四聖諦に関して学ぶべきこと






1954年8月26日-9月11日

 今日は、四聖諦について、段階的に詳しくなっていく仏教の学習の基礎についてお話します。仏教の教えの最初の項目、あるいは最も重要な項目は四聖諦です。ブッダが四聖諦を悟られ、そしてブッダは「四聖諦がなければ自らブッダと名乗ることはなかった」と言われていると広く知られているように、仏教の重要な要旨だからです。

 パーリ(ブッダの言葉である経)の転法輪経やその他いろんなところで、「動物が輪廻を繰り返さなければならないのは、四聖諦を知らないから」、あるいは「四聖諦の第三項、滅苦を明らかにしないから」と言われています。

 しかし言い方を変えれば、仏教の重要な教え、あるいは最初の教えは八正道であると同じ重さで言うこともでき、この二つの言葉は矛盾しません。四聖諦は八正道であり、八正道は四聖諦だからです。注意深く熟慮する人は、四聖諦は八正道の最初の項目である「正しい見解」であり、八正道は「ドゥッカニローダミニーパティッパダー=苦滅道諦(又は道諦)」と呼ぶ四聖諦の第四項だと分かります。

 これをもっと理解し易くするため、あるいは更に明らかにするために、どの時代にいろんな教えがどんな順で生まれ、そして仏教が生まれたのかを振り返って見ます。ご存知のように原始時代には祭ること、崇めること、供え物をして祈願することしかなく、その後愛欲の幸福を拠り所にする教理と苦行をする正反対の、両極の教理が生まれました。

 それから哲学的な教理、あるいは哲学を実践の基本と捉える、より広い教えの教理が出てきます。何らかの哲学原理が何らかの信仰と目的を生じさせ、その素晴らしい目的を達成する実践法が生まれました。アーラーラ仙人の教理などは、悪臭に関わる哲学を理論的原則とする「無所有処」と言う精神的な実践法です。

 仏教は、パーリの転法輪経にあるように、祭って祈願することよりはるかに高いと分かり、そして愛欲の幸福と苦行の二極を、どちらも回避してしまい、「マッジマパティパター」あるいは「八正道」と呼ぶ「中道」を歩かせると明言しています 

 八正道の最初の項目は、初めに見解を明らかにするための理論、あるいは道理のある哲学で、それからその哲学から素晴らしい結果を目指すために、納得して信じて教えとして掴みます。この教えを四項目に分けて四聖諦と呼び、苦の見方(苦諦)、苦の原因(集諦)、滅苦(滅諦)、そして滅苦の方法(道諦)を完璧に説明しています。

 残りの七項目は、素晴らしい結果を狙って、結果を生じさせるために、全部揃って正しく実践します。これを実践である教えと言います。私たちは、八正道のように理論と実践の両方がある教えは、それまでどんな教義にもなかったと見ることができます。だからブッダは『今まで知らなかったこと、聞いたことのない物、なかった物』と言われています。

 そのように熟慮して見ると、四聖諦は八正道の中にあり、八正道は四聖諦の中にあり、理論は実践のためにあり、実践は理論に則っている教えで関連し合い、並行していると見ろことができきます。理論は実践と切り離せません。あるいはほとんどは実践の重要部分として使うことができます。

 その実践も正しい理論で進めなければなりません。あるいは心の中を常に正しい明らかな理論にしておかなければなりません。理論は実践と切り離すことができず、そして実践は理論と切り離すことができないように、四聖諦は八正道と切り離すことができず、そして八正道は四聖諦と切り離すことはできません。

 八正道は、ある時は理論について、つまり素晴らしい真実である四聖諦について述べ、その後実践の段階では実践原則になり、四聖諦の理論に則って実践するので、仏教の最初の話、あるいは最も重要な話である四聖諦は八正道であり、八正道は四聖諦であると言うことができます。

 しかし明解で学びやすくするために、一つずつ分けて説明する必要があり、そして初めの話として実践するための理論である四聖諦を取り上げてしまわなければならないので、四聖諦の話は仏教の初めの教えであり、最重要な項目と見なします。


四聖諦はどのように生れたか

 仏教以前にあったいろんな論理が出鱈目だったので、まだボディーサッタ(菩薩)であった当時の世尊はそれに満足できず、幾つもの教団を離れ、自身が目指す素晴らしい結果、つまり生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、その他まとめて苦と呼ぶものから出す解脱して出るために自身で探求されました。

 苦に倦怠を感じ、苦から脱したかった(ボーディサッタだった)ブッダは、最も重要な最初の問題である「苦は何から来るのか」、あるいは「何があれば苦が生じるのか」という問題を立て、この問題は(まだボーディサッタだった)ブッダの心の中で、何年もの間答えを求めていました。

 そしてある晩、終にこの問題が解けました。それが菩提樹の下で大悟した夜です。ブッダはいろんな苦が生じるのは生まれたから、あるいは生まれたから苦が生じたのだと気づきました。次に、何があったから生まれたのかを探求すると、

 生まれるのは有(存在すること)があるから、有があるから生まれる。

 有は取(執着)から生じ、取があるから有が生じる。

 取は欲から生じ、欲があるから取がある。

 欲は受(感覚)から生じ、あるいは受があるから欲望がある。

 受は触(六処と六境と識の接触)から生じ、触があるから受(感覚)がある。

 触は六処から生じ、六処があるから触がある。

 六処は名形(心身)があるから生じ、名形があるから六処がある。

 名形は識(触を知覚すること)から生じ、識があるから名形がある。

 識は行(考え)から生じ、行があるから識がある。

 行は無明(無知)から生じ、無明があるから行がある。

 順々に熟慮した結果、苦の根源は無明と知りました。次に逆の流れで、どうすれば苦が滅すかという問題を熟慮すると、終に

 生が消滅すれば苦は消滅する。

 有が消滅すれば生が消滅する。

 取(執着)が消滅すれば有が消滅する。

 欲が消滅すれば取が消滅する。

 受が消滅すれば欲が消滅する。

 触が消滅すれば受が消滅する。

 六処が消滅すれば触が消滅する。

 名形が消滅すれば六処が消滅する。

 識がなければ名形が消滅する。

 行が消滅すれれば識が消滅する。

 無明が消滅すれば行が消滅する。

 という、もう一連の真実、滅苦に関する真実を発見しました。この二つを『因縁生起の「生」と「滅」』と呼びます。詳しくは別の機会に説明します。ここでは苦の発生と苦の消滅の二つがあると、大きな教えだけ理解しておいてください。

 これだけ細かに、十二段階に分けたのを見るだけでも、普通の人には理解が難しいです。微に入り細に入りすぎるので、省略して「苦は欲から、縁起の八番目の欲から生じる」と規定しました。そして同じように「苦は欲を絶つことで滅す」と規定しました。

 良く熟慮して見ると、十二縁起の順で言うのは詳しい言い方で、欲だけを取り上げて述べる言い方は、略しているように見えますが、本当は同じことを同じように述べています。欲望は当然無明から生じ、欲望を滅すには、元からある無明を滅す必要があるからです。

 だから『苦は欲望から生じ、欲望を滅せば苦も滅す』とまとめて言うのは一般の人向けで、あるいは科学でも哲学でも、決まりや定理のように簡略に話すには向いています。

 欲望、あるいは無明を滅すにはどうしたら良いかという問題になると、ブッダは、実践、あるいは世界の欲望のいろんな餌の状態である正しい生活、そしてピヤルーパ(喜形)、サータルーパ(悦形)と呼ぶ欲望に繋がるもの(喜ばしいこと)に心が支配されない、あるいはそれらに心を支配する力がなくなることが、欲望または無明を絶滅させる道という最高の真実を発見されました。

 正しい実践、あるいは正しい生活を発見した後、ブッダは細かく「正しい見解」「正しい望み」「正しい言葉」「正しい業」「正しい生活」「正しい努力」「正しいサティ」「正しいサマーディ」に分け、これを八正道、まあるいは八聖道と呼びます。そしてこの八つの道は、右にも左にも片寄らない中道を行くので、中道という意味の「マッヂマパティパダー」とも呼ばれます。

 以上の理由で、四つの素晴らしい真実に関する教えが生まれ、心と体を苦しめることは苦である(苦諦)、苦は欲望から生じる(集諦)、欲望を滅すことで苦も滅す(滅諦)、マッヂマパティパダー(中道または八正道)を行うことで欲望が滅す(道諦)が要旨であり、この教えを四聖諦、あるいは四つの素晴らしい真実という意味の「チャトゥラーリアサッタ」と言います。

 素晴らしいと言うのは、苦を絶滅させるからそう言います。要するに四聖諦の論理は、ブッダも含むすべての動物の苦を滅すために、ブッダが探求されたことから生まれました。ブッダ自身が苦に苦しめられ、他の動物のように、苦に沈んでしまわない十分な智慧があったからです。


四聖諦にはどんな利益があるか

 四聖諦の知識はこの世界、あるいはどの世界の利益にもなりません。目前の苦を滅すことだけを目的とし、そして四聖諦で苦を絶滅させることは「すべての世界という執着」が滅すという意味だからです。

 ブッダは、苦が残らず消滅することを『世界の終わり』と呼んでいるので、四聖諦は、何らかの欲望から生じる世界の幸福を目指すより、むしろロークッタラ(脱世間)世界から脱すこと、あるいはすべての苦から完全に脱出することを目指します。

 ほとんどの人は世界に慣れてしまっているので、あるいは世界に強い未練があるので、四聖諦を聞いても理解できないので、その前に、心にこびり付いて覆い隠している物を、アヌプッピカター(次第説法)という洗浄剤で綺麗に洗い流さなければならなかったほどで、それから四聖諦を説かれました。人が世俗的な幸福である結果だけを求めていれば、四聖諦が理解できないのは当然です。

 だから四聖諦の目的、あるいは最後の結果を知りたいと願う人は、世界の幸福は無意味であると理解できるまで学んで、熟慮しなければなりません。そうすれば四聖諦の価値が簡単に理解できます。

 もう一つ、四聖諦は「世界は不変か不変ではないか。世界に果てはあるかないか」というような、ほとんどの哲学思想のように、人が好んで思索する論理ではありません。現代の哲学が仮説とする「真実とは何か」というような命題も、四聖諦と比べると途端に無意味な堂堂巡りの哲学になってしまいます。滅苦を目指す方針がないからです。四聖諦を哲学にするなら「如何にして苦を絶滅できるか」を問題にします。

 ブッダは、滅苦になる哲学を探求しないで、際限ない議論に夢中になっている人を、矢に射られながら矢を抜き取ることを拒む人が「誰が射たのか、なぜ射たのか、何でできたどんな弓矢で射られたのか」分かるまで治療を拒んで、治療をしないで無駄死にしてしまうのと同じと嘲笑されています。

 「死んだ後再び生まれるか」というような問題を際限なく議論することに熱中し、生きているうちに急いで滅苦のために学ばないで、最後は無駄死にして、何度生まれても苦を滅すことができない人も同じです。

 四聖諦は直接滅苦の話で、正しく理解すれば半分成功したようなものです。ある時ブッダが爪の先で埃をつまみ取って比丘たちに見せ、この埃と地上すべての埃とどちらがどれだけ多いかと尋ねられ、それから次のように言われました。

 『四聖諦を完璧に明らかに理解し、涅槃の流れにたどり着いた預流と呼ばれる人にまだ残っている苦は、この爪の先の埃のように僅かで、消滅した苦は地上すべての埃と同じくらいの量です』。そして更に『比丘のみなさん、これが苦、これが苦の原因、これが滅苦、これが滅苦に至る道と知る努力をなさい』と強調されました。

 この項目は、当然目の中の埃と一緒に行く人、つまり普通の一般人が四聖諦の真実を見るのは困難だということを表しています。世界の愛着が深すぎるので、苦を真実のままに見ず、何も知らず苦を掴んでしまい、輪廻しなければならないことを望ましいと、あるいは実に幸せと思っています。だから地上のすべての埃くらい多くの苦に塗れています。そしてそのような状態を際限なく繰り返すことに厭きもせず、満足しています。

 四聖諦を知らないからです。ある時ブッダはこのような人を、生・老・病・死・悲・愚痴・体の苦・心の苦・胸の痛みなど、すべての苦がある穴に落ちて沈むことができる自分のための穴を掘っている人に譬え、またある時は、日の光も、他の何の光もない闇より、あるいは盲人の闇よりもっと深い闇の淵に沈んでいる人に譬えています。しかもその闇は自分で作った物です。

 別の機会には、燃えている炭の上で寝起きしている人に譬えられていて、その燃えている炭も自分で作った物です。穴も、闇も、燃えている炭も、すべては四聖諦を知らない人が自分のために作り出した生・老・病・死・悲しみ・愚痴・体の苦・心の苦・悩みなどの代名詞です。そして無知ゆえに生老病死の基盤である懐かしむことに落ちて沈み、それを抜き取ること、あるいは抜け出すことができません。

 反対に四聖諦の真実を明らかに知った人は、何が何かを明らかに知っているので、決して自分のために、穴も闇も燃えている炭も作りません。

 四聖諦を知らない人は、善意があっても、あるいは布施や功徳に信仰があっても、自分のために穴や闇の淵や燃える炭を作らないようにすることはできません。四聖諦を知らなければ再び生まれることが苦であると知らないので、次の世のために益々徳を積むからです。

 「転輪(地獄の責め具)を蓮の華と勘違い」して自からそれを作り、髪にしっかり挿して抜けなくなり、その重さに苦しみます。それが苦と知らないからです。だから四聖諦を知ることは素晴らしい善で、明らかに見えるようになるだけで苦が減り、残っている苦は爪の先の埃くらいになります。

 ブッダが四聖諦を公開する前に一般の人が信じていた拠り所については、当然正しい拠り所とは言えません。その人たちは自分の本当の敵、あるいは障害が何か、あるいは何から生じるか、まだ知らなかったからです。当時の人は恐怖が生じると神聖な山や神聖な森、神聖な寺院、樹木などを、一時的に恐怖を和らげる物、あるいは苦を抑える拠り所として信仰しました。それは正しい拠り所とは言えず、本当に安全でもありません。

 ブッダが生まれると、タンマである四聖諦の話の知識を説いて教え、自身が四聖諦を発見し、そしてブッダ自身も、最高に四聖諦の真実から利益を得たことから、多くの人がタンマを知り、タンマによってブッダと同じ結果を得たことまで説かれました。

 それによって「このタンマは理解できるものだ。最後まで実践できる。不可能ではない」と証明され、多くの人が自分の正しい拠り所にすることができました。そしてブッダとタンマと僧を敬い、四聖諦を常に明らかにすることによって、自分を安全にすることができました。以上の理由で、世界は本当の拠り所を手にしたと見なします。

 昔、ブッダが生まれる前の世界の動物の苦と、ブッダが生まれた後の動物の苦が違うということはなく、ブッダが生まれても生まれなくても、すべての動物のすべての苦は当然同じで、どんな時代にも変わらないと考えてみてください。ブッダは次のように言われています。

 『すべてのブッダが生まれても生まれなくても、すべてのサンカーラ(原因と縁によって作られた物)は無常であり、苦であり、無我である』。そして四聖諦を広める説法がなかった時代の人間は、別の方法で苦を無くすために悪戦苦闘していたので、その時代の人の苦は、世界に四聖諦の教えがある時代の苦とは別の種類のように見えます。

 ブッダの時代のすぐ後、あるいはブッダの在世中でも、供え物をして祭り、愛欲の幸福を求め、苦行などをすることから哲学を際限なく考えることまで、他の方法で苦を滅そうとした人たちのその時の苦、あるいはその人達の苦は、他の多くの動物の苦と別のように見えます。しかし最後には、それらの憐れむべき人々の行動は四聖諦の正しい知識がないから生じると見えます。

 心が愛着に埋もれているから、世界の幸福が生じるからです。この種の人々にとっては、ブッダが生まれても生まれないのと変わりなく、四聖諦を公開しても秘密にしているのと同じなので、目の中の埃が減ってタンマの光が見えるようになり、四聖諦の知識で身を護れるようになるまで、今まで通りの苦を受け取り続けなければなりません。四聖諦という真実の教えは、世界の動物が正しく苦から抜け出すためにあります。

 最初の段階である預流の知識の場合は、滅苦へ直行する道を知ること、そして自らその道を正しく歩むこと、と言うことができます。このような状態についてブッダは『正しい見解、あるいはその人の四聖諦の知識は、涅槃の夜明けです』と言われています。

 つまりその人は永久に悪に落ちることも、沈むことも、凡人として世界に戻って来ることもなく、あるのは涅槃である滅苦に向かって前進すること、確実に涅槃に到達することだけという意味です。夜明けの兆しが見えれば、確実に少しずつ昼が近づいて来るのと同じです。

 この場合、四聖諦の知識が涅槃の流れにたどり着いただけでも、最後には完全な滅苦に至ります。だから「四聖諦の知識は滅苦に至らせる」という言葉は、この場合にも通用します。

 四聖諦の知識が、その人が正しい涅槃の道に導くことに関して初歩、あるいは初等でも、四聖諦の知識がなければ涅槃へ直行する八正道の流れに足を踏み入れることはできないという、非常に興味深い項目が初めにあります。

 『涅槃はどんな動物もまだ行ったことがない方向であり、ただ考えるだけでも、すべての動物は世界の外のことなど想像すらできない。だから今まで世界を超える方向へ導く手掛りもなく、すべての動物の滅苦の道具である涅槃、あるいは世界を超えた世界があるとも知らず、深い眠りを貪っていた』とブッダは言われています。

 だから四聖諦の知識である正しい見解の光が射して来るまで、涅槃の方向がすべての動物の考えに現れることはありません。

 四聖諦の光が心に射し始めた人は、素晴らしい道が見え始めます。その道の素晴らしさは涅槃に傾いていくこと、この道に歩みを入れたすべての動物は、確実にいつか涅槃に到達することです。これに関してブッダは「どの川もみな大海の方向へ傾いているので、川に滴る一つ一つの水滴も、当然確実に大海に出て行くように、

 道である四聖諦を見ることがある八正道も、そこを歩く人を終点である涅槃に、確実に到達させるよう傾いている」と、興味深い言い方をなさっています。だから初歩の正しい四聖諦の知識だけでも、必ず、あるいは確実に苦が尽きる所へ流れて行くので、人間にとって最高に価値のある一つだけの物と、自信を持って言うことができます。

 最後に、苦を絶滅させることも、その目的に到達するための行程も、この道を歩き始める前に準備を整えることも、すべて真実、つまり四聖諦のいずれかの段階を明らかに見ることに依存しなければならず、避けて通ることはできないとまとめることができます。

 あるいは預流に到達することも、一来になることも、不還者になることも、そして最後の阿羅漢になることでも、すべて四聖諦の初めから最後までの、いずれかの段階を明らかに洞察した結果であると、はっきり言うことができます。

 そして更に善い凡人、つまり聖人に達していない善である普通の人も、四聖諦の教え、あるいは道を照らす物を心の道案内にしなければなりません。でなければ間違いなく、まだ世界に未練たっぷりの凡人(凡夫)であり、四聖諦を知らない無明が原因で、自分が自分のために作った穴や闇の淵、あるいは燃える炭で苦しみ続ける立場にあります。





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