タンマの水でタンマの泥を洗う
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問題67 : 地獄等が本当にあるようにする

質問 : 挙句の果ては、先生が前生と来生、天国地獄、そして生まれ変わりを否定しないように変えたフィクション小説を書く人がいます。これは事実と一致しますか。

答 : おや。これはあなたの質問です。今、先生は前生と来生と、地獄天国、そして生まれ変わりを否定しないように変えたフィクション小説を聞いた人がいると言うのは、仮定でも何でもありません。

 私は地獄天国、そして生まれ変わること、現生と来生があることを認めています。一日に何生も生まれ、「俺、俺の物」が何生も生まれます。先に生じた方が前世生で、今生じているのが現生で、後から生じるのが来生です。私にはこういう形の前生と現生と来生があります、否定しません。これが本当の生です。

 母親の胎から生まれることはもう終わっているので、何もここで取り上げて判断する必要はありません。苦は、現在心に生じるこの種類の生にあります。地獄、天国、生まれ変わることもあります。否定しません。地獄もお話したとおりです。天国もお話したとおりです。

 新しく生まれることも続いてあります。煩悩欲望がある時は無明があり、原因である取があるので、続いて、俺、俺の物が際限なく生まれます。これが本当にある真実と一致します。あるいは真実はこのようになっています。さあ、次。



問題68 : 現生だけを見るように教える

質問 : 彼は、先生が現生だけを見るように教え、そして他の生を考えるのを認めないと非難しています。これにはどうおっしゃいますか。

答 : それほど厳しくはありません。しかし現生が今の問題であることを強調しています。過去世は終わってしまったので、問題ではなく、これから生まれる生は、まだ来ないので問題ではありませんが、「俺、俺の物」が生じている現世が問題で、焼き炙って苦にし、煮えたぎらせます。

 だから現生と呼ばれる物を、もっと多く見るように提案、あるいは主調しています。つまり「俺、俺の物」が生まれて、焦燥でイライラと足掻いている物を、最も良く見てください。どうぞ現生を他の生よりも、あるいは問題から脱した、あるいは問題にならない他の類の生よりもたくさん見てください。

 更に良く、更に真実なのは、私たちが現生を、現在を管理することです。つまり現在の「俺、俺の物」を管理できれば、どの生の問題も無くなり、来生、未来の生も、問題はありません。だから何としても現生だけを管理して来生を生じさせなければ、来生を無くすことができます。現生の問題を見ることはこのように重要です。

 だから現生に、つまり他のことよりも当面の問題に興味を持ってください、と言います。しかしこれ以外の、他の生を考える必要はない、とは言いません。考えてもいいですが、それが時間の無駄なら、あるいは利益がなければ、考える必要はありません。私たちは現生を、現在を、しっかり管理するよう努める方がいいです。さあ、次の問題は何ですか。



問題69 : 善いことをしても悪いことをしても結果は現生に

質問 : 彼らが仮定した仮定の話で、彼は、先生のたくさんの弟子と会話すると、現生でした善いこと悪いことの結果はすべて、現生だけで受け取ると主張すると言っています。先生に関係のある事実はいかがですか。

答 : 彼は私が、現生でした善行、悪行の結果は、現生だけにあると言っていると非難しています。みなさん、生まれるとは、現生で今「俺、俺の物」が生まれること、という所に戻ってください。そして又そのように生まれることが来生です。これは、今回の俺、俺で生じる物、あるいは俺、俺の物ですることの結果は、後から次々と生じる俺、俺の物の生に繋がっていきます。

 これを生と生は繋がっている、連結している、二つの生の間で原因になっていると言います。だから、まだ自分を持っていたかったら、「俺、俺の物」を良く管理し、良い方の俺だけにすれば、続いて生まれる「俺、俺の物」にとって良い結果にすることができます。

 私は、結果は現生だけと言っていません。今回の俺、俺の物が生まれるカンマを作ることは、次の俺、俺の物が生まれることに関わる結果があります。これを「棺に入って新たに生まれる生を信じるより、もっと本当に見える、サンディティコ(自分で見ることができる)として見ることができる、生と生に跨る関連」と言います。

 棺に入ってまた生まれる生がどう関連しているのかは、サンディティコ(自分で見ることができる)ではありません。サンディティコ(自分で見ることができる)なのはこの種の生まれること、このように生まれること、この種の次の生に関連する結果です。こういうのが一日に何回もあり、何十回もあると言います。すべてサンディティコ(自分で見ることができる)で、見ることができます。

さあ、次は何かありますか。



問題70 : 大乗を受け入れて教える

質問 : 彼は先生が、「自分はない。自分自身はない。生も死もない。ブッダもいない。世界も何もないという、大乗の間違った見方を信じている」と非難しています。これには何と言いますか。

答 : その人は大乗について何も分かっていません。だから大乗について間違って言います。大乗にも自我の話の教えがあります。初歩では輪廻を教え、そして彼らにはブッダが数え切れないほどたくさんいます。私たちには何人もいません。大乗ではたくさんブッダがいて、数え切れません。

 大乗にはブッダがいないという非難は、何も調べないで言っています。世界がない、あるいは何もないと言う項目はありません。大乗にも世界はあり、天国があり、極楽浄土があり、何でもいっぱいで、私たちよりも多いです。私が大乗の教えを教えたら、この話は非常に増えてしまいます。

 非常に自我があり、非常に生があり、非常に死があり、ブッダは数え切れないほどいて、何かの世界がたくさんあり、テーラワーダ側より数が多いです。だから大乗について間違って話して時間を無駄にしないでください。他に何かありますが。



問題71 : サンカーラを掌握しなければ苦はない

質問 : 彼は先生が、サンカーラ(行。心身)の変化を自分のものと掌握しなければ苦はないと教えていると非難しています。これについて彼は、たとえ掌握しなくても、サンカーラは自然では苦だと反論しています。これは、真実はどうですか。

答 : 彼は一緒くたにした言い方をしています。自然の苦と煩悩による苦を一緒にしています。何かを自分と掌握すると、掌握するから苦があります。一方、サンカーラが苦なのは、自然の病気や死などは別の意味の苦で、私たちがその苦を自分の物と掌握しなければ、苦がないのと同じです。

 だからどんな種類の苦も、自分の物と掌握することによって苦になります。この「サンカーラの変化」という言葉には意味があります。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、何でも全部サンカーラの変化です。愚かな心で受け入れて自分の物と捉えれば、心は愚かになって自分の物にします。つまりこの心の物なので、それは苦です。

 どこで掌握しても、掌握したところに苦があります。掌握することは掴むことなので、重いからです。しかし掌握しなければ苦ではありません。憶えておいてください。何もかも自分の物と掌握しなければ、苦はまったくありません。

 「生まれることは苦、老いは苦、死は苦」というのは、愚かになって生、老、死を自分の物と掌握するからです。自分の物と掌握しなければ、それは苦でなく、阿羅漢になります。体は老いて死にますが、その老病死を自分の物と掌握しないので、苦ではありません。これは「掌握してはいけない。掌握すれば自然も自然でなくても、即苦になる」と、知っておかなければならない最高に大切な教えです。

 私たちは何かを手に提げた途端に、この手が何かを持つと同時に重くなるのと同じです。持たないでください。そうすれば手ぶらなので重くありません。だからブッダは「要するに、自分の物と掌握している蘊が苦である」と言いました。何も掌握しないでください。そうすれば苦はありません。私も掌握しないことで苦を滅すことを重視しています。さあ他に何かありますか。



問題72 : 根源での滅苦とは「俺、俺の物」を滅すこと

質問 : 彼は「明日の苦は問題ではない。今ある苦を全部滅すことはできないし、阿羅漢でも身体的な苦はあるかもしれない。将来すべての苦を滅す問題が重要だ」と反論し、先生が、今生じている、俺に執着することから生じる苦の滅苦だけに興味を持つように教えているのは、新たに生まれることを予測する役に立たないと非難しています。この真実はどのようですか。

答 : 彼は、今ある苦を全部滅すことはできないと信じ、私は、何も掌握しなければ滅苦ができると言います。阿羅漢にも身体的苦があるかもしれないと言うのは、これは身体の話で、阿羅漢の話ではありません。阿羅漢である心は、身体の苦を自分の物にしないので、阿羅漢には身体的苦はありません。

 「将来の苦を滅す問題が重要」というのは、真実ではありません。今ここにある苦を滅すことが重要です。今ここにある苦を滅すことが最も重要で、それを滅すことができれば、将来に苦は残りません。今ここで本当に苦を滅すことができる人がいれば、将来苦はありません。だから将来の苦に興味を持たないで、現在の苦に興味をもって、そして何としてもその苦を滅します。

 新しく生まれることは、心配する必要はありません。現在の生まれることを排除できれば、新しく生まれることもありません。あるいはあっても問題ではありません。現在に生まれることを無くせば、つまり自分を無くしてしまえば、自分がなければ苦の問題、あるいは再び何かを滅す話はありません。さあ、次。



問題73 : 三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らない

質問 : 彼は、三蔵を学べば学ぶほど仏教を知らないと、先生が言っていると批判しています。これには何と言われますか。

答 : これは非常に可笑しい話です。私が教職員議会かどこかで話した時、クルンテープ(バンコクのこと)の哲学者が反論し、嘲笑し、私を「三蔵を勉強すればするほど仏教を知らない」と、非常に揶揄しました。この外国かぶれの言うことを信じる人が多すぎます。

 本当は、三蔵を学ぶとは、三蔵の中の文字を勉強することです。仏教を学ぶなら、体と心、形、と名、目、耳、鼻、舌、体、心に生じている苦を学ばなければなりません。目・耳・鼻・舌・体・心を学ばないで、三蔵の文字だけを学べば、それで仏教を知ることはできません。知ることができるのは三蔵だけです。三蔵を知り、三蔵を修了しても滅苦ができないこともあります。

 こういう族をブッダは「からっこぶし野郎」「空っぽ教典野郎」と呼びました。ブッダは三蔵を修了した人を、このように呼びました。彼らは滅苦ができないから、三蔵しか知らないから、苦に踏み込んで学ばないからです。

 仏教を知りたかったら、苦を学ばなければなりません。つまり取がある五蘊、あるいは苦を作りだす状態である、直接生活の中にある縁起の流れを学ばなければなりません。仏教を知るには、内面の苦に踏み込んで学ばなければなりません。夢中になって外部の三蔵だけを学ばないでください。それでは三蔵しか知ることができません。

 そして三蔵を教える先生になって、給料をもらって生活します。できるのはそれだけで、滅苦はできません。滅苦をするには、体と心と、体の中の縁起の変化で仏教を学ばなければなりません。だから私は深く、あるいは最高に心を捕えるように、「三蔵を学べば学ぶほど、仏教を知らない」と話します。見てみてください。

 本当に正しく仏教を学ぶなら、目・耳・鼻・舌・体・心を学び、形、受、想、行、識を学ばなければなりません。ここを学べば、仏教を知ることができます。三蔵の学習は言葉の問題です。三蔵に仏教が記録されていることは事実ですが、言葉を学んでも、言葉しか知ることはできません。

 私たちは形から、名から、体から、心から、五蘊から、本当のタンマを学ばなければなりません。そうすれば心で真実を知ります。そしてそれは三蔵と一致します。しかし三蔵で学んだのではその感覚がありません。ヴィパッサナーである明らかな感覚がなく、言葉しか知りません。だから学んだ三蔵を、更に実践しなければなりません。それが本物で学ぶ、苦で学ぶことです。

 幾らか三蔵を学び、それから更に自分の内面の真実から学べば、仏教を知ることができます。三蔵を学ぶだけで、仏教を知ることはできません。つまり三蔵しか、あるいは記録された言葉しか知りません。こういう人はとても多いです。昔もいました。今も多いかもしれません。つまり三蔵を知りすぎて、まったく仏教を知りません。

 それで「パリヤッティ(三蔵の学習)をたくさん知り、どうして煩悩に負けて苦を求めるのか」と言われます。それに三蔵も使い物にならないので、還俗して苦を求めなければなりません。さて。三蔵を学ぶだけなら「学べば学ぶほど仏教を知らない」と主張させていただきます。自分で見てください。さあ、他に何かありますか。



問題74 : 仏教の肉腫を非難する

質問 : 彼は、先生が論蔵と三蔵の他の部分を、後世になって伸びた肉腫であり、ブッダが言った言葉ではないと言っていると、先生を非難しています。この真実はどうですか。

答 : 彼は、「私が、論蔵と三蔵の他の部分を、後世になって伸びた肉腫だと非難している」と言っています。これは最高に真実です。つまり三蔵には後世になって増やされた部分が少なからずあります。この非難者は、三蔵がどのようにできたか、どんな経緯があるか、ある人たちの手に落ちた時、どう改竄する機会があったかという歴史を知りません。歴史を勉強したことがありません。

 私は敢えて「時によって、三蔵に触れる権利や権力があったその時代の権力者によって、三蔵には新たに加えられた部分、あるいは新たに書き変えられた部分がある。だから新しい物が混じっている。混入している」と言います。しかしこれは大丈夫です。

 ブッダはカーラーマ経ではっきりと、「これは教典の中にあるからと言って信じてはいけない。たとえ三蔵で言われていても、ヤターブータサンマッパンニャー(真実を見る正しい智慧。如実正慧)の道理と合わなければ、切り捨てても良い」と言われているからです。

 ブッダが間もなく涅槃に入ろうとする時に、心配なさって、こうこう言う人がいても、すぐに信じてはいけない、タンマ(教え)とヴィナヤ(律)の一般の教えと照らし合わせて審査しなさいと言われ、マハーパデーサ(大法教)を審査の基準として残されました。

 「タンマとヴィナヤの一般の教えで調べて見て、試して見て、一致するようなら、それは正しい、私が言った、そして正しい発言と見なし、そうでなければ、教えている人の記憶違いであり、記憶違いの博学者であり、記憶違いの大長老であり、記憶違いの大長老集団と見なしなさい」。つまり、この人が言った、あの人が言った、あるいは教典の中にあると言うだけで信じさせません。

 私は、三蔵には追加された部分があると信じる権利があります。特に論蔵は新しい物で、後世で綴られた物です。今西洋人たちの間では、論蔵の内容は新しく編纂された物で、どう編纂されたか、広く知られています。私も同じです。

 興味があったら、三蔵のページをずっと開いて見てください。そうすれば、これは新しいという感覚が自然に生じます。それに、論蔵の幾つかの内容は、インド南部で起きた話について述べていて、仏暦五百年から六百年くらいの物もあります。こういうのをブッダが言ったと、あるいは初めからあったと見なすことはできません。このようになっています。

 しかし大丈夫です。三蔵で言っていても、あるいは三蔵で言っていなくても、その項目は滅苦ができ、滅苦の役に立つと検証できれば、どうぞ受け入れてください。本当のタンマと受け入れてください。しかしブッダが「たとえ私が言っても、すぐには信じてはいけない」と言われたことを忘れないでください。

 知性で熟慮熟考しなければならず、滅苦ができると見えるまで試したら、それから信じます。このようになっています。私は、三蔵の中にあるかないかには関心がありません。この論蔵の中身は、後に芽を出した物で、経蔵にも後に芽を出した物、増やした物があります。中には、涅槃の後の話を書いたと、非常にはっきり言っている経もあります。

 だから論蔵、あるいは三蔵のある部分には、後から加えた物があると主張させていただきます。しかしこういう話はあまり話したくありません。三蔵に執着している人たちに気力を失わせ、すぐに彼らは、一部分だけでなく、三蔵全体がどうにもならない物だとケチをつけるからです。

 一部分というのは、スッタ(経)と一致しない、ヴィナヤ(律)と一致しない内容で、ほとんどの教えと矛盾し、どうしても規定してある教えにならない物のことです。さて、三蔵に関わる教えはこのように捉えてください。あれこれ非難して時間を無駄にする必要はありません。さあ、次に何かありますか。



問題75 : 三蔵の内容を信じる前に試すと言う

質問 : 彼は先生が、「三蔵を信じる前に、三蔵の内容を試して見るべき」と言うと非難しています。ある人は、アビダンマに心酔しすぎですか。

答 : 今もそう主張します。たとえ三蔵の内容でも、カーラーマ経に従って、まず試して見て、それから信じるという言葉で、主張させていただきます。つまりその言葉が教典の中にあるというだけですぐには信じてはいけません。

 そして、ある人たちがアビダンマに夢中になりすぎているのも事実と主張します。ある人は後の時代の肉腫であるアビダンマに夢中になりすぎて、何も理解できないように観察して見える、と主張させていただきます。そのように、彼が言ったように主張させていただきます。さあ、他に言うことはありますか。



問題76 : アビダンマの勉強が足りない

質問 : 彼は先生のことを、「アビダンマの勉強が足りないから、先生の本は詳しくなく、そして間違った言葉の使い方がいっぱいだ。アビダンマを知悉していない証拠だ」と非難しています。これの真実はどうですか。

答 : 私には違うアビダンマがある、と答えさせていただきます。私には、膨れ上がったアビダンマ、ネズミの巣のアビダンマはありません。私には別のアビダンマ、空と無我の最高のアビダンマがあります。私が勉強したアビダンマは、こういうのだけです。言葉で、あるいは新しい言葉で膨れ上がったアビダンマは勉強しません。膨張したアビダンマの学習を認めないので、膨張したアビダンマには詳しくありません。

 私が良く知っているアビダンマは、「そのようになる」「執着してはいけない」「それは空であり、無我である」だけです。こういうアビダンマには最高に精通しています。こう答えさせていただきます。他の詳しいことは小さな本「アビダンマとは何か」にあるので、自分で読んでみてください。さて、他に言うことはありますか。



問題77 : 仏教とキリスト教には同調できる教えがある

質問 : 彼は先生のことを、キリストのタンマと仏教のタンマは同調できる、と言っていると非難しています。この真実はどうですか

答 : これは、非難している人が、仏教とキリスト教は同調できると信じていないことを表しています。仏教の勉強はカエルのシッポほどで、そしてキリスト教はまったく知らないこともあり得ます。だから彼は、仏教とキリスト教は同調できないと見ます。私は仏教もキリスト教も、できるだけ精一杯学ぶ努力をしています。

 私はそれらを同じと見ますよ。身勝手、あるいは自分という執着をなくさせる点が同じです。だから私は「自分のことばかり考えてはいけない。自分、自分の物という執着を駆除してしまいなさい。そして自分を自然であり、自然の法則である神様に捧げ、自分、自分の物があってはいけない。そうすれば苦はない」という、要旨で同調できると信じます。

 時々話したい話があります。ここへ来た神父さんがいたので、私は「あなたが首に掛けている十字架を仏教の要旨と捉えます」と言いました。神父さんが首に掛けている十字架は、仏教の要旨です。十字架は太い線でできていて、(アルファベットの)I と I を断つ線でできています。自分を断つこと、I を断つことは、仏教の要旨で、神父さんが首に掛けている十字架の形です。

 彼は微笑むだけで、認めませんでした。そして敢えて反論もしませんでした。タンマの深遠な部分では、仏教もキリスト教も、同様に自分を断つこと、自分、自分の物いう見方を断つことです。

 キリスト教の教えは自分を持ってはいけない、体、命、自分を消滅させてしまえば、神様と共に生きる自分、向こう岸へ脱出した自分があると教えます。私たちが自分を消滅させてしまえば、完璧に自分がなく、涅槃の状態で生きるのと同じで、仏教とキリスト教は同調できます。

 低い庶民の話を見ても、仏教とキリスト教は同調できます。つまり「身勝手ではいけない。他人を愛しなさい」です。しかしキリスト教は、神様が私たちを愛すように他人を愛す話を、非常に重視しています。私たち仏教徒は、ブッダが私たちを愛すように他人を愛すでしょうか。挫折しないでしょうか。私たちはブッダが私たちを愛すように他人を愛しません。喧嘩して仲違いをしないことも、私たちにはできません。

 キリスト教徒の方が良くできます。彼らは、神様が私たちを愛すように他人を愛します。この要旨を取り上げても、協調できます。困窮している人に、慈悲や援助の手を伸ばすことは、どの宗教も同じです。要するに身勝手でないことが同調できる宗教の要旨です。さて、他次に何がありますか。



問題78 : 八正道とカンマは神様

質問 : 彼は先生が「八正道とカンマは神様」と言っていると非難しています。これはどうですか。

答 : 私たちは言葉の使い方がそれぞれ違います。この非難している人は、杖をついて白髪で長い髭を蓄えた、人物である神様しか知りません。そういう神様しか知りません。私は、自然の法則を神様と言います。自然の法則には、姿形も色も大きさもなく、名の(抽象)物よりもっと名(抽象)です。その自然の法則が世界を創り、世界を護り、世界を破壊するので、自然の法則が神様です。

 自然の法則は至る所にあり、すべての物より大きく、すべてを一つにまとめた物であり、すべての物の出所であり、すべての根源です。それが神様ですが、私たちは自然の法則と呼びます。同じ義務を行なっている時には、きっと理解できます。それが、ある人たちが人物の形で説明する神様です。

 私たち仏教徒には人物でない神様があり、キリスト教、イスラム教、バラモン教、ヒンドゥー教は、人物である神様がいるので、彼らはそのように信じます。そう信じることに利益があるので、彼らは信じます。私たちは神様を人物と認めず、神様は自然の法則であり、名の物以上に名です。そして彼らの神様と同じように、何でもすることができます。これが自然の法則です。

 カンマの法則も神様で、聖諦、あるいは八正道も神様で、縁生も神様です。だから私は、法則は無為であり、無為の様式の物であり、確実不変であり、変化しないと明言します。そしてこの法則はブッダが生まれる前からありました。

 ブッダが生まれても生まれなくても、この法則はあり、そしてこの法則は、ブッダをこの世界に誕生させました。これほど威力がある自然の法則は神様です。彼は「八正道」あるいは「カンマ」という言葉を理解していないので、それが神様、あるいは自然の法則であるほど重要ということが見えません。

 「神様」というのはタイ語ですが、彼らの元の言葉ではヤホバと言います。ヘブライ語でヤホバと言い、ヤホバとは「私がいるようにいる」というだけの意味です。それはタタター(真如)です。タタターとは「このようである」という意味だけです。他のようにはなりません。「ヤホバ」という言葉は、このようであるだけ、他のようではないという意味です。

 それが神様です。もし彼らがこう意味づけをするなら、私もヤホバは無為のレベルの自然の法則であり、「このようである」だけで他のようではないと、自然の法則という言葉の意味で、このように決まっていて他にはならないと、受け入れて信仰します。

 次に私は、自然の法則はカンマの法則、あるいは聖諦の法則の形の中にいる神様なので、「自然の法則はどれも神様」と主張します。私たちはそれぞれ自分たちの神様を持つ方がいいです。軽蔑し侮辱しないで、手を繋いで世界を幸福にすることができます。

 どちらにも神様がいるので、人物であるブッダを彼らが持って行き、人物でない神様を私たちが持って来て、どれも威力があり権威があり、義務でも何でも同じにあります。

 そうそう、法則(ゴット)という言葉を長く発音して見ると、自然に God になります。そら。仏教教団員には、だの法則なので、人物でない神様がいます。ブッダは大悟し、そして私たちにこの種の神様、つまり自然の法則を教えました。仏教教団式に、自然の法則を神様と見なすことには、何の問題もありません。他に話すことはありますか。



問題79 : 神様とは涅槃

質問 : 彼は先生が、「神様は涅槃」と言っていると非難しています。この真実はどうですか。

答え : これは、私は一つの意味を捉えた言い方をしています。つまり向こうの人たちは、神様を彼らの最終目的と信じていて、彼らは最高に善い行ないをし、そして最終目標である神様の傍へ行って一緒に暮らします。私たち仏教教団員の最終目標は涅槃で、私たちが何でもすべての実践行動をすれば、最後には涅槃という目標があり、涅槃に到達します。

 それは同じ状態です。最終目標であり、彼らに目標である神様がいれば、私たちには目標である涅槃があるので、私は神様と涅槃を同じ「目標」という意味でたとえました。涅槃は完全に苦を滅すことで、この状態は、神様のように永遠に存在します。私たちは「目標」という意味の、涅槃である神様があります。

 他の意味は除外しなければなりません。世界を創る意味、世界を支配する意味などは除外し、「行かなければならない目標」という意味だけを取ります。彼らは行って神様と暮らし、私たちは涅槃と共に暮らします。これは自分があるという仮定の話し方です。

 自分がないタンマ語で言うなら、それでも同じです。「自分」をすっかり滅亡させてしまうので、同じ状態になります。つまり自分の滅亡、そして苦の滅亡になります。それから神様、あるいは涅槃、呼び方次第ですが、それに到達します。さあ。何かあれば話します。



問題80 : 四種類の間違った信念

質問 : 彼は、先生は四つ間違って信じていると非難しています。つまり①死んだ後再び生まれないと信じている。②自分はないと信じている。③アビダンマは批判すべきものと信じている。④仏教の教えとキリスト教の教えの要旨は、同調できると信じている。これには何と言われますか。

答 : 彼は、私に間違った見解が四つあると非難しています。第一項は、死んだ後再び生まれないと信じていることです。私は、彼らが言っているように、あるいは彼らが信じているような、死後に新しく生まれることを否定してはいません。

 無明がある一つ一つの心に、生まれることがあるので、一度自分が生まれば一つの生と言い、そしてまた自分が生まれれば、一つの生と呼びます。このように永久に生まれ、前の生の死の後に、新しく生まれると、私が認めていることが明白に見えます。

 心の中で縁起の状態の「生まれては死に、生まれては死に、生まれては死ぬこと」があります。(問題2で述べているように)。私は、新しく生まれることは、今生まれていることと同じだけ堪らないと見ているということです。身体が生まれること、棺に入ってまた生まれるか生まれないかという話には、興味を持ちたくありません。時間の無駄だからです。

 しかし庶民に初歩の道徳を教える時は使います。新しく生まれることはあり、善行をたくさんすれば、良い境遇に生まれると認めます。しかし私は生まれるのを止めたいと望み、生まれたくないので、興味を持つ必要はありません。

 次に二項目、彼は、私には「自分がない」という間違った見解があると非難しています。これは仏教の教えで、自分自身の支配下にある自分はなく、あるのは因果の法則で変転していくサンカーラ(行)だけなので、何も「自分」と執着するべきではありません。だからどこにも何も、本当の自分はいません。

 仮定で言えば同じように「自分はある」と言います。誰でも常に自分はあると言っているので、ブッダも時々「私」「如行」と言われました。

 しかし真実を言えば、ブッダは「私は世界の言い方に従って、世界の決まりごとに従って、人間が話すように言っただけで、その種の自分はありません。たとえ私がこのように「私」「如行」と言っても、これは仮定で言うので「自分はいる」と言いますが、第一義諦の真実で言えば自分はありません」と言われました。

 今自分がないと言えば、それは正しい話、つまり第一義諦の話し方で、庶民のように言えば、自分はあります。一日に何回か分からないほど「私」と言っているのに、それで自分を受け入れないと言うことはできません。

 次に三項目は、アビダンマはけなすべき物と信じている、です。それは、嘘の話をでっちあげた西洋人僧が言ったことで、彼は自分の本の中で、私がアビダンマをけなしていると書いています。

 私は「けなさない」と言います。時間の無駄であり、口がくたびれるだけです。けなさなくても、あれはああなのです。アビダンマはそうなのです。十分なブッダの言葉の形でなく、ブッダの言った言葉の状態ではないので、わざわざけなす必要はありません。

 アビダンマを非難しませんが、彼らが認めているようには認めません。文学や哲学を勉強するには、アビダンマは非常に利益があるので、アビダンマをけなす必要はありません。

 次は最後の項目、キリスト教と仏教の本質は同調できると信じている、です。この項目は今でも、キリスト教と仏教の要旨は同調できると主張します。どうぞこの項目を容認する心であってください。

 ここに座っている仏教教団員の誰もが、すべての宗教は身勝手でないこと、身勝手を無くさせるという項目の深い本質では一致すると、この項目の真実を見てください。後世の弟子たちが間違って説明したので、間違って同調できなくなり、闘争して奪い合うようになりました。さあ、次に話すことはありますか。



問題81 : 変わらない見解(問題80)

質問 : 彼は先生が、「さきほど言った四つの間違った見方を、長老の説明で仮定の話に変えるのを認めた」と言っています。これは何と言ったらいいですか。

答 : 意味が分かりません。それだけでは聞いて意味が分かりません。私は長老の、その西洋人の、という意味ですが、その説明を信じないし、聞こうとしないし、認めません。絶対に認めません。そしてタンマ語の「生」は、「俺、俺の物が生まれること」と、今までどおり主張します。そして自分はないと、自分と信じるべき物は何もないと信じます。

 そしてアビダンマをけなして時間を無駄にし、口をくたびれさせません。そして仏教、あるいはキリスト教の要旨は、身勝手でないこと、身勝手を無くすことで同調できます。このように主張しています。どのアーチャンの提案、あるいは説明でも、この考えを変えたことはありません。いつでも自分が、自分自身の先生です。さあ急いで、あと二つで終わりです。



問題82 遠回しに言って誤解させる

質問 : 彼は先生のことを、「率直に教えないで、新たに生まれることはないと誤解させるような教え方をする」と非難しています。これには何とおっしゃいますか。

答 : これはとても面白い話です。「新たに生まれることはない」と直接言わず、聞いた人が自分で、新しく生まれることはないと理解するように、間接的に教える。それは話しているとおりです。タンマ語式の、タンマ語で言う生まれることはあります。

 私は彼らが話している、彼らが信じている、ヒト語の誕生には興味がないので、そのように遠回しな教え方をしていません。考えているとおりに生まれることはたくさんある、そして無明があり、煩悩があり、欲望があって、「俺、俺の物」という取が生じる時はいつでもあると言っています。生まれることはいつでもあると、このように率直に言っています。

 回りくどく言う必要はありません。彼は悪口を言う種を探すので、「たくらみがあり、遠まわしでずるい教え方をする。言うことと意味が違う教え方をする」と問題にします。これはしたことがありません。そしてできません。さて、他に何かありますか。



問題83 : 「空っぽの心」という言葉の使い方

質問 : 彼は先生が、「空っぽの心」という言葉を誤解させるような使い方をすると非難しています。真実はどのようですか。

答 : 彼が私の説明を全部聞けば、誤解する余地はありません。なぜなら私は「空っぽの心」とは「自分、自分の物」という感覚がないこと、「俺、俺の物」という気持ちがないことと言っているからです。

 彼が理解できないのは、「何も考えない心が空っぽの心」というのに慣れているからです。彼が知っているのは、ロクデナシの空っぽの心で、ロクデナシの人が自分の言い訳をするために、空っぽはああではない、こうではない、と勝手に言っています。こういうのはありません。私に関係ありません。

 私が提唱する「空っぽの心」は、「世界のすべては空」と見える心、そして何も掴まない心が空っぽの心です。私はこの言葉はふさわしいと、そして誤解を招く言葉ではないと信じています。それは煩悩が空っぽのことですが、私は非常に短く「空っぽの心」と呼びます。

 空っぽという言葉は明白で十分で、仏教の正しい意味があるので、この「自分」という煩悩がない心を、私は「空っぽの心」と呼びます。それは何も掴まない心でもあります。しかしそのように短い意味の煩悩がからっぽではなく、何かを「私、私の物」と捉えないから、空っぽの心と呼びます。 

 私は長々と話して時間を無駄にしたくないので、略語のような、それ自体が謎めいた言葉、「空っぽの心」という言葉を使います。その意味を正しく勉強すれば、「空っぽの心」という言葉の意味が理解できます。たとえば、手が空っぽでなければ何かを掴んでいるし、何も掴んでいなければ空っぽです。

 だから「空っぽの心」は、何かを考えることができ、することも感じることもできますが、何も「自分」という意味で掌握しません。「空っぽの心」と呼ぶ物は、これしかありません。最高にふさわしく簡便な言葉、最高に正しい意味の言葉だと主張させていただきます。

 どうぞすべてをこのように理解してください。そして最後には、彼が非難していること、あるいは罵っていること、あるいは泥を投げつける策略を探していることはどれも、聞く人を賢くすると捉えてください。きっと徳になるに違いありません。三時間になりましたので、今回の講義は十分だと思います。夜の三時(午後九時)からの講義のために休憩します。これで今回のお話は終わらせていただきます。




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