先生のみなさん。
第八回目の講義は、道具であるチャリヤダンマ(道徳)と題してお話しします。本当はダンマ、あるいはすべてのチャリヤダンマは、どのダンマ、あるいはチャリヤダンマでも、当然世界の苦を軽減させる道具ばかりです。しかし今日は、チャリヤダンマの道具であるチャリヤダンマ、つまり他の種類のダンマの道具であるダンマの一種を指摘して見せたいと思います。
これも道具と呼ばなければなりません。「すべての道徳の項目は苦を軽減させる道具」というのは、みなさん自身で知るべきです。だから取り上げて判断して聞かせません。他のもっと高い、あるいはより重要な他のチャリヤダンマの道具であるチャリヤダンマについて判断するつもりです。だからこのようにご理解ください。
最初の項目は、道具という言葉について熟慮して見ます。道具という物は非常に重要か、少し重要か、特に興味を持ってください。つまりこれに対して偏らないでください。道具の中には、それがなければ何もできない種類もあります。例えば木を切るには、大きな木でも小さな木でも、道具がなければ切れません。歯で切りますか。それともどうしましょう。
車があり、船があり、飛行機がある所まで発展した発展の話も、道具がなければ、それらの物はいつか不毛になります。だからこれらの道具を小さな物と評価しないでください。それは本物より重要か、重要性が少ないか、良く判断して見ます。
それらの道具であるいろんな物は、道具として使われなければ価値はありません。つまり仕舞っておくだけなら道具ではありません。本当に使えば利益があり、そして道具になります。しかし使い方を知らなければ利益がなく、そして損害も生じます。もっと間違って使えば、武器、破壊する道具などに使えば、喧嘩をして武器でない道具を武器として使って殴る話があると聞いているように、危険です。
ダンマはそれらの道具と同じで、使い方を知らなければ、手を切ることもあります。つまりその人物を傷つけ、その人物を危険にします。ブッダが「悪く撫で回した梵行は、間違って掴んだ萱が当然掴んだ人を傷つけるように、当然その比丘にとって危険です」と言われました。私たちが道具と呼ぶ物、そして「それには利益がある」と知る物は、正しく良く使うことを知らなければならないと理解してください。
ダンマ、あるいはチャリヤダンマをどのような状態で使うか見えたでしょうか。私たちは、ほとんどは他の利益を探求するために使い、ダンマの意味と一致しないように見えます。つまり道具として使いません。あるいは道具として使っても、ダンマの知識を話すため、自慢するため、口論するため、喧嘩するためなど、間違った道具です。こういうのを間違って使うと言います。
そして道具として使わないので分裂、意見の不一致を生じさせ、危険になり、徳より罪になります。だからチャリヤダンマ、あるいはダンマは、いつでも正しい方法で道具として正しく使わなければならないと、はっきりと理解してください。さもなければ、益と同じだけ危険です。
例を挙げたいと思います。私たちが努力して三蔵を印刷して世界に溢れさせ、そしてすべての宗教が自分の宗教の教典を印刷して世界に溢れさせても、どうしようもありません。何の助けになる希望もありません。道具として使わないからです。そしてもう一つは、たくさん勉強して知ることで間違った道具に使い、知識だけを自慢し、ブッダが別の場所で「このダンマは岸へ渡るための筏と同じですが、ある弟子たちは、筏を使って岸に渡らないで、竹を売ってしまい、あるいは竹を解いて叩き合って大騒ぎします」と言われているように、喧嘩し、抑圧し、軽蔑します。だから道徳の本があるから、あるいは教えであるテキストを印刷したから安全、あるいは安心と油断しないでください。
三蔵は、教育と実践の道具として使われなければならないと理解してください。そうすればダンマは、続いて苦を排除する道具として生まれます。この話はグズグズしていられない話で、どんどんそうなります。世界の回転は、益々早くなるからです。このように述べれば疑念を持つ人、滑稽に感じ、あるいは内心で「世界がますます早く回転するって?」と嘲笑する人もいるかも知れません。
しかし私は、世界はどんどん早く回転すると主張します。地球、つまりThe globeについて詳しい科学者は、地球はまだ二十四時間で回転していると主張します。太陽の周りを三六五日で回り、何もかも元のままなのは正しいです。それは物質面の科学者なので、まだ一定で、安定して回転していると知っています。
政治家、あるいは戦争家、経済家でも何でも、心を見ると、彼らの心は火のように熱く、いろんな物の価値が早く変化し、彼らが間に合わないほど早く回転していて、彼らがいろんなことをするには、一日一晩は非常に時間が少なく、一日十五時間しかなく、二十四時間にならないように見えます。
ダンマの面では、生老病死やそのような物から生じる苦は、私たちが広くいろんな物を知るだけ世界に長くいると、締め上げられ、侵害され、年齢と共に欲が増え、野望が増え、恍惚が増えると教えて考えさせます。ね、私たちが物質面、あるいはルーパダンマを見れば、世界は元より早く回転していますが、心の面、精神面を見ても、世界は世界の人の進歩と同じだけ、どんどん早く回転していると理解してください。
みなさんは、何かが非常に欠乏していると、そして更に増えていると感じます。つまり願望に対して十分でなく、その上まだ知らなければならない、しなければならない、問題解決しなければならない、いろいろ片付けなければならないことが増えていると感じます。これを、「世界はどのように、より早く回転しているか、精神面をはっきり見る」と言います。私たちが夢中になって物質だけを見れば、ダンマ、あるいはチャリヤダンマを理解できません。
精神面、心の深奥を見ることを知れば、滅苦の話にとって利益がある物を、もっと早く、もっと正しく理解できます。私たちは鶏が蹴り合い、猫が噛み合い、犬が噛み合うのを見たと仮定しても何も感じません。そしてどちらも悪いから噛み合うと見ます。しかし人が噛み合うと、なぜそのように見ないのでしょうか。これも、私たちは精神面、あるいは心の深奥を見るからです。
政党間の噛み合い、あるいは国同士、あるいは幾つもの国の陣営で噛み合う政治家たちを、私たちは何故、鶏や猫や犬が噛み合うように平然と見ないのでしょか。これは、高い精神面を見るからです。しかし不思議なのは、「どちらの側も物質主義に夢中になっている。もう一つの角度では同じだから噛み合う」と、同じだけ嫌わないのでしょうか。
犬が噛み合うのも、猫が噛み合うのも、あるいは鶏が蹴り合うのも、それは物質主義が原因の話です。だから争う人、延々と戦争をする人も物質主義が原因の話です。だから、どうして人が惑溺している物質主義を嫌わないのでしょう。そこが不思議です。
そして反対に、噛み合う鶏や犬を軽蔑します。だから深い部分を見ることを知ってください。つまり心の面、あるいは深い精神面を見て、噛み合う原因である物質主義の害を排除する道具がなければならないと見ます。時間の節約のために、このように率直で簡単な言葉を使うことをお許しください。この方が意味を良く説明しているからです。
知性でこのように詳細に見る努力をすれば、ダンマ、あるいはチャリヤダンマ(道徳)は、毒になる物質主義を管理する素晴らしい道具とはっきり見えます。そして一般には、常にこのようです。つまりチャリヤダンマは、本当のチャリヤダンマならどの宗教でも、このような義務をしなければなりません。しかし述べたような問題があります。てんでに自分の宗教に背を向けるからです。あるいは宗教と呼ぶ物がない人たちもいるし、宗教がある人も無関心で、あるいは自分の宗教に背を向け、騙し、あるいは宗教に関わる問題でいろいろ言い訳します。
だから全体に罪が生じ、私たちの世界を、休まず恒久的な危機に遭遇させます。私たちは宗教のダンマ、あるいはチャリヤダンマを、述べたように正しい方法の道具として使わないからです。だから先生のみなさん、この角度で見る努力をし、道徳と呼ぶものの最高の重要さを見てください。そして道具という言葉の意味で極力使ってください。
ダンマ、あるいはチャリヤダンマの幾つかの種類は、もっと高い他のチャリヤダンマの道具であるという項目を、特別に熟慮するよう提案したいと思います。要するに、ダンマもダンマの道具です。すべてのダンマが完璧な道具であれば、ダンマも世界の苦を軽減させることができます。難しい問題は高いレベル、深いレベルのダンマの実践をすることにあります。しかし私たちは、その困難を解決する道具である別の種類のダンマで解決することができます。
だからブッダは、道具であるもう一種類のダンマを教えました。あるいは紹介なさいました。例えば如意足と呼ぶダンマ集は、七覚支などの難しいダンマの実践を簡単に成功させる道具であるダンマです。これは、「徳育・知育・体育、そして手工芸育」と聞いている四種の教育と、みなさんが良く知っている物から始めることに、関心を持ってください。
この四つの物の意味を明らかに見ると、次のように分かります。
知育は善い知識を意味し
、
徳育は善い振る舞いを意味し
、
体育は善い体力があることを意味し、
手工芸育は善く命を維持する縁があることを意味します。
見てください。まったく重複していません。しかしもう一度、それぞれは単独で成り行くだろうかと良く見てください。よく見れば、それは依存し合わなければならないと見えます。それです、互いに道具であることは。四種類の教育も苦をなくすため、自身の中の望ましくない物を排除するのでも、そのための道具ですが、同時に、互いに互いの道具でもあります。だから、最高に重要であるこの部分を見落とさないようお願いします。
なぜ重要かは、みなさんがこの四種類の教育を使わないで互いの道具にすれば、全部失敗することもあります。あるいは最小限の結果しか得られないかも知れません。仏教の話だけを思うと、ある時代には学問知識の結果に非常に損害が生じたことがあり、その結果、徳育の価値を見るようになりました。
次に、知識の話と徳育の話だけに関心を持ち、身体と心の衛生が悪ければ、それもできないと気づいたので、体育、あるいはこの種の教育が生まれました。
その後気づいたのは、手や足を使うこと、いろんな部分を使うことに熟練していなければ、命を維持することに未熟で、これも生きていけません。どこから体力を生じさせるか、それも厄介な問題ばかりです。だから賢くする訓練の道具にするため、命を維持する縁であるために、体力の訓練に依存して身体の部分を良く使って良くします。だから四つ揃いました。これを、互いに欠かすことができない道具と言います。そして互いに道具であれば最高に確かなので、良く、本当に、生涯、苦を軽減させる道具に使うことができます。
道具である状態があり、道具である義務があるダンマに関心を持ってください。そして少なくとも正しく使ってください。
次は、本当に道具と呼ぶ物、そしてこのように最高な物は何のために使うか。苦を軽減させるためと言うのは、何を意味するか。そして最高に基礎の教えのほとんどすべては、何をするために使うという意味なのか、詳細に見ていきます。
先生のみなさんの博識のために。人間の最高に基本的な敵である物を紹介したいと思います。敵は、自然と呼ぶこともできます。それは非常に正しいです。つまり自然は私たちの望むとおりにしてくれない物です。私たちは生老病死の自然、望み通りにならない物である自然と戦って、何としても勝利しなければなりません。
私たちはそれらを強制し、あるいは戦い、あるいは対処し、あるいはそれを自分の望みにとって十分にしなければなりません。そして最高に必要なのは、それを苦にしないこと、苦にして自分に与えないことです。そうするだけで十分です。その他はどのようになろうと自然の勝手です。
もっと深い問題は、自然は初めからそのようである点にあります。だから私たちは彼らが原罪、あるいはキリスト教のoriginal sinと呼ぶ物と同じと見なします。キリスト教側は、アダムとイヴが世界を創った最初の日に罪を犯し、そして二人の罪は、現代の子孫まで受け継がれ、あのようなこのような苦に絶えなければならない、すべての人間のoriginal sinと見なします。
それは休まず神様の方を向いて、神様に頼らなければなりません。原罪はまだ終わってなく、現代まで続いているからです。こういうのは、多くの先生のみなさんが「例えて説明してください。例を挙げてください。例えてください」とせがまれました。次にこれから例えて見ます。どうぞしっかり聞いてください。
仏教の側にも原罪と呼ぶ物はあります。しかし見えなければ、「それはキリスト教だよ」と嘲笑します。本当はキリスト教でも何でもありません。それは本当の自然の話です。人間は誰でも、原罪と呼ぶ状態があって妨害しています。つまり愚かさ、迷い、あるいは地獄の責め具を蓮の花と見るほど何をしても失敗する原因である無明です。だから昔話をする方が良いでしょう。あまり時間は掛かりません。それ自体が深い意味を説明しているからです。
原罪を理解するために話す話は、神様が世界を創ったばかりの時、神様は世界に何もないのは利益がないと見たので、世界、つまりThe globe、あるいはThe earthがただの土地でなく、何もない世界でなく、利益があるようにするために人間を創ったと、しっかり規定してください。次に創られた最初の人間は、母親の胎内から産まれたばかりの赤子のように、自分も知らず、自分が何かも知りませんでした。これは原罪です。このよです。
彼は自分が何かを知らず、神様に創られたばかりの世界で最初の人なので訳が分からず、「私は誰なのですか」と神様に質問しました。神様が「お前は人だ」と教えると、彼はまだ腑に落ちず、「なぜ人なのですか」と言いました。神様は「世界を価値があり、利益があるようにするため、あるいは美しく住み易く、見事にするため」と言いました。彼がどれだけ長く居られるのか、どれだけのことをしなければならないのか質問すると、神様は「三十年やる。三十年間、世界を有益にしなさい」と答えました。そして人間が納得したようにするに任せました。
神様は「人間には道具である動物がない。道具は大切で、無ければ人間は生活できない」と見たので、稲作・農業・農耕をして命を養う道具になる、牛や水牛などの動物を創りました。牛は何も分からずに、かつての人間と同じように、「私は何ですか」と神様に質問しました。神様は「お前は牛だ」と言いました。牛が「なぜ」と質問すると、人間の道具となって農耕をして生活するためと答えました。どれだけ長く居させるのか、どれほどさせるのかと質問すると、神様は三十年と答えました。
牛はどこから知恵が生じたのか知りませんが、「重労働をするには長すぎる。不公平だ。もっと短くするべきだ」と反発しました。神様は本当だと見て「牛は三十年いなくても良い」と賛成しました。つまり三十年も働かなくても良く、十年くらいにしました。これを考えて見てください。牛でさえ、苦に耐えなければならない時間が長すぎるのは耐えられないと知っています。しかし人間は何も言うように見えず、三十年は三十年です。
その上人間は神様に平伏して、牛から減らした二十年を人にくださいと懇願しました。神様はそれを聞くと、これほどまで貪欲な顔が憎くなり、どのように罰を与えるのがふさわしいか分かりませんでした。しかしあと二十年増やしてやるのがふさわしい罰だと気づきました。つまり牛の二十年を人間に足して五十年にし、寿命を五十年にしました。
その後神様は、人間にはまだ護衛する動物がいない、護衛する道具がないと見て、家の番をする犬を創って、護衛の面で人間を援けさせました。犬も訳が分からないので「私は何ですか」と神様に尋ねると、神様は「犬だ」と教えました。なぜですかと訊くと、財産を守るため。そして寝てはいけない、眠ってはいけないと言いました。寿命は何年か尋ねると、三十年と答えました。神様はいつでも三十年という原則を使います。
三十年我慢するのは楽しくない、不公平だと思って、減らしてもらう口実をいろいろ述べると、神様も同情して減らさなければなりませんでした。つまり二十年減らして、寿命を十年にすると言い、納得し合いました。だから犬はそれくらいの寿命があります。
ここで人は、気を強くして神様に這い寄って、犬に減らしてやった二十年を、人に増やしてくださいと強請りました。神様は前回以上に憤慨し、人間の欲深さにふさわしくするにはどうしてやろうかと考えました。しかし増やしてやる以上に良い方法が見つからなかったので、増やしてやりました。つまり望むように二十年増やし、犬の二十年を足して七十年になりました。
その後神様は、人間が陽気に楽しむ物、つまり笑わせる物がまだないので笑ったことがない。そのうちに何かの病気で死ぬこともあると見ました。肺が強くないからです。だから笑いを生じさせる援けをする動物、サルを創りました。神様がサルを創ると、サルも訳が分からず、「私は何ですか」と質問しました。神様は「サルだ」と答えました。なぜ生きるのですか。人を笑わせるため。何年生かせるのか。いつものように三十年。サルはいろいろ理由を挙げ、この仕事は重過ぎる。芸術の仕事は重過ぎるので、何としても減らしてください。それでまた二十年減らしました。
二十年の規則を次々に使い、サルは約十年の寿命があると言うことです。二十年減らしたので、我慢する必要はありません。人間も気を強くして、這って神様に近寄ってしつこくせがみ、結局、サルから減らしてやった二十年を人間に足してくださいと言いました。神様は三倍憤慨しましたが、どうしたら良いか分からないので、サルの寿命である二十年を増やしてやりました。そしていろんなものを解決せず、解決を認めず、合意したままにしました。何が生じるか、これから注目してください。
こういうのを原罪とするか、あるいは人間のoriginal sinと見なせるか、みなさん一度考えて見てください。キリスト教と同じように呼べるかどうか。私は一致すると見ます。つまり最初の人がこのような過ちを犯し、その罪が子孫に継承され、人間の子孫が今、どのような苦に耐えていると見えるでしょうか。
人間が生まれて、最初の三十年は何とか見られます。人は一歳から三十歳までは美しく健康で、何とか見られます。生まれて成長するとどんどん美しくなり、どんどん健康になり、益々見られるようになり、何とか人間と呼ぶことができます。世界を美しくし、荒れて殺風景にしないこととぴったりします。
しかし三十歳から五十歳まで、人間の状態は実に牛になります。主婦や家長でなければならず、鋤や頸木を牽かなければなりません。つまり個人的な責務、家族の責務、国の責務、すべての物の責務など、肩にのし掛かるいろんな責務があります。だから肩の皮膚が擦り?けるまで田んぼで鋤を牽いている牛と同じ状態があります。ね、この区間は誰でも牛人間です。
次の五十歳から七十歳は、人間は犬の二十年をもらったので、犬人間でなければなりません。つまり眠るのが難しいです。これくらいの歳の人は眠るのが困難です。アメリカでもどこでも留学している孫を心配し、ドアを閉めたかどうか、窓を閉めたか未だか、銀行に預けたお金はどうなっているかなどを思ってよく眠れません。あるいはまったく眠れません。七十歳までこのような犬人間です。
サルの寿命をもらった八十歳から九十歳は、呆けた症状を現して孫やひ孫を笑わせ、楽しませます。食べても「食べていない」と言い、いろいろあります。顔つきも、見れば可笑しく見えます。サルの二十年をもらったので、サル人間です。
原罪という物は誰が作ってくれたか、誰が作っておいたか、考えて見てください。神様は作ってくれません。神様はこのようにするのを望まれていませんが、人間が牛の物も毛嫌いせず、犬の物も嫌わず、サルの物も厭わず、神様から二十年ずつ貰いました。人間のガツツキ様を見てください。この原罪は今日まで付いて来ているか、考えて見てください。
先生が、すべてのダンマの項目にこのような話をmake upする練習をして、子供に聞かせれば、道徳の話はとても楽しいです。しかしみなさんは、このようなmake upに興味がなさそうです。むしろ鏡の前でするmake upの方に関心があり、美容院へ行きます。男もチャボが羽を広げた孔雀で、子供に勝利する深遠な考えはあまりありません。これは庶民が言っています。
前回から幾つもの話の例を挙げて話して聞かせたように、例えで道徳の課題を楽しくすることに興味を持てるよう、自然では自然の法則が強制する規則があると感じさせるために、彼らに話して聞かせます。例えば、私たちは生まれなければならず、老いなければならず、病まなければならず、死ななければならず、そして元からの無明、愚かさ、地獄の責め具を蓮の花と見、受け取るべきでない物を受け取って自分の物にする迷いにならなければなりません。
そして彼らは「まあ! 何か道具を探さなければならないなら、それで神様との約束を反故にしてしまい、初めの罪を払拭してしまえ」と、最高に必要な物の一つと見ます。これは、私たちが、神様がくれた最高に素晴らしい道具を探すことを思わなければならない理由です。それを使うことができれば、拘束する項目を反故にできます。あるいは約束を破棄できます。どの宗教のどの種類の原罪も約束であり、束縛している原罪を完璧に消滅させることができると以前に説明したように、「ブッダのダンマは最高に普遍」と挑むことができます。
これは、人間は若い頃は美しく爽やかで、それでも最高に良くする努力をするという意味です。つまり身体も美しく、性質も美しく、知識も美しく、行いも美しくします。こういうのは本当に全部美しく、最高に美しい若者・乙女で、特に道徳的に美しいのは最高です。これは、人は三十年は美しいという意味です。
牛人間の年齢になると、長々と説明したように、心が疲れを感じないよう、倦怠しないよう、何の苦も感じないようにする「自分がない話、執着しない話」を道具として使います。そうすれば、自分は野良で鋤を牽いているようだ、あるいは街道で荷車を牽いているようだと感じません。つまり牛人間である必要はありません。そのダンマはこのようにさせる道具になります。何日も述べたように、どうぞ熟慮して見てください。
犬人間として暮らさなければならなくても、話したように眠れなくても、自分がない話、すべての物に執着しない話のダンマを更に正しく使えば、睡眠薬を使わなくても眠れ、もっと安眠でき、すべてが正しくなり失敗はありません。常自覚が完璧にあるので、犬人間である必要がないからです。
猿人間の範囲である年寄になっても忘れっぽくならず、記憶が薄れず、呆けず、老いぼれません。アーナーパーナサティバーヴァナーなどの実践規則、あるいはふさわしい何らかの念処を良く訓練できるからです。アーナーパーナサティは他の物よりも良いと主張させていただきます。練習して習性になれば普通の老人のように呆けず、老いぼれません。最期まで、日常的に訓練している常自覚が完璧な人です。これはつまり、サル人間にならなくても良く、呆けて誰かに揶揄されなくても良いです。
こでれす。このダンマ、あるいは道具は素晴らしいか、どれくらい素晴らしいか考えて見てください。人間の生活に最高に必要でしょう! だから先生のみなさん、興味をもって、「道徳、あるいはこのダンマは本当の道具、最高の道具である。身体面でも精神面でも道具である。そして身体面は広く勝利でき、外部の物質、性質、運、福分まで意味し、毒であり害である物は何もない。精神面は原罪の話で例えたように、心を老病死などの自然の妨害より上にあるようにする」と、はっきり見えるまで深遠に熟慮してください。
だから、ダンマを学ぶためでも、実践するためでも、ダンマの普及、あるいは教えるためでも、ダンマのためにすべてを犠牲にするにふさわしいと見えます。これです。ダンマに対して行動しなければならない義務があります。あるいは特に徳育はこのようです。これほどです。いろんな問題はあまりありません。私がたくさん(質問を)受け取ったような小さな問題はありません。
私は、取り敢えずこのように答えさせていただきます。有利な言い方かもしれません。しかし本当は有利でなく、事実はそのようです。つまり全体として、このように大きな論点で答え、それから個別に、細かく答えます。そしてみなさんがダンマ、あるいはチャリヤダンマ(道徳)の価値にふさわしい関心があれは、いろんな問題は終わります。
今みなさんは理解せず、これらの問題に答えられないのは、まだ関心が少ないからです。だから最高に素晴らしい道具であるチャリヤダンマ(道徳)の話の教育、探求に関心を持つ時間にしてください。自分自身が危機を脱し、子供たちも危機を脱し、世界中の人間同朋が危機を脱すために、多少の楽しみを犠牲にし、あまり犠牲にしないいろんな物を犠牲にしてください。
次に、ダンマの道具であるダンマについて、時間が許すだけ更に詳しく、はっきり見えるように述べます。
最初の項目は、次々に連鎖する種類の道具について指摘します。私たちは、「知育は善い徳育を生じさせ、善い徳育は良い体育を生じさせる」と言うようなのは、何とか見ることができます。しかし直接ダンマの教えは、一つのダンマがもう一つのダンマに力を送り、結果を得る最後の時まで次々に送ると見るべきです。例えば学ぶこと、あるいはダンマの学習はパリヤッティダンマと呼ぶ学習を生じさせ、パリヤッティダンマはパティヴェータと呼ぶ聖向聖果涅槃に到達する実践の結果を生じさせます。
だからこの宗教にはパリヤッティダンマがあり、話して学んで質問し、いろんなクイズを出してダンマを理解させます。これをパリヤッティダンマと言います。良い方策のようなこの教えを受けたら実践します。次に結果である、聖向聖果涅槃、あるいはパティヴェータダンマと呼ぶ滅苦を生じさせます。
もう一つは、先生のみなさんが非常に聞き慣れている「戒・サマーディ・智慧」で、戒はサマーディを生じさせ、サマーディは智慧を生じさせます。しかし智慧は戻って来て戒を生じさせ、戒の力、サマーディの力を増やし、次々にこのような輪になっています。だから次々に進歩し、煩悩を断つことができるくらい高い智慧になります。このように互いに道具であるダンマを見るのは、「私たちは涅槃の行動、涅槃の到達に飛び越えて行くことはできない」と見せるためです。
どのように涅槃の話の説明をして十三、四歳の子供に理解させるか解説してほしいというのは、これも難しいです。するのは難しく、そして説明も難しいです。十三、四歳の子供でない質問者でも理解できないからです。時にはまだ関心がないこともあります。だから私は、心が何にも妨害されていない自由な時に心を観察するよう、子供たちに教えなければならないとだけ述べます。
「笑わなくても良い、泣かなくても良い、心を妨害する物がない」。それを涅槃と言います。あるいは涅槃の意味、涅槃の状態です。それは空の一つの段階と見なします。しかしそれだけでは十分でなく、心に妨害する物がない空にするために、休まず教育がなければなりません。休まず実践がなければなりません。自由で、完璧に心を妨害する物が何もないくらいなら、本当の涅槃です。だから道具に依存しなければなりません。これを道具であるダンマは、次々に生じさせて最高まで進歩すると言います。
もう一種のダンマは発生源、あるいは基礎である道具です。先生のみなさん。しっかり関心を持ってください。「子供にどのように簡単にダンマを理解させるか説明してください」と、このような注文を受け取ったからです。この種のダンマの例は、例えばヒリ(慚)とオータッパ(愧)です。慚は「恥じ」という意味で、愧は「恐れ」という意味で、悪を恥じ、悪を最高に恐れることを慚愧と言います。人が恥を知らなければ、恐れを知らなければ、麻痺した人と言います。恥を知り、恐れを知る人は過ちをする気にならず、反対の人は平気な顔でできます。
みなさんが戒を持てないのは、あるいは他の善い行いがないのは、慚愧がないからです。だから基礎を作らなければなりません。つまり慚愧がまだあるように、元からあるより発展させます。その動物は恥じの種、恐れの種を生まれた時に持って来ても、時にはこの種のダンマは動物の心の中で開花せず、枯れ急いでしまうと思って見なければなりません。よく見れば、小さな子供でも恥を知っていて、恥ずかしいことをしたがらないと見えます。
このように恥じがあるのは、文化、あるいは何か善い環境があるという意味です。私たちは恥を知り、路上で恥ずかしいことをしません。この話で絶対にうっかりしません。しかし他の、本当に個人的なダンマの話では時々うっかりします。それはそのような話に恥がないから、そして同じだけ恐れがないからです。
道端で恥ずかしいことをする話でなくても、子供たちに恥と恐れを同じだけ持たせなければなりません。試験に落ちる話も、彼らはたくさん恐れ、恥じなければなりません。あるいは何かをふさわしくなく、人より遅れ、人と同じでなくすることをもっと恐れ、恥じるべきです。理由がないのに他人が不満に思うことをしたら、その人はもっと恐れ、恥じるべきです。あるいは一人で低劣な思いや考えをする時、その人は同じだけ最高に恐れ、恥じるべきです。
慚愧の習性を塗り重ねることができれば、道徳に関わるいろんなものは全部簡単になります。これが道具である種類のダンマの功徳です。高齢の人は恥じず恐れないと、高齢の人物について明示したいと思います。つまり目・耳・鼻・舌・体・心を管理して喜びも悲しみも生じさせず、惑溺せず、形・声・臭い・味・接触が触れた時にサティをぼやけさせない話で間違っています。その人が恥じなければ、危害の状態の影響がもっと増え、あれこれに、俺、俺の物、自分、自分のものと、次々に執着させます。
なぜその人は,もっと恥じないのでしょうか。反対に「私の物はこれだけたくさんある、私の物はこれだけ大きい」と自慢し、誰の物よりも広く、誰の物よりも大きく、誰の物よりも高く、誰の物よりも良くして、「私の物、私の物」と、このように言います。だからジャータカの一つの話で述べたように、サルに罵られるのにふさわしいです。つまり、
猿の群れの長である猿菩薩は、捕えられて城の中で飼われ、その後解放されて群れに戻ると、子分のサルたちが人間の国には何があったか知りたがりました。サルの長は、「人間の国にあったのは、俺の銀、俺の金、俺の子、俺の夫、俺の女房という声だけだった」と話しました。それが人間の国の話です。子分である猿たちは、そのように聞くと一斉に沢に駈け降りて行って耳を洗いました。そして「生まれて初めて最高に汚い声を聞いた」と叫びました。ジャータカの中にこのようにあります。
なぜ私たちは、それらの猿に恥じないのでしょうか。このように慚愧があれば、ダンマの教育は、理解も、実践も、聖向聖果への到達も、聖向聖果涅槃の話はもっと簡単です。しかし美徳である慚愧がなければ、最高に恥ずかしい物である苦と煩悩にも恥を知らず、恐れを知りません。煩悩と苦は同じ部類です。煩悩は苦を生じさせる原因で、苦は煩悩から生じます。これが誰かにあれば、最高に恥ずかしく、恐ろしい物です。
これらの慚愧を道具である種類のダンマと呼び、例を挙げたように、発生源であり、良い拠り所です。そして同じ義務をする他の名前のダンマもあり、例えば前回の講義で、正しい見解はどのように基礎であるダンマか説明したように、正しい見解、あるいは智慧などです。
次は促す類のダンマで、促して歩かせ、促して力を生じさせます。ブッダはサッダー(信仰)、あるいはチャンダ(満足)などと呼ぶダンマを挙げられました。
サッダーは信仰という意味です。しかしほとんどの人は、信仰は聞いたら信じ、説法を聞いたら信じ、三蔵に書いてあるのを見たら信じると誤解しています。こういうのは全部間違いです。ブッダは「私自身の口から聞いても、すぐには信じてはいけない。それは本当にできるかどうか、先に考えて見なさい」と短くまとめられる内容を話されているからです。つまりブッダが「このようにすれば滅苦ができる」と話されても、私たちはそれに従ってしたら本当に滅苦ができるとハッキリ見えるまで、考えて見なければなりません。
それから信じ、そして実践します。プラ・サーリプッタはブッダの面前で、「私もブッダの教えの言葉に対してそうしている」と勇敢に主張しました。このように「信じること」を「仏教の信仰」と言います。だから仏教の信仰という言葉は、他の宗教の物と違います。他の宗教の信仰、あるいは忠誠と違います。仏教教団員である私たちはこれを純潔清浄に行うべきです。ほとんどがそうであるように、愚かな信仰で見苦しくしません。
この話は何があるか、名指ししないでください。煩わしいです。しかし私たちに今あるサッダーは、ほとんど仏教の信仰ではないと主張させていただきます。だから間違った方へ促し、過ちを犯すほど窮地へ追いやり、本人が困窮して生き地獄に落ちることもあります。このような信仰が後押しすれば。
チャンダと呼ぶ物については、チャンダは満足という意味です。今私たちが子や妻や財産、金銀財宝、装身具に満足しているように、ダンマ、あるいはチャリヤダンマ(道徳)に満足しているか。自分で考えて見てください。誰でも自分自身が、この話に関して自分自身を良く知っているからです。仏教の実践をする満足に関わる例えの言葉で、彼は、宝石を手に入れた絵を描きました。ダンマを手に入れるのは、宝石を手に入れるのと同じでなければなりません。そして喜んで楽しくなったら、それを価値にふさわしくします。
だから私たちはダンマ、あるいは道徳と呼ぶ物に、その価値にふさわしく満足しなければなりません。みなさんは一人で検証できます。このダンマ、あるいは道徳はどれだけ価値があるか、誰かを信じる必要はありません。みなさん、宝石・ダイヤモンド・金銀・妻子・夫・財産、何でも天の財産、人間の財産、何でもこのダンマと比較した時、どのような価値があり、結果があるか見てください。つまりどちらがどのように多いか少ないか、ダンマの価値を見ます。
本当のダンマの価値を見た時だけ、「本当のチャンダ」と呼ぶ物があります。今あるのは、強制されたチャンダ、アマチュアのチャンダ、成り行き任せのチャンダだけです。だからチャンダと呼ぶものは、高い段階に行くよう促す道具であるダンマではありません。誰も責める必要はありません。道具が十分あっても、私たち自身が道具を使うことをまだ知らないだけ、理解できないだけです。
ブッダは極力与えましたが、誰も大切にしません。いつでも創れ、いつでも使えますが、私たちは関わりません。関わろうとしません。宝石を見た鶏のように、何の価値があるか知らないからです。
次に保護、防止、維持する道具であるダンマについて述べたいと思います。何が私たちを最高に護って防ぐ道具か見えるよう子供たちに紹介する時、ダンマ以上に何もないという事実が見るよう指摘するべきです。両親が護ってくれるのは、まだ善い行いをして自分を護るほどではありません。兄弟、友達、どこの仲間でも保護してくれるのは、ダンマが護るほどではありません。
ダンマの振る舞いをすれば危険がなく、どこの危害も触れられないからです。ダンマの行動がなければ、何万何十万の兵が取り囲んで護っても、いつか危険に遭遇しなければなりません。保護する種類のダンマは、「常自覚と根律儀」とブッダは明示しています。
サティとは、正しく、愚かでなく、ぼんやりしない、常に不注意でない想起という意味です。
サンパチャンニャ(自覚)は、常に全身で感じる正しさです。
サティとサンパチャンニャ(常自覚)は仲間で、常に一緒なので、合わせてサティサンパチャンニャと呼んでしまい、一つの物とすることができます。サティサンパチャンニャがなければ、休まずぼんやりし、ぼんやりする練習をすれば次第に忘れ、頭が呆け、老いる前に、年を取る前に忘れます。これが、サティサンパチャンニャを正確に、確実に訓練しないことの害で、仏教のダンマの実践をする価値を見ないで他の物ばかり見ます。
ブッダは教えとして、「サティは最高の防止、あるいは保護する物」と言われています。強盗も防ぎ、泥棒も防ぎ、何でも防ぐのはサティによってです。病気を防ぐのもサティで、煩悩を防ぐのもサティで、苦が訪れて触れないよう防ぐのも、これもサティによってです。だからサティサンパチャンニャの話を十分に学ばなければなりません。
根律儀と呼ぶものは、根である目・耳・鼻・舌・体・心を慎重に護ります。何かが目・耳・鼻等に触れた時にサティがなければ、感情のままに放置され、触が生じ、受になり、欲になり、取になり、有になり、生になります。つまり執着になり、俺、俺の物になり、苦になり、混乱状態になります。これを「苦の流れを防止する物がない」と言います。
根律儀の義務をするサティは、触の所で苦の流れを防いで止めることができます。例えば、バーンという銃声が耳に触れると、恐れが生じて苦になる代わりに、「それは何か、どうか、どのように対処するか」忠告する常自覚があるのは、受が恐怖になり、何になり、最後に苦になるより善くないでしょうか。音を聞いた瞬間に知性に戻し、正しく対処します。
こういうのを、「煩悩と苦の流れを最高に防止する」と言います。まだたくさん例があり、すべての根を述べれば、時間が足りないに違いありません。だから耳から入る音の話だけを例にしておきます。
次に捨てなければならない物を捨てる道具であるダンマについて述べます。私たちは捨てなければならない物を捨てることに難しい問題がたくさんあります。そして捨てられません。先生方の中には煙草も捨てることができず、今難儀している人もいます。何度捨てても成功したことがないと、良く知っています。もっと酔わせる物である酒を捨てるのも、もっと凶悪な煩悩を捨てるのも、何のダンマで捨てるのか知りません。
捨てることに使うダンマは何種類もあります。しかしブッダが一般の人のために話された四種類で一組のダンマがあり、それを一緒に使わなければなりません。つまり「サッチャ(誠実)・ダマ(自己訓練)・カンティ(堪忍)・チャーガ(犠牲)」です。先生方は名前を聞いたことがあり、そしてそれが在家のダンマと知っています。つまり直接在家のためのダンマです。
サッチャは誠実、ダマは自制、カンティは堪忍、チャーガは自分の中にあるべきでない物を犠牲にすること。この四種類は、在家のためだけのダンマと理解しないでください。私は「すべての人のためのダンマ」と主張させていただきます。出家でも、あるいは出家以上でも、望ましくない物を捨てたければ、道具であるこの四種類のダンマを使わなければなりません。
最初の項目であるサッチャは、捨てることに誠実でなければなりません。サッチャという言葉は誠実という意味です。人物に誠実、時間に誠実、食味に誠実、いろいろ何にでも誠実ですが、最終的にダンマに対して誠実、自分に対して誠実、自分の名誉に対して誠実とまとめることができます。これを、ダンマに対して誠実と言います。私たちは「自分は人間で、人間の理想に対して忠実でなければならない」と、自分を尊重することを知らなければなりません。
こういうのをダンマに対して誠実と言います。次に煙草を捨てたいなどは些細な話になります。ダンマに対する、人間であることの名誉に対する真実は大きいので、抑えつけて煙草を捨てることを非常に小さな話にすることができます。これを「サッチャを最初の項目にしなければならない」と言います。つまり誠実、自分に、自分の名誉に誠実にします。次に誠、あるいは誠実は、助けに入るダマがなければ長くはありません。
ダマは永遠に本当であるために自制することです。だからブッダは二項のダンマを順に並べられました。ダマは自制することで、自制とは発願したように、サッチャの範囲内に維持するよう自分の心を支配します。だから私たちは自分を支配できなければなりません。低い威力に引っ張られるのを放置しないで、高い側のダンマの威力の中に維持するよう、自分を支配しなければなりません。絶妙な方便で、自分を賢く強制しなければなりません。
ブッダが「賢い象飼いが盛りのついた象を扱うように、自分自身を賢く支配しなさい」と教え諭されています。ブッダは「賢い象飼い」という言葉を使わなければなりません。賢くない象飼いは象に殺されるだけです。象を支配できないからです。煩悩がある人の心は盛りのついた象以上なので、主人である私たちが賢くなければ、死ななければならないに違いありません。
つまり確実に苦の海、煩悩の海に沈まなければならず、浮かび上がれません。これは賢さに依存しなければなりません。賢い人であり、自分を支配します。自分を支配できるだけ十分な賢さを探求しなければなりません。そして何としても自分を支配すれば、サッチャはいつでも輝いています。ブッダが悟ったことの素晴らしさ、あるいはブッダの賢さ博学さはどれほどか、考えて見てください。
次にブッダは、私たちが自分を支配できるように、何のダンマを配置したでしょうか。ブッダはカンティ、つまり堪忍というダンマを配備されました。自分を支配する時、痛みがあるのは当たり前だからです。心と低い自然が闘う時、痛みが生じるに違いないと、自分で考えて見てください。次に痛みが生じて耐えなければ、我慢しなければ走って逃げ、逃避し、それだけで話はダメになります。だからブッダは、三番目に堪忍して待てることを配置しておきました。
先生のみなさん、子供たちに我慢、忍耐、待てることを教えなければなりません。教育では、どれだけの時間でも待たなければならず、どれだけ困難があっても我慢しなければならないように、心が急いではいけません。そして我慢できないのもダメです。煙草を捨てる話でも、それが困難でグラグラ揺れても、忍耐できなければなりません。誠実でなければならず、自制しなければならず、そして忍耐がなければなりません。
ブッダは思う以上に賢く、私たちが我慢できないのを心配し、チャーガと呼ぶ最後のダンマを与えました。チャーガは放棄するという意味で、排出を意味し、あるべきでない物、敵である物を排出します。だから煙草を捨てる場合は、挫折させる敵である物を排出しなければなりません。あるいは煙草を吸う場所に行かない、我慢できない場所に行かないなど、何でも探して排出させます。こういうのをチャーガと言い、「関わるべきでない物を捨てる」と言います。
煩悩を捨てる話なら、煩悩と戦う忍耐をし過ぎないために、もう一つの方法があります。常に少しずつ排出し、一度にたくさん忍耐しません。だからわずかな助けである物も全部揃えておき、そして休まず排出します。小さな穴、小さな隙間、たとえば布施、読経、良い伝統習慣の中にいる、あるいは何でも休まず抑圧を排出する道具にすれば、我慢しすぎて我慢できなくなる必要はありません。だからカンティ(堪忍)は、排出するチャーガの威力で存在できます。
つまり、心の中にあるべきでない物を、心から排出してしまうという意味です。他の理解をしないでください。布施をするのは、本当のチャーガなら見返りである天国と交換するためでなく、ケチや身勝手を排出するためです。そうすれば本当のチャーガです。だからチャーガと名が付けば、全部排出の話でなければなりません。先に投資して後で受け取りません。
サッチャ・ダマ・カンティ・チャーガ(誠実・自制・堪忍・犠牲)があり、同時に働く時はいつでも、当然何かを捨てることができます。先生のみなさん、よく観察してください。そして改善し、教えるのでも訓練するのでも、子供たちを解善するのに使います。これは、捨てる道具である種類のダンマの例です。
時間を引き延ばす道具である種類のダンマ。これは、すぐに戦うことができない物は、とりあえず時間を引き延ばして、態勢を立てる機会を持って、それからそれをやっつけます。ある種の煩悩は、このような方便を使わなければならないのと同じです。この種のダンマは、カンティ、ソーラッチャ、あるいはそのような名前です。あるいは世俗の意味のウペッカー(捨)と呼ぶものも、使うことができます。
カンティは我慢できることで、ソーラッチャは常に微笑んでおきます。向きになって緊張して苦に耐えるのではありません。だから房になって付いて来て、カンティソーラッチャ=礼儀正しい忍耐があります。これは昔話で「十数える」と聞くように、誰かに怒りを感じたら、取り敢えず十まで数え、それから怒ります。一から十まで数えるのは、時間を遅らせて、高い側の自然に身構えさせ、低い自然と闘う体勢を整えます。つまり怒らないことには、怒りに対抗するために身構える時間があります。
だから十数えることを教えるのは、カンティ、ソーラッチャの類と同じ、時間を遅らせる方便です。何が起きても取り敢えず我慢しなければなりません。だからカンティという言葉は「痛みに耐える・寒さに耐える・暑さに耐える・人に罵られることに耐える」だけではありません。それは幼い子供の話すぎます。本当のカンティは煩悩の誘惑に耐えます。目・耳・鼻・舌・体・あるいは何からでも来る煩悩に、耐えられなければなりません。
つまり戦うことができ、すごい誘惑に耐える時、最高に苦が生じても、自分自身を護ることができなければなりません。例えばこの映画を観に行けないと死にそうでも、我慢でき、そして正常に微笑んでいられます。それには善悪を弁える感覚が戻るまで時間を遅らせることができ、そうすればいろんなことが正しくなります。
ウペッカー(捨)という言葉を、感情と戦う本拠地を創る基礎に使わなければなりません。これも同じ意味があります。感情が触れた時、まだ何も正しくできなければ、取り敢えず平然として、すぐに怒らないで、すぐに嫌わないで、すぐに愛さないで、すぐに恐れないで、すぐに悲しまないで、あるいはそのようにしないで、何としても知性が身構えるまで時間を引き延ばします。
一つずつ例を挙げて来て、先生のみなさんが難しい問題に遭遇するのは、どんな状態の、あるいはどんな種類の道具として使うダンマか、それぞれの種類のダマの意味を掴めるまで良く見ないからと感じる、あるいは観察して見える、あるいは信じるからです。だからこれらのダンマの名前は、ナワコワーダのようなダンマの初級の本にあるので、分類して見る努力をします。このような状態で考えたこと、あるいは観察したことがあるか、自分で考えて見てください。だからみなさんがダンマの初歩の本はどのような状態か見るために見本として述べます。
次に明示する道具である種類のダンマは、収集する種類の道具であるダンマです。収集することについては、財産を集める、あるいは名誉名声を集める、あるいは直接ダンマの面の善や徳を集めて増やすことも、私は収集すると言います。そして誤りでない、正しい収集を意味します。このように四つの努力と呼ぶダンマを創っておかれ、道具として私たちに与えられました。つまり、
律儀謹は、悪や不善に注意する努力です。こういうのはみなさんも聞いていますが、なぜ、どのように道具として使えるかまではっきり見ないのでしょうか。律儀謹=悪を生じさせないように防ぐことと、断謹=生じた悪を捨てることの対は、漏れる穴を塞ぎます。そうすれば修謹と随護謹になり、少しずつ善を創って生じさせます。そして極力注意深くそれを維持するのがもう一つの対です。欲しい物を創って生じさせ、そして成長させます。
「漏れる穴を塞ぐ」系統を最初の対にし、そして「本当に創造する」ことを後の対にするのは、非常に良いテクニックです。しかし次に私たち、社会、国も、この系統を使わないでしょうね。つまり私が「八割の歌」という話の講義で述べて聞かせたように、物質面と心の面のいろんな漏れる穴を塞いで、漏れを止める様式を使いません。それは最高に漏れる穴の例で、私たちはそれを塞がなければなりません。そうすれば節約、あるいは望む物を発展させることができます。これが収集するための道具であるダンマです。
他の名前のダンマ、ウッターナサムパダー(起策具足)、アーラッカサムパダー(守護具足)、カラヤーナミッター(善友交際)、先生方が常に耳にしているサマジーヴィッター(等命)などでも、収集する道具である価値にふさわしく正しく使わなければなりません。
力である道具としてのダンマについて、これから述べます。「力である」という言葉は、身体の力と心の力を意味し、心の面の力だけではありません。これもダンマの初歩で、サッダー(信仰)・ヴィリヤ(努力)・サティ(想起)・サマーディ(専心)・パンニャー(智慧)とたくさん唱えます。こういうのを、力を作るダンマ、力であるダンマ(五力)と言います。
しかしレコードのように大声で唱えて、力として使うことはできません。力として使ったことはありません。これらのダンマを本当に力として使うことができれば、いろんな問題は生じているように、そして答えられないほどたくさん質問が来るようには生じません。
サッダー(信仰)は力です。信じることは心の面の最高の力です。人が信じなければ、尊敬しなければ、後押しして成り行かせるものは何もないので、その理想に信仰、尊敬、帰依、満足がなければなりません。そうすればそれに従ってする気力が生じます。「望みがある所に成功がある。道は当然そこにある」という言葉は、満足・賛同・歓迎・信頼と同じ信仰、信じることで、これらは「信仰」一語に集約されます。そして願望を生じさせる初歩の力であり、種である最初の力です。
次の力はヴィリヤ、努力です。これは直接energyで、目的、あるいは理想になるように後押しする道具として使います。それは一つの状態、あるいは一部、あるいは一つの角度の、欠けてはならない最高に押す道具です。
次はサティ、常に正しく思い起すことで、過去の二つの物が道から逸れないように管理する力です。そうでなければ信仰は信仰でなくなり、努力、ヴィリヤは誤った道に走ります。これらはあり得ます。生じ得ますが、サティは道を誤らないよう勇敢に管理しておく力になります。例えば兵士が自分の力を間違った方向に使うと、何かの力が生じます。しかしサティが勇気を間違った方に使わないよう管理すれば、喜ばしい結果があります。これを管理する力と言います。
次はサマーディ(専心)と言い、最高の力です。心の面の力を意味し、全部を集めるので、確実に心の力があります。サマーディはフォーカスがかすれた光を一点に集めるように、すべての心の力を一点に集めることです。これも非常に力があり、遠くを照らし、遠くが見えます。これは物質面です。しかしダンマ、あるいは精神の側も、毎日かすれた心の力を一点に集めるので、いろんな物の真実を洞察することができます。これをサマーディの力と言います。子供でも勉強し、記憶する時、思考する時、試験の時に使わなければなりません。このようです。
最後はパンニャー(智慧)と言います。力である智慧はもう一つの角度、つまり博学の掘り下げる力が精通させ、看破し、機転、頓智を持たせ、これがもう一度すべてを管理します。初めの四種類は十分義務を行え、間違った道に行かないよう、常に智慧で管理されていなければなりません。あるいは間違った道を行ったら、正しい道に戻すことができ、あるいは障害が生じたら解決できます。だから最後に置きます。
信仰・サティ・努力・サマーディ・智慧にまとめて、ブッダはパラダンマ、つまり力であるダンマ(五力)と呼ばれました。助け合って特によく一致させ、力を生じさせる道具として使ってください。あるいは私たちにとって本当の力として使ってください。
闘う道具である種類のダンマについて述べます。それは何があるか、パーリ語を避けて、タイらしく呼びたいと思います。つまり善・美・真実・正義・公正です。仏教教団員の理想は、「私たちは善・美・真実・正義・公正を最高に望む」と、最高に口にするべきです。
善とは誰も苦しめないことで、自分を苦しめず、他人を苦しめません。こういうのを仏教の善と言います。他の一部の人たちが「手に入れば善、失えば不善」と勝手に規定したような善ではありません。それは、「なぜこの人はすごく善行をするのに出世せず、発展せず、進歩せず、他の人のように金持ちでないのか」というカンマの問題を生じさせます。それはいつでも反対に言い、冗談で言います。
なぜ「善行をしたら悪くなるはずはない」という真実を見ないのでしょうか。誰でもそのような行動を善と規定するからです。そのような行為をし終われば、それは善です。次にお金が手に入るか入らないか、名声が手に入るか入らないかは別の話です。彼らはお金や名声を善とし、それらが手に入らない時があると、善行をしても善が手に入らないと言います。こういうのは最高に誤りです。
先生方の多くが、カンマの話について説明を求める質問を寄せられました。ほんとは、それは善を行えばその行為の規則の中で善でなければならないという、それだけの教えです。お金で、名声で、そのような物で受け取る副産物の部分は、それは別の話です。しかしそれは、そのお金が善行から得たお金なら善い金でなければならず、悪行で得たお金なら、それは悪の金でなければならないのも事実です。このように心の面、精神面を見てください。
物質面だけを見ないでください。全部同じお金と見れば、善い金も悪い金もありません。正しく理解すれば、善行で得た善の金と、悪行で得た善の金、悪の金があるとはっきり見えます。名声も同じで、本当の名声と偽の名声があります。善行をすれば本当の名声を得、悪行をすれば、名声を得ても偽の名声です。悪の金、あるいは偽の名声は悪人の悪を更に増やします。つまり悪行をし終わると悪人になり、その上悪の金で食べたり使ったりして肉や血になります。
偽の名声で人を騙すのは、元よりもっと悪が重くなります。次に善いお金、あるいは本当の名声も同じで、善行をすれば善行をした時から善人です。自分自身も見、天人も見ます。人間同朋がまだ見ていなくても勝手で、私たちは善人、行動した時から善人です。次に善いお金を手に入れて扶養し、食べて使っても。更に善人になります。善い名声を得れば猶更善人で、更に本当の名声があります。これが、仏教の教えの善です。そしてこの善は闘う力です。
美も同じで、ブッダが「この梵行は初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しい」と主張したように、ダンマで美しくなければなりません。私たちはダンマの美しさがあります。つまり美しさであるダンマがあります。美しさのある動物は、当然美しさがない動物の畏敬の的です。これは当然闘う力です。
真実は、在家のダンマの話で詳しく述べたようなサッチャ(誠。誠実)です。真実で闘うのは、不服従と呼ぶマハータマ・ガンディーの行動などです。
正義も同じで、誤りはどのようか、正しさはどのようか、自然の法則に従ってブッダなどが規定したすべての規定であるダンマのような正しさを意味します。正しさは善と同じで、当然他人を苦しめません。そして闘う力です。
公正は、例えば貪欲偏見・瞋恚偏見・愚痴偏見・怖畏偏見など、偏見によって偏らないという意味です。
これらの五種類は闘う力、あるいは闘う道具であるダンマです。なぜ私たちは善で悪人に勝たないのでしょうか。いるのは、悪で悪人に勝つ人だけです。悪で他人に勝つのは、飛んでもないことになります。教えでは「罵り返す人は、最初に罵った人より悪い」と見なします。つまり最初の人が罵ったら、先に罵った人なので使い物にならない人ですが、罵り返した人は、二倍悪いです。
ブッダは「罵り返すのは抜け出すため。罵り返す人は悪くない。正しい。公正だ。公正にこの権利を叫ぶべきだ。世間の人は賛成してください」と話す現代人のように話しません。世界の非常に多くの人はこういうのに同情して挙手します。現代の世界の人は、このようです!
しかしブッダの教えでは、ブッダは「罵り返した人は、最初に罵った人の二倍悪い」と見なします。罵り返さないでください。それが悪に勝つ善です。悪に勝つ道具として使わなければなりません。罵り返さなければ悪人に勝つ原因であり、罵るのを止めさせ、あるいは謝らせることができます。だから同様に誠実で不実に勝利し、正しさで不正に勝利し、公正で不公正に勝利します。これが本当に勝利させる長期の闘いの道具である教えです。
進歩の道具であるダンマは、これもナワコワーダに初歩と現れている「四ウティ(資格)」などの教えです。その教えには「住むべき国に住みなさい」とあります。つまり教育を受けられる国で、学者、哲学者を探すことができる国に住み、そして「善人と付き合いなさい」は、学者、あるいは哲学者だけで、そして教えを聞き、教えの言葉を考え、熟考します。そしてふさわしい実践をすると、このようにあります。こういうのを「ウティ」と言います。
あるいは四チャクラは、進歩発展する道具です。この項目は、二時間ほど暇な時間ができたら学校へ行くのが好き、あるいは智者を訪ねるのが好きなど、この原則を良く調整しなければなりません。ウッティ、あるいはチャクラであるダンマに満足しない時は、誰を責めましょう。それも自分にやたらにブレーキを掛けます。
簡単に早く、そして本当の成功を生じさせる道具であるダンマは、四如意足の類のダンマで、幾つもの部類があります。四如意足は、チャンダ(満足)・ヴィリヤ(精進)・チッタ(心)・ヴィマンサー(熟考)です。自分が最高に必要とする物の満足。最高の努力。最高に熱心に。最高に研究して注意深く見守る。四項とも「チームワークであるダンマ」という現代の科学と一致します。ブッダは「一劫ばかり寿命を延ばしたければ、このダンマを本気で行動することできる」と微笑まれました。考えて見てください。
ちょうど良さを生じさせ、ちょうど良いことを知らせる種類のダンマ。人が非常にしくじるのは、やりすぎる、するのが少なすぎる、するのが遅すぎる、するのが速すぎる等々、すべてふさわしくないからです。ちょうど良いことをブッダは「善人の財産」と言われています。善人は、常にちょうど良い程度を知っていなければなりません。そうでなければ善になりません。だから善人はダンマがあります。原因に、結果に、自分に、標準に、時に、施設に、個人にふさわしい適度を知らなければなりません。ふさわしさを知らなければならない七項目です。説明すると、
何の結果から生じたか、原因について理解がある。
どの原因から生じるか、結果について理解がある。
どのような立場にいるか、自分を知る。
どのようであるべきか、多いか少ないか・高低・標準を知る。
すべきかすべきでないか、相応しいか相応しくないか、時を知る。
人物の群れ、あるいはこの社会あの社会はどのようかを知る。
この人その人、一人一人はどのようか、人物を知る。
合わせて七種類は、最高に完璧な、あるいは本当に最高にちょうど良さを知る原因です。先生のみなさん。特に七種類のちょうど良さの話を学んでください。自分の職務の実践、自分自身に関しても、子供たちに関しても、監督者に関しても、これは全部みなさんの掌中にあります。
最後に基礎の理想であり、基礎の哲学としての道具であるダンマについて述べたいと思います。
基礎の理想がなければならないと言うのは、以前「私はM.R.A.(道徳再武装)の話に同意しない」と述べたことがあるような話で、彼らはとことんそのように、このようにするよう教えるだけで、そのようにさせるにはどんな理想、あるいは理由があるか言いません。そのように頑固に強制するのは、牛が進んで食べないから、無理矢理草を食べさせるのと同じです。
しかし正しいダンマの規則の話、正しい無常・苦・無我の話、すべての物は、俺、俺の物と執着すべきでない話、そしてすべての物は縁が加工するようにならなければならない話があれば、このような自然の法則になります。理想を知り、これらの哲学があれば、先ほど述べたすべての行動を簡単に生じさせる道具になります。
みなさんは、誰か一人のものでなく、世界の精神を高める人として正しいグル(先生)である理想を持たなければなりません。グルという言葉は人物でなく、人物の集まりでなく、世界中の、世界全体の精神を同時に高くする義務がある、世界で一つだけの施設だからです。この理想を理解すれば、あるいはこのような哲学が基礎としてあれば、小躍りして喜び、全身全霊でグルの義務を遂行したくなり、途端に楽しくなります。
悶々とする、欠乏する、そしてあれこれ苦を訴える問題は何も生じません。これです、みなさん。「最高の道具であるダンマは、すべての物はどのようか、パラマッタ(出世間)の段階の真実を説明するダンマ」と見ることができます。そしてそれを教えとして、あるいは基礎の理想として遵守すれば、他のダンマを刺激して、全部一緒に発展成長させることができます。これが最後の道具である種類のダンマです。
次に、混乱錯綜しがちな項目になりました。みなさんは「ウッターヒ ウッターノー ナートー=自分は自分の拠り所」と聞いています。自分は自分の拠り所になれるかとこんがらかるので、自分が苦である時、その自分を自分の拠り所にできません。あるいは自分にとって道具にできません。聞くと、ブッダは何か躓いた話をしたようです。しかし本当は、ブッダを理解できないのは、私たちです。
自分は自分にとって道具とは、煩悩の自分、愚かな自分、凡夫である自分は苦である自分。そして自分の拠り所になれる自分はダンマの自分で、本当の自分は肉である自分ではないと知っていれば、本格的な、本当の本質である自分と呼ぶべき物はダンマという意味です。このようなら、私たちはダンマを自分にします。そうすれば自分自身の拠り所になります。
ダンマは、他人が探してくれることはできないので、自分で探すしかありません。自分で知らなければならず、自分で実践しなければなりません。そして自分で結果を受け取らなければなりません。そうすればこの種のダンマは自分です。だから望ましくない状態にある自分を解決して、望ましい状態に変えます。そうすれば「自分のための自分」、そして「自分による」になります。誰の道具と問うなら、「自分にとって」と答えます。私たちが「煩悩の自分」を「ダンマの自分」にしてしまえば、それは自分に取って拠り所になります。
これは、すべては自然なので、何もかもダンマと呼ぶと、初めての日に指摘したことがあります。もう一度思って見てください。良く思って見てください。忘れていたら、これらの講義の記録を読んで、何でもすべての物をダンマと呼ぶと理解してください。次に愚かな種類の自分である自然は苦で、明らかに知る賢い自分である種類の自然を拠り所にしなければなりません!
これです。私たちは私たちが生まれた時から、知識があり理解があるようにし、善い行い、善い実践をし、自立もでき、脱出もでき、脱出を生じさせたすべての種類の道具であるダンマに感謝するべきです。これが苦を軽減させる道具であるダンマです。そしてダンマを、冒頭で述べたようにもっと高い価値のある物にします。
だから先生のみなさん。みなさんが本当に道具を持つまで、このような意味の、この角度だけのダンマに最大限に関心を持ってください。それはみなさんが、何十通も寄せられ、嘆願された道具です。だから私は、一度に答えられるだけまとめて回答しました。残りは、次の機会に回答します。
時間になりましたので、今日の講義は、これで終わらせていただきます。
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