付録

10.仏教の見方によるグルの理想





1955年4月25日
全国教員学校研修会議
バンコク・スワンスナンター教員大学講堂にて

 グル(先生)と名乗るみなさん。自身をグルと呼ぶ方々とお目に掛かれたことを嬉しく思います。研修担当の方から、先生のみなさんが知るべき仏教の教えを講義するよう要請されました。これも人間同朋のための利益を成す機会である、もう一部の喜びと見なします。しかし喜びの多くは、自分をグルと呼ぶ方たちとお会いする機会があることです。グルのために講義する話を選ぶのは、難しいように感じました。

 最終的に仏教の規則に関して、あるいは、グルは世界の中でどんな種類の人間か説明して見せる、仏教の目的の話を選びました。先生がこの話を知れば、グルの職務を実践をする上で最高の気力になるからです。これは一般の知識は誰にでもありますが、グルという言葉の理想が理解できないほど深くにあれば、知っている知識で実践する気力が十分あるかどうか、まだ確信がないからです。だからグルの職務を行う気力が十分生じるまで、この話を理解する努力をしなければなりません。

 グル(先生)という言葉の理想は何種類も、幾つもあるので、仏教の教えで見える部分だけ講義させていただきます。だから最初に「仏教の意味のグルという言葉の理想」の話だけを述べます。他の系統の意味のグルという言葉の理想は、みなさんご存知で、そして私よりも良くしっています。だから仏教の系統だけに焦点を絞って述べる機会にさせていただきます。


 グル(先生)という言葉は、一般人、あるいはタイ語の規則では勉強を教える人、あるいは学問知識から職業までを教える人です。しかし仏教の理想で見ると、グルとはそのような意味ではありません。パーリ語とサンスクリット語、二つの言語の基礎である出来事まで、この言葉の歴史、特にブッダの時代にどのような意味があったか、意味を調査委研究する努力をすると、最後に私たちが理解しているのと違う、本当のグルという言葉の意味を得ました。

 外国語、特にサンスクリット語から訳出した英語を読むことに慣れているみなさん。このグルという言葉を「精神面のマッグデーサ」、あるいは「精神面の案内人」と訳し、英語では「spiritual guide」と言い、精神面のガイド、あるいは先導者です。仏教の系統でこの言葉の意味を見れば、本当にそのようです。もう一つは、人間の精神面の状態を高くする人です。私たちは「人類、あるいは世界の精神面の状態を高める道具」という言葉を使うべきです。

 そうすればグルという言葉の最高に正しい訳語になります。だから私は、グルという言葉は、義務で述べれば「精神面のガイド」、あるいは「世界の精神面の状態を高く引き上げる人」、そして権利で言えば、グルは「世界の尊敬されるべき人物」、もっとはっきりさせれば「世界で最高に尊重されるべき借りがある人」です。義務では世界の精神を高める人で、権利では世界の尊敬される人です。


 みなさん、グルという言葉は、今まで考えたことがあるのと同じ意味でしょうか。グルが勉強を教える人だけなら、あるいは職業を教えるだけの人なら、この言葉が生まれたインドのブッダの時代の、この言葉の理想と違います。この言葉について、例えば「プリーヤダンシカー」というサンスクリット劇の台本などの、一般に誰でも読むべき本から引用して少し説明したいと思います。

 みなさんはウパッチャーという言葉は、当時の言葉であるプラークリットでは、職業を教える人だけを呼ぶ言葉だと分かります。例えばハープを教える先生はウパッチャーピンと言いました。しかし現代のウパッチャーは、特にタイでは、人を出家させて僧にする戒師である長老を意味します。これは、その言葉の意味は非常に違いがあり、当時のグルという言葉は精神面の案内人と定義していると見えるように、ウパッチャーという言葉より高い名誉がありました。

 ウパッチャーという言葉は反対に、音楽など職業を教える人を呼ぶ言葉です、だから私たちは、ブッダの時代のインドで使っていたようなグルいう言葉の理想をしっかり把握するべきです。そうすれば正しくなり、そしてすべてのグルにとって、職務を行う力を生じさせる偉大な利益になります。


 精神面の状態を高めることには、非常に深遠な意味があります。精神の高さという言葉に関心を持ってください。世界の人間の心の高さは何を意味するか、みなさんが良く理解すれば、グルの義務を良く知り、自分を、この言葉の理想で正しいグルにすることができます。だから最初の項目である、精神の高さを知らなければなりません。しかし私はこれから少し、グルという言葉を理解してほしいと思います。

 「精神面の状態を高めるのは義務、尊敬されるべき人物であることは権利」と言うのは、尊敬するべき人物であることを報酬とするよう条件を付けるのではありません。しかし事実は当然そのようです。人間の精神面の状態を高くするのは、私たちは通常、高めることがなければ、人間の心、あるいは精神は、どんな状態ででも低く落ちているという意味です。私たちは、人に文字を教えて本が読めるようにするだけでも、精神面の状態を高くすることができると捉えます。

 つまり文字を知らない状態から文字が読める状態に、あるいは職業を営む上で賢くなり、職業を営むことを知らないことから、職業を営むことを知る状態に、精神面の状態を高めると見なします。しかしその結果を受け取るだけでは、まだ精神の危機を脱しません。まだ苦や煩悩から脱すことはできません。文字を知る人、あるいは職業を営むことを知る人が、精神の高さを深く理解しなければ、一般に「頭から溢れる知識は、まだ危機を脱せない」と言われるように、危機を脱すことはできません。

 あるいは職業を営んで金持ちになっても、胸中は苦がいっぱいです。このような人は、貧困の人と比べて何も良くありません。これは精神がまだ高くないことを表しています。だから高い精神は水より上にあるという意味で、ここでの水とは苦のことです。もっと深遠に言えば煩悩で、もっと深遠なら、輪廻の中を回遊しなければならないことです。最後の言葉は聞いて意味が分かりませんが、意味は同じです。


 仏教で言う「水」という言葉は煩悩を意味し、煩悩の結果は苦です。そして水中を泳ぎ回ることは、このような煩悩の威力による苦を意味し、精神を高めることは、苦が人の心を水浸しにできない状態にすることで、これをここでは「精神の状態を上げる」と言います。あるいは精神を導いて正しい道を歩かせると言い、パーリ語、サンスクリット語のグルという言葉の意味と一致します、ブッダの時代に使われたラージャグルという言葉は、相談役、あるいは国王の精神面の状態を上げて常に安全にし、王の仕事をする時に失敗しないようにする人を意味しました

 「権利としてのグルは尊敬するべき人物」は、世界の恩人という意味です。精神を高める、あるいは世界の精神を導いて正しい道に行かせるからです。私たちはここで、グルは雇われ人(勤め人)ではないと、そしてグルという職業は渡し舟ではないとはっきりと見ます。雇われ人は雇われて勉強を教え、あるいは雇われて何らかの知識を教えるという意味で、それは雇われ人と呼べます。渡し舟と言うのは、自分がもっと良いと見る他の職業に移動する橋として教師の職業に寄りかかるという意味です。

 このような状態は、グルという言葉の理想と一致しません。そして世界の尊敬するべき人物ではありません。しかし理想で正しい義務を行う時はいつでも、つまり弟子の精神を水である煩悩、あるいは苦から引き上げることができれば、尊敬するべき人物になります。この話の一番明らかな例は、もし心臓を開いて見ることができれば、雇われ人の心臓の中にあるのは、たくさん給料が欲しい、早く時間が過ぎて一か月になって欲しい、そしていつでも雇用者より有利になる考えだけと気づきます。

 グルの心臓には、智慧と慈悲が並んで寝ています。智慧は子供の精神を高める知識と能力で、慈悲は愛と疲れを知らない、あるいは飽きることを知らない自分の義務を行う犠牲です。だから雇われ人であることと尊敬するべき人物であることは近寄る術がないような相違点があります。


 尊敬するべき人物(プーチャニヤブッガラ)という言葉はどういう意味が、先生方は誰でも知っていると信じます。しかし短くまとめれば、尊敬すべき人物とは、「世界が尊重しなければならない人」という意味です。私は「尊重しなければならない」という言葉を使い、尊重すべきでなく、尊重すべき以上です。あるいは阿羅漢のために使う仏教の教えの意味の言葉を使えば、尊敬尊重しなければならない借りがある人を意味します。

 なぜグルは尊敬するべき人物で、尊敬尊重しなければならない借りのある人でしょうか。それは、世界の精神を、苦より上にいられるまで高くする職務をするからです。実践して自分をこの言葉の理想で正しくするために、グルである誰でも注意深く見守り、熱心に探求し、世界の人の精神の状態を確実に高くする努力をします。だから世界の人の精神を高くするどんな方法でも、あるだけすべての方法で努力しなければなりません。子供に対しての行動でも、私たちは子供の心、あるいは精神を高くする状態の行動をしなければなりません。つまり水である煩悩、あるいは直接苦に勝つことを知らなければなりません。


 子供たちも水である苦、あるいは煩悩に勝利しなければなりません。子供たちにも煩悩があり、そして子供にも段階に合わせて、あるいは子供なりに煩悩を捨てるための行動、あるいは実践をする機会があるからです。仏教より徳育に関心があるグルは、この問題に遭遇したことがあるかもしれません。つまり徳育の立場を解決して高くします。煩悩の水が子供たちを水浸しにし過ぎれば、子供たちの徳育の状況は高くなれません。だから勉強を教えるだけでは十分でなく、子供の精神の状態を高くできません。

 私たちは勉強を教えるだけでなく、別の部分に関心を持たなければなりません。つまり行動すべきバランスを見て、多少は子供たちを煩悩に勝利させるすべての方法で努力します。これが弟子たちの精神の状態を高くすることで、その結果グルを尊敬すべき人物にします。どんな理由でこのように述べるのでしょうか。それは、精神面の状態の高さは、先生が受け取る給料より価値があるからです。

 勉強を教えるだけなら、私は、子供がグルが受け取る給料より価値がある利益を受け取ると、主張できません。しかし子供の心の面の高さだけに注目すれば、子供の心の高さでも、一人のグルが生涯受け取る給料より高い価値があります。だからグルは雇われ人の立場から脱し、世界のプーチャニヤブッガラ、尊敬するべき人物になります。あるいは尊重しなければならない借りがある人になります。


 次にグルが、教え子が大人になるまで善い性質があり、善い気質があり、自制することを知り、このように煩悩より上にいられるまで努力をすれば、そのグルは、その教え子が返すことができないほど、教え子にとって恩があるという意味です。だから完璧な尊敬するべき人物になり、どのようにしても、尊敬するべき人物にふさわしく報いる術はありません。

 だからこの理由で雇われ人でなくなり、いつでも尊敬尊重しなければならない借りのある人になります! グルの給料は、花や線香、蝋燭となどの供え物と同じで、給料、あるいは生活費ではありません。このような状態で、完璧に雇われ人の状態を脱すと見なします。

 ブッダの時代は、給料などの物を要求しませんでしたが、お供え物を求めました。お供え物、あるいはそのような物だけです。それは、グル(先生)は本当のブーチャニヤブッガラで、いつでも世界の精神面の状態を高くする道具と同じだからです。そして誰も雇うことはできません。あるいは誰もグルの雇用者になれません。考えて見てください。給料は借金の返済、あるいは労賃の支払いになれませんが、いつでもお供え物になります。グルと名乗る人は、自分の義務に本当に正しい実践をするからです。


 特にこの項目で比較する物として阿羅漢、あるいは一般の比丘の生き方について、「阿羅漢は托鉢した食べ物・衣服・衣・坐臥所・庶民の住まいは今日の僧と同じだが、これらの物をお供え物と呼ぶ規則がある」と熟慮していただきたいと思います。そして阿羅漢は貸がある人のように暮らし、消費するにも、債権者のように消費する教えがあります。庶民、あるいは世界は阿羅漢に借りがあり、世界は返済しきれないからです。阿羅漢は世界が返しきれないほど、人間の精神の状態を高くする義務をするからです。

 庶民が献じたご飯やおかずはお供え物であり、給料でないように、そのグル(先生)が本当に世界の精神の状態を高くする義務を行えば供え物になります。現代の一般の比丘も自分の義務を正しく行えば、グル、あるいは世界の精神面の状態を高める人の立場にあり、支援者たちが供えるご飯やおかずはお供え物になり、賃金ではありません。そして賃金と呼ぶ人がいないのは、正しいです。

 グル(先生)も同じで、犠牲があり、自分を捧げ、自分の義務の遂行をグルという言葉の理想で正しくすることに深く心を埋め込めば、当然それ自体尊敬するべき人物になります。給料はお供えする物になり、賃金ではありません。そしてグルは雇われ人から脱し、純潔清浄な尊重するべき人になります。あるいは完璧に尊重しなければならない債権者になります。

 グルのみなさんがこれを正しく熟慮して見れば、グルの職業を渡し舟にする人はいません。世界の精神を高める義務をするグルであることは、最高に素晴らしく最高に高く、それ以上の物は何もありません。渡し舟に依存してどこの港にも渡りません。どこの港に渡っても、そこの方が低く、あるいは元の状況より劣るからです。


 私は遠慮なく、率直に話したいと思います。グルの立場にいる時は世界の精神面の状況を高くし、反対に法律の試験を受けて法律家になり、あるいは県知事などになります。県知事はグルのように世界の精神面の状況を高くする機会がないので、グルでいるより高くなく、善くなく、崇拝すべきでありません。

 まだグルの職業を維持すれば、まだ素晴らしさを維持できます。グルの職業をこのような状態の渡し舟にするのは間違いであり、滑稽です。正しく言えば非常に煩悩の威力による行動で、高い物を低くし、純潔清浄な物を不潔な物にし、最後に自分自身を、疑うまでもなく雇われ人に落とします。つまり自分自身を世界の尊敬するべき人物から雇われ人に落とすのは、どれほど悲しく憐れか、考えて見てください。

 このように率直に話すのは、私たちは友達同士と捉えるからです。私もグルです。私の教祖は世界の偉大な先生であられるからです。私も同じ人間の精神面の状態を高く上げる義務がある理想のグルの立場にあります。そしてグル(先生)であるみなさん誰でも、自分の理想に従った本当に正しいグルなら、比丘と同じグルの状態にあります。つまりサンマーサンブッダの直弟子で、世界の動物の精神面の状態を高く引き上げる義務がある人です。


 みなさん全員がこのようなグルなら、私は述べたように率直に話す機会と見なします。支障があったら相談、あるいは苦の吐露、あるいはグルという言葉の名誉を取り戻して、世界の尊敬すべき人物として、引き続き神聖な状態を維持する努力をすると捉えなければなりません。

 みなさん、冒頭で最高に良く、最高に詳細に述べたように、仏教の系統のグルの理想に関心を持つ努力なさい。そうすれば私たちの将来の仏教教育を不毛にしない好機になります。話した状態のグルの理想を把握しなければ、自分のためにも他人を教えるためにも、仏教を学んでも無駄になります。それはことごとく妨害するからです。そして自分自身、つまりグルであること、あるいは自分の職業を尊重する気持ちが生じるまで熟慮してこの真実を見る以外には、不可能です。


 みなさんにこの系統のグルという言葉の理想に理解があれば、あるいは最高に理解があれば、みなさんはそれだけグルの職業を愛します。そしてそれ以上に、グルであることに楽しさ面白さ、朗らかさを感じます。寂しくて精彩がなく、一般に皮肉られているような渡し舟の状態のグルでいることに耐える必要はありません。グルであることの理想を深く理解なさい。先生の職業は、人に勧められる楽しい、恍惚とする、明るい、常に心が潤う職業になり、倦怠はありません。

 雇われ人であることを脱ぎ捨て、本当に尊敬するべき人物である状態でいられる功徳があるからです。初等のクラスの先生でも、理想に従って正しくグルの義務を行えば、つまり子供の精神面の状態を本当に一段高く引き上げれば、自分自身の誇りであり、あるいは阿羅漢の方々がなさっているように、世界の報酬以上に利益を成す人と、自分自身を尊敬できます。


 一度生まれたら、自分の心と体が為すべき最高に善いことをすべきです。そしてそのように善いことをすれば、当然、最高に喜悦や歓喜があります。グルの職業があることに最高の善があると見なします、本当は職業と呼ぶべきではありません。グルであることはどんな職業より、述べたような感覚を生じさせます。グルであることに、職業を営むことより高い関心を持ってください。私はグルであることを職業と言う人物、あるいは機関、あるいは誰でも非難したいと思います。それは良く調べもしない誤解で、グルという言葉の本来の意味を知らないからです。

 グル(先生)という言葉は、少なくとも文字では「重い」という意味です。どのように重いかは、「世界のすべての人の頭上にある重さ」で、世界の人は畏敬しなければなりません。世界のすべての人の全身全霊に恩があるからです。先生は世界の精神面の状態を高める人です。だから正しい先生であればどの段階の先生でも、途端に、誰も任命する人がなくても、それ自体、世界の尊敬すべき人物になります。そして任命できる人はいません。

 この事実が見えれば、先生であることに百パーセント犠牲が生じ、どのような倦怠もなく、同時に楽しさ、面白さ、ダンマがある明るさを受け取ります。煩悩で陶酔する世俗の人のような楽しさ、面白さ、明るさではありません。つまり尊敬するべき人物であることは、世界のすべての人の頭上に恩があります! 世界が危機を脱して来られたのは先生の行動によるものなので、先生はすべての世界の尊敬するべき人物です。


 高い心があること、あるいは高い精神があることは、世界の動物の「命」です。心、あるいは精神面の高さがなければ、この世界は死ななければなりません。死の状態にあっても、あるいは死に等しくても、価値も、どんな意味もありません。心の面、あるいは精神面の高さが世界の人の心の中にある時だけ、「この世界はまだ生きている」、あるいは「まだある」と言われます。先生がこのような心の面、精神面の高さがあるようにする義務を行えば、直接「世界の命を涵養する人」と呼ばれます。これは当然世界の灯かりにすぎないより素晴らしいです。

 だから先生は精神の歩く道を照らす灯火、あるいは精神を高くするだけでなく、それ以上です。つまり先生は、実に世界を生かす人で、「不毛でない」、あるいは「苦に塗れていない」と言える人生です。反対なら死んだ方が良いからです! このような理由で、みなさん助け合って詳細に、絶妙に、グル(先生)であることはどれ程神聖か、みなさんがグルであるためにどれだけ犠牲にし、身体と心のすべてを捧げ、そして楽しさ、美しさだけを考えること、世俗の美味しい物への陶酔を全部犠牲にしているのにふさわしいか、そしてグルの義務を純潔清浄に行うかどうか、熟慮しください。


 私は、一定数、至る所で「若い先生は好色」と非難されていると言いたいと思います。これはどれだけ恥ずかしいでしょうか。みなさんがこれを恥と見なすなら、誤りか正しいか、あるいは本当かどうか、私が述べたように、正しい先生の目的に関心をもたなければなりません。正しい、あるいは本当と見るだけ、それに従って実践する努力をすれば、好色と非難された自分を、すっかり変えることができます。先生が好色なら、あるいは美しさ、美味しさ、楽しさ、肉体、あるいは物質の陶酔だけを考えれば、当然世界の動物の精神面の状態を高く引き上げる道はありません。

 しかし先生であることの最高の素晴らしさを熟慮してハッキリ見えれば、本当に自然に犠牲が生じます。つまり少しも心に逆らう必要がなく、自然に楽しさ、美味しさ、陶酔、あるいは美しさだけを考えることを犠牲にすることが生じ、いろいろ非難されていることも終わります。グルの義務を行うことは純潔清浄になり、被雇用者であることから脱して、天眼天耳がある天人たちに「私のグルであることは正しいか」と挑むことができるほど、純潔で完璧な尊敬するべき人物になります。


 つまり、ここで「義務でのグルは、世界の精神面の状態を高く引き上げる人、権利でのグルは、世界の尊敬するべき人」とまとめることができるということです。要するに世界の精神面の状態を高く引き上げる人であり、そして世界の尊敬すべき人物であるのは、世界の精神面の状態を高く引き上げるからです。

 先生は精神面の案内人、あるいは人間の精神面の状態を高く引き上げ、水に侵されないようにします。そして尊敬すべき人物はすべての動物の拠り所で、誰かが雇用できる範囲から脱し、最高に素晴らしい職業であり、渡し舟、あるいは他の職業に渡る橋になれず、すべての物を供え物として消費し、給料を受け取らず、賃金を受け取らないと、短く規定すべき理想があります。

 これは最初に理解し合わなければならない話です。私はこれ以上細かく分類する時間がないので、自分の判断に任せ、残りの時間は、精神の高さの状態について述べます。


 精神面の「高い」という言葉は、水は低い所にある性質があるので、水がある所の低さから遠い状態である「高さ」という意味です。だからブッダは、仏教の言い回しの「高い」という言葉を使い、心を水浸しにしない高さに引き上げます。すべての悪、あるいは煩悩を。仏教では全部「水」と呼ぶことができます。オーガというのは淵と訳し、海を意味します。オーガは普通の水で、アーライは魚が住む場所である水のように、心が住む所です。だからすべては水の話、浸水の話、洪水に備える話で、高いという言葉は、水が侵犯できない状態を意味しなければなりません。

 人の心は、浸水する物があり、簡単に見えている最初の項目は苦です、自分の心は苦に侵犯されているか考えて見て、熟慮して見てください。そうすれば他人を信じなくても、もっと詳細にすれば、恒常的に氾濫している水のように、始終心を浸している物は煩悩と見ることができます。

 煩悩とは、心の中にあるすべての種類の低い側の感覚で、水が常に低い方へ流れるように、低い方へ引っ張って行く用意があります。貪・瞋・痴、あるいはいろいろに名付けても、煩悩という言葉の要旨は、低い側へ引っ張って行く感覚です。それは心をどのように水浸しにするかを考えて見ると、水に溺れた人がどのようで、煩悩が溢れた時はどうか考えて見るように簡単です。心は当然不潔な状態があり、清潔でなく、そして当然暗い状態があり、明るくなく、いきり立つ状態があり、静かではありません。だから、普通の水に落ちる以上、あるいは普通の洪水以上です。


 水が溢れる、つまり煩悩が溢れるのは、最高に精神の堕落と見なします。どの宗教でも、当然この項目は「精神の堕落は煩悩、あるいは低い感覚に浸水されること」と、全部同じと認めます。私たちは、何としてもこの項目で自分を高くして、この項目に勝利しなければなりません。

 しかし仏教では、カンマの威力下に落ちなければならなくても、あるいは輪廻を回遊しなければならなくても、同じく洪水に遭うというくらい、もう一段階詳細な意味があります。私たちはもう一部分、カンマより上にいる方法があり、能力があり、機会があります。動物の精神を本当はに高めることに関して、仏教の素晴らしさを知らせるために、説明して大要を教えたいと思います。

 最初に水である苦から上がるには、みなさん、難しくなく考えて見ることができます。つまり苦を生じさせる原因である物、低い側の感覚が覆い、そして低い側の感覚で何もしないよう心を管理します。これを、水である煩悩から上げると言います。一方カンマより上に居させるのは、多くの人が理解できないと信じます。しかし難しくて深い話でも、まだ実践できなくても、説明して初歩の理解をさせることができます。そしてこの機会に仏教と仏教でない宗教のカンマの話の違いを説明することができると考えます。


 「善行善果、悪行悪果」と「行動した人自身が、その行為の結果を受け取らなければならない」、それだけ教えるカンマの教えは、十分な仏教と理解しないでください。敢えてそう述べれば誤りです。他の宗教もそのように教えていて、そのように教える人がブッダ以前にも、ブッダと同時代にも、同時に教えていたからです。述べたようなカンマの話が、「善行善果、悪行悪果」と言い、キリもなく善業悪業の結果に従わなければならないと言えば、私たちは、カンマの包囲の威力の上にいることはできません。

 結局カンマの結果で輪廻しなければならず、天国へ昇り、地獄へ落ち、天国へ昇り、地獄へ落ち、際限なく交代を繰り返します。天国へ昇っても、遅かれ早かれ変化しなければならないことから脱せません。変化しなければならない抑圧の威力から、そして最後に滅亡しなければならないことから脱せません。それからカンマの流れに従って新たに生まれ、輪廻します。

 どの段階の天国にいても天国式の煩悩があり、まだ繊細な段階の苦から脱してなく、本当に最高の状態ではありません。だからブッダは、彼らが「善行善果、悪行悪果。行為した人がそのカンマの結果を受け取る」と教えた後に、ブッダの教えのカンマの話を教えられました。


 その方法はどのようでしょうか。それは深遠な真実である「無我が見える」、あるいは「空が見える」までブッダが教えられた教えの、智慧、バーヴァナーの実践をし、心が自分という執着より上にあり、すべてにおいて煩悩欲望より上にいて、カンマのどんな結果にも一喜一憂しません。つまり善いカンマの結果も悪いカンマの結果も喜んで掃いて捨てるロークッタラ(俗世から出る教え)の行動で、カンマの威力より上にいる人です。

 このようなのが、一般に教えているのよりも完璧で高い、ブッダの本当のカンマの教えです。みなさんは、将来のための知識として憶えておかなければなりません。今はできなくても、あるいは普通の人がするのは難しくても。つまりそのようにまだ凡人なら、カンマの上にいるのは難しいですが、私たちは、仏教にはそのようにカンマの上に居させる方法があるとハッキリ見えなければなりません。つまり阿羅漢になるまで実践行動をします。


 実践行動があり、煩悩を完全に消滅させて阿羅漢になれば、当然何にも「自分、自分の物」と執着せず、人間のでも、天国のでも、その後どんなカンマも作る原因である物を欲しがることより、心が上にあります。これを「カンマより上にいる」と言い、精神の最高と見なします。どんな宗教の手法も、動物の精神面の状態をこれほど最高の状態まで高くしません。

 仏教はすべての動物の精神を高くして、それ以上に高い物がない所まで、つまり本当に完璧にすべての苦から脱し、世俗の些細な苦から脱すことから順に、完璧な苦からの脱出まで、最高の状態にする能力があると、心に刻みなさい。

 つまりその後再び、何らかの結果のために何かに生まれることに耐え、どこかの世界で生きる必要はありません。このようになれば、仏教は世界の動物の心を高くして、輪廻を泳ぎ回るすべての苦より上に居させることができる、とまとめることができます。


 すべての苦より上にいることを、ブッダは「涅槃」と言いました。涅槃を何種類にも、何十種類にも間違って理解する人がいます。話す言葉だけに、あるいは何らかの神聖さの様なものに執着してしまうからです。これは私たちが今、「動物の命や精神は煩悩の支配下に落ちている。そして苦の状態はどのようか」熟慮しているように、初めからそのように熟慮しないからです。そうすれば少しずつ浮かんで来て、そしてカンマ、あるいは運命と呼ぶものでも何でも、述べたように完全に煩悩、苦の支配から脱します。

 私たちは苦、あるいは煩悩の支配下に落ちている自分自身を知らなければなりません。つまり善くするようにだけ管理するという意味です。善い側だけにできず、降参して低い側に行き、あるいはしょっちゅう善くない側にいるのは精神面の堕落です。精神面の最高は、完全に自分を管理できるという意味で、完全に煩悩を捨てることを意味します。迷って愛すこと、そしてどんな意図より心が上にあるという意味です。みなさん自分の心で熟慮し、考えて見なければなりません。それから涅槃の話に入ります。そのようでなければ誤解になり、軌道を外れ、どんな利益もありません。そして却って危険であり、少なくとも時間の無駄です。


 涅槃の話を教えるには、最初の項目である苦の話に関心を持たなければなりません。涅槃は苦がない以上の何でもないからです! 私は、みなさんが短い時間で熟慮するために、ブッダが残された系統で考え、あるいは熟慮し、あるいは検討するよう提案します。涅槃を理解するには、現在の自分の心の本当のありようはどのようか、理解してしまわなければなりません。

 仮定の言い回しで言えば、心の状態は叩かれ、突き刺され、焼き炙られている状態にあるか。これを問題にします。叩かれ、突き刺され、炙られている状態にある心は、ラーガ(貪欲)、あるいは欲情などの強烈な欲望に突き刺され、炙られているという意味です。あるいは怒り、妨害、思い通りにならないことに叩かれ、あるいは炙られています。

 私たちはこれらの物、あるいはこれらの行動を良く知らなければなりません。今はないと言うならいつあるか、その時を知らなければなりません。そして詳細に熟慮して、心の通常は、明らかでなければ密かに炙られ、叩かれ、刺されている状態にあると知らせなければなりません。これを一つの段階と見なします。

 あなたが善人で、そのようにカッカとするほどでなければ、あなたの心は縛られ、縫われ、染められ、絡み合っているか、もう一段階緻密に熟慮して見てください。縛られるとは緩く縛る物があるという意味で、痛みはありません。縫うとは二枚の布が離れないように糸でくっつけます。染めるとは、布を染めて落ちないようにします。絡み合うとは関わり合い、互いに自由にさせません。

 あなたの心は今、縛られていますか。あるいは縫われ、染められ、絡まれていますか。これは願望、未練、将来への不安、あるいは何にでも、心に積み重なっていて、手放し、振り払うことができないという意味です。それは繊細で深遠な苦であり、見るのが難しいです。つまり叩く、突き刺す、炙ると言うより強烈な状態がある段階より繊細です。


 しかしみなさんがそれよりずっと善人で、縫い、染め、絡むものが何もないほどなら、三段階目として、光を遮り、心を包み、覆う物が何かありますかと質問したいと思います。ここは詳細に熟慮しなければならない区間です。包む、あるいは光を遮るのは、煩悩に包囲されていれば理解できないからです。

 通常包み、光を遮る物は愚かさ、疑念、躊躇等ですが、本当はそれ以上に錯綜した包む物、隠す物があります。つまり「光」と呼ぶものもまだ光を遮ります。世界の意味の光は、煩悩の威力になる知識、理解だからです。煩悩の望みになる理解は包囲し、あるいは包み隠して、「すべての物には、得る,成る方向の執着すべき物はない」とある最高の知識を知らせません。


 誰の心でも、叩き、突き刺し、炙る状態の三段階の妨害する煩悩がなければ、そして縛る、絡む、染める状態がなく、包み、覆い、隠す状態がなければ、その人物の心は最も高く、それ以上に高い物はないと言うことです。そして涅槃、あるいは涅槃と呼ぶものに到達します。しかしこれは本当に完全な解脱を意味し、一時的でも、そして戻ってばかりでもありません。

 つまり本当に煩悩が終わり、煩悩に叩かれ、刺され、炙られ、縫われ、染められ、絡まれ、包まれ、隠され、覆われる状況が終わったという意味です。このような状態に到達した時、涅槃と呼ぶものに到達したと言います、あるいは仏教の様式の危機からの脱出と言います。他の宗教、別の様式の涅槃は、また別です。

 叩く、突き刺す、炙るなど、これらの憶えやすい言葉を憶えて、熟慮して見てください。涅槃(ニッバーナ)という言葉の理解をざっと検討しないでください。「ニ」という言葉は「非」、「ヴァーナ」、あるいは「バーナ」という言葉は「巻いて締め付ける」という意味もあり、「刺す」という意味もあり、「包む」という意味もあります。本当の意味は当然同じです。

 刺すという意味には、矢に刺されるのと同じともあり、巻き付かれるというのは、蔦が木に巻き付くように巻き付くのと同じとあり、包まれるのは、光を受けないように包まれる物と同じとあります。そして熱くないというのは熱がなく、温度がないと、こういうのもあります。細部である文字では、涅槃という言葉はこのような意味です。だから述べたように最高の精神の高さである状態に本当に出会うために、文字の意味でよじ登って行くのは難しくはありません。


 疑念を防ぐために、もう一つ、パーリ語の涅槃という言葉は四種類の意味があると理解してください。つまり動名詞なら苦、あるいは煩悩の滅尽を意味し、普通名詞ならダンマ、あるいはすべての苦が滅尽した領域、あるいは物でも良いです。しかし結果である状態に注目すれば、心が刺されず、巻き付かれない状況などを意味します。

 一番の意味の涅槃は動詞で「苦、あるいは煩悩が消滅する行動」です。このような状態の涅槃は心の一瞬であり、苦と煩悩の消滅行動です。通常一瞬で話は終わりです。

 二番目の意味の涅槃はダンマ、あるいは物、あるいは苦が消滅した領域です。このような状態の涅槃はアナンタカーラで初めも終わりもなく、無限に、永遠にあります。このダンマ、あるいは物は永遠にあり、そして無限にあるという意味です。そして常に、明らかにした人物に現れることができます。だから無限で、生じる時もなく、滅す時もなく、永遠にあると見なします。

 三番目の意味の涅槃、心に現れた結果を意味する涅槃という言葉は、涅槃に到達した人物の心の中に現れる状態を意味します。つまり静寂、清潔清浄、あるいは本当に最高に澄み切って明るい状態です。別の言い方をすれば、叩く、刺す、炙る、染める、締め上げる、包む、覆う状態がまったくないと言います。


 涅槃はこのような三つの意味があります。そして私たちは学んで、精神を最高に高くする場合の目的である三番目に状態の涅槃を現さなければなりません。どんな方法でも、どの宗教の手法でも、あるいはどんな方法で変転極まりなくても、叩く、刺す、炙る、染める、締め上げる、包む、覆う状態からすべてにおいて脱せば、疑うまでもなく仏教の涅槃と見ることができるということです。智慧と、どんな方法でもある人はして見てください。

 誰も信じる必要はありません。しかし私は、どのようにしても、ブッダが教えておかれた方法と一致する規則になり、それと異ならないと主張します。ブッダは自然の法則に従って、その行動が叩く、刺す、炙るなどの状態から本当に完全に脱す経過を取れば、ブッダの手法以上の方法はない状態で全部教えておかれたからです。

 精神の終わりは苦が覆うことができない高さ、あるいは名付ければ涅槃と指摘して見せる時、グルなさん、仏教は心を完璧に高くする方法と理解してください。グル界の動物の心、あるいは精神を高める義務があれば、当然非常に長い話と見られている仏教の教えに関心を持たなければなりません。私は、時間に限りがあり講義できないので、もしあるなら、仏教の教えだけを講義する別の機会にしなければなりません。


 ここで詳細に述べるのは、仏教を学ぶ人と、実践をする人のために気力を生じさせる目指す結果だけです。特に自分をグルという言葉の理想にふさわしくしなければならない、グルと名乗る人のためです。つまり世界の尊敬するべき人物として、世界の光、世界を苦から引き上げる人、「職業を営む人」と呼ばれることより上にいる人として生きる人です。

 グルの誰でもこの理想を見れば、グルの義務を正しく満たすために、当然すべての物を犠牲にする準備があります。最後に、ゆっくりと仏教教団員になり、そして仏教を信奉し、実践して自分と他人の利益にし、本当に世界の尊敬するべき人物になることができます。

 私もグルの一人として、みなさんに、述べたようなグルの理想に関心を持つよう、伏しておお願い申し上げます。ブッダの時代に使われていた理想であり、そしてこの言葉の意味と一致する理想であり、ブッダの望みとも一致し、ブッダが持たれていたのと同じ理想です。つまり世界のボロマグル(最高グル)であられたのは、述べたように世界の精神面を高く引き上げるためです。この関心は、本当に何らかの段階のボロマグルになれるまで、グルであること、そしてあり続ける気力を生じさせる準備になります。


 これで、グルのみなさん全員が尊敬するべき人物であるため、被雇用者であることを脱ぎ捨て、自分自身の拠り所にするため、そして渡し舟あることからグルの職業を?いで捨てるために、そして世界の動物に勝利して、今世界のすべての動物を抑圧している危険から脱すための、前半の講義を終わらせていただきます。私たちはボロマグルであるブッダの知性、知識に頼らなければなりません。時間を無駄にして自分で考える必要はないからです。

 私たちの世界は、一つの素晴らしいダンマである慈悲に頼らなければなりません。しかしどこから慈悲を持ってきたら良いか知らず、誰もが身勝手という厄介な問題があります。慈悲を生じさせる方法があれば、それは私たちの世界の安全になります。ブッダの手法は最初から最後まで身勝手を消滅させるよう教えるだけで、最高点に至れば阿羅漢になり、当然身勝手になる自分はありません。だから頼ることができる方法です。


 つまり本当に慈悲を生じさせるとことができます。純粋に、他の物に任せず、他の賃金、褒美を考えず、ブッダの系統の実践をすることでブッダの系統で心を高く引き上げるので、世界の教育の目的、あるいは世界のグルである目的にふさわしく、助け合ってこの世界に平安があるようにします。

 グルのみなさん。自分がグルであることを考えてください。そしてこれらの理想と理由を、詳細に熟慮して見てください。そうすれば結果である自分の職務に、幸福、静かさ、喜悦、楽しさがあり、同時に述べた状態で「世界の尊敬すべき人物」になります。

 みなさん全員が職務の中で安楽に出合ってください。私たちの世界が永遠に、述べた理想のグルに欠けないよう希望して、これで講義を終わらせていただきます。



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