にだけに限れば可能です。

 たとえばこの建物は、施主の求めによって作られた結果ですが、同じ建物が、この先修理や改修の原因になります。だからブッダは、すべての物は結果であると同時に原因でもあり、尽きることなく輪のように繋がっていると言われています。

 分かりやすいのは輪廻、あるいは三つの部分で成り立っている環で、煩悩と呼ぶ「願望」と、カンマと呼ぶ「行動」、そして報いと呼ぶ「行動の結果」です。この三つのうちの「願望」は「行動の結果」の原因であり、「行動の結果」は、引き続き何らかのことを「願望」の原因になり、そしてその欲望に応じた何らかの行動があり、そのように尽きることなく繋がって終りのない輪になっています。

 一つの輪の中の願望も、行動も、行動の結果も、それぞれが原因であり結果であり、ある時は「願望」が「行動」の原因になり、行動は願望の結果と見なされます。しかしその「行動」がその後の「行動の結果」を生む原因になり、その「行動の結果」は直接の結果です。しかしそれは、前と同じ、あるいは前と違う何らかのことをしたい「願望」の原因になり、この生じた欲望は、前回の「行動の結果」から生じています。

 だから願望も、行動も、行動の結果も、全部原因にも結果にもなります。この意味で、煩悩もカンマも報いも、すべては原因であり結果であると言うことができます。ある物について「これは原因、これは結果」と一面だけについて述べることは、当然、常に半分は間違った発言です。

 仏教の教えである原因と結果の法則は、何かを原因、あるいは結果のどちらかに確定して規定する、普通の人々、あるいは他の哲学の原因と結果の法則と違います。この項目は、私たち仏教教団員にとってしっかり定義しておかなければなりません。

 輪廻の輪を「煩悩・カンマ・報い」の三つに分けた時、ブッダはこの輪廻のどの部分を四聖諦のどの項目と規定したのか理解するために、熟慮してよく見なければなりません。

 ある部分を原因、あるいは結果と固定的に見る初めから勘違いしている人は、このことに関して大きな誤解をしています。つまり「ブッダは四聖諦を輪廻のいずれかの部分を、自分が「これは原因、これは結果」と見る物と対として規定されている」と理解しています。

 一方すべてを学んで、ブッダが四聖諦をどんな状態で規定したかを知っている人は、「ブッダは四聖諦を、ブッダの意図次第で、輪廻のどの部分にも該当するように規定された」とすぐ知ります。これを良く理解するために、ブッダが四聖諦をどのような形で規定されたか、幾通りの状態があるかを知り、それからどの状態の四聖諦を、輪廻のどの部分と規定されたかを知らなければなりません。

 世尊の四聖諦はいろんな形で規定しされています。

 「これが苦、これが苦の原因、これが滅苦、これが滅苦の道」というのが一つの形。

 「これがアーサヴァ(漏。心を汚す物)、これが漏の原因、これが漏の消滅、これが漏を消滅させる道」というのが一つの形。

 「これがサッカーヤ(有身)、これが有身の原因、これが有身の消滅、そしてこれが有身を消滅させる道」というのが一つの形。

 「これが食べ物、これが食べ物の原因、これが食べ物の消滅、これが食べ物を消滅させる道」というのが一つの形。

 まだあり「これが世界、これが世界の原因、これが世界の消滅、これが世界を消滅させる道」というのも一つの形です。

 また「これが取、これが取の原因、これが取の消滅、これが取を消滅させる道」というのももう一つの形です。

 熟慮して見ると、煩悩や有身を四聖諦を知る基盤にしたのは、ブッダは輪廻の煩悩の部分で四聖諦を識るよう規されたという意味です。そして四聖諦を規定する基盤として食べ物を取り上げられた時は、四聖諦を輪廻のカンマで知るように規定し、苦、あるいは世界、あるいは取を四聖諦を知る基盤にされたのは、四聖諦を輪廻の報いで知るように規定されたという意味です。


1.煩悩輪で四聖諦を知る

 アーサヴァ(漏)もサッカーヤ(有身)も煩悩の別名です。アーサヴァは本性を憂鬱にする意味の煩悩の名前で、サッカーヤは何かを自分の物と執着する煩悩の呼び名で、二種類の煩悩の意味は違いますが、どちらもカンマ(行為)を生じさせる原因である煩悩で、カンマヴァッタ(業輪)とします。

 アーサヴァ(漏)は愛欲、あるいは有、あるいは知識に欠ける行動に満足させる意味で、心を憂鬱にする煩悩です。このアーサヴァがある時はいつでも、必ず行動の原因になる煩悩があり、アーサヴァを全滅させるには、アーサヴァとは何か、アーサヴァは何から生じるか、アーサヴァのない状態はどうか、そしてどうすればアーサヴァを全滅させられるかを知らなければなりません。

 このように知れば、当然アーサヴァを全滅させることができます。アーサヴァ、つまり煩悩が絶滅すれば、煩悩輪は消滅し、続いて業輪、果報輪も消滅し、回転できない輪になるので、どんな苦も生じることはできません。これを「アーサヴァという煩悩で四聖諦を知り、苦からの解脱を可能にする」と言います。

 サッカーヤ(有身)の場合も同じで、サッカーヤ(有身)もアーサヴァ(漏)と同様に無明から生じる煩悩です。あるいは本当はある状態の、あるレベルの煩悩で、これもアーサヴァ(漏)と同じです。煩悩、つまりこのサッカーヤ(有身)は「私、私の物」と執着する原因、身勝手が生じる原因であり、身勝手の力で何かをすれば、最後に苦が生じます。

 この場合の滅苦をする人は、「サッカーヤとは何か、何から生じるか、サッカーヤがない状態はどのようか、そしてどうしたらサッカーヤを絶滅させられるか」を明らかに知るまで熟慮して見なければなりません。この知識が極めて明らかになった時、サッカーヤは消滅します。

 煩悩、つまりサッカーヤが消滅すれば、身勝手などの威力による行動やカンマはありません。これを「アーサヴァの場合と同様に、煩悩輪が断たれれば、業輪と果報輪も断たれる」と言います。

 この場合、世尊は四聖諦をサッカーヤという名の煩悩で知るよう規定されたと言うことができます。つまり煩悩が「自分、自分の物」と理解させる、あるいは執着させる原因ということです。

 四聖諦をアーサヴァ(漏)で知ることも、あるいはサッカーヤ(有身)で知ることも、煩悩輪で知ると言います。


2.四聖諦をカンマ輪で知る

 ここでいう「食べ物」とは、何らかの結果をもたらす行動を生じさせる原因、あるいは行為を意味します。ここでいう食べ物も四種類あります。カヴァリンカーラーハーン(段食)は体を養ったり、満腹させる結果を出す、ご飯やおかずなどの食べ物のことです。

 パッサーハーン(触食)は外部の六処(目・耳・鼻・舌・体・心)と内部の六処(形・声・臭・味・触・法界)が触れ合うことで、受等の結果を生じさせる物です。ヴィンヤーナーハーン(識食)の食べ物は識の食べ物、つまりたとえば目や耳や鼻を通して何が何かを知る明らかな知識で、一般に触という結果を出し、特に「有」や「生」が生じる時に名形(心身)を生じさせます。

 マノーサンチェッタナーハーン(意志食)は、何らかの行為にその時関わっている欲望、あるいは煩悩の威力による心の意図である食べ物で、煩悩による行動である結果を生じさせます。

 このような四種類の食べ物は、何かを欲しがらせる煩悩という意味でなく、何らかの結果を生じさせる「行為」を意味します。要旨について話す時、愚かしく文字面に執着する必要はありません。

 カヴァリンカーラーハーン(段食)は「ご飯を食べる」という重要な意味で、パッサーハーン(触食)は「内処と外処の接触」で、ヴィンヤーナーハーン(識食)は「感情を受け止める門で明らかに知ること」で、そしてマノーサンチェッタナーハーン(意志食)は「何らかの欲望で転げ回る心の動きや振るまい」という意味です。要するに食べ物という言葉は、直接何らかの結果を出す行為を意味します。

 四聖諦に関する食べ物という言葉は、述べたように分類する必要はありません。これらをまとめた意味、あるいはこの言葉の中心的な意味は、何らかの結果を生む「行為」という意味を採用するべきです。

 徳を積んでも悪事をしても、物質的なことをしても精神的なことをしても、直接何かをしても、間接的に何かをしても、行為と名がつけば結果は避けることができません。そしてすべての行為は「欲」に由来します。だから食べ物という言葉の意味を短く「何らかの結果を出す行為」とすることができます。

 何らかの結果をもたらす行為は、苦を生じさせる行為の状態です。その行為は欲に由来し、望んだ初めから心を焼き炙るからです。そしてその行為こそ、心が自由でないことである、煩悩と欲望の支配下にあるので、体か言葉か心による何らかの行為が行われなければならず、そして「行為の結果」が生じた時、輪廻の中を泳ぎ回らなければなりません。要するに食べ物の結果は苦以外に何もありません。

 四聖諦を料食べ物で知る、つまり何らかの行為を規定する基盤とするには、「食べ物とは何か、何から生じるか、食べ物の消滅、あるいは行為がない状態はどのようか、そして食べ物をなくすにはどうしたら良いか」と、ブッダが四つに分けられた分類にしなければなりません。このように四聖諦を食べ物で知ることを「輪廻の業輪で四聖諦を知る」と言います。

 人が食べ物の消滅を明らかにすれば、つまり食べ物と呼ばれる物が本当に全部消滅したと心で明らかに知った人の業輪は消滅し、果報輪も追って消滅し、煩悩輪も居場所がなくなり、最後に輪廻が終わります。ね、「世尊は食べ物という名の業輪で四聖諦を規定された」と言うことができます。


3.果報で四聖諦を知る

 生老病死である苦も、取の基盤である蘊、あるいは取がある物も、形・声・臭・味・触・法界である、あるいは欲望の基盤であるその他の現象である世界も、これらをここでは「果報」と呼びます。煩悩が目指す結果であり、煩悩の威力でする行為だからです。苦は、人が簡単に、望ましくない物と見ることができますが、本当に、何としても苦を滅すには、更に深く見なければなりません。

 つまり人を騙して勘違いさせ、喜んで苦の海に埋もれさせる物と最高に深く見なければなりません。この苦に関する真実も四種類に分類され、苦とは何か、何から生じるか、苦のない状態はどうか、そしてどうすれば無苦になるかです。この四項目すべてを最高に明らかに知れば、苦を知り尽していると言います。

 何らかの痛みや苦しみを知り、そして不満が生じて焦燥するだけでは、苦を知っていると言われません。煩悩や欲望から生じた生や有の結果である、苦で四聖諦を識ることを「苦という名の果報で四聖諦を認識する」と言います。

 「取薀」とは取の基盤を意味し、ここでの取は愛欲の威力で執着する、あるいはあれこれ実体があると考えて執着するという意味です。ブッダは取の基盤である物を「形・受・想・行・識」の五種類に分けました。詳しくは「パフラーヌサーサニー」の中で述べられていますが、要するに体と心のことです。

 体を「形」一つとし、心は、心と心から生じる物を三種類に分け、幸せとか不幸とか、幸せでも不幸でもないと感じる「受」、「意識がある」と言うすべての物の意味を感じる「想」、そして行動や発言や何かの行動をしようと考える「行」、心その物は「識」です。

 形・受・想・行・識のすべてをまとめて「五蘊」と言い、これらのいずれかを「自分。自分の物」と執着する取の基盤です。蘊に取がなければ、執着の基盤がないので、存在できません。無明がまだあれば、執着の基盤である蘊に執着することがあります。このように蘊に取執着があれば、それ自体が苦で、重いです。無明も、無明から生じる執着も、すべてはこの蘊に依存して存在するので、苦が生じ、取がある蘊になるからです。『要するに取がある蘊は苦』とブッダは言われています。

 どうしたら取がある蘊がなくなるか。これは滅苦を望む人に必ず生じる問題です。これらの取薀を消滅させるには、取薀に関わる四聖諦を知ること以外に道はありません。だから取薀とは何か、何から生じるか、取薀がなくなったらどのようか、どうすればそれを消滅させられるか、の四つの教えで、取薀の面から四聖諦を知ることを確認しなければなりません。

 この問題に関して世尊は『形・受・想・行・識は取の基盤であり、無明と有欲から生じ、明と解脱はそれを消滅させ、サマタとウィパッサナーはそれらを必ず消滅させる道』と言われています。本当は苦という言葉の変わりに別の言葉を使った四聖諦です。

 つまりここでは、四聖諦の初めの項目である苦の変わりに「取薀」という言葉を使い、四聖諦の二項目の欲望は、取の原因の説明と合うように意味を解説して「無明および有欲」とし、四聖諦の三項目の欲望を消滅させることを、ここでは「明と解脱」にし、明と解脱があるという意味で、敵同士が一緒にいることはできないので、当然欲望がないことを意味します。

 四聖諦の四項目の八正道は、ここではサマタとウィパッサナーという名を上げられています。要旨は、八正道はすべてそろった実践という意味で、サマタとウィパッサナーは、八正道が揃っていない実践からは生じません。このように四聖諦を取薀を通して知ることは、直接苦で四聖諦を知ることと同じで、「輪廻の果報で知る」と言うことができます。取薀は、無明があるなど煩悩に関わるカンマ(業)の結果だからです。

 「世界」という言葉は「欲しい。なりたい。見たくない」という三欲の中の、何らかの欲の基盤である目・耳・鼻・舌・体に表れる物という意味です。形・声・臭・味などに誘惑されれば「欲しい。なりたい」になり、形・声・臭・味などが気に入らなければ「なくしたい。見たくない」になります。

 この三種の欲望がどんなに違っていても、すべて苦の基盤であることに変わりなく、「欲しい」、あるいは「なりたい」はそう思った時から欲で行動する時まで、心を炙って苦しめます。そして望み通りに得られても、未練や心配や愛執などで苦しみます。

 「得たくない。なりたくない」という望みも同じで、常に不満や憎悪を生じさせます。だから魅惑的な状態の「世界」も、気に入らない状態の「世界」も、すべて同じ苦、あるいは同じだけの苦をもたらすと見ることができます。真実はこのようなので、喜びも憂いも捨てなさいとブッダは教えられ、パーリ語で『喜びも憂いも捨ててしまいなさい』と言われています。世界と呼ぶ物は喜びと憂いの基盤以上の物は何もありません。

 喜びは「世界」の誘惑によって生じ、不満も「世界」の誘惑によって生じます。つまり世界の誘惑が、煽って満足を生じさせている時、その満足を妨害する物があると不満が生じます。世界にどれだけ意味があるかは、世界がその人にとってどれだけ満足・不満足の基盤になっているかです。

 述べたように、満足も不満足も同じだけ苦をもたらします。滅苦を目指す人は世界である形・声・臭・味・触・法界に、あらゆる方法で何としても勝たなければなりません。

 何としても世界に勝つには、ブッダが言われたように、世界、世界が生じる原因、世界の消滅、世界を消滅させる道という四つの形で世界を有りのままに知ることの外にありません。この四つを極めて明らかに知れば、取で世界に執着しないので、その人にとって世界は意味のない物になり、そこから二度と苦が生じることはありません。

 このようにすることを、ブッダが形・声・臭・味・触・考えを味な言葉で呼ばれた「世界」で四聖諦を認識すると言います。これらの形・声・臭・味などが、煩悩等、原因である物の作用、あるいは行為から生じた果報薀である時、ここで世界と呼んでいる形・声・臭・味などで四聖諦を知ることは、果報と言う輪廻の部分で四聖諦を認識することです。

 苦や生老病死がある苦で四聖諦を知ることも、生老病死などの基盤である取薀で知ることも、あるいは動物を騙して生老病死の流れに沈ませる形・声・臭・味・触・考えで知ることも、すべて輪廻の果報で四聖諦を認識すると言うことができます。

 四聖諦を知ることに関する話全部をまとめると、

 アーサヴァ(漏)またはサッカーヤ(有身)を規定の基盤にして四聖諦を知ることを、輪廻の煩悩輪で四聖諦を知ると言い、食べ物を基盤にして四聖諦を知ることを、輪廻の業輪で四聖諦を知ると言い、苦で四聖諦を知ることも、苦の基盤である取で知ることも、すべての感情(心が捉えている物)の名前である「世界」で知ることも、どれも輪廻の果報輪で四聖諦を認識すると言います。

 しかし煩悩の部分、あるいはカンマの部分、あるいは果報の部分で認識しても、すべて背丈約二メートルの体の内面を、心と識とを一緒に、つまりまだ生きている体を熟慮観察しなければなりません。述べてきた物は全部心に生じ、心に現れ、消える時は心で消え、再び生じるのも心だからです。

 だからブッダは『世界も、世界の終りも、如行は心も識も揃っている背丈約二メートルの体の中にあると規定しました』と言われています。最高に短くまとめれば「心と識のある二メートルばかりの体が、すべれの方法で四聖諦を知る基盤である」だけです。

訳註:六境、あるいは外処入である『形・音・臭・味・触・考え』と、五蘊である『形・受・想・行・識』の一番初めの『形』は、従来は『色』と訳されていますが、原語の「ルーパ」は『形』という意味で、色ではありません。形は色より理解しやすく、二つは明らかに違うので、原語のとおり『形』としました。『形』の方がはるかに理解しやすく、誤解する余地がないと確信します。




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