タンマの水でタンマの泥を洗う
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問題1: なぜ英語を引用するのが好きなのか

質問 : 彼は、先生が説法やタンマの講義をする時、ほとんどすべての言葉に、英語の単語を引用するのが好きで、海外留学をした人以上だと言います。これはどうしてでしょうか。

答 : 説法やタンマの講義の時に英語の単語を引用するのが好きだと、非難する人がいるという質問です。「ほとんどすべての言葉」と強調しています。それは作り事で、言いすぎです。ほとんどすべての言葉に対してというのは言いすぎです。

 印刷されて本になっている説法の記録、講義の記録、大学での講義の記録がどこにでもあるので、ほとんどすべての言葉に対してと言うのはどこにあるか、見てください。何ページに一語、何行かに一語の英語があるだけです。この訴えは、事実ではないということです。

 なぜ英語に言及しなければならないか、二つの理由があると答えさせていただきます。英語に言及すべき場合は、その内容、その教え、その論理を、彼らがすでに英語で話していて、一語で置き換えられている場合で、その英語を使えば聞いてすぐ理解できるからです。

 たとえば positiveーnegative, subjective などは知られていて、その言葉の意味がたくさんあるので、時間を無駄にする必要がないので、その言葉を使います。これは時間の節約のため、聞いた人が簡単に理解できるためです。その時聞いている人は、そういう言葉を既に知っています。だからそういう場合には英語を使わなければなりません。

 もう一つは、教養のある学生たちに話す時です。私は、これらの人たちは、タイに来た外国人と話さなければならないと考えています。外国人はこれらの人たちと会話をするので、外国人に対して間違った言葉を使ってはいけないと心配するからです。すべてのタンマの言葉は、正しい英語の訳語もあり、間違っているのもあり、曖昧な言葉もあります。

 私は何十年も時間をかけて言葉を集め、どの言葉がどうかだいたい分かり、世尊という言葉はどう訳すか、ブッダという言葉はどう訳すか、如行(漢訳では如来)という言葉はどう訳すかなどを、これらの学生たちより良く知っているので、彼らが外国人、あるいはどこかの誰かと話す時、正しい言葉が使えるように、機会を捉えて彼らにその言葉を手渡します。このような利益があります。

 だから彼らにとって理解が困難なタンマの言葉に対応する英語を教えます。彼らに普通の知識しかなくて、それで翻訳をしたいと思えば、奇妙な英語になり、話と一致しないので、機会を捉えては教えています。

 以上の二つの理由で、つまり簡単に理解できることと、外国人に話す言葉を知ることの二つの理由で、私が話した言葉、あるいは内容に該当する外国語を使います。これを、非難する理由もなく非難されると言います。だから今日、揶揄してしまいます。そして叱られるべきでない言葉を出してもらって幸運でした。さて次は何かありますか。



問題2:「ジャーティ:生」という言葉の説明はブッダの言葉と違う

質問 : 彼は、「生」という言葉の説明を、自分で自動的に、このように浅く狭く簡単に説明するのは、たとえば「三十一地は文字どおりの真実」と説明しないなど、ブッダの言葉とは違うと、先生を非難しています。これの真実はどうなのでしょうか。

答 : この問題には二つの点があります。「生」の説明と、一般の人が理解しているように教えないこと、そしてもう一つは、三十一地を事実どおりに教えないことです。この項目に、簡単に一言で答えるなら、説明をサンディッティコにするためです。まずサンディッティコという言葉を憶えてください。

 サンディッティコとは、自分自身で明らかに見えることです。サンは自分自身、ティッティは見る、サンディティは自分で見える、サンディッティコは、自分自身で見える物という意味です。

 私が説明している「生」「生まれること」についての説明は、タンマの言葉で、俺という自分の類の感覚が心に生じると、俺が求め、俺が欲しがり、俺が支配し、俺が求めます。このような考えを「俺、俺の物」という感覚と言い、この種の感覚が生まれる時はいつでも、「生」あるいは「生まれる」と言います。

 もっとはっきり説明すれば、母親の胎から生まれてオギャーオギャー泣いている赤ん坊は、この意味の「生」ではなく、肉体的、物質的な「生」です。犬の子も猫の子も生がありますが、そういう生ではなく、人でなければなりません。次に、人が母親の胎から生み落とされても、まだ本当の生ではなく、まだ本当の生、苦になる生はありません。

 その子が適当に大きくなり、何日、何カ月、何年かははっきりと言えませんが、その子に、美味しい美味しくない、好き嫌いと感じる神経系統の感覚があれば、「美味しい」「美味しくない」に従って、欲望と呼ばれる欲が生まれ、取が生まれ、最後に「俺は美味しい」「俺は美味しくない」「俺は欲しい」と言います。これを「俺の感覚が生まれた」と言います。

 その子にこれくらいの感覚、考えが生まれれば、完璧な生と言い、その子は完璧な生があると言います。生まれても母の胎から生まれただけなら、問題ではなく、苦はありません。苦の問題はこの種の生にあります。自分と感じる生には苦があります。

 私は、今心にある生、「俺、俺の物」と感じる今の生を見せます。これが、生とはこういうものと心で見える、心ではっきり見える生です。これはサンディッティコである話と一致します。

 「俺、俺の物」と、心ではっきりと、明白に感じるのでサンディッティコです。過ぎ去った生、話すだけの未来の生は、何の利益もなく、まだ必要なく、まだ苦の話、滅苦の話ではありません。「ヒト語の生は母の胎から生まれることで、タンマ語の生は無明から生まれること」と言います。

 無明が存分に働いて欲望を生じさせ、取を生じさせること、それが「生まれる」ことです。母親の胎から生まれる生は、これ以上話す必要はありません。誰でも知っていてい、みんな話しています。そして道徳と言われる初等のタンマの話であり、むしろ物質面を目標にする初等の道徳です。私は本当に生まれることであるタンマ語の「生」の説明をしたいと思います。

 このように俺、俺の物が生まれると、生が苦になり、老も苦になり、死も苦になり、何もかも苦になります。何でも自分の物にして、俺の誕生、俺の老い、俺の死、俺の得、俺の損、俺の儲け、俺の赤字にするので、苦になります。このような「生まれること」がなければならないので、問題になります。

 まだ誰も説明する人がいないので、私が説明しなければなりません。自分で勝手に説明しているのではありません。教典にあるブッダバーシタ(ブッダの言葉である教え)で、まとめて縁起、あるいは縁生と言います。縁起の話で詳しく学習すれば、「生」という言葉をこのように理解します。母のから生まれることを意味しません。このような「生」が先になければならず、そうすれば母の胎から生まれることにも意味が生じます。

 だから問題があり、苦があります。このように取によって俺が生まれると、母の胎から生まれた「生」を自分の物にするので、副産物である問題が生じます。だから本当に問題である生は、自分、あるいは自分の物と感じることで生まれる「生」です。下品なタイ語で言う「俺、俺の物」という種類の感覚。これが「生」「生まれること」です。

 次の三十一地は、三十一にまとめたのは、ブッダの言葉に見たことがありません。後世のアーチャンがあっちから集め、こっちから集めて、それで全部で三十一地になりました。三十一地は、彼らが言うには四地が悪趣である地獄、畜生、餓鬼、阿修羅で、そして人間は一地しかありません。

私は、人間を一つだけにしたのは、最高に愚かだと言いたいと思います。次に欲界の天人は、六地に分けられ、そして形梵天は十六地、無形梵天が四地、合計三十一になります。

 四悪趣の地獄は地の下にあり、畜生は野原にいて、餓鬼は餓鬼の世界にいて、阿修羅はお化けで姿が見えず、阿修羅の世界のどこにでもいます。

 私は、このような説明には何の利益もないと思います。心の感覚であるサンディッティコでなく、サンディッティコでなければ、仏教の教えではありません。憶えていただくために、繰り返させていただきます。サンディッティコでなければ、それは仏教のタンマではありません。

 仏教の教えは必ずズヴァッカトー タンモー(世尊によって説かれたタンマは) サンディッティコ(自分で見ることができ) アカーリコ(いつでも実践した時に結果があり) エヒパッシコ(来て見て、と言うことができ) オパナジコ パッチャッタム ヴェーティタッポー(自分で感じることができ) ヴィンユーヒです。サンディッティコ、パッチャッタン、ヴェディタッボ、ヴィンユーヒ=知る人を介して自分自身で感じることができる、という点が重要です。

 地下にある地獄はサンディッティコ(自分で見ることができる)ではありません。地獄は地下に、天国は天上にあるとか何とか、人が言うのを信じて言っています。彼らはブッダ以前からそう言っています。言われているような地獄天国は、ブッダ以前から言われていることと知ってしまってください。

 今私は、地獄をサンディッティコ(自分で見ることができる)で説明したいので、「火で炙られるようにイライラする時、その時が地獄です」と説明します。

 地獄が心に入り込めば、身体はこのように人でも、その人は地獄の動物です。しかし苦や怒りは煩悩による物でも、カンマの結果でも、心の中にある地獄であり、サンディッティコ以上です。心の中は明らかに焦燥で熱くなっているからです。これは本当のサンディッティコ(自分で見ることができる)なので、「地獄は地下にあって死後に行く」と話す代わりに、この種の地獄の説明をします。

 彼らが騙して信じさせることもあります。あるいはサンディッティコ(自分で見ることができる)ではない信仰で言っていることもあります。本当に地獄があるとしても、まだ落ちていないので、サンディッティコ(自分で見ることができる)ではありません。実際に落ちている地獄、今しょっちゅうイライラしていることが本当の地獄です。この地獄の方が恐ろしく、問題で、そして人の心に生じています。

 そして良いのは、このような心の地獄に落ちなければ、死んだ後も、どんな地獄にも落ちないことです。何千何百の地獄がどこかに集まっていても、心の中の、今ここでの地獄に落ちる行ないをしなければ、死んだ後もどんな地獄にも落ちません。だから彼が「間違っている」「勝手に言っている」「間違った見解を話す」「ブッダの言葉と一致しない」と非難する種類の地獄について話します。

 次に畜生と言われる物は、野原にいる動物ではありません。人が非常に愚かになれば、その時体の内部は畜生になっています。人が愚かな時は畜生になります。私たちはサンディッティコ(自分で見ることができる)で畜生を知ることができます。野原にいる畜生は、私たちの心に入って来られないので、サンディッティコ(自分で見ることができる)にはなれません。

 しかし畜生の意味、つまり愚かさは私たちの心の中に入り込み、私たちは感じる以上に感じます。だからこの意味の畜生という言葉の方が、野原にいる動物を指すよりタンマです。

 私たちの心の中にある畜生のような愚かさは、自分で見ることができる種類の畜生なので、サンディッティコ(自分で見ることができる)で、パッチャッタムで、ヴェティタッボ(識者が自分で知ることができる)です。私たちは自分の愚かさを自分で感じることができます。

 次は餓鬼です。彼らがどこにいると言っているかは知りませんが、姿形はああいう形、こういう形で、餓鬼の世界にいます。この餓鬼は渇きの代名詞と言わせてください。無知による渇望、お金の渇き、物の渇き、何の渇きでもよく、愚かゆえに死ぬほど渇望します。愚かでなければ渇望しません。渇望しないで働くことができます。

 この項目は「みなさん渇望しないでくださいね」と言わせていただきます。何かをするなら、何かが欲しいなら、どうぞ、渇望なしにしてください。渇望すれば餓鬼です。お金の渇きも、名誉の渇きも、何の渇きも、たちまち餓鬼になります。

 だからお金を求めるにも、名誉を求めるにも、何を求めるにも、知性や理性で求めるなら、どうぞしてください。渇き、あるいはもう一つの名前「希望」、期待でしないでください。期待して何かをしないでください。期待で何かをすれば餓鬼になり、心の中が熱くなります。お金を手に入れたかったら、どうやって手に入れるか良く考えて、知性で行動してください。

 期待しないでください。渇望しないでください。期待するもの、渇望するものは餓鬼で、心の中は地獄です。早晩神経症として現れます。お金を渇望しないでください。渇望している物を渇望しないでください。神経症になります。考え過ぎて神経症になります。

 宝くじを買って仕舞っておいても、期待する必要はありません。渇望して餓鬼になる必要はありません。発表の日になったら、くじを調べましょう。一部の人たちは、買ってくると渇望し、発表になる日まで一日中、一晩中期待し、渇望で絶えず餓鬼になっています。

 それは神経症になるほど心を苦しめます。これは「どうぞみなさん、何でも知性でしてください、渇望や期待を介入させないでください」という見本です。つまり餓鬼になる必要はありません。

 阿修羅は恐怖の名前です。愚かにならないでください。愚かなら悪趣に落ち、理由もなく恐れ、恐れるべきでない恐れ方をします。ミミズを怖がり、ヤモリを怖がり、大トカゲを怖がり、ネズミの子を怖がり、何でも怖がり、苦を恐れる以上、地獄を恐れる以上です。

 これを、恐怖は阿修羅と言います。つまり勇敢でありません。阿修羅とは勇敢でないことです。怖がらないでください。このように愚かでなければ、阿修羅ではありません。阿修羅の体は見えないので、その恐怖を阿修羅と見なすべきです。阿修羅は実体のある物でなく、どこの世界の鬼でもお化けでもなく、この世界に隠れていて、人には見えません。

 こういうのはサンディッティコ(自分で見ることができる)ではありません。その心にある恐怖が、自分に現れたサンディッティコの阿修羅です。だからこのように新しく説明するのは、サンディッティコにするためです。地獄、畜生、餓鬼、阿修羅はサンディッティコ。私はこのように説明しています。

 だからこの人に、「なぜ地下の地獄、餓鬼の世界の餓鬼、阿修羅の世界の阿修羅の話をそのように説明しないのだ」という疑問が生じたことに対しては、その必要はないと言わせていただきます。それは私たちに関わりがなく、私たちが触れることはないからです。私は、私たちの心で、苦しめている物を見ます。それはサンディッティコです。

 人間も同じです。人間になるのは人間のタンマがある時です。一種類と言うのは正しくありません。何種類もあります。しかし経典では一種類だけと言っています。悪趣の方は四つあり、彼らは非常に好きなので四つに分けていますが、人間は一つだけとしています。

 次に天国の天人は六段階で、毎日唱えている最下位の四天王から、トウ利天、夜摩天、兜卒天、化楽天、最上位の他化自在天まで、はるか遠くの天国の上にいると言い、地下にある地獄と対で、死んだ後に行きます。死んだ後に行くなら、サンディッティコ(自分で見ることができる)のはずがありません。

 俗人なりにした善行の結果が喜びや満足を生じさせ、愛欲を望む俗人が望みどおりの愛欲を得た時、それが天国です。好きなように何段階に分けても構いません。天国、あるいは人間が受け取っている情欲を、その言葉のように何段階に分けても構いません。

 他化自在天という最上位は、片時も休まず、望みを叶えてくれる人が侍っています。望みに応えるために人が侍っていて、愛欲を味わいます。自分で掴んで食べる人は、何でも自分でする人は、もっと下です。

 つまり全部が欲情の話で、何段階に分けるのも自由です。私は「欲情の力によって変化する心の感覚は何段階もあり、サンディッティコで、アカリコで、エヒパッシコである天国の六段階」と説明します。

 次は梵天、十六形梵天で、彼らは天国より更に上にあると言います。現代人には話すことはできません。彼らが飛行機で空へ昇っても何もなかったので、そう話すことはできません。私は、天国は欲情に関わっている心にあり、梵天は欲情に関わらない心にあると言います。心がサマーディ(三昧)ならば、欲情に関わりません。

 そのサマーディが形を捉えていれば、形禅定、あるいは形幸福と言い、形禅定または形幸福の感覚がある心を、私は形梵天と言い、十六段階あります。あるいは何段階でも構いません。しかし彼らは、四禅定にしたがって十六段階に分けるのが好きです。四禅定を細かく分けて、違いはほんの少しですが、十六形梵天にします。

 次の四段階の無形梵天はもっと達者です。彼らは更に上にあると言い、私は、それは心にあると言います。心が無形禅定に達した時、庶民の幸福ではなく、その禅定にあった無形幸福があれば、それが四無形梵天です。

 これもサンディッティコ(自分で見ることができる)にするために、すべて心にある形で話します。だから私も同じように三十一地の話をしますが、私はサンディッティコの形で話すので、心の中にあり、心で見ることができます。

 私がこの話をまったく説明しない、という非難は正しくありません。私は非常に話しているからです。そして私は、誰でも心で触れることができる、心にある類の、サンディッティコの種類の話です。彼らが他の所にあるように話しても、私は、地下や空の上にあるのは話しません。彼らがそう言っているのは、ブッダの時代よりもっと前から言い伝えられているように言っています。

 それには何の利益もありません。何も感じることができません。心で感じられるようにサンディッティコで話し、そしてすべて心の中になければなりません。先祖たちは「天国は胸に、地獄は心に」と、良く言っていました。これも心で見ることができます。だから私は先祖たちと同じように言っているということです。仏教徒だった人は、ずっと言っていました。私たちの先祖は愚かだったというような言い方をしないでください。

 だから「生」はブッダの縁起式に話しているので、自分の考えや気持ちで話していないと言わせていただきます。すべてのブーミ(地)を、自分の心もあるサンディッティコ(自分で見ることができる)の形で話します。地下や空の上まで探しに行かなければならないのは、彼らにやるので、彼らで探してください。私は興味がありません。私は、心の中に本当にあるのを探すことしか、興味がありません。

 それは、彼らが好んで言うように、本当に三十一に変化するかもしれませんが、実物は別です。三十一地という教えは使えますね。今話したように心が三十一種類に変化するのを、心でサンディッティコとして見ることができます。私はこう理解しています。このように主張し、そしてこの話をこのように導きます。

 彼が最後に「涅槃の話は、何にも動じなくなった時、煩悩がなくなった時が涅槃」とつけ足していることについて話さなければなりません。「心に煩悩がなければ心は涅槃」と、いつでも主張させていただきます。煩悩がない時は、たとえ少しでも、少し涅槃があります。

 心に煩悩がない分だけ涅槃があり、一時煩悩がなければ一時涅槃があり、絶対に揺るがない涅槃なら、永遠の本当の涅槃なので、煩悩を生じさせないように努めれば、涅槃と共に過ごすことができます。

 この「涅槃」は、私たちになくてはなりません。つまり煩悩がないことによる涼しさが適度になければなりません。もし適度になければ、神経症になり、狂って、そして死にます。だから必ず煩悩のない心の穏やかさが、適度になければなりません。

 仮に煩悩のない時間、心に煩悩がなく、一時的な涅槃がある時間が、二十四時間のうち十八時間、あるいは二十時間なら良いです。煩悩に妨害されるのは何時間でもないので、生きていられます。そうでなければ神経症になって、そして死にます。もし煩悩が四六時中焼き炙っていれば、必ず死にます。煩悩を空っぽにしてしまって、涅槃と共にいれば、危機を脱すことができます。

 この涅槃は、自然の本当の涅槃です。代々教えられて仏教教団にも混入している、他の教義の仮定の涅槃ではありません。死後の涅槃は、数え切れない(幾阿僧祇)劫、何劫後の涅槃か分かりません。こういうのは何の利益もありません。仏教はそう教えません。

 心に煩悩がなく、俺、俺の物という意味がない時、穏やかに鎮まった心が涅槃という教えがあります。一時的ならサマージカニヴァーナ(定の涅槃)と言い、自分自身で感じることができればディッタタンミッカニッヴァーナ(現生の涅槃)と言います。

 どうぞ、これが私たちの命を潤し生かしていると、関心を持ってください。私たちは涅槃のお陰で生きていられます。心に何らかのレベルの涅槃がなければ、みんな死んでしまって、ここに来て座っていません。狂って死に、神経症で死に、煩悩が絶えず妨害するので、何かで死にます。

 だから、煩悩がない時、その種の、その時だけの、その分量の涅槃があると考えてください。このレベルの涅槃が、常に私たちの命を潤し、正常にしてくれるので、私たちは生きていられます。

 反対に私たちは涅槃の恩を知らず、恩知らずな動物になるばかりです。この命が危機を脱すことができるのは、人間として生き伸びることができるのは、このように自然の涅槃が潤してくれるからです。心に煩悩がない時は、いつでもある種の、あるレベルの涅槃です。いつ心に煩悩がないか、観察して見てください。

 だから私は「生」とはこういうこと、三十一地はこういうこと、本当の涅槃は煩悩がないことと、道理で話しているということです。ブッダは「パパッサラミタン ピッカヴェー : 心は純潔である」と、つまり煩悩がないと言われています。煩悩は客人のように時々訪れるからです。

 もう一つパーリに「パカティパリスッタミタン ピッカヴェー チッタン」この心は通常純潔である」という文言があります。「通常は純潔がある」は、ほとんどの人は、あまり聞いたことがないかもしれません。聞いたことがあるのは「パパッサラミタン ピッカヴェー」です。

 「パカティパリスッタミタン ピッカヴェー チッタン」の方は、あまり聞きません。意味は似ています。心は通常純潔である。つまり自然で普通の時は、煩悩がなく純潔です。

 元々はそうです。時々煩悩が現れるので、その時純潔が失われるだけで、煩悩が訪問して来なければ、心は純潔です。あるいは自然の正常な状態です。つまり危機を脱した動物です。妨害する煩悩がない時が本当に生きている時です。良く憶えておいてください。ブッダは「この真実を知らない人には、正しいタンマの実践はない」と言われています。

 私は生と三十一地について話して来たと言うことです。次の質問にしましょう。



問題3: 涅槃の説明は、大悟を侮辱している

質問 : 彼らは、非常に深くて難解なタンマである涅槃を、簡単な物のように説明するのは、たとえば涅槃を、感情を支配するサティがあり、振り回されないようにすれば涅槃だなどと説明するのは、ブッダの大悟を侮辱していると、先生を非難しています。これはいかがでしょうか。

答 : 自分の考えで涅槃を説明するのは、ブッダの悟りを侮辱すると言うことに関しては、私がしてきたような説明がブッダの説明です、と答えます。これと違えば、これ以外は、ブッダの涅槃ではありません。深くて非常に難しい涅槃は、一般に深くて非常に難しいとされていますが、不可能ではありません。人間にとって不可能ではありません。

 心に煩悩がない時は、自然の一時的な涅槃です。これはブッダの教えの中に不動の教えがあります。だから心に煩悩がなければどのようか、自分自身で考えて見てください。常識で考えて見てもいいです。煩悩がない時の心は清潔で、明るく静かなので、涅槃という意味の涼しさです。

 この涅槃という言葉の本当の文字通りの意味は、涼しいという意味です。庶民の涼しいという言葉を借りて、プラタム(教え)、あるいは宗教の話に使いました。宗教の話は後になって発見したので、仙人やムニー(修行者)やヨギーは、その方たちの意味で涅槃を理解し、この言葉を借りて使いました。ブッダが涅槃の話を悟った時も、この言葉を借りて使いました。

 だから涅槃という言葉はどの教義にもあります。しかし意味は違います。本当の意味は涼しいこと、熱くないという意味です。何が熱いのかは煩悩で、煩悩がなければ熱くなく、熱くなければ涼しいです。庶民の言葉で冷たい物を「涅槃の物」と言いました。「畜生は毒がないので静かだ」を、彼らは「畜生は涅槃だ」と言いました。穏やかな心を「心が涅槃だ」と言いました。

 涼しさにはいろんな大きさがあります。ある集団は、欲情があっても心は涼しいと、欲情で満ちていても、心は涼しいと見なします。この人たちは、欲情を涅槃とします。これより高い人たちは「そうではない。サマーディであり、禅定である心が涼しい。禅定が涅槃だ」と言います。

 ブッダは「そうではない。煩悩が滅尽しなければならない。煩悩が滅尽すれば涼しく、そしてそれが涅槃だ」と言いました。この方がこのように真実です。私は一般の人が涅槃を理解できるように例をあげました。深い話を理解させられるのは、例を挙げて説明するからです。こういうのはブッダの大悟を侮辱するのでも何でもありません。

 だから一時的な涅槃、一定量の涅槃の味見をしたい人は、心を熱くしないよう努めてください。つまり心に煩悩を生じさせないことです。そうすれば引き続き涅槃の味見ができます。いつも涅槃の味見をしていれば、煩悩は餌を食べられないのでやせ細り、時が来れば煩悩は滅亡します。

 だから煩悩にチャンスを与えないでください。煩悩を生じさせないで、いつでも涅槃と一緒に暮らせば、煩悩にチャンスはありません。仮定の話として、煩悩の国が衰退して崩壊すれば、この心はいつでも涅槃の住まいになります。それまで涅槃は、煩悩が生じて妨害しない時だけ、一時的でしたが、今煩悩は攻撃されて全滅し、心は、二度と煩悩が生じない状態になったので、いつでも涅槃と共にいます。

 涅槃の話を、このように、ブッダが望まれたように詳細に理解するのは、ブッダの悟りを侮辱することにはなりません。反対に到達できる涅槃、私たちの命を涵養する涅槃を、一般的な意味で教えることです。つまり私はブッダの大悟を侮辱していないということです。私にこういう意図がある時、ブッダの大悟を侮辱していると非難するのは、揶揄すべきことです。そして今日揶揄します。さて次。



問題4: 十五分で仏教を学べる

質問 : 彼らは先生のことを、一般人が仏教を十五分で学べると教えていると非難しています。これの事実はどうでしょうか。

答 : これは私を罵るために、弁を弄しています。前に私は「人は十五分で仏教を学ぶことができる」と言ったことがあります。そしてプンさんのようだとも言いました。しかし私はそれ以上に、仏教は瞬きをする間に学べると言います。もしその人にレベルに達した習性があれば、そしてすべての原因と縁が完璧に揃っていれば、十五分はまだ非常に長いです。このように学べば、仏教は十五分以内で学ぶこともできます。

 一瞬の間に学ばせるには、このように学ばせます。つまり「そのようになる。なるようになる(真如)」を教えます。たった三語(タイ語で)話すだけです。「自然にそのようになる」を知り、「自然にそのようになる」に到達します。これが仏教のすべてを知ることです。

 仏教の実践規範は幾つあっても、すべて「自然にそのようになる」を知る最終目的に集約できます。つまりヤターブータヤーナダッサナ(如実智見)で、すべての物を、それは「そういうこと」と、真実ありのままに知ります。細かく分けられた物、つまり長い縁起ですが、それを見てください。そうすれば、最後まで「自然にそのようになる」と分かります。

 世界を支配している縁起、あるいはイダッパチャヤター(因果)の話は、タタター=自然にそのようになる(真如)、アヴィタタター=そうならないことはない、アンヤタタター=それ以外の物にはならない、タンマティタター=自然に普通に存在すること、タンマニヤームター=当たり前の不動の法則、に集約されます。

 こういうのは複雑で難しくて問題が多いです。憶えなくてもいいです。憶えないでください。タタターだけで十分です。自然にそのようになる、という意味です。

 無常・苦・無我を見ることは、タタター(真如)を見ることです。あるいは分けられて、一連の流れの縁起になります。六処があり、触があり、受があり、欲があり、取があり、苦があると言うのは、自然にそのようになります。必ず苦になるのは、自然にそのようになり、苦にならない時も、自然にそのようになります。

 だから私たちは「自然にそのようになる」を、滅苦の道具にしましょう。何が生じても、自然にそのようになると見て、そして何も愛さず、憎まず、怒らず、恐れず、憂慮しません。なぜならそれは、自然にそのようになるからです。

 苦が生じたら苦の「自然にそのようになること」を見て、敵である滅苦の「自然にそのようになること」を探します。こういう「自然にそのようになる」は苦なので、滅苦の「自然にそのようになる」が苦の「自然にそのようになる」に噛みついて振り回せば、「自然にそのようになる」と「自然にそのようになる」が相殺して、苦は消滅します。

 私たちには滅苦の側の、あるいは涅槃の側の「自然にそのようになる」があるからです。「自然にそのようになる」という言葉で、仏教を瞬く間に学ぶことができます。

 四聖諦や無我やカンマの話などに分ければ、十五分、あるいはそれ以上時間が掛かり、十五分では要旨だけです。あるいは十五分仏教を勉強するなら何を学ぶか、どう学ぶか聞かれれば、四聖諦、カンマ、無我、涅槃の教えを学ぶと答えます。

 一瞬だけ息を止めている間だけ学ぶなら、「自然にそのようになる」を学び、「自然にそのようになる」に到達し、「自然にそのようになる」を知悉すれば、仏教のすべてを修了します。「みなさん、仏教の要点を憶えてください。以前話したより、もっと最高に濃厚にすれば、仏教の要点は『自然にそのようになる』という言葉ですと言い直します」と、あえて主張のように言います。そのようにならない物は何もありません。

 物質面もそのようになり、心の面、名の面もそのようになり、その行動もそのようになり、作り出すこともそのようになり、幸福が生じ苦が生じるのも、そのようになります。「自然にそのようになる」ことを学んで、既に理解していることに、いつも明白なことにしてください。

 目・耳・鼻・舌・体・心に何かが生じたら、「自然にそのようになる」と極めてハッキリと見れば、迷って愛したり、憎んだり、喜んだり、不満に思ったりしません。この「自然にそのようになる」の威力で、煩悩が生じることはできません。

 縁起の要旨は「自然にそのようになる」にあると結論します。縁起は仏教の教えのすべてです。ブッダが「私は他の話はしない。話すのはただ、苦の話と滅苦の話だけ」と言われているように、苦がどのように生じ、どのように滅すかを教えています。現在も未来も苦と滅苦は「自然にそのようになる」という言葉に含まれています。タタターと言ってもいいし、タターターと言ってもいいし、タターだけでもいいです。

 三蔵にはタターとタタターとタターターの三つとも出てきます。だからタターに到達すれば、その人はタターガタ(如行)です。タター+ガタ。タターは、そのようにという意味で、ガタは到達するという意味です。タターに到達した人は、タターガタ(如行)と呼ばれます。つまり人間が到達するべき最高の物、「そのよう」に到達したと言います。そして最高に大きな「そのよう」が涅槃です。

 涅槃には涅槃の「そのよう」があります。どんな「そのよう」よりはるかに大きな「そのよう」です。だからタター(真如)に到達すれば涅槃に到達し、タターガタ(如行)になります。自力で到達すればサンマーサンブッダで、ブッダに学んで到達すれば仏弟子です。いずれにしても最終的には「そのよう」に到達しなければなりません。

 最短の方法で仏教を学びたければ「自然にそのようになる」話を学びます。これは仏教を消滅させることでも、仏教は短い時間で学べると、ブッダを侮辱することでもありません。早ければ早いほどいいです。そうでなければ先に死んでしまいます。私は死んだ後の涅槃は認めません。何万世、何十万世、何百万世後の涅槃を、私は認めません。そしてみなさんにも認めてほしくありません。

 涅槃は生きている間でなければなりません。そして涅槃はすでにあります。つまり煩悩がない時すでに涅槃なので、それを、生きているうちに、棺に入る前に、もっと大きくしなければなりません。今頭髪が燃えているように苦しいのに、死んでから、十万生も後に滅苦をしてもどうにもなりません。「生」「生まれる」ことを、冒頭で説明したように知っているみなさん以外は。

 一時的な涅槃を発展させ、棺に入る前に、純潔な心の小さな涅槃を十分な物にしてください。これが仏教とに関わる、ブッダを訪ねる、涅槃を訪ねる、私の好きな最短の方法です。そして彼らは私を、仏教を攻撃すると非難するので、揶揄するべきです。今日揶揄します。さて次にしましょう。





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