問題5 : 簡単な説明は異教徒
質問 : 彼は「地獄は目・耳・鼻・舌・体・心の苦で、天国は目・耳・鼻・舌・体・心の幸福」のような簡単な説明は仏教ではない。ディアラティー(一般には異教徒という意味に使われている)の物だと先生を非難します。これはどうでしょうか。
答 : 質問の要旨、あるいは彼の疑問は、地獄天国の説明は浅い物で、仏教ではなく異教徒の物ということです。こういうのは愚かです。彼は異教徒(ディアラティー)という言葉を知りません。彼は他のディアラティーと明言していません。ディアラティーという言葉は教祖という意味で、どの教義でも良く、仏教も一つのディアラティーです。
彼がディアラティーと言うには、「他の」という言葉をつけ足さなければなりません。三蔵を見ると、どこにでも「アンヤ ディアラティー」、つまり「他のディアラティー」という言葉があります。他のとは、仏教以外のことです。
人は知らないので使い方が分からず、ディアラティーの物という使い方をします。彼は、ディアラティーという言葉の意味は「教義」だけと知りません。教祖でなければディアラティーと言いません。部下なら、ディアラティーの弟子と言います。
私はディアラティー、つまりブッダの弟子ですが、他のディアラティーの弟子ではありません。三蔵の至る所で呼んでいます。「プッタタートはディアラティー、つまりブッダの弟子です」と言わせていただきます。なぜこう言うかと言えば、ディアラティーという言葉は、正しいのも正しくないのもあるからです。
間違いなら、アンヤディアラティーと付け足せば、仏教以外の他の教義です。三蔵を見ると、ディアラティーという言葉を使うときはいつでも、「他の」という言葉がなければならず、ディアラティーだけのことはありません。
ディアラティーという言葉は、パーリー語ではティッタティヤで、港という意味のティッタから来ています。普通「港」と言うと、舟がたくさん泊まっていることを意味し、そして自分の好きなように泊めます。薪を積んだ船は薪の港に、野菜の舟は野菜の港に、魚の舟は魚の港に。それを彼らは港と言います。舟が集まる場所をティッタと言います。
次に各々の教義を規定し説明する教祖のいる宗教、教義は、港のようです。誰でも好きな港に行くので、幾つもの港ができます。「ティッティヤ」とは「港のよう」という意味です。ディアラティー一語では、「港のよう」という意味です。誰でも好きな港に舟を泊めます。仏教の港は、このように何でもある港の一つです。
好きな人は来て、嫌いな人は、ブッダが他のディアラティーと呼んだ、あるいはアンヤティタティヤと呼ぶこともあり、アンヤティタティヤ プリパーチャカと呼んでいることもある他の港に行きます。しかし他の港は誤った見解です。誤った見解なら、パーリー(ブッダの言葉)にしたがって正しく、他のディアラティーと言わなければなりません。
港と言えば「イタ」という言葉があります。イタヴィッカヴェー。イタ=この港は、このタンマヴィナヤで、このタンマヴィナヤは舟が泊まる所です。このタンマヴィナヤを、彼らはそう見なしました。アンヤティタティヤなら、他の港です。だから彼らが、私はディアラティーの教えだというのは、そのディアラティーと言うのがブッダなら、そう言うことができます。
ディアラティーとは教祖という意味で、たくさん、何人もいます。ブッダも教祖の一人なので、ディアラティーの一人す。つまりこのディアラティーで、これ以外は他のディアラティーと言い、たくさんいます。
私をディアラティーと謗る人がいれば、それは間違っています。私は教祖ではありません。しかしディアラティーの弟子と謗るなら、非常に正しいです。なぜならディアラティーの一人であるブッダの弟子だからです。しかしアンヤディアラティーの弟子と謗るなら、あり得ません。間違いです。私は、この教義以外の、他の教祖の弟子ではありません。
どうぞディアラティーという言葉を正しく理解してください。タイ語は略して言うので、意味が曖昧です。ただディアラティーだけで誤った見解とするのは、正しくありません。ただディアラティーというのはどの教義にも共通で、このディアラティーはブッダのことで、他のディアラティーは、他のすべての誤った見解のことです。
私はディアラティーであるブッダの弟子です。いつでもこう主張しています。だからどんな説明も、ブッダディアラティーの教えの説明です。三蔵のあちこちで使われている言葉、他のディアラティーではありません。
地獄は目・耳・鼻・舌・体・心にあるという説明は、ブッダが言っわれているのであって、私ではありません。地獄は六処にあります。アーヤタニカナラカと言って、六処にある地獄です。つまり目・耳・鼻・舌・体・心の経過、つまり目・耳・鼻・舌・体・心が間違えば、苦や焦燥が生じます。
この地獄を六処の地獄と言います。天国も同じで、目・耳・鼻・舌・体・心が正しく行動すれば情欲の旨味になります。これをアーヤタニッカサッガと言い、六処の天国です。これはブッダが言われています。サンユッタニカーヤ(相応部)に根拠があるので、調べて見てください。
この人は愚かで、見たことも聞いたこともなく、それで私が勝手に言っていると非難します。みなさんは「誰が言った、ブッダが言った、私が言った」と、私を非難しないでください。自分自身で目・耳・鼻・舌・体・心を見てください。
それが熱くなるのは、間違ったことをした時で、それを「今ある地獄」と言う方が真実であり、最高にサンディッティコです。天国も同じです。安心して満足し、自分自身を拝める時、その時、目・耳・鼻・舌・体・心に天国があります。ブッダは、地獄天国は六処にあると、はっきり言われています。
地下にある地獄、空の上にある天国は、他の人たちが言っていて、ブッダ以前から言われていました。ブッダは彼らと喧嘩するつもりも、彼らに反論するつもりもなく、そう言うのは、言わせておきました。しかしご自身はそのように見えたので、「六処が地獄になるのを私は見た。六処が天国になるのを私は見た」と言われました。
そして「アーヤタニッカナラカ」、つまり六処で生まれる地獄という名前を、はっきり言われています。地獄も天国も六処にあり、六処で経過します。その六処の経過次第で、熱くなれば地獄になり、快適で満足できれば天国になります。
このような言葉を、ブッダ以前に言った人はいません。誰も言った人はなく、地下の地獄と空の上の天国について話すだけでした。
そしてアッタカターを書いたアーチャンで、愚かな人がいました。その人は、ブッダはそのように言ってはいても、それは地下の地獄、天上の天国を意味すると説明しています。このアーチャンは、目・耳・鼻・舌・体・心にどうして地獄があり得ようか、と言っています。この人は愚かで、タンマ語を全然知りません。今テキストにしているアッタカター(解説書)です。アッタカターのこの部分を開いて見てください。
そのアーチャンがアッタカターを書いて説明した結果、再び大昔と同じように、地獄は地下に、天国は空の上になりました。それらは目・耳・鼻・舌・体・心にあると、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心に生じると認めません。このように疑う人は、この種のアーチャンの弟子です。
私は採用しません。サンディッティコでなく、自分自身で見えません。そして仏教ではありません。仏教はパッチャッタム、ヴェーティタッボでなければなりません。そうすれば仏教になります。だからブッダが「地獄は六処に現れ、天国は六処に現れる」と言われたのに非常に賛同し、ブッダの大悟を非常に崇拝します。
どうぞみなさん、目・耳・鼻・舌・体・心を良く管理し、地獄を生じさせないようにしてください。天国が欲しければ、いつでも六処を天国にしてください。しかし地獄も天国も欲しくなければ、六処の威力より上にいる方がいいです。六処の影響をすっかり無くして、地獄も天国もほしくなければ涅槃です。地獄天国に意味がなければ、その時は涅槃です。
つまりそれより上にいます。それらを超えています。地獄天国は世俗にあり、涅槃は世俗より上、六処の威力より上にあります。この項目は、このような説明が最高に仏教の物であり、地獄天国は六処に現れると教えた、ブッダディアラティーの物であると答えさせていただきます。さあ、次にしましょう。
問題6 : 智慧の劣る人のようにタンマの説明をする
質問 地獄天国、涅槃などの説明を「この世だけを簡単に見えるように譬えて、智慧の劣る人のように浅い意味で説明する」と、先生を非難します。この事実はどうですか。
答 : この人は、現世で見えるように簡単に説明し、簡単に譬えるだけで、智慧の劣る人がすることと非難します。みなさん考えて見てください。現生で見せるのはサンディッティコで、譬えでなく真実を見せることです。それが智慧の劣る人になります。今ここで、この生で見えるように説明するので、私は智慧の劣る人だと非難されます。それもいいです。私がそうでなければ、彼が何と言おうと構いません。
彼が死後にあるという物を、私は今ここで見えるように説明する努力をしています。死後では遅すぎ、アカリコではないので、何の利益もありません。サンディッティコでもいいし、パッチャッタムでもいいし、ヴェーティタッボでもいいですが、それによって、生きているうちに見えなければなりません。誰の智慧が劣るか、自分で考えて見てください。他の話題にしましょう。
問題7 : ローギヤタムは仏教ではない
質問 : 彼は、先生が「ローギヤタム(世界で生きるためのタンマ)はブッダの教えではない」と言っていると、非難しています。真実はどうですか。
答 : この人は私が、「ローギヤタムはブッダの教えではないと言っている」と言っています。これは、印刷されている何百冊の本の、どこにでもある明らかな証拠を引用しなければなりません。どこでこのように言っているか、本を開いて見てください。ローギヤタムの話は、話していれば、ブッダ以前の智慧の劣る人の物と言います。
すべてのローギヤタムの話は、ブッダが生まれる前に、話されていました。そこへブッダが生まれて、人々がそのように信じている時、ブッダはどうしたでしょう。ブッダは、これらの人々に対して最も利益になる、最高に良い話し方をしなければなりませんでした。
ブッダが生まれた時、人々はそのような地獄天国を信じていました。ローギヤタムの話で、そのように固く信じ込んでいるので、ブッダはどうしたでしょか。ブッダはすべてを廃止することができるでしょうか。それは喧嘩の種を探すことなので、ブッダにはもっと賢い方法がありました。
つまり歩調を合わせてから、そういう天国を望むなら、あなたはこうしなければならない、地獄を望むなら、あなたはこうしなければならないと言われました。最も重要なのは自我の話、あるいは自分がないことです。ブッダが世界に誕生した時、大悟してブッダになった時、当時の人は全員、自分はあると信じる人ばかりでした。あるいは少数の人が、何もないと信じていました。
何もないというのも、信じられていましたが、非常に固い基盤は、自分はあるという信仰で、自我があり、低い自分も高い自分もあり、パラマッター(偉大な自分)があり、パラマータマンになると、彼らはそう教えられていました。これをウパニシャット時代と言います。
ブッダはウパニシャッド時代に生まれました。人々はそのように自我があると教えていたので、ブッダはどうしたでしょうか。「それは間違いで使い物にならない。全部撤廃する」と言うことはできません。それはできません。世界全体の愚かな人に、それはできないので、彼らに合わせるように言わなければなりません。
つまり「あなたはあなたの自分があると信じていて、大好きな自分があり、自分の拠り所である自分がありますが、あなたはああしてこうすれば、それが拠り所である自分になります。しかし私は、自分と呼ぶ物はありません。そして自分の物である物は、どこから来たのかと言いたい。
あえて自分があれば、苦が尽きることがないので、自分はないと、もう一段階上を見るべきです。自分があるというのは誤解で、自分があると自分で考えているだけです」と言いました。ブッダは自分がない話を、限られた人にしか教えませんでした。
ブッダが大悟したばかりの頃、「この話を教えるのは止そう。これは誰も理解できないに違いない。自分がない話は、誰にも理解できない」と挫けました。しかしブッダは、もしかしたら理解できる人がいるかもしれないと気づいて、教えることにしました。
そして自分を持たないように教えるのは、非常に大変でした。つまり智慧のある人、何とか理解できる智慧のある仙人や修行者に教え、庶民には自分がなければならないので、自分がある人のために、ブッダは世俗のことを教えました。
だから私たちは、在家の実践の仏教の教えに、たくさんあるのを見ることができます。特に非常に完璧なのは、ディーカニカーヤ(長部)のシンガローワーダ経です。読んでみてください。自分がある人のためのローギヤ(世俗的な)の話です。どうかみなさん全員が、このことを知ってしまい、間違って話さないでください、と言わせていただきます。
つまりブッダは自分がある種類も、自分がない種類も、二種類の教えを説きました。ブッダは一種類しか教えてないと言わないでください。そうする必要がありました。すべての人間は自然に自分があり、自然に自分に執着しています。その上ブッダ以前のいろんな宗教も自分があると教えたので、人は強く自分に取着していました。だからブッダが生まれて自分がない話を教えるのは、非常に大変でした。しかしブッダは教え、そして成功しました。
この問題はタイにも関係があります。タイも同じで、仏教がこの地に入る以前に、自分を信じるヒンドゥーやバラモンの人たちが、先に教えていました。
仏教より前にインドからやって来て、ウパニシャッド式の自我を教えたので、生死を繰り返す自分があることが、その地の人々の心に刻み込まれました。そして本当の本能でも、私たち人間には自分という感覚があるので、彼らは教えやすく、有利に教えられ、そして深く埋め込むことができました。
この地の庶民は、バラモン教の自我がある教えを信じていたので、仏教が入って来て自分がない話を教えるには、非常に悪戦苦闘しなければなりませんでした。奇跡のような話も非常にたくさんあり、お化けを退治し鬼を成敗する話まで、このような言葉を使う必要までありました。自分がない仏教の形になるまでには、非常に困難を極めました。
次に普通の人は、本性にくっ付いて来た自分があります。現在まで、今日まで、基礎の人々には全員、自分があります。だからこの部分の教え、自分がある部分の教えを受け入れます。だから仏教には二つのレベルがあると言います。ローギヤタムは、自分があると教える必要のある仏教です。
次に智慧がある人が高いレベルに進んで、自分がない無我を知れば、ロークッタラタム(脱世間法)になるので、ローギヤタム(世間法)とロークッタラタムのどちらもあります。自分を掴む人のためのも、自分を掴みたくない人のためのもあります。だから私は「仏教には自分がある教えも自分がない教えもある」と、知らない人に教えます。
罪を避けて徳を積んで、良い輪廻をさせるのは、自分があり、輪廻に倦怠すれば、自分がない話を学べば、涅槃になります。これが仏教の純潔の完璧さです。最も完璧なことは、自分があるのと自分がないのとの、両方があることです。ローギヤタムの話は自分があるようにになり、ローグッタラタムの話は、自分がなくなります。二種類教えなければなりません。
私も二種類をできるだけ良く教えるよう努めています。たくさん印刷されている書物に証拠があります。しかし、ローギヤタムはブッダ以前から言われている話で、ブッダの物ではないと捉えることもできる、と言いたいと思います。しかしブッダはこのような人たちの中に生まれたので、ブッダもそれなりに教えなければなりませんでした。
人がまだローグッタラ(脱世間)に到達できない時代には、とりあえずローギヤを教えなければなりません。そして私たちは、ローギヤ(世俗)であるこの種の教えを批判することはできません。まだ自分がある人に対しては、とりあえず教える必要があります。その人が自分を捨てたくなったら、ローグッタラを教えます。さて他にありますか。
問題8 : 出家して五十年たっても何も知らない
質問 : 彼は先生のことを「出家して五十年の上になるのに、浅くて簡単な言葉さえ知らない。ローギヤタムとローグッタラタムという言葉などは、自分の個人的考えで説明し、そしてブッダの物だと言う」と非難しています。これはどうですか。
答 : さてこれは、ローギヤタムはどういうことか、ローグッタラタムはどういうことか、さっきの項目で説明しました。そして人間集団にある真実を説明しました。これも教典と一致しています。この質問に関しては、先ほどの答に詳しい説明があるので、これ以上答はありません。他の質問にしましょう。
問題9 : タンマの問題を理解しない
質問 : 彼は「タンマの問題に対して知識も理解もない」と先生を非難します。これにはどんな説明をなさいますか。
答 : タンマの問題に知識と理解がない。これは誰が聞いても意味が分かりません。「タンマの問題」。これに関して彼はどんな説明をしていますか。
問題10 : アビダンマの心の数を知らない
質問 : つまり心、意の数について述べたアビダンマのローギヤタムとローグッタラタムです。
答 : 少しはっきりしてきました。問題が少しはっきりしました。「心の数、意の数の教えがあるアビダンマ式に語るタンマの知識、理解がない」。アビダンマのことを話すと、アビダンマと喧嘩になります。私は、アビダンマ(論蔵)はブッダの言葉の形でなく、ブッダの言葉を、自分の考えで好き勝手に説明し、アビダンマと呼ぶと見なしています。
特にこの種の教典は、全部海に捨てても構わないと、世界は何も失わないと、私は信じています。ヴィナヤとスッタが残れば十分です。だから私は苦と滅苦の教えを説明します。特に縁起、あるいはイダッパチャヤター(因果の法則)です。
論蔵は縁起をもう一度説明しているので、明瞭さに欠けます。そして少ないです。経蔵にある説明より少ないです。はっきり言って、論蔵で説明されている滅苦の話は少ないです。経蔵よりも少ないです。彼らは膨張した角度から説明しているので、哲学で、文学で、論理で、滅苦の実践に関係のないいろんなことで膨張しています。
行ったり来たりするうちに、善だけを望む動物や人物が現れました。だから私は興味がありません。滅苦の実践に関係がないからです。私は滅苦の実践だけを重要とします。経蔵にあるだけでも、論蔵にある説明より多いです。
文字は論蔵の方が多いかも知れません。同じとしても内容がありません。内容は、アビダンマの人たちが言葉を引用して膨張した論蔵の形で説明する前の、元の経蔵にあります。だから私は膨れ上がったのは好きじゃありません。過ぎたのも好きじゃありません。
私は、滅苦ができる、直接空や無我の話が好きです。だからどうぞ、経蔵に揃っている滅苦の話に興味を持ってください。経蔵の前にヴィナヤ(律)があります。だからもう一度繰り返させていただくと、論蔵全部を海に捨てても、「膨張」以外に、完璧な滅苦に関して世界は何も失いません。
このような哲学や論理学や文学で膨張させたいなら、それもできます。論蔵はまだ役に立ちます。その面では非常に役に立ちます。しかしそれは、滅苦に言及していません。もう一度繰り返させていただきます。論蔵は海に捨ててしまっても構いません。滅苦に関して、世界は何も失いません。さあ、他に何かありますか。
問題11 : 輪廻を否定する
質問 : 彼は先生のことを、輪廻を否定すると非難します。事実はいかがですか。
答 : 質問者は、輪廻とは何かを知りません。死んだ後の輪廻を標準にしています。私はまだ生きている人の、死ぬ前の輪廻、サンディッティコの輪廻を教えます。その方がより真実で、より必要です。この輪廻は人の心にあります。つまり人が何かを欲しがると煩悩で、欲望で何かをするとカンマで、カンマは人が受け取る結果を生じさせます。
これが、人の心の中で毎日毎月回っている輪廻で、一日に幾つの輪廻があるか知れません。私はこのように説明します。過去生と現生と、もう一つ未来の生を合わせて三生を輪廻と言うのではありません。それはブッダ以前から言われている人のものです。
ブッダはこのように愚かで雑な輪廻は教えず、縁起の一巡に輪廻があると説明しました。そしてこの縁起は、普通の人の一日に幾つも生じることができます。今私は、非常に凶悪で強力で非常に問題な輪廻は欲望にあると、そして欲望で行動し、そして結果になり、そしてそれは続いて欲望させると説明しています。
こういうのは輪廻の説明ではないでしょうか。このように説明するのは、説明以上です。そして現生の説明であり、人の心を説明しています。人の心にある輪廻は、仏教の真実です。どんな話も人の心を説明しなければ、サンディッティコ(自分で見ることができる))、パッチャッタンヴェーティタッポー(智者が自分で感じることができる)になりません。
だから良く調べもしないで「輪廻を教えない」と、あるいは「輪廻はないと否定している」と、私を叱らないでください。私は「それは心にあり、非常に恐ろしく、銘々の日常生活にある」と、強く信じています。煩悩を消滅させて、急いで脱出してください。煩悩がなくなれば輪廻は輪でなくなるの、で回転できません。
煩悩がなければカンマを作らないので、カンマの結果はなく、輪廻は止まります。あるいは私たちは最高のカンマ、非黒非白業を作り、八正道で涅槃へ向かいます。八正道は輪廻を消滅させるので輪廻は止まります。
これが輪廻と輪廻からの脱出の仕方の説明です。私は「輪廻はない」と否定していません。私は、最高にあり、非常に恐ろしいと主張しています。どうぞみなさん、急いで自分を輪廻から出してしまってください。さて次にしましょう。
問題12 : 比丘と呼ぶべきでない
質問 : 彼は「先生は輪廻の害が見えないので、自分自身を比丘と呼ぶべきでない」と非難しています。これにはどう答えますか。
答 : 「比丘、ビクス」の正しい意味は、輪廻の害が見える人です、彼は、私は輪廻の害が見えないので比丘ではないと言います。この項目では、彼に花を持たせましょう。この問題で彼と争いたくありません。さて次にしましょう。
問題13 : タンマを理解できる智慧がない
質問 : 彼は「先生は凡夫で、ブッダのプラタムを理解できる深い智慧がない」と非難しています。これにはどうおっしゃいますか。
答 : 聞いて見てください。凡夫でブッダのプラタムを理解できるだけの智慧がない。正しいです。凡夫なら、目を塞ぐかさぶたが厚いので、ブッダの意味は理解できません。ブッダのタンマの意味は理解できません。
これは私が五十年以上教え、指導し広めてきたブッダのタンマはどうかを見て、私がブッダのプラタムを理解しているか理解していないか、自分で判断してくださいと答える以外にありません。他の話にしましょう。
問題14 : いろんな界地を信じない
質問 : 「地獄天国、あるいはいろんな界や三十一地を否定している。あるいは信じていない。そのように信じないのは、ブッダの智慧の恩を侮辱することだ」と、先生を非難します。これにはどう答えますか。
答 : これはさっきの地獄天国の話の繰り返しになります。私は地獄天国を否定していません。私は地獄天国の話を認め、信じています。しかしこういうタイプ、タンマ語で、心の中で明らかなタイプです。私はすごく信じ、すごく認め、「地獄に落ちたくない、天国に行きたい」と思っています。
しかしそれだけに止まらず、地獄も天国もまだ輪廻であり、回遊なので、地獄からも天国からも抜け出したいと願っています。いろんな界と地は輪廻の話で、三十一界、三十一地は輪廻なので、その何も要りません。だからブッダ以前から人々が説明している三十一界、三十一地には、賛同しません。
これらの界と地を説明するなら、すべての界とすべての地は人の心にあると、新たに説明させていただきます。これは界の話、地の話を否定するのではありません。どうぞ、それはまだ回遊している人の心の中にあると、見えるように見ていただくことだけをお願いします。
私は、ブッダはこのように意図し、このように教え、このように説明したと信じます。ブッダの智慧を侮辱することではありません。闇雲に信じる人たちの方が、却ってブッダの智慧を侮辱しています。つまりブッダが本当に公開していることを、認め信じようとせず、地下にある地獄、天上にある天国を信じることが、ブッダの智慧を侮辱することです。
ブッダは、それは六処にあると、六処に現れると言っています。だから三界の本にあるような界と地を信じるのは、ブッダの智慧を侮辱するような信仰です。あるいはブッダの智慧を理解できないから、そういう説明をします。彼がブッダが言われているように正しく理解すれば、彼も、界と地は人の心の中にあると見ることができます。
私が言うことは、ブッダの智慧を侮辱することではなく、ブッダが言われた真実を開示することです。この話の必要性にふさわしく、早く簡単に見えるようにします。さあ、次にしましょう。
問題15 : 過去世を信じない
質問 : 彼らは「いろんな動物の前生についてたくさん述べているブッダの教えを信じない先生を、許すべきでない」と言います。これはどうでしょうか。
答 : 前生について述べているブッダの教えも幾つかありますが、後世になって詩として綴られた、ジャータカやアッタカターほどは多くありません。つまり死んで棺に入り、そして生まれて、また別の話がある体の前生です。それは人々がブッダ以前から言っている話です。ブッダの教え以外の物もあります。バラモン教のウパニシャッドの教典にも同じように書かれています。
仏教教団員は「自分たちの物だ」、あるいは「ブッダの物だ」と、横取りして独占しないでください。それは、良く生まれたかったら良くするという、元の形にするべきです。いろいろ良くすれば、良く生まれることができる、と言うだけで十分です。これを、良く生まれるために現生で準備しておくと言います。
しかし私の「生」は、もっと頻繁で、今俺が生まれたら、その後の「俺の生」という結果のために、記憶して良く学習し、良く行動します。一日に何回「俺、俺の物」が生まれても、一つ一つを生と見なします。だからたった一年でも、何百生、何千生になり、死ぬまでには何万、何十万生もあり、何万生も回遊し、そして輪廻から抜け出すことができるという真実に出会います。
だからそれが「連続している」という教えは、現生で自分が生まれることは、来生、つまり後生の自分が生まれることに繋がっていると認めます。今回「俺、俺の物」が生まれることは、後々の「俺、俺の物」が生まれることに繋がっていて、一日に何度もあります。だからカンマの結果を伝承することもあります。
ブッダは生の話、あるいは昔から人々が言ってきたような生を繰り返す話に反論しないで、仏教の教えに取り入れることを認めました。それは、「善くすれば新しい世で良く生まれる」と言うだけです。
しかしその生は遠い先の話で、まだ問題ではなく、死んだ時にあります。しかし今ここでの脅威である問題の生、毎日幾つあるか分からない生を、先に処理しなければなりません。それは、私たちにとって非常に脅威だからです。今回の「俺、俺の物」の生を、後で生まれる「俺、俺の物」の利益になるようにしてください。そうすればどんどん良い循環になって、最後には問題がなくなります。
それに私は、前生の話、あるいはいろんな話を否定してはいません。信じる以上に信じ、真実以上に真実と見、本当のサンディッティコ、本当のアカリコ(実践する時はいつでも)です。しかし役に立たない、だらだらとキリのない説明ではなく、こういう範囲の説明でなければなりません。それにどんな害があるとも思わないので、誰が許そうと許すまいと私には意味がありません。さあ、次。
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