5.道徳の終点





1962年1月15日


 第五回目の講義は「道徳の終点」と題してお話しますが、前回に残った話を先に述べなければなrらないので、煩悩の話は煩悩から道徳の目的である煩悩がないことへ、一つの流れとして講義しなければなりません。最高に煩悩と呼ぶものを学ぶ必要があるので、みなさん、興味を持つよう要求させていただきます。

 私たちの道徳面の状況を解決する目的は、善い、重要な、そして本気でなければならない目的と言えます。そして道徳の障害や敵、揺らぎ、崩壊は、煩悩だけにあります。そして煩悩と呼ぶものは幾つもの形、様式、角度があり、人間はそれを管理できるほど賢くないので、私たちの世界を苦にし、あるいはあるべきでない混乱状態にします。だからサターン、あるいは何と呼んでも良いです。

 仏教ではマーラ、あるいは魔王と呼びます。しかし仮定で呼ばない時は、直接「煩悩」と言います。この言葉は憂鬱にする物という意味です。英語でも同じ言葉を使い、defilementという言葉は、汚染する物という意味です。時にはcorruptionという言葉を使い、「清潔な床の汚点」という意味です。

 煩悩はどのように心を汚すか、物質面の物と比較して見てください。例えば清潔な物を清潔でない汚れた物にすると、純潔が失われ、輝きが失われ、整然さが失われ、このようです。私たちは清潔、明るさ、静かさを欲しがります。清潔でなく、明るくなく、静かでないのは煩悩の威力です。だから煩悩という言葉の意味を文字通りに「汚す物」と捉えてください。庶民の言い方では「不潔で、清潔でない」と言います。

 次に、道徳の障害、敵について、「煩悩と呼ぶものは、根源について言えば、無明と呼ぶ一つだけで、正しい知識がない状態を意味する」と話した第三回目の講義を復習してください。まだ正しい知識がない状態があるだけ、いろんな物は汚れる経過になり、少なくとも無知による汚れです。

 反対の状態になった時、つまり知識が現れて正しい知識でいっぱいになった時、あるいは、明、知識である状態が心に現れた時、その時いろんな物は汚れなくなり、清潔で、明るく、静まります。だから煩悩の根源を無明に限定し、主体である煩悩、あるいは無明という名がある原型である煩悩と言います。


 次に見るのは、この無明は貪り・怒り・迷いの三つの症状を呈し、これは、その知識がない状態を意味します。無知で掃き寄せ、かき集めて自分の物にする状態になれば、ローパ(貪り)、あるいはラーガ(貪欲)と言います。しかしその無知の状態が押す症状、あるいは他の物を攻撃する状態を現わせば、ドーサ(瞋恚)、あるいはコーダと言います。しかしその無知の状態が無知、疑念、確信がない、陶酔によって成す疑の状態になればモーハ(痴)と言います。だから三つの煩悩になり、私たちが呼んでいる「貪・瞋・痴」になります。

 その三種類の煩悩は零細な状態を現すこと、あるいは十六の随煩悩である小さな煩悩を生むことができ、日常的に、あるいは一時間毎に少し生じるいろんな状態があり、前回述べたような詳細があります。これは、主である煩悩の些細な症状を指摘して見せることを目指します。そして詳細に知り尽くすまで、それを管理できるまで学習しなければならない必要が最高にあります。だからこれらのいろんな詳細は、最高に記憶しておいてください。

 あるいは憶えておかなければ、この集団研修の講義のコピーを印刷したら、特に煩悩の詳細に関心を持ってください。理解するまで学べば、仏教の知識を使って道徳の問題を解決することができます。あるいは子供たちに勝つこと、つまり子供たちを希望通りに導くことができます。抵抗する物は煩悩以外にないので、それについて良く知れば、それを支配できます。


 次の煩悩は、「本性」と呼ぶ心の深奥に隠れている繊細な段階の煩悩である、サンヨージャナの十項(十結)という名前について述べます。それは前に講義したように、最高に本物の煩悩を明示し、同時に捨てるために子供たちに実践させる実践原則として使うなら、十結の意味はどのようか規定しなければならないと指摘して見せます。

 これは特に関心を持ってください。それは非常に簡単で便利な教えだからです。子供を訓練して、初めから仏教の範囲内にいさせるために十結を実践系統にするなら、大人になるまで、老人になるまで、規則を変える必要はありません。だから先生のみなさん。特に関心を持ってください。自分自身のため、そしてみなさんの生徒のために、時間を節約するなら、つまりあまり時間を無駄にしたくなければ、この話に関心を持ってください。

 他の話より時間が掛かりません。すべては、第三回目の講義で述べた話ですが、煩悩の話はまだ終わらないので、この機会に終わりまで述べさせていただきます。そして最後は、道徳の目的である「煩悩から空になる」ことについて述べます。

 みなさんの学習のために講義する次の煩悩は、ウパーダーナ(取)と呼ぶもので、四種類あります。タイ人がウパーダーナと聞くと、非常に狭い意味に駆けていく感覚があり、仏教のウパーダーナという言葉の意味として十分ではありません。だからウパーダーナという言葉を学習して、正しく理解すべきです。ウパーダーナと呼ぶ物は煩悩ですが、もう一つの角度から見ると、執着を生じさせる角度です。

 執着すれば確実に汚れます。だから「執着する症状は煩悩の症状」ということです。ウパーダーナというという言葉は、文字では執着を意味し、手で握りしめるように心で執着します。ブッダは四種類、つまり欲取=愛欲面の執着、見取=見方の面の執着、戒禁取=習慣になっている愚かさによる執着、そして我語取=俺、俺の物という執着に分けています。


 たくさんの先生が「パーリ語の言葉は複雑困難にし、子供に関心を持たせない原因」と質問書に書かれているように、パーリ語は捨ててしまっても構いません。パーリ語に関わりたくなければ、タイ語の言葉に関心を持たなければならず、それは多少長たらしいです。しかしパーリ語は短く、一致する文章があり、そしてすべての意味が含まれています。記憶できれば、憶えられないより利益があります。そして間もなくパーリ語の言葉はタイ語になります。

 しかしあまり関心がないから、いつまでも外国語です。タイ語の四割はパーリ語だということを忘れないでください。タイ語の教科書、三国志など、先生はきっと本当のタイ語と考えるでしょうが、すべてのページの統計を取ると、どのページにも、平均して少なくとも十三語はパーリ語があります。三国志は本当のタイ語ですが、他の話、普通の話は、それ以上にパーリ語が多いです。

 しかし私たちが休まず話し、休まず理解すればパーリ語に勝利し、便利に使うことができます。そして専門用語として非常に利益があり、非常に時間の節約になります。だからパーリ語に息が詰まって倦怠しないでください。間もなく慣れます。まだできなければタイ語に関心を持ちます。


 一番目の取は愛欲面の執着です。愛欲とは欲情なので、執着は愛欲と呼ぶものに欲情で執着し、そして愛欲である欲情の基盤である物としてそれに執着します。そして執着される物は他でもない世界です。世界は外部である形・声・臭い・味・接触の五種類以外に意味はありません。形・声・臭い・味・接触が世界です。この種の言い回しを理解してください。非常に役に立ちます。

 先生は「世界はこのようにいろんな物で溢れているが、すべては目で見る形、耳で聞く声、鼻で嗅ぐ臭い、そして舌で味わう味、皮膚で感じる接触以上の物は何もない」と考えることができます。だから世界は形・声・臭い・味・接触です。そしてその形・声・臭い・味・接触は取で執着する物で、欲しい物として欲望で執着します。執着という言葉は、気づかないという意味まであります。もし感じれば正しい知識があり、当然執着しないからです。

 だから何も根拠にする必要はありませんが、毎日の新聞紙上の話を見ると、欲取の威力による死者、あるいは自殺者が、一日も休まず毎日いると見えます。文明が発展したある国では、統計によると二分ごとに連れ去り事件があると明らかになっています。何の威力によるか、考えて見てください。それは「カームパーダーナ(欲取)」という、あまり知らないものです。それはどれだけ世界を汚して醜くしているでしょうか。

 姿が見えない悪霊か魔王のように最高に隠れていて、人間を最高に破壊します。それが一つです。そしてそれはどこにいるか。誰の心に来て住み、管理できれば生じず、管理できなければ体や言葉の症状として現れます。紳士淑女である人が何も現わさないのは、これを管理できるからです。管理できない時は悪霊のような、悪魔のような、一つの状態の魔王のような行動として表出します。だから子供たちをどのように導くか。考えて見てください。


 二番目の例は、考え、見方から信仰までに対する執着です。この見方、考え方は、信仰の上に立っています。あるいは信仰は考え方、見方に根源があり、依存し合っていますが、合わせてディッティ、あるいは見解と言う方が良いでしょう。どのような考え方でも、人はその見方、考え方に従って行動し、他人を信じようとしません。だから誰もが「自分は自分の真実がある」と信じていても、すべての物の真実を理解できません。

 だから一人の人の真実と呼ぶ物は、その人が知るだけの真実です。その人が見るだけで、最高でなく、本当に厳格な真実でなく、パラマッタサッチャ(第一義の真実)と呼ぶ、あるいはそのような最高に至りません。誰でも自分の真実があるので、自分の考え、見方に執着します。人間の理想は人それぞれで、国によって、世界の地域によって異なります。だから殺戮し合うことができます。人物の部分は、変わった物を試したくない、試す勇気がない所に危険があります。

 こうでなければならない、そうでなければならないという執着があるので、全部自分の考えに執着してしまうからです。例えば何年でもない昔、田舎は新しい時代の薬を使いたがらず、昔の薬に執着していたのは、そのようなディッティによるものです。飲もうとせず、あるいは怖がり、そして珍しい、変わった話がたくさん生まれました。ディッティパダーナ(見取)と呼ぶものは、私たちの日常生活に関わる物でなく、すべての人の日常生活に関わりますが、それを取り上げて見る人は誰もいない見本として、取り上げて見せました。


 三番目の取は愚かさによる執着で、先祖がしてきたようにして来て習慣になっているので、その後もそのようにしなければなりません。例えば、ある家は祖父母が精霊の祠を祀り、子孫もそうしなければ恐れがあり、寂しさがあります。子供の時からそのように理解させられ、そのように執着させられたからです。

 あるいは祖父母がお守りや小さな仏像、あるいは呪文札でも何でも首に掛けるのを見たので、恐れて、それらを止める勇気がなく、そのようにしなければなりません。顔を洗う水を注ぐのに、その方角、この方角を向かなければならず、あれを見なければならず、いろいろでなければならない小さな儀式まで、すべては理由の威力の中にない行動ばかりです。

 道理の威力に立っていないことを戒禁取と言います。一般にもっと悪いのは、本当の結果がある、善美であるいろんな実践規則を誤解で霊験のある物にし、「長老が鉢を透かして見る」話のように、験のようにすることです。僧が鉢を透かして見なければならないのは、律の規定通り、鉢はまだ正常かどうか点検して見る話で、損壊があれば修理しなければなりません。修理しなければ罪です。あるいは取り替えなければならないほど損壊していて取り替えなければ、罪と見なします。だから点検して見なければなりません。

 次にアーチャンが鉢を持ち上げて透かして見ると、なぜ透かして見るのか知らない弟子たちが真似をし、その後そのような行動は霊験のある規則になり、「長老が鉢を透かして見る」と言うようになりました。つまり何でも真似るだけです。これらの例は、私たちの日常生活の至る所にあり、私たちの日常生活のすべてというほどです。

 生まれて、理解できないいろんな儀式に出合い、愚かに守ります。初めから迷信なのは迷信し続け、理由がある正しい本物も迷信にさせられ、道理の威力の中にありません。このような行動に執着すれば、戒禁取の執着は「教育が劣る人間の登録商標」と言い、教育がなかった時代のように、barbarian(野蛮人)で、そして現在まであり、捨てることができません。

 悪霊を拝み、地面や何やらいろいろ拝むのは、知識のない人の恐れが根源にあり、現代でも大事に守られています。いろんな説明をする努力は言い訳を与え、今後もこれらを実践し続けます。ね、粘着する物なのでパダーナ(取)と言います。


 四番目の取は自分、自分の物という感覚で執着すると言います。常に「自分。自分の物」と感じるのは、ほとんどすべての動物の本能です。生まれた自分があれば、身勝手の原因である執着がなければなりません。egoismと呼ぶものは、先ず「私は私」と感じ、管理できなければ、selfishnessと呼ぶ身勝手になります。先生のみなさん。自分と自分の生徒の利益のために、身勝手と呼ぶものにたくさん関心を持ってください。いろんな問題は、全部身勝手から生じるので、非常に凶悪な取です。

 これらの取、特に四番目の取を断てれば阿羅漢になり、阿羅漢の状態があり、純潔で明るく、最高に静かと言うのは本当です。私たちはそこまで望まないで、selfishnessを何としても管理するだけにします。egoismは先に払っておかなければなりません。どうしても捨てることができないからです。身勝手な凡夫、あるいは身勝手が少ない凡夫は、自分はありますが善い自分で、悪い自分ではありません。

 つまり本当の善い側に執着し、そして無くなるまで薄くします。これが四取で、先生と生徒の日常生活の中にあるのが見えます。みなさんこれを理解すれば、たくさんの問題を解決できます。ね、執着の形の煩悩について述べました。

 次にもう一つの形の煩悩、本性の中で漬けこんだ形、あるいは堆積しているのは似ています。あるいは同種ですが、少しずつ増えてたくさんになる酵母のように、心の中で発行する角度で見ます。小さな部分ですが、正しい方法で発酵させると大きな部分になります。別の要点は、酵母があれば永久に発酵することができます。彼らが酵母か何かを寝かすように、種が本の少し残っているだけで、際限なくいつまでも発酵することができます。

 これらの発酵の角度の煩悩を四つに分類し、三つに分類する時もあります。つまり愛欲が一つ、「あれ、これ」と感じるのが一つ、そして無明、つまり無知が一つ。全部で三種類です。これらは、誰にも知られずに本性の中に寝かしてあります。四種類にするには、もう一つディッティ(自惚れ)を加えます。

 この名前は重要ではありません。しかし困難に遭遇し、自分を管理したいのに、自分を愛し、自分を大切にしているのに、時々低い威力に敗北して自分を管理できないように見えます。それは、一時的にそれを殺してもまだ種があり、それが新たに発酵して再び完璧な煩悩になるからです。だから深い部分の煩悩を知り、深部の種を殺さなければなりません。

 だからみなさんは酵母の状態の煩悩を消滅させてしまうまで教え、はっきり見て熟慮するよう提案します。こういうのをアーサヴァ(漏)と言い、漬ける物という意味で、四つ、あるいは三つあります。


 もう一つ私が述べる最後の様式は、洪水のように溢れるという意味の角度の煩悩です。自分ではどうにもできません。何かが溢れたら呼吸ができず溺れて死にます。水に落ちたように、あるのは溺死するだけです。水が口まで、目まで、耳まで、鼻まで、体全体に溢れるからです。煩悩は動物の心に、動物の精神に溢れる症状があります。だから動物の精神は水である煩悩に溺れ、そして死にます。

 つまり精神的に死にます。体はまだ歩け、走れ、笑うことができるのに、精神面は水に溺れて死にます。低い威力に落ちて首を上げることができず、他に何もないからです。ブッダは愛欲、ディッティ(見)、バヴァ(有)の名を明示します。有とはあれであり、これであること、自分はそれだ、これだと感じることです。そして無明でもあります。

 これらの名前を憶えても良く、憶えなくても良いです。憶えれば尚良いですが、すべての煩悩はいろんな様式、あるいは形、あるいは状態で見る角度があると、意味を知ってください。それは夜のように暗くする話で、夜より暗いこともあり、無明と言います。それが不潔なもので汚れるように汚して不潔にすることもあり、煩悩と言います。

 そして昼も夜も、少し汚れがあれば随煩悩と言います。縛り付けて苦から離れさせなければサンヨージャナ(結)と言い、喜んで執着する原因であるものをウパーダーナ(取)と言い、本性の中に寝かしておくものをアーサヴァ(漏)と言い、常に精神を浸水させるものをオガ(爆流)と言います。

 しかし煩悩の浸水は、永遠に連続して現れず、煩悩の餌が、目・耳・鼻・舌・体を通して入ってきた時に現れるので、浸水する準備があると観察して見てください。煩悩が空の時間は自然であり、私たちはこの自然に感謝しなければなりません。あるいは私たちは気づきませんが、自然であるプラタムに恩があります。空の機会がなければきっと神経症になり、心の病気になり、全員死滅して生き延びられないかも知れないからです。

 何とか生きて行けるだけ、死ななくても良いだけ、自然が適度に空にしてくれます。それは自然の成り行きで煩悩がない空の状態で、自然のものです。私たちは感謝を自覚し、そして増やすことができたと言えるまで拡大します。これを、煩悩の話はこのような項目があり、このように分類できると言います。


 次に煩悩の発生について述べます。多くの先生が、縁起の話の講義をしてくださいという要望を提出されました。先生が縁起の話に関心があると考えなかったので、呆然としました。そして縁起の話に関心を持つほど先生の世界が進歩したことを嬉しく思います。縁起の話は仏教の心臓部である話の一つ、あるいは一つの形です。つまり苦はどのように生じ、どのように消滅するか、あるいは煩悩はどのように発生して、どのように崩壊するかを教えています。

 そして「仏教はpersonal god、つまりあのような、このような人物である神様は必要ない」という仏教の精髄です。あるいはそのような、このような天使でも、関わる必要はありません。私たちは、すべての物は自然によって、自然の規則によって自然に経過するとハッキリ見えます。だから「苦はそれ自体の規則で経過し、手を差し伸べる神様は必要ない」と規定します。

 しかし神様をいさせるなら、それもできます。つまりその自然の法則は誰も抵抗できない神様です。このような神様はpersonal godではありません。つまり人や天人である神様でなく、それ以上に、最高に神聖で断固たる神様で、それが自然の法則です。

 縁起という言葉は、文字通りの意味を捉えるべきです。パティッチャは依存するという意味で、サムッパーダは、一斉に生じるという意味で、合わせると「依存し合って生じる」という意味になります。依存し合って生じます。だから英語の dependent originationという訳語があり、形を成すという意味です。Dependentは依存し合う、関連するという意味です。

  dependent originationという言葉の意味を生徒に理解させるには、「科学的に太陽があるのは、すべての物の根源と見なしている」と、このような話を聞かせます。「太陽があるから」「太陽があるから」という言葉を使い、だから熱があり、太陽があるから水が熱せられて、熱によって温められるから水蒸気が生まれ、水蒸気が蒸発するから雲ができ、雲があるから雨が降り、雨が降るから道が滑り、道が滑るからA氏の車が濠に落ち、A氏は怪我をして医者へ行かなければなりません。

 怪我が生じたから、医者はこのように働かなければならないという意味です。次々にこのように、それ自体の他に何かが関わらなければならず、依存し合って生じます。依存し合って生じるこのような状態をパティッチャサムッパーダ(縁起)と言います。


 私たちは、子供たちに仏教と一致する教えを持たせます。つまり道理で検証できない神聖な物を、愚かに信じません。彼らに道理の威力の規則があり、道理でいろんなものを検証し、それから認めさせます。目に見えない「何か分からない物」に身を任せ、神聖な物として闇のように信じる必要はありません。これは戒禁取、あるいは他の苦をもたらします。私たちは子供たちの心の基礎を拭き清め、先ず道理の威力の中にいさせれば、道徳を教えるいろんなことが簡単になります。だから縁起の話の本当の意味は、仏教教団員にとって最高に必要と見なします。

 縁起の本当の話は次のようにあります。

 アヴィッジャー(無明)、知識のない状態があるから、サンカーラ(行)があります。つまりすべての物を加工して生じさせ、経過させ、その場に止まらせない威力があります。

 このようなサンカーラ(行)があるからヴィンニャーナ(識界)が生じ、あるいはその義務をする状態で現れ、識界があるからナーマルーパ(名形)と呼ぶ物、つまり体と心が、その義務をする物として生じて、義務をすることができます。

 ナーマルーパである体と心があるから、アーヤタナ(六処)と呼ぶ、目・耳・鼻・舌・体・心を通して外部の感情を受け取る物があります。

 そのような感情を受け取るアーヤータナ(六処)があるので、それが原因でパッサ(触)があり、外部の六処に触れることがあります。だから述べたような外部の六処である、形・声・臭い・味・接触、つまり世界との接触があります。だから心は世界と触れることができます。

 触があるからヴェーダナー(受)があり、触れた時、それはどのようか、美しいか美しくないか、芳しいか悪臭か、満足か満足でないか、目・耳・鼻・舌・体・心の感覚が生じます。こういうのを受と言います。

 受があるから受に願望、つまりタンハー(欲望)が生じ、満足すれば手に入れたい、あるいは存在させたい、満足しなければ消滅させたい、あるいは追い出したい、あるいは死なせたい、あるいはその受に遭わないために自分を消滅させたい。これらすべてを欲と言います。受があるから欲が生じます。

 欲があるからウパーダーナ(取)があり、自分が欲しい物に対して、四取の話で述べたような状態で、執着が生じます。

 十分な形の取があるから欲しがる自分がいて、心で感じて自分になり、そして何かを自分として執着しておき、「自分」と自分に執着し、外部の物を自分の物と執着するという意味です。このように執着である感覚があれば、完璧な形で「生まれる」準備が整ったと言います。

 だから「取、執着があるから、バヴァ(有)と呼ぶ存在が生じる」と述べます。バヴァ、有とは、「私は何だ」と心の中で感じたら、そのような有があるという意味です。バヴァとは、例えば「私は手に入れた人」と感じれば手に入れた人になり、自分を人間と感じれば人間になり、自分を天人と感じれは天人になり、下賤と感じれば地獄の動物になります。バヴァという言葉はあれであり、これである準備があるという意味です。

 バヴァ(有)があるからジャーティ(生)があり、その人物は何だという十分な形が生じる生があります。これをジャーティ、生れると言います。精神面の生まれることで、母の胎から生まれる訳ではありません。それは物質面、体の面、あるいは物理的な誕生です。ここでのジャーティ(生)は精神面を意味し、十分な、完璧な、そして身体面に現れる執着によって生まれます。

 このような生があれば疑うまでもなく、苦が生まれたことを意味します。その感覚は何か一つの執着で。十分な形になれば苦であり、執着ゆえに重いです。


 ここで「私たちはが仏教を理解できず、完全に間違っているのは、ジャーティという言葉を、母の胎から生まれると誤解しているから」と指摘させていただきます。それは一回生まれるだけで、百年ばかり生き、そして腐って棺に入ります。それで何の問題もありません。ブッダが「ジャーティは苦」、そして「すべての生は苦」:、そして「いつでも苦」と言われたのは、精神面、あるいは心の面のジャーティ(生まれること)を意味し、「私は何々だ」と十分に執着すれば、一回生まれたと言います。

 私たちが母の胎から生まれても、あれこれ執着である感覚がない時はいつでも、まだジャーティ(生まれた)と呼ぶべきでないと、はっきり見えるまで見てください。それは身体面、フィジカルな生まれることで、心の面、精神面ではまだ生まれていません。その子が、目・耳・鼻・舌・体の面でも、自分、自分の物、そのよう、このよう、こうしたい、ああしたいという感覚が生まれて俺、俺の物になった時、小さな体でも、その時、その子の完璧な生と言います。

 それは自分という、egoismである感覚のある心がなければなりません。つまり完全な取であれば完璧な生と言います。だからジャーティは、自分に執着する方向の考えが一度完璧になった時、完璧になります。

 自分に執着する考えや思いが生まれた時、ジャーティ(生まれた)と言い、この感覚が消滅した時、滅した、つまり死んだと言い、一生になります。そしてちょっとの間に目・耳・鼻・舌・体の面の感情を受け取れば、その話が終わるまで、つまり死んでもう一つの生になるまで、再び生である感覚があります。すぐにまたもう一つの生になり、ずっとこのようです。

 そして誰が検証して見ても、いつでも苦に見えます。それは、基盤である受に依存した欲望から生じた取である「俺、俺の物」から来ているからです。だからジャーティ(生)という言葉をこのような状態で理解してください。ブッダがパーリで教えておかれたような、本当に縁起を理解できます。

 そうでなければ、後世の人の交錯した縁起の形になり、どんなに勉強しても有益に使うことができません。あれは寝ぼけた哲学者の説明です。私はこのように主張させていただきます。そしてこのように検証するよう挑戦します。みんなで記憶して、縁起のジャーティという言葉はどういう意味があるか、元のパーリを調べて見てください。

 次に、ジャーティ(生まれる)と呼ぶものをまだ正しく理解できなければ、仏教を理解できないと主張させていただきます。正しく理解すれば、「ジャーティがある時はいつでも、その時苦があり、ジャーティがない時は苦がない」と理解するのはすごく簡単です。ジャーティが終われば生れない種類のジャーティで、それは涅槃です。生まれず、老いず、死にません。そのようでなければ、一日に何十回も生まれ、老い、死ななければなりません。そしてどの生も苦です。


 知識が十分多くあれば、このような生が生じないよう管理できるので、空になり、生はありません。生まれ、老い、病み、死ぬ自分がないという意味です。これが本当の縁起です。すべての人の日常生活の中にいつでも生じる話で、夢もこのような話になれます。

 私たちは、触があれば受があり、受があれば欲が頻繁にあり、介入する術がないという部分に問題があります。私たちは縁起の流れを触で止め、そして知性に戻らせることができません。あるいは受で止めることができません。つまり触になると次々に受になってしまい、受は欲になり、欲は続いて取になってしまうので挫けて止め、つまり降参します。それは仏教から何も利益を受け取れません。この項目に降参するからです。

 心の話は早く生じる時は早く変化でき、あるいは他に変化することに敏捷と理解してください。必ず変化するとは、六処と触の間に介入して触で、あるいは触と受の間で止まらせます。受と欲を受で止まらせて欲に加工しないのは、できなければなりません。

 物質面で例えさせていただけば、繋がってピカピカっとした線になりますが、それでもまだ幾つかの部分に分けることができます。例えば毎秒六十四枚のスピードで上映する映画をスローモーションで映すと、六十四の画像を映すことができます。一秒を六十四に分けるのは、部分に分けることができるという意味なので、六十四のどこかの部分に、いつでも介入する機会があります。物質的には、このように介入でき、もっと早い心の面は、なお簡単に介入できますが、間に合うだけ早くなければなりません。

 だから触と受の間に介入して触だけで縁起の流れを止めます。つまり目や耳に触れたら受に加工しないで、あのように、このように感じることができます。あるいは受と欲の間に介入して、つまり触れたら美味しい、あるいは不味い、香りが良い、悪い、満足、不満と感じ、それだけで止まり、欲望に加工しません。こういうのもできます。

 心の話は非常に繊細なので詳細に分けると、形を見る、あるいは声を聞く瞬間と、受と欲が生じるまでの心の感覚を十の部分に分けています。このように述べるには、アビダンマと呼ぶ規則、あるいは詳細な分類に依存しなければなりません。


 私たちの普通の心はじっとしている時、つまりする仕事がない時、バヴァンガチッタ(原始の心の状態)と言います。目・耳・鼻・舌・体・心を通して衝撃があった時、感情を受け取る義務があり、そして何段階にもある義務を行い、終わればバヴァンガに、元の暇な状態に戻ります。いつものような例えで。この話を理解してください。

 一匹のクモが巣を張って、虫が飛んで来てどこかの巣に掛かるまで、巣の真ん中で寝て待っています。クモの巣は広く、多角に張らなければなりませんが、虫はどこかに触れます。私たちは目・耳・鼻・舌・体・心の、合わせて六つの角があり、感情がどこかに触れるのと同じです。その巣に虫が来て衝突すると、クモは感じなければならず、何かが掛かったと感じる時、これも一つ、心の一瞬です。

 クモは仕事がなくて寝ていた寝床から起き上がり、動いて見、あるいは掛かった物に何等かの感覚があります。これはその感情は何か規定することで、これも一つの区間と見なします。それからクモは、それは何かを調べて見なければなりません。そしてそれが何かを知ったら一つの区間が終わり、どうすべきか決心すべき区間になります。

 決心したらどうするか。走って寄って行く、これも一つの区間です。そして走って巣の真ん中に戻ります。それは用事が終わった心と同じで、感情を受け取る話が終わると、元のバヴァンガチッタ(心の原始の状態)に戻ります。

 心が触である感情を受け取り、そして受が生じ欲が生じるまで、たったそれだけで十以上の区間に分けることができ、何かが介入できる区間がなければならないと理解してください。みなさんが、仏教のこの角度の心理学の話に関心があれば、聞いて見てください。これから話します。

 クモが、バヴァンガチッタのような最初の巣で寝ている時、何かぶつかってくる物があると移動し、つまり眠りから覚めます。ね、このようにバヴァンガから動くのは、クモになる死と同じです。それまでは死んでいるのと同じ価値しかなく、ここでそれが死んで、つまり死から移動してクモになり、つまり生まれ、それから触れた物を規定し、彼らは「アーヴァッチャナチッタ(転向心)」と呼び、目・耳・鼻・舌・体のどこに生まれるか次第です。このような症状をadverting、つまり感じると言います。

 advertingは感情を感じる、あるいはそれは何か規定できるという意味で、「サムパティッチャンナチッタ(領受心)と言います。つまり感情を受け取っておき、それをサムパティッチャンナチッタ、あるいはreceiving、つまり受け取ると言います。受け取れば判断し、この段階を「サンティーラナチッタ(推度心)」と呼び、判断し、investigating、この言葉は調べて見るという意味で、これは何か、どうすべきか、心で判断し見ます。

 クモでも賢く、巣に掛かった物は近寄ってはならない物もあり、それはクモを刺して殺すと知っています。こういうのをサンティーラナ、investigatingと言います。それからどうするか判断する状態があり、「ウォーッタッパナキチャ(deciding)(意門転向)」と言います。確信した時突進し、チュアンキッチャと言い、それに対してimpulsionがあり、突進、あるいはタダーランパナキッチャ、(registering)と言います。この言葉は、その感情の味を登録するという意味です。

 終わると、あるいは満腹するとバヴァンガと呼ぶ状態、戻った心、あるいは元のように死んだ心に戻って行きます。このように沢山あり、このように幾つもの区間があります。それは介入する機会がたくさんあり、同じようなたくさんの区間があるという意味です。よく訓練したバーヴァナーがあるよう訓練していれば、介入することができます。どこの区間でも触を加工して受にしません。あるいは受を加工して欲にさせません。


 詳細について関心のある方は、仏教の心の面の心理学の話、あるいはアビダンマ教典にまとめられているアビダンマと呼ぶ物のテキストを探して読んでください。特にMrs. Rhys Davidsと、ビルマのMiss Hla Uang 共著のアビダンマ、compendium of Philosophy というのは完璧なアビダンマッタサンガハで、二三十年前に発刊され、最高に正しい解説です。あるいはジャガディッシュ カーサヤパが最近二冊出したPhilosophy of Buddhismは、簡単に、そして最高に正しく説明したアビダンマッタサンガハです。

 先生のどなたも、この話を理解することに興味があれば、買って読んで見れば、最高に簡単な説明文で、アビダンマと呼ぶ物のすべての要旨を知ります。しかし本当は、アビダンマッタサンガハは完全なアビダンマピダカ(論蔵)ではありません。それは何冊もあります。アビダンマッタサンガハは論蔵のすべての要約で、最初は何ページもなく、それから本二冊くらい説明し、あるいは寺の東屋で、ビルマ、スリランカ。タイで教えているように勉強することもできます。

 しかし話した二組の本は、先生方には最高に便利です。みなさんが学べば、できる方法はどのようか、少なくとも望み通りに心を管理する機会が確実にあります。しかし複雑で大変な勉強をしたくなければ、本当は必要ありません。それでも感情が触れる度に常自覚の練習をする確信があれば、できる方法があります。知性の面に心を傾ける練習、あるいは常に知性があるようにしましょう。

 つまり、煩悩の発生はこのようにあり、無明が基礎としてあることから、目・耳・鼻・舌・体の面の接触がどこに何時あっても、どのようでも、縁起の流れを放置すればこのようでなければならないということです。この輪廻を断つなら、触が加工して欲にする前、あるいは述べたように、受が欲を生じさせる前でなければなりません。煩悩の発生は、苦の生起側の縁起と呼ぶこのようなプロセスがあるという意味です。


 煩悩をなくす側、あるいは滅苦の側は後戻りしなければなりません。つまり反対側、あるいはreverseです。つまり無明が消滅すれば、つまり明が無明を消滅させればサンカーラ(行)が消滅し、サンカーラが消滅すればヴィンニャーナダートゥ(識界)もヴィンニャーナダートゥの義務をしません。つまりヴィンニャーナダートゥが消滅し、体と心も意味がなく、どんな義務をするものである意味もなくなるので、名形が消滅すると言います。

 名形が消滅すれば、六処である目・耳・鼻・舌・体・心も意味がなく、無いのと価値は同じです。六処が消滅するから触もあり得ず、触がないので受もあり得ません。つまり消滅し、受もあり得ず、欲も生じる術がなく消滅します。欲が消滅するので、取も消滅します。取が消滅するのでバヴァ(有)が消滅し、バヴァが消滅するので生が消滅し、生が消滅するので苦が消滅し、苦はあり得ません。

 こういうのが滅側で、これも縁起と呼びます。つまり依存し合って消滅します。あっち側の依存し合って生じるのは煩悩であり、苦であり、こっち側は依存し合って消滅し、煩悩がなく、苦を脱します。これが縁起の話です。こういうのを生起形、後者を滅形と言います。

 率直に言えば、それ自体の規則がある「苦の発生と、苦の消滅の話」は、滅苦のため、あるいは煩悩を滅すために理解しなければならない仏教の心臓部です。それを管理できなければ、縁起の流れは煩悩の成り行きになります。そして私たちの青少年や子供は、もっとそれを管理できないので、彼ら自身を滅ぼす煩悩になります。そして誰も助けられません。どこの神様にも縋れません。縁起は自然の法則なので、助けられる神様はいません。

 あるいは神様も助けることはできません。神様は縁起の話を教える人でも、滅苦も、滅煩悩もしてくれません。ブッダが教えたように自分自身で知り、そして自分で管理できる、あるいは自分で消滅できるまで学ばなければならないという意味です。望ましくない状態である煩悩、あるいは苦を解決するすべての根源である滅苦の話をどう学ばなければならないか、あるいはどう滅煩悩するかは、非常に必要な話です。すべてを、煩悩の発生の話と言います。


 子供のために話をもっと少なく簡単にするなら、無明がどのように現れるか、それはどのように頑固か、見えるよう指摘する努力をしなければなりません。子供たちにどのように教えて、縁起などの難しい話を理解させるか、最高にたくさん質問された問いに答えたいと思います。「そうだからそうなる。こうあるからこうなる」と教えて知らせるだけなら、子供たちは興味を持ちません。時には「頑固にする無明があるから、幽霊と呼ぶもの、つまり煩悩が来て虐める」と指摘して見せなければなりません。

 だから私たちは皮と肉の話、つまり中身を入れる容器のような話に依存しなければなりません。食べられる部分は、お爺さんお婆さんの話を語るというほど簡単で低い話のように、いつものように子供たちに与えます。お爺さんお婆さんの話は、誰でも低い話、あるいは最高に民間の話と見なしますが、有益に使える種類のmake upです。

 このようなmake upは道徳を振興できます。make upという言葉を、全部その種のものと理解しないでください。それは生死を賭けなければならなくさせる原因である無駄で厄介な、別のmake upです。昔話を子供に聞かせて教えるmake upは滅苦に導きます。


 お爺さんお婆さんの話の例は、語られているようにお爺さんとお婆さん二人の夫婦がいます。お爺さんは正しい見解で、お婆さんは誤った見解、頑固という意味で、何でもお爺さんの妨害をします。長くなるとお爺さんは我慢できなくなって、このように愛し合っている妻でも我慢できなくなって、捨てる決意をします。

 お爺さんが「今日は森へ行ってはいけないよ」と言うと、お婆さんは「オレは行く」と言いました。お爺さんが「行くなら、重い石を頭のそばまで持ち上げてはいけないよ」と言うと、お婆さんは「オレは持ち上げる。二つも持ち上げる」と言ました。お婆さんがそのようにすると、誰もわざとした人がなくても、押されて淵に落ちました。

 この話には続きがあります。代わりに頑固な人が淵に落ちたら、幽霊は呪いの言葉から脱して浮かんで来て、世界に出られます。この世界に来た時、この幽霊の話は世界にとって珍しい物でなければなりません。お爺さんは幽霊に恩を要求しました。幽霊が淵から上がれるようにしたので、恩返しをするべきだからです。つまり幽霊は幽霊と暮らし、人を煩わせてはいけないと頼んでおきましたが、結局、しばらくすると幽霊は幽霊で、お爺さんを騙して人を煩わせました。

 つまりこの時が世界で最初の、幽霊による人への憑依です。幽霊に憑依された人がいると、村中大騒ぎになり、お爺さんも見に行きました。幽霊は遠くからお爺さんの姿を見ると恐れて、約束を破ったことを恥じ、憑依した人から出てひょろひょろ走って逃げました。お爺さんは棒を持って追い駆けて叩き、幽霊はどんどん逃げて、転んで頭を山にぶつけました。

 幽霊の頭蓋骨の中の脂が四方八方に飛び散り、メーコン(ウィスキーの銘柄)など、私たち人間を最高に混乱させる物の中に混入しました。メーコンを飲む人は、途端に幽霊になります。懇願しても飲めない時はある種の幽霊になり、飲めばもう一種の幽霊になります。しかしメーコンについてだけ話す必要はありません。お婆さんのビンロウジの道具、ビンロウジの箱、ビンロウジの小箱にもたくさん混入し、心が震えて幽霊になる状態があります。

 あるいは賭場に落ちた幽霊の脳味噌は、一日中一晩中、座って牌を持っていられ、立ってご飯を食べに行かず、四六時中遊ぶために、そこでご飯を食べなければなりません。一時間ばかり寺へ行って説法を聞こうと誘っても時間はありませんが、二十四時間麻雀で遊ぶのは、時間がある以上です。

 最高に凶悪なのは、例えば現代ならヘロインなど最高に強烈な物に混入したのは、最高に大きな幽霊の脳味噌と見なす話です。幽霊の脳味噌と呼ぶ物は、数えきれないほどすべての種類の中毒性物質に蔓延したということです。子供たちに観察させ、「これらの脂を洗う物は何か」という問題を出せば、これらの物をブッダの様式で解決できるダンマを、「サッチャ(真誠)・ダマ(自制)・カンティ(堪忍)・チャーガ(施捨)の話」を教える好機があります。


 この昔話はどのように教えているか、子供に教えなければなりません。初めは何も損害がなく、子供が母の胎から生まれると純白の布のように清潔で、世界に触れて世界に欲と取が生じるまで、布はまだ純白で、世界に触れたその時頑固になる、と知らせる所にあります。つまり淵に落ちて幽霊になります。世界は、つまり子供ならそれまで幽霊はなく、世界に初めて幽霊が現れたのは、「頑固なお婆さん」がいたからです。それは子供も納得します。

 子供が感情に迷って親や先生に対して頑固になるのは、世界に幽霊が生まれたという意味です。それは解釈しなければならない、いろんな角度の物があります。例えば幽霊が、お爺さんが遠くから歩いて来るのを見て走って逃げるのは普通の話で、間違った人、あるいは悪事を隠している人は、後先を考えないで賢くないことをし、すべきでないことをし、それが却って自分にとって危険になります。ただ立っていれば自分が誰か知る人はいませんが、走って逃げるのは被告、あるいは悪人です。

 そしてこの話は、話した言葉のすべての文章が、考える項目を教えています。こういうのも、煩悩が本性、習性の中でどのように生じるか、そして子供の体や言葉にどのように現れるか、指摘して見せています。だからお爺さんお婆さんの話でもダンマを教えることができ、眠くならないと見えるということです。このような容器、あるいは皮は、常に中身を維持しています。

 子供にパーリ語のいろんな煩悩の名前を憶えさせても憶え切れません。しかし「幽霊の脂」、あるいは「何の幽霊」、あるいはそのような形で憶えさせるのは、憶えなくても憶えるくらい簡単だからです。子供の頃、先生が話してくれた何十もの話を、今も憶えています。それが良い容器を使った結果です。だから先生は良い容器を思うべきです。

 あるいはもう一度言えば、人物の話を出来事の話にして伝承するのは、子供の感覚、記憶にしっかり刻まれます。これが、どのように楽しい方法で教えれば教室の中の娯楽館になるか、という見本です。あるいは日曜日の学校でも良いです。先生はたくさん散財する、あるいは非常に厄介な他のmake upより良いmake upの方法を探す知性がたくさんあり、それでまだ子供に勝てません。


 残っている時間は反対の、煩悩がない話をします。述べたように、煩悩が完璧なのは、俺、俺の物という執着の感覚である段階まで加工する時だけです。まだそこに至らなければ、「まだ自分は生まれていない」と言います。欲望が生じた時は受胎と同じで、取の時はどんどん腹が大きくなり、「自分」が胎内で育ち、完全な有である時は臨月で、もうすぐ産まれます。

 ジャーティ(誕生)の時は産まれて「自分、自分のもの」になり、あのようなこのようなselfishnessが著しくなります。これが煩悩の十分な状態、あるいは煩悩の十分な発生です。煩悩が空でないことは、俺、俺の物がぎゅうぎゅう詰めです。これは一部、あるいは一つの部類、苦の話の初めです。次に煩悩がない、あるいは苦がない話の終わりは、「俺、俺の物という感覚が空っぽ」という意味です。

 この話に関して、空というのは、自然に空になるco-incident でも良いです。自然では、私たちは非常に空です。そうでなければ神経の病気になり、あるいは心の病気になって死んでしまうと先ほど述べたようですが、このような空は、まだ自分を助けるに十分でなく、タダンガヴィムティ、つまりまぐれで、自然にそうなると、全部述べます。

 もウ一度高い空、サマーディをしている時の心は、何らかの安定したサマーディであり、ヴィッカマバナヴィムティ(鎮状解脱)です。こういうのも「俺、俺の物」という感覚は空ですが、サマーディをしている間だけです。草の上に石を載せておくと草が伸びない、現れないのは事実ですが、石をどかせば、再び草が伸びるのと同じです。

 だからもっと確実な、サムッチェーダヴィムッティ(正断解脱)と呼ぶ断固とした方法がなければなりません。これが知性、あるいは私たちがここで何日も反論や相談している明の威力です。

 「触だけに止まっている」という教えについて、もう一度思い返してください。これは「俺、俺の物」を生じさせない最高に精巧な行動で、受胎させない、受胎しないよう調整できるほどです。受だけに留まっていられれば、危うく妊娠するに近いですが、何とか止めることができ、欲・取・有・生に加工しません。しかし上手な戦いではありません。それでも危機を脱すことはでき、苦は生じ産ません。

 空っぽという言葉は、本当は自分という感覚を生じさせない賢い方法に使わなければなりません。自然のegoismである感覚がある時でも、煩悩による執着がなければ、ずっと空っぽで、こういうのを煩悩が空、あるいは苦が空と言います。私たちは普通、この言葉を理解できません。ほとんどすべての人がこのような「空」を理解できません。空と言うと、何もない、あるいは何もしないことを意味するからです。

 先生のみなさん、空には二種類あると憶えておいてください。つまり物質面、mental面、身体面の空が一つです。どんな物質も現れていなという意味で、これを空と言いますが、物質的な空で、今私が話しているような空ではありません。


 もう一方メンタル、あるいはスピリチュアルな面の空は空っぽの心を意味し、「自分、自分の物」という感覚だけが空(空っぽ)です。あるいは「俺、俺の物」が現れていなければ、まだ空です。心が空、体も空、何もかも空で、触も空、受も空です。しかし考えが「自分、自分の物」である感覚の方へ加工すれば、空でなく、欲、取、有、生のいずれか一つです。苦でない空という言葉は、スピリチュアルな空でなければなりません。物理的なvacuumのような空にしないでください。

 だからそれは、本当に心の面、精神面の話です。空も心の面、てんてこ舞いも心の面です。空とてんてこ舞い。この二語を良く知ってください。てんてこ舞いの時は苦で、空の時は、苦はありません。だから本来の心はまだ空です。目・耳・鼻・舌・体に触れる物があり、欲望、取に加工すれば、その時はてんてこ舞いで、空ではありません。てんてこ舞いの時は苦で、空の時はまだ苦はありません。断固とした空の時は完全な滅苦で、本当の涅槃です。

 今まで関心を持ったことがない利益のために、簡単に空という言葉を理解できる例を挙げます。ある人は渡し舟の船頭で生活をしていて、強い陽ざしに曝されて舟を漕ぎ、あるいは波に逆らって疲労困憊します。先生方にはとてもできないので、舟を漕げないほど泣き言を言います。だから本当に頑強な舟の漕ぎ手を基準にすると、その人が舟をそろそろと漕ぐ時、鼻歌を歌いながら漕ぎ、その人の心はまだ、俺、俺の物という取が空っぽと見なします。その時の感覚・考えは、俺、俺の物がある方へ傾かないので、「俺、俺の物が空」と言います。

 だから彼は苦でなく、苦がなく、歌を歌いながらゆっくり舟を漕いで、生活するお金を得ることができます。たまたまその人が、ある日、あるいはすぐ後ということもありますが、心の中を過るものがあり、それが恨めしく思わせ、不幸に、不運に感じさせ、貧しい自分、何もない自分の物になり、残念無念が生じます。このような俺になると「空でない。途端に苦になる」と言います。

 仕事は同じようにしますが、つまり舟を漕ぎ、舟も同じで。時間も同じで、波に逆らうのも同じで、陽射しも同じです。彼の心に俺がない時は苦がなく、心が俺でぎゅうぎゅう詰めになると苦があります。だから「心が空なら仕事は楽しく、心がぎゅうぎゅう詰めなら仕事は苦」という興味深い文章があります。よく憶えておいて下さい。同じ仕事なのに!


 あるいは、ある主婦が床を拭き、あるいは主人が床を拭いても、家の床を拭くのは、心が俺という感覚、「俺はどうだ、俺の立場はどうだ」という思いでてんてこ舞いしていれば、床を拭きながらその人を叱り、この人に怒鳴り、精霊を罵ります。心に俺、俺の物という感覚がなければ(空なら)、床を拭く仕事も楽しく、明るく笑って専念でき、部屋は拭かせるほどでなくなくなります。

 このように楽しいです。心が空で苦がなければ。悪臭のする(果樹園の)畝を浚うこともでき、苦はなく、楽しくなります。心が空なら床拭きも楽しく、心が俺、俺の物でてんてこ舞いしていれば、美しく爽やかな何をしても楽しくありません。

 述べたように、みなさん自身で「空」という言葉と「てんてこ舞い」という言葉の意味を良く区別してください。それは「心が空なら何でも全部楽しくなり、心がてんてこ舞いなら何でも苦」と言うことができます。些細なことでも山のような苦です。

 次に見るのは、繊細で緻密な義務についてです。銃を撃つには、何のために撃つのでも、腕前の競うのでも、心が俺、俺の物で混乱していれば撃ち損なうに違いありません。俺、俺の物で混乱するのは、その時「俺、俺の物」という執着を抑えることができず、撃ち損ねたら彼らが大笑いし、俺の名に傷がつく、俺の学校の名前に傷がつくという考えがあります。こういうのは、恋人が見ていれば猶更、俺、俺の物の方でそわそわし、手が震え、心が震え、神経系統が震え、話になりません。それはてんてこ舞いで空でなく、上手く射る術はありません。

 次にその人が何もかも忘れ、この世界も忘れ、自分も忘れれば、感覚に現れているものは常自覚とサマーディ、どのように撃つかという知恵だけで、奇跡のように的中します。それが空です。空なら石や丸太のように固くなり、微動だにせず、何も考えないのではありません。俺、俺の物という感覚がないだけで、体も心もアクティブです。


 前回の講義で話したように、花瓶に花を活けるのと同じです。家政学、家政技術学の先生は憶えて行って、てんてこ舞いの心と、俺、俺の物が空っぽの心で花を活けるのはどれくらい違うか、どちらが深い芸術か、哲学者、あるいは芸術家などが関心を持つ物か観察し、探求して見てください。混乱した心で活けるのは最高に変わった花でしょう。心は幽霊が憑依したようにてんてこ舞いをしているからです。

 昇級試験を受ける学生の場合は、俺、俺の物が空の心がなければなりません。あるのは知恵とサマーディだけで、「試験に受かりたい。合格しなければ」というのは最初にあるだけで、後は制止して、残すのは「どうするか」だけです。先生は、子供たちがこのように心を制止でき、みなさんのクラスの子が「空」と「てんてこ舞い」の二語の話で最高に勉強ができ、最高に記憶でき、よく考えられ、試験の結果が最高に良くなるよう、この方法で訓練して見てください。 

 だから子供たちに仏教の要旨である話を教える必要が、最高にあります。仏教の心臓部である空の話は、涅槃、あるいは滅苦の意味がありますが低い区間で、子供の涅槃である味見の区間です。味は同じで煩悩がなく、そして苦が空で、低い水準、あるいは時間が限定的、一時だけです。完璧、あるいは最高になれば仏教の十分な涅槃です。だからみなさん、最高の空は涅槃と捉えてください。「ニッパーナン パラマン スンニャン」=最高の空は涅槃。

 もっと理解するために、日常生活に関わる物を見ます。それらを芸術・音楽・文学など分野別にまとめ、それらの例を挙げます。それは人間が今、惑溺して最高に関わっている物だからです。そして今はむしろかぶれています。このように話すのは下品ですが、ご寛恕ください。今この世界の人は芸術にかぶれ、文学にかぶれ、そのようなものにかぶれているからです。

 純粋な芸術の本当の目的は、その芸術を見た人の心を惹き、俺、俺の物によるてんてこ舞いから引き離すことを目指します。純粋で美しい物を見ると、家のごたごたした話や仕事を忘れるように、芸術が惹きつけて心を占領するからです。その芸術は俺、俺の物という感覚を生じさせないので、その芸術には最高の価値があり、ダンマと同じ価値があります。芸術はダンマ、ダンマは芸術です。芸術品の形で表現されたダンマは、尊重すべきです。

 しかし今それらの芸術は、話して聞かせた幽霊の骸骨から飛び散った脂ですっかり汚れ、悪霊が猥褻を見せる道具になりました。これらの芸術が幽霊の脂で汚れたので、人間に自分にとって自由な心がなければ、芸術である猥褻な物にする歪んだ理由を口実にすることができます。だから芸術は悪霊の威力下に落ちた輩の、全裸の種類しかありません。どの作品も俺、俺の物という感覚を生じさせて覆います。そして全裸だけを彼らの芸術と好んでいます。

 純粋な芸術はどこへ消えたのでしょうか。それが消えたのは、芸術を欲しがる市場が、述べたような幽霊の脂で汚れた人たちだけだからです。だから世界の芸術はラーガ(欲貪)を生じさせる方、あるいはカーマラーガ(愛欲)になる方向に雪崩込み、更に俺、俺の物になり、世界を破壊する芸術になり、世界を美しく支える芸術ではありません。


 次に絵について話すと、絵、あるいは彫刻彫塑でも、景色でも何でも、純粋な芸術ならダンマと同じで、俺、俺の物という執着を抑止しなければなりません。私たちがこのように美しい景色を見ると、「俺、俺の物」という執着を忘れます。海辺や山の美しい景観にうっとりするのは、自然の芸術でも芸術です。あるいは絵を描いて家の壁を飾っても、空に導く純粋な芸術です。しかしこのような芸術は「幽霊の脂」が世界の人を汚したので消滅しました。

 簡単な例を挙げると、ヨーロッパで有名な外国人の避暑のための海岸は、二十年くらい前は、最高に美しい風景の絵を描いていろんな県に宣伝して、お金を集めるため、利益を得るために、その避暑地に行くよう宣伝しました。

 その後何年しないで、その絵は宣伝効果がなくなったので、その避暑地を宣伝の絵にしたように、有名な軍艦などの愛国主義の絵にしました。俺、俺の物という感覚に依存して、人をその避暑地に誘いました。十五年間だけでこのように変化しました。これは人の心がどのように変化したかを測る物です。そして芸術と呼ぶものは心の面、あるいは社会面の平和を支持するかどうか、あるいは何を支援するか、測る物です。


 音楽も芸術の一分野と見なし、純粋な音楽なら心を惹きつけて、俺、俺の物を空にさせ、音楽にうっとりさせます。しかしすぐに聖向聖果涅槃に到達すると理解しないでください。沸騰している俺、俺の物という感覚を止めてしまう一つの方便と理解すべきです。誰かを怒っていても、音楽を聴くと消えます。あるいは愛欲で欲情しても、もう一種類の純粋な音楽を聴くと、性の欲情が消えるなど、純粋な音楽は苦、あるいは俺、俺の物という感覚を抑止する助けになります。

 しかし今、ロックンロール、あるいはそのような種類の音楽があり、名前さえ口にしたくありません。「幽霊の脂」で汚れた心のための音楽で、俺、俺の物が静まった清涼さをもたらさず、俺、俺の物を煽ります。私たちの世界はますますこのような音楽に陶酔し、「幽霊の脂」で汚れた世界に。あるいは悪霊の世界になるばかです。

 以前に私が、音楽の八割、つまりタイの歌謡曲の内容は女性や娼婦が男性に媚びる歌、あるいは男性が娼婦におべっかを使う歌ばかりと話したように、放送されているタイの歌謡曲の八割は、俺、俺の物という執着の苦を静めず、却って促進させます。昔からの純粋なタイの歌を聞いて見ると正反対です。幾つかの歌は愛について、異性間の愛の感覚について歌っていても涼しく、述べたような八割の歌のように蒸し暑くありません。

 そして私たちは、「クンチャーン クンペーン」の話の歌詞の内容は、非常に異性の感覚にもたれ掛かっているが、八割の歌ほどの結果にしないと見えます。これが、タイの仏教教団員に昔からあった、そして今はすっかり汚れた高尚な文化です。心が幽霊の脂で汚れると、これらの物は列を成して形を変え、幽霊の脂で汚れた心の感覚にふさわしくなりました。私たちはこの八割の歌に陶酔、心酔した人を見ることができます。

 私たちは、八割の歌を聴いて自分を口説き、ラジオに自分を口説かせ、そしてこれらの俺、俺の物の感覚で気分を良くしている人を見ます。だから世界の道徳、あるいはタイの道徳は爽快な物になれません。「幽霊の脂」と呼ぶ物で汚れるからです。


 話したすべては、「空」という言葉と「てんてこ舞い」という言葉を理解させるため以外の何のためでもありません。そして現代の私たちを取り囲むいろんな物は空を振興させないで、てんてこ舞いする道や方法を増やします。それは教育省などの道徳を保護し、道徳面の責任を取る機構や施設に、山ほどの難題を増やします。そしてそれは誰の手からも、つまり先生のみなさんの手からも脱しません。これはどのようにみなさんの障害、敵でしょうか。それはどんな障害であり敵であるか、良く知っておくべきです。

 文学を見ても同じように気づきます。純粋で美しい文学は、俺、俺の物で煮え滾る感覚を止められなければなりません。「クンチャーン クンペーン」の話と「パトムソンボーディ(ブッダに関する経)」の文学を読むと、こういうのはどのように違うか、どの文学が俺、俺の物を煽って沸騰させ、どの文学が俺、俺の物を涼しくし、静まらせるか比較して見ます。しかし「クンチャーン クンペーン」の話より「パトムソンボーディ」の方を読むのを好む人はいません。

 あるいは「ニラートニリンダ」の話と比べるとどうでしょうか。まだ若い淑女である先生は、ニラートニリンダの詩の説明をしなければならない時、どんな顔をしたら良いか分からないほど最高に感じ、恥ずかしくてもじもじしてもまだ足りません。この種の文学は俺、俺の物の感覚を煽り、そして愛欲になるので、先生も生徒も蒸し暑く困難にします。

 ね、その時先生も生徒も空でないと例えるために、俺、俺の物の感覚を空にする、あるいは常にそれを静められる種類の文学があるべきです。そうすればあまり投資をしないで非常に利益があります。つまり道徳の障害、敵である物を作らず、道徳の揺らぎ、あるいは崩壊を生じさせません。


 次に子供が理解できる空について話します。子供たちに空を理解させたければ、子供たちは十五歳以下であるべきでないと考えるべきです。私がこのように述べるのは、子供で阿羅漢になれるのは、十五歳以上だけと教典で述べているのを聞いたことがあるからです。そして子供の阿羅漢は二三人しかいません。あるいは仏教史の中に何人もいません。

 だから十五歳以下の子供は、空の話を理解するには、きっと難しすぎるという意味ですが、少なくとも多少は理解はできるかも知れません。子供を呼んで、「ずっと笑っているのはできる? ずっと泣いているのはできる?」と考えさせます。笑うのと泣くのは非常に違いがありますが、ずっと笑い続けることもできず、泣き続けることもできません。だから泣く必要がなく、笑う必要もないのは空です。それならでき、そして涼しくて良さそうに見えます。

 あるいはもう一度、自分が欲しい物を得られない焦燥は非常にいらいらし、我慢できないと、子供は良く感じていると言います。自分が愛している物、欲しい物を得ると心配し、惜しみ、誰にも触れさせたくありません。ただの人形でも誰かに触れさせたくありません。これは手に入れた後の感覚で、これも堪りません。だから中間にいる感覚、つまり空の感覚には敵いません。

 あるいは愛と嫌悪の例を挙げると、嫌悪させると熱く感じ、愛させると、それも熱く感じ、「愛しても嫌ってもいけない」のは中間にいて、それは我慢でき、空で快適です。

 これが、小さな子供が空を良く知る方法です。そしてどのように子供に涅槃の話や、涅槃という言葉の意味に興味を持たせるか、先生が関心を持つ望ましい方法です。このような例を聞かせました。子供たちが空を尊重する状態で宥められれば、最初はこのように些細な状態でも、自力でダンマを理解するのは最高に簡単です。だから空という言葉は、いろんな例を挙げたような意味があります。先生のみなさん、このような状態で理解し、これからは誤解なさらないでください。

 ブッダが話されたいろんな規則は古臭い、あるいは時代遅れか何かと括られるべきではないと捉えなければなりません。とりあえず最高に正しいと見なさなければなりません。そして学んで熟慮して理解します。空の話などは物質面を見るだけなので、空の話を理解できません。物質しか見ないで、つまり自分の外部だけを見て、心の面、内面を見ません。だから心の面の話である本当の空の話を理解できず、知っているのは物質の話だけです。だから空の話をすると、物質がないvacuumで、何もなく、身体もなく、考えもなく、何も感覚がありません。これは誤った見解になり、仏教の正しい見解である空ではありません。


 一つ目の障害は、物質であるいろんな物を見ることに慣れていること、そして外部の物すぎることにあります。だからブッダは「大学の建物全部がこの体の中にある」と話されています。私はこのような言葉を使います。つまり話された言葉は、

「苦も、苦を生じさせる原因も、苦の消滅も、苦の消滅に至らしめる実践法も、如行は想と心がある背丈二メートルばかりの身体の中に規定する」と言われました。想と心が揃っているというのは、死んだ身体でなく、生きている身体という意味です。そして背丈二メートルばかりのというのは、苦の話を学ぶための大学があり、教育のための物質があり、教育のための知識があり、そして教育の結果である滅苦があるので、外部の物に興味を持つ必要はありません。これは、すべては心の話という意味です。

 自分を心の面、精神面の学生にすれば、最高に簡単です。まだ心の面、精神面に疎ければ、物質面の奴隷に落ちてしまい、苦に勝利する道はありません。道徳を望ましい範囲内で管理することはできません。だから肉対面、形・声・臭い・味・接触面だけに惑溺し、それを「識の面の奴隷に落ちる」と言います。売買する奴隷、物質面を束縛する奴隷でなく、識の面の感情の奴隷、識の奴隷、世界の感情の奴隷です。

 だから問題は同じ物から生じます。つまり世界の人、あるいは現代の世界の人は、世界の感情の奴隷に落ちるだけです。しかしこの項目で実践すれば、つまり世界の感情の奴隷に落ちなければ、いろんな問題は一瞬のうちに終わります。純粋で清潔で、住み易く見事で、複雑な問題は何もなくなります。家のドアにカギを掛けずに眠れます。昔の言い回しを使うと、そのように言います。

 私たちは空の話を十分に知るまで、心の面の知識がなければなりません。そうすれば、望むべき物、何よりも感銘を与える物である空に会ったと感じます。空の味は愛欲の味や五欲よりも惹きつけます。しかし深く理解できず、理解できるのは欲情の味、肉体面の話だけなので、空の話を知る必要はありません。そればかりか、空、あるいは静かさを最高に嫌います。「お爺さんお婆さんの話の幽霊の脂」で汚れすぎたからです。これが煩悩のない話で、苦が空で、煩悩がない威力によって、いろんな複雑な問題も空です。

 私は、空は道徳の終点と見なします。どの宗教の道徳も、道徳という名前にふさわしい道徳なら、このようにならなければなりません。つまり俺、俺の物という感覚、あるいは selfishness による混乱を静めるためです。世界から selfishness が消えればいつでも、途端に弥勒菩薩の世界になります。

 コミュニスト、あるいは誰にも何とかしてもらう必要はありません。コミュニズムも他の政治主義でも、煩悩欲望の威力下に落ちていれば、世界に煩悩欲望で対処するので、当然世界を弥勒菩薩の世界にすることはできません。ダンマに到達した人達が空に到達し、本当の道徳の終点に到達する以外には。

 今日の講義はこれで終わらせていただきます。


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