2.道徳は一つの系統しかない





1962年1月8日

 グルと名乗るみなさん。

 第二回目の講義は、「道徳と呼ぶものは一つの系統しかない」という題でお話します。奇妙、あるいは不思議と言えるほどです。しかしこれにはあまり意味がなく、一つの系統しかないから理解させることができ、簡単に使える点に意味があります。しかしほとんどの人はたくさんの系統があると理解しています。だから私が「一つの系統しかない」と言うのは、一部の人の感覚、あるいは古い知識にとって衝撃かも知れません。しかし次に事実はどのようか、そして学習と実践に、どのように便利かを知るために、関心を持って聞くようお願いします。


 何より先に、最初の講義で述べた内容を思い出してください。原則である内容だけが心に明らかに現れれば、その後聞いて分かりやすいです。私は、グルという言葉はspiritual guideという意味があり、常に庶民の精神面の導き手と述べました。グルという言葉の理想を理解すれば、他の物は簡単です。先生がこの言葉の理想を理解しなければ、自分自身を脚払いするようなことが、教育面と仕事の実践面で際限なく生じます。しかし実践して自分をグルという言葉の理想に合うようにすれば、いろんな物は順調になり、簡単になり、そして実に楽しくなります。

 ダンマと呼ぶ物はすべての物です。だから何種類もあります。ダンマに何種類もあるのは、ダンマという言葉は例外なくすべての物を意味するからです。だから道徳(チャリヤダンマ)という言葉は一部だけ、何種類ものダンマの一種類です。そして道徳は望ましくない種類の物、特にすべての苦を廃除する道具であるダンマを意味します。そして冒頭で述べたように一つの系統しかありません。ダンマは同じ系統、同じ系列でもいろんな形、角度があります。

 それぞれの形は、述べたようにいろんな角度があり、目的、あるいはそのダンマに関わる人の願望によってどの角度を見るかによって違います。そして最後には一つの真実に出合います。道徳は、本当は「これが宗教、これが梵行」とブッダが話された八正道です。そして八正道と呼ぶものをチラッと見ただけで、教育省が基本としている知育・徳育・体育、そして手工芸育である四つの部類の教育の状態に見えます。ハッキリ見なければなりません。そうすれば現代のみなさんの教育界でダンマを使うのに便利です。


 次に疑念がある人に関してですが、昨日疑念のある項目を提出していただきました。疑念を持つべき物、つまりこれらの問題に対して疑念を持つことはとても善いと見なします。本当に疑うべき物に生じる問題だからです。例えば先生は精神面、あるいは心の面の指導者と述べた時、「心、精神、あるいは意とは何か。どう違うのか」と質問した人がいました。心、精神という物を正しく知って、彼らのその部分の導き手になるためなので、誰でも良い問題と認めなければならないと捉えます。

 つまり問題にすべき、あるいは「良く行動するもの」と喝采を送るべきです。これについては今日、これから説明します。だから疑念のある方はいつでも紙に書いて提出してください。そうすればそれらをまとめて分類して、すべての問題をその日に講義します。だからどちらの側にも便利です。心、精神という言葉については、これから説明します。

 時には「エータン ブッダーナサーナン」という言葉を取り上げ、「パーリの中に宗教という言葉があるのに、なぜブッダの時代は、現代人のように宗教という言葉を使わないと言うのか」と、サーサナという言葉に疑念を持つ人がいます。

 これは「ブッダの時代は、私たちが毎日使うように宗教という言葉を使わなかった」と説明を加える、あるいは主張させていただきます。私たちは日常、「あなたは何の宗教を持っていますか」と質問します。キリスト教、あるいはマホメット、あるいは何でも、私たちは「何の宗教?」と質問し、今日の私たちは、宗教という言葉をこの意味で使います。しかしブッダの時代はこの言葉を使わず、ダンマという言葉を使い、彼らは「あなたは誰のダンマが気に入っていますか、誰のダンマを実践していますか」と質問しました。

 つまりゴータマサマナのダンマ、あるいはニガンダナブッダのダンマ、とこのように。彼らは私たちが今使うように「宗教」という言葉を使いませんが、代わりに「ダンマ」という言葉を使いました。宗教という言葉を使う人がいれば、人が使わない言葉を使うのと同じです。その言葉は文学の言葉、あるいは開けっ広げの言葉です。

 たとえば「エータン ブッダーナーサーサナン という言葉は、全文は「サッバーパーパッサ アカラナン クサラスサムパダー サチタンタパリヨダパナン アータン ブッダ―ナサーサナン」と言い、これは詩の言葉です。

 今のタイ語なら、八言の詩のように、話す言葉ではありません。サーサナー(宗教)という言葉はありましたが、話すための言葉ではありません。だから形式的な言葉、本のための言葉です。私たちが口語というのは、あるいは本当に話す言葉はダンマという言葉ですが、宗教という言葉は本のための言葉、詩歌の言葉になります。このように理解してください。


 カンマの話を質問した方もいます。多くの方がカンマの説明をしてくださいと言います。カンマの話は、別の日に一日かけて詳細に述べなければなりません。

 聖向聖果と八正道は同じですかと質問した方もいます。それは同じではありませんと答えます。しかし偶然名前が同じ(マッガ)で、八正道は実践を意味し、聖向聖果は実践の結果を意味します。そしてこれも、後日詳しく述べます。非常に喜ばしいことに、多くの方が、無我と涅槃を、子供たちが分かる状態で説明してくださいと言われました。これは私の意図する所と一致します。毎回述べます。

 「戒とサマーディが先頭になければ、智慧は生じられない」という項目は、良い質問です。この話は、最初の日から説明する努力をしました。論理面、話すため、勉強のためには「戒・サマーディ・智慧」の順に並べますが、本当に実践する時は、新しい順にしなければなりません。いつでも智慧が先頭になければなりません。教えのように遵守するなら教えはあります。それは仏教その物であり、梵行その物である八正道で、述べたように正しい見解、正しい望み、正しい言葉と、正しいサマーディまで並んでいる八正道の並び方です。

 先生のみなさん、この八つの言葉に最高に関心を持ってくださるよう、伏してお願いします。そして次に、ブッダがそのように並べられた八正道の中の最初の二項は智慧で、次の三項が戒で、次の三項はサマーディで、ブッダは「智慧・戒・サマーディ」の順に、変えることができない明らかな形に並べていると熟慮して見なさい。ブッダが間違ったと見なすかどうか、考えて見てください。

 熟慮すれば、「いつでも智慧が先頭でなければならない。戒とサマーディがあるのは、戒とサマーディは利益があると知る智慧があるからだ。私たちが寺へ行くのは、連れて行く智慧がなければならない。寺には利益があると知るから、智慧ゆえに寺へ行く」と見えます。あるいは私たちが利益を求めて何の勉強をするのも、最初の段階で智慧があるから、その行動が生じます。そしてその行動は更に輝かしい智慧を生じさせます。

 つまり戻って来て智慧を支援し発展成長させ、そして智慧もその行動を更に遠くへ連れて行きます。だから智慧が、いつでも先導しなければなりません。ブッダは、正しい見解、あるいは智慧を黎明に例えています。黎明があれば、必ず昼が来ます。

 智慧は重要な物として先導しなければならない、主であると説かれている他のブッダバーシタはまだたくさんあります。たとえば「パンニャー ヒ セッター クサラー ヴァダンテイ  ナックッタラージャ―リヴァ ターラーカーナン」は、「智慧は重要な物」、あるいは「月がすべての星より明るいように、最高に秀でた物」という意味です。戒でも何でも智慧の威力によって生じるので、戒・サマーディ・智慧のような並び順は、低いものから高いものの順に並べると言います。

 しかし智慧・戒・サマーディの順は、本当に実践しなければならない順に並べると言います。何時でも智慧を先頭にしなければなりません。そうでなければ戒やサマーディは、藪や森に突っ込みます。私たちは智慧で生きなければなりません。智慧で呼吸すれば、いろんな物は自然に正しくなり、その行動は正しくなります。


 この講義に外国語の言葉が紛れ込んでいることについて何人かの方が言及しているのは、ご寛恕願わなければなりません。道徳と哲学の世界で使っている言語である外国語の言葉は、非常に普及しているのと、幾つもの文章で長々と切明するより、みなさんも良く知っている一語で話すことができ、時間の節約で良いと考えるからです。

 いずれにしても紛れ込まないように極力努力し、そして紛れ込んだら時間の節約のため、早く理解するためです。ほとんどの先生は十分な意味でこの言葉を理解しているので、ほとんどは便宜のためと見なし、これに関して難しくする意図はありません。そして困難にする言葉の部分は避ける努力をします。


 非常に嬉しいのは、提出された内容の多くは、「ダンマで、宗教で、子供を教える方法を教えてください。どうすれば良い結果があるか教えてください」というのが非常に多かったことです。先生のみなさんがまだ自分を非常に尊重し、義務に関心があることを喜ばしく思います。私はこの講義の間中、常に協力する努力をします。子供に教える方法、あるいは重要な内容のブッダのダンマで子供を薫陶する方法を示しします。


 「道徳と呼ぶ物は一つの系統しかない」という今日の講義を始めます。最初は、道徳(チャリヤダンマ)という言葉は、知育・徳育・体育・そして手工芸育という言葉の意味を網羅していると捉えてください。教育規定が四つに分かれていても、そして一つの系統しかない道徳の規則で進行させても、道徳という言葉次第でなければなりません。行動すべき物は道徳で、行動すべき物、正しさは、一つの系統しかないからです。

 そしてこの系統は、身勝手が生じるほど自分に執着しない教えです。最高に簡略な定義は、「身勝手なほど自分に執着しない」ことにあります。どの分野の教育のどの項目でも、要旨は「身勝手なほど執着しない」という言葉に集約されなければなりません。知育も、徳育も、体育、あるいは手工芸育も、理想に従って正しくするには、身勝手でない状態にならなければなりません。

 そして「身勝手でない」という言葉は、一般に浅くて簡単な言葉と軽蔑する人がたくさんいますが、これは仏教のすべての要旨です。身勝手がまったくなければ、その時は阿羅漢であり、そしてこれだけで最高です。


 私たちの教育界は、身勝手を廃除したがります。あるいは嫌らしい物として世界に鳴り響いているselfishnessという言葉は、世界の何より凶悪な敵です。世界が今地獄になっているのは、他の何でもない、selfishnessのせいです。世界全体がそのようだからです。一人一人の個人も、身勝手の話で困窮します。私たちは子供たちを身勝手でなくしたいので、勉強も教育もしつけも身勝手でないことを目指し、勉強も運動も、あるいは何でも、これを目指します。

 だから生まれたばかりの弟妹に嫉妬しない幼い子まで引き下げます。子供が身勝手なら、生まれたばかりの弟妹に嫉妬するからです。母親が愛を弟妹に分けてしまい、自分を十分愛さないのを恐れるからです。だから身勝手でない課題は生まれたばかりの赤子から、大きな子供、少年少女、老人、そして最後に煩悩がなくなった人である阿羅漢までなければなりません。

 だから道徳は一つの系統しかないと見なします。幾つの分枝、幾つの流れに分けても、何種類にもできません。どの分枝も、身勝手を廃除する同じ目的がなければなりません。だからブッダは「エーカーヤナイ ビッカヴェー マッゴー」、この道は、一人が歩くため、そして一つだけの目的に向かう一本道と話されています。 だから一人が一つだけの目的を目指して歩く一本道です。

 これはすべてのダンマ、すべての梵行はこのような状態があり、このような状態はダンマや一般の道徳にも使うことができるという意味です。だからいつでも「私たちが学び、自分の実践に使うダンマ、そして他人に教えるダンマは、一つの系統しかない」と、基本として捉えてください。複雑でなく、錯綜せず、誰も困惑させません。

 「子供はこのようでなければならず、大人はこのようでなければならず、庶民のはこのよう、寺の人のはこのよう、人間のためのはこのよう、天人のためのはこのよう、聖人のはこのよう」と、人が話すようにたくさんあると考えないでください。それは何も知らないで言っています。彼らは、本当はそれがどのようか正しく見ないで、思ったように、あるいは憶測で、あるいは書いてある手本通りに言うだけで、むしろ錯綜しています。


 次にこれを理解するために学ばなければならない話は、低い心、あるいは低い精神は執着するので、心が身勝手になるほど執着しなければ、高い心、高い精神になります。水である悪や苦より高くなります。次に先生の理想は「精神面を高くする」とあります。ブッダはこの話の素晴らしい先生で、私たちはボロマグル(素晴らしい先生)と呼びます。本当のブッダの弟子は任命されなくても、給料を貰わなくても全員グルです。

 ブッダの本当の弟子の義務は一つだけ。それは、世界の人の精神、あるいは心の地位を高くするブッダの義務と同じです。だからすべての比丘も、グルと名乗るみなさんと同じと捉えてください。精神面の状態を高くすることを目指すからです。しかし私たちは戦術として義務を分けるので、比丘がすることとグルがすることは違いますが、どちらも精神面の状態を高くしなければなりません。


 精神面、心の面の地位を上げるには、心、あるいは精神と呼ぶ物は何かという問題が生じます。これは前に述べて、途中になっています。つまり最初に、私たちが理解し合うのは、心という言葉、精神という言葉、意という言葉です。何語でも、これは執着の中心、身勝手の中心と見なすこということです。心という言葉、精神という言葉、意という言葉はパーリ語、あるいはサンスクリット語で、タイ語ではないとすぐに分かります。

 パーリ語やサンスクリット語を使う人たちの間に、心という言葉、精神という言葉、意という言葉があって使い、私たちがタイ語で言う「心」という物を意味していると言うことです。時々、心・精神・意という言葉を使ってしまいます。私たちは二千年もの間、インドの言葉の文化を受け入れたので、パーリ語やサンスクリット語がタイ語の中にあるからです。だからタイ語の心という言葉と捉えてください。

 しかし心、あるいは精神、パーリ語の意という言葉も、どれも広い意味があり、幾つにも分類できるほど広いです。例えば心という言葉は考えられる心を意味し、感覚を意味し、そして思考できます。心、精神、意という言葉は、パーリ語を良く調べて見ると、幾つかの個所で同じ意味で使っています。つまり入れ替えることができます。しかしある個所では多少意味の広さが違います。この言葉を何に注目して使っているか次第です。このような状態はどの言語にもあります。


 英語などの言葉を観察して見てください。それが一つの話、一つの分野の知識にあれば、他の知識で使う意味と微差があります。これが言語の信頼性の無さです。こういうのはどの言語にもあります。本当の中味は、この三四語は同じ物に注目し、当時の人が「これこそが内面の基礎であり、主役である物」と理解していたものです。心も精神も、一人一人の人間の核のような中心である物です。

 この話の知性がどのようでも、私たちは知性のように話さなければなりません。だからブッダの時代は、心、あるいは精神、あるいは意と呼ぶ一つ一つの物、同じ物が中心に存在していると信じました。仮定で言えば、この体を占領している人です。いろんな意味がある言葉が生まれたのは、心は神様のように創る人を意味し、そして精神は物事を明らかに知ることを意味し、意は一般に知るダートゥを意味するからです。

 時にはマノーダートゥ(意)は一般に知るダートゥと言います。私たちの肉体が、自然にある土界、水界、火界、風界でできているように、心あるいは精神と呼ぶ物はマノーダートゥ(意界)で作られ、それは自然にあります。時にはヴィンニャーナダートゥ(識界)と呼んでしまうこともあります。このように入れ替えて使うことができます。


 私たちが、パーリ語で一般に使われているものに注目すれば、心は身体の中の最高に重要な部分と見なす物を狙い、感じるために登場して、そういう心、こういう心、いろんな種類の心に変化します。アビダンマ家は八十九心、あるいは百二十一心と、違う言葉を使います。つまり八十九種類、百二十一種類と言わず、八十九心、百二十一心と言うので、私たちは聞いて意味が分かりません。八十九種類、百二十一種類と言えば聞いてすぐに分かります。

 マノーダートゥがあれば変わることができます。チェッタシカである他のどの部分も加工し、混ぜ、調整し、そして心もそれに応じて変ります。これを登場人物と言います。精神という言葉は、橋、あるいは出て来て明らかに知る目・耳・鼻・舌などで、それだけを明らかに知る義務をする時という意味です。明らかに知る義務をする物は、心以外にありません。しかし目・耳・鼻・舌などを通じて知る働きを心と呼ぶ代わりに、「精神」いう新しい看板をにします。

 マノー(意)という言葉は心全般のダートゥと見なし、心、あるいは精神の代わりに使うことができます。美しい言葉が欲しく、綴ること、特に詩歌の面の便宜のために見えます。だからそれは特別な教育儀式をしなければならないほど厳格な違いがあると理解しないでください。本当は同じ物を狙っています。そして時々それらの物にダートゥという言葉を使うのは、それは自然のダートゥだからです。神聖で特別な物と捉えないでください。

 だから一つの物を心・精神・意と呼ぶのは、人の中核である物として存在していると見なすことができます。実体があると感じる人は、「この心が本当の私と感じる物」という考えに、勝手に突っ走ったからです。身体を自分にするのは賢くないように、恥ずかしいように見えます。だから深いものを自分に、心という意味にします。


 「私」と生じる感覚は、本当はマヤカシにすぎず、そして心に注目しています。心が自分という感覚を生じさせるからですそして心である自分です。デカルトと言う思想家は、「我思う、ゆえに我あり」と言いました。彼のテキストには、cogito, ergo ergo sumとあります。この人について思って見てください。この人は仏教を学んだことがなく、そして教えを借りて使ったものを学んだことはありませんが、「私は考えられる。だから私がいる」という考えがありました。「私はそのよう、このような感覚を生じさせ、そして心である私です。Descartesという思想家は、「私は考えることができる。だだ」と考えられる一つの物があるので、「私はいる」と捉えなければなりません。

 これは、マヤカシであっても自分が生まれるので、「チッタン アッター ナーマン」という仏教の教えがあります。「心とは自我の名前」です。だから心は自我です。しかし良く見ると、心自体もマヤカシで、自我もマヤカシで、心は自然のダートにすぎません。そして誤解によって自我は「私、あるいは自分」という感覚を生じさせ、その自我もマヤカシです。

 しかしこのような感覚があれば、「心はない」、あるいは「自分はない」と否定できません。普通の人はこのように感じなければならないからです。だから自分という感覚が誰にでも、命があるすべての物に生じます。だから取り敢えず、何としてもこれらの物に関心を持ってください。そうすればダンマを学んで理解できます。


 子供たちを見ても良いです。彼らにどんな自我があっても、そのような自我に執着します。初日にどのように自我が創られるか述べたように、最初は生まれたばかりで、自分という感覚はほとんどありません。しかし環境が自我の感覚を教え、一時「自分の母」がいて、一時「自分の父」がいて、一時「自分の兄」がいて、何でも「自分の物」があり、自分の人形があり、自分の財産があり、ご飯を食べる皿も自分の物でなければならず、そうすれば食べようとします。そして他人がその皿で食べてはいけません。自分の皿だからです。このように自分という感覚は増えて行きます。


 Autonomy(自律性)という物が日毎に増えるので、私たちは今見えるように、あるいは今何かが生じて現れているように、自分、あるいは自分の物という感覚が溢れるほど詰め込まれています。だから心という言葉と自我という言葉は何を意味しているか、それは本物か、あるいは私たちにそのように理解させるマヤカシか、理解すべきです。これらの物を、学ばなければならない重要な物として熟慮すべきです。私たちは身勝手であるいろんな物を廃除しなければならないからです。

 身勝手は自分と呼ぶ物から生じ、先生方の教育界でよく知られているのは、egoとegoismです。ego はラテン語で、英語のsoulに相当します。egoという言葉はsoulという言葉と同じで、パーリ語のアッターという言葉に相当します。だからラテンのegoは、心という言葉より多くの意味があります。ギリシャにはkentrikosという言葉があり、英語で中心という意味のcentreに相当します。Kentrekosはcentreです。彼らはこれを、私たちの中心と見たからです。だから心はどの国のどの言葉の感覚でも、私たちの中心である物です。このように一致します。

 インド人はこれに「チーヴォー」、あるいは「チェッタブーティ」という言葉を使います。「本当の命はこれ」と見なすからです。だからego、あるいはアッターを、チーヴァ、あるいはチーヴォーと呼びます。時には「チェッタブーティ」、つまり「本当にある心」本当にある自分と呼びます。しかしこのチェッタブーティという言葉がタイ語になると、意味が霊や妖怪やそのような物に変わってしまいました。

 チェッタブーティは本物、あるいは本当の自分という本来の意味を捉えるべきです。だから私たちは一つの物、つまり心、精神、意、チーウォー、チェッタブーティから、ego, kentrekosまで、自分と理解する物を狙う幾つもの言葉があります。


 通常私たちは、これらの物を善とか悪とか、徳や罪と見なさない中立にいますが、包囲する物、ぶつかって来る物、加工する物があると身勝手が生じ、そのegoはegoismになり、身勝手になってしまい、ただのegoではありません。自我という言葉は我語取に、つまり自分という執着になります。短く自我と呼んでも身勝手になります。これが根源です。あるいは世界中の人間の厄介な問題である最高に重要な一つだけの物です。みなさん、これをこのような状態で、このような意味で知っておいてください。

 egoismとは何か、本当は確実になければならない物と、はっきり見るべきです。egoism は誰にでも必ずあり、そして確実にあるのは身勝手です。しかし純粋な身勝手はあまり危険ではありません。そして善い方に転じさせる原因になることもできます。何もかも悪の方にしてしまう必要はありません。しかしegoismが良く管理されなければ、つまり善い教育を受けなければselfishnessになります。私たちはselfishnessと呼ぶ物は頼りにならない、依存できない、危険と見えます。しかしegoismと呼ぶ物は何とか依存でき、これに依存して善行をすることもでき、悪行をすることもできます。

 自分を愛すような、自分を大切にするような依存をすれば、それは善い方に引っ張って行きます。しかしどんなに善いことをしても、多分身勝手、あるいはegoismと呼んでいますが、善い種類の身勝手です。だから子供たちに関しては、egoismを無くすよう、あるいは阿羅漢のように身勝手を無くすよう教えないで、善い種類の身勝手があるよう、善い状態があるよう、つまり善い自分があるよう、つまり誰も明らかに困窮させないよう教えます。

 「明白」という言葉を使わなければならないのは、困窮には明らかでない種類と二種類あるからです。そういうのを私たちは好み、愛し、非常に満足します。明らかでない困窮は楽しさ、幸福、いろんな陶酔、美味しさがあるのは明白でない苦です。明白な苦については、苦しめて困窮させないよう控えなければなりません。身勝手があっても他人を明白に困窮させなければ、一般には使い物になります。ダンマで正しい利益の探求だからです。

 誰でも身勝手で自分を愛します。自分が大事で、自分の物を愛すからです。だから自我、あるいは心、あるいは精神、あるいは意、あるいは ただの ego や何かは,執着しなければ大丈夫で、自然のままで、誰も危険にしません。それは命、命の中心であり、命がなければなりません。そして思考が生じ、行動すべきいろんな行動が生じます。


 しかし管理できなければ身勝手が生じます。身勝手が生じたら気を付けてください。それは二つの道に分かれます。つまり善い方にも悪い方にもなれます。望ましい成り行きになるよう管理しなければなりません。つまり互いに困窮させないようにします。だからみなさん身勝手という言葉を規定してください。そうすれば煩悩である、あるいは損害である種類の著しい身勝手を理解できます。身勝手はこのような二つの意味があります。

 selfishness、あるいはそのような何かになるほど著しい身勝手があれば、精神が低く落ちたと言います。心が地獄である状態に落ち、天国ではありません。先生方は心、あるいは精神の状態を高め、そのように低くしないで、何とか見られる状態にあるようにする義務があるので、一段階善い身勝手があります。これはローキヤの話で、世界の人の段階です。ロークッタラの話、聖人の側の話なら、身勝手が残っていないほど高いので、心が自分、自分の物に執着がないほど高く、苦はありません。明白な苦、あるいは明白でない種類の苦も、当然ありません。

 私たちは、明白な苦を欲しがってしまい、それから明白でない苦が来て、それを味わい、気づかずに苦に耐えます。だから私たちは、それは同じ系統とハッキリと見なければなりません。つまり身勝手でなく暮らし、身勝手を追放しなければなりません。あるいは身勝手を段階的により善く、身勝手がなくなるまで管理しなければなりません。だから私は、「チャリヤダンマは、一人の人物が一つの目的に向かって旅をする、一つの系統しかない」と捉えるよう主張します。

 みなさんの時間の節約のために、このように話さなければならないことをご勘弁ください。つまり高い、中間の仏教を学び、同時に幼児のように低い仏教を学んで、何度も時間を無駄にしないでください。それでは時間が足りません。どの部分を子供に使い、どの部分を大人に使い、そしてどの部分を当然庶民でない聖人に使うか、自分で観察して見てください。心、あるいは自我、そして身勝手という言葉はこのようにあります。


 次に管理することについて理解するために、つまり望まない身勝手が生じないように心を管理する時になったら、メカニズムである心のいろんな機械はどのようか、知らなければなりません。それを知らなければ管理できません。考えて見てください。心の機械の話を知れば、同時にその機械について学ぶことができるので、その方が良いです。

 だから私たちは、心の話と同時に身体の話を学場なければなりません。パーリ語では五蘊と言います。五蘊と聞くと眠たくなります。どうか、眠気を誘う物と考えないでください。それはむしろ、自分を隈なく、詳細に見るよう先導する物です。

 体と心は二種類しかありません。心と呼ぶ物は核、あるいは中心で、これは仮定で述べています。それ以外は外皮、つまり全身です。これを二種類あると言います。パーリ語で言えばナーマルーパ(心身)です。ナームは心、ルーパは体です。ナーマルーパは並行しなければなりません。別れません。学問では、あるいは話すための論理面では、身体が一種類、心が一種類と分けて話すことができ、まったく別種類で、歴然と分かれます。

 しかし事実、あるいは論理では分けず、いつも一緒で、ナーマルーパです。そして文法では一つの慣用句です。体と心は一つに、一つの物にならなければなりません。分ければ全部死に、意味がありません。そして何も義務ができません。合わさった時体も心も、何でもできます。だからあと何十種類もの体と心に分けるのは話す場合で、心の話は分けません。このように理解してください。

 彼らが好んで譬えるダンマの言葉では、体と心を二人の人に譬えます。一人は手足が萎えて歩けませんが目が良く、もう一人は身体が大きくて丈夫ですが目が見えず、何処へも行けません。目が良く脚萎えの人が心で、何処へも行けませんが目は良いです。身体が丈夫で歩けますが目が悪い人は身体で、二人が一緒になり、身体が頑健な盲人に跨って一人の人になれば、行くことができ、どこで何をすることもできます。

 体と心はこのような状態があります。一つだけ、あるいは二つというのは、どちらの方が正しいか、自分で考えて見てください。詳しい説明が必要な時は、身体と心に分けることが生じます。体は一部、心はもう一部と見なします。体は一つの部分で、もう一部の心は四つの部分に分けて、ヴェーダナー(受),サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)と呼びます。

 苦、あるいは幸福、満足、あるいは不満を感じる義務がある心をヴェーダナー(受)と言います。

 何が何かを常に感じていて、常に自覚があり、卒倒している人、酔っている人、あるいは狂人のようでないよう、知性面で錯綜しない働きをする心は、正常に意識する部分の心で、サンニャー(想)と言います。

 何かいろいろ考える部分である心を、サンカーラ(行)と言います。

 舞台に登場していて、目・耳・鼻・舌・体で、何が何かを知るのを待ち構えている心をヴィンニャーナ(識)と言います。だから四つの部分になります。このように詳細に分けるのは広く学習するためです。本当の実践では、分けなくても良いです。


 ブッダの時代の人の中には、私たちの身体を形・受・想・行・識と分けることを知らずに阿羅漢になった人もいます。しかしその人は、むしろ何でも深く知りました。つまりそれの真実を一度に全部知ったこともあり得ます。しかしここでは、それを管理するために学習したいと思います。

 一台の自動車を二つの部分に分けるように、車体と、車を走らせる機械の部分に分けます。しかし自動車の機械は、電気系統、燃料系統、車輪系統、そしていろんな機械類に分け、このような四つの部分になります。しかし全部を一つにまとめると一台の車になり、走ることができます。

 だから五蘊という言葉である五つの部分に分けたのは、このような目的のためです。形の部分が一つの部分で、名、あるいは心の部分は四つの部分です。名、あるいは心である部分は、いつでもその義務をする準備があります。

 受はその接触を、満足、あるいは不満足と感じる準備があります。
 想は休まず常自覚、良い意識を維持する義務をします。
 行は休まず周囲の出来事について考える準備があります。
 識は、目鼻などで何が何かを、次々にはっきり知る準備があります。

 一方形と呼ぶ分は、大部分は肉である身体を意味しますが、体の中に隠れている形も意味します。つまりその中に隠れている状況です。たとえば私たちの体は、その中に隠れている状態があり、背丈の高低、黒い白い、男女、これらも含まれています。男、あるいは女、高い人低い人も、まとめて形と呼ぶことができます。だから直接の形である肉の身体があり、そして隠れている形、つまり形に見ることができる、そのようなこのような状態があり、合わせて形と呼びます。そして受・想・行・識と合わせると五つになります。身体と心の一塊と呼ぶ部分が、一人の人です。

 次にその中にある機械は、宗教面で縁起と呼ぶ話です。ここでは最も重要な部分である形だけにし、形が目に触れた時だけを例にします。形が目に触れ、眼は神経があり、そして常に義務をする準備がある識があり、このような接触を触と言います。触とは接触という意味です。これが最初のメカニズムである形と目の接触で、眼識が生じて義務をしています。

 触、あるいは接触は、誰にでもあります。あっても観察しない、関心がない、「衝撃がある」と勉強しないだけです。成り行き任せにするので、触という言葉が理解できません。だからダンマを知りたければ、ダンマを理解したければ、触と呼ぶ物を理解するまで関心を持たなければなりません。最初に理解しなければならない物と見なします。

 このような触が生じると、触から生じた結果である感覚、可愛い、可愛くない、満足、不満足など、受と呼ぶ物が生じます。美しい形なら満足し、美しくない形は不満で、醜い形、あるいは怒りを誘えば更に不満です。満足不満足は受です。だからブッダは「触は受を生じさせる縁。触を加工して受にし、受は世界をどのようにもする原因、主犯、主役」と言われました。

 私がこのように述べて、みなさんが理解できるかできないか、考えて見てください。これが小さな物、大きな物、あるいは何でも、最高に大きな、最高に凶悪な、世界をどのようにもする原因、主犯です。私たちは誰でも受の奴隷で、誰でも受を愛しているからです。

 幸福な受が欲しければ、すべてを幸福な受のためにし、努力して勉強し、たゆまず仕事をする努力をし、生涯飛び回るのは、自分の幸受(満足の受)のためです。あるいは自分に幸受を生じさせる愛しい人のためです。幸受はこのように重要な主役ですが、全部そのようになるほど絶対ではありません。良く管理すれば、それはそのようになりません。これから述べます。


 このような受が生じると、その後、欲望・取が生じます。欲や取が生じないように管理すれば、受は麻痺して誰の危険にもなりませんが、管理できなければ、受は確実に欲を生じさせます。欲とは、広くすべての欲を意味し、愛欲面だけでなく、どんな欲も欲と言います。この言葉は欲と言っても、すべての欲を意味し、愛欲面だけではないと理解してください。タイ語で欲望というと愛欲面に使いますが、元の言葉であるパーリ語のタンハーは、すべての欲を意味します。

 愛欲面の欲を愛欲と言い、愛欲に関わらない、ああなりたいこうなりたい欲を有欲と言い、ああなりたくない、こうなりたくないなどは無有欲と言い、全部を欲望(タンハー)と言います。これも先生方に特別に規定していただくようお願いする物です。そうでなければ、この先のダンマの教育がぼやけ、理解できません。この言葉のタイ語の意味を掴んでパーリ語、あるいはダンマ語のタンハーという言葉に使えば一致しないからです。

 だから良く憶えておかなければなりません。受がタンハーを生じさせるのは、欲望を生じさせるという意味です。受である物が幸福や満足なら、欲しい、要る、独占したい、大事にしたいと心配し、不満足なら別の欲望で、逃げてしまいたい、殴って死なせたい、危害を加えたい。あるいは危険と感じれば消滅させたがり、ライバルなら消滅させたがります。だから私たちは満足・不満足で困窮します。

 欲望が生じたら、どうしようもありません。話は欲望に止まらず、取、つまり欲しがる人である自分が生じなければなりません。心に欲望が生じれば、欲しがる人である感覚が生じなければなりません。だから途端に自分、あるいは心を欲しがる人、自分がいると信じ、自分と感じます。これが取です。取と呼ぶものは「自分」、あるいは「自分の物」と執着します。ここで自分が生まれると理解してください。臨月は完璧になっていてもまだ胎内にいるように、胎の中で生まれているだけです。

 取があれば有が生じ、生が生じなければなりません。有とは「場所を得る」いう意味です。それ自身の行動、産み出して生にするメカニズムが厚かましく現れて来て、そのような自分、このような自分が狂喜乱舞します。その時どのような考えがあるか次第で、そのように生まれると言います。例えば動物のような考えがあれば動物と言い、人のような考えがあれば人に生まれ、天人のような考えがあれば天人です。あるいは自分は父だという考えがあれば父に生まれ、子と考えれば子に生まれ、富豪のような考えがあれば富豪で、乞食のような考えがあれば乞食です。

 どのように生まれても、そのように感じるので苦にならなければなりません。ブッダは簡単な意味でなく、「苦とは痛みで、足掻けば苦」と言うだけでなく、もっと深い意味にしました。これは私たちが、「自分は何々だ」と執着すれば苦という意味です。だから「取で執着された五蘊は苦」と言われました。この体と心は、迷って「何か」と執着していなければまだ苦でなく、「私は何々だ」と執着した途端に苦になるという意味です。

 これは、私たちは内面で自然に一種の苦になるという意味です。もっと誤って、身勝手で誰かに何かをすれば、それは外部も、つまり社会面も苦になり、広い世界を苦しめ、集団を苦しめ、あるいは世界中を苦しめることもあります。必ず自分に執着することに原因があります。欲望は受から生じ、受は触から生じ、触は自然にどこにでもあり、形・音・臭・味・接触が、心に依存する目・耳・鼻・舌・体に触れて、それは何か知ります。


 すべては心の機械の、あるいはこのようにある心のメカニズムの概要です。神様が創ったと言うこともできますが、初日に「このような苦はそれ自体の話で、自然」と述べたように、それ自体の話です。だからすべての物は全部ダンマと呼ばれます。外部の形・音・臭・味もダンマ、目・耳・鼻・舌もダンマ、いろんな識もダンマ、接触もダンマ、受もダンマ、すべての種類の欲望もダンマ、取もダンマ、有もダンマ、生もダンマ、すべての苦もダンマ、ダンマでない物は何もありません。だからみなさん、ダンマだけを知って、ダンマはこのようと正しく知ってください。

 だから心の中で経過する心に関わる機械もダンマと呼ぶと知ってください。つまりそれを触で止まらせ、最後には受だけでも良く、欲望に加工するまでにしないで、それを解決、管理できます。加工して欲望になれば、どう仕様もありません。その人はその件で確実に苦にならなければなりません。だから知性と危機を脱させるダンマは、私たちを賢くさせる点にあります。つまり常自覚があり、目や耳などに何かが触れた時、そこで止まらせます。

 それだけで留まるというのは、丸太のように固いという意味でなく、知性が現われ、触が欲望を生じさせないように防止するという意味です。つまり代わりに知性があり、その触にどのように対処すべきか知ります。どのような対処をするにも知性でし、煩悩欲望が介入するのを放置しません。知性が「何もする必要はない」と言ったら止めて、見守ってしまい、話はそれで止ります。つまり触だけで止まって、そこで消滅します。

 次に私たちがこのようにするより速い場合は、受に加工します。つまり感覚が進行して満足、あるいは不満になってしまいますが、もう一度それだけで留まらせてください。もう一度知性が間に合うようにし、受で止まり、「満足、不満足」で止まり、満足不満足で。このような欲望、あのような欲望になるのを放置しないでください。それが欲望になり、欲望になれば、どうしようもありません。それは確実に苦まで行かなければなりません。


 だから私たちは、素晴らしいダンマは、ブッダがこれを目指されたと見ることができます。つまり「触で止まる」点を目指されました。あるいはここで失敗したら、勝利できるもう一つの側面があります。それは受で、何としても受で止め、止められれば危機を脱すということです。俺、あるいは俺の物が生じないからです。つまり欲望・取が生じないので消滅します。これを「その感情は俺、俺の物を生じさせることなく消滅したので、苦でない」と言います。これは大きな教えです。
 あるいはアビダンマ(素晴らしいダンマという意味)と呼べば最高にアビダンマで、ここが最高にパラマッタ(第一義。出世間)です。他の理解をしないでください。これです、Applied Buddhism (応用仏教)として使う仏教は。私たちは関心を持たなければなりません。あまりたくさんの話に興味を持たないでください。何の役にも立ちません。一掴みだけという話に興味を持って、一掴みを十分に有益に使いなさい。

 阿羅漢になることについては、ブッダは不動の教えとして、「形が目に触れ、声が耳に触れ、味が舌に触れ、体が皮膚に触れた時触だけに止まれば、その時あなたはいない。その時あなたがいなければ走り回ることもなく、どこかに止まっていることもない。つまりそうしたくない。何も望まなければ何処へも行かず、何処へも行かなければ苦の終わりです」と話されました。

 苦の終わりは涅槃という意味です。これは小さな話ではありませんが、阿羅漢になり、涅槃になるほどの話で、「あなたがなければ」とは、「触が受、欲望、取に加工しなければ、あなたはいない」という意味で、それが涅槃です。

 これをどのように使って子供に教えるか、後で詳細に判断しますが、少なくとも子供たちに、「心の焦燥はどのように生じるか。それは管理できないから」と教えなければなりません。子供も「形を見た時、声を聞いた時、臭いを嗅いだ時に心を管理すれば苦でない。管理しなければ苦になる」と見えます。これは子供たちに涅槃を教える糸口です。そして子供にとって最高に必要な利益です。つまり子供が心の面、知性面、賢さの面で発展し、幸福があるようにします。心のメカニズムを知って、それを管理できるからです。

 だからみなさん、いつ「俺が生まれた」と言い、いつ「俺はまだ生まれない」と言うか、規定できるまで観察してください。見えるまで勉強しなければなりません。あるいは、いつegoism、あるいは俺が生まれ、いつegoism、あるいは俺が生まれないか、明らかに規定できるまで、もう一観察するよう、もう一度はっきリ主張させていただきます。触が外部の目、耳に触れ、まだ俺が生じない時は、かつて思ったように、あるいは間違った教えを受けたように、この項目を誤解しないでください。


 触れた時受があり、暑さを感じ、寒さを感じ、美味しさを感じ、不味さ等々を感じ、満足・不満足を感じる受があります。この時「俺」はまだ生じなくても、最高にイライラします。まだegoismは生じなくても、生じる準備があります。あるいは正しい方法で管理すれば、生じないこともできます。だから触、あるいは受の間では、egoism、あるいは俺はまだ生じないと捉えなければなりません。

 受の後、そのような欲、このような欲が生じたら、これを欲望と呼びます。これです。俺が胎内に生まれ始めます。あるいは受胎します。「俺はそのような人だ」「俺はこのような人だ」と、取がはっきりしたら、「俺」は臨月です。次に有は出産し、産む時に至りました。

 次に生は、生まれてそのようなこのような、十分な「俺」になり、外部に出て他人に、俺はどのような姿形があるか、善人、あるいは悪人の態度を他人に見せるので、他人が見ることができます。あるいは他人が見なくても、他人が関わらなくても、俺自身の中で苦になります。俺が生まれ、完璧に開花するからです。だから触と受の間では「俺」はまだ生まれず、欲望、取、有、生になると「俺が生まれる」と言うことができます。


 この触を彼らはcontactと訳し、触れることです。そして受はfeelingで、普通の言葉です。そして欲望はdesire、取はclingingとか、attachmentとか、graspingとか言い、attachmentという言葉が多く使われ、正しいと見なします。有はperformation of existence、カンマと呼ぶ物はperformである所がカンマです。それが生まれさせるカンマ、あるいはexistenceがあるようにさせるカンマで、有があり、有になり、あのように、このように完璧になります。

 生という言葉はbirthで、生まれる、出産のような形で生まれるbirthです。それからは苦だけで、sufferingという言葉だけを使います。これは外国人に説明しなければならない時、簡単に正しい言葉を使うことができます。「彼らは特別な言葉を使っていない。普通の言葉を使っているが、意味は特別な意味がある」と見えます。

 「俺が生じる、あるいは生じないのはどの部分か」、何とか掴むことができたら、続けて何処の部分は俺が空で、どの部分は俺に覆われているか見なければなりません。俺に覆われて混乱しているのは、欲望・執着になった後の部分です。それはegoismである感覚があり、こういうのを空でないと言います。それは混乱で、混乱は苦です。苦にならないegoismは、何処にもありません。

 それは善いegoismだけで、隠れた苦、静かな苦、はっきり表れていない苦です。悪い苦は、ハッキリ現れています。しかし明らかな苦、あるいは明らかでなくても混乱ばかりです。内部が混乱し、あるいは外部が混乱し、あるいは内部も外部もてんてこ舞いします。てんてこ舞いの状況は苦であり、苦の症状です。

 この話を、本の中の話にしないでください。このように明らかに見る自分自身の心の中の話でなければなりません。俺も俺の物も生じていない間は、私はそれを「空」と呼び、空なら快適なだけです。身勝手でない、つまりegoismがない時は何時でも、その時は爽快です。それがまぐれなら、偶然でも何でも、目、耳、考えの面で俺、俺の物に加工し、そしててんてこ舞いになり、苦になります。

 みなさんが先生の職務をする時、楽しいのは空だからです。騒がしく教えても、ぎゅうぎゅう詰めの教室で教えても、それは空で、身体が静かでなければならない訳ではありません。身体は勤勉に働いても、身体も心もまだ空と言います。この時まだどこにもegoismの感覚、あるいは自分、自分の物という感覚がないので、本当の知性が身体と心を管理しているので、教えることが、仕事が、畑仕事でも稲作でも何でも楽しいです。

 次に一瞬ぼんやりして、何かが触れて自分があり、自分の物がある方の感覚があるように唆せば、身勝手が生じて、「給料が少ない。使うだけ足りない。もっと貰えるべきだ。このようにしなければならない、そのようにしなければならない。そうすればこのようになる」と考え、教える仕事の範囲外へ突っ走って身勝手な仕事をし、途端に苦になります。

 同じ人ですよ。同じ職位の同じ人、同じ職務でも、一時間もせずに変化できます。「てんてこ舞い」という言葉と「空」という言葉を良く観察しなければなりません。最初はまだ空で、教えるのが楽しいですが、一瞬でてんてこ舞いになれば、生き地獄に落ち、生き地獄のまま我慢して働きます。少なくともこのような先生の職業に僻みを感じます。てんてこ舞いと空を、このように理解してください。


 もっと簡単な例を挙げたいと思います。陽射しに曝され、雨風に曝されて重労働をする労働者の例で、船頭でも、土を掘り、金か何かを掘る仕事でも、その人の心にegoismが現われて来なければ、楽しく舟を漕ぎ、歌を歌うこともできます。炎天下で、雨の中で、流れに逆らって漕いで、歌を歌うこともできます。

 しかしうっかり何かがegoismに加工して身勝手になり、自分のこと、あるいは家族のことだけを考えれば、こういうのは、途端に歌が出なくなります。憂鬱な考えで、あの人を責めこの人を責め、神様を責め聖霊を責め、自然を罵り、あるいは何でもかんでも罵り、苦になります。そこで地獄になり、てんてこ舞いをします。だからegoismがない時は、一つのレベルの意味の涅槃にいる時です。あるいは準天国と呼んでも良いです。

 egoismでてんてこ舞いしている時は地獄、あるいは苦に耐えています。他に地獄を探す必要はありません。だから「空っぽ」と「てんてこ舞い」という二語に不注意にならないでください。これは本当のダンマの言葉です。空っぽは加工しないのでヴィサンカーラ(非行)、てんてこ舞いは加工なのでサンカーラ(行)とします。

 サンカーラという言葉は加工という意味です。加工された物はサンカタ(有為)で、加工がなければアサンカタ(無為)、つまり空です。最高に幸福爽快で、最高に楽しく、畝の中で泥を掻いていても笑いさんざめくことができ、楽しいです。家の床を拭いても楽しく、奥様旦那様でも、心が空なら床を拭いても楽しむことができ、どこかへ楽しさを求めに行く必要はありません。

 しかし心がてんてこ舞いなら、床拭きについて話す必要はありません。どんな状態でも、座っても寝ても、全部地獄です。これが空とてんてこ舞いという言葉の本当の要旨です。理解すれば、自然の涅槃の味を味わっていると気づきますが、一瞬ぼんやりすれば変化して、地獄に落ち、輪廻の中で、最高の地獄の中で苦に耐えます。これです。心の機械はこのようになれます。私が長々と、あるいは多少深く話したのは、最初の日の基礎の教えにするために、全体の概要として述べました。そして後日、簡単な詳細を話すことができます。


 だから「俺が生まれたらてんてこ舞いで、まだ俺が生まれなければまだ空」と、基礎の教えとして規定しておいてください。このような空も涅槃の状態がありますが、一時的です。つまり本当の涅槃でなく、一般の人のための味見の涅槃です。それでも本当の涅槃の味がします。違うのは、本当の涅槃は厳格な空で、二度とてんてこ舞いに変化しないだけです。後で詳しく話します。

 だからみなさんが子供に教える道徳面の教えは、「据え間違っている心と、正しく据えてある心と二つしかないとブッダが話された教えで教えます。据え間違った心とは、形を見、声を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わった時などに間違った加工をし、それに対して間違い、間違った対処をし、間違って実施するので苦になり、地獄になります。しかし正しく対処すれば、天国、あるいは涅槃になります。

 だからブッダは「据え間違った心は、自分にとって盗賊より、あるいは自分を嫌って恨んでいる人が集って自分を襲うよりも危険」と言われています。次に「正しく据えた心は、その人物にとって、彼を愛すすべての人が援けに来るより幸福安楽をもたらす」と話されています。据え間違った心と、正しく据えた心は最高に重要な物という意味です。

 据え間違うと正しく据えるは、心の機械に関してだけで、他にはありません。正しく転がれば正しくなり、間違った方へ転がれば据え間違います。だからみなさんが自動車の運転に賢く、電柱にぶつからず、側溝に落ちず、運河に落ちないことに賢いように、良く注意なさい。不注意は完璧に生きることにとって利益がない物です。


 心が中心で俺、俺の物、つまりegoismに加工すればいつでも、あるいはまだ空ならどのようでも、述べたような規則がある、そして自分、あるいは心を正しく維持しなければならない教えに集約される教えを、次々に理解してきました。つまり間違いにしないでください。そして正しく維持すること、つまり身勝手を生じさせないことは、一つだけの系統と呼ぶ教えです。つまり生まれたばかりの子供から大きな子、若者、娘、年寄り、そして最後は聖人になる人まで使うことができます。

 だから執着しないことが「すべての物は執着すべきでない」という短い文中にある仏教の本質です。学生だった方は、仏教の本質であり、石碑に刻まれている、「イェー ダンマー ヘトゥッパバヴァー テーサン ヘータターガットー」という、アッサジカーターという、彼らが述べ、書いた物を見たことがあるかも知れません。

 次にそのような教えがあるのは、執着させないためと考えて見てください。すべての物は原因があり、生まれるのは原因ゆえ、消滅するのも消滅する原因ゆえ。それが執着してはいけないという教えです。原因で経過する以上の物は何もないからです。


 次に「サッパーパッサ アカラナン」、つまり「悪を成さず、十分善を成し、そして心を純潔にする」というパーティモッカの言葉は、すべてのブッダの教えで、これを仏教の本質と見なす人がいます。このようでも良く、それも正しいです。しかし、それは同じ執着しないことであると忘れないでください。悪をしないでいられるのは、適度に執着を消滅させているからで、更に善を行うのは、身勝手が最高に少なくなければなりません。そして心を純潔にするには、何にも執着しません。だから仏教の本質と言えば、いずれにしても執着をしないことに集約されなければならないと言うことです。

 四聖諦の話も同じで、仏教の本質と見なすこともできます。苦は欲望で執着した結果だからです。「苦がないのは滅であり、涅槃」と言うのは、執着しません。そして八正道は執着させないための実践です。だから四聖諦の話は全部、執着しない話です。戒・サマーディ・智慧の話でも何でも取り上げると、それの基礎、あるいは心髄は全部執着しないことにあります。だから私は、聖諦と呼ぶ物は、不思議に一つの系統しかないと主張します。つまり執着しないことです。

 どうぞ仏教のすべての要旨である「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」という文を憶えてください。ブッダは、ご自身の物としてこのように主張なさいました。「話されたことすべてを一言に纏めることはできますか、それはどのようですか」と執問した人がいた時、ブッダは「すべての物は執着すべきではない」と言われました。

 パーリ語で、サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤと言います。そしてどんな場合でもすべての物に使うことができます。執着しないとは、自分に執着せず、自分の物に執着せず、そして身勝手が生じないからです。みなさんが子供に教えるなら、低くして身勝手でないことだけ、あるいは執着によって身勝手になってはいけないと教えます。


 次に「彼らに執着がないようにさせるなら、子供はいろんなことを何の威力でするのか」という問題が生じます。これは「知性でしなければならないことを忘れないでください」と答えます。知性は善悪を知ります。執着でなく、Selfishness の形のegoismでなく、知性でします。だから私たちは知性を訓練して「何が何か、何をどうすべきか、何をどうすべきでないか」を教えます。これが知性です。

 そして彼らはaim(目的)があり、そして知性の威力による強いambition(野心)まであります。知性の無い執着によるaimがあり、ambitionがあれば、その人は破滅して消えなければならないのは確実です。自殺しなければならず、泣かなければならず、薬を飲んで死ななければならず、あるいはすべきでないことをしなければなりません。

 だから執着が支配しているaim、あるいはambitionは、地獄へ連れて行くだけです。知性が管理しているaim、あるいはambitionは、正しく歩くことができ、正しく据えた心で、そして苦になる道はありません。これを、煩悩欲望の自分があるより、自分である知性がある方が良いと言います。子供に残っている自分を持たせるなら、知性である自分があるようにさせ、執着、あるいは煩悩、欲望を自分にさせないでください。

 世界中の人間はどのような状態にあるか、ちらっと見れば、今、著しい身勝手、最悪の俺、俺の物もあります。そして善い自分である身勝手でなく、他人のことを考える自分もあります。そして軽い俺、軽い自分、ほとんど身勝手でないのもあります。そして厳格に身勝手がなくなった人たち、つまり阿羅漢の方々、こういうのもいます。段階的にあり、このような流れになっているのは事実ですが、本当は同じ人の話です。つまり身勝手が軽くなり、身勝手でなくなるだけです。だから正しい道徳の教えは、一つだけの話、つまり身勝手でない話です。

 身勝手を排除するには、八正道と呼ぶダンマ一つ以外になく、私たちが知育・徳育・体育、そして後日、手工芸育と説明して見せる八正道です。だから私たちの四つの教育を正しい理想にするなら、すべての教育は身勝手を廃除して、磨き落とさなければなりません。知育、徳育、体育、手工芸育も、するのは、身勝手を消滅させることを目指さなければなりません。

 そうすれば理想の四育になります。だから望まない物のすべての基礎と、望むべき物、つまり苦と苦がないことのすべての話をしたと言うことです。だから中心は心にあり、心を据え間違えればegoismが生じ、管理できないので身勝手になり、全部苦になります。正しく心を据えれば知性になり、egoismでなく、そして全部幸福になります。


 今日の講義は、「アリヤダンマは一つの系統しかない。苦を生じさせる原因も一つだけ、一つの系統だけ。だから滅苦、苦を断つ原因も一つの系統しかない」と指摘して見せることを目指しました。「身勝手がある」、あるいは「身勝手がない」、あるいはてんてこ舞い、あるいは空っぽと、正反対になっています。

 空で生き、空で呼吸すればすべてが楽しく、給料をもらわなければ最高に楽しいです。それは最高に空だからです。給料をもらえば最高にそのような自分、このような自分の物があるよう煽ります。聖人の弟子は給料がなくても働きます。こういうのも楽しいです。私たちは先ずこのように狙い、そして調整できるだけ調整して自分に使います。

 最後に、要するに私たちは短い時間に是が非でも、一つの系統だけのアリヤダンマについて明らかに知り、理解させる教育をするよう目指せば、先生の義務に関わる色んな問題、あるいは世界に対して振る舞わなければならない義務は全部、簡単なものになります。私たちは世界の精神の状態を本当に高くする、尊敬されるべき人物として存在し、それは給料、あるいは受け取るべき他の何を受け取るより清々しく、爽快にします。

 だから自分自身の利益のため、子供たちの利益のため、国、あるいは世界全体の利益のために、この話に関心を持って損はありません。

 今日の講義はこれで終わらせていただきます。



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