タンマの水でタンマの泥を洗う
第三部-1





 タンマにご関心がある善男善女のみなさん。三回目の時間になりましたので、続けさせていただきます。

 私は「齢を揶揄する」と呼ぶ年齢に関わる徳を積む儀式をすると、理解を復習させていただきます。齢を揶揄する行事に参加する方は、私への贈り物として、二十四時間食べ物を摂りません。もうそろそろ二十四時間になります。十二時になる前に、みなさん、これはどんな学習か観察していただきたいと思います。

 二十四時間食べないことは苦行でしょうか。今日食事をしないことで、苦しくてイライラしている人はいますか。私は、食べないと決めているので、消化する胃液は分泌されないと、つまり胃袋を消化することはないと言いました。だからまだ正常で、胃にイライラを感じません。ということは、みなさんは本当に齢を揶揄できたということです。

 つまり食事を摂らないと決めたので、胃液が出て胃が消化されることはありませんでした。今、倒れた人がいるか、あるいは倒れそうな人がいるか、このような行動は苦行かどうか、それとも自分の心を支配するために利益があるか、功徳があるかを確認するために、考えて見てください。

 自分の子供は聞き分けが良くなければならないように、私たちの心は、自分で支配できなければなりません。これに関する知識や理解がどんどん増えれば、それが齢を揶揄することの功徳です。

 たとえば二十四時間だけ食事を我慢することは、どう齢を揶揄することでしょうか。他のことも同じで「齢を揶揄する」と決意して断てば、功徳があります。つまりこの齢を揶揄することには利益がある、あるいは「利益のためになる自分自身による検証」であると確信しています。どうぞ知識、あるいは後の知性のために決意して、観察して、勉強してください。

 この機会に、もう一度このように理解を復習させていただきます。引き続き質疑応答の形で講義を続けます。どうぞこれから、質問したいように質問し、問題を質問することで講義を進めてください。



問題84 : 野菜や肉を食べること

質問 : まだ理解できないことがあります。私が先生に教えていただきたいと思う問題は、涅槃を目指して実践する道を教え、宗教を広める人であり、そしてその鉢の中の食べ物が、肉や血でいっぱいだったら、慈悲の心を持つことができるかどうかと、聞く人がいました。

答 : 最後まで全部言ってください。

質問 : つまり、肉と野菜を食べる時、どっちの方が心は正常でいられるでしょう。四元素(四大種)で食事をすることについて熟慮するのは、むしろ阿羅漢の話なので、これは問題になることでしょうか。

答 : この問題は肉を食べること、野菜を食べることに関する気掛かりと要約することができます。肉や血のある鉢で食事をする比丘に関わる問題で、このような言い方はとても偏っています。血と肉でいっぱいの鉢という言葉は、生の真っ赤な肉、あるいは血を掛けるのを連想させます。

 問題点をまとめると、肉、あるいは野菜を食べることに確信がないのが原因で、肉を食べるのと野菜を食べるのと、どちらの方が心が正常でいられるかという、新しい問題を作っています。それに元素(ダートゥ)で熟慮する教えを使おうとしません。肉や野菜と区別する問題を断つためには、元素として熟慮してから食べます。

 ここに座っているすべての人は、在家も僧も、たぶん肉や野菜を食べる問題があると理解します。ある人ある僧は、精進食をして肉を食べません。これについて話して、共通の理解にするのも良いでしょう。誰か、あるいはどの集団か、あるいは仏教の何の宗派かを特定した形の話はしません。

 たとえば大乗は全部肉食をしません。テーラワーダはタンマ(教え。法)とヴィナヤ(律)をそのまま持して、肉を食べる僧はヴィナヤに反さないように食べます。しかし理解があれば、タンマにも反しません。つまりこのテーラワーダには肉を食べる人も、肉を食べない人、つまり菜食をする人もいます。

 この僧は肉を食べる、野菜を食べるという言い方は、本当は真実と違うので、自分は肉を、あるいは野菜を食べると理解している僧は、仏教の比丘ではありません。仏教の比丘は、肉や野菜という理解で食べません。まだ「肉」、あるいは「野菜」と理解しているなら、その人は、自分、あるいはどのような人物とも理解しない、仏教の教えのタンマを知りません。

 その人が明らかに「肉」と理解して食べれば鬼で、「野菜」と理解して食べればオナガザルです。木のてっぺんにいるオナガザルは、野菜だけで肉は食べません。それです。「俺は野菜を食べる」と理解すればオナガザルで、「俺は肉を食べる」と理解すれば鬼です。

 だから仏教の比丘は肉や野菜と感じません。そして何と思うかと言えば、何とも思わず、真実のとおり「食べ物」ということにしておきます。それは正しく、そして乞食のように命を養う仏教の比丘の生活にふさわしい食べ物です。これは、比丘の話を先にしています。

 本当の比丘は、乞食の形で他人からもらった食べ物によって命を養っています。人々が容器に何かを入れたら、比丘の作法で、乞食のように他人と関わって命を養う人の作法で、もらった食べ物が修行者の食べ物としてふさわしいかどうか熟慮し、「この食べ物は、自分にふさわしくない」と見れば捨ててしまい、その食べ物が自分の状況にふさわしければ、罪を生じさせることなく、「肉、野菜」と断定しないで食べます。

 律にも一項あります。ある人が招待されて行って、それらを「これは何だ」と明言し、たとえばアヒル、鶏、魚、鹿、そうめん、菓子などと名前を挙げることは、そう思い込む基盤になるので、「これは何だ」と明言したら、比丘はその招待を受けません。あるいはそれを食べません。

 これはそれが何であり、何の菓子を食べた、何の肉を食べた、何の魚を食べた、どんな野菜を食べた、と思い込むのを防ぐためです。そういう形で、それは何かと思い込むことがあってはならず、乞食のように他人によって命を養う人である、比丘にふさわしい食べ物かどうか観察します。

 もう一度繰り返すと、乞食のように貰うと、鉢の中には、原因と縁で、庶民が入れてくれた物があり、肉を食べる人間集団に乞食に行けば、当然鉢の中には、肉がついて来、肉を食べない人間集団に乞食に行けば肉はなく、野菜ばかりです。

 比丘は野菜と断定して、「俺は野菜しか食べない」と理解しません。そういうことはありません。肉が来て、「俺は肉を食う」と言えば、そう言うのは鬼です。比丘は「肉、野菜」と理解しないで、修行者にふさわしい食べ物として食べ、修行者にふさわしくない食べ物があれば捨てます。修行者にふさわしい部分、ふさわしい物は食べます。

 このふさわしい、ふさわしくないというのは、ヴィナヤ(律)とタンマ(教え)の基準があります。

 ヴィナヤには「僧のために殺した肉はヴィナヤに反すので食べない」とあります。これはヴィナヤの話です。タンマには「比丘は食べ物を、砂漠の中で我が子の肉を食べるように食べなければならない」とあります。どんな食べ物でも腹に入れる物は、砂漠の中で我が子の肉を食べるような気持ちで食べなければなりません。これは譬える時の基本です。

 話は夫婦が幼い子を抱いて砂漠を横断する際、道に迷って砂漠を旋回しているうちに食糧が尽きてしまい、残っているのは、困苦に耐えられなかった幼い子だけです。何日も食べ物を口にしていないので、子が先に死にました。そこで両親は、まだ死ぬべき時ではないので、自分の子を食べて、砂漠から脱出するまで命を繋ぐ薬にしようと心を決めます。

 彼らは非常に苦しくて食べることができず、飲み込むことができません。比丘はこのような形で食べなければなりません。野菜でも、このように食べなければなりません。味に対する貪りで食べず、肉を食べるにも野菜を食べるにも、我が子の肉を食べるような気持ちで食べなければなりません。煩悩欲望で食べません。そういうことです。

 私たちにはこのようなタンマの教え、ヴィナヤの教えがあるので、絶対に肉や野菜の問題があってはなりません。仏教のタンマを知る人は、阿羅漢でも阿羅漢でなくても、何かをあれこれと思い込まない教えを、ブッダが作りました。解脱するタンマは、(それは何と)断定しません。

 土を土と、水を水と、風を風と、火を火と断定せず、それはそれと、そのように思い込みません。そのように思い込むことは、「それはそれだ」と仮定で考える、無明、取の話だからです。ブッダは土を土と思い込まないことから、涅槃を涅槃と思い込まないことまで、あらゆる物を、それは何だと思い込みませんでした。

 「何かを何かと断定しない」と理解してください。これが智者、あるいはブッダのあり方です。だから私たちが仏教の教えで実践する時、どんな物も「何」と、あるいは何かの実体と思い込むべきではないので、肉、あるいは野菜と思い込みません。

 だから本当の仏教教団員は、肉も野菜も食べる機会はありません。肉、あるいは野菜と思い込まないからです。乞食のように生きている比丘の状態で貰った食べ物と思って、砂漠のまん中で我が子の肉を食べるように食べるだけです。もし何かの一切れが害になり、体の具合が悪くなるなら、捨てても良く、体に害のない部分は、ただの食べ物として食べます。

 肉、あるいは野菜、あるいは何かと思い込まないでください。あの菓子、この菓子、あのスープ、このスープ、あの炒め物、この炒め物と、そういう形で断定しません。「何か」と思い込めば、愚かな人になり、仏教教団員でなくなります。

 これは比丘に関してで、このような実践規則がなければなりません。肉も食べず、野菜も食べませんが、砂漠で我が子の肉を食べるような教えで、自分自身が比丘であることにふさわしい食べ物を食べます。

 次にそれを肉だ野菜だと捉える人は愚かな人になり、「野菜を食べる」とあちこち振れまわって自慢し、肉を食べる人を見下して威圧します。野菜を食べる人が、最高に不潔な腐った肉を食べる人になります。これは考えるべきではないでしょうか。野菜を食べながら、肉を食べる人を繰り返し中傷するので、本人は最高に汚い腐った肉を食べる人になります。

 ブッダの金言に「貪欲は腐って膨れた物と言われ、復讐心は生臭いと言われ、悪の考えは蝿と呼ばれる」とあります。だから野菜を食べる人は自慢して、肉を食べている人を繰り返し中傷しないでください。自分が腐った肉を食べる人になります。

 どうぞみなさん「肉も野菜も食べない。ただ体が生きるためにだけ、タンマとヴィナヤで正しい意味のある食べ物を食べる」という実践に改めてください。自分、自分の物がない心で、托鉢した食べ物を熟慮し、そして肉とか野菜と思い込むことなく食べます。これがタンマ(教え)でも、ヴィナヤ(律)でも、どちらでも正しい仏教の教えの実践です。

 このように実践すればこのような問題、つまり「涅槃へ行く実践を教えているが、鉢の中には血と肉でいっぱいで、どこに慈悲があるのか」という問題は生じません。彼が今述べたように食事をすれば、この問題は生じず、正しい感覚があります。慈しみとは、生老病死の友という気持ちのことで、そして私たちは肉、あるいは野菜を食べません。

 それになぜ野菜にも命があると考えないのでしょうか。すべての野菜の命を奪うことは、動物の命を奪うのと同じ破戒罪になります。野菜は最も下等な生老病死の友で、私たちは命のある物を苦しめないので、肉も野菜も、その意味を追い出してしまい、そしてその「食べ物」を純粋に食べます。

 その鉢の中に、タンマとヴィナヤで正しく食べるべき何があっても、自分にとって厭わしい物でなければ、乞食の食べ物のように食べ、もし害のある物があれば捨ててしまいます。砂漠の中で我が子を食べるような気持ちがあれば、問題は生じません。

 次は肉と野菜を食べるのは、どちらがより正常な心かという問題です。正常な心は、肉や野菜によるのではありません。野菜を食べる動物を見ると、まだ正常な心がなく、肉と野菜の問題には、心を正常にするうえで有利も不利もありません。

 心を正常にするには、常自覚がタンマで心を管理すれば、心は正常になります。熟慮して、「肉でもなく野菜でもなく、原因と縁が作りあげた自然の元素」と見ることは、特定の人のみの実践ではなく、全員の物です。その人は、本当は「肉と野菜はどちらが心を簡単にサマーティにするか」を問題にするべきです。

 阿羅漢は注意、あるいは何か実践する必要はありません。何かを何かの意味と思い込むことが終わったので、土を土と思い込むこともなく、水を水と、火を火と、風を風と思い込むことがなく、涅槃を涅槃と思い込むこともありません。

 だからこの話は、阿羅漢には関係ない、何かを何かと思い込まなければならない、阿羅漢になっていない人に関わることです。私たちは解脱したいので、あるいは阿羅漢になるために、「ニッサトー ニッサチーオー スンヨー」で、正しい観察で食べる物を熟慮します。そうすれば、肉を食べるのと野菜を食べるのと、どちらの心が正常か、という問題は生じません。

 正常な心も、必ず何らかの振る舞いや行動があります。精進館では野菜しか食べませんが喧嘩があり、精進館にいない人にも劣らないと分かるほど、表出する怒りを生じさせる物があります。精進館で暮らす人たちも、そう認めそう主張しています。だから肉や野菜は、心が正常か正常でないかの基準にはなりません。

 どうやって心を正常にするかというタンマの教えで、正しい実践をしなければなりません。そして実践しましょう。どっちの心が正常かという質問は、肉を食べるか野菜を食べるかという方法で確認する術はありません。だから「肉を食べるのは鬼、野菜を食べるのはテナガザル」ということです。

 鬼はたぶんテナガザルより混乱していて、テナガザルの方が正常でしょう。しかし肉も野菜も食べない人の方が正常な心です。良く聞いてください。肉も野菜も食べない方が、心が正常、あるいは真ん中です。肉だ、野菜だと思い込み理解せずに、タンマとヴィナヤで食べ物を正しく食べます。

 誰にも気兼ねせず率直に言うなら、タンマとヴィナヤの教えで言えばこう言わなければなりません。肉に見せかけ、肉よりも美味しくした精進料理は、肉よりも高い投資をした偽りの食であり、タンマでもヴィナヤでもなく、心がどんどん正常でなくなります。

 次に細かい話しをすると、野菜を食べる方が快適な人は食べてください。誰も止めません。そしてお金はたくさんかかりません。野菜は肉より安いし、そして身体の快適さのためという理由があります。しかし出家は乞食のように命を養っているので、鉢に入れらる物を選んで、肉は気分が良くないので食べず、野菜は気分が良くなるので食べるというのは、出家の教えにはできません。

 庶民なら自分で作れるし、自分で買えます。しかし繰り返させていただきますが、野菜を食べても、肉を食べる人を軽蔑しないでください。その人はすごく汚い腐った肉を食べる人になります。野菜を食べてそれを自慢し、肉を食べる人を繰り返し中傷しないでください。

 次はタンマやヴィナヤの細かい話で、健康のために野菜を食べるなら、食べてください。野菜を食べる方が安らかなら食べてください。しかしそれはまだ愚かです。それは夢中になって「肉を食べる、野菜を食べる」と思い込んだ理解であり、単に「食べ物」と捉えません。仏教教団員なら、肉も野菜も食べない心がなければなりません。こう主張させていただきます。

 仏教教団員は肉と思い込まず、野菜と思い込みません。それは肉も食べない、野菜も食べない真ん中の心です。これは空で、この方が便利で穏やかです。肉も食べず、野菜も食べない。それは何よりも正常な心です。肉であることの愚かでなく、野菜であることの愚かでありません。

 しかし野菜を食べると病気が少ない、あまり歯が痛まないと見るなら、そうしてください。野菜だけを選んで食べてください。あるいは他の理由があるなら、そうしてください。構いません。

 野菜と果物しか食べないのは、試したことがあります。汗と大便が臭わず、あるいはほとんど嫌な臭いがしません。しかし良くするなら、心で肉も野菜も食べなければ、問題は生じません。このような問題は生じません。肉を食べること、野菜を食べることの真実はこのようです。私の気持ちではこのようです。

 もう一度内容をまとめさせていただきます。これは肉、これは野菜と思い込んで肉や野菜を食べないで、真実の問題にします。つまりあるのは因果の法則で経過する自然の元素だけです。肉も野菜も、この体に合わなければ食べず、利益があれば、身体に害がなく、すべてに純潔なら食べられます。

 肉も乳も玉子も、椰子も魚も果物も、何でも、肉、野菜、果物、あの菓子この菓子と思い込まないでください。思い込めば愚かになります。あれだ、これだと断定して食べれば、食べることに執着する愚かな人です。仏教教団員は愚かではいけません。仏教教団員はサンマーサンブッダの弟子なので、智慧で明るくなければなりません。

 つまり肉を食べること、野菜を食べることをこのようにまとめることができます。答はこれだけです。私は肉を食べるのも、野菜を食べるのも賛成できません。肉も野菜も食べないで、タンマとヴィナヤで正しい食べ物を食べることをお勧めします。さあ、他に何か質問したい問題はありますか。



問題85 : 肉を食べ野菜を食べる道徳

質問 : これに関してもう少し、細かいことがあります。つまり道徳を奨励する基礎の段階では、心を正常にしなければなりませんが、それには、肉と野菜の二種類の料理が並べてあると、一般の人は、野菜を見た時の心は正常で、心が欲しがる肉を見た時のようではないという、一般的な問題があります。

 だから道徳を奨励するためには、肉と野菜に関する初等の訓練の規定、あるいは指示項目があるべきだと思います。初歩の正常な心を援けるために、一般庶民に野菜を食べさせることは、道徳面をより善くする一助になると思います。これはどうあるべきか、先生にお尋ねしたい問題です。

答 : 野菜を食べると道徳に良く、国や私たちの経済に良いという確実で明らかな理由があるならそうし、菜食を奨励する、あるいは強制する規則や法律を作ります。アショーカ大王は肉食を止めるように勧めたので野菜しか食べず、どんどん厳しくして、菜食だけになりました。

 肉を食べなかったことも仏教教団の歴史にあります。それは他の理由で、菜食は心の面にも良く、経済面にも良く、身体にも良いという真実が証明できれば、何かになります。それは庶民の話、王の話です。

 比丘はそういうことはできません。誰かにそうするようお願いすることもできません。テーヴァダッタはブッダに、「比丘は動物の肉を食べてはいけない」という規則を作るようお願いしたことがありました。ブッダは断り、「私はそのような規則は作らない」と言いました。出家の世界では、そのような規則で強制することはできないと、はっきりと分かります。志願して乞食をする人になったからです。

 しかし庶民の話なら、国のことを考え、国民の経済や道徳を考え、規則として強制し、菜食をするよう、野菜だけを食べるような決まりを作ることもできます。証明できる正しい理由があれば、何に対しても誤りではなく、何の教えにも反しません。もしできればいいです。これを政治の問題が関わって来たと言います。みんなで政府にそうさせることができれば、それは良いことです。

 しかし比丘はこの話を受け入れることはできません。関わりません。するのは、鉢の中に落ちてきた物を、食べるべき食べ物と熟慮し、そして菜食、肉食と捉えずに食べるだけです。野菜が来ても、それを野菜と思い込んで捉えません。それはその意味の愚かさです。つまり比丘の世界では、今までどおり、肉や野菜のどちらも食べません。

 しかし庶民はどうにでも対処して、野菜だけで肉がなくてもいいです。そして彼らが鉢に入れるのは、野菜だけで、肉がないのは当然です。比丘にとって問題は生じません。さあ、他に何か残っていますか。



問題86 : 問題11と重なる問題

質問 : 次は順番どおりの問題です。彼は、先生が繰り返し生まれることはないと教えていると非難しています。この真実はどうですか。

答 : あれ、また古い話が。またです。繰り返し生まれることはないと教えていません。「俺、俺の物」という感覚が生まれることが生であり、また生まれ、生まれてまた生まれ、そしてそれは連続して繋がっています。互いに原因になって、この種の生れることを繰り返しています。輪廻はないと教えたことはありません。

 サンディティコ(自分で見ることができる)の類で見えるように教え、縁起の中に輪廻があります。そして私は縁起の中にタンマ語の輪廻がある話を、理解できるように説明しました。もう一方の棺に入ってから新たに生まれる輪廻には、私は関わりません。触れません。ないと否定はしません。そのように信じている人だけの話にしておきます。私には興味を持つ暇がありません。私にとって急ぎではないからです。

 私にとって火急の問題は、この心の中で輪廻する状態です。それは想像を越えた火なので、こちらが先に興味があります。心の中の輪廻を支配できれば、何回も棺に入る外部の輪廻も、自然に消滅します。自然の問題は消滅します。この方が興味を持つべき輪廻ですと、答えさせていただきます。さて他に何かありますか。



問題87 : 化け物や天人に生まれること

質問 : 彼は先生が、化け物や天人に生まれることはできないと教えていると非難しています。真実はどうですか。

答 : なぜ化け物や天人に生まれることができないのですか。タンマの生まれることは、心の欲望、取によって生れることです。つまり化け物のように考えれば、化け物に生まれ、天人のように考えれば天人に生まれ、動物のように考えれば動物に生まれます。

 どうして生まれることができないのですか。彼らが普通に話している、死んだ後お化けに生まれる、死んだ後天人に生まれることは、話されていて、信じられているので、それ以上話す必要はありません。私は興味がないので、興味のある人に任せます。

 私が興味あるのは、内部で生まれることで、お化けや天人や、あるいは何かになるのは、私はどれにも生まれたくありません。正常な心があり、内面で何かに生まれないようにしたいです。これを管理できれば、どんな種類の生まれることもありません。あるいは内部でお化けや天人に生まれなければ、棺に入ってからも、お化けや天人に生まれません。

 「その人の愚かさ次第で、何に生まれることもできる」と答えさせていただきます。そして内部で生まれることの方が火急の問題なので、先に興味をもって、先に管理してください。外部の生まれることは、内部の生まれること次第です。内部の生まれることを管理できれば、外部の生まれることも管理できます。さあ、次。



問題88 : 誤った見解になるように教える

質問 : 次の問題は、第一部の質問と似ています。先生がつけ足してお答えになるかもしれません。彼は、先生が誤った見解で、そして説法をするので、庶民に多大な損害を与えると非難しています。

答 : そのとおりです。もし誤った見解を庶民に教えれば、庶民は多大な損害をこうむります。私は誤った見解を避け、誤った見解で教えないと主張します。このように好き勝手に決め付けるべきではありません。公正ではありません。傲慢をなくして正しい見解にするように、何十年間、いつも努力しています。

 そして正しい見解で教えるように努力しています。間違った見解で教えないので、庶民に、私が教えたことによる被害はありません。もし誤った見解と言うなら、受け入れません。断って、言った人に返します。他に問題はありますか。



問題89 : ブッダの代理のように振る舞う

質問 : 彼は先生のことを、「ブッダの代理のように振る舞い、生死の繰り返しはないというような、仏教を消滅させる話を説いている」と非難しています。前の問題と同じですか?

答 : この問題は繰り返しです。私はブッダの代理のように振る舞っていません。ブッダに仕える者で、ブッダの奉公人、あるいは良く仕える者になるために注意深くし、ブッダが教えたように教える努力をしています。ブッダに背く教え方はしていません。輪廻はないと教えていません。

 「生死を繰り返すのは人ではなく、煩悩がある心、無明がある心」と、ブッダが教えられたように教えています。それが生死の繰り返しです。自分が生死を繰り返すのではありません。輪廻する自分があると教えれば、それは他のディアラティー、他の教義で、生死を繰り返すアートマンがあると教えた、ウパニシャッド時代のバラモン教です。

 仏教教団員は「生死を繰り返す自分は、原因と縁によって生滅する心にすぎないので、それを自分とすることはできない」と知っておくべきです。私は、生死を繰り返す自分があると教えませんが、生死の繰り返しは、自分と考える心の自然で維持されます。

 この愚かさはいつも循環しています。自分と考える心が生死を繰り返すことを、何かに役立てることができません。自分はなく、あるのは正常な自然の縁起による変化だけと見るよう、このように教える決意をしていす。さあ、他に何か問題はありますか。



問題90 : 問題26と同じ問題

質問 : この非難は、初めの方の非難と似ています。彼は、先生は自分の考えを教え、そしてブッダの教えだと言っていると非難しています。たとえば生死の繰り返しはないと教えるので、思いもよらない損害を生じさせていると。

答 : 自分の考えはありません。あるのはブッダの教えに従った考えだけです。私はブッダの教えを勉強したので、考えや見方や信念が生まれ、ブッダ式に明らかに見えるようになりました。自分の考えはありません。そしてブッダが言われたように教えます。

 だから生死の繰り返しはあります。ヒト語のもあり、タンマ語のもあります。しかしそれは自分ではありません。自分があるほど愚かではありません。自分が生死を繰り返すと言うのはアンヤディアラティー、他のディアラティーです。他に何かあれば話します。



問題91 : 苦と滅苦の話を教えたことがない

問題 : 彼は、「先生は出家した若い時から年を取るまで、生死の繰り返しは苦であると、そしてヴィッパサナーは滅苦の道と教えたことがない」と非難しています。真実はどうですか。

答 : 彼が言うのは真実ではありません。私は「俺、俺の物」の輪廻は苦、と主張させていただきます。一回だけ生まれることも苦で、循環のように何度も繰り返し生まれることは、言うまでもなく、生死を繰り返すことは苦です。そしてヴィパッサナーカンマダーナ(観業処)は、輪廻に関する真実が明らかに見えるようにする、滅苦のための実践です。

 このヴィパッサナーカンマダーナは本当のヴィパッサナーでなければなりません。つまり「見ること」で、計算することでも、理由で考えることでもありません。初めに心をサマーティ(三昧)にして、その心で、今問題であるサンカーラ(行)、つまり苦を見て、苦と苦の原因を明白に知るまで見ていきます。

 「そのよう」である真如を知り、「そのようになる」タタターーを見、そして何も自分と捉えません。そうすれば輪廻は止まります。私は、ヴィパッサナーカンマダーナをこのように重視しています。ヴィパッサナーカンマダーナを、観る必要がない「理論で考えること」にしている、他の人たちのと違います。

 このヴィッパッサナーは、必ず見て、見て、見えるまで見なければなりません。見えれば「すべてはなるようになっている。自分と捉えるべき物は何もない」と、明らかになります。これが本当のヴィパッサナーです。つまり見て、見て、見れば見え、そして見えれば自然に手放します。

 いろんな考えであれこれ考える種類のヴィパッサナーカンマダーナでは、そうなりません。見ないので見えないからです。だから信じているように話し、信じているように考え、教え伝えているように話す人の理論があります。こういうのは明らかいに見えません。そして滅苦ができないので、私は教えません。

 「真実が見えるように見るヴィパッサナーカンマダーナが、滅苦の道」と主張させていただきます。ヴィッパッサナーカンマダーナの様式として正しくなければなりません。滅苦ができない野蛮なヴィパッサナーにしないでください。さあ、次。



問題92 : 浅い道徳しか教えない

質問 : 彼は、先生が若い時から老いるまで、一般庶民が誰でも説いている浅い道徳しか教えていないと非難しています。真実はどうですか。

答 : 彼は、私が若い時から老いるまで、庶民らが説明している浅い道徳しか教えていないと言っています。もしそうなら、もうとっくに廃れて、誰も聞く人はいませんよ。私は庶民が知っていること、そして教えていることと違う何かを、つまりより深く、より高度に教えなければなりません。

 これには矛盾があります。この非難の言葉には矛盾があります。私が本当に浅い話しか教えなければ、誰も聞く人はいません。挫折しています。教えなくなります。庶民が興味を持って聞くのは、私がまだ、庶民が知らないことを教えている証拠です。だから適度に深い話です。次は何を話しましょうか。



問題93 : 心のことを知らないと言う

質問 : 彼は先生が、心とは何か、どう生じるか、生じさせる原因は何か、何も知らないと非難しています。これはどうですか。

答 : 私は、心とは何か、知るべきことは知っています。私は何もかもすべてを知ることはできません。心を強制し、心を支配し、心を発展させるよう訓練することしか知りませんが、それだけで十分です。

 本当の物質的な話、電気の話などは、科学者も電気とは何か、本当には何も分かっていませんが、電気を出現させて力にする方法を知っています。そしてその力を自分の利益のために使います。これだけで十分です。そしてその電気の力を、どんどん望みどおりに利用する方向へ拡大していきます。一方、電気の正体は何なのか、彼らは知りません。知らないと白状しています。それで十分です。

 心の話も必要以上でなく、どう心を管理すれば苦がないかだけ知れば十分です。ブッダは心とは何かを教えたいと望まず、「私は苦と滅苦の話しかしない」と言われているように、どう苦を滅すかを教えたいと望まれました。これ以外の枝葉の話を教えて規定しようとなさらず、目的の中にありませんでした。

 苦と、滅苦することだけを見、心のことを知るなら、苦である心はどうか、どうしたら苦をなくせるかを知ります。これだけで十分です。あまりたくさん教えません。膨れ上がったタンマを教えて、庶民に時間の無駄をさせません。他に何かありますか。



問題94 : 煩悩について何も知らないと言う

質問 : 彼は先生のことを、煩悩とは何か、何から生まれるか、どう生じるかを知らないと非難します。これには何と言いますか。

答 : 話すなら、それはブッダがはっきり言われているので、私は、煩悩とは何か、ブッダが言われたとおりに知っています。そして私は、貪欲とは何か、怒りとは何か、迷いとは何か、それはどう生じるか、内面を観察し、ブッダが完璧に教えているので、それで勉強し、明らかに見えるようになりました。その後教えられるようになりました。

 つまり六処に何かが触れた時、たとえば目が形などを見ると眼識が生じ、そして同時に働きます。それを触と言います。その触の時に明、関わる智慧がなく、無明だけなら、それは愚かな触、暗い触、盲目の触です。この種の触は、喜んだり悲しんだりするために、暗い受、盲目の受を生じさせます。

 この愚かな受は、愚かで暗くて盲目の望みを生じさせます。この愚かで暗くて盲目の望みを「欲望」と呼びます。これで煩悩が生じました。ブッダの教えでは、煩悩はこのようにはっきりと生じます。そしてサンディティコ(自分で見ることができる)です。煩悩はこのようで、このように生じたと、誰でも見ることができます。これで十分です。

 煩悩を生じさせたくなければ、触の時に明があり、明るい触、輝く触にする智慧があれば、賢い智慧のある触です。賢い触は愚かな受を生じさせません。受とは何かを知ることができる、賢い受を生じさせます。そしてその受を喜んだり悲しんだりしないので、欲望も煩悩も生じず、そして苦も生じません。

 だから私は「煩悩とは何か、どう生じるか、どう消滅するか」、自分の心ではっきりと知っています。そしてそれは、ブッダが教えたことと一致します。つまり何も問題はないということです。

 つまり煩悩とは何か、何が原因か、どう生じるのかを、ブッダの言葉と、そして自分の内面観察、自分自身の煩悩の発生と消滅を見る両方で、自分自身で知ることができます。だらだらと教える人たちを信じる必要はありません。さあ、次の項目は何ですか。



問題95 : 煩悩と前生

質問 : 彼は、もし前生がないのなら、煩悩はどうして生じるのかと、先生を非難しています。真実はどうですか。

答 : これは意味のない質問です。無意味な質問です。前生がなくて、どうして煩悩が生じるのかと質問します。意味のある文章ではありません。意味のない質問です。タンマ語のように、私が話すように言うなら、煩悩が生まれさせ、生きている間に何度も生まれます。

 名と形(抽象と具象。心と体)があって六処があり、そして六処で間違いがあれば、煩悩欲望が生まれ、そして取が生まれ、そして俺が生まれる「生」があります。このように生が生じます。だから煩悩は現生があることで生れます。

 前生がなければ、現生もありません。普通の人の言葉で言えば、繋がっている生があります。しかし前生がないということは、生まれる原因がないので、現在の生もないという意味になります。だから意味のない言葉の質問には、答えられません。

 しかし要点だけを汲んで意味のある質問にすれば、煩悩は煩悩の原因である、目・耳・鼻・舌・体の誤った行動に依存しなければならないと答えます。煩悩が生じれば、取から「俺、俺の物」の生が生じます。それだけです、さあ次。



問題96 : アビダンマを勉強する智慧がない

質問 : 彼は、先生はアビダンマを学べる智慧がないので、まったくアビダンマを知らないと非難しています。これには何と言いますか。

答 : 私は出家する前、つまり六、七十年前からアビダンマに興味がありました。つまり質問者が生まれる前から興味がありました。質問者は五十歳を越えていないと理解しています。私は出家する前から、つまり六十年以上前から興味があり、アビダンマのどれが新しく書かれた物で、どれが古い物と同じか分かります。だからこの問題には答ません。



問題97 : 問題でない問題

質問 : 先生は、輪廻転生はないと教えるなど、自分で良く分かっていない内容で、庶民に間違った考えを布教する勇者だと言っています。

答 : これはさっきの問題と矛盾します。私はさっき、タンマ語による輪廻の話を教えると言いました。輪廻はないと教えるほど度胸はありません。(その質問は)不当な濡れ衣、泥を投げ付けることです。答える必要はありません。



問題98 : 問題自体が矛盾し、曲折した問題

質問 : 同じような問題で、彼は輪廻転生がないなら、なぜ滅苦の道を教えるのかと先生を非難します。

答 : 苦があるから滅苦の方法を教えます。輪廻も苦という言葉に含まれます。ね、生死を繰り返さなくて済むように教えています。今まで話してきた、あるいは印刷されたたくさんの言葉でも明らかで、「生まれることは苦。生死を繰り返すのは最高に苦」と、数え切れないほど言っています。

 そしてその苦を滅す方法があります。つまり生死を繰り返す自分を止める、あるいは滅してしまえば、取で自分という感覚が生じるのを放置しなければ、輪廻はありません。輪廻は、自分があるという愚かさの話です。さて次。



問題99 : 一生だけ生まれる

質問 : 彼は先生が、こ生だけで、再び生まれることはないと教えていると非難しています。これには何と言われますか。

答 : 一回しか生まれないと教えたことはありません。一日に何生も、何百生も、一年には何万世も生まれると教えています。一生だけしか生まれないと教えていません。生まれるのが得意なら、死ぬまでに何万生、何十万生も、あるいは何百万生にもなります。これもたくさんの印刷された教えの言葉の中にあります。さて次。




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