6.道徳の本物





1962年1月17日


 先生のみなさん。第六回目の講義は「道徳の本物」と題してお話しします。ここでは「八支がある道」と呼ぶ聞き慣れた物の名を挙げさせていただきます。

 道という言葉は、四聖諦という四つの物の最後のものです。四聖諦は苦が一つ、苦を生じさせる原因が一つ、苦の絶滅の状態が一つ、そして滅苦に至るための実践方法で、道(マッガ)と呼びます。道は道徳の本物と述べたのは、すべての理由が揃っているからです。道徳(チャリヤダンマ)という言葉の意味を、綴りを基準にすれば、行動すべきダンマという意味です。チャラは振る舞いという意味「べき」という意味がある接尾辞で、チャリヤは振舞うべきという意味になり、チャリヤダンマは「行動すべきもの」という意味です。

 すべての行動すべきものの中で、滅苦になる行動以上のものは何もありません。滅苦は高くも、中程度にも、低くも拡大することができます。道徳がどのレベルにあっても、行動すべきという物に含まれなければなりません。つまり歩くべき道です。これは、ダンマと呼ぶ物について述べた、初回の講義を思い出すべきです。

 一般にダンマという言葉は「物」という意味だけです。すべての物はダンマで、物質も、心も、行動も、そして行動の結果も意味し、すべてをダンマ、あるいは物と呼びます。私たちはダンマ、あるいはこれを二種類に分類し、大きな原則ではダンマは目指す結果で、これが一つ。そしてもう一つのダンマは原因、その結果を得る道具です。だからここで私たちがチャリヤダンマと呼ぶもの、あるいは仏教で道と呼ぶものも、原因であり道具であるダンマです。

 仏教の本物、あるいは仏教の実践のすべてである道(マッガ)という言葉に関心を持ってください。マッガは道という意味で、重要な言葉に根源があります。普通の人が話す場合は、普通に足で歩く道、道路です。これを道、あるいはパーリ語でマッガと言います。心の面の話である宗教体系ができると、高いダンマの境地に進歩させる心の実践法が発見され、苦より上にいるので、道、あるいは街道という言葉を借りて、すべての実践体系を短く「道」と呼びました。

 「道」という言葉は、それ自体に善い意味があります。誰でも知っているので、聞いて意味が分かります。歩く道と言えばなお簡単に分かり、心の面は、多少教育を受けなければなりません。ここに高齢の方もたくさんいるので、死が近づくと、道を教える人がいるのを見たことがある人が何人もいるでしょう。あるいは望んでしまうかもしれません。

 死が近くなると、死んで行く人に道を思わせる伝統習慣があり、時には「オラハン」と言い、つまり阿羅漢について言及します。時には天国で弥勒菩薩を拝めと教えるなど、それらを彼らは「道を教える」と言います。これはすっかり廃れてしまいました。本当の道を教えるのは、ダンマはこのような系統があり、このような方法があると思わせ、何としても思い出させ、常に心にあるよう、そしてその感覚で心を消滅させるよう忠告します。それが「道を教える」という意味です。

 その後まで残ったのは、「阿羅漢」と家中に轟くほど叫ぶ伝統だけです。死に瀕している人は耳も聞こえないので、滑稽な儀式です。良い規則は、この理由で戒禁取に使われました。良い規則は、その人にまだ思い起こすサティがあれば、近い親戚、あるいはその中の重要な人がいろんなダンマを思い出すよう教え、最も短いのはボケないよう、病気に動揺しないよう心を堅固にする道具を持たせます。良い規則は、このように喧しく叫ぶ儀式になりました。道という言葉は、これほど最高に望むものです。


 マッガ、あるいはここでの道は、精神面、あるいは心の面を意図し、物質であるアスファルトやコンクリートで舗装した道ではありません。それは物質面、あるいはルーパダンマ(物質)の道ですが、私たちが宗教面で述べるのは精神面の道です。中には「何でもかんでも精神面、何でもかんでも精神で、最高に煩わしい」と、内心で私を怒鳴りつけている方がおられるかも知れません、もしそのようなら、先生のみなさん、精神面についてだけ煩く話すことで、何としても精神面を明らかに理解してくださいとお願いする必要が最高にあると、主張させていただきます。

 これは、先生は精神面の案内人、精神面の道案内をするガイドから始まっています。先生が精神面、あるいは精神が歩くためにある道を知らなければ、案内人になれません。だから心の面、あるいは精神という言葉にたくさん関心を持つべきです。本当は先生という施設(インドの言葉では人物も施設と言う)も、精神の側、あるいは精神面です。

 先生の本当の施設は、姿形、建物、場所、あるいはビル、あるいは人物にも注目するべきではありません。心の面、精神面の施設で、世界も含め、世界の心や精神を引いて高くするために世界の中にあります。精神面の神聖な施設で、世界の動物を管理し、世界の動物を導きます。先生の施設を、建物、あるいは先生の集団、あるいは先生の仕事と見ないでください。心の深奥部の先生であることのspiritsを見てください。

 先生の心は、「割いて取り出せば、慈しみと智慧が並んで寝ていなければならない。それ以上のものはない」ほど慈悲に満ちた精神があります。お金を稼ぐ心、あるいは雇用者より有利になる心はありません。

 それは雇われ人の心にある雇われ人の状態で、割いて見ればそのような物しか見えず、慈しみと智慧が並んで寝ているのは見えません。あるのは身勝手で、雇用者より有利になる考えだけで、いらいらそわそわしています。これは雇われ人の要旨です。先生の心には二つの物、智慧と慈しみが、述べたように並んで寝ています。それが、ナーマダンマ(抽象物)の側の先生の施設です。


 いずれにしても精神について話したのだから、この機会に婚姻・結婚ついても身体面でなく、精神面の結婚があると話させていただきます。ソムロット(婚姻)という言葉は、同じ味があるという意味です。サマは同じという意味で、ロサは味で、ソムロットは同じ味があるという意味です。つまり同じような趣味、好みがあるので、すべての方法が一致し、同じ理想のために犠牲にし、一緒に死ぬ心があります。

 しかし肉は一致したことがなく、触れ合ったことがなくても、こういうのも精神面の結婚と言うことができます。あるいは三蔵などたくさんの教典、テキストを勉強した古いアーチャンは、ワーニーという名の天女と結婚するようアドバイスしました。つまり三蔵を学ぶ比丘は、ワーニーという名前の天女と結婚するようアドバイスしました。天女は三蔵です。これは次の詩の言葉です。


 ムニンダワダナムブチャ         ガッバサムバヴァスンダリー
 パーニーナン サラナン ワーニー  マユハン ピーナヤタン マナン


 これはワーニーという名の天女、あるいは三蔵と結婚させる詩で、内容は「美しい天女は、蓮華の中に生まれ」、つまりブッダの言葉に生まれ、「ムニーの髷がある人は、世界のすべての動物の拠り所。私の心を虜にしなさい」という意味です。だから三蔵は、たとえどれほど膨大な量でも、虜になることで学ぶことができます。これも、精神面の結婚です。

 もっと良くするなら、スンニャター娘と結婚してしまうと述べたいと思います。スンニャターとは、最初から述べているように、「煩悩がない、苦がない状態」という意味です。eternityである状態があり、つまり常に現在で、時によって変化せず、永遠にあります。これを心で正しい実践で理解すれば、これに首丈になるので、スンニャター娘と結婚すると言います。

 なぜ娘と呼ぶのでしょうか。それは老いないからです。eternityというものは、当然次々に現在で、老いません。老いないのは、生まれることも死ぬこともなく、変化せず、いつでも最高に健康だからです。だから「スンニャター娘」と呼ぶにふさわしいです。娘であることから変化しない娘なので、爽やかで明るく、常に苦がありません。これを言い回しで「スンニャター娘と結婚する」と言います。精神面の結婚であり、最高に幸福をもたらす物との結婚です。

 このような話し言葉は、言葉遊びになり、あるいは何等かの深い真実を表す言い回しになるので、自分で考えて見てください。正しい方法で考えれば簡単に、何もかも精神面になるという言葉の意味を発見します。だから精神面の食べ物があり、精神面の治療薬があり、精神面の衣服があり、精神面の住まいがあり、精神面の生き方があってください。


 精神面の食べ物とは、毎日食べるご飯とおかずを意味せず、心が食べるご飯、つまり心が食べるにふさわしいダンマです。しかしそれでも、心が食べたがる何らかの分野の道徳から脱しません。食べると心が清潔で明るく静かになるので、精神面の食べ物と言います。

 精神面の治療薬も同じです。私たちは一種の精神面、心の面の病気があります。つまり貪り・怒り・迷いが、病気が肉を突き刺すように心を突き刺します。体の病気は体の薬で治し、精神の病気は精神面で解決しなければなりません。だから私たちは、精神の病気にならない人は誰もいないと、熟慮して見なければなりません。

 精神面の衣服も同じです。衣服は身体を包みますが、ダンマは心を包み、ダンマがない人は、裸の人と同じで、何枚も衣服を重ね着していても裸の人です。だから路上で裸の人が群れになっているのを、つまりダンマのない人を見ることができます。一方ダンマのある人、あるいは服を着ている人は家の中に隠れていて、あまり出ようとしません。路傍にいる裸の人と押し合いたくないからです。これが精神面の衣服です。

 精神面の住まいは、心の住まいであるダンマがあるという意味で、梵天たちはブラフマヴィハーラ(梵精舎)である慈・悲・喜・捨に住み、ブッダ、あるいは阿羅漢方はスンニャターヴィハーラ(空精舎)、つまり空に住み、俺、俺の物がありません。これが精神面の住まいです。

 精神的に生きるというのはダンマで生きるという意味で、庶民のように家で生きるのではありません。食べて、寝て、眠って、誰でもしているようなのは、それは身体の話です。先生のみなさん。精神面という言葉の意味を、最後の日まで、日を追うごとに理解してください。

 最高のダンマは、述べたようなスンニャター、空です。ブッダと阿羅漢方は空に住み、身勝手がありません。まったく身勝手でありません。スンニャター、あるいは空の価値はこのようにたくさんあり、最高に関心を持たれるべきです。すべての問題を解決できるからです。


 死刑執行人が人を殺すのは罪でなく、兵士が自分の義務を行い、銃を撃つのは罪でなく、裁判官が死刑判決を出すのは罪である必要がないのは、空、自我のない空を見る高いダンマの威力だからです。自分のことだけを考えず、死刑執行人がダンマだけを考えて純粋な心で死刑を執行するのは、ダンマが基礎になければなりません。

 その人が執行するのは、ダンマが世界から消えないようにするためです。その人の意図がこのように純粋に経過すれば、罪ではありません。バカみたいな執行人が酒に酔って行って、思いあがって自分のことしか考えないでその職務をすれば、罪でなければならないのは当たり前です。

 兵士も同じで、世界の公正を護ることだけを目指す心で銃の引き金を引き、誰のことも考えません。自分のことも考えず、自分の国のことも考えません。誰の顔も見ず、世界の公正のだけを考え、自分が無く、あるのはこのように純粋なダンマだけなら、その人は罪である必要はありません。銃を撃つこと、そして人を死なすことは、このように純粋な意図だからです。

 訴訟をまっすぐに裁定する裁判官は、誰かに死刑を命じる判決を言い渡さなければならなくても、世界の公正を保護する純粋な意図でし、自分のことを考えず、どのグループも考えず、どの民族も考えず、ダンマだけを考え、介入してくる「俺」も誰もなければ、それゆえに罪ではありません。

 これは精神の側の成り行きに関する知識で、身体の側よりも繊細で深遠です。正しい実践に使えば、いろんな物は問題が無くなり、そして苦もありません。だから心、あるいは精神面に、もっと関心を持つよう提案します。

 もう一度言うと、心の面、最高度の精神面のダンマはそのような空の話で、私たちを運より上、カンマより上にいさせます。これは小さなことではありません。持ち帰って考えて見てください。たくさん説明しなければならないことがあり、時間が十分ありません。しかし運勢を信じる人がいるなら、占い師を訪ねて占い師がどのように不運かを告げても、それらの不運より上にいたければ、スンニャター(空)の話を正しく、愚かでなく学ばなければなりません。そうすれば運より上に心があり、精神がある人になり、運勢は何もできません。

 運ばかり言わないでください。カンマも善いカンマ、厳格で正確確実な悪いカンマ、そして三番目のカンマがあります。これから述べるブッダが行動するよう教えた八聖道は、善いカンマ、悪いカンマより上に、あるいは世界全体より上にいさせます。三番目のカンマと呼ぶものは、善いカンマ、悪いカンマの終わりです。それはすべての物より上にあり、笑うより上、泣くより上、人間に今ある何より上です。

 あるいは梵天界を揺り動かして破壊することもできます。人間が最高と見なす物すべての中で最高であり、最高に安定している梵天界と呼ぶ状態以外に何もないように見えますが、スンニャターの話に触れると、梵天界も瓦解します。深い面の精神面の話はこのように多いです。だからみなさん、心の面、精神面の話を聞くこと、あるいは考えることに、すぐにうんざりしないでください。


 今私は、「道」、あるいは「精神面の道」の話について述べます。

 マッガという言葉は道という意味です。道とは歩く道で、体で歩いても心で歩いても良いですが、ここでは心で歩くことを意味します。この道という言葉は非常に神聖です。自分の施設を創れるくらい神聖です。素晴らしく高尚なすべての宗教には、道という言葉がなければなりません。そして道という言葉を使うのが宗教の本物です。私たちの仏教には八正道という言葉があり、それは宗教の本物です。

 しかし時にはボロマチャンと呼び、あるいは他の名前で呼ぶこともあります。八正道はボロマチャンである宗教の実践です。このように呼ぶのもありますが、道という言葉が基本です。ブッダはマッジマパティパダー(中道)という言葉を使い、パティパダーは道という意味で、マッガも道という意味で、真ん中の道が仏教です。だからこの道という言葉を、ブッダ以前から宗教として使うことができました。この言葉の重さにふさわしく、そして自然にそうなる言葉だからです。

 中国の古い宗教であるタオ(道教)のタオは道という意味です。この言葉は訳語として使い、仏教のダンマという言葉は、仏教が初期の中国に行った時、彼らは道(タオ)という言葉をダンマという言葉の訳語にしました。そしてタオは道と訳しました。道教を創った人は老子という名前で、老子以前の誰でも、道という言葉の意味が見えました。


 ペルシャの古い宗教であるゾロアスター教は仏教より古いですが、道という言葉があり、宗教のダンマを意味します。

 キリスト教などの新しい宗教を見ても、道という言葉があります。イエスが「私こそが道です」と述べるなどは、イエスを通じて天国の神様を理解できるという意味です。その中にこのように重要な意味があります。だから「どの宗教でも神聖な言葉として使われている」と言うことができます。つまり直接でなければ間接的に見ることができます。だから私は、道という言葉は自分のための施設を創れるほど神聖と述べます。

 明らかで神聖な道であり、流れであり、誰も変えることはできません。このようにある教えは自然の威力によって不動であり、誰が知っても知らなくても、歩いても歩かなくても、その道はあります。しかし誰も歩かなくても道を責めることはできません。歩かない人を責めなければなりません。ね、道と呼ぶものは身を立てられるほど、自分を高めて施設にできるほど神聖です。


 次は八支聖道(八正道。八聖道)という言葉になりました。アッタンギカは、八支があるという意味で、オンガとはfactor、あるいはfoldという言葉に相当します。だから道は、間違ってがさつに言うような八本ではありません。どこでも八マッガと話すのは、事実と違います。マッガと名がつけば「一つだけの目的に歩いて行く、一人だけのための、一本だけの道」と前に話したように、一本だけでなければなりません。

 このように「だけ」が三つあり、一本だけ、一人だけ、一つの目的だけです。八本の道、あるいは八マッガ、あるいはそのような物と話さないでください。それは哀れな間違いです。八支というのは、聞いたことがあるような正しい見解・正しい考え・正しい発言・正しい行動・正しい正業・正しい努力・正しい想起・正しい専心の八つの正しさです。八つの正しさが集まるから、一本の道になります。

 これを比較するために、良い教育があること、つまり特に道徳教育が学生にとって本当に利益があるには、少なくとも三つがなければならないと思って見てください。つまり善い先生、善い環境、善い試験の、三つの善い物は教育の利益、あるいは道徳の訓練を生じさせます。

 善い先生がなければなりません。善い先生とは善い振る舞いの先生という意味です。先生の振る舞いが悪かったら、生徒に教えても、幾ら生徒を脅しても、言うことを聞きません。先生自身の振る舞いが悪く、自分を手本にしないからです。知識が多くても行いが善くない先生は、教える利益がありません。生徒が尊敬せず、言うことを聞かないからです。だから善い知識があり、行いも善い先生でなければなりません。これが一つです。

 善い環境がある。これは子供の両親が善人で、善い学校があり、良い用具、道具があるなどを善い環境と言います。

 善い教え方があるとは、教えるのに賢く、子供の心を本当に導きます。三つの善いがあり、少なくとも三つが揃えば、誰かが「あと幾つあれば」と言っても勝手ですが、私はこの三つを挙げるだけで十分と見ます。そして道として利益があります。つまり三つが揃うことで成功する善い道を歩けます。子供が道に沿って目的地まで正しく歩く精神があるのは、その教え方が善いからです。


 しかしここで、ブッダは何よりも善い先生に注目したと言わせていただきたいと思います。善い先生であるだけで、すべてを善くできるからです。つまり環境を善くでき、簡単に教え方を善くできるからです。どうぞ一度、善いだけの先生になってください。  

 プラアーナンダがブッダに自分の考えを、「友達、あるいは善友がいることは人間の成功の五割」と申し上げると、ブッダは「そうではない。十割です。善友は人が望みを成功させる十割です」と言われました。これは、本当の善友なら、原因としても道具としても、当然全部成功させられるからです。ダンマの方では、先生を「善友」と呼ぶと理解してください。

 例えば念処を教えるアーチャンも、彼らは善友と呼び、先生、あるいはアーチャンと呼びません。これは一般の人には深すぎる理由があります。そしてそれ以上に、ブッダは八支聖道を善友と呼んでしまっているのもあります。

 次に、このたくさんの物を集めてどのように一つにできるかに関心を持ってください。直接物質面の例を挙げれば、八本撚りの縄は八本撚り合わせて一本で、八本の縄と言いません。だからこれからは八道と呼ばないで、八支聖道と呼んでください。そして一本の道です。あるいはその一本の道は、少なくとも八つの重要な要素がなければなりません。アスファルトで舗装した道しかないのはダメです。

 その道は悪人、虎、ライオンなどから守らなければなりません。その道は道中で買って食べられる食べ物、木陰、橋、その他、旅に必要な物がなければなりません。そうすればその道は利益があり、幾つの要素でも合わせて一本の道にできます。仏教でマッガ、あるいは道と呼ぶものは、私が明示したような八つに分類できます。


 この機会にもう少し話させていただきます。仏教のライバルである宗教、ジャイナ教には三支があります。三支とは、正しい信仰が一つ、正しい知識が一つ、そして正しいカンマ、あるいは正しい行いが一つで、合わせて三支です。彼らは合わせてマッガ、あるいは道と呼びます。私たちは分類して話して聞かせたように八つもあります。聞いて見るとあちらは恰好が良く、正しい信仰、正しい知識、正しい行いで十分です。

 この三つは八つに、あるいは幾つにも拡大でき、仏教のようにもできます。しかし違っているのは、ジャイナ教は目的に到達したら、ケーヴァラヤと呼ぶ永遠の自分があります。タイ語ではカイワンと呼びます。私たちはカイワンをすべてと訳します。ここでのカイワンは、ジャイナ教の最終目的であり、変化しない大きな自我です。私たちの涅槃に相当しますが、意味は違います。だからすべての道は頂点である目的があり、涅槃でも、あるいはカイワンでも、あるいは何でも規定次第です。

 シッダッタ王子が城から出て出家になった時、模索していろんな施設を訪ねてジャイナ教の弟子になったのは、当時ジャイナ教が広まっていたからと知っておいてください。三蔵の中を調べて見ると、十四以上の経で、「ブッダが大悟する前、ジャイナ教の施設で学んだ」と説かれています。つまり私たちがディアラティー・ニグロンダと呼ぶ教えです。当時この教義は他のどれよりも善く、パーラスワナーラダという名の教祖が、ブッダの約二百年前に教えました。

 その教祖が死んでも、まだ教えは教えられていました。ブッダも行って教育を受け、そしてたくさんの実践を極限まで試して、そして放棄して離れました。その教義に以前からあったいろんな言葉を借りて、例えば「阿羅漢」「マッガ」等々、普通の言葉である同じ言葉を新しい意味にしました。以前からある意味に賛成しなかったからです。だから涅槃という言葉を自我にする、あるいは永遠のカイワンにすることはできません。

 だからこのようにスンニャター(空)である意味がなければなりません。だからいろんな教えが非常に似ていて、混同されました。理解しておいて、この話で混乱するほどうっかりしないでください。特に八支聖道という言葉にはどんな意味あるかについてです。そして八本撚って一本にした縄は、利益があるように八支あります。あるいは善い先生、善い環境、善い教え方、合わせて三つは一本の道、一つだけの道で、このように私たちの子供が歩く利益があります。


 正しい、あるいはサンマーという言葉について話します。マッガの一つ一つの項目にはサンマーという言葉があり、正しいという意味で、常に先導しています。つまりサンマーディッティ=正しい見解、サンマーサンカッポー=正しい考え、サンマーワーチャー=正しい発言、サンマーカンマントー=正しい行い、サンマーアーチオー=正しい命、サンマーワーヤーモー=正しい努力、サンマーサティ=正しい心の想起、サンマーサマーディ=正しい心の安定で、サンマーがあると見ることができ、全部で八つのサンマー、つまり八つの正しさです。

 八つの正しさのうち、体の面、言葉の面の正しさもあり、正しい発言、正しい仕事、そして正しい職業で、心の面の正しさもあり、思い出すサティの正しさがあり、専心の正しさがあり、努力の正しさがあると、はっきり見ることができます。見解、あるいは知性の正しさもあり、正しい見解、正しい考えです。だからフィジカルも正しく、メンタルも正しく、スピリチュアルも正しいと言うことができます。

 だからこれらを、戒・サマーディ・智慧に分類できます。全部を網羅する正しさで、何も漏らさない点に関心を持ってください。身体面も正しく、心の面も正しく、spiritual面、これはなんと訳したら良いか確信がないので精神面と訳して、これも正しく、全部正しいです。はっきり見るなら混ぜこせにしないて、このように観察して見てください。

 身体面、話すことの面の正しさは身体と発言を善く維持し、心の面の正しさは心を善く維持し、目・耳・鼻・舌・体の面の感情を受け取るのは、負けないで、勝利する状態で心を正しく維持します。心の深奥部であるspiritual面の正しさは、ディッティ(見解)、考え、見方、知識、信仰、正しい道理があるという意味で、高く、深い部分です。

 だから正しく、欠陥のある部分は何もないという意味です。それが、ブッダが八正道に使われたサンマーという言葉です。だからサンマーマッガは正しい道で、対であるミッチャーマッガ、誤った道と反対です。つまりすべてが反対です。これを、マッガの一つ一つの正しさと言います。詳細はどのようか、これから話します。ここではまとめた意味である種類をまとめて述べました。


 八支がある道は正しい道。これはみなさん理解しました。しかしまだ「アリヤ」という言葉があり、更に素晴らしく、「アリヤマッガ」としっかり管理します。つまりアリヤである、素晴らしい道という意味です。アリヤという言葉は、素晴らしいという意味で、よくnoble あるいはholy と訳されます。そのようでも良いです。

 しかし文字の意味は、アッタカターチャンは好んで「敵から行く」と訳しています。アリは敵、ヤは行く、アリヤは敵から行くという意味です。敵とは苦で、敵から行くのはアリヤです。アリヤマッガは敵から行く道です。次に私たちは、敵から行くことができるから素晴らしく、nobleで、hollyになると、妥協することができます。ね、述べたように八支があるアリヤマッガと言います。

 マッガ、あるいは仏教の道と呼ぶ物は広く使うことができ、世俗の話にも、ダンマの話にも使えます。現代人は哀れで、宗教は世界の発展の凶悪な障害と理解している人がいます。その人は宗教、特に仏教を最高に偽りの言葉で誤認していて、これに匹敵する偽りの言葉はありません。みんなで助け合って、「その人は同等の物がないような言葉で仏教を誤認して話す人」と、遍く通告してください。つまり「仏教のダンマは国の発展を妨害する、世界の発展を妨害する」と、このように述べる人です。

 時には、その人は国を幸福にし、国民が穏やかに幸福に暮らせるようにする担当者であることもあり、人がダンマや宗教に関わらないように防止する努力をします。宗教が国民を怠惰にするのを恐れて、自分を国の発展の重りにします。これは最高に誤りで、ほんの僅かも事実と一致しません。

 ダンマは当然、世界の側とダンマの側、どの側のためにもあります。どうぞ正しく使ってください。今簡潔に話せば、八支があるマッガは涅槃へ行く道で、それを使って世界の、現生の、生きているうちに見る国の発展を創ることもできます。学んで良く理解してください。正しい見方、正しい理解、正しい望み、正しい物言い、正しい仕事、正しい生業、正しい生き方、正しい努力、正しいサティの維持、正しいサマーディ。これらは何も、私たちの国、あるいは世界の発展を創る妨害をしません。

 この言葉には広い意味があり、ふさわしいどの場合にも使うことができます。障害になるのは悪の方だけです。善い方、正しい方は、妨害になる機会はありません。だから仏教の教えでは、八支聖道を二種類に分けます。ローキヤダンマ(俗世)が一つ、ロークッタラダンマ(脱世間)が一つです。


 ローキヤとロークッタラの二語は、ローキヤは凡夫の行動、ロークッタラは聖人の行動と、狭い意味と見なされがちです。あるいはもう一つは、ローキヤはまだくるくると翻り、ロークッタラは断固としている。こういうのもあります。しかし私はもっと広く捉えるようお願いします。例えば八支聖道の場合は、これから詳しく指摘してお見せします。

 ローキヤマッガは世界の領域の利益になり、ロークッタラマッガは、聖向聖果涅槃に到達することを意味し、世界の領域より上にいる利益のためになります。世界の領域にいるというのは、人間の財産、天国の財産というような、ダンマである状態の良い暮らしですが、まだ世界の領域です。そのような暮らし、あるいは世界に満足する心があるからです。だから時には泣かなければならないのは当たり前です。

 過ちをしなくても、悪を行わなくても。泣かなければならないのは当たり前です。天国でも泣くことはあります。このように理解してください。それは世界の領域にあるから、まだ貪り・怒り・迷いの威力の下にあるからです。間違いをしなくても悪を行わなくても、すべての善を行っても、死が訪れるなど、いろんなことが思い通りに運ばない時は、泣かなければなりません。こういうのは、その人は善人で、世俗の領域の幸福があるという意味です。これを人間の財産、天国の財産と言います。

 ロークッタラマッガは涅槃へ導きます。つまり泣かなければならないこと、あるいは今後も笑うことより上に心があり、この世界のいろんな物を見ても、子供の玩具のように見えます。すべてに俺、俺の物がない心があるので、最高に自由な心、空と同じ物になります。つまり変化せず、時間、あるいは原因にも縁にも左右されません。このように最高です。しかし実践では、述べたような八支がある同じ形の聖道を使います。このようなら、マッガのどの支も、ローキヤとロークッタラに分けることができます。


 一番目は、ローキヤとロークッタラに分けられた正しい見解です。どのように違うか、指摘して見せます。

 サンマーディッティ、見解・信仰・ローキヤである正しい理解のある人は、「善行善果、悪行悪果はある。両親はいる。先生はいる。地獄天国はあり、自分で生まれた畜生もいる」という信仰がある系統があります。このように信じ、このように見、このように理解すれば、ローキヤであるだけで、正しい見解と言います。

 「善がある、悪がある、徳がある、罪がある」というのは、その人は、善行は善、悪行は悪と信じて言います。善を行うと、行った時から善だからです。その行動は全部善だからです。悪行も同じで、悪を行った途端に悪です。その行いを悪と規定しているからです。そして行動すれば悪にならなければなりません。これは副産物を基準にしないでください。例えば副産物であるお金、名声は基準きませんが、一つの基準になります。

 悪行で得たお金は悪のお金でなければなりません。善行から得たお金は善いお金で、悪の金は主人を悪人にし、食べたり使ったりすれば、血肉を悪霊にします。善の金は、食べたり使ったりすれば、正常な幸福にします。だから善人にします。名声も同じで、悪行から生じた偽の名声は、その人を悪霊にし、善行から生じた善い名声は、その人を本当の善人にします。これらの物は副産物で、カンマそのものではありません。

 カンマそのものは、善行は善、悪行は悪、そして行動した時に完結します。その行動を善、あるいは悪と規定したからです。福産物は善も悪もついてきます。善い金もあり、悪の金もあり、善い名声もあり、悪の名声もあります。だから、死ぬほど善行をしてもお金を得ず、名声も得ないと理解しないでください。それはまだ得る時でないからで、後で得ることもあります。時には、裏で悪行をして金持ちになり、名声を得る人もいると考えてしまいます。

 本当は、悪行は悪でなければならず、その人は悪でなければなりません。得たお金は悪の金で、名声も偽の名声で、自分自身を悪霊にし、人間にしません。それで自分と妻子を養えば、家族全員悪霊になります。このような正しい見解を、善の話、悪の話、徳の話、罪の話のサンマーディッティ、と言います。


 「両親はいる、先生はいる」という正しい見解は、邪見の人たちは、親を親と認めないという意味です。彼らは「両親は個人の幸福、楽しさに依存したのであり、私を産むつもりはなかった」と捉え、親と見なしません。そして先生がいると捉えず、雇われて教える人物、雇われ人です。そして彼らはウッパーティカ(突然別の物に生まれる動物)がいると信じません。つまり死んでから天人になり、地獄の動物になります。それ(ウッパーティカ)は、彼らに見えないからです。

 ここに座っている人でも、地獄の動物のように考えると地獄の動物に生まれ、天人のように考えると天人になり、強盗のように考えると強盗になり、紳士のように考えると紳士になると見えないからです。ここで一瞬考えるだけでそれに生まれ、これに生まれ、いろいろに生まれます。これがウッパーティカです、正しい見解は「両親はいる、先生はいる、そしてこのようなウッパーティカもいる」と認めます。

 そして彼らが悪に生まれるのを恐れることが、地獄は本当にあり、天国は本当にあると信じさせます。地獄に生まれるのも本当にあり、天国に生まれるのも本当にある。これだけでもローキヤサンマーディッティと呼ぶに十分なだけ人を善くし、善にし、勤勉にし、善に本気になり、何をすべきか、何をすべきでないか知る智慧があります。どの面の発展も妨害するものではありません。

 しかしこれだけの正しい見解は、まだ感情より上、世界より上、生老病死の締め付けより上にいさせることはできません。だから善人だけでは、まだ善人のような泣くことがあるのは当たり前です。これは、「徳のある人は徳のある人の苦、罪のある人は罪のある人の苦がある。富豪ももう一種類の、富豪式の苦があり、乞食のようなのではない」と、このように深遠に話させます。あるいは国王である人も、もう一種類の国王の苦があり、国民の様式とは違います。

 こういうのを「まだ苦から脱せない」と言います。どの様式も己の様式の苦があります。しかし全部まとめると、生老病死の問題による苦があるから、あるいは断固として自然は誰の味方もしないからです。その規則がどのようにあっても、そのようになります。だからローキヤサンマーディッティ(世俗の正しい見解)の威力だけでは、すべての苦を滅すには足らないので、ロークッタラの種類のサンマーディッティがなければなりません。


 次に、高いロークッタラのサンマーディッティは、四聖諦を知ります。つまり苦はどのようか、苦を生じさせる原因はどのようか、涅槃である苦の滅尽はどのようか、マッガである涅槃のための実践項目はどのようか、正しく知ることです。これです。それは高い、あるいはすべての苦を網羅するほど広いです。このように知れば、完全に苦を消滅させることができます。

 もう一つ、ロークッタラの正しい見解は三番目のカンマの知識があります。つまりロークッタラの種類の八支聖道のカンマで、実践すれば、心を俺、俺の物という執着から解脱させ、その後は一番二番のカンマである善いカンマ、悪いカンマに執着しません。つまり心は善悪に執着する感覚より上にある自由な心で、すべてのカンマの上にあります。こういうのを三番目のカンマと言います。

 もう一つは縁起の話を、「すべての物は依存し合って生じ、そのように経過する」と知っています。依存し合って生じ、縁起の話で一本に繋がった鎖のようになり、誰の助けを借りる必要もなく、神聖な天人、あるいは神聖な神様の助けも必要ありません。因縁の威力に依存するだけで、あるいはそれ自体の理由の威力でいろんなものが生じ、そして経過します。これを縁起の話を知ると言います。

 しかし最後には、三相の話を知らなければなりません。三相とは、すべてのサンカーラ(行)は、無常であり、苦であり、無我である状態です。あるいは「サッペー ダンメー ナーラン アビニヴェサーヤ」、すべての物は、私、私の物と執着すべきものは何もない」とまとめます。

 すべてを「ロークッタラの正しい見解」と言います。つまりロークッタラである段階の正しい見方で、世界(俗世)の領域より上にいさせ、世界のいろんな変化は、その人物を驚愕させません。その人は世界の動揺より上にいますが、世界のどんな種類の発展を創ることにとっても障害ではありません。その種の執着がない心の持ち主であることは、空の心がある功徳について述べたように、何でも間違わずにできるようにさせ、前回の講義で述べたように、何でも上手にできます。

 ロークッタラの種類のサンマーディッティ(正しい見解)は、直接聖向聖果涅槃に到達する目的があり、世界の領域より上に心があり、世俗の領域になるローキヤの正しい見解のようではありません。だから正しい見解は、ローキヤとロークッタラに分けなければなりません。


 次はサンマーサンカッポーで、正しい熟考、思いも同じで、正しい世界の話を思えば世界の正しい熟考と言います。涅槃、あるいは世界を超えるために思えば、ロークッタラの正しい熟考です。

 サンマーヴァーチャー、正しい発言は、正しい世俗の話をすれば、世界の領域の正しい発言、ローキヤである正しい発言で、脱世間、脱世界の話をすれば、ロークッタラの正しい発言です。

 サンマーカンマントー、正しい行動も、同じ規則があります。ブッダは不殺生・不偸盗・不邪淫を避けると分類しています。私はもう一つ奇妙な通告をする項目があります。八正道について述べているブッダバーシタ(仏説)であるパーリ(ブッダの言葉である経)の中で、正しい行動について述べた時、比丘に対して話しているのに殺生・偸盗・邪淫に分け、三番目をアブラフマチャリヤー(不品行)に変えていません。これは不思議でしょうか。つまり在家の戒の話を在家に話すのと同じです。だからみなさんは、不邪淫という言葉を良く理解しなければなりません。

 不殺生という言葉は話す必要はありません。良く知っているように、俺、俺の物だけ考える意図で他の動物の体と命に危害を与え、苦しめることを意味します。不偸盗も同じで、俺、俺の物とだけ考えて他人の物を盗ってはいけません。しかし不邪淫になると、ほとんどの人は、色恋関係の振る舞いだけを意味すると誤解してしまうので、子供はこの項目を守らなくても良くなります。幼児園児のような幼い子供は、恋愛はできないからです。


 私は、この項目は、「カーメース ミッチャーチャーラー(邪淫)とは、すべての愛している物に間違った振る舞いをするという意味」と、文字通りに正しく訳さなければならないと強く主張しています。「ス」は、すべてという意味の語尾変化、複数形で、カーメースはすべての愛欲、つまり「すべての愛欲する物」という意味で、ミッチャーチャーラーは「誤った振る舞い」という意味です。

 そうです、すべての色恋の振る舞いは誤った愛欲の振る舞いで、愛欲する物の一つであることは確かです。しかし他人の愛する物に間違った振る舞いをする子供など、例えば一人の子供が人形をとても愛していて、もう一人がそれを汚せば、あるいは奪って遊べば持ち主を傷つけるなど、こういうのも、この項目の道徳に百パーセント反します。だから先生は小さな子供に、三番目の戒を維持することを知るよう説明しなければなりません。

 「まだ若者になっていない子供は、この戒を守る必要はない」と理解しないでください。私がこのように説明すると、智者の中には「バカみたいな説明。自分で勝手にこのように説明している」とラジオで文句を言う人がいます。しかし私は、もう一度主張します。カーメース ミッチャーチャーラーはこのように訳さなければなりません。このような意味でなければなりません。このようにお願いします。

 他人が愛している物に、いずれかの状態の間違った振る舞いをした人は誰でも、三番目の戒の間違った振る舞いと言います。この話は殺すのと違い、私たちはその人を殺しません。そして他人の物を盗むのとも違います。話はその人を悔しがらせ、あるいは愛している物に関わる話で損害を与えます。

 「カーマ」という言葉は愛、あるいはすべての愛している物を欲しがるという意味なので、絶対に侵害行為をしないでください。一人の人が新車を買って自分の車を愛していると、ガサツな人が汚したり傷つけたりしても、他の戒に触れないのは事実ですが、三番目の戒に少なからず触れます。だから助け合ってこの項目の戒を守れば、この世界はもっと清潔になります。


 このような戒の話はローキヤになるか、あるいはロークッタラか、続けて聞いてください。ローキヤと名がつけば何でも、当然指しゃぶりしている子、あるいは歩き方を教える子供の段階であり、考えなければならず、決まった規則に沿った意図でしなければなりません。深い部分の感覚の本物はまだ知らず、まだ理解せず、まだ明らかでないので、意図してしなければなりません。例えば戒を守るには、お寺の僧に「持戒します」と宣誓し、自分を束縛しておいて、それから維持する決意をします。

 しかし蚊を叩くこともあり、一時あの人この人より有利に振舞うこともあり、一時他人が愛している物を失敬することもあります。この戒はこのようにでこぼこで、欠けや窪みがあり、染みだらけで、このように死ぬまで維持しても、一度も純潔であったことがなく、聖人が満足するアリヤカンタシーラではありません。これがローキヤ式で、意図、注意深く努力する意図に依存しなければなりません。

 しかし、ロークッタラの戒なら、雲の上です。こういう言葉を使わせていただきます。多少汚くても、時間の節約のためにご勘弁ください。これは、空の話を学ぶからです。つまり何も「俺、俺の物」と執着する物がありません。心が俺、俺の物という執着のない空なら、誰かの物を盗れません。誰も殺せません。誰かが愛している物を犯せません。だからいつでもどこでも、あるいは一呼吸ごとに、純潔な戒になってしまいます。

 ロークッタラである戒はこのようです。その人の心は、世界を子供の玩具と見てしまうので、心が世界の領域より上にあるからです。だから人を殺す、他人の物を盗む、人が愛している物を侵犯する意図がある心は、どこにもありません。聖人が喜ぶ戒で、アリヤカンタシーラと言い、聖向聖果、本当の結果に到達する基礎である種類の戒です。ローキヤの戒は七転八倒して、死ぬまで維持しても純潔になることはありません。これは世界の人の話、何もそれ以上に善くできない種類の世俗の人の話です。

 私たちの先生は知識者層で、当然知性があり、空の話を聞いて何とか理解できる能力があります。だから関心を持ってください、損はありません。遊びのように簡単に戒を維持できます。それに清浄な戒で、聖人が喜ぶものです。内部で厳格に禁止し、外部で禁止する必要がないからです。煩悩が外部まで突出すれば殺し、盗み、いつでも何か有利になろうとします。これは堪りません。敵いません。

 だから常にローキヤ(世俗)の戒があっても利益がなく、ぼんやりすれば刑務所で、鉄格子の中で暮らさなければなりません。それは休みなく噴出する機会を待っているからです。しかし内部の元を断ってしまえば、つまりロークッタラの側に傾けることができた戒なら快適です。どんなに戒を維持しても煩わしくなく、困窮せず、やりすぎと感じず、混乱しません。百項の戒を規定しても守ることができます。それは一つだけ、つまり「俺、俺の物」の話を維持するだけだからです。


 サンマーアーチヴォー、正しい職業については、ほとんど説明する必要はありません。在家がどのような職業を持ち、出家はどのような職業を持つか理解しているからです。そしてブッダもどのような職業があったか、それはいろいろ述べることができます。私たちは通常汗を流す職業があり、普通の人のようにします。そのようにしなくても良い人は知性による職業があり、知性で仕事をします。それがダンマに反さないようお願いするだけです。それより高い阿羅漢、聖人などは、先生方と同じように貸しのある職業があります。

 私は、理想の先生と宣誓する理想の先生を意味し、阿羅漢、あるいは聖人と同じ理想があれば、貸がある職業があります。貸がある職業があることを、彼らはサーミボリポーガと言います。サーミとは旦那、あるいは恩人という意味で、ボリポーガとは食べる、消費するという意味で、旦那、あるいは貸し主のように消費します。つまりみなさんが他人にしたことは、その人にとって返せないほどたくさんの価値があります。彼らは最高に借りがあるので、自分に返せるだけ、少しずつ返さなければなりません。

 阿羅漢、あるいはブッダは、世界の動物にとって数え切れないほどたくさんの恩があり、そして世界の動物は小さく分けて返せるだけ返すので、衣食住薬の四依の消費は、貸がある人のように消費します。これです、貸がある職業は。よく聞いてください。第一回、第二回、第三回の講義で話したように、理想がある先生はゾクゾクさせると聞きましたが、それは先生の理想を完璧にするため、先生を尊敬するべき人物にするためです。だから借のある人になります。

 そして残る一つは世界の動物、あるいは世界の人は、少しずつ返さなければなりません。だから不思議な職業の一つです。それは尊敬するべき人物であり、雇われた人ではありません。このようにいろんな職業の例を挙げたのは、職業にはいろいろあると理解するためです。方法を間違わないでください。そうすれば全部正しい職業になります。

 しかし出家者の誰か一人が出家者の義務をしなければ、途端に貸し手である職業は終わり、借りている人の職業になります。仕事がご飯の価値に見合わなければ罪で、誰も例外なく地獄に落ちます。庶民だけでなく、出家も同じ規則の中にいます。


 サンマーヴァーヤーモーは正しい努力という意味です。教えでは誤らせない、悪にさせない努力、そして誤りである物、悪である物を捨ててしまう努力、これを一つの対と規定しています。もう一つの対は正しくし善くする努力、そして正しく善い物を維持して発展させる努力、これが一つの対で、合わせて二対です。これが努力と呼ぶ物のすべて細目です。述べた教えが、どうして国家を発展させない障害、敵になるか、考えて見てください。

 出家なら、出家式の努力がなければなりません。混同しないでください。庶民なら庶民の努力をしなければなりません。そしてそれは全部、八支聖道の範囲内にあります。


 サンマーサティ(正しいサティ)は、感情や世界が動揺させ、変化させ、グラグラガタガタしないよう心を維持できるという意味です。唆して惑溺させる物は何もないという意味です。私たちの心は何かに引っ張られれば維持できなくなり、低い方へ落ちるだけだからです。だからサティは、何が何かを知る中で完璧に維持しなければなりません。そして体勢を崩さずに維持できます。

 目に形が入っても、耳に声が入っても、あるいは鼻に臭いが入っても、あるいは何がどこに入っても、何が何かを知る完璧な自覚がなければなりません。最高に正しく言えば、何にも「俺、俺の物」と執着しません。これをサンマーサティ、最高に正しいサティと言います。もう一つの名前は「不注意でない」と言います。このようなサティがあれば不注意でないことがあり、不注意でなく暮らすと言います。バランスを崩して維持できなければ、サティがない人、不注意な人と言います。


 サンマーサマーディ、正しいサマーディ(専心)は正しく心を安定させます。正しいという言葉は、パーリ語ではカンマニヤと説明します。カンマニヤとは「行動、仕事にふさわしい」という意味です。サマーディの状態がある心は、「パリスットー、サマーヒトー、カンマニヨー」の状態があります。パリストーは純潔清浄という意味で、サマーヒトーは盤石という意味で、カンマニヨーは仕事にふさわしいという意味です。

 カンマニヨーという言葉の意味を仕事にふさわしいと捉えるのは、重要な教えです。純潔なら当然仕事にふさわしく、そしてそれが盤石なら当然仕事にふさわしいからです。だから私たちは、仕事にふさわしいという言葉一語を教えにすれば十分です。

 いつでも心が盤石としていれば、考え、思い、決断、検討、いろんな問題を洞察するにふさわしく、それを、「心はカンマニヨーの状態がある」と言います。それです、本当のサマーディという言葉の意味は。熟慮して見て、アクティブという言葉と一致すれば、カンマニヨーはアクティブに相当します。慌てふためいて駆け回りません。そうではなく、正しい仕事をするに敏捷なことです。

 そして世界の話でも、あるいはダンマの話でも、この種の心を欲しがらない人がいるか、考えて見てください。正しいサマーディなら、森や洞窟の中で座って体を固くして何もしないのではありません。そういうのではありません。これは勝手に言っています。ブッダは言っていません。ブッダのサンマーサマーディはボリストーは純潔、サマーヒトーは盤石、カンマニヨーはいつでも仕事にふさわしく、すべての場面に使うことができるという意味でなければなりません。


 八つの支は、正しい見解から正しいサマーディまで、すべてを集めて一つの話であるマッガにしました。だから涅槃へ旅する道になるのは、八つ全部が集まって一つの道になった時です。

 サンマーディッティ(正しい見解)という言葉のサンマーはrightという意味で、ディッティという言葉は、彼らはviewとか、believeとか、understandingとか訳し、全部をまとめて何と訳すか、先生のみなさん、自身で考えて見てください。サンマーディッティ=Right Understanding。

 サンマーサンカッポー、正しい考えという言葉の、サンカッポーという言葉を、彼らはaim、あるいはambitionまで強烈に訳しますが、煩悩の管理下でなく、知性の管理下になければなりません。サンマーサンカッポー=Right Aim。

 話すことを意味するヴァーチャーは、普通にspeechと訳します。正しい話すことをサンマーヴァーチャー=Right Speechと言います。

 サンマーカンマントー、正しい仕事をすることは、本当は仕事をするのでなく、行動()だけを意味します。だから彼らはカンマントーという言葉を、conductと訳します。サンマーカンマントー=Right Conduct。

 サンマーアーチヴォー、アーチヴォーという言葉は、彼らはlivelihoodと訳します。conductという言葉と、livelihoodという言葉はどのように違うか、先生方は良く知っています。だから混同することはありません。カンマントーを「仕事をする」と訳さないでください。職業をすると一緒くたになります。Conductを彼らは「体の面の振る舞い」と訳します。それは述べたように「殺さない、盗まない他人が愛している物を犯さない」原因です。サンマーアーチヴォー=Right Livelihood。

 サンマーヴァーヤーモー、「努力」という言葉は、effortです。サンマーヴァーヤーモー=Right Effort。

 サンマーサティの 「サティ」という言葉は、彼らはattentivenessと訳します。この言葉は安定を失わない感覚を維持するという意味です。サンマーサティ=Right Attentiveness。

 サマーディという言葉は、彼らはconcentrationという言葉を使います。Concentrateと呼ぶ行動は、集める、あるいはsublimate、飛び散って使い物にならない物を、最高に良い仕事に使える物にするという意味です。サンマーサマーディ=Right Concentration。

 全部を一つに集めると、素晴らしい八つの物がある道、八聖道=Noble Eightfold Pathと呼びます。


 次にこの道は、パーリの中に「すべての水にもガンガ、ヤムナー河もあり、どの川も海の方へ傾いているので、これらの河に落ちた水の雫は他へ行くすべはなく、海へ行く」というブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)があります。「如行が規定した聖道も同じで、苦の終わりである涅槃へ傾いているので、聖道の枠内に自分を追いやれる人は、臼を転がすように簡単に、つまりこの聖道の流れに乗って、簡単に滅苦に行きます」。これです。ブッダが保証なさったのは。あるいはこのように保証しています。

 「えー? 難しい、不可能だよー。そういうの、こういうのはしない」と言う人は、怠け者の、理解できない人の、自分を尊重しない人の言い訳です。他の人でないブッダの聖道なら、常に滅苦に傾いている状態があるからです。だから私たちは、最初から努力する義務があります。太鼓橋を自転車で渡ると、努力するのは最初だけで、橋の一番高い地点に至ればどんなに漕ぐのが楽か、私たちは良く知っています。だから、「ブッダの聖道は、太鼓橋の一番高い所を起点に向こう側に降りて行くよう」と理解してください。私は、「それがアリヤダンマ」と明示します。

 次に、もう一つ最高に重要な意味があります。それはサンマー=正しいという言葉の意味です。サンマー、正しいとは、まとめると正しい暮らし、正しい命があり、正しい呼吸があり、身体面、心の面、そして見解の面の正しさがあることを意味します。つまり最初に述べたようにphysical面、mentalな面、そしてspiritual面です。このような状態で正しく暮らしてください。それだけで、それ以上何もしなくても良いです。その他は「ボールは自然に転がる」ように自然に、正しい生活は世界に阿羅漢を欠けさせない状態にします。

 パーリ(ブッダの言葉である経)には、「これらの比丘が正しい生活をしていれば、世界は阿羅漢に欠けることはない」とあります。ここでの「正しい暮らし」とは八項目がある聖道、つまり八項目の正しさがある暮らしを意味します。そして私たちは、八項目のどれも不可能な話には見えません。どれも世界の発展を創ることに害や危険があると見えません。みなさんは「まあ、簡単すぎて阿羅漢になれない」と反論しますか。これは次のような秘密があります。

 私たちが虎、あるいはライオン、あるいは猛獣を捕り囲んで、猛獣もいる森全部の動物を捕り囲んでしまい、猛獣は餌を手に入れる術がなく、猛獣に餌をやらなければ、私たちがボイコットして成す術がなければ、猛獣は生きていられません。その日に死ななければ、何十日か後に死ななければなりません。空腹で、痩せて死ななければなりません。

 だから八つの角も、八つの門もこのように正しく暮らせば、本性の中の煩悩は餌を食べられません。つまりマッガの八項全部の正しさゆえに、目・耳・鼻・舌・体の面の餌が得られません。取り囲まれた虎のような状態がある煩悩は、食べ物を得られません。そして私たちは何もする必要がなく、正しく暮らすだけで、煩悩は自然に死にます。

 だからブッダは、正しい方法で暮らせば、世界に阿羅漢が欠けることはないと主張なさいました。つまり、世界に次々に阿羅漢が生まれます。しかし私たちはこれらの教えにこれほど効果があり、効能があり、偉大さがあると、十分関心がありません。これは、八項目がある聖道と呼ぶものを遊びにしてはいけないと説明する項目です。


 次に、苦の終わりに向かう道と呼ぶものはどのような方法があるか、詳しく指摘して、もっと日常にして見せたいと思います。

 これは、縁起の話について話した前回の講義の言葉を振り返って見るようお願いしなければなりません。人の心は通常、それ自体の道が一つあり、自然の煩悩の道です。つまり目・耳・鼻・舌・体・心の面に触がある時、それは触だけに止まらず、当然受に加工し、あのように、このように、満足、不満足を感じます。それが受になると、受だけに止まらず、欲に加工します。つまり感情に対して感じたように、そのように、このように欲します。良く、美しければ欲しがり、良くなければ叩き殺したくなり、欲になれば難しい話になります。

 欲しがる欲があれば、俺、あるいは自分、私、あるいは欲しがる人である我輩という感覚がなければなりません。そして欲望による我輩の物があります。だから強烈な俺、俺の物(egoism)があり、これを「取が生じた」と言います。欲望は当然取を生じさせ、取は更に完璧になります。つまり心の門から外部に現れ、はっきりした意業になり、一つの場面として見せるに十分ならバヴァ、有と言います。

 そして最高に完璧に明らかに現れた時、つまり俺、俺の物であり、あれこれ俺、俺の物の態度を他人に見せれば、あるいは少なくとも自分自身も完全に見え、その感情への執着が最高になり、完全に俺、俺の物という感覚になれば、ジャーティ(生まれる)と言います。つまり地獄の動物のように考えれば地獄の動物に生まれ、天人のように考えれば天人に生まれると話したように、完璧なウパーティカの誕生で、あのような、このような「自分」に生まれます。これをジャーティ、あるいは生、生まれると言います。

 それから苦があります。場面に応じてそれの様式で執着するからです。これは煩悩の道で、アリヤマッガ(聖道)ではないので、苦へ導きます。この道は、触から受へ、受から欲へ、欲から取へ、取から有へ、有から生へ、生から苦へとまとめることができます。その動物が学ばず、そして聖人のダンマを実践しなければ、動物が定期的に苦を訪ねるための、広くて滑る大きな一本道です。


 一方アリヤマッガ(聖道)は、触れて触になったら知性の道に戻ってしまい、述べたような煩悩欲望の道を歩くのを放置し、知性の道を失いません。つまり何が何かを知る、その感情に「俺、俺の物」と執着すべきでないと知る、間に合う常自覚があります。

 触で間に合わなければ、受の区間で間に合うように戻り、欲望を生じさせません。取を生じさせません。そして「俺、俺の物になる物は何もない、あるいは俺、俺の物と、執着する物は何もない」という、知性に戻ります。そうすれば心は煩悩欲望に加工しないで、いつでも目・耳・鼻・舌・体・心に触れた物にどのように対処すべきかを知る知性です、そうすればその感情ゆえの苦はありません。その感情が触れても苦でないのは、触れた物に対して、何等かのするべき対処をするからです。これを聖道に沿って歩き、苦が生じる側の縁起の道を歩かないと言います。

 昔の人は「大きな道は行くな」と、短い言葉にしました。これは、心の流れを、広くて滑る道の流れに乗ってはいけません。何劫往来しても、すべての人は苦に行くだけです。アリヤマッガに戻りなさい。それは智慧のある人である、ブッダの弟子だけの特別の道。こういうのがアリヤマッガです。このようなら、その旅は苦にならず、涅槃と呼ぶ苦の終わりに向かいます。この涅槃は秘された意味、あるいはどこにあるか知らない神聖な国ではなく、本当に苦がない時の心にあります。


 心に自分、自分のものという感覚がない空の時、つまり噴出して「俺、俺の物」にならない時は、涅槃、あるいは涅槃の意味になるだけです。違うのは、本物か、あるいは一時的かだけです。つまり断固としているか裏返るか、あるいは極力か味見だけかです。しかしすべては涅槃の意味です。

 だから最高にすっきりして爽やかな心があり、どんなegoismもない時は、ほんの少し心に現れただけでも、その時はいずれかの水準の空、あるいは涅槃にいると言います。だからこのような空の状態をこのように理解してください。短い時間だけ厳格に苦がなくなり、生きている間に長くない時間だけ見える涅槃を理解します。

 涅槃は、要旨では「苦の終わり」という意味だけです。しかしまだ至高に至らなくても、正しい道を歩けるほど善です。正しい道を歩いている人であってください。それだけで十分です。聖人の系統にいるというのは、聖道の系統にいなければなりません。聖道の系統から外れなければ、聖人の系統の中にいます。

 この例えは、ブッダバーシタに「何種類もの人、あるいはいろんな部類の人の、ある部類は水に落ちて消えてしまい、浮かんだことがなく、どのように死んだか分からず、水の下で死にます。これが一つの部類です。もう一つの部類は水に落ちて、そして二三回浮かんできて、それから消えて水の下で死にます。これはダンマの光を見たことがない、死ななければンらない部類です」とあります。

 次は水に落ちて浮き上がることができる人たちで、再び落ちても浮き上がることができ、三度落ちても浮かび上がることができ、水の中で死にません。どこが外の岸か、どこが内の岸かを見て、岸へ泳いで行く人もいます。危機を脱す人たちと言います。岸が見えるから、方向を知るから、そして道を間違わないからです。それは聖道の流れを知る人、あるいは方向が見える「預流」と呼ぶ人たちで、苦とは何か、苦を生じさせる原因は何か、滅苦はどのようかを知る法眼があるので、一心不乱に岸へ向かって泳ぎます。これは預流の例えです。

 岸の近くまで遠く泳ぐ人たちは、一来を例える言葉です。

 水が浅い領域に泳ぎ着き、陸地に立ち、そして歩き、泳ぐ必要はありませんが、まだ水の中にいます。これは不還と同じです。

 乾いた陸に上がった人たちは、島の上で快適に寝ます。これは阿羅漢の例えです。苦が全くない島は涅槃のようです。このようです。


 この規則について熟慮して見ると、聖向聖果涅槃の話は、水に落ちた人のため以外の、誰のためでもないと見ることができます。次に今まさに水に落ちている私たちは、何の種類の水か、どういう状態の方が良いかを見ます。私たちの心や精神は、どの種類の水に落ちているのか。そして毎日、一日に何回溺死しているか。人間であることを失い、紳士であることを失い、一日に何回溺れて死んでいるかという意味です。このように関心を持ってください。そうすれば明らかに聖向聖果涅槃を知ります。

 だから心の面、精神の面の話に関心を持ってくださいと、しつこくお願いします。「精神面」という言葉の話にうんざりしないでください。一般の道徳の基礎である、深い部分の道徳を理解させるからです。そしてそれは、「何にも俺、俺の物という執着をしない理想で戒を遵守すれば、何もしなくても戒は自然に純潔になり、完璧な戒になる」と先ほど例を挙げたように、臼を転がして山を降りるように簡単です。しかし、迷信のようにぼんやり、あるいは機械のように戒を維持すれば、臼を押して山を登るようで、次々に落ちるだけです。

 だから物質面、あるいは規律の話だけに関心を持たないでください。そうすれば面と向かって強制されます。それはできません。それは臼を転がして山を登るようです。私たちはもっと深い理想に到達しなければなりません。理想を持てば、いろんなことは自然に簡単になります。これは特に関心を持たなければならない項目です。国教として仏教がある仏教教団員であることを、無駄にしないでください。


 私はM.R.A(道徳再武装)の教えに賛同しません。来るとほら、「最高に正直だ、最高に身勝手でない、最高に素直だ」と誘い、あのようにこのように強制します。それは臼を転がして山を登ることです。しかし私たちに理想があれば、あるいは哲学と呼ぶものでも何でもあれば、私は「カンマの話、縁起の話。そして特に執着する物は何もないとハッキリ教える無常・苦・無我の話が見えるよう指摘する種類のサッチャダンマと呼ぶものがあれば、誰も誘ったり強制したりしなくても、自然に最高に正直で、最高に身勝手でなく、最高に素直で最高に隠し事がなくなる」と言います。

 このような状態に自然になります。だから何をしても盤石な根があり、M.R.Aが述べる種類の完璧な結果が得られるブッダの教え、あるいは仏教があります。そM.R.Aは子供の玩具になり、指しゃぶりをする子供の物になります。だから私は賛成しません。これは彼らを軽蔑するのでも、彼らに対して悪意があるのでもありません。私たちは正しい見解から始まって正しいサマーディで終わる、歩くための教えである八支聖道がなければならない必要が最高にあります。


 この話の自然のテクニックを自然に学んで、正しい見解は先導者として先頭に上げなければなりません。そして正しい望みは正し見解を追うと、正しく理解しなければなりません。この二項は智慧です。ブッダは智慧を先にし、戒とサマーディを後にしました。正しい見解、あるいは智慧は、水先案内、あるいは羅針盤、あるいは先鋒部隊だからです。

 先鋒部隊は「何が何か」を見る義務があり、正しい見解は本部隊、あるいは後から来る大きな力です。だからブッダは正しい見解は夜明けのようと言われました。太陽が空を薄く染めたら夜明けが現れ、昼が来るのは確実で、確実に昼になります。だから先に何としても夜明けにし、正しい見解、あるいは智慧に先頭で導かせ、そして正しいサマーディが最後尾の力にします。

 あるいはもう一つ、叩き切る、あるいは突き刺すような鋭さは最初の正しい見解にあり、鋭さに仕事をさせる重さは、後にある正しいサマーディにあります。鋭さと重さは一緒に働かなければなりません。そうすれば切断、あるいは突き抜けることができます。鋭いだけで重さがなければ切断できません。あるいは重さだけで鋭さがなければ切断できず、ばたばた大騒ぎします。だから少なくとも鋭さと、一緒に働く重さがなければなりません。

 その他は適当な道具です。切ることに鋭さと重さがあれば本当の利益がありますが、刃と重さは、仕事ができるよう助ける道具に依存しなければなりません。だからみなさん、八支聖道は一つに集まらなければなりません。サマンギ‐と言うのは、同等の物があるという意味です。一つの物になれば正しく生きることは、それ自体が煩悩を断つことができる、あるいは煩悩を焼き滅ぼせると言います。

 心は自由で、かつて焼き炙り、包み、縛りつけ、巻き付き、覆っていた物から解脱でき、清潔で明るく静かな心になり、苦を生じさせる物は何もありません。これが普遍のアリヤマッガと呼ぶ八支聖道の教えで、世界の道徳の本物です。


 私は最初の日に、「マッガの八項を横目で見ると、どうして今の私たちの四つの教育と一致するのか、八支のマッガの項目とぴったりするのか」と話しました。つまり知育である正しい見解と、正しい望み、徳育は正しい言葉、正しい行動、あれば手工芸育は正し職業です。残りの正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディは体育である体力ばかりです。仏教の教えでは、努力も、サティも、サマーディも、一緒にすると全部力です。

 正しい職業は、ふさわしく命を養う物になることを目指すべきで、手工芸育を生活できるだけ本当に行い、そして更に善いことをします。これはまだ徳育の本物ではありません。

 正しい発言、善い物言い、正しい仕事。身体面の善い行動は、本当の徳育です。

 正しい見解は信仰、理解、考え方全部を正しくし、正しい見解にし、正しい考えはaim があり、正しいambitionがあるのは知育、アリヤダンマの夜明けで、全部合わせれば完璧な道徳です。

 この四つの教育が妥協して、八支聖道のように団結して一つに合わさればアリヤダンマと呼ぶように、道徳を知育、徳育、手工芸育、体育に分類することができると、勝手に言いたいと思います。そして最後は八聖道になります。だから勝手に言う必要はありません。ブッダが十分詳細に、そして尊敬したくなるように説明しているからです。先生も至る所で見るような詳細があり、それは戒・サマーディ・智慧です。この話はどのような詳細があるか、後日、別の機会に述べます。

 今日は、調和する関係性が見えるようにまとめるだけです。要するに正しい見解と正しい考えは智慧、正しい発言と正しい仕事、正しい職業は戒、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディはサマーディです。これが戒・サマーディ・智慧で、仏教の三学と言います。

 三学を拡大して八つにすると、引き出して四育にし、合わせると道徳になる八支聖道です。だから私たちの道徳はマッガ(道)という言葉と一致します。仏教のマッガなら八聖道と呼び、素晴らしい道です。敵から出て行くことができるので、正しい見解などの八項目がなければなりません。これは道徳の本物で、更 に日常生活に応用できるよう詳細に分類して見ることができます。

 時間になりましたので、今日の講義はこれで終わらせていただきます。



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