Ⅱ 重要性について


縁起を見ることはダンマを見ることと言われる

祇園精舎でサーリプッタが比丘たちに話す
マハーハッティパドーパスッタ
中部ムーラパンナーサ 12巻359頁346項

 ご年配のみなさん。それでこの言葉は、世尊は「縁起が見える人はダンマが見える人と言われる。ダンマが見える人は縁起が見える人と言われる」とこのように言われました。ご年配のみなさん。これらのダンマを縁生のダンマ(互いに依存して生じる物)と言い、すべての五取蘊のことです。

 この五取蘊の満足、愛惜、追跡、陶酔平伏であるダンマはどれも、そのダンマは苦を生じさせる原因と呼ばれます。その五取蘊の欲貪を出して捨てるダンマはどれでも、そのダンマは苦の消滅と呼ばれます。

 ご年配のみなさん。これだけの実践で「世尊の教えは、比丘がこのようにたくさんしている行動」と言われます。

註: 学習者は、この状態のプラサーリプッタの言葉は、「ダンマが見える人は如行が見える。如行が見える人はダンマが見える」と言われたブッダバーシタ(仏説)と同じ意味と見なすべきです。それは、縁起が見えればダンマの形の如行、あるいはダンマカーヤの形の如行が見えると言われたのと同じ価値があります。これは、縁起の話は他のダンマと呼ばれるものより関心を持つべきということです。





縁起はダンマディッティ‐ダンマニヤーマの法則
(自然の最高の法則としての)

サーヴァッディー祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻30頁61項

 比丘のみなさん。みなさんに縁起の説明をします。みなさん、縁起を聞いて心の中を役立つようになさい。今から話します。

 比丘のみなさん。縁起はどのようでしょうか。

(1)比丘のみなさん。生が縁で当然老死があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり(ダンマニヤーマター)、これがあればこれが縁でこれが生じます(イダッパッチャヤター)。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達し、知り尽くして完璧に到達したら当然教え、当然説き、当然規定し、当然始め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。生が縁で当然老死があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存し合って生じる自然であるダンマ)と言います。

(2)比丘のみなさん。有が縁で当然生があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不動の規則であり、これがあればこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達し、知り尽くして完璧に到達した時当然教え、当然説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。有が縁で生が当然あります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アニャニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(3)比丘のみなさん。取が縁で当然有があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあればこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、当然説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。取が縁で当然有があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由で、この場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(4)比丘のみなさん。欲が縁で当然取があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、当然説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。欲が縁で当然取があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(5)比丘のみなさん。受が縁で当然欲があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、当然説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。受が縁で当然欲があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(6)比丘のみなさん。触が縁で当然受があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、当然説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。触が縁で当然受があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター(縁生)、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(7)比丘のみなさん。六処が縁で当然触があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁で、これが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。六処が縁で当然触があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(8)比丘のみなさん。名形が縁で当然六処があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不動の規則であり、これがあれはこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。名形が縁で当然六処があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(9)比丘のみなさん。識が縁で当然名形があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁で、これが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。識が縁で当然名形があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(10)比丘のみなさん。行が縁で当然識があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。行が縁で当然識があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。

(11)比丘のみなさん。無明が縁で当然行があります。

 比丘のみなさん。すべての如行が生まれようと生まれまいと、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前にあり、当たり前で不変の法則であり、これがあれはこれが縁でこれが生じます。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然完璧に到達しました。知り尽して完璧に到達した時当然教え、説き、当然規定し、当然初め、当然公開し、当然分類し、当然伏せてあった物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見においでなさい。無明が縁で当然行があります」と言います。

 比丘のみなさん。以上の理由でこの場合のどんなダンマダートゥも、タタター(真如)、そのようであり、アヴィタタター、それ以外にはならず、アンニャタタター、他になりようがなく、イダッパッチャヤター、これがあればこれが縁でこれがあります。比丘のみなさん。このダンマを縁起(互いに依存して生じる自然であるダンマ)と言います。





縁起は深い話で、深く見える

カンマーサダンマニガマで
相応部ニダーナヴァッガ 16巻1頁225項他

 プラアーナンダが世尊に「不思議です、猊下! 今までにありません、猊下! この縁起を、彼らは深いダンマであり、深いダンマに見えると噂しています。しかし猊下には他の浅いダンマのように現れます」と申し上げました。

 アーナンダ。そのように言ってはいけません。アーナンダ。そう言わないでください。縁起は深くもあり、深いダンマの状態もあります。

 アーナンダ。ダンマであるこの縁起を知らず、段階的に知らず、洞察できないから、動物の群れはもつれた糸の塊ように、結び目がいっぱいで絡み合った糸のように混乱し、ムンチャ草やパッバチャ草のように複雑に絡み合っていて、当然破滅、悪趣、地獄から脱せません。





縁起は涅槃と同じ深遠な話

スンスマーラギラ国コッカヌダ城で
ボーディラージャクマラスッタ他
中部ムーラパンナーサ 12巻323頁321項他

 王子。私に「私が到達したダンマは、他の動物には見え難い深いダンマで、他の動物には知り難い静まったダンマで、そして思考で簡単に到達できる領域でなく、緻密な物、高尚な物で、学者(知識者)だけが知ることができる。

 これらの動物は喜びの元である思い偲ぶことがあり、思い偲ぶことを喜び、思い偲ぶことに夢中になる。喜びの元である思い偲ぶことがあり、愛着に陶酔する動物にとって、縁起、つまりこれはこれの縁であると見るのは非常に困難だ。

 そしてこれ、つまりすべての行が静まったダンマであり、欲望の終りであり、苦が薄れ絶滅した物である涅槃を見ることは非常に困難だ。私が知り尽す必要がない他の動物にダンマを説かなければならないなら、それは私にとって徒労であり難儀だ」という考えが生じました。

 ああ、王子。今まで聞いたことがないこれらの悲しい詩が、私に明らかに現れました。

 今、苦難の末到達したダンマを説くべきでない

 このダンマは、貪・瞋・痴に囚われた動物が

 簡単に知ることはできない

 闇に包まれた貪りで欲情する動物は、

 流れに逆らうダンマが見えない

 高尚で深遠なダンマは、微塵も見えない

 (別の経は内容は上記と同じですが、ヴィパッシーブッダの言葉をブッダが次のように述べています)。

 比丘のみなさん。その時ヴィパッシーという阿羅漢サンマーサンブッダは「それならダンマを説こう」と、このように考えました。

 比丘のみなさん。その時ヴィパッシーという阿羅漢サンマーサンブッダは「私が到達したダンマは深いダンマで、他の動物には見え難い。他の動物には知り難いダンマで、静まったダンマで、緻密なダンマだ。そして簡単に考察できる領域ではなく、緻密な物で、学者だけが知ることができる。

 これらの動物は喜びの元である思い偲ぶことがあり、思い偲ぶことを喜び、思い偲ぶことに夢中になる。喜びの元である思い偲ぶことがあり愛着に陶酔する動物にとって、これ、因果の法則・縁起、つまり「これはこれの縁であること」を見るのは非常に困難だ。

 そしてこれ、つまりすべての行が静まったダンマであり欲望の終りであり、苦が薄れること、苦の消滅である涅槃を見ることは非常に困難だ。もし私が知り尽す必要がない動物にダンマを説かなければならないなら、それは私にとって徒労であり難儀だ」という考えが生じました。

 比丘のみなさん。今まで聞いたことがないこれらの悲しい詩が、ヴィパッシーという阿羅漢サンマーサンブッダに聞こえました。

  今、私が苦労の末に到達したダンマを説くべきでない

  このダンマは、貪・瞋・痴に囚われた動物が簡単に知ることはできない

  闇に包まれた貪りで欲情する動物には、

  流れに逆らうダンマが見えない

  高尚で深遠なダンマは、微塵も見えない





縁起が見えない地獄はどの地獄よりも熱い

鷲山で
相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻562頁1731項他

 比丘のみなさん。マハーパリラーハ(大焦熱)という地獄があります。その地獄で人は目で何らかの形を見ることができますが、望ましくない形だけが見え望ましい形は見えず、欲しくない形だけが見え欲しい形は見えず、満足できない形だけが見え満足できる形は見えません。

 その地獄で、人は耳で何らかの声を聞くことができますが、望ましくない声だけが聞こえ望ましい声は聞こえず、欲しくない声だけが聞こえ欲しい声は聞こえず、満足できない声だけが聞こえ満足できる声は聞こえません。

 その地獄で、人は鼻で何らかの臭いを嗅ぐことができますが、望ましくない臭いだけを嗅ぎ望ましい臭いは嗅げず、欲しくない臭いだけを嗅ぎ欲しい臭いは嗅げず、満足できない臭いだけを嗅ぎ満足できる臭いは嗅げません。

 その地獄で、人は何らかの味を舌で味わえますが、望ましくない味だけを味わい望ましい味は味わえず、欲しくない味だけを味わい欲しい味が味わえず、満足できない味だけを味わい満足できる味は味わえません。

 その地獄で、人は何らかの接触を体で感じることができますが、望ましくない接触だけを感じ望ましい接触は感じず、欲しくない接触だけを感じ欲しい接触は感じず、満足できない接触だけを感じ満足できる接触は感じません。

 その地獄で、人は何らかの想念を心で感じることができますが、望ましくない想念だけを感じ望ましい想念は感じず、欲しくない想念だけを感じ欲しい想念は感じず、満足できない想念だけを感じ満足できる想念は感じません。

(世尊がこのように述べられると、一人の比丘が「猊下。その焦燥は大きいですね、猊下。その焦燥は大きいですね、スガタ様。この焦燥より大きくて恐ろしい焦燥はありますか」と質問しました)。

 比丘。あります。この焦燥より大きく恐ろしい焦燥はあります。

 「猊下。これ以上に大きくて恐ろしい苦は何ですか」。

 比丘のみなさん。「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の絶滅はこのよう、苦の絶滅に至る実践項目はこのよう」と真実のままに知らないサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンは、当然老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みになるすべての行を非常に喜びます。

 そのようにすべての行を喜べば、そのサマナ・バラモンは当然老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みになるすべて行を作ります。そのサマナ・バラモンがそのようにすべての行を作れば、当然老いの焦燥ゆえに焦燥し、当然死の焦燥ゆえに焦燥し、当然悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みの焦燥ゆえに焦燥します。

 私は「そのサマナ・バラモンは、当然老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みから、つまり苦から脱せない」と言います。

 比丘のみなさん。「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の絶滅はこのよう、苦の絶滅に至る実践項目はこのよう」と真実のままに知っているサマナ・バラモンは誰でも、そのサマナ・バラモンは当然、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みになるすべての行を喜びません。

 そのようにすべての行を喜ばなければ、そのサマナ・バラモンは、当然老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みになるすべて行を作りません。そのサマナ・バラモンがそのようにすべての行を作らなければ、当然老いの焦燥ゆえに焦燥せず、当然死の焦燥ゆえに焦燥せず、当然悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みの焦燥ゆえに焦燥しません。

 私は「そのサマナ・バラモンは、当然老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みから、つまり苦から脱す」と言います。

 比丘のみなさん。だからみなさん、この場合は「苦はこのよう、苦が生じる原因はこのよう、苦の絶滅はこのよう、苦の絶滅に至る実践項目はこのよう」と真実のままに知る努力をしなければなりません。

註: 学習者は「その地獄より苦しい地獄は四聖諦を知らない地獄で、特に生などから生じた苦を味わっている時にある」と観察して見なければなりません。

 増支部ティカニパータ20巻227頁501項の経にあるように、完璧な四聖諦は縁起です。本書の「縁起の形の四聖諦は受の時にある」に収めてあります。

 四聖諦が見えないことから生じる地獄が縁起が見えない地獄で、ここでは短く「縁起の地獄は、どの地獄より苦しい」と言います。ブッダはこの種の地獄を「触処地獄」と呼ばれ、すべては、まだ感覚がある動物のための現生の地獄です。





縁起の教えでダンマを説く人だけを説法師と呼ぶ

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻22頁46項

 ある時祇園精舎で一人の比丘が世尊に拝謁して、「猊下。ダンマカトゥカ(説法師)、ダンマカトゥカとこのように言う、ダンマカトゥカと呼ばれる比丘はどれほどの理由でしょうか」と質問しました。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、老死の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、生の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、有の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、取の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、欲望の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、受の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、触の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、六処の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、名形の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、識の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、すべての行の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「法師である比丘」と呼ぶべきです。

 比丘。比丘が倦怠のため、欲情の弛緩のため、無明の消滅のためにダンマを説くなら、その比丘を「説法師である比丘」と呼ぶべきです。




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