自身をグルと宣言するみなさん。今日は日曜日なので、道徳に関わる日曜日の意味に関心を持っていただきたいと思います。だから先生であるみなさんに、キリスト教徒は日曜日に働くのを罪と見なすことを思っていただくことから始めたいと思います。罪ならば地獄に落ちなければなりません。日曜日に働けば罪という意味です。
次に私たちについて考えて見ると、私たちにもワンプラがあり、それは休日を意味します。集会の秘書が講義を聞かなければならいよう企画したのは、日曜日に働くことであり、誰かが地獄に落ちなければならないとしたら、誰が責任を取るのでしょう。講義を聞くのを「仕事」と感じれば、つまり今日仕事をしなければならないなら、その人にとって仕事なので、日曜日に仕事をすることになります。
しかしこれを聞くのを仕事と感じない、あるいは我慢して聞くと感じなければ罪でなく、危機を脱せます。だから今日は、みなさん仕事をしないでください。仕事である何もしないで、娯楽館を開ける方が良いです。そして私のところの娯楽館を、核の時代の人間のための「精神面の娯楽館」と呼びます。あるいは「アリヤダンマのための娯楽館」でも、呼び方次第です。
しかし核の時代の人間は、今までの時代より強烈なものがあり、そして核の時代も生まれてまだ何年でもありません。私は娯楽と呼ぶものを、核の時代である、パパッと進歩する時代の人間にふさわしく改善しなければなりません。そして先生方が精神の娯楽館の話に興味を持てば、問題は解決します。
私が一番多く受け取った質問は、どのようにすれば子供たちが勉強とダンマの実践を楽しくできるかという問題です。私は、私たちは精神面の娯楽がなければならないと主張します。だから日曜日である今日の講義は内容を変え、初回から連続している講義の代わりに、今日は特別に、述べたような精神面の娯楽の話にします。
精神面の娯楽という言葉を、私は「ダンマの面の恍惚を受け取らせる」という意味にし、どこでも、どんな方法でも、ダンマの面の楽しみ、精神面の娯楽と言います。しかし熟慮して見ると、もっとたくさんの結果があると見えます。つまり楽しいだけでなく、心の面の進歩のためになり、ダンマの面、道徳の利益のために高くします。だから先生方が助け合って「休日」という言葉に注意してください。映画館へ行く、あるいは鳥や魚を捕りに行くための日曜日なら、こういうのはholidayという言葉として正しいでしょうか。
holidayという言葉がどんな意味か知りたければ、「i」を「y」に変えれば、holy-dayになり、どういう意味か。みなさん良くご存じです。言う必要はありません。holyという言葉はどれほど重さがあり、どのように高いか、先生のみなさんは良く知っていると思います。同時にholy-dayは私たち仏教徒のワンプラに相当すると知っています。Holyは、ワンプラと同じく最高に素晴らしい物を意味します。
プラという言葉は、最高に素晴らしいという意味です。だからホリデイである日曜日は、どのようにしなければならないでしょうか。鳥を撃つ日、魚を釣る日、あるいは映画を観に行く日などにするべきではありません。私たちはすべてのことを助け合って、ワンプラを本当のワンプラにします。それは日曜日、あるいは陰暦十五日でも良いですが、誰でもワンプラがなければなりません。どの日が便利か次第で、七日ごとにワンプラがなければなりません。
特に十五日に一度は丸ごとワンプラです。今、私たちの心を振り返って見ると、先生方は自分の心を振り返って見ると、日曜日に半強制的に、あるいは自発的にでも、私たちがここで我慢して仕事をしなければならない、あるいはここでダンマを楽しんでいる、これは小さなことでないと見ます。だから取り上げて話させていただきます。理解するために関心をもってください。
知性が十分あれば精神面の娯楽を創ることができ、精神面の娯楽を創ることができれば、道徳の揺らぎ、あるいは崩壊である望ましくない症状は、悪が全部善に変わり、社会の道徳面の衰退は全部なくなると述べたいと思います。特に観察して学んでください。古臭い話と見ないでください。私たちの先祖は非常に賢く、自分たちの精神面の娯楽館が本当にありました。そして均一で、ワンプラにはお寺へ行き、一日中何でもありました。
ある日、ある晩はダンマの面の楽しさがいっぱいで、現代の子孫が映画館へ行くのと同じだけ満足しました。満足を測ることができれば、その満足は同じだけです。次に、どこが精神を低い方へ引っ張って行き、どこが精神を高い方へ引っ張って行き、どこは一文無しになり、どこは散財が少ないなど、このような他の結果もありました。
だから私たちは誰でもこのようにダンマの面の楽しみを探すことができました。経済面でも最高に節約になり、ダンマの面の楽しさを受け取り、心はダンマで満足し、体は清々しく、明るい心がありました。心がダンマの面で楽しいからです。だからこのような結果を与える所はどこでも、全部精神面の娯楽館でした。次に若い人はどのような方法があるか、考えて見るべきです。
ヨギー、ムニー、ルーシーたちまで高く見ると、それらの人たちのダンマの面の楽しみはサマーディから生じる幸福で、極めて清涼な味があり、極めて爽やかなので、詩にあるように陽気で楽しく暮らしました。今の人は理解できないかもしれません。
何か月も禅定に入り、体は微動だにせず
戒を遵守して風を食い、毎日夜幸福
風を食うとは、風を食べ物として食べますが、毎日毎晩安楽と理解してください。これをこれらの人の十分な「精神面の娯楽」と言います。映画館の魅力は現代のある人を魅惑し、どの映画も観に行かねばならないように、これらの人を惹きつけ、熱中させる魅力がありました。これも、心の楽しみは姿形、あるいは所以がある必要はありません。あるいは来所は全部同じで、何から生じても良いと証明する物です。私たちはそれを本物にし、利益があり、そして難しくなく、大変でない方法を知らなければなりません。
子供たち、あるいは若い人にこの形の楽しみを計画することができれば、彼らは今よりももっとダンマの面で満足します。だから関心を持つようお願いします。これらの芸術、文学,何でもいろいろ、ダンマの面の楽しみを与える形に変えさせることができます。ダンマの知識を与え、ダンマの楽しみを与えることができる映画を映し、スライドを映すこともできます。
この研修会の責任者が賛成すれば、その種のスライドを映すこともできます。私の準備はできています。そして先祖たちの古い樹皮で作った本をコピーしました。私たちの先祖はこの話にどのように賢かったか見ることができます。あるいはどれほど素晴らしいか、あるいは劣っているか、先祖たちの教育観を見ることができます。
初めから講義してきたこと、つまり最初人は何によってどのように生まれたか、煩悩はどのように生じたか、迷いはどのように生じるか、賢さはどのように生じるか、そしてどのようにダンマに励み、段階的に定に到達し、聖向聖果涅槃に到達するか、このようなことを、先祖たちは絵で表すことができました。芸術的観点で見れば、最高の芸術です。芸術的な楽しさを与えるからです。ダンマの角度で見ても、最高に完璧なダンマです。陶酔のために見ると、陶酔でもあります。
これです。私たちには改良すべき物がまだ何種類もあります。歌も音楽も。前に述べた歌の八割は純粋な歌詞、純粋なダンマと見ることができます。目を通しても、耳を通しても、他を通しても、要するに精神面の娯楽です。みなさん、今日、この話に興味を持つようお誘いします。だから今日は昔話をして、みなさんに講義をする機会を、spiritual theatreにします。今日私は、ワンプラ、holidayにふさわしく、娯楽にするため、何としても自分という執着を空にするため、あるいはそのような何かのために、昔話を語る以外に何もしないという意味です。
みなさん、平日、つまり日曜日でない日は、私たちは働かなければなりません。そのような日は悪魔のチャンスで、低い側の自然が最高に簡単に私たちを覆います。家で働いていても、事務所でも、どこでもたくさんの人と連絡しなければなりません。そしてそれぞれが自分の友達ではないので、私たちを憂鬱にするものがあり、生じる必要もなく自我が生じる、こういうこともあります。
そして一日中混乱状態になり、「夜は煙に蒸され、昼は火」と言われるように、懸念と憂慮がいっぱいです。「夜は煙に蒸され、昼は火」という文句は、私が自分で言ったのではありません。「ある蟻塚は、夜は煙で蒸され、昼は火」と考えなければならない謎として話された、ある経の中のブッダバーシタ(ブッダが言われたという意味。仏説)です。そしてどんどん話を続けられました。しかし私が引用するのは「夜は煙に蒸され、昼は火」という文句だけです。
蟻塚というのは身体で、「夜は煙に蒸され」というのは、仕事が多く、責任を取らなければならない用事に縛られ、あるいは習性で取り越し苦労をするという意味です。だから夜は煙に蒸され、つまり憂悶します。多少歳をとっていれば寝付けず、あるいはまったく眠れないこともあります。「夜は煙に蒸され」と言うのはこういう意味です。起きてどこかへ行って何かすることもできないので、額に腕を載せて寝なければならず、必要もなく悶々とします。
「昼になると火」と言うのは、家を出ると薪や火という意味で、一か所へ行ってあれこれ仕事をし、あちこちが夜よりもっと燃えています。「夜は煙に蒸され、昼は火」という状態は誰にでもあります。本当か本当でないか、関心を持って見てください。それは地獄のようか、あるいは地獄を暗示していないか、熟慮して見てください。だから私たちが一週間中、休みなくそのようでなければならないのは、どうでしょうか。
七日に一日だけ休むのは、その人に幸福吉祥をもたらします。だから敢えてそれを取り消す人、その日も仕事しかしない人には罪を科し、地獄へ落します。こういうのも良いです。みなさんも「その人はワンプラがない人」と言うことに賛成すると思います。どうしてそのようにワンプラがない人になってしまったのでしょうか。七日全部仕事をし、七日ワンプラがなければ、毎週、あるいは生涯ワンプラがない人になってしまいます。これがワンプラ、あるいはholidayについて思っていだきたい理由です。では、面白い話をする方が良いです。
この話は仏教の定宗、あるいは日本語で「禅」と呼ぶ人たちの話です。彼らは考えるのが好きで、他人に質問して率直に教えてもらうより、自分で考える方が好きです。彼らは自分で考えるのが好きなので、全部謎の形でいろんな話を書き留めておきます。これらの話を二三百集めた一冊の本があり、ほとんどの話は一分か二分です。九つか十の話を選んだので、時間が許す限り話してお聞かせします。
初めの話は、以前言及したことがあるのに、避けてしまいたくはありません。つまり茶碗から溢れた茶の話です。ナムインという名の禅宗のアーチャンは国中に名の知れた人で、国中に名の知れたある大学教授が、禅を学ぶためにアーチャンナムインを訪ねました。迎えたアーチャンナムインは茶碗に茶を注ぎ、溢れてもまだ注ぎ続けました。教授は疑念をもってそれを見ていましたが、見ていられないので、「もう注げませんよ」と、思ったままを言いました。この言葉は怒りを表しています。
だからアーチャンナムインは「あなたも同じですよ。私は何をどのようにも入れることはできません。あなたはあなたのopinionとspeculationでいっぱいなのに」と答えました。つまりその人の考え、見解、執着、そしてその人自身の考え方、勘定の仕方でいっぱいで、この二つが禅の仏教を理解できなくさせています。「溢れた茶碗」と言います。
先生のみなさん。子供のサティを喚起して、何の話が溢れ、何の話が溢れていないか考えさせることができるか、一緒に方法を探してください。昔、アッタカターが誇り高い先生とバラモンたちに皮肉られていた昔は、腹が壊れるのを恐れて、鉄を打ってベルトにしなければなりませんでした。知識が溢れるからです。これはどんな意味がある話か、考えて見てください。
みなさんは溢れるかも知れません。あるいはそのような知識が詰まって、これ以上容れられないかも知れません。あるいはその溢れることが、時々他人に大暴れしているかもしれません。しかし考えて見ると、溢れた部分はたぶん使い物にならないと見えます。身体が受け入れられる部分は、たぶん利益があります。だから本当の道徳は溢れる日はありません。道徳、あるいは本当のダンマには溢れる状態があるかどうか考えてください。溢れることがなければ、溢れたものは道徳でなく、ダンマでないという意味です。
全部溢れてしまうのも良いです。あるいは深いダンマで深く言えば、本当の心は溢れる日はありません。溢れたものは心が加工したもので、本当の心ではありません。それはたくさん溢れます。しかしそれでも本当の心とは何か、何が本当の心で何が本当の心でないか、つまり考えが加工しただけのものか知りません。それは休まず流れ出します。これです。急いで探して、本当の心と呼ぶものを一度見つければ、善いように見えます。
最後にみなさんは、本当の心と呼ぶにふさわしい高いダンマに出合います。それは空(から)の状態です。「俺」「俺の物」がない空の状態がある心。それが本当の心です。空なら何も溢れません。ね、何が何かを知らないから、溢れる話の愚痴ばかり言います。教育も溢れていると愚痴を言われます。そして最悪なのは、宗教は溢れた部分、道徳は溢れた部分と、つまり過剰な部分、必要を超えていて、心に入れる必要はない、関心を持たなくても良いと話します。
彼らは宗教、あるいはダンマに関わらなくても良いと考えています。彼らが生まれると、両親がお金を持っていてお金をくれ、勉強もさせ、卒業すると公務員になって、宗教に関わることなく出世できます。だから彼らは宗教、あるいはダンマを溢れた部分とし、つまり必要ないとして、はじき出してしまいます。これです。彼らはこのように宗教を溢れた部分とします。この種の人は、アーチャンナムインがお茶を注いで見せなければならなかった、あの大学教授と同じ、溢れた状態の中にいなければなりません。
彼らは溢れた誤解があり、正しい理解はまだいっぱいではありません。それは溢れ出て、誤った見解の形で姿を見せます。彼らは彼らの物がいっぱいで、ダンマであり、道徳である部分はそれ以上入らないと見るからです。よく考えて見てください。これが道徳を揺るがし、崩壊させる原因です。みなさんにこの部分を支える義務があるなら、この話に関心を持たなければなりません。
二番目の話は、「地方の泥の中で見つけたダイヤモンド」という話です。このような言葉を使わせていただかねばなりません。手っ取り早いどんな言葉を使えば良いか分らないからです。この言葉を使わなければならないことを、みなさんがどう感じられるかは自由です。「地方の泥の中で見つけたダイヤモンド」という話は、クードーという名の禅師で、日本の当時の天皇の先生でした。
この禅師は、出家が出家式の放浪をするように、一人でどこかへ旅をするのが好きで、あまりお寺にいませんでした。ある時、何らかの利益のためにイードー村へ行く時、ある村を通過すると、激しい夕立に遭ってずぶ濡れになりました。そして履いていた靴は藁でできていました。禅の出家は、誰でも藁の靴を履いていたからです。
一晩中雨に濡れて靴がふやけてしまったので、この問題を解決できる物はないかと辺りを見回すと、近くに藁靴を吊るしてある小さな店を見つけ、一足買い、乾いている物を履いて旅を続けようと考えました。女主人が献じたので買わなくて済み、そしてずぶ濡れの姿を見ると、「雨は止みそうもないので、どうぞ泊っていってください」と勧めました。それで女主人の願いでその家に泊まらなければなりませんでした。
女主人は子供と親戚を呼んで禅師に挨拶をさせました。師は、この家は最高に貧しいと観察して見たので、どういうことか、遠慮なく率直に話して聞かせてほしいと言いました。女主人は、「夫は勝負師で、その上呑兵衛で、勝てば一文無しになるまで飲み、負ければ借金をして勝負を続け、どんどん借金が増えます。一日中家に戻らず、何日にもなることがあります。私はどうしたら良いか分かりません」と言いました。
クードー禅師は「何もする必要はない。私が助けてやりましょう」と言い、そして「私は多少銭を持っている。大きな徳利で酒を買ってきて、美味そうなつまみを十分用意してここに置き、いつものように仕事をしていなさい。私は祭壇前に座って居よう」と言いました。これはこの家には神様を祀る祭壇があるという意味です。夜更けにその男が帰ってくると、男は酔っているので酔っ払い式に、この言葉は何と訳せば良いでしょう。Hey! Wifeは「おい、お前」と訳さなければなりません。「帰ったぞ。何か食う物はないか」。彼らの文字ではこのようです。タイとまったく同じです。
この人はどうなるか考えて見てください。祭壇の前に座っていたクードー禅師が出迎えて、「あなたのために何でもあります。私はたまたま雨に降られて、あなたの妻女が夜通し雨宿りをするよう勧めたので、私はあなたに恩返しをするべきです。だからこれらの物を好きなように召し上がってください」と言いました。男は大喜びしました。酒があり、魚があり、いろんな料理もありました。男は眠るまで飲んで食べて、一晩中サマーディをしている禅師の傍で、何も知らず眠っていました。
次に朝起きると何も憶えてなく、何が何だかすっかり忘れていました。昨晩は酩酊していたからです。男は、あなたは誰で、どこへ行くのかと質問しました。禅師は「ああ、私は京都のクードーで」、先ほど話したように「イードー村へ用事で行きます」と答えました。このような返事は奇妙で、それは時には非常に威力があります。つまりその男は身の置き場がなく、穴があったら隠れたいほど恥ずかしくなりました。それほど恥ずかしく感じ、何の間違いか我が家にいる天皇の先生に対して、何度も繰り返し、詫びようがないほど詫びました。
クードー禅師はにこにこ笑って「人生のすべては常に急流のように変化する。そして命も非常に短い。勝負事をしたり酒を呑んだりしていれば、何かを生む、あるいは成功させることをする時間が無くなる。自分を苦しめるばかりでなく、家族も生き地獄に落としてしまう」と繰り返し言いました。その男は感動して、他の世界で目覚めたような、夢からさめたような心境になりました。
最後に男は、「禅師様のおっしゃることはすべてその通りです。非常に正しいです。それなら禅師様の素晴らしい教えの言葉に応えさせてください。私に、しばらくの間禅師様のお供をさせてください」と言いました。禅師は好きにしなさいと言い、二人が一里ばかり行くと、禅師は男に帰るよう言いましたが、男はあと二里行かせてくださいと繰り返し請うので、一緒に行きました。
二里行った所で禅師が帰るように促すと、男はあと三里行かせてほしいと請い、最後には認めざるを得ませんでした。三里になると禅師が帰るようしつこく言いましたが、男は生涯いさせてくださいと懇願しました。ね、つまり禅師と一緒に行って、禅宗の僧になったということです。その後日本の禅宗の最高の師になりました。今日本に残っている禅のすべての宗派は、この方一人から生まれ、すべてはこの禅師から受け継いでいます。
その方は、田舎の泥の中からダイヤモンドを見つけたように心を入れ替えました。これはどのようか、考えて見てください。日本の総理大臣の中には、豆腐売りの少年から身を立てた人がいます。豆腐を担いで売り歩いてお金を作り、それから新聞配達になり、それから新聞記者になり、そして大きくなって有名な新聞編集者になり、最後には総理大臣になりました。
私はあどけない子供たちに、いろんな物事をこのように変化させませんかと教えます。子供たちは子供としてどのような気持ちになるでしょう。彼らは自分を、地方の泥の中から見つけたダイヤモンドにできるでしょうか。ほとんどは自分を安く売ってしまい、それが肉の面の低い幸福を探求させる原因で、見られた物ではありません。それは自分を尊重しない人で、このようにできると考えないで挫けるからです。
ブッダも「人に生まれて、自分を与えるべきでない」と、このように話されています。「アッターナン ナ ダイェーッヤ ポーソー」。男子は、自分を与えるべきでないという意味です。自分を与えるとは、自分を煩悩、あるいはあれになりこれになる低い自然に差し出すという意味で、大きくて安定した物があると考えません。これも、道徳の教えとして守るべきと言います。
三番目の話は「Is that so」という題です。みなさん、自分で訳してみてください。それは「そうなんですか?」と言うのに近いです。三番目の話は非常に名声がある白隠禅師のお寺、村の拠り所のような所で、寺の近くの乾物屋に美しい娘がいました。次に突然、娘が懐妊していることが分かりました。両親は何度も繰り返し尋問しましたが、娘は答えません。しかし厳しく詰問すると、胎の中の子の父親として白隠禅師の名前を口にしました。
両親は烈火のごとく怒ってお寺へ行き、最高に怒っている人の言い回しで、罵れるだけ白隠禅師を罵りました。禅師は「Is that so」と言った以外には、何も言いませんでした。つまり「そうなんですか」。二人は罵り疲れて罵る声が枯れ、罵る力が尽きて家に帰りました。
次にそれまで尊敬していた村人が連れ立って寺へ行って、それまで尊敬していた人をあれこれ罵りました。禅師は「Is that so」と言った以外には、何も話しませんでした。子供たちも連れ立って、「気違い坊主、糞坊主」と子供の言葉で罵ると、禅師は「Is that so」と言い、それ以上何もありませんでした。
その後赤ん坊が生まれました。赤子の祖父母である両親は皮肉として、あるいは何でも、白隠禅師の所に連れて行って捨て置き、「あんたはこの子を育てなきゃならん」と言うと、禅師はいつものように「そうなんですか」と言うだけでした。禅師は赤子を受け取ると、まだ白隠禅師に同情する人物から赤子の乳や食べ物を探さなければなりませんでした。子育ては何とか危機を脱して成長することができしました。
それから長い時間が過ぎ、赤子の母である女は、地獄の火が胸に入ったようで耐えられなくなりました。事実を話さなかったからです。それである日両親に、赤ん坊の本当の父は魚屋の若者だと告白しました。次に両親は、再び地獄が心の内面を炙っているようになり、急いでお寺へ走って行き、白隠禅師に謝りました。自分がどれだけ間違っていたか、感じただけたくさん謝ると、禅師は「そうなんですか」と言っただけで、男に孫を返しました。
その後、禅師を罵ったことがある村人たちは列を成して謝りに行きました。事実がそのように明らかになったからです。何十人か分からないほどの人が謝り、どんなに長く謝っても、禅師は「そうなんですか」以外に何も話しませんでした。話はそれで終わりです。
この話は何を教えているでしょうか。私は、これらの話は精神面の、Spiritual point of view の面で、イソップの話と同じと見なします。この話はどのような「そうなんですか」を教えていて、それはブッダが「ナッティ ローケー ラホー ナーマ」と「ナッティ ローケー アニンディトー」と言われたのと同じです。「悪口を言われないことは世界にない」。 あるいはそのような何かです。
しかしみなさん一度比較して見ませんか。先生のみなさんが白隠禅師のような仕打ちをされたら、みなさんはそのようにできるでしょうか。つまり「そうなんですか」一言でいられますか。そうできれば、話は今あるようではありません。たぶん不適切に子供を叩いたと訴えられません。あるいはそのような何かで裁判所へ行かなければならないこともあります。私は、田舎の先生が裁判所へ行かなければならないのを見たことがあります。適度を超え生徒を叩いたからです。
これは小さな生徒も怒らせることができるほど、感情に動揺しすぎます。だから感情で揺れ、非常に怒り、非常に恐れ、すごく嫌い、悪い感情ばかりです。なぜそれは大した話ではないと考えないのでしょうか。それは本当にそのようだと主張する多数の声の成り行きになりません。事実は事実でなければなりません。捨(ウペッカー)があるなら、他の誤った捨でなく、このような捨があるべきです。だからその人の言うことを聞いておくべきです。
四番目の話は「聴従」です。説法で有名なベンカイという禅師の説法を聞きに来る人は、禅宗の人たちばかりでなく、他の宗派の人、あるいは他の社会の人も、どの階層の人も聞きに来ました。教典、あるいは書物や三蔵(多分大蔵経のこと)の言葉を話すだけでなく、話す言葉のすべては禅師の本当の心の感覚から溢れ出るので、生じる結果は、聞く人が理解し、あるいは喜び、列を成して聞きに来ました。
それが日蓮宗の比丘を非常に怒らせ、ベンカイ禅師を亡き者にしようと考えました。ある日、禅師が集会で説法をしている最中に、著しく自己中心的な僧が集会堂の前に立って、「おい禅師。ちょっと待ちなさい。私の言うことをききなさい。禅師を尊敬する人は誰でも、禅師の言うことを信じなければならん。しかし私などは、あなたを尊敬する日はない。私にあなたの言うことを聞かせ、あなたを尊重させるにはどうする」と言いました。
その威張っている比丘が庇の下で叫ぶと、ベンカイ禅師は、「来なさい。ここへ来て私の傍に立ちなさい。そうしたら私がどうするか、見せてやろう」と言いました。その比丘は傲慢にズカズカ進んで、人の群れを掻き分けてベンカイ禅師の傍に立ちました。禅師は「まだふさわしくない。左側に立つ方が良い」と言いました。その僧はパッと来て、左に来ました。
ベンカイ禅師が、「おお、上手く言うなら、このようでなければならない。右側でなければならない」と言うと、その僧はいつでも挑戦できる非常に傲慢な態度でパッと右側に来ました。ベンカイ禅師は、「見たかね。あんたは今、非常に私の言うことを聞き、そして非常に聴従する立場です。だから座って説法を聞きなさい」。ね。話は終わりです。
この話は何を教えているでしょうか。ブッダが「ニヴァ-トー エタンマンガランッタン」と話されたのと同じです。ヴァートーは、空気を入れて膨らませるのと同じで、ニヴァトーなら膨らまず萎まず、最高に吉祥です。これは当然、知識があるだけでは不十分で、臨機応変の機知もなければならないことを表しています。その僧は日本の日蓮宗では怖いものなしでも、ほとんど文字を知らない、何を話しても書物に頼らない禅師に負けました。時には文字を知らないこともあるので、完敗したのは何が足りなかったからか、考えて見てください。
西洋人も「Be wise in time、時に賢くあれ」と言い、パーリにも「カノー マー ヴォー ウパッチャダー」とあり、重要な時は少しだけ。その少しだけを過ぎてはいけません。過ぎれば厄介なことになります。これを機知、先生になくてはならない機知と言います。そうでなければ、生徒を管理できません。子供たちはどれだけ機知があり、自分自身はどれだけ機知があるか、機知に関わる話のIQを比較したら、それは争えるか、考えて見てください。
先生の機知のIQが子供の五倍だったら、つまり子供より五倍上だったら、受け取るべき給料の五倍です。あるいは何倍もほしい人は、敏捷な機知があり、子供のカンマの話、無我の話、涅槃の話を教えられるまで急いで増やします。これが機知に依存しなければならない項目です。後日、この話をします。
五番目の話は、禅宗の寺の「If love, love openly」、公然と愛せという話です。これも禅寺の話で、何十人も比丘がいて、そしてエジュンという名前の一人の尼僧もいました。エジュンは非常に美人で、剃髪してしまっても、粗末な出家の衣を着てもまだ非常に美人で、比丘全員を非常に騒がせ、ほとんど静かな心になれないと言うことができました。ある比丘が堪えられなくなって、個人的に会ってくださいと、つまり二人だけで会いたいと手紙を書きました。
エジュンはどのようにも返事をしませんでしたが、翌日、住民もたくさん混じっている教えの集会をしている時、説法が終わると、エジュンは立ち上がってその比丘に、「私に手紙を書いた方はどうぞ前へ出て来てください。本当に私を愛しているなら、ここで私を抱きしめてください」と言いました。そしてその人の話は終わりです。
みなさん、この寓話は何と教えているか、考えて見てください。禅宗の率直な教え、訓練は非常に勇敢で、私たちを非常に勇敢にさせます。そして誰かに隠さなければならない秘密はなく、どのように述べることもでき、隠す必要はありません。つまり自分を公開することができ、世界に秘密があると見なささず、誠意があり、真実があります。私たちはどのように宣言しても、そのようにする人でなければなりません。グル(先生)と名乗ることに驚きおののくほど隠しておく秘密はありません。
中には、グルと呼ばれるのを、あるいは先生と宣言するよう頼まれて、はにかむ人もいます。これは十分に公開していない、十分勇敢でないことです。勇敢に生涯グルと宣言しますか。それとも勇気がないですか。小舟で教師たちの都でない向こう側に渡ろうとしている人は、公開する勇気がないように見えます。勇敢が好きでなく、そしてこの話の人のように、公開しないからです。
六番目の話は「無慈悲な人」です。私は「無慈悲な人」と訳しました。禅宗が盛んだった当時の中国の話しで、誰もが禅宗の比丘を尊敬していたと言います。一人のお婆さんはある比丘の後援者で、二十年間、最高の信仰で禅の実践をしていました。彼女は最高にふさわしい小さなクティ(僧房)を建てやり、そして毎日食事を届けました。その比丘はサマーディの実践に困難はないと見なします。しかし二十年が過ぎ、そのお婆さんに「その僧は、二十年届け続けた食事に見合う実践の結果が得られただろうか」という疑念が生じました。
彼女はこの事実を知るための方法を考え、最後に彼女の方法を発見しました。彼女は姿形も顔も美しい、魅力に溢れた一人の娘に、その僧を訪ねて抱きつき、そして今どのようか聞くよう頼みました。娘はそのようにしました。その僧は文芸の素質のある人の常で、詩の言葉で答えました。ここで彼が綴った言葉を、逐語訳すると、
絶壁の先端の禿げた木は冬で
風まで集める
温もりを求めなさんな
乙女子よ
その娘は、戻って老婆に、言われたように伝えました。老婆はひたむきに、「考えて見なよ。わたしゃあいつを、丸々二十年も養って、何もありゃしない。慈悲の一つも表すことさえない。彼の煩悩の要望にも応えなくても、慈悲を表すこと、あるいは感謝に言及するべきだ。それは、何も恩がない証拠だ」と言いました。それで老婆はそこへ行って、クティ(僧房)に火をつけて燃やしてしまいました。そしてその後食事を届けることはありませんでした。これで彼の話は終わりです。
この話は何を教えているか、どのように見ているか、考えて見てください。私たちが思い描くのと正反対のことを望む人もいます。この年寄りの知性をご覧なさい。彼女は彼女の執着の様式があります。年を取れば取るほど皮が丈夫に、つまり非常に執着が強くなります。だから他の考え、他の規則、他の習性がある人を怒るのは、できません。赦さなければなりません。
すぐに怒りません。あるいは最高に幸福な先生、そして最高に良く義務をする先生、成功に楽しい先生になるには、誰も怒らないのが一番善いです。だから、人は同じでない物があり、これほど思いもよらないことがあると、憶えておいてください。
七番目の話は「ブッダの一人」という話です。明治時代の東京に、二人の秀でた先生がいました。一人はアンジョウという名の真言宗の先生で、この人は飲みません。もう一人はテンセン、またはタンサン(石橋湛山?)という名前の大学の先生で、持戒したことがないので大酒を呑み、あるいは食べることに貪欲でした。
ある日アンジョウ先生がタンサン先生を訪ねると、ちょうど酒を呑んでいる最中でした。タンサン先生が「飲まないか」と聞きました。つまり飲もうと誘いました。アンジョウは飲んだことがないと答えたので、タンサン先生が「酒を飲んだことがない人は人ではない」と言うと、アンジョウはムッとして、しばらく黙りこみ、最後に「あなたは私が酒を飲まないから、人ではないと言ったが、人でなければ私は何ですか」と返すことができました。タンサン先生は「ブッダの一人です」と言いました。その人の話はこれで終わりです。
これを私たちは、独特の言い回しで答えた話と聞くこともできます。しかし「本当は、その人はまだブッダの一人ではない」と思わせる彼らの手法で教えるための話です。ブッダの一人と言うのは、むしろ「まだブッダではない」と教えるためで、その先生を絶句させました。自分はブッダの一人ではないと、自分自身が良く知っているからです。そして私たちが人でなければ何でしょうか。人でもなく、ブッダでもなく、それで何でしょうか。
だからみなさんも同じです。みなさんは理想のグル(先生)ですか。もしまだグルでなければ、グルではありません。もしグルなら、グルでなければなりません。そして彼が人でないと言うのを、怒るべきではありません。グルはあれこれ非難されても、怒りません。禅のようなブッダについて話せば、みなさんはまだ理想のグルでなく、まだブッダではありません。だから自分を何にもしないで心を空にし、何も感じません。非難されることより上にいるという意味です。
あるいは、彼らはそれも正しくないと言います。私たちもそのような種類は良いですか。つまり私たちは何かで、誰もが「何か」と、「どのよう」と言っても、それは正しくありません。私たちはきっと、「自分がない」こと以外の何でもありません。もしそのようなら、幾つの方向から風が吹いても、揺らすことができない山のようです。
パーリに「石の棒である山が、土中に八メートル埋まり、八メートル外に現れていれば、どんな風も揺らすことはできない」という言葉があります。もし私たちに「私はこのようなそのような名誉がある。私はそのようなこのような何かだ」という執着がなければ、その時私たちはどこの風が吹いても揺らすことができない山のようです。
八番目の話は「ブッダに近づいた」です。よく聞いて見ると、私たちはブッダに近づいたかどうか分かります。ある大学の学生が、カーサンという禅宗のアーチャンを訪ねました。その学生は教養があったので、カーサン先生に「キリスト教の聖書を読まれたことがおありですか」と質問しました。カーサン先生は田舎者の瞑想坊主で、聖書など読んだことなどなかったので、「ない。読んで聞かせたまえ」と答えました。
その学生はマタイの章から順に聖書を読み始め、「未来を案じるな」、つまり「明日の心配をするな。明日は生きていける。スズメでさえ餓死しない」という文まで読みました。
カーサン先生は「この文句を言える人は、非常に明らかに知る人の一人と考える」。つまり実に悟った人の一人だと言いました。彼が読み続けると、「求めよ。さらば与えられむ。探せば見つかる。押しなさい、そうすれば開く。望む人は誰でも必ず受け取り、探求する人は誰でも当然発見し、押す人は誰でも、扉が開かれるから」という内容がありました。
ここまで来ると、カーサン先生は「おお、最高に素晴らしい。このように述べる人はブッダに近い」と言いました。この人の話は終わりです。
この話は何と教えているでしょうか。本当のダンマを知れば、キリスト教、仏教、あるいは他の何とも見ないという意味です。本当にダンマを知る人の心の中は、キリスト・ブッダ・イスラム・ヒンドゥー、何があると感じません。何の宗派である必要もなく、どの施設の先生か、何の教典か、どの種の根拠によるか、それらの名声を聞く必要はないからです。反論する、あるいはそれらの言葉を聞く気がなく、聞くのはそのダンマの中身だけです。そしてダンマの中身が高ければ、どのようかだけ知り、高い低いは、高いか低いかだけ知ります。
「叩けよ、さらば開かれん」と言うのは、「みなさん正しく実践しなさい。そうすれば涅槃に到達するのは最高に簡単」と言うのと同じです。今僧も在家も、全部快適に眠ってしまい、誰も叩くことがなく、誰も求めず、誰も熱心に探求しません。ダンマの内容だけ聞けば、仏教もキリスト教もありません。あるいは禅もテーラワーダも大乗もありません。他人、私の状態がなく、心はいつでも空です。だから心に「彼の側だけあることはなく、もう一つ自分の側もありません。
だから彼と私の間に衝突は生じません。生じる術がなく、生じる基盤がありません。ダンマを見、ダンマである神様を見てしまいなさい。神様が創り、破壊し、褒美を与え、義務で何でもする神様を信じる人たちの神様のように、私たちはそのような義務をするものが全部揃っています。しかし第一回目の講義で説明した「ダンマ」という言葉の意味と同じダンマと呼びます。
ダンマ以外に何もありません。そして愚かさはあの名前この名前、そのようこのよう、その人たちこの人たちから、「彼がいて私がいる」まで仮定する無明です。道徳のすべて、自然の物すべては一つの話、一つの系統しかありません。
この真実に関心を持ってください。この世界の道徳のすべて、あるいは他の世界の物も、当然同じ系統、同じ流れで、すべて一致します。この国、その国、その宗教、この宗教という必要はありません。同じ世界の物です。道徳であるものに幾つの形があっても、あるいは初日から述べたようにいろんな角度があっても、それでもまだ一つの系統、一つの流れです。ダンマと名がつけば全部同じ話でなければなりません。
あるのはどの様式が終点に近いがだけで、話は全部同じです。だから「その人この人はキリスト教だ」と言って嫌わないでください。憎悪しないでください。そうすれば「あのようなこのような敵」にならなければなりません。そのように感じれば、ダンマを知らないという意味です。更に先生なら、絶対にそのような気持ちになるべきではありません。
九番目の話は、「急げば急ぐほど遅い」という話です。この話は先生方にとって非常に利益があるので、これを選んでお話しします。「急げば急ぐほど遅い」。この話は先生と名乗らない人でも、ダンマを理解するため、そしてダンマの実践を支援する縁として興味をもって聞くべきです。
話は、剣士になりたい一人の若者がある剣豪を訪ねて、一人前になるには何年掛かるか質問しました。師匠は「七年ほど」と答えました。若者の心は揺らぎ始めました。七年という歳月は短くないからです。若者が「力の限り、体力気力の限り努力したら何年くらい掛かりますか」と訊き直すと、師匠は、それなら十四年掛かると答えました。七年でなく十四年になりました。聞いて見てください。
その若者は嘆き悲しんで、「父は高齢で死に掛かっています。父が亡くなる前に剣士になった姿を見せられるよう最高に努力し、剣の腕前を父に見せて、父の恩に報い、最高の努力をして父を喜ばせたいのです。どれだけの時間が掛かるでしょうか。師匠、よく考えてください」と言いました。
師は「それなら二十一年は必要だ」と言いました。これはどうか、考えて見てください。減るのではなく、二十一年に増えました。その若者は、どうにも師に勝てませんでした。師であり、他に仕様がなく、何も思い浮かばなかったからです。国中の剣士で、その人以上の師はいないので、どうして良いか分からず、仕方なく師に従いました。
その後何日もすると、師は刀の使い方、斬り方を教える代わりに台所の仕事をさせ、水汲み、薪割り、あるいは何でも台所で働かなければなりませんでした。
その後何日もたったある日、師が藪から棒に剣を持って現れ、気づく前に斬りかかりました。若者は慌てふためいて、素手で、あるいは何ででも、戦えるだけ戦わなければなりませんでした。二三息詰める間に終わり、師匠は戻って行きました。その後何日もして、再びこの方法に遭い、そして時々、次々にこのようなことがあり、何度もしないうちに、若者は知らないうちに、師が「家へ戻っても良い」というほどになりました。つまりすべての課程が終わりました。その後、日本で有名な剣士になりました。彼の話は終わりです。
この話は何を教えているか、みなさん、考えて見てください。最高に短く答えれば、何をするにも「自分、自分の物」という執着ですれば使い物にならず、良い結果になる道はない。つまりこの若者が「俺は良い。俺は秀でている」と考えれば、俺が練習し、偉大な俺が必要です。次に最高に良くする。俺が最高に早く最高の達人になる。このようなら、俺はさらに拡大します。父が見るのに間に合わせる、父は老いて死が近く、俺が膨れ上がれば上がるほど急ぎます。
こういうのは、心はサマーディになれません。心は俺でいっぱいになり、俺、俺の物で憂鬱になります。心は空でなく、心に知性がなく、心の元々の能力が出せません。「俺、俺の物」という取で胸が塞がっているからです。あるいは身勝手だから鋭敏でなく、俊敏でなく、アクティブではありません。だからこのようにすれは、本当に七年、あるいは十四年、あるいは二十一年の歳月が必要です。
若者が台所にいる時、「俺、俺の物」という気持ちがなく、俺は七年でするとか、父に見せるのに間に合わせるとか、こういうのは全くありません。心は空です。師が藪から棒にどんな状態で現れても、空の心、あるいは本来の心の機知は、正しく戦えるだけ十分にあります。それを特別に熟達した師の手法で眠りから叩き起こし、あるいは目覚めさせ、十分開花した心にすれば、それをその後も使うことができます。だから彼は奇妙な方法によって七年以内、あるいは一年もたたずに終了することができました。
これについて、自分、あるいは自分の物という感覚はどこにあるか、銃を撃つ、あるいは弓を射る、あるいは投げて的中させるスポーツのように思って見る興味を持っていただきたいと思います。考える人の心に「俺、俺の物」、「俺の名声、俺の学校の名声、俺の大学」という気持ちが内心で連呼していれば、的中する日はありません。あるいは正しく投げられません。俺、あるいは俺のものでガタガタ震えます。
正しくは、学校、あるいは大学でも、その名誉のためにする正しい決意があり、そしてすべてを忘れなければなりません。俺も忘れ、俺の学校、俺の大学も忘れ、残すのは知性とサマーディの威力で投げる常自覚だけです。率直に言えば、その時サマーディである心と知性だけがあり、俺、俺の物は全くありません。
だからそれは本来の心、心の状態である心です。手は震えず、心も震えず、神経も震えず、何も震えず、正常で最高にアクティブなら、奇跡のように正確に投げられます。このように理解してください。
あるいは花瓶に花を活けるにも、活ける人は身勝手、あるいは俺の名声、俺の学校、俺のチームまで、心を空にしなければなりません。そうすれば空の心、純粋な心で花を活けることができます。それが知性です。俺がなく、俺のものが混じっていないので、今まで現れたことがない最高に美しい花瓶になります。これを、彼らは禅の教えと見なしています。だから何をするにも、あるいは生きるにも「俺、俺の物」がない状態に関心を持ってください。
それは、「正常な心で腕を使う仕事をすれば、考えの系統が震えない」と教える先生にとって、更に必要です。あるいは生徒が試験を受ける時、試験に受からなければならないと感じ、試験に落ちることを心配して、「俺が試験に落ちる。名誉に傷がつく。時間の無駄。試験に落ちたら水に飛び込んで死ぬ」とか考える必要はありません。それは俺、俺の物の話です。
その生徒はこれらの物全部忘れ、自分自身も忘れます。自分を忘れるという言葉は、よく聞かなければ、理解できません。そして「できない」と反論するように感じます。本当はこのような状態、あるいはこのような場合、自分自身を忘れることができます。
試験を受ける時の生徒は、自分も忘れなければなりません。心の中には「問題は何か、内容は何か、答えはどうあるべきか」だけを残します。心に俺がなければ、俺のものがなければ、学び始めた時から集めてきたいろんな知識、あのような、このような答えが雪崩のように押し寄せ、そして最高に正しい答えに気づかせます。
しかしその人が俺、俺の物で憂鬱になっていれば、どんなに学んだことがあっても、それは出て来ず、忘れたのと同じ状態で、思い出せません。そして支離滅裂で焦燥し、動揺するばかりで、良く答えられません。空っぽの心で受験すれば、一番、あるいは一番以上になれます。だから彼らは「俺、俺の物で震えている心でしてはいけない」という話を、たくさん教えます。
そのようにすることは「急げば急ぐほど遅くなる」という話の題のように、あるいは私が「何としても手に入れるは、更に手に入らない」、あるいは「何も欲しがらなければ、全部手に入る」、つまり何かを欲しがる自分が無ければ、すべてを得る」と言うように、急げば急ぐほど遅くなるからです。
話したい最後の話は「肉禅・骨禅」という話です。ある本によると、「肉禅・骨禅」という名前は、これから話す本の名前です。肉禅・骨禅という言葉について知れば、理解が簡単です。肉禅・骨禅とは、肉であり骨であるレベルのダンマで、まだ骨髄まで達していないという意味です。本当に深いダンマは骨髄の段階と言えます。ね、「私は肉のレベル、骨のレベルの話だけをします」と言うのは、その中に一級の骨髄レベルがないという意味です。
骨髄に到達しなければ、仏教の神髄に到達しないように、肉や骨に停滞して、そしてホラを吹いているのと同じです。それは肉のレベル、骨のレベルばかりで、骨髄のレベルではありません。この話について言えば、禅宗を樹立しに中国へ行ったインド人のアーチャンである、ボーディダンマ(ダンマ大師)の歴史の一部の話をしています。その後それは禅宗と呼ばれ、日本では禅、中国ではシエンと言います。
大師が中国へ行って九年が過ぎると、インドへ帰りたくなりました。次に、帰るなら、誰がどれくらい知っているか、ここで教えたすべての弟子たちに試問して見たくなったので、集会して「本当のダンマは何か」口頭試問をしました。試験問題は一つだけ。「本当のダンマとは何か」です。
ドーフォーグという筆頭弟子は、「肯定を超えたもの、そして否定を超えたものが本当のダンマです」と言いました。このような答えは非常に正しいです。この話を理解できない人は、自分はまだダンマを理解できない人、何もダンマを知らないと言って良いです。肯定と否定を超えたものを知らなければ。
大師は「そう! 正解。あなたは私の皮膚を手に入れた」と言いました。外部を覆っている皮、肉ではなく、骨でもなく、本当に皮膚のレベルという意味です。終わるとこの人は座りました。
ソージという尼僧が立ち上がって、「一度だけ見え、そして全部見え、永遠に見えるもの。それが本当のダンマです」と言いました。
大師は「よし! 正解! あなたは私の肉を手に入れた」と言いました。つまり最初の人より正しいので、肉を手にしました。そして座りました。
三番目の人が立ち上がると、「何もないもの、それがダンマです」。彼は何もないものという言葉を使いました。しかし自分と捉えるべき何もないと説明することができ、それが本当のダンマです。
大師は「正解! あなたは私の骨を手に入れました」と言いました。
もう一人、末席の弟子が立ち上がると、固く口をつぐみ、最高の沈黙を表すように唇を噛んで、これがダンマだと先生に表しました。このように口をつぐむことがダンマです。大師は「そう! あなたは私の骨髄を手に入れました」と言いました。
この話はどう教えているでしょうか。どなたも知性があり、たくさん勉強なさった先生のみなさん。考えて見てください。肯定と否定の上にある物という答えは、他の人より正しさが少ないです。一か所を見て全部が見え、永遠に見えると答えた人の方が正しく、そして何もないと言った人はもっと正しく、そして何とも言えず、言葉で表せないので口をつぐんだ人は、更に正しい。これです。
繊細で絶妙な知性があり、集中力があり、注意深く、心が動揺しないほど非常に静かで、そして動揺しない話、あるいは何もない話を理解できるみなさん、考えて見てください。今はできなくても、その流れはどのようか理解してください。何かを本当に知る人は、何も話しません。言葉で講義する領域を超えるほど深く知っているからです。老子が「知る人は話さない。話す人は知る人ではない」と言ったのは、本当のダンマは話せないという意味です。
私が今話していても、まだ本当のダンマではないと見ます。まだ話すことができるダンマだからです。復習して見ると、みなさんはかつて真実、あるいは何かの論理を深く、その感覚を言葉で講義して他人に聞かせることができないと感じるまで深く、理解したことがありますか。もしあるなら、その話すことができないものを理解したという意味です。
本当のダンマは話すことができないので、口をつぐむしぐさで表さなければなりません。しかし私は今、本当のダンマを深く理解する方法、あるいは道について話していると捉えてください。しかし本当にダンマを理解したら、それは口を閉ざさなければならない話です。
しかしそれでも、確実に前へ進まなければなりません。すっと今のままの年齢の先生は誰もいません。たぶん大物になり、長老になり、年寄になり、世界を深い面で見、人生を深い面から見るに違いありません。だから今からダンマの系統を深く理解しておくべきです。損はありません。そして悲観的な話、あるは詰まらなすぎる話ではありません。
最後に私たちは、皮と肉の話について思わなければなりません。すべての話は皮と同じで、話のスピリッツは中身である肉と同じです。しかし皮と肉は一緒でなければなりません。先生のみなさん、皮を嫌わないでください。そして肉だけに執着しないでください。それは腐ります。これは、肉に皮がなければ腐り、腐った肉にならなければならず、皮がある肉は腐らないという意味です。
果物に皮がなければ肉はあり得ません。マンゴスチンでもドリアンでも何でも、皮がなければ肉はあり得ません。私たちは食べられません。肉を食べたければ、皮がなければなりません。あるいは果物が木から生まれて、花が咲いて実になるには、肉が皮に依存して成長するために、先に皮ができます。皮がなく肉を先に作れば、最高に愚かな木です。つまりそれは果物になれません。果汁は日差しや風に、何かいろいろ、あるいは蟻でも、それらによって危険に晒されなければならないからです。
だから頑丈な皮が先に生まれなければなりません。中身はその中で成長して成熟した実になり、実り、熟し、食べられるようになります。それが皮の価値です。別の角度から見ると肉以上で、肉より価値があることもあります。それが肉を生じさせる利益があるからです。しかし皮を食べる人は誰もいません。肉を食べたいからです。だから私たちは皮と肉を融合させなければなりません。
イソップ寓話、あるいは何の話でも、昔話は肉を守って現在まで維持する皮と同じです。寓話集の中に入れておかなければ、イソップの計り知れないほど深い考えは私たちに届かず、ずっと前に消滅していました。そして誰もその考えを私たちまで届けられる人はいません。当時は文字で書き留めることがなかったからです。
今例にするなら、北極のエスキモーの人たちにも文化があり、あるいは彼らの何かがあり、何千年も語り継がれて、いまだに教えています。これらの民族は文字がなく、今でも文字がなく、エスキモーの人たちはイグルー、あるいは氷で作った洞の中で暮らしていますが、夕方になると洞の中の?燭に火を灯し、お爺さんのような年寄りが、父から、祖父から、曾祖父から聞いたいろんな話を語り、子供らは輪になって座って聴きました。聴くだけでなく、記憶しました。
これらの子供は毎日このようにして成長し、大人になり、父になり、祖父になって語り継ぎました。だから何千年経っても、いろんなものが皮の中で、つまり寓話集の中で伝承されています。彼らはその名前のそのような話を、そこで語らなければなりません。それが皮の功徳です。
だから先生のみなさん。仏教のジャータカの話を軽蔑しないでください。それはブッダの時代以前からダンマを包んで育てる皮だからです。ジャータカの話を暗唱するのはブッダ以前からあり、それから仏教に取り入れられたとハッキリ見えます。それらの話の中身は、仏教以前のもので、教典の著者、解説書の著者も、ダンマの話を入れておく容器にしたと、ラーマ王とシーダーの話でもはっきり見えます。
それはトサロットジャータカというジャータカで、それより古い話もあります。だからこれらの昔話、あるいは物語は、ダンマを入れておく容器にすることを目指しました。愚か、古臭い、動物が会話できる、植物が話せる、嘘ばかりと軽蔑しないでください。そのように考えないでください。
ジャータカの五百を超える話を注意深く読んで見ると、いろんな名前のアリヤダンマを教えるものが溢れるほどあります。例えば慚愧、忍耐・謙虚・堪忍・誠実・施捨、どの項目も、どの容器も楽しく、教室で精神の娯楽が始まります。あるいは教室でするのが好きでなければ、日曜日の学校ですれば、なお善いです。
他の宗教の宗教面の日曜日の学校は非常に発展していて、とても利益があります。タイの仏教の日曜日の学校は二三校あり、生徒は何人もいません。スリランカ、あるいはセイロンの日曜日の学校は、何十万人の生徒が日曜日の学校に入り、体の小さな子からと聞きました。
菩薩戒の持戒を志願し、誰が止めても聞かず、夕飯を我慢して、空腹でぎゃあぎゃあ泣きます。しかし止めようとせず、遵守し、空腹を我慢して泣く方が良いです。この子供はどのような子か、考えて見てください。大きくなるとヤクザで大暴れする、あるいはそのような子になるでしょうか。
だからスリランカにはヤクザの問題はありません。私たちタイでは、日曜日に学校を開くのは難しいです。だから多少ヤクザがいるのは当たり前です。何らかの方法があれば、毎週精神面の娯楽館を開いて、「映画館」に子供たちを引き入れれば、哀れな問題、青少年が将来毒になる話はなくなり、最高に教育省に協力できます。
教育省の保護のもとで実施すレバ最高に素晴らしいです。だから子供がダンマや宗教に飽きる問題を解決するために、時には昔話、あるいはほとんどはジャータカを使わなければなりません。これは何人もの先生が私に質問しました。
今みなさんは、子供たちに道徳をどう教えるか、分からないでいます。このようなのを一種類として検討してください。だから私は「核の時代の人間のための精神面の娯楽館」という言葉を使います。
私たちのholidayはワンプラでなければなりません。つまり清潔で純潔で、夜は煙に蒸されず、昼は火でない日でなければなりません。そして菩薩日は穏やかに過ごす日、疲れる六日から解放される日、そしてholidayという言葉にふさわしく素晴らしい日と見なします。その後平日の六日間、爽やかな心で楽しく働くことができます。
今みなさんはワンプラが好きでなく、菩薩日が好きでなく、聞くと吐き気を催します。だからこれほど問題が多いです。ワンプラ、菩薩日が好きでなければ、あるいはholidayが好きでなければ、教育省は確実に重い問題を受け取ります。庶民がワンプラ、ダンマサワナ、菩薩日に背を向ければ、精神面は残らず破産します。
グルと名乗るみなさん、あるいはグルと宣言するみなさん。何と言うか、考えて見てください。すべては道徳を教える道具であるもの、つまり精神面の娯楽館についての思索です。いろんなダンマの項目を教育しやすくアレンジして、全部ダンマの娯楽にします。簡単にする助けをする物になり、臼を押して山を登るようでなく、臼を転がして山を下りるように簡単になります。
今日の講義はこれで終わらせていただきます。
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