7.日常生活の中の道徳





1962年1月20日


 先生のみなさん。第七回目の講義は、アリヤダンマを日常生活でどのように使うか、という題でお話しします。初回は道徳などの言葉の意味を、ざっと、一般的にあらゆる角度から判断した前回の記憶を復習するようお願いしました。

 第二回は、道徳のすべての流れが見えるように説明しました。それは一つしかなく、在家のが一つ、出家のが一つ、子供のが一つ、大人のが一つと理解されているように、方向は違わないと見ることができます。身勝手、あるいは著しい身勝手を排除しなければならない点で一つだけの系統があります。どの系統のダンマの行動も、涅槃のためでも、そのように行動しなければなりません。

 第三回は道徳の障害、敵、揺らぎ、そして崩壊について、どのようにあるかを述べました。

 第四回目は特別の回と見なし、道徳の利益のための精神の娯楽について述べました。道徳は退屈で寂しく、悲しさを誘うと考える人がいるからです。本当はダンマと呼ぶ物はそのようでなく、恍惚や楽しさを与えることができ、十分高くふさわしい心があれば、うっとりさせる物になります。しかし煩悩でうっとりするのではありません。それは知性で惑溺し、知性で満足し、煩悩で満足するのではありません。だから違いますが、うっとりさせえるのは同じです。

 第五回目は道徳の目的、つまり空、あるいは煩悩の終わりについて述べました。

 第六回は道徳の本物について述べ、梵行であり宗教である八支聖道を明示して、同時に八支聖道はローキヤ(世俗)とロークッタラ(脱世俗)、両方の話に使うことができると指摘して見せました。そしてすべての段階と合うように調整することができます。だから今日は、八支聖道、あるいは私たちがマッガと呼ぶものの、日常生活での使い方について述べます。

 どのような状態かは、短く、「日常生活のアリヤダンマ」と言います。この話について最高にたくさん質問を受け取ったので、この機会にみなさんの問題を集めて、述べたように「日常生活の中のアリヤダンマ」という題にしました。

 ダンマに対して本当に決意すれば、つまり本当に有益に使うことを目指せば、難しい話ではありません。しかし遊びなら、つまりできれば良く、できなくても仕方がなければ、これは何も強制する物がないので、上手くするのは難しいです。ダンマと呼ぶものは強制しない教えと見なし、律ではないからです。

 律は強制の話ですが、ダンマは強制する話でなく、誰がしても良く、しなくても良いです。誰がする決意をしても方法が正しくなければ、できません。だから十分に理解し、そして関心を持たなければならない大きな問題があります。


 十分関心が生じるまで理解するために、最初に考える系統がなければなりません。これが仏教のダンマ、特に四聖諦の話のロジックと述べたように、「命とは何か、何から生まれるか、何のため、どんな方法で」と、問題にしなければならない見方があります。命を良く知るには、少なくとも命とは何かなど、四つの問題がなければなりません。

 「それは何か」だけでもいろんな角度があります。人は命という言葉の理解が違います。物質の角度もあり、心の面、精神面もあり、深遠な哲学の角度もあるからです。命とは何かという問題については、当然幾つもの答え方ができます。

 生物学など物質面で「命とは何か」と問えば、一つ一つの細胞の中に詰まっているprotoplasm(原形質)、その細胞のnucleus(核)が新鮮であること、あるいはまだ生きていることと明示します。protoplasmと呼ぶ物がまだ元気なら、まだ生きていると見なします。しかし生物学の状態の命という言葉の意味は、当然ダンマの面で使うことはできません。だから取り敢えず避けておいてください。私たちは命と呼ぶ物は何かという角度で見なければなりません。



 命、人生とは何か。ダンマの面で言えば、人生は困難、あるいは少なくとも自分が望むようになるために足掻くことと感じます。自分が中心にいる、そして目指す物である何らかの物があると感じれば、それを手に入れるために足掻きます。つまり手に入れたい欲で行動します。手に入れても欲望が止まる訳でなく、当然手に入れた物に関わる他の欲望があるので、足掻き続けます。つまり願望し続け、行動し続け、そして結果を得ればまた願望し、行動し、結果を得ればまた何等かの物を願望し続け、ネジのような急流になります。

 これが難しい行動、願望の流れです。結果を得るのはその願望を育てるため、あるいは他の願望に加工するためで、渦のような、ネジのような急流の輪です。ダンマの角度、あるいは仏教の哲学の角度の人生は、このような意味があります。みなさんに使うことができるかどうか、最初の項目として考えて見てください。使えるなら続けて判断します。だからこの言葉を短く、命、人生とは藻掻きの流れと定義できます。

 この人生は何から生じるか、何に関わっているか問えば、みなさんも、何に関わっているか考えて見てください。物質面で問えば、たぶん、何かが欲しいからと答えることができます。しかしもっと深いダンマの面では、無知に関わると見なします。無知がそのように足掻かせる原因です。知れば、あるいは知識の状態があれば途端に止まるので、それは無知から来ると答えます。だから自然にある普通の状態では、私たちは何が何かを真実のままに知りません。あるいはその命は、何が何かを正しく真実のままに知りません。それが無明と呼ぶ知識がない状態で、足掻かせる、あるいは足掻きの流れを作る原因です。


 人生は何のためと問うなら、この答えは、当てずっぽうに答えれば止まるためです。智慧があれば、当てずっぽうではないと見えます。何のために食べるかと問うようなのは、それは食べるのを止めるためです。何のために働くかは、仕事を止めるために働きます。何のために旅をするかは、旅を止めるため、目的地に到着するためで、そうすれば旅を止めることができます。

 だからこの人生が渦である急流なら、それは止まるため以外に何のためでもありません。それは確実に止まらなければならないからです。止まることは空、あるいは制止、あるいは静寂、つまり苦ではないということにしましょう。だから「無苦のために」と述べます。

 いろんな方法で熱心に探求するのは、本当は苦がない成り行きにするためです。しかし苦、あるいは無苦を正しく知らないので、どんなに足掻いても停止に、あるいは苦からの脱出に遭遇したことがありません。だから足掻きは一緒に棺に入る伴侶です。これを、命とは何かを知らないからと言います。

 次の問題は、どんな方法でするかです。つまり、いずれかの方法で止めることができる知識を探さなければなりません。走るのは無知だからです。どんな方法で止められるかは、反対の物である知識です。だから人生に必要な知識がなければなりません。そうすれば止まることができる人生になります。

 これが、人生とは何かという最初の項目です。日常生活でどのようにダンマを使うことができるかという項目は、人生という言葉を二つの形に分けなければなりません。つまり基礎である生活が一つ、出来事だけの人生が一つで、それは日常生活のその場合だけ、その人だけの出来事です。


 基本の生活とは、私たちは生きていることの基礎、あるいは生涯、終始基礎である人間としての正しい基礎がなければならないという意味です。いつでも基礎である人生のためのダンマとは何かと問えば、「心を管理して、どんな身勝手も生じさせないことを知る」と明示する以外にありません。それが日常的に、そしていつでも基礎である、人生に使うダンマの一般的な基礎です。

 だから基礎である話に対処できなければ、その話だけの小さな項目にも対処できません。いろんな物は、基礎の上に立っているからです。私たちは善い心がなければなりません。心の善い基礎があり、考えの規則があり、理解、信仰、何でも善い基礎があれば、すべては「俺、俺の物」で何にも執着しないことに集約されます。執着する感覚が生じれば、智慧をすっかり隠してしまうので、排除して、何が何かを知るために智慧があるようにします。

 要するに「すべての物は自分、自分の物と執着すべきではない」と言います。だからダンマに依存した正しい人生の基礎があれば、それは最高の基礎で、基礎である日常の暮らしは最高に善いと言います。だから基礎の生活は日常の物でなければならないと見なします。それは毎日毎晩、寝ても起きても基礎としてあるからです。「寝ても」と言うのは、眠りに落ちても悪夢を見ないという意味です。


 その話だけ、その場合だけの生活は、それぞれの人はしなければならない義務が違うのが一つ。そしてまだ、目・耳・鼻・舌・体を通して触れるいろんな物があります。こういうのは、あの人物、この人物、普通に遭遇しなければならない外部の人物、内部の人物、探求の話、これらのいろんな物を消費する話に関わる、その話だけ、あるいはその人だけの話です。それはその話だけのダンマ、あるいはその話と一致するダンマは、基礎の部分から特別な場合として排除するのを助けなければなりません。

 だから人生を二つの形に分けることを知ってください。日常生活のようなのは一般の基礎の部分で、当然誰でも、いつでもどこでも同じで、同じ形式、同じ形です。そして本当にその人だけ、その時だけ、その場合だけのものも一つの様式です。二つの様式を理解すれば簡単です。一般の基礎は「執着しない」、あるいは「自分がない心があること」を基礎にしなければなりません。それが空です。

 次に日常生活のその話、その時だけの問題を解決する、空から生じた知性があります。しかし、どのダンマをどのように使わなければならないかという話と一致する知性がなければなりません。例えば、慚・愧、サティ、常自覚、知足、養いやすさ、あるいは何かそのような物です。

 基礎を良く敷くことを理解してください。そうすれば敵である煩悩が突破するのは難しい堅固な砦のようになります。基礎のダンマはこのように必要です。


 簡単にするために、当面の日常生活の問題は、誰でも「なぜ生まれて来たか」という問題を考えることを知っていただきたいと思います。少なくとも「なぜ生まれたのかなぁ」と独り言を言うべきです。「なぁ」という言葉を使うのは、多少長く考えなければ、すぐに答えが出ないように見えるからです。なぜ生まれたかと問えば、いろいろ答えがあり、例えられないほど多いです。ここにいる全員で答えを考えて見ると、たぶんみんな違う方向になると信じます。そして時には最高に面白いです。

 ある人は間違って聞いたので、あるいは間違って教えることで、苦に耐えるために生まれたという誤解があります。ある人は、大々的に楽しむために生まれたので、何も考える必要はないというほどです。食べるため、呑むため。楽しむため、精一杯明るくするために生まれたと言うようなのは、明日は死んでしまうかも知れないからです。こういうのもあります。そしてある人は、ヒマラヤの空の遥か彼方にある何かを手に入れるために生まれました。

 その人はまだ知らず、まだ理解せず、まだ真っ暗ですが、一心不乱に何としても手に入れようとします。ね、どれもこのように人それぞれ、いろんな方向へ思いっきり揺れます。こういうのはダンマの学習に使うこと、あるいはダンマを有益に使うことはできません。この問題は幾重にも複雑に錯綜します。なぜ生まれて来たか問うのは、真実でなく知っている人の問いと答えです。つまり生まれた自分があるので、なぜ生まれたか知りません。

 ブッダが言われたような本当の話を知れば、生れた自分はないという意味です。あるのは形であり、名であり、蘊であり、界であり、処であり、一つ一つの自然である変化の流れだけです。生まれた誰もいません。生きている誰かはません。死んでいく誰か、新たに生まれる誰かもいません。


 しかし次に仮定の言い回しのように話すのは、ダンマの話に関心がある人、なぜ生まれたかに関心がある人です。ダンマと馴染ませれば、むしろダンマを知るために生まれたと答えなければなりません。本当は、何かのために生まれたのでなく、生まれた物もないからです。しかし迷いが「生まれた物がある。自分が生まれた」と迷います。真実は、生まれた物が何もなければ、目的は必要ありません。

 しかしこのような感覚を、生れたという普通の凡夫の感覚と仮定すれば、次に何のために生まれたと問います。終わりを知らず死ぬまでお金を稼ぎ、緩めることを知らず死ぬまで疲れ、あるいは止まることも緩めることも知らず面白可笑しく楽しむために生まれ、止まることを知らず身体を健康に管理するために生まれます。生まれて身体の奴隷であるのは楽しいですか。それは考えて見なければならないことばかりです。

 生まれて外部も内部も、社会的にも個人的にも、身体的にも心の部分も、あらゆる種類の束縛や義務があるなら、私たちはすぐに、「生まれて来たことは苦に耐えること」と見えます。だから生まれたことの目的は、学んで苦に耐えること、あるいは苦に勝利するためです。このように考えれば少し簡単になります。私たちは苦に勝利するために生まれたのは本当か、自分で考えて見なければなりません。

 どなたもあれこれ書いてある言葉、あれこれ述べてある言葉を鵜呑みに信じないでください。私たちはいったい何のために生まれたのか。そして自然にあり、自然に存在し、自然に成り行き、誰も強制できないのはいったい何なのか。つまり身体・心・命・仕事を休まず管理する義務を負わなければなりません。このようではないですか。そしてそれは幸福でしょうか、苦でしょうか。もし幸福なら、それ自体が幸福で、何もする必要はありません。しかし苦のために生まれたなら、何としてもその苦に勝利しなければならない問題があります。


 どうか「苦から逃げる」という言葉を使わないでください。苦から逃げるというのは、苦に勝利するのと同じでないからです。滅苦という言葉も使わない方が良いです。滅苦という言葉を使うなら、正しく説明しなければなりません。苦から逃げる話は、話す必要はないと言うことです。それはすべて誤りです。苦から逃げるために宗教があるのは、最高に愚かで騙されやすい話です。あるいは出家も、家から出て出家するのも、苦から逃げるためではありません。これは苦から逃げるためではありません。

 それは勝手に言っている言葉で、最高に誤りです。正しくは「苦に勝利するため」でなければなりません。滅苦のためと話すのは、あまり正しくありません。あるいは半分正しく、半分は間違いです。私たちは苦労して滅苦に専念する必要はありません。滅苦だけに専念してどうします。私たちには、それ(苦)に手を出させない何らかの方法があり、それを苦に勝利すると言います。私たちは生・老・病・死・何でも、意味を無くしてしまいます。

 それはそれ自体の成り行きにすれば、私たちに手出しができません。ね、このように理解すれば、私たちは苦に勝利するために生まれたと言います。苦から逃げる必要はありません。そして苦労して滅苦をする必要もありません。「短い棒で大便を拭う」と言うように、混乱するだけ、汚れるだけ、不潔なだけです。苦も同じで、それに触れません。それに勝利する一枚上の賢い方法があれば十分です。


 次に、勝利できない物質面の苦は、どんな種類があるか、という問題があります。物質面というのは、銀があり、金があり、権力福運、そして物質があり、物質的発展があり、物質的知識があり、お金がたくさんあり、財産がたくさんあり、権力福運がたくさんあり、あらゆる道具まであることを意味します。まだこのような物質面の威力で勝利できない苦にはどんな種類があるか、続けて考えて見ます。

 結局私たちは、自分のこと、つまり加工する「俺、俺の物」ばかり考えることから生じる苦は、物では解決できず、勝利できないと分かります。それです、それが物質を加工するから、あるいは物質がその威力下に落ち、それによって作られるからです。だから物質がたくさんあっても、どんなに権力があっても、この種の苦を解決できません。

 だからもっと良い、もっと素晴らしい物に依存しなければなりません。それがダンマです。ダンマはここに現れます。ダンマが私たちの利益のために訪れる機会がここにあります。だから私たちは、物質で解決できない苦に勝つ道具として、ここでダンマを迎えます。

 先生のみなさん。私たちは今話している道具があるかどうか、考えて見てください。あるいは勉強している、行動している、学んでいる、望んでいる物は、物質の範囲から出たでしょうか。あるいはまだ物質の輪の中に落ちていて、まだ物質面に酔う話でしょうか。もしそうなら、まだダンマではありません。私たちはそれより上にいなければなりません。物質より上にある心、感覚がなければなりません。そうすればダンマで、日常生活の厄介な問題である物質を管理できます。

 日常生活の厄介な問題はありません。あるいは複雑困難な問題である日常生活はありません。すべては物質に関わる物ばかり、これらの困難はダンマから、あるいは心の面の話であるダンマの側の話からは生じません。しかし心が物質の奴隷に落ちれば物質の奴隷になり、自由がなくなり、物質も日常生活で心の問題を創ります。私たちはどのように解決しますか。もっと上の物、つまり物質の威力を覆うことができるダンマがなければなりません。

 これです。私たちは物質では勝利できない、もう一つの形式の苦に遭遇します。しかし物質より上の威力がある物、つまり多くの人が名前を出すのを好まない心の面、あるいは精神面のダンマで勝利しなければなりません。このようなら、ダンマは日常生活にとって最高に必要という意味です。


 これから見ていくべき問題は、そのような時、「何が、人間が毎日得るべき最高に善いものか」です。それは物質面の話、あるいは生涯、最高に善い物として得るべきは心の面の話。一体どちらでしょう。これは、仏教では向こう側を嫌い、こちら側を一方的に愛すほど多くしません。そのようにすれば中道でなく、マッジマパティパダー(中道)でないからです。私たちは何も嫌わず、何も迷って愛しませんが、何でも管理する知性があります。物質については、使わなければならず、常に関わらなければなりませんが、知性で関ります。あるいはそれを管理できるダンマでします。だから新しい物が来ても管理され、良く管理される物で、私たちの支配下にある物質です。

 ナーマダンマ、あるいは心の面の話は、中間にある十分なだけ正しい知識である点だけを明示します。ある人たちが身体を消滅させてしまい、心だけ残すと考えるほど多くしません。それは邪見の一つで、苦行耽溺、身体の破壊、あるいはそれ以上です。もう一つ心がなく、あるのは身体だけの梵天の一種について述べるのもあります。

 彼らの考えは心を嫌うほど強烈で、「心があるから苦が生じる」と、心を責めます。こういうのもあります。事実はどのようか知りません。しかしこのように奇抜で変わった考えは確実にあり、考えるのが好きな人、あるいは決意して考え、そしてのべつ幕無しに強烈に考える人にあります。

 仏教は「管理した心があり、管理した物質があり、良く関連し合うよう按配、調整、創造したのが、苦でないことにふさわしい状態」という教えを遵守します。


 「人間が得るべき最高に善い物は何か」という問題を、憶えて行ってください。この問題を正しく考えれば、日常生活でダンマを使うのは最高に簡単です。しかしそれでも、物質の話と精神面、あるいは心の話に分ける必要があります。違いを見るために、そして何としtも得管理するために二つの話にします。私たちは「物質主義に迷う人たちは、物質と煩悩の言いなりになることで幸福を探す」と見えなければなりません。

 これです。私たちは今、何に幸福を探求しているでしょうか。私たちが集めようとしている、先々もたくさん集めるいろんな物質ではないでしょうか。それとも心に対する正しい行動から幸福を探求しようとしているでしょうか。そして物質に関わらないで、素晴らしい、穏やかな幸福を生じさせるでしょうか。

 「物質が豊富なら心も自然に完璧になる。物質が最高になれば心も最高に幸福になる」という原則で休まず物質面を目指せば、それはdialectic materialismであり、コミュニズムの根源であり心臓部であると知って、続けるか止めるか、自分で考えて見てください。

 心の面の幸福を探求するなら、それをマノーニヤム(精神主義)と呼びたいと思います。あるいは呼ばせていただきます。何と呼べば良いか分らないからです。進歩が速すぎる言葉の規定で、話すためだけに、取り敢えずそう呼ばせていただきます。つまり私たちが物質主義でなければ精神主義で、そして煩悩を焼き滅ぼすことで物質より上にある自由から生じる幸福を探求します。このように正反対です。

 物質主義なら、煩悩の言いなりになること、飽食することで、物質から生じる幸福を探求しなければなりません。しかし精神面の幸福を探求するのは精神主義です。そして物質より上にいる自由から生じる幸福の探求は、物資の奴隷に落ちません。煩悩を傷めつけ、煩悩を焼き炙り、煩悩を消滅させ、煩悩の言いなりになりません。このように正反対です。しかし勇気がない人がいます。勇気がないのはいろいろあり、弱さゆえ、ずっと夢見て来た、そして長くたくさん夢見て、その後も尽きることなく夢を見続けるために楽しくなれないのを恐れるからです。


 勇敢な人がいれば勇敢に考え、勇敢に思い、勇敢に決意し直します。これは少しずつなります。つまり物質に勝利する機会があります。この形で歩いてくれば、日常生活の問題はほとんど残りません。つまり残る問題はありません。すべて順調になり、この質問をたくさんするほど日常生活に生じる問題はありません。物質面のいろんな物、あるいは外部の人に関わるものは、すべて知性が望むようでなく、全部煩悩が望むようになるからと括ることができます。つまり現れて次々に主役になり。大きな役割をする煩悩があります。

 だから煩悩の望み通りに物質を手に入れようと狙うところに目的、あるいはゴールがあります。このようなら、解けないほどたくさんの日常的な問題を生じさせないことはできません。私は「解けない」という言葉を使い、それは解けないほどたくさん生じます。つまり毎日ある日常の問題が、解けないほど生じてしまいます。しかし反対なら、日常生活の問題は自然に溶けてしまいます。だから、みなさんに今最高に欠けているものは、いつでも感情である涅槃があることです。

 ゴールであり目的であり、いつでも目指している物である涅槃があることは、私たち誰にでも、今欠けています。そしてそれが毎日職務を行う中での問題を増やしています。「そんなことできっこないよー」と、内心で叫んでいる人がいるかも知れません。下品な言葉を使いましたが、それはその人の内心の本当の感覚かもしれません。すぐに見えず、そして真っ暗で、手が届かない物ばかりなので、そう叫ばなければならないかも知れません。どのように常に感情である涅槃があるようにできるでしょうか。


 誰にも欠けていると言うのは、それ自体が「誰でも物質を目指し、物質面、あるいは肉体面の幸福を目指している」と説明しています。これらの妨害が空であることを目指さず、俺、俺の物が空であることを目指さず、俺、俺の物が物質を受け取って物質の所有者になりたがり、物質や荷物を消費して使い、物質にうっとりして酔います。こういうのを、感情である物質があり、感情である涅槃がないと言います。

 感情である涅槃があれば、空・心の清潔・明るさ・静寂が感情としてあれば、妨害する物は何もなく、常に強く意図します。これを常に意図している感情である涅槃と言います。「一体どうすんだよー」と問うなら、人生にどのような状態がどうしてあるかを、人物の部分も、社会の部分も、あるいは世界の部分、世界全体、もしあればすべての世界も、「感情である物質があるからすべてが複雑困難になる」と、自分自身で明らかに見えるまで見なければなりません。

 これが感情として物質がある世界です! コミュニストも物質が感情です! 民主主義も物質が感情です! どのケースも物質が感情としてあるだけです! 涅槃が感情である人はいたことがありません。いろんな問題が至る所に生じ、道徳の問題、徳育の問題、道徳が衰退する問題、これらの物が衰退する問題まで、物質が感情であることに原因があります。

 この世界の雰囲気は、いろんな種類の物質が感情であることで曇り、そして妨害し、恒久的な危機になり、平和に遭遇したことがありません。しかし誰でも執着の害を見るだけで、心は涅槃に傾いていきます。このような言葉はブッダが話されました。私が言ったのではありません。パーリ(ブッダの言葉である経)にはっきりとあるブッダバーシタ(仏説)です。


 物質に執着する害が見えるだけで、心は自然に涅槃に傾きます。そしてそれが、感情である涅槃があることです。だから感情である涅槃が欲しければ、すごく簡単です。つまり「身勝手を感情にすること、物質の威力に落ちていることを感情にすることに原因がある」と、全体も個人も、私たちを覆う凶悪な害を見る努力をします。

 これらの問題を一度に解決するために、私たちは拠り所として物質に帰依しないで、物質を追放する物であるダンマを、帰依する物として崇拝します。霊験のあるお守りであるダンマが、物質が妨害しないよう護ります。だからダンマと呼ぶ規律、実践行動が生まれました。あるいはアリヤダンマと呼んでも良いです。アリヤダンマという一言も、最初から最後まで、涅槃まで使うことができ、世界の話から涅槃まで使えると、敢えて主張します。

 チャラとは「振る舞い」という意味で、イヤは「すべき」という意味で、チャリヤダンマは「行動すべきダンマ」という意味です。行動すべきすべての様式を、チャリヤダンマと呼びます。これについてブッダは、八支聖道、あるいは略して三学など、たくさん教えを規定されました。

 私たちが最高に聞き慣れている三学、つまり戒・サマーディ・智慧は、私たちの日常生活にどのように関わっているか熟慮して見れば、非常に簡単です。日常生活に三学と呼ぶ教えである戒・サマーディ・智慧を使えば、この問題は、はっきり見えるように非常に軽くなります。

 戒という言葉は、あまりたくさん意図しないでください。座って数えなければなりません。何項はそのよう、何項はこのようと、非常に多くするのは後世の話で、それは臼を転がして山を登るように大変です。「戒」という言葉は「善い振る舞いがある」という意味だけであるべきです。そしてすべての宗教、すべての国、すべての言語、世界のすべての文化様式で使うことができます。

 善い振る舞いがあれば戒と言います。善い振る舞いがあり、外部の行動である身体で、言葉で、自分自身も他人も困らせなければ、戒と呼びます。このような意味にすれば、戒という言葉は共通で、国際間でも、世界でも、世界全体で使うことができます。


 サマーディという言葉は、「自分の心を望むように支配できる」という定義だけであるべきです。ダンマを正しく、真直ぐに、そして十分理解するため、日常生活に十分使うために、みなさんこのような言葉の定義に関心をもってください。サマーディという言葉は、サマーディの話の本を読んで見てください。一か月読んでも終わらず、結局、何かわかりません。

 しかし正しい正確な内容は、それを使って何かをさせることに関して、自分自身の心を望むように支配できることです。今私たちは、自分が望むように使える心がありません。いつもそのようで、このようです。だから「できる」という言葉は、以前に基礎として話したように、カンマニヨー、「仕事をするにふさわしい」という意味がなければなりません。

 世界の人は、望むように自分の心を支配できません。善い側、善を求める側という意味ですが、悪を行う側でも、常に思い通りにできる訳ではありません。心はこのようです。だから私たちは心を望み通りに支配できる行動様式がなければなりません。心を管理して支配下におければ、どの方法で訓練しても良いです。そして思うように使えればサマーディと呼びます。だからサマーディと呼ぶものは最高に普遍的な物であるべきです。どの国、どの言語、どの宗教、どの様式の文化にも違いはなく、全部使うことができます。

 智慧という言葉は、すべての物を正しく理解するという意味と定義しなければなりません。ここでのすべての物は、関わってくる物だけです。関わらない物は問題がないので、思う必要がないからです。しかし私たちに関わる全ての物を、正しく理解しなければなりません。これが聖向聖果涅槃に到達させる仏教の智慧です。それ以上何もありません。

 だから生活に関わって来るすべての物に正しく関心を持ってください。最高に善く、人生の問題を解決できます。今私たちは、形・声・臭い・味・接触が何かを知らず、どのようか、何があるか、何のために、何によって、何から生じるかも知りません。しかし全く知らないのではなく、知っている部分が全部間違いで、正しく知らないので、知らないのと同じ価値しかありません。だから簡単に「知らない」と言います。

 物質側も心の側も、自分に関わって来る物を知ることができれば、つまり私たちに関わる物質を知り、そして私たちの心の日常に関わる考えや感覚を知れば、このような二つの種類を、「それは何か、何から生じるか、何のために、何によって」と正しく知れば、最高に智慧があると言います。だから話は同じで、智慧と呼ぶ物はどの国でも、どの言語でも、どの宗教でも、すべての様式文化でも、幾つもの世界があるならどの世界でも使える共通の物です。


 まとめると、みなさんは「戒・サマーディ・智慧は最高に普遍的で、これ以上に普遍的であるべきものは何もない」と見ることができます。ブッダは真実を知った人で、最高に知ったのは真実かどうか、自分で勘定して見てください。あるいは仏教は普遍的な宗教かどうか、仏教である戒・サマーディ・智慧を規定した時、仏教は普遍的な宗教かどうか、偏らずに、公正に判断してください。今は戒・サマーディ・智慧の三つにするだけで、拡大して八支聖道にしません。時間が足りません。

 戒、善い振る舞いがあり、サマーディ、望みどおりに心を強制でき、智慧、関わる物を正しく理解する。これは普遍的に使うことができる基礎でしょうか、あるいはどれだけ普遍的か、全部共通か、考えて見てください。だから意味を三つに分けた仏教の要旨を道具に使えれば、日常生活の問題は自然に消滅します。善い振る舞いがあり、自分の心を支配でき、関わって来る物を正しく理解する。これは基礎で、枝分かれした部分、説明の言葉は、自然に見つけることができます。

 実践行動には、どの分野にも使える三種類の基礎があります。世界で暮らすためでも、あるいは世界の上で暮らすためでも、あるいは聖向聖果涅槃に到達するため、幸運と地位階級、世界の最高の友情でも、あるいは天国でも、他の教えに依存しないで一つだけの教えに依存します。しかしみなさん、この三つは身勝手でないこと、つまり自分自身、あるいは自分の物に著しく執着しないことから生じることを忘れないでください。だから簡単に、それ自体が戒・サマーディ・智慧の状態になれます。

 誤り、あるいは正しいと規定した行動振る舞いは、何が規則としてあるか、思って見なければなりません。だから非常に複雑です。その結果、アヒルや鶏を殺して売るのは罪かという問題が生まれます。あるいはあのようにこのようにするのは、宗教の教えに反すかというような問題があります。日常生活の問題は、正しいか誤りか決断するのに使う規則によって非常に苦心します。これは実に多いです。だから心を苦しめる問題を減らすなら、正しさと誤りは二つの意味があると、分類することを知らなければなりません。つまり律の面の正誤が一つ、ダンマの面の正誤が一つです。


 今私は、ダンマの部分である道徳について話していて、律の部分ではありません。だから大部分はダンマである部分と捉えなければなりませんが、律の部分を守るのも妨害しません。ここでは指摘して明らかに見せるために、律の部分の正誤は、律を規定した人が規定したように遵守し、他の物を規則にしません。

 しかしそれでも、これらの教祖は身勝手な人ではありません。あるいは身びいき、あるいは非常に煩悩の威力下に落ちていません。サンマーサンブッダのような教祖なら、当然全く煩悩の威力下に落ちていません。だから規定なさった物はほとんどが自然と一致します。それはほとんどが社会にふさわしいです。律の面の正しさと誤りは、教祖が規定したように遵守しなければなりません。だから律と呼ぶものは、人間が作ったと、つまりman madeと見なさなければなりません。

 つまり人間が規定したので、道徳、あるいはethics、あるいはmoralは人間が作った話で、私たちはサッチャダンマ、あるいは truth と呼びません。ダンマの話である時だけ、自然が自然に、自然の法則によって作り、人間の手で、あるいは規定したものでないので、サッチャダンマ、あるいはtruthと言います。


 これです。私たちは毎日、どのように正誤と見なすかは。ある日何か問題が生じれば。オフィスの机でも、家ででも、あるいは散歩をしている時でも、生じた問題が法律の話、律の話、あるいはダンマの話か、分類することを知りなさい。伝統、習慣、法律、律の話なら、これらの何でも、法律や律に従ってしなければなりません。焦燥しないで法律を知り、律を知り、伝統習慣を知る人から学びなさい。

 次にこれらの話に関わらないダンマの話ならダンマの規則で、煩悩によって煩悩になるか、道理を学ばなければなりません。煩悩によって煩悩のためにするなら、百パーセント間違いで、とても使えません。煩悩のためにならなければ正しい側に傾き、煩悩がなければ、あるのは知性だけで他にありません。だから正しさは煩悩の威力にならないことにあります。

 つまり執着がなく、俺、俺の物という感覚がありません。これです。あの人この人に次々に質問していれば、何もする必要はありません。つまり「間違いですか、正しいですか」と質問してばかりいれば、次々にこのような日常の問題になり、何もする必要はありません。だから誤りか正しいかの話で依存する、自分で決断できる原則を持たなければなりません。


 もう一つの角度は、自然が作る、あるいは人間が作るという言葉を知らなければなりません。人間が作ったのは自然でなく、私たちはまとめてartificial(人工)と言います。つまり人間に何らかの目的、切望があり、物、あるいは何かの工程を発明します。こういうのがartificialで、これが一つです。これは自然ではありません。だから自然はどのようで、artificialはどのようか、重要な違いはどこにあるか、はっきり見なければなりません。

 簡単に理解させる例を一つ挙げると、ゴムに空気を入れて頭を支える新しい枕を「人工の枕」と言い、昔から使っているような枕を「自然の枕」と言います。薄いゴムに空気を入れた枕と昔から使っている枕はどのように違うか考えて見ます。空気の枕は、低すぎても二つ重ねることができず、ちょっと移動させると落下します。一つだけ支えてもズレてばかりで、時にはちょっと間違って身体を動かすだけで、飛び出して逃げてしまい、大笑いします。このような枕は人工です。

 このような状態は、私たちが普通に、一般に使っている枕には生じません。本当は自然に従う、自然になる、私たちの古い道徳制度があるべきで、人工の物を新しい道徳にしてはいけないと考えて見ます。それは西洋式で、どの国のどの様式でも構いませんが、彼らに憧れて崇拝しないでください。ダンマの範囲でない、いずれかの側に落ちます。それは西洋文化に溺れるからです。彼らが怒っても恐れません。そして彼らを罵りません。彼らは本当にそのようだからです。


 迷って西洋の文化様式を好むことは、彼らの国に生じて片付けられないほど混乱しているように、道徳、徳育面、あるいは道徳の問題をたくさん生じさせます。それで道徳を改革して、戒の第三項目である不邪淫戒は、世界になくても良くなります。事実、本当にそのようです。私たちはそのようにできません。私たちがそのようにすれば、彼らが遭遇しているように、日常生活の問題がどっと生じて片付け切れません。私たちには敬愛する物である仏教があります! 

 敬愛するという言葉を使います。そしてすべての種類の庇護があると理解してください。何としても維持しなければなりません。私たちにそのような規則があるだけで、向こうの人にどっと生じる日常生活の問題がありません。

 私たちはどの様式の日常生活にするか、しっかり決意してください。つまり私たちに元からある様式か。それとも新しい彼らの様式か。どちらの様式を日常の生活様式にしますか。新しい様式ですか。これは厄介な問題を生じさせ、大々的にセミナーや論説、あるいはこの話の講義がなければなりません。


 戻って日常生活の問題の細々した種類について考えて見ます。基礎の問題ではありません。すべての階層の人の日常生活にふさわしいダンマがあるには、自分はどのような状態か、自分自身を知らなければなりません。私は、「一般的な基礎で述べれば、道徳は一つの系統しかなく、すべての人、すべての年齢、すべての国、すべての階層に使うことができる」と述べました。しかしその人だけ、その時だけの末端の問題になったら、その人、その種類を熟慮しなければなりません。

 いつも低い階層・中間層・高い階層の人がいると聞いているように、身分は当然低い人・中間の人・高い人がいるのを避けることはできません。仏教には身分がないと誤解する人がいますが、このように話すのは間違った話になります。仏教に身分がないのは、「生れによる仮定の規定での身分はない」という意味です。

 どんな階層の両親から生まれても、子はそのような階層でなければならない、例えばクシャトリヤ、バラモン、スードラ、バイシャと規定し、どの階層の親から生まれても、子はその階層でなければならない。それがヒンドゥー式の身分です。あるいはある時代のバラモン式です。このような身分は、仏教には本当にありません。そして絶対に認めません。しかしカンマによって生じる、つまりその人自身のカンマによる低い階層・中間層・高い階層という身分は、仏教には目一杯あります。

 「カンマン スッテー ヴィバチャティ」というように、ブッダは「カンマは動物を分ける物」と言われました。行動は動物を、善人、悪人、悪が多い、悪が少ない、非常に善い、少し善いと分ける物で、低い層、中間層、高い層と述べることができます。


 低い層は苦が多く、あるいは煩悩が多く、悪が多いです。中間層は軽くなり、高い層はほとんどないか、ありません。このようです。これをカンマによる、あるいは行動による身分と言います。こういうのは仏教にあります。私たちは全部に等しい教育を施すことはできません。食べ物、住まい、生活を平等にすることはできません。それは確実です。カンマは人を分ける物で、私たちが分けるのではありません。つまり人間の行動が、人間を分類してこのような身分にします。

 このようなら、カンマを段階的に分けて規定しなければなりません。非常に疲れなければならない教育が少ない下層の人に、簡単にダンマを教え、簡単に理解させ、すぐに理解させ、そして生き地獄に落ちたような苦になることなく、実践に使うことができます。舟の船頭、サムロー(三輪自転車)を漕ぐ人などの階層は、彼らの心を潤してダンマの方を好ませるため、そして苦を感じる必要がなく、心の幸福があるために、何らかのダンマを欲しがります。

 そうでなければ、彼らは最高に苦です。我慢できなければ正しい職業を選ぶことを止め、正しくない職業を営み、社会にとって危険になるに違いありません。だからこのような話には、ダンマがなければなりません。例えば誰にとっても最高に必要な「知足」などを、彼らに与えます。


 中間層の人も高い層の人も、均衡に応じて知足と呼ぶダンマを使わなければなりません。しかし解決する、あるいは他の方法で出口を見つける十分な智慧があるので、彼らのための他のダンマがあります。

 次に年齢を基準にするなら、幼児・大きな子供・若者・家長主婦などの年齢、そして年寄がいて、こういうのは更に違いがあります。世界を見た、あるいは世界の経験が比較にならないほど多くあるからです。だから私たちは年齢にふさわしく受け入れられる、理解できるダンマがなければなりません。これはアッタカターの中で「口が小さな子供に、無理に大きな飯の塊を入れようとすれば、全部零れてしまう。時には子供にとって危険なこともある。目に入り、鼻に入るなどするので、それは誤りである」と言っています。

 だからダンマは一つの系統、つまり「身勝手でないことしかない」といつも私が述べている、子供によく考えさせる、子供のためのダンマがなければなりません。自分に執着しないことは一本だけ、一つだけの系統であるのは事実ですが、例えば弟妹に嫉妬しない、友達に嫉妬しないなどから、それなりに寛容な振る舞いを知ることまで、子供にあるべき身勝手でないことまで、年齢にふさわしく噛み砕いて与えることができます。

 若い人は新しい問題があります。肉体面のいろんな腺が十分成長すると、当然自然に問題が生じるので、止まるに十分な力、いろんな感覚の噴出を支配下にあるように管理する十分な力がある、何らかのダンマがなければなりません。さもなければ、確実に望ましくないカンマを作らなければなりません。


 次に家長・主婦になると、年がら年中野良で鋤を引く牛のようにたくさん責務があるので、最高に重いです。自分自身のことだけでなく、子や孫・ひ孫・使用人・家族・係累、上は王族から下は下僕までたくさんあるので、特に忍耐がなければなりません。同時にこれらの抑圧を排出する知性がなければなりません。そうでなければ狂って死にます。ダンマはこの話に十分なだけあります。

 年寄はこの世界の仕事を終え、サンカーラ(行)が滅亡する日を待っていて、呆けてしまうことが多いですが、それでもボケを防止する種類のダンマがあります。定期的にサマーディバーヴァナーの実践をしていれば、ボケの症状が生じて子や孫に笑われません。しかし特にこの段階では、呆けないだけでなく完璧な自覚があり、しっかりした知性があり、死を嘲笑して笑って迎えられます。あるいは岸に打ち寄せる波の状態で死が打ち寄せるように、死に挑戦できます。つまり死がありません。

 執着しない話のダンマを良く知る人は、「私、私のもの」である感覚が終わるので、死の影響は何もありません。それらはこのように空っぽです。これは、死と呼ぶものと遭遇する準備がある年寄の日常生活の問題です。本当は死でも何でもなく、それは蘊の、四界の、六処の、自然の変化にすぎません。このように知れば死はありません。死は空で、死ぬ人も空です。


 する仕事について見ると、職業を営む、結果を受け取る、そして結果を消費する段階のしている仕事があります。私たちを束縛している義務について言えば、人に雇われた義務、あるいは誰かに雇われた義務があると見えます。私たちは人の面倒を見る人、あるいは人に面倒を見られる人に見えます。

 現状について言えば、非常に疲労困憊していて、倦怠することもあり、病気になることもあり、ほとんど死にそうに感じることもあります。これが今ある、今現れている状態です。関わって来るダンマがなければ、全部生き地獄に落ちる話です。「生き地獄」という言葉を使わなければなりません。多少下品ですが、ご勘弁ください。しかしそれは地獄と同じ意味の苦に耐えることに注目しています。

 このように仕事に飽き、仕事に疲れることは、この部分を解決するダンマがなければ本当に疲れ、そして本当に倦怠し、本当にやっていられません。そしていろんな病気は、山のように大きな危険になります。しかし仏教の正しい手法のダンマがあれば、この世界に疲れはなく、倦怠もなく、病気もなく、述べたように死もありません。

 身体的な肉の部分はどのようか、精神面の心の部分はどのようか、それはどのように関わるか、分類することを知らなければなりません。分類でき、そしてどの部分も「俺、俺の物」と見なさなければ、これらはありません。つまり疲労や倦怠は、感覚の中にありません。身体の疲れは、眠ってしまえば起きた時は消えてしまい、心の面はダンマがあり、それは疲れを知りません。

 正しい知性があれば、倦怠を感じる必要はありません。何にも倦怠を知る必要はありません。倦怠で心を煩わして何になるでしょう。放っておくか、空でいましょう。それが最高の知性です。

 病気は十分賢ければ、怖いより、むしろ滑稽です。しかし私たちが笑えないのは、ダンマの面の知識が十分でないからです。しかし自然の本物は、私たちを笑わす以上にするダンマを与えてくれます。


 時々話している問題、例えば政府が最高に望む節約の問題、発展の問題などについて、私は「ダンマの助けに依存しなければ、成す術はない」と主張します。あるのはパクチーを振り掛ける(表面を飾るという意味)だけ、あるいは喜劇を演じるだけで、何の利益もありません。「俺、俺の物」を管理できなければ、節約も何もできる方法はありません。この機会に節約しても、他に大きな欠陥があるのでポタポタと漏れ、節約できる方法はありません。特に肉体面は惑溺陶酔を生じさせてしまい、誰も妨害しなければ、ぽたぽたと漏れます。

 だから「何が何か、何が誤りで何が正しいか、何が善で何が偽りか、何が本当で何が本当でないか、何が本当の真実で何が真実でないか、を教える十分なダンマがなければなりません。そうすれば自分を管理でき、いろんなものを正しく見て、そしてそれを管理でき、本当の節約、本当の発展を生じさせることができます。そうすれば本当の節約です。この形の本当の発展は最高に楽しいです。私は「最高に楽しい」という言葉を使います。

 これは冗談ではありません。見たように、そして道理があるように話します。このように短い時間で証明できないだけです。しかし戻って「心が空なら仕事は楽しく、仕事をするのが楽しく、いろんな義務や責務は幸福で、心がぎゅうぎゅう詰めなら、職務やいろんな責務は生き地獄で、最高に苦がある」と、同じ原則を使います。

 最初に日に、「この道は、一人の人物が一つの目的地を目指して歩くための一本道」と述べたのを忘れないでください。それは自分が空になるためのダンマで、何でもいろいろ細かいダンマに分けられるダンマ以外にありません。私たちは、最初に自分に執着してはなりません。そうすれば罪を恥じることができ、罪を恐れることができ、戒を維持することができ、堪忍、あるいは知足があり、あるいは望み通り何でもあります。


 最後に私たちは、私が「日常生活は、それはどのようか、そしてどのように正しいか、どのような道徳の本物かと以前に詳しく述べた、八聖道の教えで正しく暮らさなければならない」と、常に主張している物になりました。

 正しい見解があれば、正しい見解の子供、正しい見解の若者、正しい見解の家長、正しい見解の年寄り、全部このような形になります。つまり全部を護る道具である正しい見解があります。このようなら、私たちには正しい見解の使用人がいて、正しい見解の主人がいて、正しい見解の偉い人がいて、正しい見解の小物がいて、正しい見解の国の統治者がいて、正しい見解の国民等々がいます。

 精霊、あるいは氏神様、土地の庇護者がいても正しい見解にして、誤った見解にしないでください。何でも正しい見解にしてください。中間層の人・下層・上層の人、何でも全部等しく、正しい見解と呼ぶものの中にいてください。そしてこの正しい見解は、当面の問題解決を助け、家族の問題、世帯の問題、下方の問題、市場の問題、事務所での問題、何かいろいろな問題、何でも正しい見解と呼ぶもので解決できます

 だからブッダは「サンマーディッティ サマーダーナー サッバン ドゥッカン ウパッチャ=正しい見解ですべての苦から脱すことができる」と言われていると、私が述べたのを忘れないでください。正しい見解はすべての道徳の先導者、引っ張る人、すべての道徳の最高の原因で、正しい望み、正しい言葉等々、他の七つの正しさを生じさせることができ、最高に完ぺきに成り行かせる原因だからです。

 そしてその正しい見解は学校で学ぶことなく、あるいはナックタム(比丘の資格試験)の学校へ入る必要もなく、その話だけ、その時だけ、その人だけの些細なダンマのどの項目も、最高に理解させる原因です。お願いするのは、正しい見解があることだけです。


 その正しい見解は、ほとんど観察から生じます。休みなく熟慮していれば、正しい見解を知ります。そして正しい見解は年齢が増える分だけ、毎日増えます。だから子供が若者になり、次第に大きくなった時、正しい見解が来られないと言うほど思い上がって自分を忘れないでください。それは、誤った見解が雪崩れ込んでくるので、正しい見解が入って来られません。このように誤った見解が溢れているのは、最高に驚愕する、最高に哀れなことと見なします。

 これは正しい見解に善い種、善い種子を作らせる両親の話、それから先生の話です。善く育て、そして時間と共に、あるいは子供から若者、家長、年寄と段階的に成長する心の発展に伴って、いつでも本質である正しい見解があるからです。それです、保護、防止する物を生じさせるのは。あるいは日常の問題に発展を創るのは、


 次に、正しい見解に関わる日常生活のための重要なダンマの例を、一つ挙げてお見せします。最初にサンドーサ(知足)です。知足は挫けさせる物とか、停止させる物とか、発展を引き止める物などと最高に誤解されています。それは他の種類の知足で、ブッダの知足ではありません。その知足が発展を妨げるなら、むしろ無明の、痴の。あるいは魔王の知足、何らかの無明の悪霊の知足です。

 ブッダのサンドーサ(知足)は、本当の発展を創る最高の道具でなければなりません。ブッダは「サンドーサは最高に必要な物」と言われています。つまり知足は最高の財産です。知足は命を養う最高の食糧です。つまり最高の財産であり、最高の食糧です。

 サンドーサという言葉は、「ある物で満足する」という意味です。つまり文字通りに訳すと、「サ」はある、「トゥッティ」は喜びという意味で、サンドーサは「ある物で喜ぶ人」という意味です。この言葉は「何があっても喜んでしまい、そして座って喜んでいて、立ってどこへも行かない」と、説明を間違わせるのは事実です。こういうのは別の話です。

 本当は、ブッダはいつでもその人が満足する物がある人でいるために、「ある物で満足する」、あるいは「し終わって、その人物が満足するもの」を意味しました。だから今知足を、西洋人はcontentment(満足) と訳します。先生のみなさんは、これが何を意味するか、きっと良く理解しています。直接述べるより例を挙げる方が良いです。


 花瓶に花を挿すためにバラの木を植えるようなのは、土を用意するだけで知足、つまり土を用意し終わったと満足し、苗を植えたら、苗を植えたと喜ばなければならないのと同じです。そして水を撒き、水を撒いたと喜び、そして九日、十日、二十日、一か月でも、間もなく花が咲く! 花が近づいている!と毎日満足が増え、バラの花が咲く日まで満足が増えるので、最高に喜びます。このようです。

 反対に知足がなければ、土を用意しただけではまだ真っ暗で、満足はありません。時には腹を立てて立ち上がり、良く育てて水をやり、何でも良くする興味をなくしてしまう原因になります。土を用意した最初からサンドーサがないからです。あるいは植えた日に枯れることもあります。誰かこのようにしたことがあるか、考えて見てください。それは知足を知らないからです。しかし面白い話もあります。仕事の話をする方が良いです。

 次に、雨や陽射しにさらされて仕事をしている農家は、畑で何百回、何千回、何万回か分からないほどスコップで土を掘り返さなければ終わりません。農家は貧困で、土を掘り返す度に知足がなければなりません。土を掘り返す度に「一回終わった」と満足し、あるいは満足して明るく笑い、土を掘り返している間中、冗談が言えます。

 彼の心は空で、知性があり、満足があり、俺、俺の物という感覚でてんてこ舞いしません。一日、一月、一年耕しても苦はなく、そして耕している時から、まだ稲を植えてないのに豊かに感じます。ブッダは「サヌトゥッティー パラマン ダナン」、知足は最高の財産と言われました。それはこういう意味です。


 農民について話す必要はありませんが、舟の船頭、サムロー(三輪自転車)の運転手について話して見ます。もし彼らに知足がなければ、その職業に倦怠し、不正な職業に就いて社会を苦しめ、神経の病気になり始めます。心が苦に耐えすぎるからです。そうでなければ心の病気で死にます。彼らが危機を脱せるのは、本物の知足と呼ぶ物の威力です。しかしこの名前のダンマは誰も振り向く人がなく、誰も名誉を与えず、反対に知足を敵と見る人もいるように、薄幸不運です。

 ブッダの本当の知足は、人間にとって最高の友です。そしてみなさんは日常生活で最高に使わなければなりません。事務員でも管理職でも、行動したことに満足しなければなりません。そうすれば勤勉に働き、怠けず、そしてイライラしません。満足があれば失敗しても、知足はいつでも涵養する物です。何か失敗したら、「これも善い先生」と、知足で満足しなければなりません。残念がらず、秘密にして隠さず、隠れないで、他の不正をしないで、失敗は正解より善い先生と見て、喜んで公開します。

 正しさは迂闊さを生じさせるだけですが、失敗は大いに注意深い観察を生じさせます。だから失敗も、罰を受けることも喜ぶべきです。恩恵を与える物だからです。こういうのは私たちを正直で誠実にし、紳士か何かいろいろにします。生じている、その時ある、あるいはその時経過している物に満足する(知足)威力だからです。これです。みなさん、この一項目のダンマを使えるだけで、満足という言葉にふさわしい爽やかさがあり、心を爽快に、世界を爽快に涵養します。


 知足がない労働者は「カンマは動物を分離させ格差を生じさせる物」と信じないで、資本家の物を奪おうとします。ね。どう感じますか。こういうのは善いですか。今日の世界の唯一の大きな問題である、資本家を倒す労働者主義が生じる原因は、どうでしょうか。それは正しい知足でないことから生じないでしょうか。だから知足がまだ世界を護っていれば、世界の人に「自分はどのようでなければならないか」をカンマが分ける知足があれば、このような主義は生じられません。だから述べたような「カンマン サッテー ヴィバチャティ」という言葉を、忘れてはなりません。

 いろんなダンマの話、特に知足の話の正しい見解を理解すれば、それ一項だけで日常生活の問題をほとんどすべて解決できるので、あと何十項、何百項、何千項のダンマについて話す必要はありません。八万四千あると言われているのは、八万四千項目という意味です。しかし選ぶためにあります。一項だけ、一種類だけで、最高に正しくすれば、述べたように最高の利益があります。


 だから私たちが知足を正しく理解すれば、功徳が生じるとまとめさせていただきます。

1.悪を成さないよう防止し、狂って死なないよう防止する原因。
2.仕事を終わらせる原因で、そうでなければ仕事は十分成功しない。
3.お金持ちになり、幸福を感じ、いつでも仕事を楽しくする原因。

 これです。あと何が要るでしょう。それは悪行を棄てさせ、狂わせず、仕事を成功させ、そしていつでも豊かさと幸福を感じさせるほどです。この項目は、先生のみなさんが持ち帰って考え、そして特別に関心を持つことを望みます。関心を持ち、そしてダンマを日常生活に使わないのは、みなさんが何も知らないことにあるのでなく、この話を聞いたことがないことにあるのでもありません。

 しかしみなさんが、知足を社会の害と理解するように、この話を別の形、間違った意味で聞くことにあります。知足は社会の発展の害になるという理解は、間違った理解です。そして迷って間違えば、誰にも助けられない話で、ブッダも助けられません。そのように話しておかれなかったからです。

 他のダンマはたくさんあり、特にサッチャ、ダマ、カンティ、チャーガ(誠実・訓練・堪忍・犠牲)、合わせて「在家のダンマ」と呼ぶものは、人生の問題何でも、どんな種類でも、最高に素晴らしく解決します。しかし今日は、講義する十分な時間がありません。


 次は、聞くと途端に眠くたくなる「無常・苦・無我」の話で、三相は、もっと利益があると主張させていただきます。しかし説明して明らかにする時間がないので、他の日にさせていただきます。あるいは三相と呼ぶ代わりに、私がエカラックと勝手に名付けた一つのダンマでも良いです。つまり一つだけの状態しかないスンニャター、空です。このダンマは、俺、俺の物という感覚がない心があることで、基礎も末端も、問題を全部解決できるダンマです。

 要するに、正しい生活をすれば、戒・サマーディ・完璧な智慧があり、いろんなダンマを正しく理解し、すべての問題を解決できる唯一のダンマを持つことができます。最後には鋭い考えの方へ引き寄せ、いろんなものを理解します。この項目のダンマ一本だけ、一つの系統だけ、一人の人物だけが歩いて行く一つだけの目的がある、というほど深くなります。みなさんは、「なぜ私たちは、人間も一人だけ、宗教も一つだけ、人間の目的も一つだけと、真実のままに見ないのだろう」と考えないのでしょうか!

 すべての人間は一人しかいないと言うのは、すべての動物を苦に耐えなければならない角度で見れば、すべて同じという意味です。つまり全部、貪りと怒りと迷いに抑圧されているのも同じ、人生を生き地獄にする俺、俺の物があるのも同じです。だから私たちは、一人の人間のように愛し合わなければなりません。これは簡単に慈悲を生じさせる原因です。

 みなさんが弟子である生徒に対して、あるいは隣人に対してでも、誰にでも怒りっぽければ、この項目を思い出してください。あの方は私、私はあの方。つまり同じ人です。意味は何でも同じです。仮定の面、あるいはパラマッタ(第一義)の面を見ても、どこまでも一人です。世俗の面、ローキヤの面でも、生老病死の友という立場で見ることができるので、全部同じです。世界、あるいはどの世界も人間は一人しかいないと見るので、愛し合います。世界全体の人を一人にできるように、このように多くの慈しみがあります。


 すべての宗教は一つだけと言うのは、どの宗教も「俺、俺のもの」という感覚をなくすことを目指しているという意味です。低い些細な項目、あるいは宗教のゴミに注目しないで、宗教の本物に注目してください。そうすれば、すべては俺、俺の物という物を消滅させることを目指している一つの点を発見します。彼らがそのようにする結果を、他の種類の自我、永遠で純潔なアートマンと規定しても気にしません。彼らがそのように呼びたがるのは彼らの勝手です。

 しかし、そのようであることに到達させるために彼らが教える項目は、すべて肉の面の幸福だけを考えることを止めるよう教えます。肉の段階、あるいは危険な物質の段階の身勝手を先に消滅させ、それから高い心の面の話に傾け、俺、俺のものの感覚を終わらせます。残さない、あるいは現わさないでも良いです。これです。私たちには一つの宗教しかありません。そして目的はこのようで、混乱なく暮らし、空だけ、あるいは清潔・明るさ、静かさがあります。

 日常生活の問題、一般的基礎的な問題は、このような教えがあります。述べたような概要を明らかに理解してください。そうすればダンマ、あるいはアリヤダンマを日常生活の問題に使える方法を理解したと言います。

 英語を勉強するなど何かの知識を学ぶように、私たちは自分で学べるようになるまで、先生から学ばなければなりません。それから自分で学ぶことができます。私が講義した話も同じで、みなさんは自分で学ぶことができ、自分で研究し、自分で整理できます。そうすれば確実に自分で実施できます。

 時間になりましたので、これで今日の講義を終わらせていただきます。



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