大人物の三十二相がある

ラッカナスッタ・祇園精舎で
長部パーティヴァッガ 11 157巻130頁項

 比丘のみなさん。大人物の三十二相がある大人物(つまり出家前のブッダ)は、二つの行く所があり、それ以外はありません。

 つまり在家ならダンマのある皇帝、ダンマによる王になり、四つの海に接す領地があり、田舎は豊かで七つの宝があります。七つの宝、つまり宝の車輪、宝の象、宝の馬、宝石、宝の女性、宝の長者、そして宝の指導者が当然その大人物に生じ、千回以上行っても誰も踏みつけることができない勇者の輝きがある勇敢な息子がいます。

 その大人物は戦勝し、四方が大洋で終わる領地を統治し、打ち込んだ杭も敵兵もなく、豊かで明るく、安全で穏やかで、邪悪つまり盗賊がなく、常に安定してダンマで統治し、刑罰と規則でによる統治ではありません。

 もし家を出て出家し、家を支援する利益がない人になれば、当然、閉じている物である煩悩を開け、世界のアラハンタサンマーサンブッダ(阿羅漢サンマーサンブッダ。自力で大悟したブッダ)になります。

 比丘のみなさん。大人物の三十二相とはどれでしょうか。

1. 足の底が真平。

2. 大人物は足の裏に年輪のような輪があり、中心がボタンのように出っ張って肋骨のような畝になっている。

3. 大人物はかかとが長い。

4. 大人物は指の節が長い。

5. 大人物は掌と足の裏が柔らかい。

6. 大人物は手の裏、足の裏に網目模様がある。

7. 大人物は足首の位置が高い。

8. 大人物は、鹿のような脛をしている。

9. 大人物は立って身を屈めずに、両手で膝に触れる。

10. 大人物は一物が鞘の中に納まっている。


11. 大人物は体が黄金色をしている。つまり皮膚が金色である。

12. 大人物は皮膚が滑らかですべすべして、掴めない。

13. 大人物は、一つの毛穴に一本の体毛、一本の毛に一つの毛穴がある。

14. 大人物は体毛の毛先が重なっていて、色はアンチャンの花(藍色)のようで、右巻になる。

15. 大人物は、梵天のように真っ直ぐな体をしている。

16. 大人物は七か所(手の裏、足の裏、肩、首)が厚く盛り上がっている。

17. 大人物は、体の前側が獅子のよう。

18. 大人物は背中が充実している。(へこみがない)

19. 大人物は榕樹のように、背丈と尋(両手を広げた長さ)が同じ。

20. 大人物は首が丸々している。


21. 大人物は素晴らしい味を味わう神経がある。

22. 大人物は獅子のような顎をしている。

23. 大人物は歯が四十本揃っている。

24. 大人物は歯並びが整っている。

25. 大人物は歯が密着している。(隙間がない)

26. 大人物は真っ白な犬歯がある。

27. 大人物は(大きさと長さが)十分な舌がある。

28. 大人物は梵天のような声で極楽鳥のように話す。

29. 大人物は真緑色(暗緑色)の目をしている。

30. 大人物は牛のような目をしている。


31. 大人物は眉間の毛が白くて綿毛のよう。

32. 大人物は冠を受け止める頭の形をしている。

 比丘のみなさん。これが大人物の三十二相です。





大人物の相を得る前業

ラッカナスッタ
長部パーティヴァッガ 11巻159頁130項

 比丘のみなさん。外部の仙人たちは大人物相呪文を知っているのは事実ですが、このようなカンマを作ることで大人物の相になると知りません。

1.比丘のみなさん。如行(ブッダの一人称。漢訳は如来)が前生で以前住んだことがある有で人間に生まれた時、善の努力をし、正しい体、正しい言葉、正しい心を遵守し、布施、持戒、菩薩堂の維持、両親に対しての実践、サマナ・バラモンに対しての実践、一族中の発展した人に従順で、そしてその他の高い善を遵守しました。

 そのカンマの行動をし、積み、塗り重ね、集めたので、体が壊れて死んだ後、当然善趣天国に至りました。如行は十の条件で他の天人より秀でた物がありました。つまり天の寿命、天の肌、天の幸福、天の身分、天の統治者、天の形、天の声、天の香り、天の味、天の接触で、その有からこのように人間に生まれた時、この大人物の相を得ました。

 つまり足の裏が平らで、置いても平らで、上げても平らで、足の裏面全部が床に触れます。一番の相は当然、外部の敵と内部の敵、つまり貪り・怒り・愚かさでも、サマナ、バラモン、天人、悪魔、梵天、あるいは世界の誰でも、敵を恐れない人です。

2.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時大衆に幸福をもたらす人で、災い、つまり驚愕を減らす人で、ダンマで維持管理し、布施をし、部下がいました。それらのカンマの行動によって、このように人間に生まれた時この大人物の相が現れました。

 つまり足の裏にたくさんの輪が現れ、中心部がボタンのように出っ張り、良い間隔の畝になっていて、すべての状態が充実しています。三番、四番、十五番の相は当然部下が多い人で、比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパは当然如行の部下です。

3.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時殺生を止めた人で、武器と刑罰を置いてしまい、すべての動物に対して恥と可愛がることと、憐れみと支援がありました。そのカンマによってこのように人間に生まれた時、三つの大人物の相がありました。つまりかかとが長く、指の節の間が長く、体が梵天のように真っ直ぐです。三番目四番目十五番目の相は当然寿命の長い人で、サマナ・バラモン、天人、悪魔、梵天でも、あるいは敵である誰も、その間、如行の命を落とすことはできません。

4.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、上等な齧る物(果物)、食べる物(食事)、嘗める物、啜る物(果物)、飲む物を布施する人でした。そのカンマによってこのように人間に生まれてきた時、この大人物の相になりました。つまり七か所、両手と両足と両肩と首の肉が厚くなりました。この十六番目の相は当然上等な齧る物、食べる物、嘗める物、啜る物、飲む物を得ます。

5.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、他人を援け、四つで、つまり物を与え、丁寧な言葉、他人の利益になる行動、そして対等に扱うことで援護しました。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、二つの大人物の相を得ました。つまり掌と足の裏が柔らかく、掌と足の裏の模様は網の目のようです。五番六番の相は当然教団員を愛護する人で、比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ(悪行をしない人)、カンダッパ(音楽神)は、如行の援護を受けます。

6.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、ダンマがあり、道理がある言葉を述べ、そしてたくさんの人を導き、大勢の人に幸福をもたらす人で、自分自身もダンマを尊重する人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、この二つの大人物の相を得ました。つまり足首が高く、体毛の先が重なります。七番と十四番の相は当然すべての動物より素晴らしい人です。

7.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、それらの生き物が早く知ることができ、早く実践でき、永遠に憂鬱でいないよう願って、敬意をもって学術や実践規範を教える人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、この大人物の相を得ました。つまり鹿のような脛です。八番目の相は、当然サマナにふさわしい物、サマナの一部であるもの、サマナの食べ物を、早く得ることができます。

8.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、サマナ・バラモンを訪ねて「発展なさった方。何が善で何が悪ですか。何が罪で何が罪でないですか。何を味わうべきで何を味わうべきでないですか。何をすると利益がなく、長く苦になり、何をすれば利益があり、長く幸福になりますか」と質問しました。そのカンマにより、このように人間に生まれた時、この大人物の相が具わりました。

 つまり皮膚が柔らかく滑らかで、埃も付着しません。十二の相は当然偉大な智慧、緻密な智慧があり、心を楽しませる智慧、素早く鋭い智慧、洞察する智慧があり、同等あるいはそれ以上の動物はいません。

9.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、怒りっぽい人でなく、恨みが少なく、大勢の人に文句を言われても気にせず、怒らず、恨まず、復讐心を抱かず、怒りや凶悪さや遺恨を現さない人でした。同時に樹皮布、木綿布、絹布、毛皮を、敷くため、身にまとうために布施しました。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、この大人物の相が具わりました。つまり黄金のような体、黄金のような肌です。十一の相は当然敷くため身に付けるために、樹皮布、木綿布、絹布、毛皮を得る人で、滑らかな肌をしています。

10.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、親戚、友、友人、親族の同輩、長く離れている人とも親密にする人で、母と子、子と母、父と子、子と父、兄弟と姉妹、姉妹と兄弟と親密で、親密にし、親密になると褒めて共に喜びました。そのカンマにより、このように人間に生まれた時、大人物の相が具わりました。つまり一物が鞘の中に隠れています。十番の相は、当然何千もの弟子がいて、勇敢な弟子が多く、他人の部下が蹂躙することができない勇者の威厳があります。

11.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、大衆の腕前を観察する人で、いつでも知ることができ、自分で知り、普通の人と特別の人を、この人は何にふさわしいかを知り、それらの人々に素晴らしい利益を成す人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、この二つの大人物の相が現れました。

 つまり体形がガジュマルの木のようで、直立して屈まずに両手で膝に触ることができます。九番と十九番の相は当然財産が豊かで、消費財が多いです。如行の財産は、財産である信仰、財産である戒、財産である慙(恥)、財産である愧(恐れ)、財産である教育(スタ)、財産である施財、財産である智慧です。

12.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、「どうしたらこれらの人々が信仰、戒、学習、知識、人助け、ダンマ、智慧、財産、備蓄米、田畑、二足と四足の家畜、子や妻、奴隷、労働者や人、親戚友人郎党で発展した人になるだろう」とたくさんの人々の利益を願い、支援を願い、安楽を願い、努力から生じた安全を願う人でした。

 そのカンマによってこのように人間に生まれた時、この三つの大人物の相が現れました。つまり体の前側は獅子のようで、背中が充実していて、首が丸いことです。十七番、十八番、二十番の相は当然衰退しない人で、信仰心も、戒も、学習も、施財も、智慧も衰退せず、すべての財産は衰退しません。

13.如行が前生で人間に生まれた時、素手でも土塊ででも、丸太ででも武器ででも、すべての動物を苦しめない人でした。そのカンマによってこのように人間に生まれた時、この大人物の相が現れました。つまり素晴らしい味を味わう神経があり、先端が上に昇って喉に生じる味覚神経があり、いつでも素晴らしい味を味わっています。二十一番の相は当然患いが少なく、病気が少なく、報いである体の熱が一定していて、冷えすぎず熱すぎず、努力に適しています。

14.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、睨みつける人でなく、嫉妬で言う人でなく、陰で狙う人でなく、快活で真っ直ぐに見て、愛を込めた視線で他人を見る人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、この二つの大人物の相がありました。つまり真緑の目で、牛の目のような目をしています。二十九番と三十番の相は当然多くの人たち、比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパの目に適う人です。

15.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、すべての善に関して大勢の人の長であり、正しい体、正しい言葉、正しい心、布施、持戒、菩薩堂の維持、両親への実践、サマナ・バラモンへの実践、一族中の発展した人を拝礼すること、そしてその他の高い善を遵守することに関して大勢の人の代表でした。そのカンマによってこのように人間に生まれた時、この大人物の相になりました。

 つまり頭が冠を受け止める形をしています(段がある)。三十二番の相は、当然多くの人たち、比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパが、行動を見習います。

16.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、虚言を避ける人で、真実を言い、真実の言葉を言い、一定で正直で、世間を騙さない人でした。そのカンマによって、このように人間に生まれた時、この二つの大人物の相になりました。つまり一つの毛穴に一本の毛で、眉間の毛が綿のように白くて柔らかいです。十三番と三十一番の相は当然大衆が親しい人になります。つまり比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパと親しくなります。

17.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、告げ口(つまり仲違いさせる言葉)、つまりこちら側から聞かないことを、こちら側を破滅させるために向こう側に言い、向こう側が言わないことを、向こう側を破滅させるためにこちら側に言うことを避け、分裂した人たちを団結させる人で、団結した人を更に団結させる人で、一致団結を喜び、団結を楽しみ、一致団結させる言葉だけを言う人でした。

 そのカンマによってこのように人間に生まれた時、この二つの大人物の相になりました。つまり四十本の歯が揃って、歯並びに隙間がありません。二十三番と二十五番の相は、当然教団、つまり比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパが分裂しません。

18.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、乱暴な言葉を避け、耳に心地良い言葉、愛の基盤である言葉、心に沁みる害のない言葉、庶民の言葉であり、多くの人が喜び満足する言葉だけを言う人でした。そのカンマによってこのように人間に生まれた時、当然この二つの大人物の相が現れました。

 つまり十分な舌があり、梵天のような声で極楽鳥のように話します。二十七番、二十八番の相は当然他人、つまり比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパが援助し、聞き従う物言いをする人です。

19.比丘のみなさん。如行が前世で人間に生まれた時、キリもなく話すのを避ける人で、時にふさわしいことを話し、本当のことを言い、ダンマを述べ、道理のあることを述べ、ヴィナヤ(律)を述べ、根拠があり、証拠があり、終わりがあり、利益のあることを述べる人でした。

 そのカンマによって、このように人間に生まれた時、当然この大人物の相が現れました。つまり師子王のような顎があります。二十二番の相は当然内部の敵も外部の敵も、私を排除できません。つまり、貪り・怒り・愚かさ、あるいはサマナ・バラモン、天人、悪魔、梵天、あるいは世界の誰でも、私を排除できません。

20.比丘のみなさん。如行が前生で人間に生まれた時、誤った生活を捨て、正しい生活を営み、秤や偽物や計測器で欺いてごまかすことを避け、切る、殺す、縛る、攻撃する、盗む、恐喝に加わることを避ける人でした。そのカンマによってこのように人間に生まれた時、この二つの大人物の相が現れました。つまり歯並びが良く、真っ白な犬歯があります。二十四番から二十六番の相は当然清潔な従者がいる人です。つまり比丘、比丘尼、清信士、清信女、天人、人間、阿修羅、ナーガ、カンダッパが清潔な部下です。





出生の七日後、生母死す

アッパーユカスッタ
小部ウダーナ 25巻145頁111項

 そうです、アーナンダ。そのとおりです。本当にボーディサッタの母は短命でした。ボーディサッタを産んで七日後に亡くなり、当然天界の兜率天に行かれました。





手厚い養育を受けられる

ナーマスッタ
増支部ティカニバータ 20巻183頁478項

 比丘のみなさん。私は繊細で、非常に繊細で、これから話すように最高に繊細でした。比丘のみなさん。父の宮殿に三つの池を掘り、一つの池には白い蓮を、一つの池には緑の蓮を、もう一つの池には桃色の蓮を植えました。

 比丘のみなさん。カーシー(ヴァーラーナシ)から取り寄せたのは栴檀ばかりでなく、頭に巻く布、上着、腰布など、カーシーから取り寄せたものばかりでした。比丘のみなさん。私が暑さ寒さや埃や草や露に触れないように、周りの人たちは昼も夜も、常に白い傘蓋を差しかけていました。

 比丘のみなさん。私のための城は三つあり、一つは冬用、一つは夏用、一つは雨季用でした。四か月の雨季の間はずっと城に居て、女性だけの楽団で私を楽しませ、城の外へ出て行くことはありませんでした。

 比丘のみなさん。余所で奴隷や使用人に粉米と酢を食事として与えるように、父の城は奴隷や労働者に肉と一緒に炊いた麦飯(註)を食べさせていました。

 比丘のみなさん。このように何でも望みどおりになり、このように手厚く愛護されていると、「話を聞かない凡夫は自分も老いるのに、老いから逃れる事は出来ないのに、他人が老いたのを見るとうんざりして毛嫌いし、自分がそうなると考えもしない。

私とて同じだ。必ず老い、老いから逃れることはできないのに、自分も老いなければならないなら、他人が老いたのを見て我が身を忘れ、うんざりして毛嫌いするのは私にふさわしくない」とこのような考えが生じました。比丘のみなさん。このように考えた時、若さへの陶酔は消滅しました。

 比丘のみなさん。「話を聞かない凡夫は自分も病気になるのに、病気から逃れることはできないのに、他人が病気になったのを見るとうんざりして毛嫌いし、自分もいつか病むなどと考えもしない。私とて同じことだ。必ず病気になり、病気から逃れることはできない。自分も病気から逃れられないなら、他人が病むのを見て我が身を忘れ、うんざりして毛嫌いするのは私にふさわしくない」と、このような考えが生まれました。比丘のみなさん。このように考えた時、私の健康への陶酔は消滅しました。

 比丘のみなさん。「聞くことがないない凡夫は自分も必ず死ぬのに、死から逃れることはできないのに、他人の死を見るとうんざりして毛嫌いし、自分が死ぬことなど考えもしない。私とて同じことだ。必ず死ななければならず、死を逃れることはできない。死から逃れられず必ず死ななければならないなら、他人が死ぬのを見て我が身を忘れ、うんざりして毛嫌いするのは私にふさわしくない」と、このような考えが生まれました。比丘のみなさん。このように考えた時、生きていることへの陶酔は消滅しました。

註: このような言い回しは、食糧が豊富なことを示唆しています。





愛欲の幸福と倦怠

マーガンディヤスッタ。カンマーサダンマの家にて
中部マッジマパンナーサ 13巻27頁281項

 マーガンディヤさん。私がまだ在家だった時、所帯をもって五欲に満たされ、彼らは、動物が望み、満足して欲しがり、欲望を起こさせる物である目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ香り、舌で味わう味、体で感じる触で私を楽しませました。

 マーガンディヤさん。私の城は三つあり、一つは雨季用の住まい、一つは冬用の住まい、もう一つは夏用の住まいでした。マーガンディヤさん。四か月の雨季の間中私は城で過ごし、男性が混じらない女性だけの楽団の音楽を楽しみ、城外へ出ることはありませんでした。

 時が過ぎ別の時代になると、すべての愛欲が生じる原因や、維持できないこと、旨味、低劣な害、そしてそれから抜け出す方法が真実のままに見えたので、愛欲の望みを捨て、愛欲を渇望することがなくなり、愛欲が原因の苦が減り、心の中は静かになりました。

 愛欲に欲情する動物が愛欲に噛まれ、愛欲に振り回され、愛欲に心を炙られてもまだ愛欲を味わっているのを見ても、私はそれらの動物のように渇望しませんでした。それはなぜでしょうか。マーガンディヤさん。それは、私が愛欲のない喜び、あるいは悪のない喜び(註)を喜んでも、それでも悪劣な動物に分類されるからです。だから私は、二度とそれらの動物のようにガツガツと快楽を味わいませんでした。

 マーガンディヤさん。莫大な財産があり、五欲に恵まれ、動物が満足して望んで欲しがり、欲望させる、目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ香り、舌で味わう味、体で感じる触で楽しまされている長者あるいは長者の子息は、その人の行いが体の行為も言葉の行為も心の行為も正しければ、体が壊れて死んだ後、天国へ行ってトウ利天の天人と友達になります。

 その天人は歓喜園で天女に囲まれ、喜びに溢れ、天女たちにかしずかれてトウ利天の五欲を満たし、その天人が(この世界の人間の)長者か長者の息子が五欲に満たされ、愛欲を楽しんでいるのを見たら、マーカンディヤさん。これをどう思いますか。その天人たちは、長者や長者の子息たちの愛欲を渇望し、あるいは人間の愛欲に戻って来るでしょうか。

「ゴータマ様、そのようなことはありません。天人の歓びは人間の物よりも緻密で可愛らしいのですから」。

註: 渇愛に分類される形禅定などを喜ぶこと。





愛欲に迷い、そして脱出なさる

チュラトゥッカカックカンダスッタ
カビラバッスツ・ニグローターラムにて
中部マッジマパンナーサ 12巻180頁411項

 マハーナーマさん。大悟する前、私がまだボーディサッタだった時「すべての愛欲は喜ばしい味が少なく苦が多く、困難が多く、愛欲には凶悪な害がある」と思うサティはあっても、ピーティ(喜悦)から生じる幸福、あるいはピーティ以上に静かで穏やかなダンマから生じる幸福に達していなかったので、愛欲と悪だけを味わっていました。だから私は愛欲から転向した人になれず、その分だけすべての愛欲を明らかに知りませんでした。

 マハーナーマさん。「すべての愛欲は喜ばしい味が少なく苦が多く、困難が多く、愛欲には凶悪な害がある」と正しい智慧で真実のままに見えた時、その時私は二度と愛欲に戻らない人になり、すべての愛欲を明らかに知りました。





出家させるほどのお気持ち

パーサラーシスッタ
サーヴァッディーに近いラムマカバラモンの修道院で
中部マッジマパンナーサ 12巻316頁316項

 比丘のみなさん。大悟する前、私がまだ大悟する前、ボーディサッタだった時、この世界で自分自身に当たり前に生があるのに夢中になって当たり前に生がある物を求め、自分自身も当然病気になるのに、夢中になってまだ当たり前に病気になる物を求め、自分自身も当たり前に老いるのに、夢中になってまだ当たり前に老いる物を求め、自分自身が当り前に死ぬのに、

まだ他に夢中になって当り前に死ぬ物を求め、自分自身に当然苦があるのに、夢中になってまだ当たり前に苦のある物を求め、自分自身も当たり前に悲しみがあるのに、夢中になってまだ悲しみのある物を求め、自分自身も当たり前に周囲に憂鬱があるのに、夢中になってまだ当り前に周りに憂鬱のある物を求めていました。

 比丘のみなさん。当り前に生がある物とは何で、当たり前に病気になる物とは何で、当り前に老いる物とは何で、当り前に苦がある物とは何で、当たり前に悲しみがある物とは何で、周囲に憂鬱がある物とは何でしょうか。

 比丘のみなさん。子や妻は当り前に生があり、当り前に病み、当り前に老い、当り前に苦があり、当たり前に悲しみがあり、当たり前に憂鬱があります。奴隷たちも当たり前に生があり、病み、老い、苦しみ、憂いがあります。羊や山羊も当たり前に生があり、病み、老い、苦しみ、憂いがあり、象や水牛、馬、ロバも当たり前に生があり、病み、老い、苦しみ、憂いがあり、金や銀も当たり前に生があり、病み、老い、苦しみ、憂いがある物です。

 人間が大切にしているこれらの物を、当たり前に生がある物であり、当たり前に病む物であり、当たり前に老いる物であり、当たり前に苦があり、憂鬱がある物と言います。

 世界中の人は揃ってこれらの物に執着し、夢中になってひれ伏すから、自分自身も当たり前に生がある物であり、当たり前に病む物であり、当たり前においる物であり、当たり前に苦しみがあり、当たり前に憂いがあるのに、まだ他にも当たり前に生がある物であり、当たり前に病む物であり、当たり前に老いる物であり、当たり前に苦しみがあり、憂いのある物を求めます。

 比丘のみなさん。私に「自分も当たり前に生がある物であり、当たり前に病む物であり、当たり前に老いる物であり、当たり前に苦しみがあり、周りに憂いがあるのに、どうして他にもまだ、当たり前に生があり、当たり前に病み、当たり前に老い、当たり前に苦しみ、周りに憂いがある物を求めるのだろう。なぜだろう。当たり前に生、病、老、死、苦、悲、憂いがある私が、生老病死などがあることの低劣な害を考えれば、生まれることのない、何も縛り上げるもののない安全なダンマ、それ以上のダンマはない涅槃を求めるべきではないだろうか」という考えが生まれました。

 比丘のみなさん。また別の時、まだ若く髪も黒々して若さに溢れ発展中の力が漲っている時、母も父も私が出家することを望まれず、揃って目に涙を浮かべて泣いておられる時、私は髪と髭を落とし、渋染の布をまとって城を出て出家し、家のない人になりました。

 (パーリ・サガーラーヴァスッタに次のような短いまとめがあります)

 バーラダヴァーチャさん。この世界でまだ大悟していない、私がまだ大悟する前、ボーディサッタだった時、私に「俗人は窮屈で埃の原因、出家は自由になる機会。所帯を持つ人は、よく磨いた僧のように完璧に純潔に梵行をすることはできない。それなら髪と髭を落とし、渋染の布をまとって家を出て、家に関わる利益のない人になるべきだ」と、このような考えが生じました。

 バーラダヴァーチャさん。また別の時、私は若く、髪が真っ黒で・・・。





出家

ボーディラーチャクマラスッタ
中部マッジマパンナーサ 13巻443頁489項

 王子。まだ大悟する前、私がまだ大悟していないまだボーディサッタだった時、私に「幸せと名がつけば何でも、誰でも簡単になれるものではない」という考えが生じました。王子。また別の時、私は若者で髪は真っ黒で発展する力が漲っている時、母も父も私が出家するのを望まれず、揃って目に涙を浮かべて泣いておられる時、私は髪と髭を落とし、渋染の布をまとって城を出て出家し、家のない人になりました。





二十九歳の時出家する

マハーパリニバーナスッタ
長部マハーヴァッガ 10巻176頁138項

 スバッダさん。私はあと一年で三十歳という時出家して「何が善だろう、何が善だろう(註)」と探求しました。

註: その時の伝統であった徳を探求する遊行者である出家。




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