<1961年2月20日から24日まで、サーラーサンティタムで開催された教育省の道徳に関するセミナー委員、委員長の要望により記録した>
国の教育計画による道徳教育を、次のように熟慮すべき。
1.道徳を教え訓練することは、何か一つの宗教の教えだけを取り上げるべきではない。なぜならタイ国は何か一つの宗教を国教としないからである。
2.「道徳教育(チャリヤスクサー)」と「道徳(シーラダンマ)」という言葉は、事実、教え諭すことにおける意味は同一であり、「チャリヤダンマ」あるいは「シーラダンマ」と呼ぶべきである。表面的に聞いた人は、「チャリヤスクサーは勉強、あるいは聞いて学ぶだけで、チャリヤダンマは当然教育と実践行動に力を入れる」と誤解しがちだからである。しかしいずれにしてもチャリヤスクサーという言葉を正しく理解したら、チャリヤの教育は学んで知り、そして正しく実践させなければならない。
3.ダンマを教える教育は、行動し、実践し、自分と他人にとって穏やかな幸福である結果を現すために知らなければならない。
4.正しい「スクサー(教育)」という言葉は、実践するという意味を含まなければならないが、タイでのこの言葉の使い方は、往々にして勉強だけを意味する。しかし本当の教育は、何としても行動しなければならない。何としても行動すると言うのは、生きている間に善い実践によって、何としても結果を生じさせるという意味である。
教育の話を考える角度には、教育とは勉強だけと理解する歪みがある。だからこの件は、「教育はどれだけ意味する」と発表し説明して理解させるべきである。
5.道徳教育計画がある国の教育計画は、仏教徒だけの計画でなく、国の計画であり、それは更に在家の(secularity, 世俗性)にふさわしい暮らしのための計画である。
6.シーラダンマ、ダンマチャンヤー、あるいはチャリヤダンマ、あるいはmoralityの話は、当然何をするにも、政治と社会を考えなければならない。だからチャリヤダンマを教えるには、ダンマを引用するのがふさわしく、どれか一つの宗教でも良く、どれか一つの宗教が独占する必要はない。宗教の話で強制する国もなく、そのようにすることは正しくない。チャリヤダンマは、当然どの宗教の目的も一致すると信じるからである。
7.どれだけ道徳があるか学習者の結果を測ることは、得点、褒賞、あるいは証書にあるのでなく、その人がどれだけ善悪を弁えているか、どれだけ各自の身勝手が減ったか、その人に現れることが重要である。
ダンマと日常生活
日常生活で自分を訓練するためにダンマを使うには、熟慮して使うダンマの項目を選び、そして仏教の系統で自分を訓練する教えとして使うことを知るには、正しく使うことを知らなければならない。
仏教の教え、あるいは要旨を智者がいろいろにまとめているが、どのようにまとめても、意味は一点に集約される。最高に短く要約すれば、仏教の自己訓練の実践規則は「執着しないこと」。
仏教の教えの言葉のすべての要旨は、執着しないことにある。
時には、ブッダの弟子であるアッサジが時々述べている「イェー ダムマー ヘートゥッパ バヴァー テーサム へー タターガトー テーサンチャ ヨー ニロードー チャ、エーヴァンヴァーディー マハーサムノー」という、何が仏教の教えかを述べている教えの言葉を掌握する人がいても、ブッダの教えの言葉は何でも、要約すれば「どんなダンマも発生源である原因があり、如行は当然、そのダンマの原因を説明する」と述べている。たとえこのようでも、その言葉の目的の意味を最高に熟慮すると、執着から脱さない。
ブッダが関連して話された仏教の系統の自分を訓練するべき重要な教えは「サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ」で、すべての物は、執着すべきでないという意味である、これは仏教の正しい教えで、このようなブッダの言葉の真実を学んで知るべきである。すべての苦は当然執着から生じるから。そしてどのように執着するべきでないかは、「すべての物は、私、私の物と執着すべきでない」。
他人にダンマの実践をするよう勧め、教える
1.はっきり見えるよう説明する言葉で、信頼されるように教え、自分の言葉だけで説明するべきでない。正しい他人の言葉を集めることから、ブッダの言葉、ブッダの格言も併せてハッキリ見えるように説明しなければならない。
2.指摘して理解させるべきものは身勝手である。身とは自我であり、これは煩悩である。自分という感覚は自我であり、煩悩である。衰退してしまった少年たちは、自分を身勝手にしたからである。
この身勝手は、その人の段階に応じて説明して理解させる。小さな年齢から次第に大きくなって、高いダンマを熟慮することを知るまでになり、あるいは身勝手でない人物の段階、最後は阿羅漢まで、あるいは阿羅漢より低いそれぞれの聖人も、身勝手でないダンマの項目を使うことができる。
凡夫である人の身勝手は、年齢によって、例えば小さな子供なら思いのままに要求し、欲張りで何でも思いどおりに手に入れなければならず、思い通りにならないと腹を立て、弟妹に嫉妬する子供もいる。
大きくなった人の身勝手は形を変え、その年齢によって変化する。何をするにも他人より優位になりたがり、自分だけが正しく、他の人はいつでも間違いと考え、身勝手がひどくなっても、まだ身勝手の感覚でしている。いろんな悪事をするもの身勝手である。誰でも身勝手があるので、当然「これが私、それは私の物」という執着がある。このような感覚があれば、当然苦を集めておくと言われる。
すべての苦があるのは、あるいは誰に生じる苦も、いつでも自分と見、自分自身と見、自分の物と見る身勝手から生じる。パーリ語で「アハンカーラ」と「マナンカーラ」があると言う。苦は身勝手から生まれ、身勝手があれば誰でも、身勝手がある分だけ苦がなければならない。
3.苦が利己主義から生じたと知ったらどのように訓練し、どのようにすれば解決できるか。それには誰でも利己主義を解決しなければならない。教える人、アドバイスする人も身勝手でないようにしなければならず、他人に教えてアドバイスするにも、身勝手を排除することを目指さなければならない。
これをどのようにするかは、自分でない物のことを考えるようにしなければならない。自分でない物は何考えるか。ダンマのことだけを考え、何をするにもダンマである知性の威力でし、身勝手の威力、あるいは煩悩の威力でしない。
もし自分がないと感じると寂しく、掴める物がないのでまだ自分が欲しければ、ダンマを自分にし、煩悩を自分にしてはいけない。
日常生活の中のいろんな仕事をするには、良く熟慮すれば、一部の人は煩悩を自分にして、何をするにも、煩悩を塗り重ねる自分のためにする。もう一部の人はダンマを自分にし、何をするにも身勝手でなく、ダンマのことを考えてすると、はっきり見える。
学生でも、彼らを指導する義務のある人でも、どんな職業をする人でも、自分を教育のある人にし、まだ教育がない人でいてはいけない。何か拠り所が欲しければ、自分である煩悩に寄りかからず、ダンマに寄りかかりなさい。「拠り所である自分を持つなら、ダンマを自分にしなさい」というブッダバーシタのように、ダンマは自分を意味することができる。
「自分」という言葉は二種類の意味があり、煩悩の自分とダンマの自分がある。身勝手でないという最初の項目は、自分である煩悩のことばかり考えてはいけない。最高の段階まで、阿羅漢の段階までダンマを実践すれば自分はなく、煩悩も、そしてダンマもなく、まったく執着がないのと同じである。
自分を訓練して阿羅漢にするのは不可能な話でなく、当然実践できる道がある。つまり段階的に実践し、事実のままに自分を知り、そして悪い自分をダンマの自分に改革、変化させ、そしてその段階の自分が要らなくなるまで、悪で低い自分を捨ててしまうことを知る努力をしなければならない。
どのダンマ集も身勝手でなくする道具
例えば縁起のダンマ集も、身勝手でなくする実践項目を推進する。このダンマ集のダンマは順に繋がっている。
どんな原因で老・死・愁・悲・苦・憂・悩が生じるか。ブッダは次のように智慧で発見なさった。
生まれることがあるから老死がある。老死があるのは生まれることが縁だから。
有があるから生がある。生があるのは有が縁だから。
取があるから有がある。有があるのは取が縁だから。
欲があるから取がある。取があるのは欲が縁だから。
受があるから欲がある。欲があるのは受が縁だから。
触があるから受がある。受があるのは触が縁だから。
六処があるから触がある。触があるのは六処が縁だから。
名形があるから六処がある。六処があるのは名形が縁だから。
識があるから六処がある。六処があるのは識が縁だから。
行があるから名形がある。名形があるのは行が縁だから。
無明があるから行がある。行があるのは無明が縁だから。
述べたような縁起の教えで熟慮することは、身勝手でない実践項目を振興することであり、何が何か、どんな原因でそのような結果があるか、事実のままに知れば、身勝手を減らすことができる。例えば、
自分に感覚が生じた時、簡単に見えるのは触である。つまり何かに正しく触れると、触である感覚がある。その後、愛、憎しみ等の受に加工してはいけない。このように加工すれば自分が生じる。誰でも日常の暮らしが触で止まれば、非常に善いと見なす。その後加工するのを放置して受に至れば止まることはできず、欲望になるまで加工しなければならない。この時次第に自分が生じることができる。
この「自分」に取があれば「有」が生じ、「私はある」と執着する。その有は、欲望が最高に発展した時「生」を生じさせ、その後苦が山積し、老・死と愁・悲・苦・憂・悩になる。それというのも自分が欲しいから。自分があるから苦がある。
縁起の実践規則は、どのように自分が生じるかを説明して見せている。何とかして反対にすることができれば、自分がある必要はない。
心を静かにしなければならない滅苦の話の人物の部分は、機会と人物の心の段階にふさわしく自分を訓練するダンマを使うことを知らなければならない。そして子供の時から教えるべきである。子供から大人まですべて苦、つまり困難があるから。
「プッベー チャーハン ビッカヴェー アータラヒ チャ ドックアンチェヴァ パンナーペーミ ドゥッカッサ チャ ニローダン。これまでも、今も、私がみなさんに教えるのは、苦の話と滅苦の話だけという意味で、そして常に「サッベー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ、すべての物は執着すべきでない」と繰り返した。
教育して述べたような真実を理解することを、サッチャダンマと言い、シーラダンマより、チャリヤダンマより高いと見なす。
心を訓練して執着させない実践をし、そしてすべてのことを、ダンマだけを考えるためにする。これが心を穏やかにする。
人物のためのダンマの実践教育は、当然サッチャダンマを減らさなければならない。しかし「身勝手でない」原則は捨てない。シーラダンマもサッチャダンマも、これらの教えの言葉は執着しないことに集約される実践原則である。
身勝手でなく自分がなければ、それで何が人を働かせるのかという問題がある。すべての人が自分がない教えを守れば働かなくても良いと考えないかどうかについては、「働くものは知性で、自分が働くのではない」と答えます。知性は自分でなく、それ自体がするから。
知性の威力は仕事をする。つまり正しい職業を営むことで命を維持でき、苦から脱させてしまうことができる。苦から脱させるのは、ダンマの実践である。述べた二種類の行動は、当然知性であるそれ自体の行動でできる。知性で行動しなければ、煩悩欲望に手を引かれて行動することを意味する。煩悩欲望でするのは、まったく知性がない行動である。
そして仕事の結果も理想のようにならず、煩悩による成功になる。敢えて煩悩でして得た結果で命を繋ぐのは、当然苦がある暮らしである。知性ですれば、得る結果は正しい行動の結果、理想の成功であり、苦はない。常に次のように自分に忠告して、この真実を教えるべきである。
‐何でもてんてこ舞いの心でするのは、煩悩欲望でする。
‐何でも空っぽの心でするのは、煩悩欲望がないようにする。
‐空っぽの心ですれば、仕事は楽しくて陶酔する話になる。
‐てんてこ舞いの心ですれば、その仕事は苦になり、楽しさはない。
‐執着でしてはならない。身勝手のためにすると思わなければ幸福になる。
‐自分がない行動は正しいので、良くできる。計算なども、自分を空にしてからすれば良くできる。花を活けるにも、心を空にしてからすれば良くできる。活けている時混乱した心で、身勝手な考えをし、他人より美しく活けられないのではないかと混乱して考えれば、このような執着の考えをすれば、良く活けられない。このように混乱した心で上手くできても、結果は理想的にはならない。空っぽの心ですれば、結果は理想の美になる。
‐身勝手でないよう教えて訓練するには、段階的にするべき。小さな子供に身勝手でないよう教えるには、「弟妹に嫉妬しない、ガツガツ食べない、怒りっぽくない、他人を虐めない、物を壊さない」などの訓練から始める。
‐大きくなった人を教えるには、その年齢の人の身勝手が見えるよう熟慮しなければならない。そして絶妙な方便で、その状態の身勝手を止めてしまう訓練をする。
‐どのダンマ集のどの項目のダンマを取り上げて教えて訓練するにも、そのダンマはどれも、身勝手をなくす練習をする物と、先ず明らかに理解させるべきである。たとえば、
−慚愧のダンマは、悪行に対する恥と畏怖を教えて知らせる。これは身勝手でないことを教えることであり、そしてこの慚愧は、基礎である。最高に基本である道徳の基礎は、身勝手でないことにある。
普遍的なチャリヤダンマは、至る所で練習、訓練しなければならない。どのダンマの項目で訓練しても身勝手を排除することを目指す。例えば正直でない人、恩知らずな人は、他人が自分より善いのを見たくない。他人の長所を見たくないから。チャリヤダンマの訓練は身勝手な行動を捨ててしまうためである。
身勝手から生じる失敗はたくさんある。誤った考え、悪い考え、いろんな種類の悪事、誤った話などは、すべて身勝手から生じる。
誰でもよく失敗をするのは、何らかの身勝手ゆえで、帳簿を作って自分で調査すべきである。誤りの目録は煩悩に関連している。
ローパ、あるいはラーガ(貪り)=これらは掻き寄せて自分の物にする。何としても手に入れる一方。
ドーサ、あるいはコーダ(怒り)=これらは自分から払い除ける。要らない、欲しくない。
モーハ、あるいは迷い=これらはどうしたいか分からず、躊躇いや疑いがあり、自分だけの利益を惜しみ、どうすればよいか知らないので、堂々巡りする。
大部分の表出した煩悩は、全部身勝手の話ばかり。
身勝手を排除する訓練は、煩悩を知り、そして段階的に練習訓練しなければならない。
最初の段階の練習は、初歩の訓練に使う項目を選ぶことを知らなければならない。例えばカンティは最初に使わなければならないダンマで、どんな触に触れた時も、カンティ(堪忍。忍耐)は応急手当の様な状態がある。
賞賛、あるいは非難の声があっても、カンティがなければ有欲と無有欲である感覚が生じる。つまりそのようになって欲しい、あるいはそのようになって欲しくない感覚が生じ、その後心は付け上がる。カンティがあれば触だけに止まることができ、常にカンティがあり、その後煩悩に付け上がらせないので、苦から脱すことは簡単にある。
最後の段階の実践の結果は、苦がないようにできるのが正しい。苦がなくできるのは、苦を生じさせる原因を避けることを知り、そして身勝手でない感覚が生じるまで実践し、何をするにもメッター(慈)と知性がある。このようなら、自分に道徳があるよう訓練した結果と見なす。
煩悩から生じた誤りのリストの例
貪り=アビッチャナー(貪)−ヴィサマローバ(非理貪)・吝嗇・破戒(殺生。窃盗。邪淫。虚言。等)。
怒り=復讐心・恨み・妬み・破戒等。
痴=マッカ‐他人の恩を消す、パラーサ‐対等に振舞う・マーヤー‐悪賢い・サーテーヤー自慢・タンバ‐頑固、サーラムバ‐善を競う・マーナ‐威張る・アティマーナ‐侮辱する・マダ‐陶酔・パマーダ‐不注意・セーバスラー‐飲酒を嗜む等。
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