第一章 縁起の状態・要旨・目的





       因果の法則:縁起の要旨

  これがあれば、当然これがある。

  これが生じたから、これが生じた。


  これが無ければ、当然これは無い。

  これが消滅したから、これが消滅する。

中部マッジマバンナーサ 13巻355頁371項
相応部ニダーナヴァッガ 16巻84頁154項







Ⅰ 縁起の状態について 


縁起のそれぞれの状態の意味

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻2頁4項

 比丘のみなさん。みなさんに縁起を分類して説明します。みなさん心を利益になるようにして、しっかりこのダンマをお聞きなさい。これから話します。比丘のみなさん。縁起はどのようでしょうか。比丘のみなさん。

 無明が縁で、すべてのサンカーラ(行)が生じ、

 行が縁で、ヴィンニャーナ(識)が生じ、

 識が縁で、ナーマルーパ(名形)が生じ、

 名形が縁で、サラーヤタナ(六処)が生じ、

 六処が縁で、パッサ(触)が生じ、

 触が縁で、ヴェーダナー(受)が生じ、

 受が縁で、タンハー(欲望)が生じ、

 欲が縁で、ウパーダーナ(取)が生じ、

 取が縁で、バヴァ(有)が生じ、

 有が縁で、ジャーティ(生)が生じ、

 生が縁で、老死、悲しみ、嘆き、苦、憂い、すべての悩みが揃って生じます。この苦の塊の発生は、当然このような状態であります。

 比丘のみなさん。ジャラー・モラナ(老・死)はどのようでしょうか。老いること、老いぼれること、歯が抜けること、白髪になること、皮膚にシワが寄ること、寿命が終わること、その動物種族のすべての根が老いること。これを老いと言います。終り、移動、崩壊、消失、命の終り、死、一巻の終り、すべての蘊の崩壊、体を捨てること、その動物属の根、つまり命を捨てること。これを死と言います。

 比丘のみなさん。ジャーティ(生)はどのようでしょうか。発生、(胎内に)下りること、生まれること、一斉に生まれること、すべての蘊が現れること、動物がその生物種族のすべての蘊を得ること。比丘のみなさん。これを生と言います。

 比丘のみなさん。バヴァ(有)は何でしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまりカーマバヴァ(欲界)、ルーパバヴァ(形界)、アルーパバヴァ(無形界)を、比丘のみなさん。これを有と言います。

 比丘のみなさん。ウパーダーナ(取)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この四つ、つまりカームパーダーナ(欲取)、ディットゥパーダーナ(見取)、シーラッパットゥパーダーナ(戒禁取)、アッタヴァードゥパーダーナ(我語取)を、比丘のみなさん。これを取と言います。

 比丘のみなさん。タンハー(欲望)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり形欲、声欲、臭欲、味欲、触欲、意欲を、比丘のみなさん。これを欲と言います。

 比丘のみなさん。ヴェーダナー(受)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触受、耳触受、鼻触受、舌触受、身触受、意触受を、比丘のみなさん。これを受と言います。

 比丘のみなさん。パッサ(触)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触を、比丘のみなさん。これを触と言います。

 比丘のみなさん。サラーヤタナ(六処)とはどのようでしょうか。この六つ、つまり眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、意処を、比丘のみなさん。これを六処と言います。

 比丘のみなさん。ナーマルーパ(名形)はどのようでしょうかヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、チェッタパッサ(思触)、マナシカーラ(思念)をナーマ(名)と言い、四大種と、四大種が依存している形をルーパ(形)と言い、名も形も当然このようです。比丘のみなさん。これを名形と言います。

 比丘のみなさん。ヴィンニャーナ(識)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この六つ、つまり眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識を、比丘のみなさん。これを識と呼びます。
 比丘のみなさん。すべてのサンカーラ(行)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。この三つ、つまりカーヤサンカーラ(身行)、ヴァチーサンカーラ(口行)、チッタサンカーラ(意行)のすべての行を、比丘のみなさん。これをすべての行と言います。

 比丘のみなさん。アヴィッチャー(無明)はどのようでしょうか。比丘のみなさん。苦を知らないこと、苦が生じる原因を知らないこと、苦の消滅を知らないこと、生き物を苦の消滅に至らせる実践項目を知らない無知は何でも、比丘のみなさん。これを無明と言います。





縁起のそれぞれの状態はパティッチャサムッパンナダンマ

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻30頁60項

 比丘のみなさん。みなさんにパティッチャサムッパンナダンマ(縁起のもの)について説明します。みなさん。このダンマを聞いて心の中を役立つようになさい。今から話します。(比丘たちが返事すると、世尊は次のように話されました)。

 比丘のみなさん。すべてのパティッチャサムッパンナダンマはどのようでしょうか。

(1) 比丘のみなさん。老死は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(2) 比丘のみなさん。生は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(3) 比丘のみなさん。有は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(4) 比丘のみなさん。取は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(5) 比丘のみなさん。欲は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(6) 比丘のみなさん。受は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(7) 比丘のみなさん。触は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(8) 比丘のみなさん。六処は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(9) 比丘のみなさん。名形は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(10) 比丘のみなさん。識は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(11) 比丘のみなさん。すべての行は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

(12) 比丘のみなさん。無明は縁が作った不変でない物で、互いに依存し合って生じ、当たり前に終りがあり、当たり前に衰退があり、当たり前に薄れ、当たり前に消滅します。

 比丘のみなさん。これをすべての縁起のもの(註1)と言います。

註1: このパティッチャサムッパンナダンマ(縁起のもの)という言葉は、それほど深遠で複雑な言葉だと驚いて興奮する必要はありません。ダンマ語の普通の言葉で、それ自身で自然に生じることができず、何らかの物に依存して生じ、それから次の物を生じさせる原因や縁になる物を意味します。本当は世界のすべての物がそうですが、ここでは心の面の話だけ、そして苦に関わる物だけを意味しています。





質疑応答のような縁起の解説

マハーニダーナスッタ

長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻65頁57項他

 アーナンダ。そのように言わないでください。アーナンダ。そう言ってはいけません。この縁起は深遠であり、深遠に見える状態もあります。

 アーナンダ。知らないから(註1)、段階的に知らないから、ダンマであるこの縁起を洞察しないから、動物群(の心)はもつれた糸玉のように、結び目がいっぱいで絡み合った糸のように、ムンチャ草やパッバチャ草のように絡み合っていて、当然苦界・悪趣・地獄から脱せません。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる老死はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「老死は何が縁で生じますか」と質問されたら、「老死は生が縁で生じます」と答えるべきです。 

 アーナンダ。「縁である物によって生じる生はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「生は何が縁で生じますか」と質問されたら、「生は有が縁で生じます」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる有はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「有は何が縁で生じますか」と質問されたら、「有は取が縁で生じます」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる取はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「取は何が縁で生じますか」と質問されたら、「取は欲が縁であります」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる欲はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「欲は何が縁で生じますか」と質問されたら、「欲は受が縁であります」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる受はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「受は何が縁で生じますか」と質問されたら、「受は触が縁であります」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁であるものによって生じる触はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「触は何が縁で生じますか」と質問されたら、「触は名形が縁であります」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる名形はありますか」と質問されたら「あります」と答えるべきです。続けて「名形は何が縁で生じますか」と質問されたら、「名形は識が縁で生じます」と答えるべきです。

 アーナンダ。「縁である物によって生じる識はありますか」と質問されたら、「あります」と答えるべきです。続けて「識は何が縁で生じますか」と質問されたら、「識は名形が縁で生じます」と答えるべきです。

 アーナンダ。このような理由で識は名形が縁で生じ、名形は識が縁で生じ、触は名形が縁で生じ、受は触が縁で生じ、欲は受が縁で生じ、取は欲が縁で生じ、有は取が縁で生じ、生は有が縁で生じ、老死・悲しみ・嘆き・すべての悩みは、生が縁で一斉に生じます。この苦の山のすべてはこのような状況で生じます。

註1: 「知らないから」という言葉はマハーニダーナスッタにはなく、ニダーナの第十経にしかありません。

註 : この縁起は苦から始まって無明までですが、無明まで行かず識と名形で終わってしまい、往ったり来たりしている別の特別の形があります。特に他の多くの経のように六処が入っていない経もあります。

 初めから書き写す時に落ちてしまったと推測しますが、そのように推測する術がありません。なぜならこの経の中の例えも説明も最後の確認も、この経の至る所で六処という言葉が避けられているからです。





縁相は一つでも縁起(此縁性)と呼ぶ

祇園精舎で

相応部ニダーナヴァッガ 16巻30頁61項



(1) 比丘のみなさん。生が縁で当然老死があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマダートゥは当然存在します。つまり当たり前に存在し(ダンマディタター)当たり前の法則(ダンマニヤマター)であり、これがあればこれが縁でこれが生じます(イダッパッチャヤター。因果の法則)。

 如行(ブッダの一人称。そのように行ったという意味。漢訳は如来)は当然そのダンマダートゥをすべて知り、当然そのダンマタートゥに到達し、知り尽して到達した時当然教え、当然説明し、当然規定し、当然公開し、当然分類し、当然伏せていた物を裏返したようにしました。そして今「比丘のみなさん。みなさん見にお出でなさい。生が縁で老死があります」とこのように言います。

 比丘のみなさん。このような理由でこの場合のダンマダートゥはどれも、タタター(真如)、つまりそのようになり、アヴィタタター(不異如)、つまりそのようにならないことはなく、アナンニャタター(異如)、つまり他になり様がなく、イダッパッチャヤター(縁生)、つまりこれが縁としてあれば、これが生じます。

 比丘のみなさん。このダンマを私はパティッチャサムパーダ(互いに依存して生じる自然のダンマ、縁起)と呼びます。

(2) 比丘のみなさん。有が縁で当然生があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文) 

(3) 比丘のみなさん。取が縁で当然有が生じます。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文) 

(4) 比丘のみなさん。欲が縁で当然取があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文)

(5) 比丘のみなさん。受が縁で当然欲があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文) 

(6) 比丘のみなさん。触が縁で当然受があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文)

(7) 比丘のみなさん。六処が縁で当然触があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文)

(8) 比丘のみなさん。名形が縁で当然六処があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文)

(9) 比丘のみなさん。識が縁で当然名形があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文) 

(10) 比丘のみなさん。行が縁で当然識があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。(以下は老死の場合と同文)

(11) 比丘のみなさん。無明が縁で当然すべての行があります。比丘のみなさん。すべての如行が生まれても生まれなくても、そのダンマは当然存在します。つまり当たり前に存在し(ダンマディティタター)、当たり前の不変の法則(ダンマニヤマター)であり、これがあればこれが縁でこれが生じます(イダッパッチャヤター)。

 如行は当然そのダンマダートゥを知り尽し、当然そのダンマダートゥに到達し、知り尽して到達した時当然教え、当然説明し、当然規定し、当然公開し、当然分類し、当然伏せていた物を裏返したようにし、そして今「比丘のみなさん。みなさん見にお出でなさい。生が縁で老死があります」とこのように述べます。

 比丘のみなさん。このような理由でこの場合のダンマダートゥはどれも、タタターつまりそのようになり、アヴィタタターつまりそのようにならないことはなく、アナンニャタターつまり他になりようがなく、イダッパッチャヤターつまりこれが縁としてあればこれが生じます。

 比丘のみなさん。このダンマを私はパティッチャサムパーダ(依存して合って生じる自然のダンマ、つまり縁起)と言います。





触が受を生じさせることだけ説いても縁起と呼ぶ

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻116頁235項

 比丘のみなさん。聞いていない凡夫も四大種の集合物である体に倦怠したり、体への欲情が緩んだり手放したりすることはあります。それはなぜでしょうか。

 比丘のみなさん。それはこの四大種の集まりである体が作られることも、崩壊も、占領されることも、亡骸を捨てることも当然現れているからです。だから聞いていない凡夫もその体に倦怠したり、欲情が緩んだり手放したりすることはあります。

 比丘のみなさん。一方「心」とか「意」とか「識」とか呼ぶ物は、聞いていない凡夫はそれに飽き、欲情を緩めて手放すことができません。それは何故でしょうか。

 比丘のみなさん。心などと呼ぶ物は、聞いていない凡夫は欲で乗りかぶさり、長い間「それは自分の物。それは自分。それは自分自身」と、自分というディッティ(見解)で執着しているからです。だから聞いたことがない凡夫は心などと呼ぶ物に飽きず、欲情が緩まず、手放すことができません。

 比丘のみなさん。聞いていない凡夫は四大種の集まりであるこの体を「自分」と執着する方が良いです。心を「自分」と執着するのは良くありません。それは何故でしょうか。

 比丘のみなさん。四大種の集まりである体は、一年、二年、三年、四年、五年、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年、百年以上現れていることもあります。比丘のみなさん。一方「心」「意」「識」と呼ぶ物は、一日一晩に別の心が生じて別の心が消滅します。

 比丘のみなさん。これは、聞いた聖なる弟子は「このような状態で、これがあるからこれがある。これが生じたからこれが生じた。これがないからこれがない。これが消滅したからこれが消滅する」と、当然心の中を縁起で絶妙にしておきます。

 比丘のみなさん。幸受の基盤である触に依存して幸受が生じ、幸受の基盤である触が消滅することで、その触に依存して生じるどんな受も、(この場合は)幸受の基盤である触に依存して生じる幸受は当然消滅します。

 比丘のみなさん。苦受の基盤である触に依存して、その触によって生じるどんな受も、(この場合は)苦受の基盤である触に依存して生じる苦受は当然消滅します。

 比丘のみなさん。不苦不幸受の基盤である触に依存して不苦不幸受が生じ、不苦不幸受の基盤である触に依存して、その触で生じるどんな受も、(この場合は)不苦不幸受の基盤である触に依存して生じる不苦不幸受は当然消滅し、当然静まります。

 比丘のみなさん。二つの木を摩擦すると当然蒸気が生じて非常に熱くなり、二つの木を離せば二つの木を摩擦して出るどんな蒸気も、その水蒸気は当然消滅し、当然静まるのと同じです。

 比丘のみなさん。これも同じで、幸受の基盤である触に依存して幸受が生じ、幸受の基盤である触が消滅するればその触から生じるどんな受も、(この場合は)幸受の基盤である触に依存して生じる幸受は当然消滅し、当然静まります。

 比丘のみなさん。苦受の基盤である触に依存して苦受が生じ、その苦受の基盤である触が消滅すればその触によって生じるどんな受も、(この場合は)苦受の基盤である触に依存して生じる苦受は当然消滅し、当然静まります。

 比丘のみなさん。不苦不幸受の基盤である触に依存して不苦不幸受が生じ、その不苦不幸受の基盤である触が消滅すればその触によって生じているどんな受も、(この場合は)不苦不幸受の基盤である触に依存して生じる不苦不幸受は当然消滅し、当然静まります。

 比丘のみなさん。聞いたことがあり、このように見ている聖なる弟子は当然触に倦怠し、当然受に倦怠し、当然想に倦怠し、当然すべての行に倦怠し、当然識に倦怠します。

 倦怠すれば当然欲情が緩み、欲情が緩めば当然解脱し、解脱すれば当然解脱したと知るニャーナ(知ること。智)が生じ、その聖なる弟子は、当然「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と明らかに知ります。





縁起を潮の満ち引きに例える

祇園精舎で
相応部ニダーナヴァッガ 16巻144頁277項

 比丘のみなさん。海の潮が満ちれば当然大きな川の水も満ち、大きな川の水が満ちれば小さな川の水も満ち、小さな川の水が満ちれば当然大きな淵の水も満ち、大きな淵に水が満ちれば当然小さな淵も水が満ちるように、比丘のみなさん。

 無明が来れば当然すべての行が来、すべての行が来れば当然識が来、識が来れば当然名形が来、名形が来れば当然六処が来、六処が来れば当然触が来、触が来来れば当然受が来、受が来れば当然欲が来、欲が来れば当然取が来、取が来れば当然有が来、有が来れば当然生が来、生が来れば当然老死が来ます。



 比丘のみなさん。潮が引けば、当然大きな川の水が下がり、大きな川の水が下がれば当然小さな川の水が下がり、小さな川の水が下がれば大きな淵の水が引き、大きな淵の水が引けば小さな淵の水が引くように、比丘のみなさん。

 無明が出ていけば当然すべての行が出て行き、すべての行が出て行けば当然識が出て行き、識が出て行けば当然名形が出て行き、名形が出て行けば当然六処が出て行き、六処が出て行けば当然触が出て行き、触が出て行けば当然受が出て行き、受が出て行けば、当然欲が出て行き、欲が出て行けば当然取が出て行き、取が出て行けば当然有が出て行き、有が出て行けば当然生が出て行き、生が出て行けば当然このように老死が出て行きます。




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