問題36 : 飢えは極めて病気
質問 : 彼は「パーリにある「飢えは極めて病気」という、言葉の定義を、欲望、取を意味し、食べ物の飢えという意味でないことは小さな子供でも知っている」と言うのは、常軌を逸した勝手な解釈だと、先生を非難しています。真実はどうですか。
答 : この項目はパーリに、チカッチャ パラマ ロガとあり、タイ語にすると「飢えは極めて病気」という意味です。普通の言葉で言えば、飢えとは空腹、喉の渇き、食べ物を渇望することですが、もっと繊細な言葉、つまりタンマ語で言えば、欲情の飢え、心の味の飢え、つまり煩悩を意味します。これが煩悩の飢えと、普通のご飯や水の飢えです。
どちらが本当の病気でしょうか。「病気」という言葉は、原語の意味は「刺す」、刺して痛くするという意味です。まだ知らなかったら、とりあえず知ってしまってください。パーリ語の「ロガ」という言葉は、「刺して痛くする」という意味です。どちらの飢えの方が、刺して痛くするでしょうか。ご飯や水の飢えでしょうか。それとも煩悩の飢えでしょうか。
私は煩悩の飢えの方が、ご飯や水の飢えよりも刺して痛くすると思います。飢えがご飯や水を意味するなら、子供でも自然に知っていて、ブッダが悟らなければならないほど、苦しくありません。だから一般聴衆に、パーリで「飢えは最高の病気」と言っている飢えは、煩悩欲望を意味していると言います。それだけです。
彼がこの種の飢えを見ないで、普通の、子供も飢えれば泣くご飯や水の飢えと見るなら、それは自由です。それは彼の自由です。私は極めて病気である飢えの意味を、煩悩欲望の飢えとします。子供のご飯や水の飢えも、刺す、あるいは病気であることも事実です。しかし極めてでも、強烈でもありません。話はこれだけです。さあ次。
問題37 : 満腹して太った熊は飢えを知らない
質問 : 彼は、「生活を保障され丸々と太っている熊は、飢えという言葉の意味を正しく知らない」と、先生を非難しています。これはどうですか。
答 : 聞いて見てください。彼は私のことを「満腹して丸々と太った熊のように生活を保障されているので、食べ物がない飢えを知らない。知っているのは煩悩の飢えだけだ」と言っています。これは自分で聞いて見てください。飼われて丸々と太った熊でも、誰でも煩悩の飢えはあります。
身体は食べ物に飢えていなくても、煩悩で飢えています。食べ物で満腹し丸々太った熊も、煩悩で飢えているので、煩悩の飢えの方が他の飢えより本物で強烈と見なします。だから極めて病気と言ったブッダの言葉にふさわしいです。「極めて」という言葉まで頭につけています。
飢えはただの病気ではなく、極めて病気です。そしてどの種の飢えが極めて病気かと言えば、それは煩悩欲望の飢えでなければなりません。肉体的に太っていればいるほど、煩悩欲望面の飢えが突き刺すので、煩悩欲望の飢えの話を「極めて病気」とします。
ブッダはこのように意味し、そして深遠で庶民の言葉より、あるいは子どもの言葉より高尚なタンマの言葉で言われました。それらの言葉で飢えと言えば、ご飯と水の飢えだけで、何もタンマの言葉でなく、非常にヒト語すぎます。事実はこうです。他に何かありますか。
問題38 : 突然高いタンマを教える
質問 : 彼は先生のことを、「基礎のタンマを教えずに、突然高度なタンマである自分、自分の物を捨てるよう教えることは、自分とは何か、どう存在し、どう消滅するのか、から教え始めないで、先鞭をつける」と非難しています。この真実はどうですか。
答 : 俺、俺の物を捨てる話を教えるのは、何とか理解できる人にだけで、子供や、何もタンマを知らない人には、教えることはできません。自分があるよう、善い自分があるよう教える基礎の教えは、どこででも教えられています。彼らが教えているので、どこにでも俺、俺の物がある人が、溢れるほど、ひしめいているほどです。
私が重複して教えることには何の利益もないので、俺、俺の物の話を教えます。苦は、俺、俺の物があることから生じるからです。誤解、考え違い、見間違い、掴み間違いにすぎない「俺、俺の物」は、無明が介入して心を支配し、俺、俺の物と感じさせます。このレベルを教えるには、俺、俺の物を持ったことがあり、それなりに苦を体験した人でなければなりません。
私は、自分とは何かを教えています。教えなくはありません。つまり心の中のマヤカシの一種で、考え、見方、信念、そのように掌握すること、それが俺です。それはマヤカシで、煩悩がある時だけあり、煩悩が消えれば消えてしまいます。
次に私がはっきり明言したいのは、俺、俺の物の教えは、高度なタンマであることは事実ですが、どのレベルでも使わなければならないということです。なぜなら、俺が生まれればいつでも、俺の物が生まれればいつでも、ほとんど死にそうだからです。一般の人を見てください。
自分、自分の物が生まれればいつでも苦しみます。イライラして眠れず、苦なので、一般の段階のこの世界で生きるために、俺、俺の物を減らすことを知らなければなりません。俺、俺の物を減らすことを知れば、苦も減ります。
幼い子供でも著しく俺、俺の物があれば、非常にヤクザになり、そして良く泣きます。俺、俺の物の望みどおりになることは何もないので、その子が、俺、俺の物に執着すれば、突然乱暴をし、しょっちゅう他人に危害を加えます。
俺の物に執着すれば、自分の所有物に変化が生じた時、泣かなければなりません。壊れた時、消耗した時、泣かなければなりません。だから子供も、俺、俺の物に関する知識が、適度になければなりません。俺の物が生じて、それが多すぎれば狂人と同じで、自分自身を傷つけます。この著しい俺は、確実に神経の病気で、著しい俺の物も、確実に神経の病気です。
だから私たちは、どんな感覚で所有すべきか、お金や物や何を所有するにも、どう考えれば自分に危険がないか、ちょうど良い程度を知らなければなりません。この「俺、俺の物」は、それを管理することを知らなければ噛まれます。所有者は破滅し、非常にバカみたいな精神病になります。
幸運にも私たちの先祖はタンマを知り、仏教を知り、適度に俺を管理し、俺の物を管理する伝統習慣を作りました。私たちは彼らの子や孫に生まれ、伝統に従って行動すれば、知らないうちにその知識が身についたので、適切に、便利に、快適に暮らすことができ、神経の病気にならず、狂いませんでした。今は自殺するほど、遊びのように自分を傷つけるほど狂っている人がいます。
これは狂っています。俺、俺の物の話を知りません。この話をそれなりに理解していれば、今たくさんあるような自殺はありません。そして彼らは、自殺しなくても済む方向で解決することを知ります。自殺には何の利益もありません。俺は狂っているので、自殺します。
これは適切に教えなければなりません。凡人の段階でも、適度な知識がなければなりません。そうすれば、しょっちゅう涙で膝小僧を濡らすことはありません。そして高度になった時に捨てれば、俺、俺の物を捨てることで、聖向聖果に到達します。
パーリ(ブッダの言葉である経)では響きの良い言葉で、アハンカーラ(我慢) ママンカーラ(我所有) マーナヌサヤ(マンス隋眠)と言い、「私、私の物があると執着する習性」という意味です。こういう長い呼び方をします。自分があり、自分の物があると執着する習慣。それが俺、俺の物です。
泣かないために、自殺しないために、神経の病気にならないために、一般の段階でそれなりに教えるべきと主張させていただきます。成績や何やらに執着しすぎれば、子供も自殺できます。私たちは、子供にもそれなりに教えるべきです。
だから私はこれからも状況に応じて、俺、俺の物を捨てる話を教える、と主張させていただきます。そしてレベルとして何も間違っていません。話はこうです。さあ、他の話題にしましょう。
問題39 : 涅槃と地獄天国は心の中にある
質問 : 彼は先生のことを、「涅槃は煩悩のない心にあると言うのも、あるいは天国は心にあり、地獄は心にあると言うのも、そう教えることはブッダの言葉を歪曲することであり、詭弁を弄した誤った説明であり、二つの見地、二股の説明なので、非常に危険と見なす」と、非難しています。これには何とおっしゃいますか。
答 : 天国は胸にあり、地獄は心にあり、涅槃は到達した心にあります。これは私よりずっと前から、先祖がそう言っています。天国は胸にあり、地獄は心にあると初めて言ったのは私ではありません。昔から、タンマを理解していた私たちタイの先祖は、本当にそう見ていたので、そう言いました。
涅槃が心にあると言うのは、涅槃は心で感じ、心で触れることができるからです。煩悩が消滅することが涅槃であり、それを心で感じ、心で触れることができます。心で感じれば心にあります。しかし煩悩欲望、取が消滅した心でなければなりません。
「天国は胸にあり、地獄は心にある」は、ブッダもアーヤタニッカナラク アーヤタニッカサワンガ=六処(目、耳、鼻、舌、体、心)にある地獄、天国と朝お話した(問題5)ように教えています。言われています。ブッダは、地獄、あるいは天国は私たちの内部にあり、私たちの外部にではないと説明されています。
目・耳・鼻・舌・体・心が誤ったことをすれば、そこで地獄になり、目・耳・鼻・舌・体・心で正しい行動をすれば、そこで天国になります。ブッダの言葉ではそう言っています。
だから私たちの先祖が何世代もの間、そのように言い伝えてきたのは、ブッダの言葉を歪曲して来たのではありません。私もブッダの言葉を歪曲していません。ブッダが言われたように言っています。そして先祖たちのように言えば、昔から「天国は胸に、地獄は心にある」と、このように言っていました。
「地獄は地下に、天国は空の上にある」と言う人たちは、何も知らず、何も知らない人たちが話すこと、言い伝えていることを、そのまま信じているだけです。それに、ブッダの時代以前から言われています。地獄は地下に、天国は空の上にというのは、ブッダの時代以前から言い伝えられています。
そして庶民の言葉で、何も知らない人の言葉です。恐れさせるためにそう言った、子供の道徳の効果があるだけで、大人の第一義諦としては、使い物になりません。それは心の中にあり、心の中を焼き炙っているからです。
そしてもう一度、私は天国も欲しくないと、知ってください。すごい苦痛の話なので地獄も欲しくなく、誘惑し騙す話なので天国も欲しくなく、私は天国より上、つまり涅槃にいたいと望みます。そしてそれは心で感じることができます。心で感じられるので利益があります。心で感じられなければ何の利益もありません。
今涅槃に利益があるのは、まったく苦がないと心で感じ、触れることができるからです。心で感じることができるのに、心にないとするなら、どこにあると言うのでしょう。だから「天国は胸に、地獄は心にある」と言うのは、ブッダの言葉を歪曲することでも、詭弁でも、二つの見地の話し方でもなく、サンディティコ(自分で見ることができる)であり、最高に真実である言い方です。
愚かならサンディティコでないので理解できません。理解できるのは、自分の心で明白に見える人たちだけです。サンディティコ(自分で見ることができる)なら、天国は胸に地獄は心にあり、煩悩の滅亡を感じ、心で触れた時、涅槃は心にあると見ることができます。話はこれだけです。
ブッダの言葉を歪曲しておらず、揺らぎ、騙す、二つの意味の、曖昧な話し方でなく、「天国は胸に、地獄は心にあり、涅槃は心で感じる」とはっきり、率直に言っています。話はこれだけです。さあ、他に何かありますか。
問題40 : 俺、俺の物は不穏当な語句
質問 : 彼は「俺、俺の物という言葉はヤクザな言葉、低劣さを表す異常な言葉で、不穏当な語句と見なす」と先生を非難しています。これには何と言いますか。
答 : 「俺、俺の物」という言葉は「俺」という所に問題があります。俺という言葉が下品か下品でないかは言語学の問題です。タイ語を良く知っていれば、ラームカムヘン王のスコータイ時代には丁寧な言葉で、公用語だったことが分かります。この「俺」という言葉は普通の言葉で、何も下品で粗暴な言葉ではありません。
「俺の父の名はシーインタラーティット、俺の母の名はナーンルアンと言い」。これは勅旨を刻んだ碑文です。あるいはスコータイ時代に使われた一般的な言葉です。「俺」という言葉は後の時代に言語が変化して、下品になったばかりです。
分かりました。この「俺」という言葉が下品な言葉であることは私も認めます。しかし「自分、自分の物」という気持ちは心が正常の状態の時で、心が煮えたぎると、「自分、自分の物」が「俺、俺の物」になるということを、簡単に早く深く理解させたいと、私は願っています。
「自分、自分の物」と強く執着して最高に煮えたぎると「俺、俺の物」になります。そして一般の人が、それは最高の苦で、最高の思い込みと理解できるよう意味を説明したいと思っています。彼がヤクザで不穏当な言葉だと非難していることに関しては、私には、下品な言葉、ヤクザな言葉として使う意図はなく、極度に「自分、自分の物」と、全身全霊で思い込めば、いつでも「俺、俺の物」という意味になると教えたいです。
真実を簡単に見えるようにする以外には、誰かを騙さなければならない話ではありません。何か利益を追求する、あるいは誰かを攻撃する話でもないのに、どうして不穏当な言葉と言うのでしょう。そして怒った時、極度に貪欲な時、あるいは非常に愚かな時、「俺」「俺の物」という感覚のない人がいるでしょうか。
全員です。誰でもひどく怒っている時、著しく貪欲な時、極度に愚かな時、「自分」「私」という普通の意味は「俺」になります。あるいは「自分の、私の」は、「俺の」になります。だから誰でも俺という物の貌がどんなかを、「俺、俺の物」を知るべきです。「俺とは何だろう」、「俺が生じるとどう熱くなるのか」、内面を見て内面を知り、それを排除し、減らし、防いでしまってください。
見えれば、私が俺、俺の物と呼ぶ物の猛威を恐れるようになります。乱暴な言葉にしたくないし、下品な言葉にする意図もないので、叱責する話ではなく、タンマを簡単に早く理解させる助けになります。この話の真実はこのようです。他に何かありますか。
問題41 : 深遠な物を簡単に説明する
質問 : 彼は「世俗の流れに逆らう深遠なブッダの言葉を、誰にでも理解できる簡単な説明をするよう努めているのは、ディアラティーの世界の流れに従った簡単なタンマの説明だ」と先生を非難しています。これはどうですか。
答 : 深いブッダの言葉を、簡単に説明するのは、私の狙いです。深いブッダの言葉を簡単に説明するよう努めることは、私が目指すことと認めます。深遠な物は、庶民の理解のレベルでないので、あるいは一般の人の心の流れに逆らうと言い、理解できません。私が一般の人の心の流れに合わせて、何とか理解できるように説明するには、もう少し簡単に、何とか理解できるようにしなければなりません。
私はこれからも深遠なブッダの言葉を簡単に説明する努力をします。ブッダ以外のディアラティーの人たちにも、この非難者、あるいはこの質問者に理解できないくらい深い言葉があるので、愚かに、他のディアラティーたちは簡単で浅い話ばかりと思わないでください。
「世界は不変、不変でない、世界は消滅する、消滅しない、死んで生まれる、生まれない」話について話す他のディアラティーは、この種の人が理解できないほど深い話をします。これはディアラティー、あるいは他のディアラティーという言葉を理解していないことを露呈する発言と言います。
誤った見解の人たちにも、誤った見解式の説明、あるいは深い言葉があります。他の教義を、他のディアラティーの話を、自分で調べて見てください。三蔵で述べられている、特に私たちがナックタム(比丘の試験)の教科書で学んだことがある、六人のアーチャンの教義は、正しいか誤りかが違うだけで、簡単な話ではなく、簡単に説明できません。私は正しくし、何とか一般の人が理解できるように、そして役に立つように簡単にしたいです。
深い物を、誰もが何とか理解できるよう、いつでも簡単に説明するよう努力していると、主張させていただくと言います。このようにするのは、簡単ではありません。簡単なことではありません。簡単にできると誤解しないでください。それは、私が簡単に説明したブッダの言葉の、その難しさと同じだけ難しいです。他に何かありますか。
問題42 : アビダンマ(論蔵)はブッダの言葉ではない
質問 : 彼は先生が、アビダンマはブッダの言葉ではないと言っていると非難しています。これの真実はどうですか。
答 : これも今朝(問題10)話しました。アビダンマ全部、部分も全体系も、海に捨ててしまっても、世界の苦を絶滅させる実践の知識は、何も欠ける物はありません。ブッダの言葉は滅苦の説明でなければなりません。そして膨れ上がっていません。アビダンマはブッダの言葉の形をしてなく、経蔵の言葉を借りて来て、説明で膨れ上がらせています。
論蔵の説明のどの言葉も、遡求していくと経蔵に元の言葉があり、それを説明して膨れ上がらせました。私は、ブッダの言葉の形をしていないと、あるいはブッダの元々の言葉ではないと見なします。論蔵の言語の規則は、経蔵や律蔵のブッダの発言の形ではなく、論理学、あるいは心理学の言葉の羅列です。
開いて見れば、誰でも自分で見ることができます。真実は、ある内容に、滅苦に必要のない説明をだらだらと塗り重ねた物です。これらはすべて海に捨てても構わない、この世界は完璧な滅苦の教えに関して何も欠けないと言います。
失敬。論蔵家がこの中に座っておられたら、内心で私を罵っているかもしれません。しかしひるまず、これからもこう言い続けます。あなたのアビダンマのすべてを海に捨てても構いません。この世界は滅苦のための何も不足しませんと。
アビダンマについて言えば、あなたが誉めちぎり信仰し、アビダンマを知らないと言って他人を侮辱するアビダンマではなく、本当のアビダンマ(論蔵という名詞ではなく、無上のタンマという意味)と言わなければなりません。本当のアビダンマは空の話、空っぽの心、俺、俺の物のない話、これが本当のアビダンマ、無上のタンマです。
二三言で十分です。ウチワヤシの葉に書いた四万二千も作る必要ありません。ほとんど背負っていけません。それが膨れ上がったアビダンマです。本当のアビダンマは、「自分がない」自分が空であること、あるいは「そのよう(真如)」に集約されて残っています。
自分があって、偉大な善ばかり強烈に求めていれば、アビダンマ(無上のタンマ)にはなれません。すべては「そのよう」「それだけのこと」に集約されています。自分と掌握することはできず、人物と捉えることもできないので、細かく分類して時間を無駄にする必要はありません。
あるいは「空」という言葉を使ってもいいです。それが本当のアビダンマ、あるいは最高のアビダンマです。あるいは「タタター(真如=そのよう)」という言葉を使います。それが至高のアビダンマです。
こういうアビタンマは、仏教の要旨なので、海へ捨てることはできません。ブッダは「スンヤトー ロガン アヴェーカッス サター サトー、あなたは世界を空と見るサティを、いつでも持っていなさい、モッカラーチャさん」と言われています。だから空の話、自分がない物と見ることは非常に重要です。これが本当のアビダンマです。
膨れ上がったアビダンマは、それぞれの心の特質に執着するために、心、精神を百にも千にも分類しています。そういうのは、どうしたら自分を脱すことができるか説明していないので、時間の無駄で、必要を越えた哲学、言語学、論理学、心理学の話になります。証人になってください。私は「必要以上」の物は膨れ上がっていると言います。
経蔵の言葉を説明の基礎にしているので、何も利益がない訳ではありません。それで見てください。アビダンマで説明されているのは、経蔵の物より劣ります。だから私は「このアビダンマはブッダの言葉ではなく、ブッダの言葉と抱き合わせに説明し直した言葉」と言います。そして律蔵や経蔵で述べられている言葉のような、ブッダの言葉の形と言うことはできません。
彼らが私を「アビダンマを信じない。認めない」と謗るなら、彼らのそしりを受けます。私の心は本当には信じていないので、何とも言いようがありません。だから相変わらず、アビダンマはブッダの言葉の形にはないと主張させていただきます。あるいは彼が今回非難しているように、「アビダンマは本当のブッダの言葉ではなく、必要以上に説明を加え、説明で膨れ上がらせたブッダの言葉」と言い直してもいいです。
もっと詳しいことは「アビダンマとは何か」という講義の中にあります。印刷されているので、自分で読むことができます。真実はこのようになっています。他に何かありますか。
問題43 : 「空っぽの心」という言葉について
質問 : 彼は先生が「最高のブッダの言葉は空っぽの心だと言っている」と非難しています。これにはどう言いますか。
答 : 「空っぽの心」という言葉は、私たちが学びやすく、憶えやすく、話しやすく使うための言葉です。「空っぽの心」という言葉は、(経の中に)直接文字としてはありませんが、そのように要約できる意味があります。これはみなさん良く聞いてください。「空っぽ、から」という言葉は、仏教で最高の言葉、つまり自分がないことです。
ロクでもない空っぽ、あるいは何もない空っぽ、何も考えがない空っぽではありません。それはここで言っている「空っぽの心」ではありません。ここで言うからっぽの心は、「俺、俺の物」という執着が空っぽの心で、心は何でも考えること、思うこと、することができます。
「俺、俺の物」という理解だけがないことを、空っぽの心と呼びます。ブッダが「世界をカラの物と見なさい」、あるいは「空とは空っぽだ」と言ったことに由来します。何が空っぽかについて、ブッダは「世界に自分はカラで、自分の物もカラ」と言われています。
「世界をカラの物と見なさい」とブッダは強調し、教え、お願いし、あるいは励ましか何かをしました。それは自分という意味が空っぽのこと、自分の物という意味が空っぽのことです。心がすべての物を、このように「自分はない。自分の物はない」と見れば、心は何かを掴んで「俺、俺の物」と執着することを知りません。
何かを掴んで「俺、俺の物」にしない心を、私は「空っぽの心」と呼びます。心が何かを掴んで「俺、俺の物」にすれば、心は空っぽではありません。掌握している物に心が囚われているからです。だから空っぽの心という言葉は、「あなたは世界を空の物と見なさい」「世界に自分、自分の物はない」など、ブッダの言葉のいろんな項目をアレンジした言葉です。
心が、世界には「自分、自分の物」はないと見れば、自然に何かを掴んで執着しなくなります。こういうのを私は「空っぽの心」と呼びます。何かを考えることはできますが、自分の意味はありません。心の中に自分の意味の執着はありませんが、社会と連絡しなければならない時、口では庶民の言葉で話さなければならないので、「私の家、私のお金」と言うこともあります。
あるいは自分の利益を維持するなど、裁判になれば自分の権利を主張することも、俗人として、庶民としてできます。しかし心の中では、本当には、それを自分のお金や財産と捉えないでください。噛みつかれて心の中が痛みます。
口では「私の子」と言うかも知れませんが、タンマを知る心の中ではいないと、「自分の子はいない」と、「俺の子という意味はない」と見ます。それはすべてイダッパチャヤター(因果。または縁生)の物です。列をなして出てきた子や孫は、すべてイダッパチャヤター(因果)の物ばかりです。俺の物ではありません。
この真実が見えていれば、口では俺の子と言っても、俺の子と呼んでも、法に従って主張する時は、俺の子と権利を主張しなければなりませんが、心の中に「俺、俺の物」という理解はありません。財産やお金、荷物も同じです。自分、自分の物と捉えている時はいつでも苦があり、心で俺、俺の物と捉えなければ、苦にはなりません。
お金を銀行に預けても、俺の物と捉えていれば眠れず、必ず苦があり、幾らもしないうちに神経の病気になります。これが俺、俺の物に関する問題です。こうなっています。それが心にいっぱいあれば、心は空っぽでなく、まったくなければ、心は空っぽです。心が空っぽなら快適で、穏やかで、良く眠れ、そして幸福で苦はありません。
これが空っぽの心です。私は、教育のために最高にふさわしく、絶妙で、最高に簡単な言葉と信じます。しかしロクでもない空っぽの心は例外です。ロクでもない空っぽの心は、ロクデナシの逃げ道です。ロクデナシは言い訳するための逃げ道にするので、ロクデナシの空っぽの心と言います。何でも好きにできる、法律違反ではない、罪ではない、何でもないと言い訳に使います。
こういうのはロクデナシの空っぽの心で、空っぽなのは口だけです。口では空っぽと言っても、心は精いっぱい執着しています。これはロクデナシの空っぽの心です。本当の空っぽの心は、何も言う必要はありません。口をつぐんで「心は空っぽだ、何が空っぽだ」と言う必要はありません。心が何も、自分の物として掴んでいないだけで十分です。
次に通常、正常で普通の時、私たちの心は、自然の空になっているということを、詳しく説明したいと思います。この辺に座っているみなさんは全員、今心は空っぽで、何かを「俺、俺の物」と捉えていません。そういう心だから、私が話すことを聞いて意味が分かります。何かが「自分、自分の物」になると、心は空っぽでなくなり、その人は私が話していることの意味が分からなくなります。そして煩く感じます。
今は心に俺、俺の物がないので、私が話していることがだいたい理解できるので、利益があります。それが空っぽの心の利益です。そして眠れます。心が空っぽでない人は、心が空っぽでなければ眠れません。心が空っぽでないので、睡眠薬を何錠飲んでも眠れません。酷くなれば薬をたくさん飲んで死にます。
私たちが生きていられるのは、神経の病気にならないのは、心に自然の空があるからと、多少公正に知ってください。自然による空であり、自然の力によって「俺、俺の物」が生まれません。他所からここへ来た人などは、ここへ来ると、「ああ何て、たとえようも無いほど気持ちが良いのだろう」と言います。
この辺の自然がその人の心を取り囲んで空っぽにしていることを、背後のいろんな家のことを忘れさせていることを知りません。心は何も掌握せず、何も考えず、何も捉えていないので最高に爽快です。ここに座ると、ここの石に座ると、どうしてとても気持ちが良いのでしょう。
すべての自然が、木や石や土や砂や何もかもが心を取り囲んで、家からずっと握りしめてきた物を空っぽにしてくれるので、家にいる時憂鬱だった人も、ここへ来ると空っぽになるので、憂鬱が晴れ、言いようもないほど気持ち良くなります。
なぜか分かりませんが気持ち良く感じます。このように空っぽの心の人は、苦を感じないで熟睡でき、何をしても良くできます。計算をしても良くでき、勉強も良くでき、どんな仕事も良くできます。俺、俺の物が煮えたぎることが、空になっているからです。
だから今朝「何でも俺、俺の物の期待でしてはいけない。俺、俺の物を追い出す理性を持ちなさい」と言いました。仕事は知性でし、あれこれ期待しないでください。あれこれ飢えないでください。空っぽでなくなります。期待しなければ仕事は良くなり、良い仕事ができ、良い結果になります。
そして働くことに喜びがあります。これを「空っぽの心で働けば、苦はない」と言います。反対に働くことに幸福があり、そしてその仕事は良い結果になります。これが、ブッダの教えの言葉の形を変えた空っぽの心です。ロクデナシは知りません。知っているのは、責任逃れをするための、他人を侵害する言い訳にするための、ロクでもない空っぽの心だけです。
それは何の関係もありません。それは彼のロクでもない空っぽの心です。彼が空っぽの心のことで私を罵り、泥の塊を時々投げつけるのは、彼のロクでもない空っぽの心です。私はそのように教えたことはありません。そのように提唱したこともありません。
「あなたは世界を空っぽの物と見なさい」という、ブッダの言葉に従った空っぽの心だけを教えています。何が空っぽかは、「俺、俺の物」という意味が空っぽです。俺、俺の物という意味がなければ、心は何に執着したら良いか分からないので、何にも執着しません。だから空っぽです。これが空っぽの心です。
自分への執着がなければ、死はあなたに何もできません。死ぬ自分がないので、閻魔大王にあなたは見えません。あなたには自分がなく、何も「自分、自分の物」と掌握しないからです。死に意味があるのは、自分、自分の物である何かがある時です。
だから「自分、自分の物」と理解しなければ、死はこの心と出合いません。だから死のない類の死で、あるのはイダッパチャヤター(因果)による変化だけで、死人である自分はいません。死んで行く自分はどこにもいないので、死の恐怖もありません。だから死の兆しであるいろんな物がよぎっても恐ろしくありません。驚きもせず、ぞっとすることもなく、どんな恐怖で戦慄することもありません。
これが空っぽの心の人の状態です。少し空っぽなら少し幸福で、とても空っぽならとても幸福で、最高に空っぽなら阿羅漢になるだけです。我語取を抜き取るという意味で自我の見解を抜き取れば、阿羅漢になるだけです。
ブッダの至高のタンマは、すべての物を「自分、自分の物」という意味はないと見る心にある空の話です。この項目が本当に至高のタンマです。空を主張しているので、仏教の中の最高の話であり、「そういうこと(真如)」を表し、自分がなく自分の物もなく、煩悩の基盤がないので、煩悩が生じることはできません。真実はこれだけです。他に話すことはありますか。
問題44 : コミュニストが来ても仏教は存続できる
質問 : 彼は先生が「コミュニストが来ても仏教は存続できる」と言っていると、非難しています。これの真実はどうですか。
答 : 彼は私が、コミュニストが来ても仏教は存続できると言ったと非難しています。これは本当です。本当にそう言いました。仏教は壊れ易いガラスのように、脆くはないからです。仏教は盤石で、どんな敵の危害にも耐えられます。
仏教は卵の殻、あるいは何かちょっとぶつかる物があると割れてしまう薄いガラスのように壊れやすい物ではありません。仏教は自然の法則であり、自然の法則と一致するので盤石であり、盤石な自然の正しさがあります。十のコミュニストを来させても、岸に打ち寄せる波のように、自ら砕けて散ります。
こう話すだけでは、こう言うと誰もが「勝手に言っている。何とでも言える」と言います。しかし説明するにはちょっと時間が必要です。仏教は愛し合うよう、上下貴賎の格差はあっても穏やかに暮らすよう教えます。たとえば大木も、根元にあるケバケバした灌木と共存しています。非常に格差がありますが、愛情があるので共存できます。
こういう愛情は、コミュニストの集団にはありません。コミュニストは武器で人を掻きまわして均等にするだけです。それは仏教ではありません。コミュニストが慈悲と愛の教義に触れても、タンマを破壊できずに四散すると、私は信じます。
しかし今非常に悲しいこと、残念なことは、その種の仏教がないことです。あるのは外皮の仏教だけです。何の仏教か知りませんが、コミュニストに対抗できません。どうぞブッダの仏教、本当の仏教の基礎に立ってください。そうすればコミュニストがぶつかって来ることはできません。ぶつかって来ても、岸に打ち寄せる波のように、自ら砕け散ります。
これを証明できるのは、この世界の私たち全員が力を合わせて本物の仏教にし、そしてコミュニストと対峙する時です。コミュニストが武器で殺すだけの人たちなら、コミュニズムでない他の主義が混じっています。昔の植民地主義も、同じように武器を持っていました。あるいは侵入者、反乱者も武器を持っていました。それはコミュニストではありません。
そういうのは通常、破壊できるのは身体だけです。権力があり武器がある時は、身体だけは破壊できますが、タンマは破壊できません。私たちの心の中にある主義、教義は破壊できません。コミュニストも平和な世界を作ると大きなことを言い、仏教も平和な世界を築くと主張し、聞くとほとんど同じですが、手段が違います。
私たちは愛と慈悲で平和にし、コミュニストは武器で人を掻きまわして、世界の基盤を均等にするので、同じにはなり得ません。どちらが善いか、どちらが賞賛するべきが、自分で考えて見てください。だから仏教は持ち堪えられないと臆病にならないで、阿修羅にならないでください。コミュニストが来れば仏教が滅びると言うのは、嘘です。
ブッダの本当の仏教は最高に不死身で、十のコミュニストでも仏教を絶滅させることはできません。どうぞ本当の仏教であってください。私は、コミュニストが来ても仏教は存続できると主張します。どこにも居場所がなければ、仏教教団員の心の中にあります。
お寺の本堂や僧院が跡形もなく破壊されても、それは外部であり、仏教ではありません。お寺の本堂や僧院がなくなっても、仏教は仏教教団員の心で存続できます。外部はコミュニストに焼き滅ぼされても、仏教教団員の心の中の仏教は焼失しません。これが本物の仏教の、本当の仏教教団員の不死身です。
今私が怖れるのは、本当の仏教教団員がいないことだけです。まだコミュニストが来る前に崩壊し、コミュニストが来ないうちに仏教が消滅します。哀れで、悲しいです。
みんなで本当の仏教教団員になってください。そうすれば仏教は不死身で、いつでもこれらに抵抗することができます。コミュニストが来ても仏教は存続できます。多くの人がこれに関して誤解をし、一時大騒ぎになりました。私は「本当はこうです、首にお守りを提げるだけの仏教でなく、本当の仏教を存在させてください」と主張します。
今仏教は、首に提げるお守りだけで、こんなでは駄目です。コミュニストから護れません。勝負師の首に掛けたお守りは、すでにお守りではありません。だからブッダの頭のお守りを首に提げて、そして酒杯でブッダの頭上を跨ぎます。それではブッダの居場所がありません。
酒杯でブッダの頭上を横切ったら、もうブッダの頭ではありません。ただのつるつるした頭で、仏頭とは呼びません。こういうのは仏教にはありません。その人は酒でお守りの中の仏教を追い出し、心から追放するからです。
だからこの種の仏教に、コミュニストに抵抗することを期待しないでください。酒杯でそのお守りの頭上を何度も横切れば、お守りの意味がなくなるので、護ってもらうことはできません。お守りを提げるなら、酒杯がブッダの頭上を横切らないように、後ろ側の方が良いと提案したいと思います。
他の人に提案してください。お守りを首に提げるなら、後ろに提げてください。酒杯がお守りの頭上を横切らないで済みますから。それなら多分まだお守りであり、酒杯は妨害にならないかもしれません。ここに座っている人で、お守りを提げている方も多いと思います。
私は「仏教はお守りにはない。そして酒杯で頭上を横切れば、お守りの意味は消え、すでにお守りではない」と、観察するように言います。
「本当の仏教は盤石で、不死身でコミュニストと対峙できる。十のコミュニストが来ても、本当の仏教なら、仏教を破壊することはできない」と見えるまで、良く見てください。このような真実を見てしまえば、恐怖が消えます。今はみんな怖がって、全員阿修羅になっています。さあ、他にありますか。
次へ | ホームページへ | 法話目次へ |