問題16: オッパーティカ(化生)は心の誕生

質問 : 彼らは先生が、オッパーティカとは心の面の誕生と説明しているのは、自分の知識と好みによる憐れむべき説明であり、真実を歪曲する説明だ。つまり、「オッパーティカは体と心のある生き物で、体は「天の体」と呼ぶ半透明の原子」と説明しないと、非難します。これの事実はどうですか。

答 : オッパーティカとは体と心のある生き物で、体は「天の体」と呼ぶ半透明の原子という説明は、仏教ではない他の集団の説明です。天の話、このように天の何かの話は、他の人たちのものです。詳しい根拠は、ディーカニカーヤ(長部)のポータパータ経を読んでみてください。

 仏教の意味の「オッパーティカ」とは、生まれること(ヨーニ)の状態の一つでしかありません。つまり生まれるために親は必要なく、そして生まれた時に大人で、子供である必要がなく、完璧です。このような「生まれること」はあり得るでしょうか。それは、「考えが生まれると、人がその考えのようになる」ことです。

たとえば盗賊のような悪い考えが生まれれば、その人は、その体の中は突然盗賊になり、母親の胎内に入る必要も、子供時代を経る必要もありません。子供を経なくても、完璧な盗賊になります。

 親に依存せずに生まれること、生まれた時には大人であり、その言葉の中で男か女かは明示していないのは残念ですが、それがオッパーティカです。生まれる状況にすぎず、生き物の一種ではありませんよ。オッパーティカを生き物の名前としているのはありません。仏教の教えの言葉では正しくありません。

オッパーティカというのは、どんな生き物の名前でもなく、親に依存せず、そして成長する必要もない、一瞬にして生まれる状態を言います。つまりたとえば私たちが善人に生まれる時十分善人であり、悪人に生まれる時十分悪人であり、その前に子供である必要がないように、十分大人です。

 私の知識によるオッパーティカという言葉は、生き物の一種の名前ではありません。半透明の体で、天の体をもった生き物の名前ではありません。親がなくて一瞬にして生まれ、十分大人である、「生まれる状態」の呼び名です。つまり心の面の、心で生まれることです。

現在心が盗賊、あるいは地獄の生き物のような状態、あるいは智者、あるいは天人、あるいは聖人、アナーガーミー(不還者)に生まれるのは、この「誕生」によってです。悟って聖果に達し聖人になるのは、オッパーティカの形で一瞬にして生まれ、親は必要ないし、幼児期を経る必要もありません。

 だから良く注意してください。犬のように考えれば犬に生まれ、犬になります。ここに座ったままこの体の中で、犬のように考えれば犬になり、人のように考えれば人になり、天人のように考えれば天人になり、地獄の生き物のように考えれば地獄の生き物になります。今ここで、この体の中で、です。

このような状態をオッパーティカと言い、「一瞬にして生まれること」です。この言葉は生き物の名前ではありません。彼が生き物の名前と信じるなら、そう信じる権利はあります。私は争いません。私はこの言葉をこのように信じます。次の問題は何ですか。

問題17 : 憑依を信じない

質問 : 彼は、先生は誤った見解なので憑依を信じないと非難します。これはどうでしょうか。

答 : そう。私は憑依を信じません。そして私は正しい見解です。そしてそれ以上です。因果律を信じる人は、憑依を信じる必要はありません。答はこれだけです。こういう話には答えるのは億劫です。さあ次の話。

問題18 : 人々に宗教を誤って理解させる

質問 : 彼は、先生は他人に仏教の教えを誤解させ、その上他人の説明が間違っているとケチをつけると非難します。事実はいかがですか。

答 : 私は、他の人が仏教を簡単に早く、そして利益になるように理解してもらうよう努めています。理解しても利益がないのは望みません。利益がないのは、正しい物でないからです。知っても役に立たないのは求めません。利益があるように知り、理解しなければならず、利益があることが証明されて、初めて正しい教えになります。

 いつでもそうするよう努力しています。そして、他の人に正しく仏教を理解させるために、死ぬまでそうしていきます。誰かが間違った理解をさせていると見るのは、その人の自由です。そして私は、自分と同じにしない、自分と同じに話さない、自分と同じに考えない他人をけなしません。私は他人を貶して時間を無駄にしません。

 他人を非難することは、卑劣な人のすることなので、それについて話すことがあれば、彼を正しく理解させるためです。私が彼を嫌っていると、賛同できないと見なしても、どうぞみなさん、彼を非難しないようお願いします。なぜならそれは卑劣な人のすることだからです。

 ブッダが大悟した時、ブッダも、彼らの見解を間違っていると見ましたが、その人を非難しませんでした。その人がブッダに対して見解を説明した時、ブッダは否定せず、そして認めもせず、「そう。それはあなたの正しさです。しかし私はこう言わせていだたきます。聞いてください」と答えました。

こういうのは、パーリ経典に、非常にたくさんあります。誤った見解の人たちがブッダに対して自分の見解を説明した時、ブッダは「それはあなたの正しさです。しかし私はこう言います。私はこう言わせていただきます」と言いました。だからブッダは、誰かを非難する機会はなかったということです。

 ブッダが他の教義を非難したと書く人がいれば、それは事実ではありません。説明したり、教えるための非難を意味する場合以外には、ブッダは誰かを非難する人ではありません。律に反した振る舞いをした比丘の罪を非難するようなのは、振る舞いを正させるためで、そういうのはこの項目に含めません。

つまりブッダは、梵行、あるいは宗教の形で掌握する教義や考えに関して、非難をしませんでした。だから私も、自分をブッダの弟子と自認しているので、同じ教え把持します。つまり他人を非難することは適切ではない、あるいは非常に卑劣なことします。さあ、次の話題にしましょう。

問題19 : 自分を無く(無我に)してくださいと言うこと

質問 : 彼は、新たに生まれる自分がないと言うのは、間違ったブッダの言葉の主張であり、許しがたい、そして非常に悪質な間違った説明だと、先生を非難しています。この真実はどうですか。

答 : 私は「自分がない(無我)」と言うのは、言っています。仏教は、すべての自然を無我と見させる教えがあると認めます。考えることができる心も、感じることができる心も、この心も自分ではなく、ただの心にすぎません。

それは原因によって考え感じることができます。そして原因によって考える時、それは自然である心にすぎません。あるいは自分であるものは何もない元素の一つです。自分がなければ、何が死に、何が再び生まれると言うべきではありません。これが最高レベルの、ローグッタラ(世俗を脱す)のレベルの教えです。

 初歩のレベルの知識では、自分があり、そして「また生まれる」と言います。これは一般人の感覚で言います。彼が自分はあると理解すれば、強く自分があると信じ、そして彼は、死はあると、自分は死に、そしてまた生まれると信じなければなりません。この話は、反論する必要はありません。私は、良い来世に生まれたいなら、こうこうした方が良い、と言います。

「良い来世を望むならこうします。あなたが生まれたければ生まれ、私は生まれたくないので、私は生まれなくても良くあるべき」と言います。自分はないというのは、ブッダが言ったのであって、私が言ったのではありません。私はブッダの言葉に従って、「自分はない。自然の法則、特に因果律による変化の、原因と縁で経過する元素があるだけ」と教えています。

 ある段階ある部分では、この心は無明があり、俺である俺、あるいは自分である自分を感じるようになります。そうすれば自分があり、無明がある心になります。心が無明から脱せば、自分という感覚はありません。だからブッダは「すべてのサンカーラ(行)は自分ではない」と言いました。

それなのになぜ、ブッダの言葉どおりに自分はないと教える私の誤りとしなければならないのでしょう。自分はないと教えることは、最も正しく、そして最も良いことです。つまりすべてのサンカーラは自分ではありません。さあ、次。

問題20 : 死んだら消滅すると教える

質問 : 彼は、死んだら何もないという説明は虚無主義であり、自分はない、徳もない、罪もない、再び生まれることもないというのは、ディアラティーの説明で、真実を知らない人のように、知識がない人のように、聞いた人を誤解させ、死んでも善や徳を持っていける自分がないと迷わせると、先生を非難しています。事実はどうでしょうか。

答 : 初めは、私が、死んだら何もないと教えるという非難ですが、私は教えたことはありません。何百ページ、何百冊、印刷された何万ページの本の、どの本のどこに、どの行に、死んだら消滅すると教えていると書いてあるでしょう。もし誰かが、どの行のどこに、あるいはまだ印刷されていない、録音テープの中でも、死んだら消滅すると私が教えているのを見つけたら、褒美を一万、あるいは十万ほど差し上げてもいいです。

 みなさんにお金を借りて、私が「死んだら消滅する」と教えているのを発見した賞金を上げます。私はこの話を、出家した時から教えています。出家した初めての年、五十四年ほど前になりますが、お寺や経堂に住んでいるチー(寺に住む剃髪の女性)や清信士、清信女たちに、仏教は死んでまた生まれると教えていない、と教えました。

 死んだら消滅すると教えていません。みなさん、死んでまた生まれる、あるいは死んだら消滅すると信じないでください。それは原因と縁により、生まれる原因と縁があれば生まれ、新たに生まれる原因と縁がなければ生まれません。死んだら生まれる、あるいは死んだら生まれないと、一方だけを言わないで、原因と縁によると言ってください。

 つまり因果の法則です。それとももっと良い、もっと真実である言い方をすれば、今生まれている自分はないと、深く見てください。今生まれている、生きている、ここに座っているのでも、今生まれている自分ではありません。因果の法則で作られたすべての元素があるだけで、すべての元素の変化の流れです。

 今自分はありません。それで誰が死に、そして誰が生まれてくるのでしょうか。自分はないと見れば、死んで生まれる、あるいは生まれない話はしません。私は出家した時から、経堂でこのように教え、数えれば五十四年になります。だから、このように非難する人が現れる前から、このように教えてきたと見なします。

 このように非難する人は、たぶん五十歳にはなっていないと思います。私はこの人が生まれる前からこのように教えています。しかしみなさんは、死んだら生まれる、あるいは生まれないと言わないでください。しかし私が、死んで生まれる、あるいは死んだら生まれないと言わなければならない時は、からかうように言うこともあり、間接的に教えることもあります。

 つまり、もし死んで生まれる、あるいは生まれない問題があるなら、死んだら生まれると憶えておく方がいい、死んだら生まれないと信じるより有利だと教えます。しかし、死んだら生まれない方がいい、簡単でいいと、話を打ち切りたい人もいますが、それはその人の自由にすればよい、と言えるかもしれません。

しかし真実では、死んだら生まれるとも、死んだら生まれないとも言うことはできません。そしてパラマッタ(第一義諦)で更に深く見れば、人はいません。それで誰が死んで、誰が生まれるのでしょう。これが仏教であり、ブッダディアラティーの教えです。私はブッダディアラティーの弟子なので、このように言わなければなりません。

 アンヤディアラティー、他のディアラティーなら、間違った見解なので、死んだら生まれると主張する人もあり、死んだら生まれないと言う集団もあります。そして人や動物である自分があり、生まれるのもあり、生まれないのもあります。これは他のディアラティーで、このディアラティーではありません。

 このディアラティーは、このタンマヴィナヤ(法と律)では、つまり仏教では、死んだら生まれるとか、死んだら生まれないという言葉はなく、因果(あるいは縁生)の法則と言うだけです。それは一連の縁生にすぎません。死んだ人がいる、生まれた人がいる、何の人がいると言わないでください。

 これは、滅茶苦茶な言いがかりで、私が言っていないことを、彼は言ったと言います。言ったという証拠があるなら、賞金を一万差し上げます。さあ、次にしましょう。

問題21 : 死んだら善を持っていける

質問 : 問題の最後で、そのように信じて聞く人を誤解させ、そして死んで善を持っていく自分がないと理解させると彼は言っています。これに先生は答えないのですか。

答 : おや、自分がないので死はありません。自分は行ったり来たりしません。あるのは因果の法則の自然の流れだけで、善や徳も因果律の流れです。それがそのサンカーラに貼りついているなら、あるいはその因果律の流れに貼りついているなら、それはそのサンカーラの話、あるいはそのサンカーラの流れの話であり、誰か人物の話ではありません。私たちに人物、動物、自分がなければ、善や徳を持っていく、あるいは持っていかない問題はありません。

 

問題22 : 殺し合い、騙し合うように教える

質問 : 死んだら消滅すると教えることは、殺し合い騙し合う道を示すことだと、先生がそう教えていると理解させるような発言をする人がいます。これはどうでしょうか。

答 : え? なぜ私をそう教える先生と見るのですか。死んだら消滅すると言うのは、他のディアラティーの間違った見解です。つまり彼は、そう教えることは、殺し合い騙し合いを勧めると見ています。それもあり得ます。彼が言うのが本当かも知れません。

 次にそれは、私には関係ありません。私は死んだら消滅すると教えないし、それに関わり、話し、そう教えるべきだと言う部分はありません。私は善いことをするのは善く、悪いことをするのは悪いと教え、最後には善も悪も欲しがらなくなる、善を超え、悪を超える話を教えます。

 死んで生まれる、あるいは死んだら消滅する話は、間違って見て言った考えです。私は、それは原因と縁次第と主張します。良く死に、良く生まれるには、善い原因と縁を作らなければなりません。悪い原因と縁を作ってはいけません。

 仏教の本当の問題点は、死生を繰り返したくないという点にあるので、死んで生まれる、あるいは死んだら消滅すると、夢中になって話して時間を無駄にしません。つまり私たちは、死と生を繰り返さないためにはどうするべきでしょうか。

 それには自分という考えをやめてしまい、自分という考えを持たないで、すべてのサンカーラの変化だけにし、自分がなければ、死と生を繰り返すものは何もなく、残るのは、縁起の流れである、すべてのサンカーラの変化だけです。

 自然の変化の流れだけなら、動物も人も、自分も、善も悪も、可愛いも、徳と罪と呼ぶものなどもありません。あるのは因果律の流れだけです。それを徳や罪と見ないでください。それはそういうものではなく、一連の因果律です。

縁起、縁生、あるいは因果律は最も重要で、このように最高に素晴らしいです。つまり、自分、生き物、人物はいない、徳や罪はない、地獄極楽もない、何もない、あるのは縁生の流れだけと見せます。仏教の最高の要点であり、肩を並べられる宗教はありません。だからブッダは、この縁起、因果律が本物の仏教であり、初梵行(初等の純潔な行い)と言っています。

 「縁起が見える人はタンマが見える。タンマが見える人は縁起が見える」という言葉があります。この部分で、仏教のタンマを見ることは、縁起を見ることと明言しています。「縁起が見える人はタンマが見える。タンマが見える人は如来が見える。如来が見える人は、タンマが見える」。

 だから本当のタンマを見るよう努力してください。そうすれば如来(ブッダ)が見えます。本当のタンマとは縁起で、縁起の真実が如来です。だから私たちは、縁起を理解することで如来を理解することができるかもしれません。あるいは如来になってしまうのも自由です。つまりブッダ式の縁起を悟ることは、ブッダに到達すること、ブッダと同じ心になることです。

 違うのは、ブッダは自分で大悟しましたが、私たちはブッダの教えを学ばなければならない点だけです。さて、死んだら消滅する話は、私は話していません。他のディアラティーの話で、このディアラティーではないので、この質問に答える義務はありません。さて、次。

 

問題23 : 自分を褒めて他人を貶し、庶民を騙す

質問 : 彼はプン チョンプラスートさんの「十五分で仏教を学ぶ」という本の二十四ページを引用して、先生は自分を持ち上げ他人を貶し、一般の僧はすべて低劣で下賎だと言う、庶民を騙す人であり、死んで生まれると教えて生活していると非難しています。これについては何と言いますか。

答え : もしそうなら、プン氏に聞いてください。プン氏の本にあるなら、私に聞かないでください。自分を褒めて他人を貶すのは、私はしていません。する意図がありません。うっかり冗談で言ったり、からかって言ったり、笑わせるために言ったことはあるかもしれません。

 しかしその意図はないので、自分を褒めて他人を貶すことはありません。ほとんどすべての僧は低劣で下賎だと言ったこともありません。それはある新聞が言ったのであって、私が言ったのではありません。それに私は、生活するために庶民を騙したことはありませんし、死んだら生まれると教えてもいません。

 しかし、私が「死んだら生まれる」と教えていると主張する人もいます。さっきは、死んだら生まれないと教えると非難され、今は死んだら生まれると言って庶民を騙すと非難されます。

 これらは、どれも私と関係ありません。もし私が自分を褒め他人を貶していると証明する人があれば、お詫びし、罪を告白し、何でもさせていただきます。自分を褒める何かをした証拠を探し、あるいは、いつかどこかで自分を褒め誰かを貶したと証明されれば、最高の褒美を差しあげます。

理解していただきたいだけです。もし強く言いすぎたとしたら、それは理解させたい善意でしています。それが誤った見解すぎれば、頭の皮を掌くらい剥がなければなりません。それはひど過ぎかもしれません。しかしそれは、自分を褒め、他人を貶すことではありません。さあ次。

 

問題24 : 論蔵家は他人のせいにし、他人を貶す

質問 : 次は私の疑問ですが、自分自身を論蔵家と称す人は、なぜ他人のせいにするのでしょう。他人を謗るためでしょうか。

答 : それはあなたの疑問で、私は答える必要はありません。論蔵家の人は、人を謗るのが得意で、怒るのが得意で、怒り易くてすぐ怒り、言い掛かりをつけ、策略を弄す人がたくさんいるということは現れています。そして時には、夫婦間の情欲に関して過激なことをします。これには答える必要はありません。なぜなら他人を謗ることだからです。 

 

問題25 : プン氏は広報係

質問 : 彼らは、プン チョンプラスートさんは、凶悪な毒を仏教徒に広める先生の広報係で、放っておけば仏教にとって危険だから、この広報係も消滅させなければならないと、言います。この事実はどうなっていますか。

答 : これも分けて見てください。プン氏が私の広報係なら、私と同じことを言うはずです。これはもう証明済みです。プン氏を私の広報係とするには、私と同じことだけを言わなければなりません。何も非難することはありません。プン氏が凶悪な毒である考えを広めるので、消滅させると言うならご自由に。

 私は誰も消滅させる義務はなく、お互いに理解させる義務があるだけです。ここには、声の主も、広報係も、一緒に消滅させなければならないという言葉があります。これは正しくありません。つまり違うことを言うので、広報係と言うことはできません。同調できるはずがありません。さあ、他のことにしましょう。

 

問題26 : 「輪廻」という言葉を理解しない

質問 : 彼は先生のことを、心が「俺、俺のもの」になっていない時輪廻はない、名形(名色。心身)だけで、輪廻ではない、むしろ何らかの形の涅槃だと説明していて、「輪廻という言葉と名形という言葉を少しも理解していない。これは白を黒にする説明で、タンマに関して知識のない人のような盲信だ、と先生を非難します。真実はどうですか。

答 : これは、黒を白と、白を黒と言う、正反対の説明だと言う非難です。非難している人は、さきほど述べたような輪廻という言葉を理解できないので、壁画のような、界を越え、生を越え、生死を繰り返す輪廻があるからです。

 そういうのにも私は反論しません。この種の、このタイプの、そのグループの人の話として放っておきます。しかし私は、今ここで、人の心にある心の面の輪廻を、何としても消滅させる努力をし、回転して輪廻にならないように努める、知識のある人たちを求めます。

 そして心が俺、俺のものを作らない時は、その時は煩悩がありません。心が俺、俺のものを作らなければ、心に煩悩はありません。煩悩は、いつでも俺、俺のものという考えから生まれ、心に俺、俺のものがなければ煩悩がなく、煩悩がなければ熱くありません。

 熱くなければ涼しく、ある意味、あるレベルの、一定期間の涅槃です。だから心に俺がない時は、心に涅槃があるのと同じです。心に俺、俺のものがある時、つまり俺、俺のものと感じる時、輪廻があります。

 俺、俺のものは、いつもある訳ではなく、うっかりして無明に支配された時だけ作られます。形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わい、触れた時、俺、俺のものという感覚が生まれます。聞くと、非難している人は、俺、俺のものはいつでもあると、あるいは輪廻はいつでもあると理解していると見えます。

ここに座っている非常にたくさんのみなさんも、もしかしたら、私たちは輪廻を繰り返しているという言葉のせいで、輪廻はいつでもあると理解しているかもしれません。前世、過去世、現世、来世、これからの世が輪廻で、そして私たちは輪廻から抜け出す間がない、あるいは私たちは輪廻から解放される間がないと。

 私はそうではないと言います。そういうのは他の人たちに任せて、彼らがそう信じたいなら、信じさせます。しかし、カンマを作り、カンマの結果を受け取る煩悩がない時、その時私たちには輪廻はないと言います。輪廻は非常に早いです。煩悩がある間が、カンマを作る原因です。

 たとえば思考。思考をすればカンマの結果を受け取り、焦燥があります。これはもしかした一秒の半分くらい、息を止める間、あるいは二、三分かもしれません。輪廻は肉体的な死生がなくてもあります。人の暮らしの一日に、何巡りもし、どの循環も熱いだけです。熱さでネジのように回転するだけです。あってはいけないので、煩悩がないよう管理してください。

 煩悩がある時は俺、俺のものがあります。煩悩が生じればいつでも、基礎に俺、俺のものがあります。つまり無明が欲望、執着を作り、俺、俺のものになり、そして俺の望みがあります。それが煩悩で、そして煩悩の望みどおりに行動して結果を受け取るので、ここで循環しています。

 輪廻に落ちないでください。日常的な輪廻を泳ぎ回らないでください。日常の輪廻を泳ぎ回らなければ、どんな種類の輪廻にも落ちず、回遊しません。死んだ時に界を越え世を越える輪廻は、しまっておいても構いません。その人たちに預けておいてもいいです。私たちは今ここでの輪廻に落ちないので、きっと落ちないからです。これが輪廻の話です。

 この名形(心と体)が主役で、形(具象。体)だけがあって名(抽象。心)がないということはあり得ず、名だけがあって形がないということもあり得ません。「名形」とは「心と体」なので、いつも一緒でなければなりません。訓練しなければ、聖人の言葉を聞かなければ、良い指導を受けなければ、名あるいは心の部分は、煩悩に支配される機会があります。

 そして俺を作りだし、煩悩を作り出し、その名形はそれ自身の中の輪廻を繰り返します。「それ自身の中」とは、良く聞いてください。その名、その心の中に無明があり、欲望があり、執着があり、煩悩があり、そして自分自身の煩悩とカンマとカンマの結果の威力の間を泳ぎ回ります。

 これが生きているうちの、一人一人の心の中の輪廻です。輪廻に落ちないでください。そうすればどんな輪廻に落ちることもなく、死ぬ時も、それ以上回遊する、どんな輪廻もありません。

 名形と輪廻の真実がこのようなら、どうかみなさん、学んで良く理解し、輪廻を繰り返さないでください。輪廻のどこかの部分を破壊することで、急いで嫌い、急いで恐れ、急いで離れることができ、そうすれば輪廻の回転は止まります。車輪と同じで、幾つ車輪があってもいいですが、輪になっているもののつ、その輪の一部分を壊してしまえば回転できません。

煩悩を壊してもいいし、カンマを壊してもいいし、あるいはカンマの結果を掌握しないのでも、カンマの結果に執着しないのでもいいです。煩悩を喜ばず、カンマを喜ばず、カンマの結果を喜ばなければ輪廻は止まります。止まれば涼しく、あるレベルの、ある意味の、永遠に煩悩が滅すまで、永遠に輪縁が止まるまでの、一時だけの涅槃です。さて、他にありますか。

 

問題27 : 輪廻の中に涅槃がある

質問 : 彼は先生が、輪廻の中に涅槃があると、考えのないことを言うと非難しています。これはどうですか。

答 : それは、輪廻の中に涅槃を見つけてくださいという意味で、「輪廻の中に涅槃がある」と言ったのは認めます。涅槃というのは輪廻の消滅、あるいは停止なので、みなさん、輪廻の消滅、あるいは停止はどこにあるか、どこで見つけられるか、自分自身で見てみてください。それは停止した、あるいは消滅した輪廻を見ます。私は見えるように話しました。

しかし彼らは彼らの標準で捉え、どのグループか知りませんが、彼らは、涅槃は一つの方向で、輪廻はもう一つの方向なので、出会うことはないと教えています。輪廻があっちの端で、涅槃がこっちの端だったら、どうして輪廻を止めることができるでしょうか。考えて見てください。火を消すには、火のある所で消します。

これは簡単な話で、子供でも火を消すには、火のある所を消すと、聞いて正しく分かります。火がないのに消えることがあるなら、消えることは何処にあるのでしょう。だから消火には、火がなければならず、輪廻の消滅には、輪廻がなければなりません。

輪廻の消滅を涅槃と捉えれば、輪廻の消滅に涅槃を探さなければなりません。煩悩に煩悩の消滅を探すことが煩悩を消滅させ、そこに煩悩の消滅があります。だから私は、熱いところに涼しさを見つけると言います。つまり熱さの消滅が涼しさです。

この街の、この村の、この地区の、この辺りの先祖は非常に賢く、「ナリケー椰子は蜜蝋の海の中に」つまり「涅槃は輪廻の中にある」と言いました。私はわざわざお金を掛けて池を造りました。大きな池の真ん中に椰子の木があります。みなさんに見せる池が出来上がるまでには、トラクター代がたくさん掛かりました。

池の水が輪廻としてゆらゆらしているのを、徳−罪、善−悪、幸−苦、勝−負、得−失、女−男、何でも水の部分を輪廻と見、そして涅槃は池の中、輪廻の中にあっても、その池ではなく、水ではなく、椰子の木の所にあると見ます。それが涅槃です。

行って見てください。それは輪廻の消滅なので、輪廻の中に輪廻としてではなく存在できます。。だから、「ナリケー椰子は蜜蝋の海の中に 一本だけ 雨が降っても当たらない 雷もとどかない」という歌詞の、泣く子をなだめる歌があります。その椰子の木は、雨が降っても当たらず、雷も届かないと言うのは、苦は届かないという意味です。

苦が届くのは輪廻だけ。つまり水、蜜蝋の海だけです。蜜蝋は熱ければ液体で、冷えれば固体になります。これが徳と罪、善と悪、このように対になっていて、涅槃はそれより上でなければなりません。徳と罪より上で、善と悪より上で、そして苦よりも上でなければならず、そして輪廻より上でなければなりません。つまり輪廻が止まり、輪廻が消滅します。しかし他の場所で消滅することはできません。輪廻の所で消滅します。

輪廻を越えれば、「輪廻の威力は涅槃に何もすることはできない」と私たちにも見える、輪廻の上にいることができます。そこは、雨が降っても当たらず、雷も届かないと言うほどで、そこへ到達するのは、徳を脱した人だけです。罪を脱した人は徳に執着するので、徳を脱せばそこ、つまり涅槃に到達します。

だから私はいつでも、涅槃を探すには、輪廻を見て、そして、何としてもそれを消滅させなければならないと主張しています。涼しさが欲しければ熱を消滅させてください。熱が消えた所に涼しさがあります。少し消えれば少しあり、たくさん消えればたくさんあり、一時的に消えれば一時的にあり、永遠に消えれば永遠にあります。

だから他を探さないで、苦を滅すには、苦のある所で滅します。別々の時、別々の場所に持っていかないでください。苦が家にあって、滅苦の道具がお寺にあったら、出合う時がありません。

 どこかに苦があったら、苦のある所で滅苦をしなければなりません。だから次のように主張させていただきます。輪廻に涅槃を求めてください。あるいは赤々と燃えている溶鉱炉の中に、最高の涼しさを求めてください。愚かなら、きっとこの言葉の意味が分かりません。

それほど愚かでなければ、滅苦は苦の所でしなければならず、熱さを消すには熱いところで消さなければならず、輪廻を止めるには輪廻の所で止めなければならないと、きっと理解できます。だから私たちはそこで、涼しさあるいは涅槃を得ることができます。さあ、次にしましょう。

 

問題28 : 涅槃と輪廻は心の中にある

質問 : 彼は先生が、同じ一つの心に、涅槃も輪廻もあると教えていると批判しています。この事実はどうですか。

答 : 私が言っていない言葉を、彼は言ったと言います。一つの心というのは、私は言っていません。私が言った心とは、何かを知る状態です。心という言葉の意味で何でも感じることができ、考える状態があり、その心で間違ったものを作り出せば輪廻になり、その心で正しく振る舞えば、涅槃になります。

 一つの心の中に、同時に二種類は存在できません。別の時でなければなりません。彼が「一つの心で」と言うとき、何を意味しているのか分かりません。一つの心に涅槃と輪廻の両方があるというようなのは、私は言いません。私は認めませんし、そのように信じません。しかしこの心は、訓練し、調整し、何かを解決して、輪廻があるようにも、涅槃があるようにもすることができます。

それが熱くなれば苦で輪廻で、つまり無明でできた心です。無明を出してしまえば問題がなくなるので、反対の心、輪廻のない心、つまり私という執着が心の主人として入って来ない時は、涅槃だけがあります。

 それは、心が自然に行なわなければならない心の義務です。間違った行動をする心の時は、苦ばかりを味わいます。長くそうしていると厭き、倦怠し、そうしたくなくなるので、別の方へ転げていき、他の形に変わり、つまり無明に支配させないので、苦のない心になります。

 だから智慧がある賢い心が、愚かな心を管理しなければなりません。自分と呼ぶ心に、自分を生じさせないでください。自分と呼ばなければ、何と呼んだら良いのか分からないので、仮定で自分と呼びます。

 人には心があり、心は原因によって変わります。間違えれば苦が生じる方の変化になり、苦を生じさせる方の縁起になり、その人が懲りることを知り、注意することを知り、心の本能で変化することを知るれば、正反対に転がり、無明は生じず、そして苦も生じません。

心が賢いので、愚かな心を支配する、あるいは愚かな心を壊滅させるからです。これは、国を奪って支配するのと同じで、賢い心、あるいは愚かな心が国を治め、私たちはいなくて国を支配する心があるだけです。そして心と国の両方を、仮定で「私」と呼びます。仮定だけの話です。

 次に苦である心は、苦に飽き飽きし、苦に倦怠すれば、新たにもがき、変化し、以前のようにするのが怖くなり、怖くて、苦を生じさせるようなことはできません。これを智慧と言い、智慧が進歩して正反対に、つまり苦がないようにできるようになります。これが輪廻の出口です。つまり心が苦を知り、苦に飽き飽きするようにさせる動きを応援する原因です。

そして心は、二度とそのような変化を生じさせなくなるので、滅苦の方へ変化します。一種類の心全部が、幸福にもなり、苦にもなり、仮定で何と呼ぶこともできます。苦の方向になるように訓練することもでき、苦がないように訓練することもできます。

 だから苦の固まりの輪廻を繰り返すことは、後で心が輪廻、つまり苦から出ることです。それも心です。心が苦の固まりの中を泳ぎ回っていれば、心は苦で、出てしまうことができれば脱出した心、解脱した心です。解脱した心は、苦の塊から出てしまい、苦の塊から脱出し、輪廻からも脱出しました。心に原因がなくなり、残らず消滅し、そして止まってそこで終わるまで、それもずっと心です。

 生きている間中、普通の凡人は愚かです。普通の凡人は心がくるくるくるくる変わり、無明があるので、輪廻の方に歩いて行き、賢くなれば止まります。あるいは輪廻を生じさせないように注意します。そうすれば聖人の心が増え、つまり凡人の心から隔たり、凡人であることから後退します。

 三時間をすぎました。喉が渇いたので一旦休みます。また午後三時から講義をします。朝の部は、これで終わりにさせていただきます。すべての部分すべての項目は、揶揄するべきものばかりです。良くしたことも揶揄され、良くできなかったことも揶揄され、揶揄するべきことは、このように二つの意味があります。何も珍しいことと見ないでください。これで、朝の部のお話を終わります。


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