Ⅲ 目的について


縁起はすべての物の有と無より上にいさせる

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻91頁1173項

 ジャーヌソーニバラモンが世尊に拝謁して「ゴータマ猊下。すべては有るのですか」と質問しました。

 バラモンさん。「すべては有る」というディッティ(見解)で主張する言葉は一つの極(註)です。

 「ゴータマ猊下。すべてはないのですか」。

 バラモンさん。「すべてはない」というディッティで主張する言葉は二つ目の極です。バラモンさん。如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)は当然、二つの極のどちらにも偏らない真ん中のダンマを説きます。

 如行は当然「無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生があるから、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生は、当然このようにあります。

 無明が残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで欲が消滅し、欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにあります」とこのように説きます。

 そのバラモンはその教えを称賛し、生涯仏教を信奉すると表明しました。

註1: この場合の「極」とは、「実体がある」あるいいは「ない」という状態に執着する形、でいずれか一方へ思いきり突っ走る見解、あるいは考えを意味します。

 世尊はどちらか一極に突っ走らないブッダの教えがあり、「これがあるからこれがある。これがなければこれはない。これが消滅すればこれが消滅する」と科学の状態で話します。際限なく繋がっている状態で、それ自身で発生あるいは消滅するものは何もないので「すべての物は有る」あるいは「すべての物はない」という見解はありません。





縁起の中には、その人も他の人もいない

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻90頁170項

 ある時一人のバラモンが祇園精舎に滞在しておられる世尊に拝謁して「猊下。その人が行為してその人が(結果を)味わうのですか、猊下」と質問しました。

 バラモンさん。「その人が行為してその人が(結果を)味わう」というディッティ(見解)で主張するのは、一つの極です。

 「猊下。それでは他の人が行為して他の人が(結果を)味わうのですか、猊下」。

 バラモンさん。「他の人が行為して他の人が(結果を)味わう」というディッティで主張するのは二つ目の極です。

 如行は当然二つの極のどちらにも偏らない真ん中のダンマを説きます。如行は当然「無明が縁としてあるからすべての行があり、行が縁としてあるから識があり、識が縁としてあるから名形があり、名形が縁としてあるから六処があり、六処が縁としてあるから触があり、触が縁としてあるから受があり、

受が縁としてあるから欲望があり、欲望が縁としてあるから取があり、取が縁としてあるから有があり、有が縁としてあるから生があり、生が縁としてあるから老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが残らず生じます。すべての苦の山の発生は、当然このようにあります。

 無明が残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅することで識が消滅し、識が消滅することで名形が消滅し、名形が消滅することで六処が消滅し、六処が消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲が消滅し、

欲が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有が消滅し、有が消滅することで生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが残らず消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにあります」と説きます。

 そのバラモンはその教えを称賛し、生涯仏教を信奉することを表明しました。





この体は誰の物でもなく、縁起の流れにすぎない

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻77頁143項

 比丘のみなさん。この体はみなさんの物ではなく、他の人の物でもありません。比丘のみなさん。この古いカンマ(体)を、みなさんは「縁が作った物」「縁が感覚を生じさせた物」「どんな感情にも感覚がある物」と見るべきです。

 比丘のみなさん。その体の場合、聞いたことがある聖なる弟子は当然心の中を、「このような状態で、これがあるからこれがあり、これが生じたからこれが生じた。これがないからこれがない。これが消滅したからこれが消滅する」と、このように縁起で絶妙にします。

 つまり「無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生があるから老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生は、当然このようにある。

 無明が残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅するから識が消滅し、識が消滅するから名形が消滅し、名形が消滅するから六処が消滅し、六処が消滅するから触が消滅し、触が消滅するから欲が消滅し、欲が消滅するから取が消滅し、取が消滅するから有が消滅し、有が消滅するから生が消滅し、生が消滅するから、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにある」とこのようです。





縁起は、動物・人物・我・彼と感じさせないために説いたダンマ
(常見等を排除するために)

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻15頁31項

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は当然すべての動物、あるいは生まれる場所を探しているすべての動物を支援します。四種類はどのようでしょうか。

 四種類とは、①上等でも下等でも段食(ご飯)、②触食、③意食、④識触です。

 比丘のみなさん。この四種類の食べ物は当然すべての動物、あるいは生まれる所を探しているすべての動物を維持するためになります。

 「猊下。では識食を食べるのは誰ですか」とモッリヤパッグナ比丘が質問しました。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然食べる」と言いません。私が「人物が当然食べる」と言えば、それは「誰が(識食を)食べるのですか、猊下」と質問すべき問題になります。だから私はそう言いません。そう言わない私に誰かが「猊下。識食は当然何のためにあるのでしょうか」とこのように質問すれば、問題にするにふさわしい問題になります。

 この問題に答えるべき回答は当然「識食は当然、新しい有の発生のためにあります。その動物がいれば当然六処があり、六処が縁になって触(接触)があります」です。

 「猊下。では当然触れるのは誰ですか」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然触れる」と言いません。私が「人物が当然触れる」とこのように言えば、それは「誰が当然触れるのですか、猊下」と質問すべき問題になります。だから私はそう言いません。

 そう言わない私に誰かが「猊下。触は何が縁であるのでしょうか」とこのように質問すれば、問題にするにふさわしい問題になります。この問題に答えるべき回答は当然「六処が縁で触があり、触が縁で受があります」とこのようです。

 「猊下。では誰が当然感情を感じるのですか」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然感情を感じる」と言いません。私が「人物が当然感情を感じる」とこのように言えば、それは「誰が当然感情を感じるのですか、猊下」と質問すべき問題になります。だから私はそう言いません。

 そう言わない私に誰かが「猊下。受は何が縁であるのでしょうか」とこのように質問すれば、問題にするにふさわしい問題になります。この問題に答えるべき回答は当然「触が縁で受があり、受が縁で欲望があります」とこのようです。

 「スガタ様。では誰が当然欲しがるのですか」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然欲しがる」と言いません。私が「人物が当然欲しがる」とこのように言えば、それは「誰が当然欲しがるのですか、猊下」と質問すべき問題になります。だから私はそう言いません。

 そう言わない私に誰かが「猊下。欲は何が縁であるのでしょうか」とこのように質問すれば、問題にするにふさわしい問題になります。この問題に答えるべき回答は当然「受が縁で欲があり、欲が縁で取があります」とこのようです。

 「猊下。では誰が当然執着するのですか」。

 それは問題にするべきでない問題です。私は当然「人物が当然執着する」と言いません。私が「人物が当然執着する」とこのように言えば、それは「誰が当然執着するのですか。猊下」と質問すべき問題になります。だから私はそう言いません。そう言わない私に誰かが「猊下。取は何が縁であるのでしょうか」とこのように質問すれば、問題にするにふさわしい問題になります。

 この問題に答えるべき回答は、当然「欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生が縁で、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが残らず消滅します。すべての苦の塊の消滅は、このようにしてあります」とこのようです。

 パッグナさん。六つすべての触処(接触の発生源)が残らず消滅することで触が消滅し、触が消滅することで受が消滅し、受が消滅することで欲望が消滅し、欲望が消滅することで取が消滅し、取が消滅することで有(または三界)が消滅し、有が消滅することで、生が消滅し、生が消滅することで老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが残らず消滅します。すべての苦の塊の消滅は、このようにしてあります。

註: この経全体は「識食を食べる人物はなく、六処の所有者もなく、触れる人物もなく、受を味わう人物もなく、欲で欲しがる人物もなく、執着する人物もなく、それぞれが縁になって繋がっている縁起である自然の物しかない」と説かれています。





縁起には「幸福と苦を作る自分も他人もない」という教えがある

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻26頁54項

 (ある時ティマバルッカ修行者が、祇園精舎に滞在されていた世尊に拝謁して「ゴータマ様。幸福と苦は自分で作る物ですか、猊下」と質問しました)。

 そう言ってはいけません、ティマバルッカさん。

 「ゴータマ様。幸福と苦は他人が作ってくれる物ですか」。

 そう言わないでください、ティマバルッカさん。

 「ゴータマ様。幸福と苦は自分でも作り、他人も作ってくれる物ですか」。

 そう言わないでください、ティマバルッカさん。

 「ゴータマ様。幸福と苦は、自分で作る物でも、他人が作ってくれる物でもないのですか」。

 そのように言わないでください。

 「ゴータマ様。幸福と苦はないのですか」。

 ティマバルッカさん。幸福と苦はない訳ではありません。本当は、幸福と苦はあります。

 「ゴータマ様。それならゴータマ様は幸福と苦を知らず、苦が見えないのでしょう」。

 ティマバルッカさん。私は幸福と苦を知らないのではありません。私は当然、幸福と苦を知っていて、見えています。

 「ゴータマ様。私が『ゴータマ様。幸福と苦は自分で作る物ですか』と質問すれば、『そう言わないでください、ティマバルッカさん』とお答えになり、『ゴータマ様。幸福と苦は他人が作ってくれるものですか』と質問すれば、『そう言わないでください、ティマバルッカさん』とお答えになり、

『ゴータマ様。幸福と苦は自分でも作り、他人も作ってくれる物ですか』と質問すれば、『そう言わないでください、ティマバルッカさん』とお答えになり、『ゴータマ様。幸福と苦は、自分で作る物でも、他人が作ってくれる物でもないのですか』と質問すれば、『そのように言わないでください。ティマバルッカさん』とお答えになり、『ゴータマ様。幸福と苦は何もないのですか』と質問すれば、

『ティマバルッカさん。幸福と苦は無い訳ではありません。本当は、幸福と苦はあります』とお答えになり、『ゴータマ様。それならゴータマ様は幸福と苦を知らず見えないのでしょう』と質問すれば、『ティマバルッカさん。私は幸福と苦を知らないのではありません。私は当然幸福と苦を知っていて見えています』とこのようにお答えになります。スガタ様。どうぞ私に幸福と苦の話をしてください。幸福と苦について説明してください」。

 ティマバルッカさん。人が「受と受を味わう人は同じ」と初めから思い込んでしまっていても、このようでも私は「幸福と苦は自分で作るもの」と言いません。

 ティマバルッカさん。人が受に肩を叩かれて「受と受を味わう人は違う」と思い込まされてしまっていても、このようでも私は「幸福と苦は他人が作ってくれるもの」と言いません。

 ティマバルッカさん。如行は当然その両極に近づかない真ん中のダンマを説きます。つまり如行は「無明が縁ですべての行があり、行が縁で識があり、識が縁で名形があり、名形が縁で六処があり、六処が縁で触があり、触が縁で欲があり、欲が縁で取があり、取が縁で有があり、有が縁で生があり、生があるから、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って生じます。すべての苦の山の発生は、当然このようにしてあります。

 無明が残らず消滅することで行が消滅し、行が消滅するから識が消滅し、識が消滅するから名形が消滅し、名形が消滅するから六処が消滅し、六処が消滅するから触が消滅し、触が消滅するから欲が消滅し、欲が消滅するから取が消滅し、取が消滅するから有が消滅し、有が消滅するから生が消滅し、生が消滅するから、老死・悲しみ・嘆き・苦・憂い・悩みが揃って消滅します。すべての苦の山の消滅は、当然このようにしてあります」とこのように説明します。

 (ティマバルッカ修行者はそのダンマの説明を称賛し、生涯仏教を受け入れて信奉する清信士であると表明しました)。





縁起を知ることは阿羅漢果の予告 

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻60頁106項

 (カラーラカッティヤ比丘がプラサーリプッタを訪ねて、還俗して在家になったプラモッリヤパッグナの話を聞かせると、プラサーリプッタが「還俗したモッリヤパッグナはこのダンマヴィナヤに確信がなかったに違いありません」と言ったので、このように聞いたカラーラカッティヤ比丘が「あなたはこのダンマヴィナヤに確信があるのですか」と質問すると、プラサーリプッタは「私はこれに疑念はありません」と答えました。

 カラーラカッティヤ比丘が更に「今後はどうですか」と質問すると、プラサーリプッタは「まったく疑念や躊躇いはありません」と答えたので、カラーラカッティヤ比丘は世尊に拝謁して、プラサーリプッタは生が終わった等と阿羅漢果を宣言したと非難しました。そこで世尊はプラサーリプッタを呼んで言われました)。

 サーリプッタ。あなたは「私は生が終わった、梵行は終わった、私がしている仕事は成功した、このように解脱するためにしなければならない仕事は他にないと明らかに知った」と宣言したと聞きましたが、それは本当ですか。

 「猊下。そのような言葉と説明を、私は述べておりません。猊下」。

 サーリプッタ。良家の子息は、当然様々な言い回しで阿羅漢果を宣言できます。そうすれば多くの庶民は、当然何らかの言い回しによる宣言を、その良家の子息が宣言した阿羅漢果と見ます。

 「猊下。私はそのような意義と細部の要旨は述べていませんと申し上げたではありませんか。猊下」。

 サーリプッタ。みなさんがあなたに「サーリプッタ様。あなたはどのように知り、どのように見えたので、私は生が終わった、梵行は終わった、私がしている仕事は成功した、このように解脱するためにしなければならない仕事は他にないと明らかに知ったと宣言したのですか」と質問したら、このように質問されたら、あなたはどのように答えますか。

 「猊下。彼らがそのように質問したら、私は『みなさん。生には原因であるものがあり、その原因が終わって生が終われば、生が終わったと分かるので、私は『生が終わった、梵行は終わった、私がしている仕事は成功した、このように解脱するためにしなければならない仕事は他にないと明らかに知りました』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。では生は何が生まれる原因ですか。何が生まれさせる物ですか。何が生むものですか。何が発生源ですか」とこのように質問したら、このように聞かれたら、あなたはどう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。生は有が生まれさせる原因で、有が生まれさせる物で、有が発生させる物で、有が発生源です』と答えます。スガタ様。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。では有(または三界)は何が生まれる原因ですか。何が生まれさせる物ですか。何が生む物ですか。何が発生源ですか」とこのように質問したら、あなたはこのように聞かれて、どう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。有は取が生まれさせる原因で、取が生まれさせる物で、取が発生させる物で、取が発生源です』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。では取は何が生まれる原因ですか。何が生じさせる物ですか。何が生むものですか。何が発生源ですか」と、このように質問したら、あなたはこのように聞かれて、どう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。欲が取を生まれさせる原因で、欲が生まれさせる物で、欲が発生させる物で、欲が発生源です』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。では欲は何が生まれる原因ですか。何が生まれさせる物ですか。何が生むものですか。何が発生源ですか」とこのように質問したら、このように聞かれて、あなたはどう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。欲は受が生まれさせる原因で、受が生まれさせる物で、受が発生させる物で、受が発生源です』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。では受は何が生まれる原因ですか。何が生まれさせる物ですか。何が生むものですか。何が発生源ですか」とこのように質問したら、このように聞かれて、あなたはどう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。受は触が生まれさせる原因で、触が生まれさせる物で、触が発生させる物で、触が発生源です』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。どう知り、どう見ればナンディ(喜ばせる原因の煩悩)がすべての受に入り込みませんか」とこのように質問したら、あなたはこのように聞かれて、どう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。この三種類の受があります。三種類とは、幸受、苦受、不苦不幸受です。みなさん。今私は、この三種類の受は無常であり、無常であるものはすべて苦であると知りました。このように知り、このように見る時、ナンディはすべての受に入り込みません』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 そうです、そうです、サーリプッタ。あなたが言ったのは、要旨を明らかにするためですが、略せば「どんな受も、その受はすべて苦に集約される」とこのようになります。

 サーリプッタ。みなさんが(続けて)「サーリプッタ様。ではどの解脱に依存して、あなたは、生が終わった、梵行は終わった、私がしている仕事は成功した、このように解脱するためにしなければならない仕事は他にないと明らかに知った」と阿羅漢果を宣言したのですか。何が生まれさせる物ですか。何が生む物ですか。何が発生源ですか」とこのように質問したら、あなたはこのように質問されたらどう答えますか。

 「猊下。そのように質問されたら、私は『みなさん。アッジャッタヴィモッカ(内解脱。註1)に依存してすべての取が終わり、すべての漏が流れ出ない状態のサティがある人になりました。更に私は自分自身を蔑みません』と答えます。猊下。そのように聞かれたら、私はこのように彼らに答えます」。

 そうです、そうです、サーリプッタ。あなたが言ったのは、要旨を明らかにするためですが、略せば「私はプラサマナ(ブッダのこと)が言われたすべての漏に疑念がない。そして私はそのすべての漏をすべて捨てただろうかという、疑念はない」とこのようになります。

 (世尊はこのように言われると、立ち上がってご自身の居室へ行かれました)。

註1: アッジャッタヴィモッカとは、ナンディまたはタンハー(欲望)が受の中に存在しないことで、心が内部の受から生じる苦から脱した内面の素晴らしい解脱のことです。説明すると、タンハーまたはナンディがなければ当然取がなく、取がなければ苦でありません。このような様相をアッジャッタヴィモッカと言い、阿羅漢果が本当に有るか無いかを測る道具に使います。




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