第二部

 

 タンマにご関心のあるみなさん。多くの方の疑問や気がかりなことに、質疑応答の形で講義する第二部です。みなさん、これらの答は何でも、私にとって、非難から解放されることと観察して見えると思います。非難されていることは、それらから解放されなければならないことでもあります。

 みなさん考えて見てください。泥で汚れたら、洗わなければならず、汚れに耐えるべきではありません。その泥が、私に投げつける意図で投げられたものでも、それは洗わなければなりません。

あるいは自分の愚かさで汚れた泥にしても、洗わなければなりません。あるいは誰の意図でもなく、偶然馬の傍、牛の傍、車の傍を歩いていて、立っていて、泥が跳ねたにしても、これらの泥は洗わなければなりません。これを、泥なら洗わなければならないと言います。泥で汚れたら、洗わなければなりません。

 だからこれらの回答は、誰かに言っているのでも、誰かへの反撃でもないとしてください。どこかからの、あらゆる種類の泥と捉えても、泥で汚れたと感じたら、洗わなければなりません。理解できるよう質問に答えることは、泥を洗うことです。

 質問は、今どこがこのように汚れていると教えるようなもので、答は、それを洗い落してしまうことです。だから泥の残りが無くなるまで、質問と回答を続けます。こう言うことにします。次の質問は何ですか。

 

問題29 : 我語取を捨てる

質問 : 彼は先生が、我語取(アッタヴァートゥパダーナ)がなければ、当然他の取もないと言っていると、非難しています。彼は、まだ初歩の三つの取が残っていると言います。これはどうでしょうか。

答 : 初めに、問題に関して理解しておきます。つまり彼は、私が「我語取がなければ当然他の取はない」と言い、あるいは教え、あるいは信じていると非難しています。そして彼は、三つの取が残っていると反論しています。自分の考えへの取がなくなっても、愛欲の取(欲取)と、考えへの取(見取)と、戒や儀式への取(戒禁取)が残っていると。これは、この話を知らない在家の人にとっては、聞いて難しいかも知れません。この話を知っている人にしか分からないでしょう。

 私は、我語取がなければ、当然他の取はないという教えを信じていると主張させていただきます。これは本当です。彼が非難しているとおりす。これは非難ではないことになります。私はそう信じてそう主張し、我語取がなければ、当然他の取はないと教えているからです。

初めに我語取とは何か、説明します。我語取とは、自分があり、自分の物があると言わせる取、自分があると言わせる見解、そして自分であると見る見解への取、自分、自分のものという取です。だから自分の見解に対する取は、自分、自分の物という取です。あるいは下品に言うと、「俺、俺のもの」で、これを我語取、アッタワードゥパダーナと言い、この取がなくなれば、他の取も無くなってしまうということです。あとの三つは残りません。

この我語取は、阿羅漢だけが、阿羅漢向だけで、捨てられるものです。この我語取は、阿羅漢向、あるいは、「俺、俺のもの」を抜くことができる阿羅漢である人だけが、完全に捨てることができます。別の言い方では、「アッターヌディティを抜き出すことができれば、閻魔の上にいる」と言われているように、パーリ語でアッターヌティティと言います。

モッカラーチャという若者に言ったガーターで、「アッターヌディティ、つまり自分という考えを抜いてしまえれば、閻魔より上にいるので、閻魔はあなたを探すことはできない」と言います。これは阿羅漢であることです。アッターヌディティ、あるいは我語取を抜き取ってしまえれば、阿羅漢になるので、煩悩、あるいは他の取は残っていないと見なします。

我語取を抜き取ってしまっても、まだ抜き取っていない三種類の取、つまり欲取、見取、戒禁取が残っていると見る人たちもいます。率直に言うのをお許しいただけば、アビダンマの人たちは、我語取は、有身見(体を自分と見ること)と同じと説明します。

この説明は、アビダンマの中、論蔵の中、そして経蔵の小部に残っているアビダンマ、これはずっと昔はアビダンマでしたが、全部分けきれずに、小部にアビダンマの形で残っていますが、この中に、一字一句違わない説明があります。

だから私は、論蔵でも、経蔵の小部のアビダンマでも、有身見は我語取と説明され、我語取は有身見と説明されていると言います。彼らがこのように同一視すれば、その人たちの我語取を捨てることは、有身見を捨てることでしかありません。

預流果を得た人が有身見と疑と戒禁取を捨て、残りは捨てられないように、彼らは我語取、あるいは有身見を捨てても、まだ他の三種類の取が残っているとしています。この言葉の説明は間違っています。有身見と同じである我語取は道理として矛盾し、あり得ません。

 有身見は、体を自分と見る考えにすぎず、我語取を完全に抜き取っていないので、別のものを自分にし、この体を自分としなくても、他のものを自分にします。つまりすっかり自分を捨て切れず、自分という取を捨てきれないので、まだ残っています。だから彼は、我語取を捨てても、まだ他の取が残っていると言います。真実はこのようになっています。学習者であるみなさんは、自分で観察して見てください。

みなさんが、我語取を有身見と同じと見るなら、必ず彼と同じことを言います。それはあり得るかどうか、考えて見てください。我語取と呼ぶものが有身見と同じということが、あり得るでしょうか。このような説明が論蔵、あるいは経蔵に残っているアピタンマの中にあっても、私は同意しません。

我語取を捨てることは、アハンカーラ(我慢)・ママンカーラ(我所有)・マーナヌサヤ(慢隋眠)を捨て、自分、自分のものと執着する行動をさせる原因である隋眠を捨てることという、大方の、あるいは一般の教えと一致する教えで見ます。それはアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤを残らず捨てるので、我語取を捨てることになるので、有身見も、疑も、戒禁取も、あるいはどんな取もありません。

これを勉強したことのない在家の方は、聞いても理解できないと、初めに申し上げました。これは教典の中の難しい言葉もある、言葉の問題です。しかし出家して勉強したことがあれば、我語取が捨てられれば、取はすべて無くなり、煩悩も、結分(煩悩の一種)も隋眠もすべて無くなると、私が主張していると理解できるかもしれません。

モッカラーチャの章で「アッターヌディティ ウーハッチャ エーワン マッチュッタロー シヤー エーワン ローグン アヴェーカンタン マッチュラーチャー ナ パッサティ」と言っているように、アッターヌディティを抜き取ることができれば、阿羅漢になります。

彼は、我語取は、有身見にすぎないと捉え、「私の体」という初等の取である考えを捨てます。だから矛盾する問題が生じます。しかしどんな修行を妨害するものでもありません。我語取を捨てる努力をしてください。そうすれば問題は消滅します。何かが残っているか、残っていないかは、我語取を捨てた時、自分で分かります。

だから自分、自分のという取、あるいはアハンカーラ・ママンカーラ・マーナヌサヤを捨てることができれば、他に残っている取はありません。真実はこうなっています。私も彼らが非難しているように、我語取がなければ、当然他の取はないと言っていると主張します。これは本当です。こう主張しています。

一方彼が言っている、我語取を捨てても、まだ取が、つまり欲取と見取と戒禁取が残っているとするのは、私は同意しません。他の三種類の取は弱くて、幼くて、我語取より子供なので、我語取を捨てられれば、子供の取三人は、残れません。

もう一つはブッダが、「他の教義、他の教祖は、三つの取、つまり欲取と、見取と、戒禁取だけしか教えず、我語取について教えていない。我語取を教えているのは仏教だけ」と言っているので、三つの取は我語取より弱い子どもの取です。こう理解してください。さて、次は何ですか。

 

問題30 : 涅槃という言葉を、燃えている炭、あるいは生き物に使う

質問 : 彼は、パリニップトーという言葉は畜生にも使え、炭火にも使えると言うのは、涅槃を軽視し侮辱していると、先生を非難しています。これの真実はどうなっていますか。

答 : 彼は、パリニップッタという言葉を畜生にも炭火にも使えると言うのを、涅槃を侮辱していると非難しています。これはパーリ経典の中のブッダの言葉に由来しています。パリニップトーという言葉は、冷えるという意味で、ニッバーナという言葉も、パリニヴァーナも、冷えるという意味です。ブッダの時代よりも前から、庶民の言葉として使われていました。

ブッダの時代以前でも、ブッダの時代でも、どこでも庶民の言葉であるニヴァーナは、冷えるという意味です。物に使えば、その物質が冷えるという意味で、畜生に使えば、野生の荒さが消えたことで、心のある人に使えば、心が冷静という意味で、本当に冷静ならば本当の涅槃で、本当に冷静でなければ本当の涅槃ではありません。

 次に、まず熟慮して見てもいいです。語学の問題でニップトー、あるいはニヴァーナ(涅槃)という言葉は、冷たいという意味で、心が冷静、物が冷たいと言うこともできます。たとえば当時のその土地の人々は、「さあ、お粥がニッバーナしたから食べられるよ」と叫んで呼びました。

 ニッバーナという言葉を、冷めたお粥に使っています。かまどから掻き出した赤々とした炭が冷えて黒くなれば、もうニッパーナだと言います。ニッバーナという言葉は、物にも使うことができます。

 動物に使うのは、象や馬など何でも山で捕えて来て繋いでおき、すっかり猛威がなくなり、荒々しさや危険がなくなり、本当に猫のように安全に懐いたら、この動物は涅槃だと、もうパリニバーナだと言いました。つまり静かになったという意味で、良くしつけられたので高く売れます。これはニッバーナという言葉を動物に使いました。

 次は人に使う時の安心という意味の涅槃です。たとえばシッタッタ王子が通りかかった時、シャキャ族のある娘が歌った言葉に、「ニッブター ヌーナ サー マーダー 云々」「この方がもし誰かの子だったら、その人の母親はニプター(安心)、その人の父親もニップトー(安心)、誰かの夫だったら、その女性も安心」と歌いました。名詞であるニッバーナの動詞形、ニッブタを使いました。ニッバーナという言葉は心が穏やかという意味です。

 これが庶民の言葉で、庶民たちが村の中で話していました。物質的な意味なら、物が冷めたことを、畜生なら野性が消滅したことを、人なら、安心であることをニッブタになった、心配が無くなった、ニッバーナになったと言います。

 次はタンマ語、あるいは宗教の言葉ですが、山にいる仙人でも何でもタンマの知識のある人は、極めて穏やかな心、つまりサマーディ(三昧)、ジャーナ(定)、サマーパッティから生じる穏やかさに出合うこともあります。精いっぱい欲情を掴んだ人たちが望み通りに手にしたものが穏やかさのこともあります。だからパーリ経典のブラフマチャーラ(梵綱)経では、すべての種類の見解を解説しています。

ある人たちの見解は、完璧な欲情を涅槃と言います。そういう人もいます。偽物の穏やかさであり、欲情で満ち足り、そして彼らはそれを涅槃と言います。また別の人たちは、形禅定などにしたサマーティを涅槃と言います。ほとんどは第四禅定を涅槃と言います。もっと高いのは、無形禅定を涅槃と言いますが、サマーディ、あるいはサマーパティだけを涅槃と、つまり涅槃の静かさだと主張します。

 次にブッダが生まれて、これらをすべて学んだ結果、それらのタイプをすべて否定し、形禅定も、無形禅定も、まだ涅槃と呼ぶ所まで達していないと言いました。すべての煩悩、漏がなくなった時、涅槃と呼ぶべき本当の穏やかさになります。だからブッダの仏教の涅槃は、本当の涼しさ、つまり火が消えた涼しさです。火とは煩悩で、煩悩がなければ本当に涼しいので、これを涅槃と言います。それに本物であり、至高です。

 次にみなさん、ニッバーナ(涅槃)あるいはパリニバーナという言葉は、昔は庶民が家の中で使っていた言葉で、物にも使えるし動物にも使えるし、人にも使えると言わせていただきます。これが一つです。これは言語の話です。森や密林の中の智者が心の面のタンマを発見し、この言葉を借りて使いました。家の中の冷たいという言葉を借りて、智者である教祖が発見したばかりのものに、タンマの言葉として使った、ということを知っていただきたいと思います。

 この項目については、すべてのタンマの言葉は、庶民の言葉を借りて使ったものばかりと、もう一度忠告させていただきます。新しい言葉を作れば変な言葉で、知っている人も理解できる人もいないので、聞いて意味が分からないので、たとえば涼しいという言葉を、「今私はあんたより涼しい物を見つけたよ。心が鎮まって煩悩が無くなったので、心は涼しい。本当に涼しい」というように、庶民の言葉を借りて使いました。

 だから言葉は同じです。庶民の話と最高のタンマの話と、同じ言葉ですが、意味は非常に違います。

 涅槃という言葉などは、子供が喋るなら、お粥が冷めた、ご飯が冷めた、汁が冷めた、何でも冷めて食べられるという意味、あるいはこの象や牛は冷めて危険な害がない、あるいは、この人は心が穏やかな子や孫を持って運が良いという意味です。これが庶民の「涼しい」「冷える」つまり「涅槃」という言葉の意味です。

 次にニバーナ、あるいはパリニバーナという言葉を畜生や物に使うのは、涅槃という言葉を侮辱することではありません。実際にそのように使ったのですから。パーリ経典を見れば、これらの言葉を家の中でこのように使っていたことが分かります。高いタンマの言葉として使うようになると、タンマの言葉として意味が高くなり、煩悩が滅した涼しさになりました。

復習してみましょう。この涅槃、あるいは涼しさは、お粥や炭火のような物は、冷えて涅槃で、良く訓練された畜生の害がなくなれば涼しく、畜生の涅槃です。しかし動物の涅槃は、阿羅漢の涅槃と同じではありませんが、言葉は同じです。私が例を挙げて説明するのは、簡単に理解するためです。次に庶民の涼しさは、心が安心できて、妨害して熱くするものがないこと。これも涼しいので、これも涅槃です。

この三つは庶民の話です。高度な知性の話になれば、ある人たちは、情欲面が完璧になると涼しいと言い、それはその人の、その教義の涼しさです。しかしある人たちは、自分が望んだ禅定に達すと、「涼しい」「涅槃になった」と言い、その人たちの涅槃です。

私たち仏教徒になると、涅槃は煩悩が絶滅しなければなりません。つまり煩悩の火が消滅して涼しくなります。ブッダは、煩悩の火と苦の火を完全に消し、煩悩も苦も消滅させたので涼しくなりました。究極の涼しさです。だから涅槃という言葉は、言語としてはこのように使います。しかし仏教の話だけに使うなら、阿羅漢の煩悩の消滅の話です。

だから私が涅槃を侮辱しているという非難があるなら、その人は何も調べずに言っています。あるいはニッバーナ、パリニバーナという言葉にどんな意味が何種類あるか学んだことがなく、愚かすぎるかもしれません。真実はこれだけです。次にしましょう。

 

問題31 : 「タンマ」一語だけ

質問 : 彼らは先生のことを、出家して五十年たっても、仏教の本質の説明を四つの意味、つまり自然と、自然の法則と、自然の法則での義務と、義務の結果に分類した「タンマ」一語だけと説明しているが、これは真の意味と一致しない、と非難しています。これはどうですか。

答 : 私は「タンマ」一語が仏教すべての本質と説明しています。あるいはもっと正確に言えば、タンマという一語は仏教のすべて、と言わなければなりません。しかし仏教の核心であるものもこの言葉で、タンマと言います。タンマ一語で、例外なくすべてのものを意味するからです。

非難している人がパーリ語を勉強したことがあれば、仏教のタンマという一語は、例外なくすべてのものを意味すると、自分で知ります。すべてのものと言うのは、形のもの(具象)も名のもの(抽象)も、状態、あるいは行動、ありよう、あるいは自然に存在する何かの結果も、すべてタンマと呼びます。

変化する原因のあるものをサンカタタンマ(有為)と言い、変化させる原因のないものをアサンカタタンマ(無為)と言い、つまり涅槃です。だから非常に微細な埃の粒子から、順に大きくなって植物や物質、もの、人間、天人、何でも、そして涅槃まで、すべて「タンマ」と一言で呼ぶことができます。

 一つの埃の粒子から涅槃まで、タンマと呼ばない物は何もないと結論することができます。パーリ語ではそうなっています。物質もあり、抽象もあり、善もあり、悪もあり、中間のもあり、完成したのもあり、完成していないのもあり、ものすごく多いです。だから、タンマという一語はすべてを意味すると憶えておいてください。

しかし私たちは普通、庶民の集団の中で区別して使い、教えであるプラタム(仏法)を、「タンマ」「プラタム」とし、あるいは正義、公正を「タンマ」と言います。これは話したいことによって区別した一部分です。しかし言葉、あるいは言語としてのタンマという言葉は、あらゆるものを意味します。

 次に簡単に理解するために、四つの意味に分けるべきだと言いたいと思います。自然もタンマと言い、自然の法則もタンマと言い、自然の法則に従った義務もタンマと言い、義務から生じる結果もタンマと言います。この言葉はこのように広い意味があると理解してしまってください。

私たちが知っているのは、教えであるプラタムをタンマと言うこと、あるいは不正でないこと、ずるくないことをタンマということだけです。これは狭く、ほんの一部を規定したに過ぎません。全部を言うなら、すべての自然をタンマと言い、すべての自然の法則をタンマと言い、人間が行わなければならない義務をタンマと言い、義務から生じる結果もタンマと言います。

 だからもう一度繰り返させていただきます。何でも自分の義務を行なう人は、タンマの品行をすると言います。だからタンマの行動を、大変で面倒なこととしないでください。人間の義務を、自分の最善を尽くして行うことを、タンマの品行と言い、行動すれば自分にも他人にも利益になります。

それがタンマの行動です。その人は幸福で満足し、タンマの品行をすることに喜びがあるので、お金で欲情面の楽しく美味しい物を買って、幸福になる必要はありません。そういうのは騙す幸福で、本当の幸福はタンマの行動、つまり義務を行なうことの喜び、満足にあります。

 だから誰にどんな義務があっても、それをしてください。男性の義務は、男性の義務をすること、女性の義務は、女性の義務をすること、子供の義務は子供の義務をすること、親の義務は親の義務に最善を尽くすことです。女中の義務、道路清掃夫、側溝の掃除夫、舟の船頭、サムローの漕ぎ手の義務も、最善を尽くしてください。

そうすれば、自分にできるタンマの品行をすると言われ、そして自分の利益になり、他人の利益にもなります。たとえばお金が入り、必要な物を買って生活でき、そしてその人の仕事は、他人の役に立ちます。たとえば側溝の掃除をすることは、それで必要な物を手に入れて生活し、そして道路が清潔になり、多くの人の役に立ちます。

 これを、タンマと名がつけば何でも、それを実行した人は、本人と他人の利益になると言います。こういうタンマの行動は、とても純粋で、煩悩が混じってなく、欺瞞が混じっていないので、仲違いや奪い合いや、不正の問題はあるはずがありません。

そしてどこでもでき、誰でもでき、誰でも同じ名誉があります。知性がたくさんあれば、もっと高度な義務を行ない、知性が少なければ、低い義務を行ないますが、正しい理解で精いっぱい、知性のかぎりに行なえば、何でも同じタンマの行動と言います。

 米作り以外に何もできない農夫なら、米作りをしてください。田を耕し始めれば、農夫として人間の義務を行なっている喜びがあり、満足を感じます。そして耕し終わったら田を起こして肥料を撒き、稲の発育を見守る義務を行なえば、いつでも幸福です。米を売ってお金を手にしなければ幸福にならない、と言わなくても良く、稲の穂が出ても淡々としています。

「女房が売る話をするのは勝手だが、私は田を耕し田を起こし、水を張り稲を育て、稲が良く育つように世話をしている時から満足で幸福だ。米を売ってお金が入ることには興味がない。それは小さなことすぎるから。お金を使って食べて遊んで、楽しんで味わうことは小さすぎる」。これが仏教の善人である家長です。そしてその人は農夫なので、田を耕すこと、田を耕し、田んぼの世話をして稲を育てることに幸福を見つけます。

 タンマは義務で、人が義務を行なえば、タンマの行動です。そして義務の結果はどこへも行きません。私たちが意図してもしなくても、結果は出ます。食べても食べなくても、使っても使わなくても大した意味はありません。自然の法則で結果が出るので、これも同じタンマで、自然という意味の、あるいは自然に経過するタンマです。

タンマの行動だけに関心を持つ方がいいです。そしてこれについてたくさん知ります。自然については適当で、それほど多くなくても、全部でなくてもいいです。自然の法則の話は、知るべきことを知ります。しかしブッダは、知るべきことすべてを知っています。

 だから、ブッダが大悟したもの、ブッダが大悟したタンマは、自然の法則以上のものは何もないと、ブッダが大悟したものの中で、私たちが正しく実践しなければならないのは、自然の法則だけだと、知ってしまってください。しかしブッダはブッダなので、たくさん知らなければならず、知るべきこと、そして他人に教える部分をすべて知っています。

私たち弟子は、それほどたくさん知る必要はありません。滅苦のために実践できるだけ知れば十分です。そして自分で探求するのでも、自分で悟るのでもなく、ブッダを通して知ります。タンマという言葉は、このような状態で人間と関わっています。

 「タンマ」一語で、例外なくすべてを、宇宙を網羅する以上に網羅します。「タンマ」という言葉は、宇宙ばかりでなく、宇宙の外でも、すべてを網羅します。つまり残らずすべてです。世界が幾つあっても、何が幾つあってもすべて自然なので、「タンマ」と呼びます。「タンマ」という言葉には、このような意味があります。

 仏教の核心は、聖諦の真実と呼ぶ「滅苦であるタンマ」で、略して言えば、苦、集、滅、道の四つがあり、詳しく言えば、十一の状態がある縁起で、それも同じ、聖諦です。四聖諦は縁起ではないと誤解しないでください。本当は同じもので、簡略な説明と、詳しい説明だけです。苦を滅すことができる要点は、仏教の核心であり、そして、タンマの理解、タンマの真実、滅苦、と言うこともできます。

 だからこの言葉は奇妙で、仏教のすべてのものを意味することができ、仏教のいずれかの部分を意味することができ、仏教の本当の要点を意味することもできます。だから私は、タンマ一語ですべてを意味すると言います。仏教の核心について言えば、特に滅苦であるタンマを意味します。

 ここで彼は、私が仏教の核心を「タンマ」一語で説明している、と非難しています。これには、タンマ一語を仏教の核心とすることができると主張します。しかしその「タンマ」一語は、仏教のすべてということができます。それ以上に、仏教でないものすべてであり、宇宙のすべてです。それをタンマと言います。

 だから「タンマは仏教のすべて」と言うのは、正しく、「タンマは仏教の核心」も正しいです。彼はパーリ語を学んだことがないので、「タンマ」という言葉がパーリ語でどんな意味か知りません。だからそのように理解します。私は彼を許します。さて他に話すことはありますか。

 

問題32 : ブッダの言葉だと詐称する

質問 : 彼は先生のことを、自分は非常に勇敢で、自分はもう一人のブッダのように、何でもすべてブッダの言葉を話すことができると考え、ブッダの言葉だと詐称していると非難しています。これには何とおっしゃいますか。

答 : これは、私がブッダの言葉を自分のものと詐称し、ブッダの言葉を自分の言葉として、そして私はもう一人のブッダのようだという非難です。彼は、私の名前が「プッタタート」で、「ブッダに仕える僕」というのに耳を貸さず、認めようとしません。そう宣誓し、そう表明しているので、ブッダの僕がブッダのように振る舞うことはあり得ません。

それにブッダの言葉を詐称して自分のものにすること、それはあり得ません。そしていつでも、ブッダはこのように言っていると、言っています。私が分かりやすく全部を短く上手くまとめても、それはブッダを偽称することではなく、一般の人がブッダの教えを、簡単便利に理解するようにしているのです。

だからブッダの言葉を詐称する行為はありません。私はブッダの教えに従って教え続けていて、それを私の知識だと言ったことはありません。私はいつでも、「これはブッダが言った言葉ですよ、私が言ったのではありませんよ」と言っています。私がこのように何度も何度も忠告してきたのを、まだ憶えている人もいます。

だから、ブッダの言葉を自分のものだと偽称すると言うのは、あり得ません。そして自分がブッダの一人ように振る舞っているというのは、考えたことも、夢見たこともなく、そしていまだに自分自身をプッタタートと名乗り、忠実で誠実な僕です。真実はこうです。これだけです。さあ次。

 

問題33 :ディアラティーの誤解

質問 : 彼は、先生の考えは、直接仏教を破壊するディアラティーの誤解だと、先生を非難しています。これには何と言いますか。

答 : これは、彼はパーリ語を知りません。あるいはサンスクリット語を知らず、タイ語も知らないので、ディアラティーという言葉がどんな意味か知りません。この言葉は、午前中(問題5)に説明しました。私の考え、知識、信念、行動は、仏教の道に、つまりブッダの教えにそって歩いています。

私は一人のディアラティー、つまりブッダの弟子で、これは認めます。ブッダ以外の、他のディアラティーは認めません。この人はディアラティーという言葉がどういう意味か知らないので、彼はディアラティーの誤解という使い方をします。

 ディアラティーとは、それぞれの教祖、その人独自の体系的な教えがある、宗教の教祖で、私はせいぜいなれても、このディアラティーの弟子です。私はブッダディアラティーの弟子にすぎず、アンヤディアラティー、あるいはそれ以外のディアラティーではありません。ディアラティヤという言葉はサンスクリット語で、パーリ語ならティタティヤで、タイ語ではサンスクリット語のディアラティーを使っています。

この言葉は「港のような教義」という意味です。多くの人に好まれ信仰されている教義はみな、誰でも気に入った港に舟を泊められる港のようなものなので、それを、それぞれの港、つまりそれぞれの教義、あるいは一つ一つのディアラティーと言います。だからその主人を、ディアラティー、教祖と言います。

これ以外の人は、ただ港を利用する人、港の一員でしかなく、私のような仏教教団員は、ディアラティーの弟子です。ここではブッダを意味し、私はアンヤディアラティーと呼ぶ他のディアラティーではありません。

 私のすべての考え、すべての信仰、すべての教えは、ブッダの教えになっています。一人のディアラティーである私は、ディアラティーの弟子で、ディアラティーにはなれません。ディアラティーの弟子である私の間違いならあり得ます。私の誤解ならあり得ます。しかし今間違いがないように、力の限り努力しています。

 教えの言葉を学び、あるいは実践し、あるいは探求し、あるいは誤解をしないために、何でも、すべてできるだけのことをしています。私はこう主張できます。もし間違っているなら、重大さに気付かないからで、どうすることもできません。必ず間違います。しかし、それらすべてを正しくするために、ほんの少しの油断もないことを保証させていただきます。

 だからこの考えは、プラタムの言葉と相違ありません。仏教の教えを引用して話しても、仏教で、何も仏教を消滅させることにはなりません。しかし「ディラティー」という言葉を知らない人に話すのは大変です。真実はこうです。さあ、他の項目。

 

問題34 : 菩提智を侮辱する

質問 : 彼は、先生が深いものを浅いと言い、難しいものを簡単だと言うのは、ブッダの菩提智を非常に侮辱することだと非難しています。これはどうですか。

答 : 彼は私が、深いものを浅いと言い、難しいものを簡単だと言うと非難しています。これはしたことがありません。それにできません。深いものを浅いと言って人を騙す。これもできません。人に浅いものを深いと言う。これもできません。難しいものを簡単だと人を騙す。これもできません。簡単なものを難しいと言うのもできません。

しかし精いっぱい、深いものを一般の人の共通の理解にするように努力しています。これを、深いものを何とか理解できるように、浅く説明する努力をすると言います。難しいものを理解できるように説明し、解説してそれを簡単にします。このような努力は、ブッダの心に叶った正しい義務の遂行と信じます。

 ブッダもそのように努力しました。深いものを浅くし、難しいものを簡単にし、秘されたものを公開しました。これはブッダのように行動しなければならない教えですが、深いタンマは、深いままです。たとえば縁起を、ブッダは深い話と言っていますが、仏教教団員が知らなければならないことなので、浅くする手伝いをします。

 だから縁起を深い話にしておかないで、みなさんが何とか理解できる形で説明するよう努めています。それに間違って理解し、間違って信じることには何の利益もありません。それを有益に使えるように浅くすれば、深い話である縁起は、不毛でなくなり、不毛でないことは、有益に活用できることです。

深いものを浅くする、難しいものを簡単にする努力を、本当に力いっぱいしていると認めます。しかし深いものを浅いと騙し、難しいものを簡単だと騙すのは、できないし、したことがありません。そしてこれからも絶対にしません。真実はこれだけです。さて、次は何ですか。

 

問題35 : 身勝手をなくすための実践

質問 : 彼は先生のことを、身勝手を消滅させる実践をするのが本当の仏教教団員だと言うのは、最高に悪劣なディアラティーの奴隷の観察による説明の仕方だと、先生を非難しています。これは、真実はどのようですか。

答 : 私はまだ、身勝手を無くす実践は、本当の仏教教団員の実践と主張します。本当の仏教教団員なら、身勝手を絶滅させる実践をしなければなりません。最低最悪でも、他人より有利になる利己主義でないことです。もっと高ければ、自分という執着をなくして、自分がないことに到達します。自分でないことは無我です。

 無我を見る実践をし、自分という見方を絶滅させてしまい、自分が残っているという誤解がない。これが本当の仏教教団員で、身勝手を絶滅させる実践が仏教だと主張できます。そして、他の宗教も同じで、すべての宗教の要旨は、多かれ少なかれ、身勝手を無くすことと説明することができます。このように言うことも、仏教を他の宗教と同じに低くすると非難され、あるいは叱られます。

 これは事実ですから、どう言えと言うのでしょうか。すべての宗教はみな、身勝手を無くすように教えるものばかりです。そしてここでも、身勝手をなくす実践は、仏教教団だけでなく、他の正しい宗教教団もそうだと主張し続けます。これは仏教の本質が見える人の発言で、悪質なアンヤディアラティーの奴隷の発言ではなく、至高のディアラティー、つまりブッダの奴隷です。

 身勝手でないことは、重要なことのすべてです。つまり身勝手でなければ、誰も苦しめないので社会も幸福で、そして身勝手でなければ煩悩でイライラしません。身勝手でなく自分が無くなれば、聖向聖果である涅槃に到達します。身勝手でないこと、自分がないことはこのように良いことです。

 だから身勝手でないことの知識を非常に重視し、身勝手でないための実践を強調し、自分がない実践の結果があることを強調します。そうすれば自分の幸福であり、他人の穏やかな幸福であり、涅槃である結果を受け取ります。

 だから、この身勝手を無くす実践は、他のディアラティーではなく、このディアラティー、つまりブッダディアラティーだと主張させていただきます。この人たちは、ブッダディアラティーという言葉を聞いたことがないので、このディアラティーという言葉はどんな意味か、勉強しなければなりません。

それは教義の呼び方だと正しく知れば、他のディアラティー、またはこのディアラティーと特定しなければなりません。このディアラティーならブッダで、他のディアラティーならすべての誤った見解です。みなさん、身勝手を無くすための実践をしてください。

これは仏教の教えであり、そして世界の拠り所である他の宗教すべての教えでもあると、主張させていただきます。真実はこうです。さあ、次。


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