グル(先生)と宣誓するみなさん。みなさん、一つのブッダバーシタを知り、そしてそれに敬意を表していただきたいと思います。それは次のようです。
「比丘のみなさん。みなさんはサマナであり、そして自分自身をサマナと宣言します。人にあなたは何ですかと訊かれれば、私はサマナですと答えます。だからサマナの仕事であるどんな体・言葉・心の行動も、その仕事を完璧になさい。そのように行動している時、支援者の四依を消費することは不毛にならず、すべての支援者の利益、大きな儲けになります」とこのようです。
先生のみなさん、このブッダバーシタについて熟慮して見てください。それには、私たちが何かであると宣誓し、そしてそれの義務を完璧にした時、当然私たちを援ける人物に儲けが生じるとあります。みなさんはグルと宣誓し、義務は、この世界の国民の精神を導く人、あるいは精神の状態を高く上げる人です。そのように行動すれば、私たちを援助する人にとって儲けが生じます。給料は賃金でなく、線香と蝋燭、そしてみなさんを崇拝する物になります。
だからみなさんは勤め人でなく、初日に述べたように尊敬すべき人物になります。これからグルと宣言する人は誰でも、この理由で危機を脱すことができます。もしグルと主張せず、宣誓しなくなったら、今回の私の講義は破産の状態があり、返済不能で使い物になりません。つまり見合う結果がありません。だから今後もグルであると宣誓すれば研修を進めることができます。つまり続けることができます。
今回の講義で、私はチャリヤダンマ(道徳)の障害、敵、揺らぎ、そして崩壊について述べます。みなさん第一回目の講義の項目を復習してください。チャリヤダンマも含めたダンマ、あるいは宗教と呼ぶ物全般の初歩である項目について述べました。
そして第二回目の講義は、チャリヤダンマは一つの系統しかないという項目について述べました。一つの山はいろんな方向から見るといろんな形に見え、そしていろんな角度があるように、チャリヤダンマにいろんな形、いろんな角度があっても、このように確実に規定しておいてください。
つまり誰にどんな心があっても、その人にはその角度だけが見え、他の角度は見えません。哲学を重く見る人は、ダンマを見てもチャリヤダンマを見ても哲学の形に見えます。文学を重視する人は、文学の形に見えます。一つの山も、牛は草、あるいは食べられる木の葉ばかりを見、他の物を見えないように、木を切って売る人たちは売れる木だけを見、石が欲しい人たちは売れる石だけが見えます。
だから私たちの考えが適切な形、あるいは角度になるよう注意しなければなりません。あるいは応用して、日常生活に本当に有益に使います。だからこの項目を繰り返し忠告します。みなさんがグルと宣誓していることには、非常に重要な意味があります。グルという言葉の理想に大地のように重い盤石な心があります。
グルである職業を、価値の少ない小さな渡し舟だが、向こう岸へ渡ることができ、ブッダ橋やクルントン橋のように何百万もの投資は必用ないと見る人物のように浮動しないからです。小さな渡し舟は他の職業に渡ることができますが、グルのように世界の人の精神を高める人でなく、それはただの転職です。
アーチーブという言葉について紹介したいと思います。ダンマの面ではアーチーブという言葉があり、ブッダの、あるいは比丘の、聖人の、あるいは仮の僧でも、職業に使いました。「ビクス、ビックーナン シッカーサーチーヴァサマーパンノー」というパーリ(ブッダの言葉である経)があり、「比丘はすべての比丘のように、シッカーとアーチーバを知っている人」という意味です。「教育と職業は、すべての比丘のよう」という文の中にあります。これはつまり、債権者である職業です!
みなさんが世界の動物の精神を高める理想で努力すれは、みなさんは莫大な債権がある人になります。世界の動物や大勢の人にすることには、計ることができない莫大な価値があるので、計り知れない価値がある人と見なします。グルが誰かの精神を高くできれば、たった一人でも、世界にとって価値を計ることができない利益を成す人と見なします。
だから給料は、あなたを崇拝する蝋燭や線香に使う草の筋、木くずになり、世界の動物は、尊敬すべき人物の負務者になります。すべての尊敬すべき人物は債権者であり、債権者のような職業があります。彼らがどのように恩を返しても十分でなく、まだ恩の方が多いです。だから受け取る物、あるいは消費する物は、賃金と呼ぶより小さくなります。しかし自分をグルと宣誓するにふさわしくしなければ、義務の実践は弛み、同じ額のお金は賃金になります。
そしてたまたま、した仕事が見合わない結果になれば、賃金に見合わない雇われ者、つまり使い物にならない使用人になります。これは最悪で、危険です。だから尊敬すべき人物であり、債権者のような職業がなければならにことについて思うことは、非常に必要です。私たちは、世界の動物の精神を高くする義務、特に世界の人の精神を本当に高くする道具であるチャリヤダンマの教えに、関心を持たなければなりません。
第三回目の今日は、チャリヤダンマの障害、敵、揺らぎ、そして崩壊について話します。先ず初めに、本当のダンマは揺らぎ、あるいは崩壊できません。しかしここでは、今世界の人の自分の身に付いているチャリヤダンマの状態は、変化や揺らぎがあり、四方に障害と敵があるという意味です。だからチャリヤダンマを、私たちと世界の動物の精神を高くする道具として使う義務があれば、敵と障害である物、そして人類の、チャリヤダンマの崩壊と呼ぶ状況に関心を持たなければなりません。
私は「どのように子供にチャリヤダンマを教えるか」と、質問を受けることがたくさんあります。これは、先生方の大きな問題はここにあると言うに近いです。ダンマやチャリヤダンマをどのように簡単に、楽しくするかで苦労しているように見えます。「簡単に」は、子供が理解できるように、「楽しく」は、子供が飽きないようにします。私も簡単ではない問題と感じます。だから自分を一方的にこの話の案内人にするより、動物の精神を高くする重荷を担うグル(先生)同士として相談し合う方が良いと思います。私たちは意を決してこの問題をたくさん熟慮しなければなりません。
私は、私たちは最初に神聖な呪文のように、あるいは何らかの種類の悪霊妖怪の威力のように、私たちの子供を引っ張って行く物は何かと、正しい感覚を生じさせることをしなければならないと考えます。
誰でも、この真実に出合いたければ、このように試して見るべきと考えます。つまり映画館の前で集中して見てください。たくさんのポスターが貼ってある映画館を選んで、安全な一角に立って、ポスターや、それら色んな物の意味について集中して見ます。この意味が深く沁みるまで、悲しみで伏して倒れるまで注目して見ます。
みなさんは何らかの感覚がたくさん生じなければなりません。その感覚から、順に次の感覚が生じるからです。それは国、あるいは私たちの宗教に対して、何も知らずに死んで行った何代もの先祖に対する悲愴な気持ちで、これらの物がどのように子供たちの心を偏らせるか、そして子供の心の状態、心の面、精神面の状態がどのように先祖の時代から変転してきたか、考えて見ます。
それらのポスターを、みなさんは、普通では人前で見せられない行動、映画の中だけの状景と見ます。どれも人前で見せることができない情景です。つまり人目のない所でなければなりません。しかし人前以上に公開された場所で、おまけに道端で、いろんな方法で現わす努力をします。これらの物は、誰かが道端に捨て、罰金を科せられるゴミより、比較にならないくらい汚いです。
そしてもう一方、最高に不思議な光景があります。それは本当のタイ人の身形をしていて、カウボーイのようにピストルを携帯しています。それは芸術、あるいはタイ民族の文化ではあり得ません。タイ人でそのようにピストルを持つ人は、むしろ猿の一種です。ピストルを持っても楽しくなりません。
この話を考えて見てください。西洋のカウボーイがピストルを持つと恰好が付きますが、タイ人のような顔、姿形で、身体がタイ文化のようなら、猿の一種がピストルを持って演じているのと同じです。しかしなぜ神様に背く、あるいは宗教に背くと言うように、子供たちを夢中にさせることができるのでしょうか。
もう一つ、なぜ今の人はたくさん学んでも、三蔵を修了しても到達せず、ブッダの時代の人は、ブッダから二、三度聞いただけで到達し、どうしてそのようなのか質問する人がいます。答えは、簡単に答えられそうに見えます。例えば、今の人はタイ式正座ができません。スボンを穿いた男性はタイ式正座ができず、イスに座れるだけです。女性もタイ式正座ができない服装、仏像に近づけない服装をします。
みなさん、タイ式正座ができないという言葉を、正しい意味で、あるいは目的で理解してください。心に、ブッダの二三の文章から何かを受け取る準備がないと考えてください。そして解脱させるダンマの意味をすべてを理解するのは、心中が同じ人たちの話と考えてください。つまりみなさんはグルで、私もグルです。グルの立場を主張するのは、ブッダが命じた義務をするブッダに仕える人だからです。
つまり世界の人間同朋の精神を高くします。さりげなく愚弄する言葉と見なさないでください。そのように何でも同じにする必要はありません。しかし問題は同じ苦があり、同じ問題があり、自分の問題を解決しなければならない同じ心中がある点に問題があるからです。つまりチャリヤダンマに揺らぎと崩壊が生じないよう、助け合ってチャリヤダンマの障害、敵を廃除します。
次に、チャリヤダンマの敵について話すなら、小さな部分であるチャリヤダンマだけでなく、チャリヤダンマのすべてで敵か見えなければなりません。率直に名前を明示すれば、煩悩の餌も含めた煩悩です。別の言い方をすれば愛欲で、煩悩欲と物質欲があります。愛欲の物質とは、愛欲の感覚を生じさせる目・耳・鼻・舌・体で、これを物質欲と言います。愛欲を欲す感覚を煩悩欲と言います。
だから二種類の愛欲があり、objective sensualityと、subjective sensualityで、対になります。これを管理できなければ、悪霊、あるいはサターンと呼ぶ状態があり、肉体面の幸福の悪霊は人の心を覆い、抜くのが困難になります。だから良く知っておかなければなりません。つまりこの敵、あるいは相棒と呼ぶこともできますが、それを知っておきます。
その次は、その二つに対する誤解です。煩悩欲と物質欲は、自分を誤って維持させる原因であり、ダンマに対して邪見が生じることがあり、「ダンマは必要ない。道徳は必要ない」、あるいは「道徳の訓練は時代遅れ」と、このように間違って見ることもあります。その次に、宗教に背を向け、神様に背を向け、先祖が築いた自分の国の美しい伝統文化に背を向けることが生じます。これが直接チャリヤダンマの敵です。
まとめればすべて煩悩で、貪りも怒りも迷いも、すべて煩悩と言います。だから煩悩と呼ぶ物はすべての状態の中に意味が含まれています。つまり煩悩があり、煩悩の餌があり、これらの物に対する誤解が生じます。そして自分を間違って維持し、周辺に邪見が生じ、今あるように仏教に背を向け、物質、あるいは肉体面の楽しさ、陶酔を目指すのは全部物質主義です。これをチャリヤダンマの敵と言います。
道徳の敵に抵抗するのは、まだ十分抵抗できません。幾つもの悲惨な原因があるからです。先生は世界の精神を高める義務がありますが、存分に手腕を発揮できません。教育省は良く考えて見ると、ブッダより上手な仕事を委ねられてしまっているように見えます。ブッダにあるのは世界の動物の精神を高くする義務だけですが、教育省はそのような義務があり、そしてまだ学校を建てなければならず、人を追い立てなければならず、子を学校へやらない人を罰さなければなりません。このように些細な仕事がいっぱいあります。
この部分の義務は、ブッダはしません、する必要がありません。それは学校を設置する他の人の仕事です。それはむしろ内務省、あるいは市の義務であるべきなので、教育省の仕事や力を分割します。これが原因で、世界の人の精神を高くする仕事を薄れさせ、あるいは霞ませます。南部地方のマノーラー(芝居の題)に例えると、不可能な段階で、彼らは「舞台も自分で造って、自分で踊る」と言います。この種のマノーラーは、舞台を造って自分で演じるように、満足する人は誰もいません。
だから自分で舞台を造り、時にはご飯も自分で用意しなければなりません。それは人から奪った仕事のように見えます。みなさん教育省が気の毒と思いませんか。自分をグルと呼ばない人たちは、負担を分担するために考えて見てください。あるいは公正にするなら、教育省は二人の大臣がいるべきで、一人は学校を設置し、一人は精神を高めます。そうすれば公正です。本当かどうか、考えて見てください。
これから幾つか見て見るのは、お寺です。ブッダの時代のお寺はどのようだったか、助け合って研究し、読んで、そして現代のお寺と比較して見るようお願いします。私は現代のお寺は、西洋人に写真を撮らせるためにあり、そして「仏教はタイで繁栄している」と主張すると感じます。むしろこのようです。ブッダの時代の寺は鬱蒼とした森で建物はなく、現代のようにたくさんの美術品はありませんが、毎秒、あるいは至る所に光で照らすことがあり、動物の精神を高めることがありました。
現代のお寺は何でも複雑に錯綜しているので、お寺の中に溢れている物があるので、精神を高める義務はぼやけ、薄れます。ほとんどの僧は時間がなく、あるいはグルという意味の精神を高める義務をしません。そして中には、不注意で自分の精神を低くしている人もいます。だから助け合って精神を高めません。もっとたくさん助け合わなければならないと言えます。自分をグルと呼ばないみなさんも、持ち帰って考えて見てください。
宗教局を見ると、本当のことを言えば、大衆の精神を高くすることに関して、弟子僧である義務をしなければなりませんが、介入する物が多く、そのような機会を探すのは難しいです。例えば僧務局は栄誉団扇がいっぱいで、団扇を作るお金の話で目が回り、大騒ぎです。そして警察の仕事もしなければなりません。例えば還俗した僧を捕らえるような、警察の仕事を奪ってします。
そして理想を変化させる色んな物があり、全部合わせると、私たちの青少年の精神を高くすることに、気持ちの良い結果はありません。そして、これを道徳の障害と見なすかどうか、グルと名乗らないみなさんも考えて見てください。たくさん助け合うことができます。これは取り上げてお見せした小さな部分である見本にすぎません。
次に、チャリヤダンマの敵を知るために何を見るか。私は「肉体面の悪霊」と呼ぶ物を見なければならないと考えます。子供たちはサターン、あるいは悪霊を、「肉体面の楽しさ美味しさ、陶酔の悪霊」と、精一杯の名誉で呼び、心、あるいは精神面ではありません。この悪霊を良く知れば、今それがどこにいるか、今誰にとって暴れているか、チャリヤダンマの敵を最高に良く知るという意味で、熟慮して見るために今助け合います。
最初に私たちは文学、そして美術と呼ぶ物まで深く思わなければなりません。誰でも非常に崇拝し、持ち上げ、自慢する物だからです。人間の文学と美術品はかつてどのようにあり、今はどのようか、深く遠く視線を投げて見ると、ブッダの時代から今まで、文学、あるいは美術品でも、純粋な美を目指しています。文学も文学面の美を目指し、人の心を捕えて、少なくとも一時、身勝手を忘れさせることができます。
美術品も同じで、その美しさが身勝手を忘れえることができるまで人の心を捕らえることを目指し、人の心を高い方へ引っ張って行きます。高くなれば身勝手でないという意味で、身勝手を適度に捨ててしまうことができます。しかしその後これらの文学や美術は、肉体面の幸福の悪霊の手で撫でまわされ、文学や美術は歪曲され、悪霊の道具に落ちました。
説明、あるいは描写を使って、あるいは欲情の餌である物を表し、その結果、今非常に満足している物である純粋な文学、美術の意味が消滅しました。この話に視線を投げて、自分で詳しく見てください。私は、すべての話を詳しく分ける時間がありません。
最高に恐ろしいのは音楽と歌です。音楽は純粋な音楽なら、「俺、俺の物」と執着している心を空にすることができますが、不潔な音楽なら身勝手な感覚を植え付け、更に「俺、俺の物」にします。昔のタイの歌は古い言葉を使わなければなりません。どのような目的で生まれたか、先生方は良く知っています。どのように美しく、心にとってどのようなreactionが生じるか、よく知っています。タイ人の行儀作法にしとやかさ、なよやかさを生じさせ、そしてこの状態をどのように涵養するかも良く知られています。
次に分岐点に至り、タイの流行歌とか何とか呼ぶ、半分だけ民族の歌が生まれました。だから何もかもすっかり変わりました。私たちの純粋な元からのタイの音楽、あるいは昔からのタイの歌は、卑猥で下品な、そして肉の幸福の悪霊の、いきり立って強烈で急かすような言葉を挿む機会を与えないので、新しい制度が生まれて、下品な言葉を加える機会がある歌になり、いきり立った音楽は煩悩の餌になりました。
人はどんどん凡夫になり、世界中が良い、正しい、美しいと見るので、この種の音楽、あるいは歌が生まれました。何十ものラジオ局が、これらの歌を最高に多く放送する所に、このことの満足度を計ることができます。すべての歌の八割くらいは、娼婦である女が男におもねるのに最もふさわしい言葉です。あるいは男が娼婦をおだてるのでも良く、それ以上の意味はありません。タイの雰囲気がこのような歌に覆われたら、どうでしょうか。私たちはチャリヤダンマの崩壊、あるいは揺らぎに対して抵抗する義務があることを、どう感じるでしょうか。
良くするなら、試しに放送時刻にラジオを点けて見てください。 ほとんどは何かの歌を流し、彼らが放送予定している番組でよく遭遇します。ラジオ放送を管理している人の心、そしてこれらの人はどのようにラジオ番組を組んでいるかを表しています。ラジオ局と放送する番組の統計を取ってください。そうすれば、そして放送する論説、あるいは何か私たちのチャリヤダンマを保護するためになる物が何パーセント、そしてチャリヤダンマの障害、敵であり、揺らぎを作る論説、音楽と歌が何パーセントあるか分かります。
私はこの目で見ましたが、一流大学生が座って宿題をするにも、ラジオを点けてこの種の歌を聴きながら宿題をしています。それで結果はどのようになるでしょうか。先生のみなさん考えて見てください。この種の子供に違いありません。あれこれ大学内で美しくないことを起こすのは。教育省のラジオ局はどのようか、先生方も多分良く知っています。話したような歌があれば、我慢できません。あればいつでも、私に知らせてください。向こうにいると、あまり受信できず、時々受信でき、時々受信できないからです。
教育ラジオ局がこのようなら、私は何かします。在家の男女、比丘、沙弥を誘って、抵抗するために何かします。みなさんは、きっとデモ行進だろうと考えるかも知れません。在家の人たちがデモ行進をするのは、それはできません。しかし行動する方法があります。たくさんの人を誘って、ご飯を炊いて托鉢の鉢に入れ、善を、無くなったチャリヤダンマ捧げます。
援け合ってこのようにするのは、他にする方法がないからです。仕方ありません。だから私は、歌とこの種の音楽が肉体の面の幸福の悪霊亡霊の道具になり、チャリヤダンマの崩壊を導くためにあどけない子供の心を惹き付けるのは、衰退と最高の破滅の悲惨さに見えます。
淑女の服装を一世紀ほど、つまり百年ほど遡って見てください。私たちの先祖は、すべての国のすべての言語の世界の女性がどのように装っていたか。その時代の美しい女性のcostumeはどのようだったか、描いた、彫った絵や像もたくさんあり、どのようだったか他の証拠もたくさんあります。その後なぜ、どんどん短くなったのでしょうか。短いだけでなく、座り難くし、ジープに乗るのは大変です。この種の服装で、もんどりうって倒れるのを見たことがあります。
これは誰の望みでしょうか。神様、あるいはどこの誰の望みでしょう。そして何の餌食になるでしょうか。率直に言えば、男性側の肉体面の幸福の悪霊の餌食に落ちると言わなければなりません。このようにするのは、男性の目に適い、心に叶う以外の何でもないからです。
そして男性が衣服のデザインをした側で、彼らがどんなデザインをしても(女性は)自立していないので受け入れました。だからこの一世紀の女性の衣装は、このような形に、先ほどタイ式正座ができないと言ったように変化して来ました。それでどうしてチャリヤダンマの崩壊、あるいは揺らぎを生じさせないでしょうか。何があれば抵抗できるでしょうか。
もう一つ思うべき話は美人コンテストです。最初は西洋の国で始まり、タイにはまだなく、キリスト教徒が非常に抵抗し、そして声を聞く人はいませんでした。キリスト教徒が非常に抵抗したのは、称賛すべきです。彼らは、それが美人コンテストなのか厚顔コンテストなのか疑念を持ったからです。みなさん。「美人コンテストなのか、あるいは厚顔コンテストなのか」と、良く聞いてください。教えの言葉に対して、あるいはブッダの望みに対して頑固な厚顔の女でしょうか。
キリスト教徒は死も恐れず必死で抵抗しましたが、抵抗できたのはキリスト教の世界の中だけでした。可哀そうなのは、私たちのあどけない娘、孫たちで、生まれて何歳にもならずに、世界も知らずに彼らに振り回されます。しかし彼女らを責めることはできません。これらの子供たちはまだ何も知りません。しかし人はそれを開催し、世界の人間を覆うために、肉の面の幸福の悪霊である西洋の文化を受け入れます。
教育省が、教師や学生たちにコンテストに出るのを禁止しているのは、明らかに天人と人間が称賛する所に見えます。善男善女、祖父母たちが説教を聞き終わった後「善き哉」と叫ぶのと同じです。私はそう主張できます。だから教育省はこの素晴らしい祝福を永遠にしてください。私たちには闘えません。これらの状態の道徳の敵である物に、今負けそうです。もう少しですってんてんになります。私たちは西洋を、述べた話の先生にすることはできないに違いありません。考えて見てください。
ファーストという文学、あるいはオペラは、子供たちが読めば迷い、何も残りません。ヒロインのマーガレットはそのようにしたのに天国へ昇ります。そういうのは、仏教の規則ではあり得ません。そしてもし子供たちが、それを正しい話と捉えれば、それは仏教の中の人間である何も残りません。この話は社会を愚弄するために創ったと見なせば、そこまで多くし、子供が理解するには難しすぎます。
ファーストの友達である悪霊の誘惑の中にある行動と認めるからです。これは、社会はこれほどで、私たちはそれを手本にはできないと言うことです。敢えて西洋をこの状態の教師にすれば、タイ人らしさは消失し、仏教教団員でなくなります。これには良く注意してください。そしてこの方面の名声を求めないでください。
タイでは裸で踊る、あるいは何らかの半裸のオリジンを創ったと聞いています。そして、その形の裸踊りはタイだけにあるそうです。他ではそのようなショーを嫌う国もあると話して聞かせる人がいました。ね、タイで新しい形の裸踊りを考えたことで、先祖の目先を誤魔化す原因になることもあります。他で名声を求めるよう懇願させていただきます。
話したすべては、道徳の敵である凶悪な悪霊です! 敵を極力敵と知りなさい! だから私たちの教師は、すべての側の、特に国を統治する権力のある人の協力で、この状況を救うこともできます。チュラロンコン大学で、「大学で強制的に仏教の知識を教えるべきか」についてセミナーがあった時、セミナーの参加者の一人が、「命が元手」と表す声で、私たちは大人を改善するだけで、他に何もする必要はないと主張しました。
その人は、子供たちが大挙して道徳の破壊の方向に向くのは、直接でも間接でも権力のある大人が見本だからという意味のことを言っていました。だから大人が心を入れ替えなければなりません。大人を後戻りさせるだけで十分です。今のように訓練だの何だの考える必要はありません。子供たちは全員続いて善くなります。子供が酒を飲むのは、大人が酒を飲むからです。あるいは大人は酒を造って売って金持ちになる人もいます。酒を飲むだけではありません。それでは子供に酒を禁止できません。これです。このような例を上げさせていただきます。
バーンセーンの酒を飲ませる店で、私はこの耳で聞きました。店主とお喋りをする人がたくさんいて、店主は「酒を飲みに来る有名大学生が増え、常軌を逸して大暴れをする人もいる」と、事実のママに話しました。これは親世代の時代、あるいは祖父母まで遡ってもありませんでした。私たちが拠り所と期待するチュラロンコン大学、タンマサート大学でも、これほど変化しました。そして私たちは、有名大学生の男女がバーセーンで堂々と手を繋いでいるのを見ることができます。
彼らの両親は家で土を掘り起こし、田んぼを担保に他人から借金して子供に仕送りしていると、誰もが良く知っています。これらの子供の多くは試験で落第すると言うこともできます。しかし何年も経つと、両親は「なぜ何年たっても卒業しないのだろう」と疑念を持ちます。すると、学校側が次々に学年を増やしていると言います。親はこれも信じます。
親はどのような状態にあるか、一部の子供はどのような状態にあるか、考えて見てください。これは全部、あるいは大多数という意味ではありませんが、それは「ある」と主張できます。これれす、肉体面の幸福の悪霊が私たちの子供を捕まえるチャンスは。私たちは今抵抗したいので、どのようにしなければならないでしょうか。
最高に恐ろしいのは、肉体面の悪霊、あるいは述べた物質主義です。最高に恐ろしいのは、コミュニストではありません。恐怖で目が白くなるほどコミュニストに興奮しているように見えますが、何が何か知らなくても、肉体面の幸福の悪霊が本当のコミュニストであり、人であるコミュニスト以上です。私たちが恐れるコミュニストも、肉の面の幸福に迷うことから始まります。
つまり物質だけに迷いすぎるので、物質の威力の独占を要求するからです。物質に迷いすぎなければ、心の面、精神面の幸福を探求することができ、物質面の権力を要求、あるいは独占すると言わなければならないほどにはなりません。それはこのように著しい物質主義である教義の理想です。これが、道徳の崩壊です。
私たちが物質の、あるいは肉体面の幸福の奴隷なら、外部のコミュニストは来る必要がありません。私たち自身の周辺で自然に孵化するので、外部から迎える必要はありません。これが望むべきでない主義の始まりです。そして私たち自身の中で生まれることができ、私たちの中で孵化できます。物質主義がどのように共産主義を生んだか検証してください。ほとんどの目的は、物質面の幸福しか考えないからです。
だから「人はカンマで経過しなければならない。カンマで格差が生じる」という規則を信じることができません。しかし物資面の幸福に酷く恍惚となると、待つことができず、我慢できず、奪わなければなりません。だから何としても物質面の幸福の平等を求める主義がなければなりません。
なぜ私たちは本当に恐ろしい物である物質主義を恐れないのでしょうか。世界の二つの陣営が破滅するまで戦えるのは、物質主義、物質偏重主義、自分流の自分の物質主義の期待があるからです。正反対の側を見ても、心は同じ状況である、肉体面の幸福だけを考える主義に落ちています。肉体面の幸福だけを考えすぎる主義なので拠り所にはできません。
今戦っているどちらの陣営も神様との戦いになります。本当の道徳は、心の、精神の幸福を探求する主義です。あり得るなら、食べる物も衣服もないほどでも、心、あるいは精神の面の幸福を探求します。これです、物質主義の危険は。最高に危険で、比較できる物がない人道の倒産で。それは休まず沈みます。
更に、「朝な夕なに胡弓を弾き、愛欲の館にばかり出入りする」という文章を、このように述べれば、みなさんは古臭い「タイ語事始め」を教科書に使う時代の人の話と考えるかも知れません。しかし朝晩胡弓を弾いて、愛欲の館に入り浸っているのは、道徳の崩壊が原因かどうか、良く考えて見てください。述べたように何十ものラジオ局の「八割の歌」を二十四時間聴かせることが、朝な夕なに胡弓を弾き、簡単に歓楽街に入り浸る状態を生じさせる原因です。
ラジオ局がない時代は、誰がどのように胡弓を弾けても、探して来るか雇いましたが、今は胡弓を弾く必要はありません。ラジオを買うだけで、ニ十四時間いつでも、朝な夕なに胡弓を弾く状態があり、そのようなことが多くなっています。これについては、つい最近まで農民、あるいはゴム農園の労働者でも、若い男がお金を持つと腕時計や万年筆を買って、使わないで突っ込んで吊るしておきました。
しかし今は変わり、お金があればラジオを買うので、流れるように売れます。それは「朝夕胡弓の演奏の番をする」利益のためで、教育のためではありません。そして私たちのこの種の若い子は信頼できるでしょうか。このように胡弓の演奏の番をしている状態がある時、彼らにはどのような心情があるか、昔のように道徳の範囲内にいるか、考えて見てください。
もう一つの文章は、「サーワッティーの街は 誰も誰かを憐れまない」という文章は、「タイ語事始め」の文章で、それはこのように時代遅れです。しかし今考えて見ると、「誰も誰かを憐れまない」と言うのは、慌てふためくほど恐れているコミュニズムを生む原因ではないでしょうか。ある国はコミュニズムを恐れて眠れず、神経症になってしまう人が毎日増えています。これは「誰も誰かを憐れまない」ことが原因で生じます。そうではないでしょうか。
貧しい人が金持ちから憐みを受けなければ、あるいはそれぞれの側の誰も誰かを憐れまなければ、引っ手繰る主義でない何が生じるでしょう。それは「平等」という、誰も他人を憐れまないよう強制する主義です。なぜこれらを見過ごすのでしょう。それは呼ぶ名前もないほど凶悪で、悪霊亡霊と呼んでもまだ、その凶悪さの半分にもなりません。だからみなさん、望まない新しい主義を防ぐために、この呪文を唱えてください。
私たちの心に、未だかつてあったことがない新しい何かの種(germ)は萌しません。しかし信じないなら、試しに「朝夕胡弓の番をし、歓楽街に入り浸る」、あるいは「誰も誰かを憐れまない」でみてください。間もなく、誰からも病原菌をもらわなくても、自然に必ず悪病が生じます。物質主義はどの形も、専制主義でも自由民主主義でも、物質主義と名が付けば身勝手にするだけです。
迷って肉体面の幸福を崇拝すれば、身勝手であるselfishnessに導き、あるいは沸騰したegoismはselfishnessになります。これはすべての争乱、そして障害、敵、浮動、そして世界の道徳の崩壊の原因です。
身勝手は先生方の当面の問題である道徳の敵でなく、どの分野にとっても障害であり、敵です。それは悪霊であり、サターンなので、消滅しなければならないだけです。だから道徳だけの敵ではないと言います。今非常に求められている政府の節約政策、発展政策を例にすると、多くの国民、あるいはほとんどの人が肉体面、物質面の手下になれば節約はできません。物質面の悪霊の呪文に溺れた人を誘って、節約させる方法はありません。彼らはラジオを買って、「八割の種類の歌」を聴くだけです。そしてそれは幾らか考えて見てください。
それだけではありません。私たちの心は壊れてしまい、惑溺した若い人の心は、肉体面の幸福だけを考えて煮えたぎり、そしてまだ道徳を消滅させることをします。この部分の損害は、お金で計算できないほど莫大です。だから政府がどんな方法で節約しても、一年で何百万でも、この原因で落ちた若者の心の下落を補償できないのに、その上節約などできるはずがありません。私たちが彼らを誘っても、彼らは節約できません。そして他人が節約を助けることもできません。
それは、物資面と精神面、あるいは心の面でも、彼らが浪費することと見合いません。だから私たちタイは、各種の煩悩の餌である物質を買うために、必要もないのに巨額の浪費をしなければなりません。だから節約できる節約は年に百億でしょうか。あるいはそれくらいでも、どんなに密にしても象は潜りぬけ、どんなに粗くしても虱は潜りぬけ、気持ちの良い節約ではありません。これらの経済的な利益である何らかの発展があるよう誘うことはできません。それは肉体面の幸福の悪霊に落ちた心には使えません。
心が悪霊の奴隷に落ちていなかった祖父母の時代には、懇願しなくても、あるいは今のように強制しなくても、彼らは自然に発展できました。彼らは「助け合って自由にする」と言う方式でお寺を建て、菩薩堂を建て、堀、運河、道路を造ることができました。今は人が増え、何が増えても、先祖たちの方式を使えないのは、肉体面の幸福の悪霊が頸木になって心を縛り付けるからです。そして文学、芸術品・歌・音楽、私たちが憧れる形で流入してくる西洋のいろいろ何でも、何種類もの文化の威力で引っ張って行くからです。
要するに、これが道徳の障害・敵・揺らぎ、そして崩壊です。みなさん見えますか。教育省が何としても道徳を復興させて大切にする義務を引き受けるのは、肉体面の幸福の悪霊に敵うでしょうか。戦うには、何とかしなければなりません。教育省に余力があるなら、考えて見てください。先生と名乗らないみなさんも、もう一度考えて見てください。
動物の精神面の状況を高める義務をする人と、本当に協力することができます。道徳を解決する最高に重要な点である問題に関心を持ってください。述べたすべては、煩悩、あるいは煩悩の餌と呼ぶ一語以外に何もありません。だから私がたくさん例を挙げたのは、当て擦りでなく、世界の煩悩という言葉の意味を説明するためです。
先生のみなさんが、子供にどのように教えれば良いか分からなければ、煩悩という言葉、あるいは煩悩の消滅でも、本当にある物、本当に生じ、本当に心の中にあるものに使わなければなりません。述べたように教えれば、煩悩という言葉を理解します。
次は、直接煩悩と呼ぶものについて熟慮します。子供に煩悩を教えるには、子供を捕まえて、「心の機械はそのようで、そのように進行するままに放置すれば、そのような煩悩になる」と述べた前回の講義の状態で、心のメカニズムを教えなければなりません。このように昇華すれば、形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わい、一度皮膚で接触することに知性が生じて徳、善になります。
放置すれば煩悩になり、最善にする努力をすれば悪を善に変えることができ、知性が生じて徳になり、善になります。目・耳・鼻・舌・体・心に触れる環境は二通りに生じ、善い方、悪い方だけでなく、どのようにも生じることができます。前もって知ることができるかどうかは知性次第です。煩悩について話せば、一つだけにしたいなら無明で、無明とは、正しい知識がない状態という意味です。それを無明と言います。これが一つの煩悩です。
私たちの心の一瞬が正しい知識がない状況にあれば、その時は無知である無明がいっぱいです。この無知は三種類の子を産み、最高に耳慣れているローバ(貪り)・ドーサ(怒り)・モーハ(迷い)です。あるいはラーガ・コーダ・モーハ、あるいはラーガ・ドーサ・モーハとも言います。呼び方次第で、どれも三種類です。
最初の煩悩はローバ(貪り)で、「欲しい、手に入れたい」です。魅惑するほど強烈なら「ラーガ」と言い、欲情するほどです。次はドーサ(怒り)、あるいはコーダと言い、加害という意味があります。他人に怒ってもコーダと言い、症状は同じです。もう一つ、最後のモーハ(迷い)は迷いで、これが三煩悩です。
もっとはっきり見えるように分類すれば、この三語の意味を、多少深く知らなければなりません。手取り早く自分に引き寄せて独占する原因である煩悩をローバ(貪)、あるいはラーガの種類と言います。追い出す、あるいは破滅させる、要らない種類の感覚、こういうのは、ドーサ(瞋)、あるいはコーダの種類です。残るもう一つは恍惚、躊躇い、真実のままに知らない、要るのか押し出したいのか良く分からない、こういうのはモーハ(痴)です。
煩悩は幾つもの名前があり、何十、何百、何千あっても、この三種類以上はありません。つまり、述べた分類規則で簡単に、この三種類に仕分けすることができます。だから貪・瞋・痴の三種類の煩悩を、三項目だけに集約して大部分を明示し、詳細な部分は幾つに分けても良いと言います。
次に試しに分類して、日常的に生じている状態をお見せします。つまりある人にとってはほとんど毎時、毎分と言うこともできます。あまり表出が強烈でない煩悩の症状であることは事実ですが、それも煩悩です。これをウパキレーザ(随煩悩)と言います。
随煩悩とは小さな煩悩という意味で、つまり一段下の煩悩で十六に分かれています。みなさん、子供たちが知ることができるか、先生はどのように教えるか、よく聞いて見てください。これは十六煩悩の話です。
アビッチャナー@。最初の項目はアビッチャナー(貪欲)、手に入れようと狙う貪りです。横取りするのをアビッチャナーと呼ぶのは、自分が欲しい物を狙うという意味だからです。毎日私たちは、欲しい、あるいは欲しいと野望する何でも注目します。一日に何十回アビッチャナーが生じるか、考えて見てください。実体がある物を狙っても、実体がない物でも、煩悩、欲望の願望に応えるために欲しい物は、全部アビッチャナーと言います。アビッチャナーだけでも、一時それが現れ、一時これが現れ、カニを捕まえて笊に入れるようで注意しきれず、排除できないように見えます。
次はドーサAと言い、その次はコーダBと言い、その次はウパナーハCと言います。ドーサは加害心で、コーダは憤怒、ウパナーハは怒りを溜めておく怨恨です。この三つは同族です。つまり怒りの話で、ドーサの種類に仕分けします。ドーサ、加害心は悪の方の憂悶ですが、まだ誰かを怒っているわけではありません。一人でいても加害を考えることはでき、他人が関わらなくても自分だけで苦になることができます。あるいは加害する方へ向かう憤りはドーサで、水面下でドーサに駆り立てるのまで含めます。
コーダは、怒らせる二番目の人物が必要という意味です。私たちが見ているような怒りは、例えば使用人を怒る、その人に怒る、この人に怒るなどから命のない物まで、第二の物、あるいは第二の人物が怒らせることもできると言います。
ウパハーナ(怨恨)は怒りを溜めておくことで、その怒りは心から出ていくのが難しいという意味です。いつでもそれを涵養しているからです。ここを少し詳しく観察してください。観察が好きな人は、些細なこと、あるいはほとんど何もない話でも、ウパハーナになれば休みなく憂悶すると、つまり更に怒るため、もっと長く、もっと多く嫌うために、自然にどんどん拡大すると見えます。
時には前もって考えておくこともあり、まだ何も生じていないのに、誰も怒っていないのに、もしあの人がこう言ったら、私はこのように言い返そうと考えます。考えは楽しく夢中になり、苦い夢、あるいは熱い夢です。このように覚めてみる夢もウパハーナで、策略家である若者は最高にウパハーナが多くなります。それはどのように危険か、観察して見てください。
アビッチャナーDは貪りの仲間です。このドーサ・コーダ・ウパハーナは怒りの類の煩悩で、残る十二種類はモーハの類の煩悩です。つまり、
マッカ(悪口)Eは他人の恩を軽視します。これは、他人、他の動物の恩を知らない、あるいは知っていても、わざと知らない振りをするという意味です。道路に感謝し、助け合ってそのような状態を維持する人がいるでしょうか。いるのは路面を苦しめ、境界から食み出して植木を繁らせる人ばかりで、その恩を知らないと言います。
誰か、このような忘恩の状態にある人はいるでしょうか。動物の恩を知らず、美しい家畜、あるいは乗り物である家畜でも、恩がある牛や水牛を殺してカレーにして食べるのは、全部肉体面の幸福の悪霊に供えて祀り、誰も関心がありません。世界を美しく飾ってくれる恩がある美しい蝶を好んでも、その恩を知りません。次に高くなって人間同士は、互いに恩を知らず、世界を破壊します。
考えて見れば、恩がない人は誰もなく、他人の恩に関わらずにどこかへ動いて行ける人はいないので、これは本当に恩を知る人の視線、あるいは心で見なければなりません。そうすればこの真実が見えます。だから私たちは忘恩病で、恩がある物の恩を最高に簡単に消します。子供たちは常にあらゆる方法で恩返しを知るよう訓練を受けなければなりません。
次はパラーサFと言い、常に叩くことです。相手ほど善くなく、相手と同等の物がなければ、態度で、言葉で、心で、常に相手を叩きます。内心にあるいつでも叩きたい気持ちは、当然自分だけが知ることができますが、体や言葉で表すのは嫌います。しかし生じるのを制止できません。
次はイッサーGと言い、嫉妬という意味です。ブッダを長とする大学者のみなさんは、「嫉妬は世界を破滅させる」、あるいは「オラティ ローカナーシカー」嫉妬は世界を破滅させるもの」と捉えます。世界を二つの部類に分けて戦うと言うなら、どちらの側も互いの獲得、所有、立場を嫉妬し、誰も自分と同等、あるいは自分より秀でさせたくありません。相手の方が少なくても嫉妬し、著しければ、金持ちが貧乏人に嫉妬することもあります。これは世界を破滅させる物です。嫉妬を止めるだけで、どちらも平和に暮らせます。
次はマッチャリヤ(吝嗇)Hで、ケチのことです。これは、生老病死の友に分け与えることを知らないほど愚かという意味です。布施をするのは天国を買う、あるいは宮殿と交換するためで、誠心誠意、あるいは惜しまず寄付するのではありません。誰もが、投資したら元以上に取り返さなければならない規則を持しているように見えます。直接・間接に投資しても同じで、元以上に戻らなければなりません。元以下であるのを認めないのを、吝嗇ゆえに純粋に寄付することを認めないと言います。たくさんあってもまだ欲しがるのは吝嗇の話です。
次はマーヤー(欺瞞)Iと言い、外部と内部が一致しないという意味です。つまり心と言葉、あるいは話すこと、あるいは態度が違います。マーヤー、あるいはマーラヤーについては私が説明するまでもなく、理解しています。
サーテッヤという言葉は自慢という意味で、これは動物でも自慢する本能と見なすべきです。犬の子、鶏の子、あるいは鶏も自慢という症状があります。それらは自慢、あるいは抑圧を表すあのような、このような態度を取ることを知っています。クジャクなどは、常に最高に何か自慢していると、簡単に見ることができます。しかし人も冗談でなく、常に自慢する準備が整っています。これは、説法を聞いても意味分からなくする煩悩です。
つまり心は、「いつ自分に話す機会があるか」、あるいは「自分の意見を表す機会があるか」、機会を窺がうことに専念しています。このように心が覆われるので、聞いて意味が分かりません。聞いている間、あるいはお喋りしている、討論している間中、常に自分の心境を自慢したがります。だからいろんな討論は大混乱します。てんでに自慢するからです。だから随煩悩の害は少なくないと見ます。
次はタンバ(頑迷)Jで、抑えつけられるものがない頑固な頭という意味です。タンバという言葉は柱という意味ですが、タンマの面の意味は、柱のように固い頑固な頭を意味します。柱の頭を抑えて、抑え付けられるか試して見てください。それはどれくらいの重量でしょうか。まっすぐに立っている柱なら、柱の頭を押さえると、信じられないほどの重量を受けることができます。タンバ、あるいは頑固な症状はこのようです。小さな子供にもこのような症状があり、大人は言うまでもありません。だから道徳の訓練、あるいは私たちが訓練したい何かをするのが困難です。
次はサーランバ(偽善)Kと言い、これは誤魔化すことを意味します。約束を守らずに言い訳し、自分に言い訳をすることもあります。つまり心が何もしたくない時は、何度も自分に言い訳をして、それをしません。助け合って節約し、発展させる集団誓約の義務も、いずれにしても、常に言い訳がなければならないという意味のサーランバで破棄されます。言い訳のための出口は、いつでも様々な種類を探すことができます。これはサーランバを養っておいて誤魔化し、寄り道し、躊躇し、するべきことをしない、あるいは十分でなくさせる道具です。
次はマーナ(慢)Lと言い、威張ることです。これはエゴからエゴイズムになり、エゴイズムは「私は私」と感じさせる原因です。「私は私。他人を認めることはできない」という意味です。しかしマーナと呼ぶものを上手く昇華できれば、マーナを善い方に、利益になる方に使うことができます。随煩悩である物は煩悩のための慢、肉体面の幸福の悪霊のための慢などを意味するので、全部随煩悩とします。
次はイティマーナ(過慢)Mと言い、威張るだけでは物足らず、他人を侮辱することです。威張ることが多くなると他人を侮辱し、他人を侮辱することに気づきません。油断しないでください。私たちは常に他人を侮辱する用意があり、機会がなければ良いですが、機会があれば自然に口を滑らすと、よく観察して見てください。
「女性も他人の悪口を好む」と言う一種の病癖が生じ、他の話より悪口を好むように見えます。これも他人を侮辱する話に含めます。多弁の人は話す言葉に注意しなければなりません。寡黙な人は安全です。
次の十五番目をマダ(驕慢)と言い、十六番目はパマーダ(不注意)と言います。この二つはよく似ています。マダは酔うという意味で、パマーダは完全に酔うという意味です。パマーダは(タイ語の)プラマート、完璧に酔うという意味で、マダは執着の基盤である物、特に肉の面の幸福に酔うので、酔って明るくない中毒の話です。
パマーダは、酔えばサティを失い、サティが無くなるという意味です。サティが消えることをパマーダと言い、サティを失わせる原因である陶酔をマダと言います。この全部で十六種類を十六随煩悩と言います。本当の日常生活の話ですが、衰退する側、私たちを苦にする側です。
もう一つの煩悩の部類について述べます。それをサンヨージャナの十項(十結)と言います。これは繊細な煩悩で、涅槃への到達、あるいは直接聖向聖果について述べる話です。しかしすぐに、私が必要のない話をして押し付けると非難しないでください。十結はどのようか、そしてそれを消滅させるために、どのように涅槃に到達した人になるか、そしてどのように本当に日常生活で使えるか、もう少し我慢して聞いてください。
サッカーヤディッティ(有身見)は最初のサンヨージャナ(結)で、自分のことばかり考えます。つまり自分があると理解し、そしてその自己中心主義が、一般の人にあるselfishnessで、サンヨージャナの第一項とします。
サンヨージャナの第二項はヴィチキッチャー(疑)で、どうするか確信がないことです。これはすべての種類の確信がないことを意味し、善い先生になれるか、あるいは管理職になれるかでも、職務、職業に確信がない。これもヴィチキッチャーと言います。あるいはダンマは善いか、世界は善いかも確信がなく、道徳は善いかも確信がありません。
理想は確実に善いか、あるいはお金の方が良いか、確信がありません。カンマの話、カンマの結果の話も確信がなく、ブッダが悟ったことにも確信がありません。あるいはブッダ・プラタム(教え)・プラソン(僧)を拠り所とすることにも確信がなく、精霊の祠を信じるのが良いかどうかも確信がありません。こういうのは全部ヴィチキッチャーで、確信できません。
三番目をシーラッパタプラマーサ(戒禁取)と言います。この言葉は、文字では「戒や勤めを撫でまわして汚す」という意味です。戒、あるいは勤めと呼ぶものは、私たちを世俗側も、ダンマの側も善くする美しい行動規則です。次に彼らはこれらの物を誤解し、理由がなく間違った、あるいは理由の威力外にある使い方をします。
例えば本当のブッダ・プラタム(教え)・プラソン(僧)がどのようでも、彼らは正しく理解しないで、あれやこれをブッダ・プラタム・プラソンにします。その結果料理を供えて祈願する類のブッダ・プラタム・プラソンになることもあります。首に掛ける神聖な物もあります。どれも本物でないものを掴み、本当に滅苦ができる物ではありませんが、名前に執着します。これを「それらの戒と勤めを撫でまわす」と言います。かつて純潔清潔で有益に使ったものを憂鬱にし、有益に使えなくすると言います。
このような症状は研き落とせないほどたくさんあります。家でもどこでも見て見ると、秘策を信じ、霊験を信じ、運を信じ、何でもいろいろ信じます。これらは自分に確信がなく、道理を信じず、道理の範囲にいません。このような症状は、チャオプラヤーダンマサックモントリーが大臣だった時代に無くなるべきでした。あの方はこの話について学生にたくさん話しています。なぜ無くなったと見られないのでしょう。
この三つを、最初のサンヨージャナの三項(三結)と言い、捨てられれば預流です。どれほど高いか低いか、深いか浅いか、多いか少ないか、みなさん考えて見てください。有身見を捨ててしまうことができ、疑を捨ててしまうことができ、戒禁取を捨ててしまうことができれば、この三つを捨てるだけで預流です。預流は在家にも出家にもいて、女性でも男性でもなれ、所帯を持つこともでき、独身でも良いです。ブッダの時代に現れているように、この三つを捨てることができ、まだ他にある程度捨てれば、より高い一来です。
次に四番目のサンヨージャナ(結)は、カーマラーガ(欲貪)と言います。これは愛欲に執着して惜しむという意味で、非常に粘っこい糸です。
五番目のサンヨージャナはパティカ(瞋恚)と言い、怒りの威力による焦燥を意味しますが、沸騰ではありません。この二種類は依流では捨てることができず、一来も捨てられません。繊細な煩悩だからです。カーマラーガ、あるいは粗い怒りは捨てることができます。この二つの繊細で見えないものは、依流と一来はまだ捨てることができません。捨てられれば不還、つまり第三番目の聖人です。残っているサンヨージャナのあと五つは、阿羅漢である人は捨てなければなりません。
サンヨージャナの第六番目はルーパラーガ(形貪)と言い、形がある物、あるいは愛欲に関わらない純粋な形から生じた幸福を喜んで欲情することです。
サンヨージャナの第七番目はアルーパラーガ(無形貪)と言い、形がない物、そして愛欲に関わらない物から生じた幸福を喜んで欲情することです。以前に例を挙げて簡単に理解させたことがあるように、ある老人は五欲に関わりませんが、盆栽、花木、骨董、壺、あるいは純粋な物質であるそのような物に夢中になり、他の人を忘れ、妻子を忘れることがあります。
無形貪もナーマダンマに夢中になります。名誉、名声、あるいはそのような物、あるいは学問、知識、研究に夢中になって妻子等を忘れることがあります。これは低い例です。しかし本当は形禅定、無形禅定に到達した人物がその二つの禅定から生じる幸福に惑溺することを意味します。こういうのは、不還もまだ捨てられません。預流・一来・不還もまだ捨てられず、捨てられるのは阿羅漢だけです。
八番目のサンヨージャナはマーナ(慢)と言い、「自分はいる」、あるいは「どのようにいる」と理解することです。つまりあの人より良い、あの人より悪い、あるいは同等と複雑です。こういうのをマーナと言います。このような感覚は捨ててしまうべきで、捨てなければ、いつでも苦の話があります。
九番目のサンヨージャナはウッダッチャ(動揺)と言い、心が散漫になることです。すぐに理解できるように簡単に言えば、いろんな興奮であれこれ形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わった時に興奮し、非常に関心を持ちます。何も欲しがらず、愛欲を欲しがらなくても、関心を持たずにはいられません。あるいは興奮せずにはいられません。
これは自分にとって危険か、恐ろしいか、走って逃げられるか関心があるからです。これも好奇心、あるいは関心です。時には何かの利益に使えるかも知れないと関心を持ちます。こういうのも好奇心、あるいは関心です。何らかの疑念、気掛かりに原因があるからです。そして本当の原因は、本のわずかでも、まだ身勝手な部分があります。
最後のサンヨージャナの十番目は、アヴィッチャー(無明)と言い、知識がない状態です。それは「何が本当の苦か」「何が苦の本当の原因か」「何が本当に苦のない状態か」、そして「何が本当に滅苦に至らせる道か」を知らなくさせる原因です。後半の五つのサンヨージャナを捨てた時、阿羅漢になります。
このような十のサンヨージャナも煩悩と言います。「煩悩」と、同じ名前で呼びます。しかしより繊細な段階なので、動物の心を最高に、そして気づかずに縫い付けるという意味の「サンヨージャナ(結)」と呼びます。これらは高いダンマの名前です。それをどのように子供に教えられるでしょうか。それは何を意味するか、大人が理解してしまえば、本当はすごく簡単です。これから熟慮して見ます。
有身見は自分のことばかり考える話で、子供も理解できるはずです。子供に自分のことばかり考えないよう教えるのは、有身見を捨てるよう教えることです。疑を捨てるよう教えることは、理想のある人、確実不変な実践規範があり、迷わず、後退しないで、規則や、人生でしなければならないことを確信する人であるよう教えることです。こういうのを疑と言ってしまっても良いです。
戒禁取も同じで、教育省が一時真剣に排除しましたが、まだ成功していません。道理の威力の中にいないのは戒禁取です。これらのサンヨージャナの意味を知れば難しくなく、形を変えて子供の解決に使うことができます。そして解決できれば、道徳面の衰退を本当に解決できる、心の最高に深い部分の解決です。だから関心を持つべきです。
モームチャオ・スパサワット殿下の話があった会議の報告、討論か何かの時、これらのサンヨージャナの十項を学生の研修規則として使うよう提案なさいました。道理がないことと見ないでください。私もここで、同じ話をしています。説明の言葉が同じでないのは、別の角度を狙うからです。
不還になるために捨てる、カーマラーガ(欲貪)とパティカ(憤懣)については、これらの子供は適度を超えた愛欲面の欲情の機会があるとはっきり見えています。そしてあるべきでない場面で大騒ぎさせるパティカがたくさんあります。私たちは同じ系統で適度に実践方法を改善します。あるいはレベルは違っても同じようにします。ルーパラーガ(形貪)、アルーパラーガ(無形貪)は子供にとっても意味があります。例えば形に酔ってはいけない、あるいは何かの物質に酔いすぎてはいけないのは、ルーパラーガの話です。
あるいは名誉や褒賞、おべっかに酔い、他人が唆して信じ込ませることでも何でもできるほどなのは、無形貪に酔う話です。マーナ(慢)、威張ることは、適度を知り、捨てるべき部分を捨てます。ウッダッチャ(動揺)の部分は、何かに非常に、あるいは簡単にエキサイトしません。無明を捨てる部分は、学ぶべきものを急いで学び、早くたくさん知らなければなりません。
そのようにできれば、このような方法で聖向聖果涅槃に到達するための実践規則を、子供たちの研修に応用できるということです。話は一つだけですが、先生方はこれらの物を十分理解しているでしょうか。まだ十分でなければ、向き合わないで走って逃げ、これらの言葉を一語も学ぼうとせず、子供たちのアリヤダンマの訓練で仏教の教えを使えません。だから真っ暗で、術がありません。
子供たちに涅槃を理解させるなら、このように簡単にできます。子供を捕まえて「ずっと笑い続けなさいと言ったらできる?」と訊くと、首を振って拒否します。「それならずっと泣き続けるのはどう?」。更にできません。だから笑わなくても良い、泣かなくても良い方がいいでしょう。子供も、笑わなくても良い、泣かなくとも良い方が楽しそうだと考えることができます。
だから涅槃という言葉の意味は、上らず下らず、中間に空でいて、喜ばず悲しまず、「自分」「自分の物」という考え・理解がありません。このように教えれば、正常な状態に自分を維持することを知っている、本当の紳士である子供になります。
伏してお願いします。子供たちに説明できないほど高いダンマの項目があると考えないでください。特に煩悩の話は、先生方全員が学んで理解して、精通してください。それらは生涯、本当の道徳の敵、揺らぎ、崩壊としてあるからです。
時間がなくなってしまいました。話すつもりだった煩悩の話を全部講義できなかったので、後日に持ち越させていただきます。要するに、煩悩と呼ぶものの話、あるいは煩悩と呼ぶものに、最高に危険であるどんな話よりも特別に関心を持ってください。煩悩より危険なものは何もありません。だからこの話について二日の時間を掛けなければならないみなさんにふさわしく、障害、あるいは道徳の崩壊である話に、特にたくさん関心を持ってください。
時間になりましたので、これで今日の講義を終わらせていただきます。
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