問題45 : することすべてが罪悪

質問 : 彼は、先生のすることのすべてが、非常に大きな罪悪で、すべての人に対して恩知らずだと言っています。先生のいろんな説明は、幼稚な説明で、過去のいろんなアーチャンの説明はすべて間違っていると誤解している。先生は自分の考えをブッダの言葉だと言って独断で教える難癖好きな長老だ。先生のすることで役に立つ良い行動があれば、それは表向きだけ、人を騙して迷わせるだけで、認めることはできないと言います。これにはどう言いますか。

答 : これは本当に幾つも項目が重なっていますね。私のすることは非常に罪悪。みなさん自分で考えて見てください。私は今まで何十年もこうしてきました。すべてが非常に大きな罪か、それが本当かどうか、みなさん自身で判断してみてください。

 私がすべての人の恩を知らないと言うのは、それを言った人は多分、大衆が生活の面倒を見てくれているのに恩知らずで、彼らに害のあるものを与える、つまり間違った仏教を教え、彼らに害を与えるという意味でしょう。私がこれらのたくさんの人の恩を知らないというのも同じです。

 どう教えてきたか、庶民にどう教えてきたか、考えてみてください。彼らに損害を与えたと言うのは、何かあるでしょうか。彼らが強くなるよう、正しくなるよう、外部と内部の敵に抵抗できるよう、庶民が自分自身を護るものであるタンマを身につけるよう、庶民が苦から、あるいは凶悪な敵、つまり煩悩から脱出するよう教えただけです。

 私はこのような決意で、このように努力して、このように行動して、そして挫折しないでそれなりに成功しています。だから庶民の恩を知らないと見なすべきではありません。印刷された何百冊、何万ページの、いろんな本にある証拠を、ラジオで話したのも全部あるので、それらすべてに、庶民の恩知らずなことがあるか、あるいは庶民に害を与えた何かがどこかにあるか、調べてください。

 さて次の、私の説明が幼稚な説明と言うのは、どこが幼稚か、聞いている人が自分の知性で見ることにしましょう。空っぽの心の説明などは、稚拙な言葉ですか。本当に心が空っぽならブッダのもので、幼稚なら、本当には何も分かっていない人たちのものです。

 私の説明が幼稚なら、どの種の説明が幼稚でないか、比較して見ます。仮に私の説明がすべて幼稚だとして、どの種の説明が幼稚でないか比較し、誰の説明がブッダの言葉に最も近いか、あるいは同じか、検証して見ます。

 もしそれが、このように大きな権力でわざと非難し、わざと罵っているのだったら、話さなければならないことはありません。何も言わない方がいいです。タンマを信じないような話し方をするなら、タンマの教えを信じないなら、私は話さない方がいいです。

ブッダは他のディアラティーたちとタンマの会話をする時、「私は真実、タンマで話さなければならないので、違えば違うと言い、正しければ正しいと言います」。このように約束できれば、会話に応じました。私たちは、低劣な話で喧嘩して仲違いをする必要はありません。だからこれらの質問には答えない方がいいでしょう。

 次の項目は、私が過去の先生たちの説明はみんな間違っていると言って、軽蔑していると、彼は非難しています。それはありません。なぜなら私も、過去の先生の説明に依存しているからです。しかし使い物にならない先生たちの説明があれば、否定しなければならないので採用しません。どうしてかと聞かれれば、それは間違っていて、受け入れられないからと、言わなければなりません。これもあります。

 しかし先生たちの説明はすべて間違っていると、否定はしません。正しく、そして私が採用する部分もあります。それに私は、間違った説明でも利益があると見なします。間違いだと知ることができるからです。彼らが間違った説明をしても、それは間違っていると教えてくれるので、私にとって利益があります。このような利益があります。

 だから過去の先生たちはみんな、正しく説明しようという善意の意図があったと信じ、過去の先生たちの説明を消去しません。間違いがあっても、それが何だと言うのでしょう。それは当り前です。その方が善意で正しい説明をしようとしても、間違ってしまうことは、よくある普通のことです。

 話す必要がある過去の先生たち、たとえば清浄道論を書いたアーチャンは、賛同できるのもあり、賛同できないのもあることを認めます。ほとんどの人は、一字の誤りもないと清浄道論を容認していますが、私は同意できません。受け入れません。ある部分は誤りに違いないと信じ、ある部分は利益があるので使います。

 私がすべての先生たちの説明を否定すると咎めないでくさい。否定するのは同意しない物だけです。この項目に関して私を知っておいていただいた方がいいです。特にずっと後のアビダンマのアーチャンの説明には、同意しないもの、そして私の頭に入っていないものがあります。

これを、カーラーマ経の教えに反すので簡単に受け入れないと言います。カーラーマ経の教えはどんなか、自分で調べて勉強してください。私はカーラーマ経の教えに反すのを認めないので、真実を見る智慧もなく闇雲に信じ、何も考えずに受け入れ、すぐに受け入れるようなことはしません。

 次の項目は、彼は私のことを、うるさ型の長老で、自分の考えでブッダの言葉を独断する、と非難しています。こういうのができるように見えますか。自分の考えでブッダの言葉を独断するなんてことが、できるでしょうか。今の人はそれほど愚かではないので、誰にもできませんよ。現代の人は、何が何か判断できるので、誰もそこまではできません。

 そして考えてみてください。何でもケチをつけ、自分の考えでブッダの教えを終わりにするなんて、何のためにするのでしょう。ブッダの教えの言葉を、誰かが終わらせる術はありません。ブッダは挑戦するように、「どこの天人、悪魔、梵天も、誰も私の教えが間違っていると証明できる人はいない。全員そろっても、私の教えが間違っていると証明できない」と言っています。

だから、ブッダの教えをないものにできる人はいません。努力する人がいても、できるのは努力だけで、ブッダの教えを終わらせることはできません。私は不可能なことを努力するほどバカではありません。不可能なことは明らかです。そしてそのような努力をしたこともありません。

 次の項目は、彼は、その先生の利益になる善い行動は、あるなら表向きだけで、人を騙して迷わせるだけ、容認できないと言います。これも聞いているみなさんにお任せする方がいいです。。私に仮面があり、表向きがあり、みなさんを騙して間違って信じさせているかどうか、自分で見てください。

 私はみなさんに、ブッダは「私が言っても、このサマナ(出家)が自分の先生だからという理由だけで、すぐには信じてはいけない」と教え諭したと何度も繰り返し言っています。私はみなさんに、このように言っています。しょっちゅう言っているので、覚えているかもしれません。

 そしてあちらの派、こちらの派の先生があれこれ教えても、すぐには信じないで、四大法教を使って、それを引っ掻いたり均したりして見て、本当であり、厳しい目に耐えられたら、それから信じてください。私もこのようにみなさんに教えています。それで騙して信じさせる機会があるでしょうか。

 このカーラーマ経の話は、あまり教えられていないように見え、往々にして誘い合って隠しておきます。私は、「これを使いなさい。この教えで信じなさい」と暴露しました。そうすれば誰も騙せる人はいません。騙して簡単に信じさせられる人はいません。それに、私を騙す人だと非難することがあり得るか、あり得ないかは、みなさんにお任せます。

みなさんが私を信じるか、この非難している人を信じるかは自由です。自分で満足するように、どちらの側を信じるか、自分で判断してください。すべての真実はこのようになっています。みなさんはきっと、十分私を知っているので、もうほとんど、何も話す必要はないと言います。さあ、他に何かありますか。

 

問題46 : アビダンマを学んで、間違って教えていると知る

質問 : ある人たちは、先生にタンマを学んだことがあり、それからアビダンマを学んだら、先生の教えは間違っている、ディアラティーの教えだと知ったと言っています。これには何と言いますか。

答 : もしそうなら、個人的な真実の話です。どこかの誰かがそうなら、その人に聞いてください。私がその人を知ることはできません。アビダンマを学んで、私の教えが間違っていると、あるいはディアラティーの教えだと知ったというのは、実際にある事実、そして実際にどうなってきたかという真実に任せます。

膨れ上がったアビダンマ(論蔵)を学んだのなら、同じになる余地はなく、そして何が間違いで何が正しいか知る術はありません。ブッダの本当のアビダンマ(無上のダンマ)を学べば、私の教えは間違っていない、正しく教えていると、そしてこのディアラティーは、他のディアラティーではないと自然に分かります。 

だから、どうか本当のアビダンマを物差しに、判断基準にしてください。そうすればこの教えは間違っていないと分かります。これはタンマの話でなくなってしまいました。個人的な反論の話になってしまいました。考えて時間を無駄にする必要はありません。他に何かありますか。

 

問題47 : プッタタートはディアラティーの奴隷

質問 : 彼は、プッタタートはディアラティーの奴隷、裏切り者である奴隷、仏教徒に悪意があり、故意にブッダの言葉をねじ曲げ、そして密かにディアラティーの教えをプラタムに混入させると非難しています。これには何と言われますか。

答 : さて、プッタタートはディアラティーの奴隷は正しいです。しかし他のディアラティーでなく、ブッダディアラティーです。プッタタートはブッダティアラティー、つまりブッダの奴隷です。そしてブッダを裏切ったことは一度もありません。ブッダに、あるいはすべての仏教徒に悪意はありません。

すべての仏教教団員に対して善意があり、仏教教団員に、簡単にそして早くブッダの言葉を理解させたいと望み、他のディアラティーの教えを混入させて、このディアラティーの教えだと騙していません。このように主張します。

 これは非難の項目で、タンマの真実ではありません。タンマの話ではないので、話す必要はありません。これは人が人を罵ることなので、話さなくていいです。タンマに関係ありません。どちらを信じるか、みなさんにお任せします。私を信じるか、この非難している人を信じるか、自由に選んでください。話はこれで終わりです。さあ、他に何かありますか。

 

問題48 : 出家して六十年たってもまだ間違って教える

質問 : ここにいる人みんなが多分疑問に感じていると思うのですが、出家する前から今まで六十年以上もタンマを勉強しているのに、そして非難している人が生まれる前からと思われるのに、どうして先生はすべてを間違って知り、説明していると非難されるのでしょうか。非難している人は、何年もタンマを勉強していないのに、すべて正しく知り、正しく説明していると言うのは、どうでしょうか。

答 : あなたがそう疑問に感じたら、あなたがその人に質問する方が、私に聞くよりいいです。

 

問題49 : 論争はタンマの話ではない

質問 : 彼は正しいか間違いかをはっきりさせるために、論争しようと先生に挑戦してきたと聞いたことがあります。それが本当なら、先生は何と言いますか。

答 : そのような論争はバカな話で、ブッダはしてはいけないと教えています。論争はブッダが禁じていると、みなさん知ってください。なぜなら喧嘩して仲違いをすることだからです。私たちは仲違いをする必要はありません。話にならない時は、喧嘩して仲違いをするより、話にならないままの方がいいです。

 論争は、互いに物質的な危害を加え、苦しめ合うこと、つまり殺し合いに発展することもあります。だから反論、あるいは論争による戦いを好まないでください。ブッダは禁じ、悪の一つと見なしています。私が六十年以上勉強しているのに、何を話してもみんな間違っているのに、ある人は何年も勉強しないのに何を話しても正しいという項目は、もしかしたらあり得ます。

 あり得るかもしれないということを、言っておきます。私は六十年以上も勉強をして、何を話しても間違いで、ある人は二、三年しか学ばないのに、何を話しても正しいということは、あるかもしれません。

しかしあり得るかあり得ないかは、すぐには言わないで、自分で考えてみてください。仏教教団全員は、どういう形ならあるか、あるいは誰の場合はあるか観察して見て、検証して見て、自分の知識で熟慮して見ます。さて、この項目には答えません。何か他にありますか。

 

問題50 : 尊敬する人はみんな信じやすい人

質問 : 彼は、たくさんの人が先生を尊敬するのは、何も不思議なことではない、それらの人たちはみんな、浅い考えの信じやすい人ばかりだからと言います。これはどうですか。

答 : それはそれらの人によって違います。私を信じる人は愚かな人ばかりというのは、彼らが愚かか愚かでないか、見てみてください。幾ら話しても理解できない人も、その人はその人自身の知性があるので、愚かという訳ではありません。そして私もそういう人に話したいと思います。

つまり自分の知性がある種類の人です。ほとんどの人のように、少し話し始めると信じる、愚かで信じやすい人には話したくありません。その非難者もそうです。もしかしたら、信じやすく愚かな人にしか話したことがないのかもしれません。だからそう見るのです。

 いろんな言葉で印刷された、今までの教えの言葉、説明、いろんな解説を、これらの内容は愚かな人のためか、智慧のある人のためか、観察して見てください。彼らがこれらの内容を読んだ時満足し、喜んで受け入れ、学んで実践するから愚かなのか、あるいは智慧がある人か、自分で考えてみてください。答える必要はありません。

 

問題51 : 私のタンマに興味がある人は、すべて落ちぶれる

質問 : 彼は、注意して見た結果、先生の教えに興味がある人のほとんどは間違った生き方をし、ほとんど全員が落ちぶれていることが分かったが、先生と弟子たちはみな幸福で楽しく、全員丸々と太っていると言います。これはどうですか。

答 : 聞いて見てください。私が彼らを騙して、私たちは全員丸々太り、そしてここで教えを受けた人は、破滅や凋落に遭遇するばかり。見ると、答えなければならないことは何もありません。理由のない言いがかりだからです。そして実際にある証拠と矛盾します。

 教えを受けて実践をしている人はですね、繁栄しているように見えますよ。あるいは苦が減っている人ばかりで、破滅し落ちぶれた人はほとんどいません。それに私は、そろって幸福で楽しく、太っていることは望まず、一日一日何とか生きていくことを望みます。

 欲が少なくサントサ(知足)で生きているので、誰も騙したいと思わないし、そして誰かを騙す必要もありません。彼がこのように見るなら、彼の考えの問題で、私は説明する必要はありません。知りたい人は、言った人に質問してください。さて、他に何かありますか。

 

問題52 : 信じるように教え、それから歪曲する

質問 : 彼は、先生は長い時間を掛けて真実を開示し、多くの集団の人たちが信じたら、それから少しずつ、巧妙に真実から外れた方向へ歪曲しているので、観察しなければ気づかない、と言います。これには何と言いますか。

答 : これも聞いて見てください。私は良く正しく教え、人々が信じると裏切って歪曲し、それらの人を壊滅させているが、観察しなければ見えない、掴めないと言います。そう言っても、聞いている人にはみな自分の考えがあり、この話を批評する自由があります。私がそのような振る舞いをしたかしないか、どうぞ自由に批判してください。

彼の言葉には、矛盾があります。「公表するのは騙すものばかり」という言葉は、いまは「長い時間本物の真実を公表し」と主張します。このように矛盾してしまいます。多くのグループが信じると、裏切って歪曲し騙します。これはなぜするのか分かりません。さて、話す必要はありません。次に何かありますか。

 

問題53 : 毒を甘い菓子で包むようなことをすると言う

質問 : 彼が深く熟慮した結果、先生の布教の仕事のほとんどは、策略に満ちた権勢のあるサマナ(出家)の体に隠れたディアラティーの仕事で、毒を混ぜた甘い菓子のような謀略で仏教を消滅させる行為と見る、と言っています。これには何と言いますか。

答 : 彼は、私の仕事は権勢のあるサマナの体に隠れたディアラティーの仕事だと非難しています。多分彼は、仏教以外のディアラティーを意味していて、そして私は権勢のあるサマナとして仏教を教え、甘いお菓子に毒を混ぜるように、策略を駆使して人を騙します。

こういうのは、どうしたらできるでしょうか。これはタンマ、あるいは問題を一つ一つ判断しなければならないことで、全部まとめて話すことはできません。全部まとめて言うなら、他のディアラティーのものをブッダディアラティーのものに混入させることは絶対にない、と言います。本当は仏教を広める立場として感じたことを言います。そして仏教には、欺瞞は必要ありません。

 毒に砂糖をまぶすと言うのも、する必要はありません。仏教はそこまでしたくありません。それ自体が良いものであり素晴らしいものなので、劣るものを良いものに混入させることはできません。既に良いものなのに、代わりに劣るものを使うなど、知性のある仏教教団員の中でできることではありません。さて、この話は話す必要はありません。偏見で話す以外に、参考に話す真実はありません。

 

問題54 : 当代の仏教破壊

質問 : 彼は、先生の行動はこの時代の最高に公然とした仏教破壊だと言います。これにはどう答えますか。

答 : 公然とした仏教破壊だと非難しています。どこを破壊しているのか、考えてみてください。説明して見せてください。私には見えないので、正しく答えられません。今は密かに破壊すると非難し、今は公然と破壊すると非難します。次の問題にしましょう。

 

問題55 : 利益を損ねるのを恐れて、誰も反論しない

質問 : 彼は、先生が露骨に仏教を破壊しても、どの長老も、あるいは仏教徒協会の誰も、本気で先生に反論する勇者はいない。もしかしたら自分の利益に影響するのを恐れるからかもしれないと言います。これはどうですか。

答 : 見てください。これらの智者が私に反論しないのは、自分の利益が損なわれるのを恐れるから。これは誰かに過ちを塗りつけられないので、何も事情を知らない人に過ちを塗りつけます。彼らが私の教えに反論しないのは、自分の利益に影響するのを恐れるからではありません。

むしろどう反論したらいいか、あるいは抗議したらいいか分からないからです。長老や仏教徒協会の誰も、敢えて私の教えに反論しないのは、どう反論したら良いか分からないからで、自分の利益を損ねるのを恐れるからではありません。これには何一つ真実がないので、答える必要はありません。さて、次。

 

問題56 : パーリ語を学んだ僧の反論がない

質問 : 彼は、パーリ語の高い段をもつ若い僧が、先生の行動に反対、反抗しないのは、出世してチャオクン(僧の高い階位)になる妨げになるのを恐れるからだと言います。これにはどう言いますか。

答 : 更に大事になり、更に飛躍しました。若いパリエンの段を持つ僧が私に反抗しないのは、自分が出世してチャオクンになる妨げになるからと。私のどこに、誰かをチャオクンに任命する、あるいは推薦する権力があるでしょう。そんなのはありません。誰かをチャオクンに任命する権力などありません。

 若いパーリ語の段をもつ僧が反抗しないのは、そういう恐れからではありません。私に誰かをチャオクンに任命する権力はないのですから。彼らが反抗しないのはなぜか、推測して見てください。彼らはむしろ、賛同しているからです。パーリ語の段を持つそれらの若い僧たちは、自ら進んで、満足して私が書いた本をテキストにし、そして実践しているからです。

 ある仏教大学では、プッタタートの本の何冊かを、教科書として採用していると公表しています。こういうのもあります。若いパーリ語の段のある僧が、こういうことを恐れるなんてあり得ません。他に何かありますか。

 

問題57 : 満足するのは愚かな人か、左寄りの人だけ

質問 : 彼は、先生の教えは次の人の習性に叶っていると言っています。つまり知識が浅く智慧が少ない、軽はずみな仏教徒。進歩的な人。あるいは社会主義者たち。新左翼。頭が新しい、あるいは左に傾いた若者たち。北京にいるタイ国民の代弁者。科学の時代に追い付いていると勘違いしている人たち。これ以外の人は賛同しないと言っています。先生は何と言いますか。

答 : 私の言葉は、信じやすく智慧の少ない軽率な仏教徒だけが気に入ると言うのは、見てください。あり得ません。信じやすく智慧が少なく軽率な仏教徒を、私はいつも批判し、呪術と信じやすさを、いつでもからかっています。そしてそのように信じやすい仏教徒は、私の教えに満足しません。

 進歩的な人たち、あるいは新左翼、社会主義者がその教えを喜ぶと言うのも嘘です。私の所へ来る人を見たことがないからです。その種の人は、誰も私を訪ねて来ません。あるいは何人か話したことはあっても、満足しないで帰りました。

 私は仏教で極左主義に抵抗するので、中道である仏教、右でも左でもなく真ん中にある仏教を彼らに与えるので、彼らは満足しないで、そして帰ります。話が通じません。

 頭の新しい、左傾の若者というのは、さっきの繰り返しになります。頭の新しい左傾の若者が、私の教えを喜んだことはありません。もし偶然会話をし、納得すればその人は変わります。左寄りから真ん中になって、仏教教団員になります。

 北京にいるタイ国民の代弁者というのは、一度ありました。北京のラジオが、「タイのほとんどの人が行動している仏教は、正しくない。どうぞ智慧のある方の教えを信じてください」と言いました。私ともう一人。もう一人が誰かは知りません。忘れました。

それから頭が左傾、あるいは頭が右傾、それとも信じやすい頭かは知りませんが、北京のラジオの言葉をコピーして、それに、私が隠れコミュニストで、北京のコミュニストと手を繋いでいると書き加え、タイ中のお寺に配りました。そしてそれっきりです。それを信じる人は誰もいなかったからです。

北京のラジオがそう言ったのは、彼らはむしろ、仏教の教えを正しく選ぶことを知らないと、タイの仏教徒を罵った、あるいは侮辱したのです。私は北京へ何かを言って知らせるスポークスマンではありません。北京の彼らは、私が教えているのは正しい、鵜呑みに信じさせているのは止めてしまえばいい、と主張しました。

共謀、協力はありません。北京のラジオに何か利益があると言うなら、彼は彼自身の利益のためにしています。私は認識していません。

 次は、自分が科学の世界に追い付いていると勘違いしている人たちが、私の教えに満足していると言うのは、これは何か損害があるでしょうか。勘違いをしている人なら、その人が私の教えに興味を持つのは、それを正しくするためかも知れません。

その人が、自分は科学の面で進歩していると考えているというのは、確かではありません。今教育が行き渡っているので、その人が誤解しているとも言えるし、正しく理解しているとも言えます。非難者の、科学的な手法で仏教を教えるという非難に、その人は賛成しないかもしれません。

 しかし私は、「仏教は科学」と主張させていただきます。どうぞ心の面の科学的手法で、仏教を学んでください。これらの人たちのすべてが、愚かでバカで迷った人か、そうでないか、だから私の教えに興味があるのかは、答えたくありません。これ以上考えたくありません。お聞きのみなさんの自由にして、自分で判断して見てください。

私は、人間同士の話として、この人の批判に答えたくありません。タンマの話ではないので、止めます。他の話があれば、それを話す方がいいです。さあ。何かあれば話します。

 

問題58 : 白を黒というタイプのタンマの説明

質問 : 彼は、先生のタンマの説明は、白を黒、黒を白というような説明で、たとえば輪廻の中の涅槃などは、物質主義を基礎とする極左の人たちの心に叶うと言います。これには何と言いますか。

答 : これは著しい誤解です。輪廻の中に見つける涅槃は、黒を白、白を黒にする話ではありません。非常に真実の話で、黒は黒、白は白で、普通の庶民には見えない高いレベルの真実です。輪廻と切り離した涅槃は、出合うことができず、涅槃は輪廻を追い払うことができません。私がこう言うのは、それを成功させるため、つまり実践に応用するためです。

 非難者は、物質主義を基礎とする極左の人の意に叶うと非難しています。これは、彼も極左の人は、基礎に物質主義があるということを認めているということで、つまり賢くて、智慧のある人です。極左の物質主義的な基礎がなくても、輪廻の中の涅槃を理解しようとしません。

だからないものを、できないことを彼に強いてはいけません。私の方は、「涅槃は輪廻の中に発見し、最高の涼しさは燃えている溶鉱炉で見つける」と主張します。このレベルの智慧があれば見えます。しかし誰の心に叶うか叶わないかは、彼が何を選ぶか、彼次第にしておきます。さあ、これはこれで十分です。他に何かありますか。

 

問題59 :社会主義の考えを教えると非難する

質問 : 彼は先生の教えは、物質社会主義の考え方を奨励すると非難しています。これには何と言いますか。

答 : 「先生の教え」というのはどれか、どうかを曖昧にしたまま、物質社会主義者の考えを奨励すると非難しています。私はいつも、仏教は物質主義ではない、仏教は観念主義ではないと叫んでいます。つまり物質の方へ引き寄せず、心の方へも引き寄せず、真ん中にいる中道主義であり、タンマ主義です。こう教えています。だから物質主義を増やすことはあり得ません。話はこれだけです。他に何かありますか。

 

問題60 : コミュニストのスパイ

質問 : 彼は、先生と弟子グループが悪を賞賛し、そして今悪を行なっている。つまりコミュニストのスパイになって、仏教をますます早く滅亡させるので、彼らが急いで抵抗し攻撃しなければならない仏教の敵と見なす、と言っています。

答 : じゃあ、警察に言って早く捕まえさせ、急いでみんなで抵抗しましょう。これだけです。答はこれだけです。他に何かありますか。

 

問題61 : 自分を褒める話題をでっちあげる

質問 : 先生が長老に反論したと、なぜ仮定の話をする人がいるのでしょう。このことは、先生と関係ありますか。

答 : これはあなたの質問です。どこかの非難者のではありません。つまり、誤解している西洋人僧がいて、スガイコーロクで出家しているアメリカ人で、ヒト語だけで仏教を学び、自分に強く執着しています。私が、自我の話、無我の話、自分がある話、自分がない話で長老に反論したと、この人が話を作りあげました。

長老たち全員がどんなに諭してやっても、聞きません。これは全部でっちあげた話です。私はどこの長老にも、どんな形でも、反論したことはありません。この西洋人僧は明らかに話を作り上げています。彼の本を見れば分かります。さあ、次は何がありますか。

 

問題62 : 自分がない話で常軌を逸した考えがあると言う

質問 : 彼は先生のことを、自分がないことに関して常軌を逸した考え方をする人だと非難しています。

答 : 自分がないという考えは、常軌を逸していますか。もしそうなら、ブッダも常軌を逸しています。ブッダは、「あらゆる物に自分はない。有為の物は原因と縁の作出物であり、無為のものは、作りだす原因はない。この二種類とも、どれも自分と捉えるべきではない」と教えています。

 すべてのタンマは自分ではない、という考えのある人は、ブッダの言葉と同じ、ブッダの教えと同じ考えのある人です。これは非常に間違った質問です。答える必要はありません。さあ、他に何かありますか。

 

問題63 出家して久しくても、考え方は常軌を逸している

質問 : 彼は先生のことを、パーリ経典にある、出家して久しく、長い年月学び、有名で幸運に恵まれていても、考え方は常軌を逸していると言われる部類だと非難します。これには何と言われますか。

答 : これは私の「ブッダの言葉」の宝の山から、「出家して久しく、長い時間学び、非常に有名で幸運に恵まれていても、考え方は常軌を逸している」という言葉を引用しています。私の考えがどうか、常軌を逸しているか否か、みなさん自身でテストして見てください。

私が主張できるのは、ブッダの言葉と、ブッダの言葉を正確に紹介して教えアドバイスするよう、力の限り努力するだけです。出家して久しいこと、長い年月勉強したこと、有名なこと、幸運に恵まれることは目的でも何でもなく、ブッダに仕えて、正しい知識と考えと見方を教え、公開する義務があるだけです。

 私は、出家して久しく、たくさん勉強し、有名で、幸運に恵まれ、そして常軌を逸したという、劣悪な長老、ロクデナシな長老の部類ではありません。私は異常な考えはないと主張し、異常な考えを直すよう努力しています。万一気づいていないのだったら、それは意図的ではありません。しかし、常軌を逸しているかいないか、みなさん自身で検証してくださるようお願いします。さあ、他に何かありますか。

 

問題64 : 異教の人と非難する

質問 : 彼は、先生は異教徒だと、そして仏教を破壊すると非難しています。

答 : 庶民である聴衆のみなさん、聞いて、そして自由に答を出してください。さあ、次。

 

問題65 : 地獄極楽は譬えだけ

質問 : 彼は、先生は、地獄極楽、新たな生は本当にはない、比喩だけと教えると非難しています。

答 : 私はサンディティコ(自分で見ることができる)である本物が見えるように話しますが、彼は反対に比喩と見ます。昔から、地獄はこうであり、火があり、釜があり、棘の木があると、そう話されているのは比喩です。極楽も同じで、天女がいて、宮殿があり何かがあるというのも、情欲の幸福の価値を比較してみせる比喩です。

ここで私は、本当の地獄は心を焼き炙る煩悩の火で、本当の極楽は、善と徳がいっぱいで自分を拝め、自分に満足する気持ちだと言います。これが本当の極楽で、比喩ではありません。

この人の知識は、比喩と見てしまいます。本当のサンディティコ(自分で見ることができる)の真実を説明する時、彼は比喩と見てしまいます。彼が話すことができるのは、大昔からの比喩を本物と見ることなので、止めます。話す必要はありません。さあ、何か続けて話すことはありますか。

 

問題66 : どの種類の生き物にも、心の感覚がある

質問 : 彼は先生が、人間の自我には、極楽と地獄、そして天人、悪魔、梵天、そして再び生まれること、つまりこの人生のどの瞬間にも生まれることがあると教えていると非難しています。これにはどう言いますか。

答 : これも前の(問題5)と重複します。私は、天人、悪魔、梵天、地獄、極楽、何でも心の中、正しい心、あるいは間違っている心の感覚にあると言います。これはもう話しました。悪魔とは、何よりも執着する最高レベルの天人であり、彼が悪魔と呼ぶレベルの極楽も、梵天レベル、あるいは梵天界も、すべてサマーティ(三昧)がある人、あるいは禅定にいる人の心の中にあります。

 そう教えていると認めます。そしてこういうのが本当で正しく、サンディティコ(自分で見ることができる)で、利益があります。新しく生まれることとは、現世の人生のいつでも生じ、この世界、あるいは他のどの世界でも、「俺、俺のもの」と感じる心が生じれば、それが生まれることであり、生まれ変わることです。

 一日に何回もあり、一か月には何十回、何百回もあり、生涯では何万回、何十万回です。これが生まれること、心で生まれることです。母親の腹から生まれるより、もっと本当の誕生です。母親の腹から生まれるのは一回だけで、問題はありません。あるいは複雑困難な問題ではありません。

しかしキリもなく生まれることは、一日に何回も、一か月には何千回、生涯には何万回、何十万回も生まれ、これが問題です。尽きることなく生まれ、生まれる度に苦になるので、問題があります。この種の生まれることを熟慮判断しなければなりません。そうすれば滅苦ができます。

 だから、心に欲望や取があるとき、煩悩・欲望・取によって生れること、それが興味を持たなければならない生です。母の腹から生まれる生を、意味あるものにする生で、それが苦であり、問題でもあります。さあ、他に何かありますか。


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