タンマの水でタンマの泥を洗う

 

1980527

第一部 齢を揶揄する説明

 タンマにご関心のある善男善女のみなさん、一九八〇年の今年も、恒例の齢に関わる日がやってきました。満七十四歳になったということは、みなさんも多分ご存じのことと思います。私はこれから、それなりの儀式をしますが、形式的すぎる儀式ではなく、役に立つ儀式にします。

 初めに、今日ここにお集まりのみなさんに、心より感謝を表明させていただきます。そしてみなさんの中には、今日齢に関して徳を積む儀式の、贈り物をくださった方もいます。遠方から来られてお疲れになり、私のために散財をした方に、お礼を申し上げます。

中には贈り物を下さる、つまり二十四時間食べ物を断つ方もいます。何年も前からこのような行動を、私への今日の贈り物と見なしています。この贈り物を下さった方に、今日菩薩戒を持す方に、特に感謝の意を表明させていただきます。

菩薩戒は菩薩日だけのものと知られていますが、特別な決意、特別な意図がある日なら、菩薩日の前、あるいは後に増やすこともできます。そして特別な意味があれば、他の日に持してもかまいません。今日みなさんが、私の齢に関して徳を積むために菩薩戒を持すのは、非常に名誉なこととみなすので非常に名誉なことです。

特別な敬意の表明と見なし、みなさんの中の幾つかの団体が、今日菩薩戒を持すことで敬意と名誉を表明してくださることに、深く感謝します。これも今日の日にふさわしい贈り物と見なします。

 ここで習慣に従ってお詫びをしなければなりません。つまりお集まりくださったみなさんにとって行き届かぬ点があれば、誰の落ち度であろうと、全部まとめて私がお詫びします。落ち度があるとすれば、感じる人にだけあり、感じなければ、落ち度はありません。

何のもてなしを受けなくても、感じない人もいるかもしれません。感じなければ落ち度はありません。だから感じればある、感じなければないという原則で理解し直してしまってください。何でも私たちが感じればそれはあることになり、感じなければそれはありません。

 もし落ち度があると感じる人がいれば、落ち度があるので、私は主人として慣習にしたがって、求める快適さを提供できなかったことをお詫びしなければなりません。しかし、その落ち度を贈り物として捧げてしまえば、その落ち度は、その人の徳になります。だからみなさん、自分で判断して、それをできるだけ有益にするよう心してください。

 次にもう一つ、取るべき責任を取ると言わせていただきます。つまりどんな理由であれ、みなさんがお出でくださったことに見合う結果が得られなければ、責任を取らせていただきます。割に合わない状態のものがあるなら、これは、閻魔大王に私を懲らしめてもらうことにしてください。みなさんがお出でくださったことに見合わない結果になったら、私自身が閻魔大王に話すこととして、責任を取らせていただきます。

 しかし公正に判断してください。割に合う結果を得るか得ないかは、その人次第で、私は、可能な限りみなさんが割に合う結果を得られるようにしていると保証できます。しかし受ける人が受け取れないか、あるいはどんな理由であれ、見合った結果がなければ、割に合う結果ではありません。受け取り方を知らないから、あるいは他の何かです。

 スアンモークの一般行事から見合った結果が得られないのは、お出でになる方のほとんどが、スアンモークが差し上げようとしているものに興味がなく、ちょっと遊びに来て、それで帰ってしまうからです。差し上げるためにあるものに興味がないので、割に合う結果がありません。

 この建物の壁画のように、数人の人に眼を配っても、何も受け取らずに群れて逃げ帰ってしまいます。これは真実、あるいはスアンモークの仕事に関して本当にある真実です。何ならみなさんで、スアンモークを作った決意と、みなさんが連れだってお出掛けになったことにふさわしい利益を受け取るようにしてください。

 これが、私が最初に申し上げたいことです。お出でいただいたこと、そして贈り物をくださったことにお礼申し上げ、そしてもし、不手際があるとお感じの方がおられたらお詫びし、そして割に合う結果が得られなかった時には、責任を取らせていただきます。

 次にお話するのは、齢の積善(註)です。齢の積善には二つのタイプがあり、一つは齢におべっかを言い、もう一つは齢を揶揄するとまとめさせていただきます。前者は死が怖いので、齢のご機嫌をとってお世辞を言い、いろんな催しをして、大々的に歓迎します。死が怖いからです。こういうのを、齢におもねる積善と言います。

 齢を揶揄する積善は、死を恐れないで、尊敬できない生き方をしてきた、あるいは揶揄するべきものがある齢を揶揄します。齢を揶揄する積善と言って、もう何年も知られているように、私は齢を揶揄するタイプの積善を選びます。

 なぜ齢を揶揄しなければならないのかと問われれば、揶揄するべきだからと答えます。生まれてから今まで、揶揄するべきみっともないことを、何もしていない人がいるでしょうか。それ以上なら罵るべき、あるいは罵るにふさわしいですが、それは遣りすぎなので、揶揄だけにします。

 生まれてから何日も何カ月も何年も、そして今日まで、すべてが正しい行動で、揶揄するべき欠点がない人がいるでしょうか。私は、きっと誰にも欠点があると思います。しかしそれは隠しておいて揶揄しません。話しません。

 この齢を揶揄することの考えるべき良い点は、僧が罪を告白するのと同じで、罪を他人に公表すれば、戒律の力で、その罪は消滅したと見なします。波羅夷(根本罪。最重罪)でも、公にすれば罪がなくなり、還俗する必要がない他の罪は、還俗する必要はありません。還俗する必要がないようにするには、公表しなければならず、自分の罪を公にすれば、止めたと見なします。

 私はこの齢を揶揄することも、罪を告白するのと同じ意味があると見るので、揶揄すべき欠点や失敗と考えることがあれば、それを揶揄してしまいます。自分で揶揄しても、あるいは誰かと一緒に揶揄しても構いません。明るみに出せば、それは終わりになるからです。これを、自分の失敗を揶揄すると言います。

これは比丘の罪の告白と同じなので、するべきことと見なします。だからそれには功徳があります。時々自分の年齢を揶揄すれば、きっと沐浴をしたように清潔になり、そうすることが寿命を延ばし、丈夫になります。賢さと清潔と強さがあるので、しょっちゅう齢を揶揄すれば、丈夫になり、長生きになると、このように見ます。

 揶揄するべきことを全部揶揄すれば、罰はすべて受けたので、徳であり善であるという喜びが生じます。この項目に関した安心が生じれば、間接的に涅槃という結果を受け取ります。量は多くはありませんが、それほど少なくもありません。心に安心があれば、一時的な小さな涅槃があると言います。

だから私たちは、安心を生じさせる機会、あるいは行動を求めるべきで、自分は安心できなければならないと、涅槃で気づかせるのと同じです。地獄に落ちたようにイライラしていないで、いつでも安心することだけを考えてください。

次は、齢を揶揄する日に二十四時間断食をするのは、ある人が勝手に言っているような苦行ではありません。そう言う人は食いしん坊で、食べることばかり考えているのでそう感じるのは当然です。二十四時間眠らないことも、苦行だと言う人、二十四時間食べないことも苦行だと非難する人がいます。

それは食いしん坊で弱い人、食い意地が張っている人たちだけです。彼らがそう考えるのは自由です。私たちは、「生活」にとって良い結果があると見なします。「生活」は、いつでも良いものに、よい結果のあるものにしなければなりません。

ブッダは経典の中で、七日あるいは七週間、どの言葉を信じるかにもよりますが、その間食を断ちました。七週間と言えば四十九日で、七日は明らかにあります。特に断食には意味があります。しかし齢を揶揄するには、一日だけ食を断ちます。

今日はブッダを揶揄するのではありません。ブッダの断食を揶揄するのではありません。しかし食べることだけを考え、美味しいものを食べることだけを考え、たくさん食べ、休みなく食べることばかり考える生活を、二十四時断食することで揶揄してしまうべきです。

 いつものように食べないとお腹を壊すと言う医師がいますが、私は信じません。今私は信じない以上です。何年もそうしていますが、お腹を壊したことなどなく、何の病気になったこともありません。胃の中に食べ物がないと、胃液が胃袋を消化するので胃が悪くなると言うのは、よく調べないで言っています。

 なぜならこのように食べ物を摂らないと決意した時は、胃液は出ないからです。私はそう感じます。二十四時間ご飯を食べないと決意すれば、胃も良く分かっていて、胃液を分泌して胃壁を侵食し腹痛を起こさせたりしません。断食する決意がなく、そして理由もなく、無理な絶食をする人以外には。

 そういう人は、もしかしたら腹痛や卒倒、あるいは何かになるかもしれませんが、これは確かではありません。「原因と縁次第」の方がよいです。と言っても、怯えるべきでないものを怯えるほど執着すべきではありません。

 私は、自分の心は自分で管理できなければならないと捉えます。これを憶えておいてください。自分の心はかならず自分で支配できなければなりません。自分の心は自分の子のように、素直に言うことを聞かなければなりません。私たちの心は、従順でなければならず、自分で支配できるものでなければなりません。

だから今私たちが、「一日食事を休むよ」と言うこともでき、心は言うことを聞く子でなければなりません。それで体を健全にします。「今日食べ物を食べないぞ」と言うことは、非常に良い休息になり、胃は休むことができ、体も休むことができます。だるかったら寝てしまっても構いません。しかし徳であり善であると考えれば、だるくありません。私は何年も検証しています。

しかし確実ではありません。原因と縁で変化するので、来年からは挑戦できないかもしれないし、立ち上がれないかもしれません。原因と縁次第です。しかし今は、自分の心は自分で支配できなければならないという、当面の教えがあり、自分の子は素直で従順でなければならないように、心も従順でなければなりません。これは直接心の訓練です。

 さて次は、私、私、私、私と何回も言いましたが、どの私でしょうか。「私はない」というのは、どの私でしょうか。十分タンマの勉強をしていれば、この「私」とは、「これが私」と考える心の感覚であり、自分が欲しいものに執着する時に生まれると感じます。何かを強く求めれば、その後から、「私は欲しい」「私が求めている」と感じます。

だから「私」は心の話で、心だけで、それ以上のものは何もありません。そして、それならその心が自分なのかと言えば、そうではなく、心はちょっと借りるだけで、心は心です。二つの心があるとすれば、一つの心は支配する心で、もう一つは支配される心で、今二人の大きく違う私が生じます。心を私とすれば、仮定でだけです。

 しかし中には、心は私、つまり心は自我と書いている経典もあります。私は信じません。もし認めるなら、仮定の話でという意味です。自分が自分を支配するというのは、一つの心が、もう一つの心を管理することで、二つの心が存在できます。この心は、観念と呼ばれる感覚でできていて、愚かな心は、観念が愚かだから、賢い心は、観念が賢いからです。

 だから二つの心になり、一つは愚かな心で、もう一つは賢い心です。だから愚かな心は訓練を受けなければならず、賢い心が訓練をする人です。ということは、賢い心が愚かな心を揶揄します。

 愚かだった心は、賢い心に揶揄させてしまいます。心は非常に敏捷で、あっという間に入れ替わり、愚かな心になれば、善い心は止まってしまいます。賢い心は愚かな心を停止させて、愚かな心が考えを止めるまで愚かな心を揶揄します。齢を揶揄することを、賢い心が愚かな心を揶揄すると言います。

 誰にも必ず賢い心と愚かな心があります。愚かな心は執着させ、愛させ、怒らせ、嫌わせ、恐れさせ、憂慮させ、悲しませるので、苦になります。それが愚かさで、その時心は愚かです。賢い心は、「おい、愚かになるべきでないから、止めてしまいなさい」と揶揄するので、執着を止め、嫌うのを止め、恐れるのを止め、くよくよするのを止め、愛すのを止め、愚かさであるいろんなことに腹を立てるのを止めます。

賢い心に愚かな心を揶揄させます。「齢を揶揄する」とは、賢い心が愚かな心を揶揄する機会を作ることです。過去に戻って、以前を振り返ってもいいです。前からある愚かさを持ってきて、掘り出してきて、それを賢い心で揶揄します。

 次に私が齢を揶揄する積善は、私にとっては自分自身を揶揄することであり、みなさんもついでに私を揶揄してもいいです。怒ったりしないので、何か揶揄すべきものがある人は、私と一緒に揶揄してもいいです。しかし意味は、私は自分自身を揶揄する決意です。

 次に、何か揶揄すべきものがあるでしょうか。それはいっぱいです。揶揄すべきもの、欠点と言ってもいいし、言わなくてもいいですが、揶揄すべき状態にしてしまった行動で、私が原因で、そのつもりがあっても無くても、意図があっても無くても、みなさんがお出掛けになることで大変な思いをさせてしまったと、このように簡単にすることもできます。

これは、私がみなさんにご苦労をお掛けしたものがあると見なすので、みなさんにご苦労をお掛けしたと揶揄して、他人に迷惑を掛けないように、考え直さなければなりません。他人に苦労を掛けるのは、確実に正しくないからです。

 初めは何人でもない内々で遊び半分に揶揄し、遊び半分で話すつもりで、毎年そのようにして来ましたが、どうして人数が増えてしまったのか分かりません。誰にも言う必要のない内々の何人かで、楽しく冗談を言って自分自身を揶揄するつもりで、そういうのを「齢を揶揄する」と呼んでいましたが、人数が増えました。

見ると比丘や沙弥や清信士、清信女の姿も見られ、人数が増え、それで、「これはきっと私の過ちにちがいない。だから他人に無用な苦労をさせる」と考えました。これも一面です。浅慮のために他人に迷惑を掛けた私は、揶揄されなければならないと感じる、明らかに見える、少なくとも一面です。

 そしてまだ他にもいろんな面があります。この命はあまり精彩がないと言うこともできます。私は満七十四歳、数えで七十五歳になり、七十五年も生きていながら、命はあまり精彩がありません。これは揶揄してしまいます。生きるという言葉は、干乾びたものや苦ではなく、生き生きと爽快に生きるという意味でなければなりません。生きることは爽快でなければなりません。

次にあまり爽快でなく、少ないので、揶揄しなければなりません。五十年以上努力し、つまり出家して五十年以上になり、問題の上にいるよう、脱出した爽やかな生活にするよう努めてきましたが、望みどおり、あるいは望む所まではまだ脱出できず、しょっちゅう妨害するものがあります。だからまだこの種の生活に満足していません。

だから「齢を揶揄する」と言い、「おーい、人生って何だ。七十年以上も生きて、まだ爽やかさを知らないとは」と言って、それでこれからお話します。自分に関わることで揶揄しなければならないと思うことは、すべて揶揄しなければなりません。みなさんに憶えていただいて、あとで自分を揶揄する儀式ができるように、揶揄してお聞かせします。

 私は、毎年進歩しなければならないと言います。進歩しなければ、揶揄しなければなりません。だからみなさんに、毎年進歩しなさいと言わせていただきます。丸一年たったら、進歩したと総括してください。進歩しないことがある人もいるように見えるので、進歩させてください、と言わせていただきます。

子供や若者ばかりでなく、非常に年のいった老人でも、これくらいの年になっても、ナモー タッサを正しく言えません。中には「ナモー タッサ パカワトー アラハトー サンマーサンプッタッサ」が正しく言えない人もいます。正しくないと言われた人は、正しくしてください。「サンマーサンプッタッサ」と発音する人がいます。これは正しくありません。

sammaa sambutassaではなく、sammaa sambutthassa でなければなりません。老人の中にはまだsammaa sambutassaと発音する人がいます。沙弥でもそこまで愚かなのもいます。まだsammaa sambutassaと言います。私も、まだうっかりするとsammaa sambutassaと言ってしまうので、まだ進歩しないと揶揄します。

 最高に初歩の、「ナモー タッサ パカワトー アラハトー サンマーサンプッタッサ」も正しく言えないのは、揶揄するべきでしょうか、揶揄するべきでないでしょうか。揶揄すべきなら、揶揄して、終わらせ、来年、そしてその後に残さないでください。今後私は、誰かがsammaa sambutassaと間違って言うのを聞かないかでしょう。

毎年絶えず進歩しなければなりません。間違ったままで繰り返さないで、進歩が無いのは止めてしまってください。パーリ教典を唱える時、RLに、LRになると、「世界」が「病気」になってしまい、大違いで、ブッダの言葉を破壊してしまいます。世界が病気になったら、まったく意味がなくなります。

 LRを間違えるお坊さんは、ブッダの言葉の意味を大きく変えるので、直してください。時々自分を揶揄してもあまり聞かなければ、自分の頭をコツンと叩いてやれば、止まるかもしれません。これは揶揄以上なので、解決する方法はまだ色々あると言います。「ナモー タッサ」も正しく言えない、他の文章も正しく言えないという程度まで、自分を揶揄するべきです。

特に「ヤター ヴァーリヴァハー プーラー パリプーレーンティ」は、沙弥たちの多くがまだ間違っています。「ディーカーユコー ヴァーディーカユコー」も間違いで、これも言い間違いがあります。何語も間違っているので、その通りに訳したら、使い物になりません。時には悪く、あるいは寄進者を罵ることになります。たとえば、「アーユ ヴァンノー スカン パラン=つやの良い肌と年齢、幸福と力を授ける」を、「アーユ ヴァノー スカン パラン」と言う沙弥がいます。

それは「汚い傷を与える」になります。ヴァノーは、不潔で腐った傷という意味で、ヴァンノーは善や美という意味です。ヴァンノーでなくヴァノーと言い、アーユ ヴァノー スカン パランと言うのは、わざわざ出かけて来て面倒を見てくれる支援者に、「汚い傷を授ける」と言うのはバカで、これは揶揄しなければならないことです。揶揄して、そしてみんなで無くしてしまいましょう。

 次は自分のことでもあり、他人のことでもあります。私のことを、彼らはバカだと非難します。ほとんどの人が、私のことをバカだと、タンマを戻すバカ、いつでも一人でタンマを戻すと言っているバカと非難します。タンマを戻すと、いつからいつまでか分からないほどキリも無く、一人でいい続けて、これはバカだと言います。

これは非常に揶揄しなければならない話で、取り上げて揶揄し、タンマを戻せ、タンマよ戻れと、一人でキリも無く喋っているバカだと、自分を憐れまなければなりません。「タンマが戻らなければ、世界は破滅」「タンマが戻れば世界は発展する」。何年喋ってもまだ、ラジオや何かで機会あるごとに話しています。みなさんこの項目、つまりタンマを戻すことに興味を持ってください。

タンマが戻らなければ、いるのはタンマのない人ばかりで、経済家もタンマがなく、政治家もタンマがなく、行政者にもタンマがなく、公務員にもタンマがなく、商人にもタンマがなく、農民にもタンマがなく、どんな庶民にもタンマがなく、ロクデナシばかりだったら、暮らしていけません。

経済家もロクデナシ、政治家もロクデナシ、行政者もロクデナシ、公務員もロクデナシ、商人や庶民や農民もロクデナシだったら、生活できません。互いに加害しあって死滅します。「タンマが戻らなければ世界は破滅」というのは、こういうことです。

タンマが戻らなければ、ロクデナシが増えます。タンマが無くなった分だけ、ロクデナシが増え、タンマがまったく無くなれば、国中ロクデナシになります。そしたらどこにいたら良いでしょう。寝室にいても追ってきて悩ませます。そしたらどこへ行くか、私たちは居場所がありません。タンマが戻らなければ居場所がありません。

どうぞ考えて見てください。そしてまだ考えない人は油断をしないでください。いつかロクデナシがやってきます。だから協力してください。協力しませんか。できる範囲で力を合わせ、タンマを戻しましょう。お金の支援、物の支援、労力による支援、話すことによる支援、何の支援でも、タンマを戻すためにできること、どんなことでも助け合いましょう。

私一人でこのように訳の分からないことを言っているのは、バカか良いか、考えて見てください。それで自分が可哀そうで、人にバカと言われ、一人でバカになっていると言われても善を行ない、誰一人一緒にバカになる人がいないと、揶揄しなければなりません。今はタンマを戻すことに関して、一緒にバカになってくれる人が何人もいると、少し自慢したいと思います。今はいます。いるようになったので、揶揄も減りました。

 もう一つ「仕事に幸福を見つける」も、彼らはバカと言い、誰も認める人はいません。働くことに幸福を見つけるように言っても、聞いて正しく理解する人はいません。何か仕事をする時は、幸福を感じてください。自然の法則に従った人間の義務を行なってているのですから。それが仕事です。

タンマとは「自然の法則での人間の義務」です。これに反論する人はいるでしょうか。命を養うこと、危険から逃れること、危機から脱すことの、自然の法則による義務は、避けることができません。

だから畑や田んぼの仕事も、生きるための義務の遂行であり、そしてあるレベルのタンマであり、タンマの実践をすると言います。だから自分の仕事、自分の義務を行なっている時満足し、非常に幸福を感じるべきです。給料のためでなく、自然の法則での義務のためにし、そしてタンマの行動をしたと満足します。満足すれば幸福、満足から生じた幸福です。

 満足は幸福を生じさせる原因で、欺瞞による満足なら幸福も欺瞞で、本当の満足なら幸福も本物です。情欲の満足は欺瞞の満足なので、情欲の幸福も欺瞞で、タンマの実践である職務に満足すれば、その満足は本物であり、その幸福も本物です。

 だからみなさん全員、働く時に満足してください。床を拭くのも皿を洗うのも、家を掃くのも、何でも自然の法則で、義務で、人間がするべきことに従って働くなら、それに満足するべきです。私たちはその人を、タンマの実践者と認め尊敬しなければなりません。舟を漕ぐ人、サムロー(三輪自転車)を漕ぐ人、道を洗う人、何でも彼らは彼らのできる範囲で、自然の法則での人間の義務を行なっています。

 彼らができるのはそれだけで、それ以上のことは、能力以上のことはできません。しかし彼らが精いっぱいしていれば、自分の義務に従って、十分タンマの実践をしていると見なすべきです。いろんな汚い物がある道路清掃の仕事をしていても、彼らを軽蔑してはいけません。

みなさんも同じで、自分の能力の限りでき、農業もできるし、果樹も作れるし、商売もできるし、銀行員にもなれるし、公務員にもなれるし、能力があれば社長にもなれます。だから義務を行なえば幸福になると、満足できます。

急いで仕事を終えるのでなく、仕事机で幸福になります。夕方になると早く仕事を終わらせ、歓楽施設へ幸福を求めに行くのはバカです。それは騙す満足で、その幸福も騙す幸福です。給料では足りません。煩悩が開花して、キリも無く拡大するので、給料では足りなくなります。

人が仕事机で満足していると言えば、働けば働くほど幸福になり、仕事机で幸福になれば、仕事を終わりたくなく、そこで幸福なので、仕事が終わってからバーやソープランドなどの歓楽施設へ遊びに行く必要はありません。本当の満足があり、本当の幸福があり、給料は使いきれません。仕事机に幸福があるので、給料がなくても構いません。私はこう言います。

どうぞみなさん全員が、仕事に幸福と楽しさがあるようにしてください。一人でも、一人でしても、自分だけでも非常に幸福です。彼らはバカだと言います。そう。彼らがバカと言えばバカです。だからこれはどうかと、揶揄して見ます。このように彼らにバカと言われるのは、いろんなこと、いろんな点です。揶揄するためにお話しなければなりません。

さて、もうみなさん理解したので、ほとんどの人がしているように、たとえば何かを振る舞って大々的に食べ、特別に美味しく、いろいろ面白おかしくするなど、齢におべっかを使う形でなく、なぜ揶揄する形で齢に関して徳を積まなければならないのか、という理由は十分です。

私は齢を揶揄する種類の徳を積むので、どうぞみなさん、贈り物として二十四時間食を断ってください。誰も今日はお金を使う必要はありません。徳を積んで私にくださるなら、こうあるべきです。この断食の功徳は、その人を強く賢くし、自然の真実を理解させます。

私たちはブッダのように、四、五日断食をすることができるかもしれません。しかしみなさんは、半日断つだけで倒れてしまうと、実行する前から怯え、恐れ、真実を知りません。だから、何でも真実を教え増やしてください。

次は説法についてで、さきほどみなさんは、僧を招いて説法をしてもらいました。私もこの機会に、齢に関わる日に関した説法をします。この説法は、私は私のやり方で、朝三時(午前九時)、午後三時、そして夜の三時(午後九時)、全部三時します。今日は朝三時、午後三時、夜の三時で、これは朝の部で、一時間もだらだらと無駄話をしてしまい、まだ説法をしていません。

次は説法で、前の年どんな説法をしたか、みなさんはもう知っています。そして印刷して次の年に配るので、今年もあります。今晩来た時に配ります。

今年はいつもの年とちょっと違います。というのは質疑応答の形の説法をします。関係者に、疑問点、気になることを集めるよう頼んであり、自分自身の疑問、気掛かりなこと、あるいは他人が話すのを聞いて気になっていること、あるいは彼らが私を揶揄し罵っている言葉なども加えて、疑問点、気掛かりなこととし、それを質問します。

そういう機会にしてあるので、揶揄する質問でも構いません。普通に聞いてもいいし、敬意を持って聞いてもいいし、からかうような聞き方でも構わないので、その方の疑念を妨害するすべての項目、あらゆる点を質問して揶揄してもらい、それに私が答えます。

横に座っている比丘のみなさんは、それらの質問を集めて質問する人ですから、質問しなければなりません。みなさん全員の名で質問しても、その人個人の質問でも良く、どちらも成果があります。もしかしたら利益があるかも、みなさんがお出掛けになったことに見合うかもしれません。

割に合う価値がなければ、閻魔大王に懲らしめられるので、成果があれば助かります。成功するかしないかは、質問者がどんな有益な質問をするかに懸っています。さてこれから、問答、質疑応答という形で始めます。それではどうぞ。

註 仏教関連の催し。パーティーや法要のような類を「積善」と呼んでいる。


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