「急行」と「鈍行」






1952年8月11日、14日

 今日は、急いで行くこととゆっくり行くことの、二つについてお話します。初めの日にお話した「行く」と「行かない」についてよく理解し、忘れないようにしてください。

 本当は、すべての動物は自覚しようとしまいとに関わらず、輪廻の終わりに向かって自然に発展を続けています。自然の摂理ですべての生動物は、発展の頂点に向かって進化しています。一つ一つの命にとって生涯が学習であり、熟練なので、智慧の発展はそれぞれの命に自然に、生まれる度に大なり小なり生じ、最後には最高の知性になります。

 これを「動物は最高の段階に向かって自然に増強していく」、あるいは「自然に『行く』ことがある」と言います。その動物が自覚しようとしまいと、この種の「行く」ことは自然にありますが、まだこの講義で言う「行く人」とは見なしません。

 ここで「行く人」と「行かない人」と言うのは限定した意味があり、「行く人」とは特に高いレベルの動物という意味で、それらに陶酔したり酔ったりしないくらいすべての物に深い理解があり、心がすべての苦から開放される段階に早く到達したいと望んでいる人間です。

 一方「行かない人」と呼ばれる動物は、自然の本能より高くない感覚の人という意味で、畜生全般でも人間、天人でも、いずれにしても心が低い人で、それらから離れることができないほど、あるいは無くなって欲しくないと思うほど、すべての環境から得られるさまざまな喜びに陶酔し、それらの魅惑的な味に非常に満足があり、自分を抜き取ることができないほどそれらの味に未練があります。

 そして述べたように「五欲の(愛欲の)愉しみがないのは地獄と同じ」という感覚があるほど、向こう側である五欲のない側の話に賛成できません。だからこちら側の他に向こう側があることも知らせない、山のような壁、あるいは城壁で囲まれているのと同じ状態があります。向こう側があるも知らなければ、その動物は、向こう側の状態はどうか、どんな利益があるかなど知ることができません。だから向こう側へ行きたいと望まず、こちら側にいることだけに満足しています。

 この動物も、最高地点である向こう側を目指して、自然に精神的な発展があると言っても、この動物たちにはその気がないばかりか、まったく反対の方向へ行きたい気持ちがあるので、(向こう側に)行く意思がありません。だから自然が発展させるというのは、「何百劫」と言われるように非常に遅く、順調ではありません。「何百劫」というのは、これらの動物の心にどれほどの闇、あるいは(煩悩の)厚さがあるかを表しています。

 天人は人間より寿命が長い、天人の一日一年も、人間の一日一年の何万倍、何十万倍も長いと言うのは、天の物である欲情、あるいは天の幸福に陶酔する威力の大さや重さが、尋常ではなく、普通以上に惑溺の基盤であることを表しています。これらの動物が行きたがらないことを、暗示して教えています。だからまだ五欲、あるいは餌に関わるいろんな幸福に酔っている動物全部を、私は「まだ居る人」、あるいは「行かない人」と呼びます。

 一方「行く人」は、すべての物に倦怠が見えるほど、あるいは、自分がそのような状態を繰り返し繰り返して、それでもまだ繰り返していくことを嫌い、そのような状態から抜け出したい願望が、囚われている動物が囚われから逃れたいと願うのと同じくらい強く生じている、高い知性のある人という意味です。

 そのような感覚がある人は誰でも、老人でも若者でも、男でも女でも、出家でも在家でも、人間でも天人でも、ここでは「行く人」、あるいは「行きたいと願う人」と呼びます。

 次に早く行くことと遅く行くことについてで、熟慮しなければなりません。遅く行くことには二つの意味があります。早く行く能力がないので遅い、あるいは行き方が間違っているので遅くなってしまうのが一つ。

 もう一つは完璧を目指すから遅くなってしまい、たとえば何か善いことをいっぱいしながら行きたいとか、たくさんの人を助けながら行くのも遅く行くことになります。しかし賢くないので遅くなってしまうのとは大きな違いがあります。

 早く行くことにも二つの意味があります。一人だけで行くから早い場合、あるいは何の飾り気も儀式的なものもなく、ただ早く到達する場合で、これはそれだけの資質の人です。もう一つは非常に徳が高く強い性格の人で、当然輝かしく行くことができ、しかも非常に他人の利益になります。

 広く徳を積みながら遅く行くのは智慧と慈悲を維持する人の願いであり、多数の利益を生むために、遅れること、大変なことを覚悟で奉仕をします。これは極少数の限られた人の行き方で、普通の動物には向いていません。しかし仏教のある宗派、ある教義は、たくさんの同朋を導いて行くよう、自分の「行くこと」を広めるよう教え、あるいは主義、そういうのもあります。

 つまり自ら「大乗」と呼ぶ「ウッタラニカーヤ」の人達です。私たち「タクシナニカーヤ」あるいは「テーラワーダ」はそのような主義はなく、誰にでもできることではないので不可能と見なしてしまい、束縛を減らして近道をし、特に老人や肉体の終焉の近い人は、できるだけ早道をし早く行くのを好みます。

 時々聞いている、現世で阿羅漢になる賢さのある沙彌や若い比丘が、初めに三蔵などの教育を受け、それから静かな森で阿羅漢になるためのダンマの実践を許可されて阿羅漢になるという話は、本当に稀で、特殊な事例と理解しなければなりません。普通の人がそうすることはできないからです。

 しかしそうできるごく僅かな人には、そのようにするのが好まれます。そしてそのような結果が確実になれば、私はその人を「広く利益があり、かつ早く行く人」と呼び、ただ早く行くことだけを目指す一般の人と部類が違います。


 次に、普通の「早く行くこと」を明確に理解している物にするために熟慮します。私たちが出家と呼ぶ家を持たない生活は、とりあえず初めの段階の早く行こうと目指すことです。

 在家は煩わしさが多く、苦労や束縛がどれほど多いか知られているので、在家の暮らしは向こう側について知り理解するのが難しく、向こう側についての知識が十分あっても、在家の暮しは窮屈で鬱陶しく、早く行くための行動をするのに便利ではありません。

 そこで出家制度が生まれ、私たちのサンマーサンブッダ(自分で大悟したブッダ)も、そうした考えから出家されました。だからこの段階を「出家は初めの段階の早く行く一つの道具」とまとめることができます。

 出家した後早く行くか遅く行くかは、その後のその人の考え方と行動次第です。伝統習慣としての出家、あるいは正しい目的でない出家ならまた別の話で、在家の生活より悪いこともあるかもしれません。出家した当初の目標は正しくても、後に挫折し、変化し、賞賛や名声、あるいは栄誉や権威から快適な生活まで、心身の楽しみに溺れて自分を失えば、「行く」ことはありません。このようにもなり、これも一つの部類です。

 経典の学習に夢中になって仏教哲学に溺れ、ブッダの言葉の美しさに溺れて心の乱れが生じ、あるいはそれに執着して「行くこと」に停滞が生じるのも一つの部類です。

 もっとすごいのは戒の段階、サマーディ(三昧)の段階の梵行をしている人が、喜悦と幸福を浴びる段階のサマーディ、心の安定の味である珍しい幸福に満足して、その味に強く愛着するほど溺れてしまい、もっと高い段階に行く実践に変えたくないと思えば、これも「行く」ことを遅らせる原因の一つです。

 「梵天界に生まれると、何劫といわれるくらい非常に長生きして、それから他の世界に生まれ変われる」と言われるのは、当然サマーディの深淵な味は、当然サマーディに溺れる動物の心を強く捕らえる力があるという意味で、非常に恐るべき遅滞の一つです。

 千里眼のような、いろんな特殊な神通力を持つためにするサマーディは、普通のサマーディより特別な訓練がありますが、これはもっと遅れると見なします。その能力に酔い痴れて溺れ、あるいはその能力から得られる物質的な利益に溺れる機会を生じさせる道です。そしてタンマに無関係なことを期待してするほどのサマーディなら、「行くこと」を遅らせるだけでなく、その人を一度死なせる危険もあります。

 本当に正しいサマーディは、せいぜい涅槃の味見をさせるため、そしてその後ヴィパッサナーに邁進させるだけです。高度な、あるいは十分なサマーディの練習ができない一般の人は、何かに本気で取り組んでいる時に自然に生じる類のサマーディで十分です。

 次は智慧の学習についてです。智慧の段階の学習も、後世に作られた行動規範のための規定が山ほどあり、いろんな儀式の基盤になっている物もあります。後世の人の好奇心は際限無かったと見なし、知りたい学習したい面白い新奇なことを廻るほどで、特に哲学のような思索に誘うものは最終的に行き着く目標がなく、どんどん深みにはまって陶酔が増大します。

 特にパラマッタ、あるいはアビダンマなどは、考えるのが好きで、それらを考えることに陶酔する人の知性にとってこの上なく美味な餌と言えます。考えの中を旋回しすぎて「知りすぎて危機を脱せない」と言われることもあります。学習者であり、思索家でありながら何の成果も得られなかったアーチャンの話が経典の中にあり、適度に正しい関心がある到達した弟子が忠告してやったというのまであります。

 述べたような外部の智慧は実に遅く、内部の智慧である苦と滅苦に関する真実を知るために、自分の心や体について熟慮して学ぶことは、智慧の段階の「早く行くこと」と見なします。それでも非常に早いのから少し早いのまで何段階もあり、資質や環境と無関係な熟慮の仕方だけでも、広いものや狭いもの、遠回り、あるいは直行などの違いがあります。ほとんどは人次第、あるいは資質や環境にふさわしい方法を選ぶ指導者次第です。

 その人の習性が高くなると非常に速くなり、その人が内面の準備が整っているように見える場合には、ちょっと突ついてやるだけで火が点きます。このような場合は特殊な例で、一般には常に害、あるいは苦がある物の害を熟慮する、広い教えがあります。

 それに、まだ十分ではないと感じる度に、つまり害がある物、自分でも害が見える物に対して、まだ倦怠が生じないと思うたびに強くします。同時に心がそれらと関わらないことの素晴らしい結果について熟慮します。それは、それらを捨てて手放すことができたことを意味します。

 世尊はこの方法について、ご自身の場合の話を非常に多く話されています。愛欲を捨て心を出離に傾けること、心を初禅、二禅、三禅、四禅と、順に傾けていくことに満足し、最後に四つの無形サマーパティ(禅定と同じような意味)と想受滅に至ることなどは、どの段階のサマーパティ(禅定)にも溺れ停滞しないよう説いている一般的な教えであり、私たちテーラワーダの大きな教えです。

 要するに常に輪廻の害を熟慮することと、同時に素晴らしい結果、あるいは仮に涅槃と呼ぶ輪廻からの脱出を目指すことです。今病気や火傷などをしている人は、心でハッキリ苦を感じると同時に、ありったけの心の力で良い結果である快癒を願うように、本当にそう(涅槃を)感じさせます。

 この教えで実践すればいろんな停滞を避けることができ、智慧やサマーディの外面的な結果に溺れることを防止し、形界や無形界の存在や所有に関わる欲望も禁じれば、残るのは、無常・苦・無我であるサンカーラ(行。あるいは心身)が「滅尽」に傾いていくことだけです。だから早くて短くて、そして扇情的な物やすべての障害に対しても安全な方法です。

 一方大乗が非常に自慢する秘訣、あるいは抜け道(頓悟など)と呼ぶ特に変わった方法は、述べたテーラワーダの直接的な方法より良い物、ふさわしい物はないと見なします。それに、それらの方法は特別の場合に考え出された技法で、特に初歩の段階でとりあえず努力をさせるために、涅槃は自我、あるいは実体がある物という仮定にし、そして後で自我があることを抜き取ります。

 その他に、私たちのテーラワーダにも、後で大変なことになると知らずに、他人を騙して利益を得るために考え出された方法が沢山あり、大多数の人に驚異と共に受け入れられ尊重され安定した物になっても、それは「改造した正法」と呼べる物、つまり偽物、模造品です。

 すべては、ほとんどの人が信じやすく騙され易いので、九十五パーセント以上の人は、死ぬまで仏教の外皮だけを信仰していて、仏教の心髄、あるいは本当の結果に到達することはありません。ブッダを含めた多くの学者たちが、この事実を認めています。だからこれらの動物は「遅く行く」と言うより「まだ行かない」部類に分類しなければなりません。

 行くことを志す人たちは少数なので、更に早く行く人を探せばもっと少なくなります。自分自身をサンマーサンブッダの弟子と呼ぶにふさわしいように努めている人、あるいは仏教教団員としてふさわしくあるよう努めているみなさんは、少なくとも「行くことを志す人」であってください。

 そして日常生活の中の成り行きに、常に機会や道を探してください。それが、行く喜びを維持することができるまで正しい理解を生じさせるための課題です。そして行くことの後押しをする新しい知識を得、常に可能にします。このような行動は、当然在家であるブッダの弟子にも十分できます。現在困難に陥っている人や、鉄格子の中で刑に服している人でも後戻りすることなく、自分の心の中で「行くこと」を進行させることができます。

 特に出家であるブッダの弟子は、自然に早く行ける恵まれた環境であることを考え、述べた教えで更に努力すれば、疑うまでもなく、人間としてこの上なく素晴らしい結果が得られます。

 最後に人間に生まれて目指すべき最高の物を得られれば、早く行来たいと望んでいる人を、それだけ助けることができます。更にその人が俗物でなければ、つまり煩悩が厚すぎない人なら、行かない人や行きたがらない人、苦から出たがらない人を、苦から出たいと思うようにさせることもでき、本人にも他の人にも、双方に利益がある人と見なします。





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