.道徳の維持と普及





1962年1月24日


 先生のみなさん。今日の講義は、道徳の維持と普及について述べます。最初からの講義の題目について理解を復習してください。

 最初に傾向、意味、あるいはチャリヤダンマ(道徳)と呼ぶものの一般原則について理解しました。

 二回目は、道徳の一つだけの傾向について述べました。つまり自分に執着しない、あるいは身勝手でない訓練です。それはすべての場面、そして道徳とサッチャダンマのすべての段階に使えます。

 第三回目は道徳の障害、敵、揺らぎ、そして崩壊について、それらが起るのは物質面、あるいは肉の面の幸福に惑溺するからと述べました。

 第四回は日曜日だったので特別の回で、これらの語句に明らかに意味があるように、核の時代の人間の道徳のために、精神の娯楽について述べました。ダンマの面の楽しみがないのは当然ダメで、倦怠をもたらし、そしてサマーディと理解の基盤ではありません。「ダンマの理解は、喜悦と喜びが基盤としてなければならない」というブッダバーシタである系統の教えがあります。そうすれば心が静まります。

 喜悦、喜びはダンマの面の歓喜という意味で、世俗の範囲の喜悦喜びのように心を散漫にしません。パッサッティである心が静かさを維持していれば、当然すべての物が真実のままに見えます。だから道徳の普及、訓練、説諭にダンマの面の楽しみを生じさせる何らかの方法があることは、必要な物の一つです。先生のみなさん、このことは戒めなければなりません。

 第五回目は空について話しました。煩悩が空、自分、自分の物という感覚が空という意味で、これを道徳の目的と言います。私たちが心に自分がない人であるよう目指すのは、十分な知性があるようにするためです。心に自分があって空でなければ、十分な知性はあり得ません。つまり心はそれ自体でなく、煩悩によって身勝手にさせられます。あるいは自我が最高に覆います。これを、私たちが空の心で苦でない生活をすることの目的としてください。そして特にこのような状態の空である心を、仕事をする時に緻密で善い結果を得る教育の道具に使います。

 第六回目は、仏教の梵行である、八支聖道の状態の道徳の本物について述べました。先生は八つ全部に、あるいは八つ全部を自分で理解するまで、詳細に関心を持たなければなりません。そうすれば簡単ではっきりした、そして詰まらなくないダンマの項目で子供たちに教えることができます。私はこの質問をたくさん受け取ったので、説明したような状態で繰り返させていただきました。

 第七回目は、ダンマのある日常生活の仕方はどのようか、あるいは日常生活でどのように道徳を使うかについて、持ち帰って自分で考える見本として述べました。

 第八回目は、道具である種類の道徳について述べました。直接煩悩を消滅させるダンマの実践をしたい時は、道具である他のダンマを使って、より簡単にそのタンマを生じさせなければならないこともあります。これを、ダンマにダンマを重ねると言います。この教えも、先生のみなさん、最高の道具であるダンマにダンマを重ねる話、あるいはこのような状態の道具であるダンマにたくさん関心を持ってください。ダンマを教え訓練する時、最高に使わなければならない手法です。


 第九回目は、維持することも含めて、直接道徳の普及の仕方について述べます。維持できなければ、道徳を普及する方法はりません。

 説明したものについて、まだ多少誤解があります。例えば自分が空である感覚があり、自分、自分の物がなければ、「両親、先生を尊重する必要はない、あるいはこれらの恩人に恩返しをしない」とまで誤解が生じる問題があります。自分がないからです。

 これは、交錯している理解から生じる問題です。「自分がない」というのは深いレベルのダンマです。世俗の仮定の自分がいるのは一般の初歩の道徳なので、世俗の正しい見解の話の「親はいる、先生はいる、地獄天国はある」という項目の感覚があり、信じ、理解があり、正しい見方があると述べたように、「恩がある自分がいます。あるいは互いに恩がある自分」がいるのは、互いに実践しなければならない義務を知るためです。

 自分、あるいは自分の物はないと知るくらい智慧のある人は、何が世俗の意味か、あるいはローキヤの意味か、仮定で述べた話か、何がロークッタラである厳格な真実の話か知る智慧があります。自分がないという知識はロークッタラの段階の厳格な真実である知識ですが、ローキヤの話でも、この教えを一般に使う努力をします。

 ローキヤの知識、あるいはローキヤの種類のダンマだけでは完全な滅苦はできず、消滅しない苦がたくさん残る原因になるので、「涅槃の話」の意味、あるいは規定を日常生活に使うと述べたように、ロークッタラの知識を使って助けます。つまり仕事、競争、試験をする時、例を上げて詳しく話して聞かせたいろんな職業をする時に、「常に自分自身が空」である感覚があるよう教える話を日常生活に使います。それです。自分がない話、あるいは涅槃の話の原則を日常的な場面に使うと、はっきり理解してください。


 まだ正しく理解できない方が、涅槃の話をどのように使えますかと質問します。それは的外れな理解です。直接涅槃を使うのでなく、涅槃の原則、あるいは規則、あるいは意味を日常生活に合うように調整します。内心で沸騰している「俺、俺の物」という感覚がない話の規則と、純粋な知性ですれば、日常で使う涅槃の規定と言います。だから両親や子や妻、夫などを愛す愛に関わる話はどこへも消えませんが、知性、あるいは完璧な知性でする恩返しになるだけです。

 愛、あるいは執着による恩返しではありません。それは執着による愛と同じだけ強烈な感覚で、恐れや悲しみ、孤独感を生じさせます。だからみなさんは、煩悩欲望の威力で、俺、俺の物という執着で何かをしないダンマを教えます。そして自分があるならダンマの自分、知性の自分にします。私たちは愛し合い、援け合い、恩返しし合ってしまいます。

 そして子が死んだ時涙が溢れるほど泣くような、迷いで恋慕する感覚を持ちません。あるいは父が死んで子が泣き濡れるのは、間違った執着です。「(泣き嘆く)自分がなければ自分は残虐な人になり、誰のことも考えない」と心配する必要はありません。空の教えは身勝手でないことを目指しているからです。「身勝手でない」という言葉をしっかり憶えておいてください。身勝手がなければ、恩返しなどを、正しく、本当に最高に善くします。


 親不孝な子は身勝手があり、著しい自我があるからで、時には親や年寄りを下僕のように、あるいは使用人のように使う人もいます。これは子の著しい身勝手です。留学して新式の教育を十分に受けても、平気な顔で親に使用人の仕事をさせます。だから執着に溢れた世界の話は、望ましくない成り行きになります。基礎に身勝手があるからです。私たちは、適度に身勝手を管理しなければなりません。自分があるなら善い自分でなければなりません。つまり善い方向の執着にし、そして執着しても少しにすれば、いろんなものを管理する知性があります。

 涅槃の教えを理解してください。あるいは俺、俺の物がないことは、本当に正しく理解しなければならない物です。そうすればそれを子供たちに教えることができます。つまり重要な要旨は、いつでも身勝手でないことに集約されます。この教えを捨てないでください。自分がないことは、煩悩である自分はありませんが、ダンマがある種類の自分はあります。ダンマがある自分があれば、つまりダンマが自分なら、自然に煩悩である自分は空になります。

 日常生活にはダンマである自分、あるいは知性がなければなりません。知性は、本当は自分でなく、自分であるのは煩悩欲望です。煩悩欲望から生じた感覚は、当然著しく「俺、俺の物」と感じます。これは排除して空にしなければなりません。この感覚を排除してしまえば空になります。心の本来の自然は当然知性で、訓練するだけ増えます。だからこの規則を正しく理解してください。そして道徳を普及させる基礎と見なし、俺、俺の物という執着である感覚なしに生きる主義を普及させます。

 執着という言葉を熟慮して、正しく理解してください。私たちは知性の自分があるので、執着しなくても良いです。だからブッダが「拠り所である自分があり、拠り所であるダンマがある=アッタディーパー アッタサラナー ダンマディーパー ダンマサラナー」と言われたような、ダンマである自分です。ダンマを自分にしてしまえば、欲望執着の自分ではありません。それはダンマの自分で、欲望執着の自分をいつでも排除できる知性を意味します。


 次に熟慮するのは、道徳の維持と普及です。それには基礎である仏教の教えがあります。私たちはどのように身勝手でない主義を布教できるでしょうか。良く話されるのはダンマの布教、あるいは宗教の布教をどうするかです。しかし私は布教するダンマ、あるいは宗教には、述べたように自分、自分の物に執着しないことに根源がある、身勝手でない道徳を選ばなければならないと明示させていただきます。

 道徳の維持継続と普及は、例えば「仏教の寿命を延ばす」など、宗教界で使っている言葉を嫌わないようお願いしたいと思います。この言葉は、仏教、あるいはダンマ、あるいは道徳を保持しておくことができるという意味です。

 今、私たちには当面の問題があります。つまり道徳の維持と、しつけて教えることで、維持が一つ、そして普及が一つと、二つに分けます。普及はしつけや訓練で、維持できた時、しつけして教える、あるいは普及させるダンマがあります。維持できなければ、何を教えて訓練するのでしょうか。これは、それぞれの宗教の聖典を印刷して世界中に溢れさせてもどうしようもないと前に述べたように、道徳は言葉、あるいはたくさん印刷して世界にある文字ではないからです。

 だから道徳を維持するのも、仏教の寿命を延ばすのも、書籍を維持すること、あるいは何かの声を録音しておくという意味ではありません。ダンマの実践、あるいは本当の宗教の実践が人物に、人物の身体と心にあるようにし、仏教の寿命を受け継いで人物の身にあるようにします。人の肉体、人の身体と心が、道徳あるいは宗教の基盤です。だから「宗教は人にあり、三蔵などにあるのではない」という意味です。


 仏教の寿命を引き延ばすのは、最高に徳を得る、あるいは善を得る物と見なされるほど重要なことです。人がこの宗教で出家するのも、正しくするには、仏教の寿命を引き延ばす出家でなければなりません。つまり本当に出家し、本当に学び、本当に実践し、本当の結果を得、本当に教えます。このように本当なら、仏教の寿命を延ばすと言います。仏像を印刷し、あるいはレンガに文字を書いて土に埋めるだけ、あるいは三蔵の書棚の中のニッパヤシに刻むだけではありません。

 私たちの道徳の維持も同じです。先生の身にある道徳を、心から、心で、行動から、行動で伝承して、弟子の身に付かせます。私たちは宗教、あるいは道徳を維持しておかなければなりません。理想を理解しなければなりません。そうでなければ飽きます。つまり俺、俺の物だけを考えないことに関わらなければなりません。それには世界のことを考え、畜生も含めて生老病死の友である世界の人間同朋のことを考える広い心がなければなりません。

 そうすれば道徳、あるいは宗教の寿命を引き延ばす気力が生じます。だからみなさんは「助け合って世界の菩提樹を育て、助け合って水をやり、土を掘り返す」という例えが好きです。「世界の菩提樹とは何か」まで見る構想があるべきです。緑蔭で世界を涼しくする菩提樹があることを目指すなら、それは何でしょうか。それは道徳の形のダンマ以外の何でもありません。つまり行動すべき、あるいは行動しなければならないダンマです。

 教育して理解させることでこの菩提樹に水をやり、土を掘り返さなければなりません。そうすれば完璧な実践がすべての人の身にあります。それが、世界の菩提樹に水をやり、土を掘り返すことです。私たちは、宗教、あるいはダンマがまだ世界にあるのは、この世界が崩壊しないよう、あるいは蒸し暑く暮らさないよう世界を保護している菩提樹があるのと同じと、はっきり見えなければなりません。


 私たちは、すべての仏教教団員の中に自分の義務があると深く見るべきです。他の宗教、他の教義も彼らの義務があります。しかし不思議なことに、私たちだけがして他の人たちがしなくても、世界の菩提樹があるようにできます。つまり宗教は神聖な物で、まだ宗教が世界にあれば、いつでも世界を沈没から引き止めなければならない、世界を沈没させない錘である神聖な物です。これは全員が実践するという意味ではありません。

 全員が実践するよう強制する物は何をないからです。一部の人が実践しておけば、それが世界にダンマがあるように涵養します。この世界が転覆せず、沈没しない分だけ、全員が利益を受け取ります。ダンマを好まない人たちも、邪見の人たちも、ダンマの敵である人たちも、この地球が沈没しないことから利益を受け取ります。

 これを、「私たちは世界が沈没しないよう、道具であるダンマ、あるいは道徳に依存して抑止することで善を探求する」と言います。このように見れば満足します。あるいは宗教を維持することにも、広く普及させることにも、特に世界の青少年を育てることにも、道徳に関わる理想を信仰、あるいは帰依します。ね、「世界」のという言葉を使わなければなりません。


 次に、道徳がこの世界にあるように維持するのに、どのような原則があるかを見ます。私たちは仏教の理想での規則があります。つまり、

1.すべての人が自分自身で善行をする。これをパティバッティダンマ(実践)と言います。
2.能力に応じて、機会に応じて善行をするよう教える。これをアヌサーソンダンマ(教示)と言います。
3,善行をする人がいたら協力する。これをヴェッヤヴァチャカラナ(授記)と言います。

 三つ揃えば、世界に道徳を維持する物が揃っていると言います。


 善行は、正しい理解がなければなりません。善行という言葉は、一般にダンマの実践を意味しても、まだ「正当な振る舞いでなければならない」と言い含めています! ね、正しいダンマの実践をしなさいと聞くと滑稽です。「ダンマン スチャリタン チャレー、ナ タン ドゥチャリタン チャレー=ダンマの実践を正しくしなさい。ダンマの実践を不正にすべきでない」。

 不正なダンマの振る舞いはどういう意味でしょうか。これは、俺、俺の物が著しくある人が、俺、俺の物の利益のためにするという意味です。このようなのを、正しくないダンマの振る舞いと言います。つまり不正です。ダンマのためのダンマの振る舞いをしなければなりません。お金のため、あるいは俺、俺の物にとっての幸福のためのダンマの振る舞いなら正しくないと言い、不正である種類の身勝手です。だから理想、あるいは自分の職務に正直でないことが、不正なダンマの行いです。

 だから先生の誰かが自分の職務に正直でなくなれば、先生の理想に正直でなくなれば、こういうのは不正なダンマの振る舞いと言います。ダンマの振る舞いの行動はありますが、意味が不正です。だから、ダンマの行動を正しくし、煩悩欲望に言い訳する機会を与えません。よく見てください。誰でも不正なダンマの振る舞いがあり、どこで自分自身を騙しているか、良く見てください。誰でも多少はあります。煩悩の肩を持つ考えがあります。

 別の言い方で、「煩悩の威力で成り行かせるために、自分自身に言い訳する」と言います。これは多かれ少なかれ、誰にでもあります。これがなければ、ダンマの振る舞いは今よりも非常に堅固で鋭く確実だからです。ダンマと自分の間にいつも不注意があり、ぐずぐずして欺瞞があるのは、まだ善行と言いません。だから私たちは「本当に善い」という善行をしなければなりません。


 善行をするように教えるのは、一人で善行をして世界に菩提樹があるようにするのは遅いので、他人に教えようと考えるという意味です。

 「他人に教える」というのは、先生として振舞って彼らに恩を着せ、彼らから報いを求めません。人に教えるには、ブッダがなさったように大勢の人にダンマの普及させる義務を行います。ブッダは報い、報酬、あるいはそのような物を期待して行動しませんでした。だから先生の理想で教えるのは、私が前の講義で述べたようでなければなりません。つまり世界の精神面の案内人として、俺を忘れ、俺の物を忘れ、報酬、授業料を忘れ、俺、俺の物が受け取るいろんな利益を忘れ、理想に従って義務を行います。

 そうすれば、何とか生活できる物は自然に自分の足元にあります。これはかなり下品な言い回しですが、それにはどのような事実があるか、考えて見てください。それらを受け取るために頭を下げないでください!

 私たちは、自分の義務を理想に従って正しく遂行することに、いつでも頭を高く上げます。そうすればそれらの物は、私たちの義務の遂行を崇拝する物として、ふわふわ飛んできます。足元に這って来ます。このようにすれば、ダンマの理想にそって正しいダンマを教えること、あるいはダンマの訓練、あるいはダンマの普及です。


 仏教では、すべての布施や寄付には、ダンマを与えるより高いものはありません。「サッパダーナン ダンマーダーナン チナーティ=ダンマを与えることは、すべての与えることに勝る」。これは、身勝手を寄付する(捨てる)のと同じで、そうすればダンマを与えることができるという意味です。ダンマさえ惜しむ人がいます。善行も惜しむ人がいます。犠牲がなければ、そして疲労困憊である努力をしなければ、ダンマの寄付はできません。

 人にダンマを受け取らせ、ダンマがあるようにするには、困難を投資しなければならないのは当たり前です。お金でできないから、あるいはお金だけではではできないからです。しかし愛、可愛がること、慈悲、犠牲に依存し、決意し、それらの人たちにしっかりダンマを見せ、後退させなくすることにあらゆる努力をします、だからブッダは、一人に勝利するまで何日も、何時間も努力なさいました。このようです。

 だから「本当にすべてを与えることに勝利する」と言い、「本当に最高の物を与える」と言います。知識を与える以外に、疲労困憊の犠牲を与えなければならないことを忘れないでください。そうすれば一人くらいダンマを深く理解できます。先生も教え子がいるので、教え子にダンマを与えなければなりません。生徒もたくさんいるので、犠牲も比例して増えなければなりません。

 本当の問題はここにあります。どのようにダンマを教えるかではありません。しかし重要なのは、むしろ自分でダンマを知り、自分でダンマの実践をし、そして身勝手を犠牲にしなければならないことにあります。


 次の項目は、他人が善行をする時は援けます。自分自身も善行をし、そして他人に善行をするよう教え、そしてもう一つ、他人が善行をする時は、少なくとも認めることで支援をしなければなりません。こういうのも支援と言います。「彼は善行をした、彼は心がある」と認めます。私たちは彼が善行をしたと認めます。これです。子供にとって最高に重要なのは。

 先生があまり認めなければ、生徒が善行をしても先生がそれを承知していると態度に表わさなければ、彼らの心を惹く術はありません。彼らにダンマ、あるいは道徳を受け取らせる術はありません。「最高に問題に遭遇するのは、子供が徳育の知識を嫌い、道徳を嫌うこと」と、たくさん問題が寄せられたように、非常に倦怠します。だから彼らが善行をしたことを認めることから始め、それから支援し、あるいは気力を増やします。

 宗教に関しては、仏教教団員同士で認め合い、そして支援し合い、直接担当者に力添えをします。直接の担当者とは、私は比丘、出家、ダンマの布教をする人、あるいはこの仏教の寿命を継承する人という意味にし、それらにふさわしい力添えをしなければなりません。そしてその人たちは、受け取るべき十分な支援を受け取ります。これを、他人が善行をする時、支援すると言います。


 他人が善行をした時、待っていたように認め、待っていたように支援し、待っていたように彼らに力添えする。このような気持ちが自分にあったかどうか、考えて見てください。それとも俺、俺の物が常に著しく、「他人の話だ、知ったことか」ですか。これです。正しくないダンマの振る舞い、曲がったダンマの振る舞いは。善行をした時に認め、共に喜びません。それは「恩」という、もう一種類の善を生じさせません。

 共に喜ばず、支援せず、力付けもせず、その仕事に寄付したこともありませんが、俺、俺の物のために際限なく溜めておきます。あと何倍、何十倍、何百倍でも足りません。それでこの世界がダンマで発展しないと、誰かを責めることはできません。世界にある人間の群れでは、普通の振る舞いは曲がっていて、正しくないからです。

 どの国、どの言語、どの宗教でも、物質主義に引っ張って行く俺、俺の物があります。だから私たちは広い心を持って、生きている動物がいる、生老病死の問題がある世界中、世界全体を見なければなりません。そして「善行がない、他人に善行をするよう教えない、他人が善行をした時に支援し、あるいは認めることがない」と、はっきり知るまで見ます。ね、あるのはてんでに芝居をするだけです。ダンマの振る舞い、ダンマの話をしても、他人に自分を好ませる種類の芝居の話で、他人をダンマ好きにするためではありません。

 この言葉、文章の意味を理解してください。家や寺で説教をし、説法をし、ダンマの説明をするのは、話し手である人を好きにさせるためで、ダンマを好きにさせるためではありません。これは曲がったタンマの振る舞いです。子供たちにダンマを教え、道徳の訓練をするのも同じで、同じ規則がなければなりません。つまりダンマを重要とし、主体にし、全員にダンマに振り返らせ、教える先生、あるいは教える先生の利益だけを考えません。

 あるいは子供たちを子分にして自分を支持させる、こういうのでもありません。私たちは常に俺、俺の物がないことで、自分を愛す以上に彼らを愛さなければなりません。そうすれば全身が、すべての行動がダンマになります。話したような状態は道徳を維持すること、あるいは仏教の寿命を引き延ばすことです。だから私たちは善行をし、他人に善行をするよう教え、他人が善行をした時は支援します。これが原則です。


 私が以前に、「善い先生、善く教えること、善い環境は、教育の成功」と述べた項目を強調したいと思います。しかし三つに分けてばかりいれば、非常に鈍く、非常に遅いです。そして善い先生、善く教えること、子供の善い監督者、他の環境も善いことを意味する善い環境の話でも、争って譲りません。

 もしそうなら、先生が犠牲と負担を受け入れて、すべての重荷を一人の先生にしてください。そうすれば残るは一つだけ、つまり善い先生だけです。先生が善ければ必ず教えることも善くなり、いろんな環境も善くなります。他の人に期待して頼らないでください。

 先生が善いだけで教えることも善くなり、すべての環境も善くなり、子供の両親も善い先生ゆえに善くなることもあります。三つに分けてばかりいないで、いつでも一つに縮めて残せば、善行をし、人に善行をするよう教え、他人が善行をした時は支援することが、まとめて一人の先生にあります。

 これを「先生の犠牲は、数えきれないバーラミーがあるブッダの犠牲に等しい」と言います。これは俺、俺の物のことだけを考える俺、俺の物がなく、あるのは犠牲だけです。こういうのを、最高の道徳の維持、あるいは最高のダンマの維持と言います。


 述べてきたすべてを、理想的すぎて実践できないと見る方がいるかも知れません。そう見るのは自由です。私は他の道を見ないで、この道だけを見ます。節度を超えていないと見る人は、まだ解決できない問題を、私たちの時代の人が世界の危機を解決し、これから生まれる人たちに幸福、安楽を受け取らせるため、助け合って一つの時代を犠牲にして解決するために、持ち帰って考えて見てください! 

 私たちの時代の人全員が助け合って犠牲にせず、まだ俺、俺の物が目立っていれば、道徳がないことの寿命を継承するので、世界の道徳の揺らぎと崩壊があります。だからこの時代の私たちが協力して犠牲にしたらどうでしょうか。ダンマのためなら何もかも犠牲にできます。特に誰か一人の「自分」のためでなく、ダンマのため、道徳を維持する利益のために、何でもあらゆる方法で犠牲にできるべきです。


 続いて二つの問題について述べます。つまり道徳、あるいはダンマの普及についてです。

 先生のみなさん、どうぞ普及の仕方について考えるよう、伏してお願い申し上げます。私が熟慮するようお願いするのは、三つの方法、あるいは三段階あり、そして仏教の教えでします。つまりプラタムは三種類、パリヤッティダンマ・パティバッティダンマ・パティヴェーダダンマです。

 パリヤッティダンマは、教えの言葉、ダンマのいろんな理論で「パリヤッティダンマ」と言います。教えること、学ぶこと、述べること、あるいはダンマの文章も全部まとめて、教える所でなければならない学校から先生たちまで、パリヤッティダンマ一語に含まれます。
 「パティバッティダンマ」は、身体、言葉、心の面の実践です。
 「パティヴェーダダンマ」はそのダンマを洞察して明らかに知り、聖向聖果涅槃である結果を得ます。これを三つのダンマで三つの柱があると言います。

 普及させるには、この三種類あるダンマに合わせなければなりません。

1.教えて知識、考え、理解を生じさせる。これはパリヤッティダンマです。
2.手本になって見せ、信じること、帰依、最高の関心を生じさせるために実践して見せる。これはパティバッティダンマです。
3.幸福であることを見せる。つまり得た結果を見せます。これは最高に信頼を生じさせ、したくて我慢できなくなり、その方法でしなければなりません。これはパティヴェーダダンマです。


 先生のみなさん、クラスで教えるように教えるのは、知識・考え・理解を生じさせるだけで、それ以上の何も与えないと、お浚いしてください。しかし身体でして見せれば話す必要がなく、心で、心全体に信頼を生じさせ、最高に教えた内容に帰依を生じさせ、教えた物に最高に関心を生じさせます。しかしこれだけでは十分ではありません。私たちは善い結果があるまで善い振る舞いをし、身体で善の結果を見せなければなりません。

 私は「幸福があるのを見せる」という言葉を使います。これは信じる以上に信頼させます。つまり教えの言葉、あるいはこの規則に全身全霊を捧げるほど信頼します。そして最高に手本のように、あるいは教えのようにしたくなり、我慢できなくなって自分でその教えを実践します。強制しなくても、その教えでするよう誘わなくても、眉毛を上下させて従わせなくても、我慢できなくて自分から志願してします。

 だから三種類ある仏教の柱を使って弟子たちをしつけ、教えてください。つまり口で、声で、絵で、これらの物で教えます。これを知育の部分の「教える」と言い、仏教でも極力します。次に先生の身体も、そのような実践の手本を見せなければなりません。そしてそれ以上にするのは、明さがあり、自分に勝利できる幸福な人です。つまり煩悩に勝利でき、常に穏やかな幸福を見せていて、見せる幸福があると言います。


 この三項を憶えておいてください。そうすれば、特に「子供に道徳を教えて成功する方法はどのようですか」と、私にたくさん寄せられた問題を解決するのに十分です。これは今、「三つの方便で知識を伝え、ダンマ、あるいは道徳を伝える」と答えています。つまり教えて理解させ、行動して見せ、信じること、信仰を生じさせ、そして見せる幸福があり、それが信頼を生じさせ、それに従ってしたくなり、我慢できなくなって、誰が止めても聞きません。

 その子が実践したくなれば、両親が止めても止めさせることはできないほどです。これが正しい方法で教える結果、あるいは威力です。だから口で教えるのと手本を見せるのと、どちらがどれだけ重いか、比較してください。そしてもう一度幸福があるのを見せ、それは何倍重みがあるか比較して見てください。比較して見れば、どちらの方法を使うべきかよく理解できます。

 口で教えることに五十銭くらいの価値があると仮定すれば、見本を見せるのは金六十グラムくらいの価値があり、そして見せる幸福があるのは金一キロ、あるいは金塊六十キロ、六百キロの価値があります。もう一度、口で教えるのに五十銭の価値があるとすれば、行動して見せるのは、金六十グラムの価値があり、そして幸福を見せるのは金一キロ、あるいは金塊六十キロ、六百キロの価値があると、お浚いさせていただきます。

 しかしこれは、口で教えるのを止めるという意味ではありません。それを止めることはできません。そして最高に良くしなければなりません。二番目、三番目の道具だからです。私たちは正しく学ばなければなりません。それから正しく実践し、正しく実践した時、事実にふさわしい幸福が生じます。そうでなければ生じません。

 別の角度から見ると、教えることも必要上の価値がありますが、心を惹きつけることが少ないです。初歩で実践しなければならないことについて話せば山ほどあります。だから私たちは初めから善く、純粋に、精一杯しなければなりません!


 知育の手法で口で教えるのは、正しい知識、正しい考え、そして自分で教育し熟慮し、どんどん正しい理解を生じさせることができるまで、正しい理解を生じさせなければなりません。これは正しい知識、正しい考え、正しい理解を生じさせ、自分で更に正しく熟慮できなければならないと定義してください。

 今私たちは機械のように教えがちです。初歩のレベルのダンマ、例えば慚・愧・堪忍・謙虚などの話を教えるなとは、生徒に慚愧はどういう意味か、何種類あるか、忍耐・謙虚はどういう意味か、何種類あるか、常自覚とは何か、何種類あるか憶えさせ、教え終われば、憶えたらノートを閉じてしまいます。結果はこれだけで、試験して学んだことの千分の一、万分の一も試して知らせる機会がありません。彼らが知ったか、まだ知らないか、分かりません。あるいは憶えたかどうかさえ分かりません。だからこのように教えるのは、当然正しい十分な知識、考え、理解を生じさせません。

 慚愧を教えるようなのは、それは誰の身体にあるか、そして誰の身体にないか、そしてその人はどのようか、説明しなければなりません。そして先生は続いて、慚愧のない子は今、集団や学校、国にどんな危険を成しているか、見本を示して追跡しなければなりません。あるいは映画を観ること、芝居を観ること、本を読むのでも、その出来事にどのダンマがどのようにあるか、どのダンマがどのようにないか、指摘する機会を探すべきです。

 特に子供自身が、彼らにダンマがある時、あるいはダンマがない時、絶妙な方便で彼らを怒らせない、嫌わせない、そして信頼を生じさせ、尊重尊敬を生じさせ、同時に慚愧があることの恩恵を見せながら、慚愧がないことの害を見せる方法がなければなりません。間もなく子供たちは、必ず部分的に慚愧があるようになります。言葉を教えて記憶させ、書いたらノートを閉じて終わりでは、いくら教えても慚愧はありません。大人でもまだ持てないのに、子供のことばかり言わないでください。


 サティサンパッチャンニャ(常自覚)は、勉強する時、遊ぶ時、家にいる時、常自覚がどのように使われているか、どのように使われていないか。それを良く知り、子供の日常生活に応用できるまで、教えなければなりません。子供の日常のノートには、先生がこれらを書き記す欄があるべきです。

 私たちはどの学年の子供にどの項目のダンマを幾つ教えるという確かな決まりがあるべきです。当然全部教えることはできないので、この学年の子には十項のダンマを教えると規定しておきます。例えば慚愧、報恩、恩を知る、サティ、自覚、誠実、訓練、忍耐、施捨、合わせて十項。このようなら、これらの項目は、どのように指摘し、どのように忠告し、どのように害を説明し、どのように功徳を説くか。子供自身が子供の社会に生じる本当の見本である、慚愧のある人と慚愧のない人の場合の例を挙げて審理することまで、綿密な計画がなければなりません。

 こうすれば最高に早く、本当の結果があります。時間は掛かっても結果がなければなりません。他の方法では、どんなに時間が掛けても何も結果はありません。本当にする、あるいは正しい方法でするのは、少ししてもたくさんの結果がありますが、正しい方法でしなければ、山ほどしても、結果はありません。


 正しい知識と本物で教える話で、びっくりする例を一つ挙げたいと思います。そして四界の話を教えるなど、ダンマと非常に関わりがあります。学校で教えている土界・水界・風界・火界の話は、ナックタム(比丘の試験)の学校でも、土界は土、水界は水、火界は火、風界は風と説明します。これは最高に笑えます。つまりそれは本物ではありません。本物を間違え、本当でなく、そして正しく教えない正しくない知識です。

 正しい知識と本当の知識は、例えば一掴みの土を掴み上げて、この土の塊の中の固くて体積のある性質を持つ物が土界。容器に従って形を変え、緻密な一塊になっていて、土の塊の中の凝集している状態がある物が水界で、土の塊の中にもあると教えなければなりません。だから土塊の性質は水界である部分にもあります。そしてその土界に温度があり、その土塊は、当然その土の環境に応じて多少の温度があるので、火界もその土塊の中にあります。

 風界は膨張して蒸発する性質で、ガスの状態で、これも土塊の中にあります。腹の中の風、腸の中の風、呼吸の風と言うのと同じです。これは浮かんで移動し、膨張するガスの状態です。このような性質を、私たちは風界と言います。だから摘まみ上げて見せた土塊の中のどの部分が土界で、どの部分が水界で、どの部分が火界で、どの部分が風界か説明して見せなければなりません。


 もし先生が頑固に土界は土、水界は水と、お寺の東屋で教えているように教え、学校もそのように教えるなら、それは最高に宗教の施設を破壊することです。つまり現代人に「仏教は土界は土、水界は水、火界は火、風界は風と指摘して、最高に愚かに教えている」と見せます。本当は、土界は体積のある固い性質を意味し、水界は液体として掴まり合っていて、掴まっているので容器に応じて形を変えることができる性質です。私は、何と言う言葉を使えば良いか分からないので、cohesion(凝集)という言葉を使います。

 先生は当然、良く理解できます。このように凝集する性質を水界と言います。だから一つの物にこの性質がある時は、水界と呼ばなければなりません。私たちは、一つの物質でも温度が非常に違えば、当然液体だったり、個体だったり、あるいは液体以上、つまり蒸発したりするので、何かを指して「何界、何界」と、一方的に言うことはできません。

 お寺の東屋でダンマを教える人のように四つの界に分けて教えるのは、正しくありません。彼らはブッダの教えの言葉で正しく教えません。だから私たちが学校で、今後も間違って教えれば、現代の科学の知識者は、「石器時代の人のように愚かに教える」と、仏教の教えを最高に軽蔑します。私たちは仏教の土界・水界・火界・風界を、このように正しく知らなければなりません。


 ね、宗教界と教育界の間で、教えて理解させなければならない例を挙げます。いずれにしても確実にこの形のダンマを教えなければならないので、一塊の土で四つの界を教えることができるように、正しい知識で、そして事実で事実を教えなければなりません。あるいは川から水を汲んで来て、一椀の水に、水の中にある土界、つまり水中に溶けている成分を説明して見せ、そして火界はその水の温度で、風界は熱やそのような何かの威力で蒸発する薄いガスで、休まず蒸発して拡大する性質を風界と言います。

 液体の状態であるドロドロした部分は、cohesion(凝集)で、それが水界です。だから一杯の水で、このように四界全部を説明できます。これは事実通りに正しくはっきり見せるためです。だから何を教えるにもこのような状態で、いつでも事実で正しく教えなければなりません。そうすれば助け合って仏教を破壊しない、あるいはダンマを教える施設を破壊して、どんどん進歩する現代の教育に軽蔑される物にしないと言います。


 次に人に教えることに関して、ブッダは「人に何かを教えるには、先ず自分がそのようにできなくてはならない」という教えがありました。「ウッターナメヴァ パタマン パティルーパ ニヴェーサイェー」というパーリ(ブッダの言葉)があります。意味は「先ず自分をふさわしい形の中にいさせて」、「アタンヤマヌサーセーッヤ ナ キリッセーッヤ パンディトー=それから他人に教えれば、汚れた学者ではない」。 文字通りに訳すとこのようです。「キリッセーッヤ パンディトー」は、汚れた学者という意味で、先生でも何を教える人でも。ふさわしい美徳があるようにしてから他人に教えないことで、汚れた学者になるという意味です。

 これも、「先生、あるいは偉い人が国の青少年の善い手本でないので、いくら道徳を教えても成功しない」と、たくさん質問が寄せられました。これも本当にあります。ブッダもこのように言いました。どのように偉い人、グル、先生など、これらの人を解決するか。私は、それは義務の範囲外なので、このようなところで話すべきではない、差し障りがあると答えます。しかし一般原則として、自分が他人に教えるにふさわしい美徳の中にいるようにし、憂鬱な教師でないようにしてしまうことで、他人に関わらずに誰もが自分でできることを努力します。

 時々、ほとんどの人はこの重要さを軽視することがあります。あるいは本当にあるのは、ほとんどの先生が「私たちは時間で教えるだけの義務しかない」と捉えています。つまり言葉を噴出させる機械にすぎず、誰の美徳にも関係ないと。もしこのようなら、必ず倒産を免れることはできません。そして憂鬱な教師の状態の中にいます。だから、先生は世界の精神面の状態を高める人という理想は、どの場合にも常に使わなければなりません。これも慎重にしなければならない項目です。


 次に、私たちの青少年に自分でたくさん考えさせる方便、あるいは方法がなければならないと、忠告したいと思います。つまり先ず考えさせます。これは、考えることを教えるという意味です。考えなければ知る術はありません。しかし考えるにも、考える訓練をしたことがなくて考え方を知らなければ、考えられません。それ以上に、自分で考えさせなければならないという意味です。

 のべつ幕なしに喋る機械になるように教えないでください。私たちは考えさせるふさわしい智慧がなければなりません。今「ダンマは高すぎる。教えて何になる。話して何になる」と理解しているように理解しないでください。これは、最高にたくさん寄せられた意見です。

 涅槃の話も子供に教えてはならないと、すっかり軽視されています。教えることができると信じている人も、どう教えたら良いか確信がありません。ここでは前に述べたように、いつまでもずっと笑っていなければならなのと、ずっと泣かなければならないのはどうか、比較して考えることを子供に教えます。「こういうのはどう? 空ならそのようにする必要はないよ。あるいは自由で、そのようにしなくても良い。こういうのはどう?」。このようにします。涅槃の話は子どもの脳に入れてはいけない話と見ないでください。本当に滅苦ができるアリヤダンマの理解に導く糸口だからです。


 あるいは子供たちに「なぜ生まれて来たのか」という問題を考えさせます。試して見てください。彼らはきっと非常に可愛らしく、非常に哀れに答えます。子供たちが答えを競い合うコンクールを企画し、あるいは子供たちになぜ生まれたか意見を言わせれば、ちびっ子たちは自分なりの考えを発言します。そして先生はどの考えが良いか、どの見方が賢いか指摘する機会があります。本当は何のために生まれたか知るまで、段階的に例えます。そのようにするのは多少時間が掛かっても、却って最高に簡単に高いレベルのダンマを理解するのに最高に時間の節約になります。

 あるいは、人間が得るべき最高に善い物は何か考えさせます。こういうのでも良いです。幼い時から見方を言わせ、大きくなったら、この問題に答えるために意見を出します。中学生、高校生、大学生になっても、あるいはどの学年でも、この問題に答えられます。

 「なぜ生まれて来たのか。何が人間が得るべき最高に善い物か」という問題に答えるために勤勉に考えれば、気づかずに、最高に簡単にダンマの道に入れます。「どんなにお金があっても解決できない苦はどのような種類か」という問題に答える練習をさせなさい。つまり彼らに、お金で解決できない苦を探させます。彼らは、お金を使って何でもでき、考えられる何でも解決できると考えているからです。

 そしてまだ、お金よりも良い物を考えることができません。こういうのは、物質の話であり、物質主義に導くお金に夢中になっているという意味です。私たちは彼らに、お金が助けにならない物は何だろうと考えさせなければなりません。そうすればお金よりも良い物は何か、このように考えることができます。先生はこの事実が、生徒より先に見えなければなりません。


 これらすべてを「ダンマを学ぶ」、あるいは「ダンマの手法として正しいダンマを教える」と言います。至る所で行われているように教科書を開いて言葉を教え、ノートを取らせません。あるいは僧が経を唱えるように、強制的にあれこれ暗唱させません。僧が読経するのも、ほとんどは暗唱する話で、ダンマの理解の話ではありません。ダンマの系統の考えや熟慮に関わらなければなりません。そうすれば早くダンマを知ることができるダンマの系統の感覚が生じるだけです。

 もっと高いダンマでは、科学を教える原則のように、子供たちに観察を教える方便がなければなりません。これは、先生は良く理解しています。科学の教室では子供に学ぶことを教え、深く観察することを教えます。しかし徳育の時間に、なぜそのようにしないのでしょうか。科学の話より、あるいは科学・化学・物理、これら物質の話よりもっと繊細に教えなければならないダンマなのに、なぜ雑にするのかは、目に見えないからです。

 だから彼らの心の中に生じる物、あるいは感じる物を、例えばどのように愛が生じるか、どのように憎しみが生じるか、どのように怒りが生じるか、どのように恐れが生じるか、どのように悲しみが生じるかなど、観察することを教えなければなりません。それは、本当は心の面のメカニズムにすぎません。観察することを教え、そしてこのように観察項目を設ければ、間もなく子供たちは、難しいパーリ語であるダンマの名前を出さなくても、ダンマに賢くなります。


 多くの先生がパーリ語から生じる障害について提出されたことに、私も同情します。そのとおりで、パーリ語の障害はたくさんあります。私たちはタイ語にするべきですが、同時にパーリ語も憶えさせれば、間もなくそれは、自然にタイ語になります。

 タイ語の言葉、パーリ語の言葉の問題は、現代タイ語の中にパーリ語が六割もあると、前回話して聞かせました。どの頁でも開いて見てください。タイ語の初期の本、例えば三国志、ラージャーティラートなど、こういうのも何割もパーリ語の言葉が、一頁に二十から三十語もあります。しかし詳細に観察せず、一語ずつ線引きしないので、知らずに全部タイ語と理解しています。タイ語のベースは、たくさんパーリ語サンスクリット語にあります。

 千年以上、あるいは二千年も前にインド人がこの地にやって来たからです。だからパーリ語を嫌うべきではありません。タイ語としてたくさん使う努力をし、避けないでください。そうでなければ困難が増えます。タイ語を教えると同時にパーリ語を教えてしまいます。

 プラブッダ(ブッダ)もパーリ語、プラタム(仏法)もパーリ語、プラソン(僧サンガ)もパーリ語、チャリヤタムもパーリ語、ブッディスクッサー(知育)もパーリ語、パラスクサー(体育)、ハッタスクサー(手工芸育)もパーリ語です。すべてはサンスクリット語かパーリ語から来ていると明らかに見えます。しかし使い慣れたので、涅槃、輪廻等々の言葉は、全部タイ語になりました。

 英語では、カンマという言葉は英語になりました。彼らはkaramicという形容詞を使い、karamicallyという形容動詞を使います。これは英語です。しかしこの言葉はサンスクリット語のカルマとパーリ語のカンマという言葉です。だから素直に決意し、パーリ語に関して歪まないでください。そしてタイ語を極力正しくすれば善い結果になります。先生が観察点を立てるのは、多少パーリ語の観察項目を立てているように見えます。


 述べたすべてを「知識や考えを生じさせる種類の理論で教える」と言います。二番目はして見せ、して見せて訓練し、信頼、信仰、最高の関心を生じさせます。

 して見せて教えることについて、簡単な例を挙げます。牝鶏がひよこに、土を掻けるよう、走れるよう、飛べるよう教えるには、掻いて見せ、走って見せ、飛んで見せ、あまり話しません。孵化室の孵化機で生まれたヒヨコは掻くことができず、大人になっても掻けず、もたもたして、常に面倒を見なければなりません。中には生涯土を掻いたことがないのもいます。手本を見たことがないからです。

 しかし放し飼いの鶏は、一日か二日で掻けるようになります。母鶏は何も話さないで掻いて見せるからです。これは、して見せる手本は非常に価値があり、非常に重みがあると見ることができます。私たちは好く「百聞は一見にしかず」と言います。これは、口で話すのは百倍話さなければならず、そうすれば目で一度見るのと同じということです。

 今の大人は最高に言われました! 本当に、皮肉でなく、どこへ行っても「大人は善い見本を見せない」という言葉を聞きました。セミナーでも、このように話してばかりです。カードで提出された問題も、「大人は善い手本ではない」という項目に関してたくさんありました。大人が善くない手本であることについて、たくさん言及されたという意味です。

 本当か本当でないか、私はあまり知りたくありません。山奥の坊主と名乗るほど国に近づいたことがないからです。森の中に住んでいるので、事実と一致すると理解してください。だから先生が、それは本当かどうか、自分で理解しなければならない話です。しかしそれは本当であるべきです。話されることが多いからです。善くない見本にするだけ、この方法で教え訓練する障害があります。しかし私たちは同情し、善意で、一斉に助け合って丁重でふさわしい方法で、改善し解決します。


 一般に、毎日目に突き刺さる悪い物こそ大きな威力があり、青少年に道徳面の揺らぎをもたらすと認めるので、常に目に突き刺さる悪い物を排除するすべての方法で、何でも助け合います。今私たちが好んでいるすべての物、例えばいろんな選手権などを、もっと思わなければなりません。ボクシング、自動車競走、何でも誰が一番か、誰が秀でているか競います。これに道徳が混じっているか、見てしまうべきです。

 時には選手権保持者にかぶれることもあり、彼がどんな服装をしているか、どんな物を穿いているか、どんな表情をするか、どう微笑むか、子供たちは列になって、何のためか意味もなく、何のためか知識もなく真似をします。しかしするのは、これらのものが最高に目に突き刺さるからです。あるいは入場料を払って列を成して見るファッションショーを好むのも同じです。それはどこに道徳の意味があるでしょう。そしてどうしてたくさん開催され、時間を奪うのでしょうか。

 これらの物はどの面の手本か、あるいはどの面の意味や感覚を与えるか、みなさんどのように理解しますか。選手権は、この言葉の意味にふさわしいでしょうか。時にはチャンピョンシップ自体は、世界を恒久的な平和にする道徳面の価値がないこともあり、あるのは物質主義の金遣いの荒さが、俺、俺の物を著しくするだけです。だから先生は、誰かを手本にするなら、どの人を愛好する手本であるチャンピョンにするか、それは道徳面でなければならないと、子供に観察することを教えなければなりません。つまり人生にとって、常に私たちの滅苦にとって利益がなければなりません。

 若い先生が彼らと一緒になって、チャンピョンなら使い物になると、ファッションショーにあれば基準にできると言わないか心配です。自分自身を知らず、自分自身の判断、審査を知らず、私たちは他人に従ってすっかり時間を無駄にし、軌道内にいるよう引き留めるものは何もありません。目を突き刺す物、あるいは愛好する物がその形になるからです。


 広く世界中を見ると。世界の人間は全員、これらの理由で時間を無駄にし、お金を無駄にし、そして最後には最高に重要な物を無駄にします。つまりバランスを失います。バランスを失うとは心の面、精神面の安定を失うことで、それによって心の面、精神面が破産します。これが私たちの世界の恒久的な危機の根源です。狂喜する前に、私たちは先ず、彼らが「外国の物、西洋の物は進歩している」と好む新しい物は、精神の破産面に進歩しているか見なければなりません。

 東洋の道徳、文化、宗教は進歩していなくても、道徳の枠内に盤石に安定しているかどうかを見ます。このように自由な心で見れば、手本を選ぶことを知ります。そのような選択を知ることは些細なことではありません。手本を選ぶことを知れば、自分自身にとって、あどけない子供たちにとって善い手本が得られ、そして正しい方向に使えます。


 次に、幸福を見せて教える三項目になりました。

 幸福を見せて布教薫陶するには、先生は身体面、心の面の良い衛生、明るさ、透明さがあり、苦がなく、あるいは子供たちが尊敬して信頼し、話された言葉のようにしたくなって、我慢できなくする原因である清浄な根がなければなりません。これには、仏教の布教の世界で経験した成功の例を挙げなければなりません。

 例えばプラ・アッサジは、ブッダが仏教を公開なさって、仏教が生まれたばかりの最初期の弟子の一人です。プラ・アッサジは清浄な根があり、美しい挙措があり、幸福な目の輝きがありました。次に異教の修行者の弟子であり、後のサーリープッタ、モッガラーナであるウパティッサ、コーリタがいます。彼らはその時学んでいる宗教の教理に満足してなく、たまたま街を歩いていると、アッサジとすれ違いました。

 何も話しませんでしたが、アッサジの清浄な根を見て最高に関心を持ち、そして「この人はダンマがある」、あるいは「ダンマを理解している」と確信したので、後をついて行きました。托鉢が終わったのを見て質問すると、「すべての物は原因より生じ、原因によって経過し、原因によって消滅する」という、仏教の精髄である原則の話を知りました。

 要するに「自分と執着すべきでない」という意味です。だから仏教に帰依し、仏教で出家し、その後ブッダの筆頭弟子であるサーリープッタ、モッガラーナになりました。これを、見せる幸福がある見本は最高に断固とした布教ができると捉えてください。


 道徳を教えるのは学校の中ででも同じで、先生の身体にあり、私たちの国、文化、伝統習慣の中にあり、私たちの集団にもある、見せる善い結果を説明して見せ、観察することを教えるべきです。これは簡単便利なダンマの布教、善い仏教の布教で、どれも大変ではありません。だから善い行いをして善く始め、幸福を他人に見せるだけで、それぞれの人がダンマの布教者になります。幸福を見せることが一キロ、十キロの黄金の価値がある時、数グラムの価値しかない説教をする僧より、最高の仏教の布教者になります。

 体と言葉と心に現れているダンマの状態があることから始めてください。幸福を表す眼光があり、苦がなく、内部に隠れている生き地獄に落ちず、常に俺、俺の物に陶酔していない状態がある。それが善い布教の方法です。明るく澄み切った先生に善い行動があり、幸福があり、子供たちに「先生でも危機を脱せない。先生もまだこのようにイライラしている」と暗示して見せる個人的な問題が覆っていてほしくありません。

 これに関して、みなさんが必ず聞いたことがあるパーリがあります。家で夕べの読経をする時、モンコンスッタと呼ぶいろんな仕事があり、一つは「サマナアーナンチャ ダッサナン等々」、終わりは「エッタッモンガラムッタマン」とあり、最高の吉祥である物の中に、サマナを見る項目も含まれているという意味です。サマナを見ることは最高の吉祥です。サマナとは何でしょうか。本当のサマナとは何でしょうか。

 ブッダは黄衣に覆われていればサマナとは話されていません。剃髪していてもサマナではない、渋染めの布で身を包んでいてもサマナではないとすべて否定なさり、サマナという言葉の意味にふさわしく静まっているからサマナであると言われました。「サマ」は静まるという意味で、「サマナ」は静まった人です。静まった人とは、混乱を生じさせて貪・瞋・痴にする俺、俺の物の執着がないからです。

 サマナを見るだけで最高の吉祥と言われています。そして述べたようにアッサジがプラティッサとコーリタに与えたような最高の引力があります。だから先生もサマナになれます。教室で教えている先生もサマナになれます。体・言葉・心・見解面の考え・意見・いろんな信条、すべてを静まる方向にし、沸騰しないで、焦燥や執着の威力でイライラしないでください。


 このような状態の出家を「ダッサナーヌッタリヤ」と言います。サマナを見ることも、ダッサナーヌッタリヤ(見無上)と見なします。だから幸福がある人を見ることは、その人を惹き付けて我慢できなくさせ、実践させる威力が非常にあります。非常に信頼するからです。口で教えるのは信頼を生じさせません。却って疑念やためらいである知識や考えを生じさせ、十分に信じさせず、十分に帰依しませんが、実践して見せれば信じ、帰依します。それでも信頼は十分でなく、実践して成功したことによる幸福を見せた時、人は十分信頼し、誘う人がいなくても、その実践をしたくなります。

 物質面の話ははっきり見ることができます。商売のため、産業のための商品を発明し、あるいは何でも良い結果があれば一斉に真似をして、流れを止めることはできず、その品物が溢れます。これは何も引っ張る必要はありません。成功して見せ、お金である結果があるからです。これは物質面の例です。ダンマや道徳面も、同じように実践している人に幸福があるのを見せなければなりません。そうすれば同じ実践をしたくなり、我慢できなくなります。だから布教の道具、あるいは最高の布教法の一つとします。

 述べたすべては、道徳、あるいはダンマの布教は、今は教室の中にあり、これは述べたような三つの方便を使わなければならないと見ることができます。つまり教えて知識と考えと理解を生じさせ、信頼を生じさせるために実践して見せ、結果を受け取って見せ、同じ実践をしたくて我慢できなくさせます。この大まかな規則を使って詳細に熟慮し、そして先生の日常の仕事をする時、何としても使います。これがこのような質問の問題の答えです。


 関連する話がもう少しあるので、「いろんな物はいつでも方便と呼ぶ計画がなければならない」と述べてしまいたいと思います。これは機知、あるいは頓智の話で、固定的に話すことはできません。その場だけ、その話だけ、その時だけ、その人だけの話なので、探す努力をしなければなりません。あるいはどのような方便を使わなければならないか、常に身構えて観察していなければなりません。三つの方法の道徳の普及も、方便、あるいは一つの道具と呼びます。だから私たちは人の心を変える方便を使わなければなりません。

 それはたくさんあります。ちょっとした昔話でも、読ませて、見本として考えさせることができます。「仕掛けがある将棋のように、人を罠に掛ける」というくらい人の心を変える方便がなければなりません。そして善い方へ引っ張る罠で、破壊する方へ引き込みません。私たちはあどけない弟子たちにダンマの首輪を掛けます。このような方便はたくさんあり、自分で興味を持つようお願いします。


 ジャータカのスタソームの話などは、簡略に話させていただくと、僧スタソームはホーリサーダ鬼に捕まって喰われる所を、危機を脱すことができました。スタソームはすぐに喰わないよう、日延べするよう請いました。彼は「最高に素晴らしい何かを聞かせる」と、外国から来た学生と約束したからです。スタソームは本当にこのような学生で、知識を聞くとほのめかせて、命拾いをするためだけに引き延ばしたのではありません。

 鬼はあまり信じませんでしたが、彼もかつて国王だったことがあり、スタソームも国王だったことがあるので信頼して解放しました。スタソームは、過去のブッダの教えと見なされている最高に素晴らしいダンマの知識を聴きに行きました。ジャータカは全部、当然ブッダが生まれる前の話を意味するので、聴くと戻ってきました。鬼は「なぜ戻って来たのか。死が怖くないのか。おそらく聞いてきた物の偉大さが、スタソームを、死を恐れなくし、その上死ぬために戻って来たのだろう」」と怪訝に思いました。

 本当は解放されたらまっしぐらに逃げるべきですが、なぜ戻って来たのでしょう。だから聴いてきた話がスタソームを勇敢にし、あるいは正直を維持させ、死を恐れなくしました。だから鬼は、非常にスタソームが聞いて来た話を聞きたくなり、スタソームもそのダンマを話して聞かせました。その鬼は愚かで、あるいは道理の中になく、ダンマの規則の感覚がないという意味ではありません。

 かつては学生であり、国王だったこともあります。ダンマを聞くとダンマに満足し、そして「誰かからダンマを聞いた時は、その人の恩を崇拝すべき」という伝統を損ねないために、喰われて死ぬ前に、スタソームに、何か一つ、好きなように祝福を選ばせました。

 スタソームは「彼奴(スタソーム自身)が、この鬼が百年長生きするのを見られますよう」と、祝福を乞いました。これです! この鬼はどのようにスタソームの罠に掛かったか、考えて見てください。鬼は納得しなければならず、そして時には更に喜ばなければなりません。彼は鬼自身の安寧と、百年長寿を望むのですから。


 次に話は、鬼に百年長生きさせるのは、スタソームは死なないという意味で、だから鬼が百歳になるのが見られるので、鬼も喰えません。喰ってはいけません。「あなたが百歳まで生きるのを私に見せてください」という答えは、人を引き寄せてダンマの投げ縄に入れる策略将棋のように賢明な方便で、自分の利益のためだけではありません。

 彼は俺、俺の物がない心があり、臆病でなく、恐れず、明るく澄んだ心があったので、頓智であるいろんな方便を思いつくことができました。これは方便を使う例です。私たちはあどけない子供たちを、話し切れないほどたくさんある、誰もダンマの投げ縄に入れるのを、誰も避けられない種類の方便を使わなければなりません。この例は子供にとって高すぎるかも知れませんが、大人にとっては高すぎません。子供にはふさわしく縮小してください。


 纏めると、道徳の普及には三つの方便があります。そして人の心を変える方便があり、計略将棋のように最高に絶妙に人をダンマの投げ輪に入れる方便があります。そうすれば本当の先生と呼ばれます。つまり世界の人の精神面の状態を高められる賢さがあります。

 すべては道徳が世界にまだあるよう維持し、道徳の寿命を延ばす話です。世界の木として菩提樹を植えて、水をやり、土を掘り返すのと同じです。次にたくさんの種が欲しいなら、述べたように布教すればできます。教える、手本を見せる、見せる幸福がある。この三つの方便を使います。そして人の心を変える方便があり、彼らを引っ張って来てダンマの投げ輪の中に入れます。これが時間の許す限りの概略です。

 時間になりましたの、今日の講義はこれで終わらせていただきます。



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