議長および先生のみなさん。私は指定された主題である「チャリヤダンマ」の話の講義をすることができます。しかし意味をはっきり、あるいは狭くします。今回の集会の目的である大きな題は、若者の道徳を増やす話だからです。
これから講義する内容は、私が特別に、そして長い間この話に関心を持って来た個人の見解にすぎないと捉えていただくようご理解いただきたいと思います。この話は私の、あるいは比丘全般の義務でもあるからです。だからあまり学問知識である物を聞くと期待しないで、考え方として聞いてください。私が長い間努力して考え、学び、観察した、説明すれば多少は利益になる見方、考え方です。
そしてもう一つは、自由に述べる立場で述べさせていただきたいとお思います。あるいは反論する、あるいは彼らが言うのと矛盾することもありますが、もしそうなら、正しい方、あるいはそれ以上と言わせていただきたいと思います。私は、他の人に見えない角度で見る立場で述べる義務があるとしてください。あるいは悪い角度、つまり悲観的な角度で見れば尚善いです。
みなさんの集会で全部聞けるように、自由に述べます。同じように話すだけなら、あるいは楽観的な角度を目指して、そして褒めちぎる角度で述べれば、聞いた物は完璧でないに違いありません。これが、先生であるみなさんに規定しておいていただきたい最初の項目です。
次に、チャリヤダンマ(道徳)という、題として使う言葉について述べます。私たちがまだこの言葉を使うのは非常に困難と感じます。つまりシーラダンマ(道徳)という言葉と混同します。時にはチャリヤダンマについて思うべきをシーラダンマと言い、時にはシーラダンマについて思うべきをチャリヤダンマと言い、このようです。だから理解を整理してください。あるいはこの話に関心があるみなさんの中で、理解して欲しいと思います。
それなら私たちはシーラダンマという言葉をMoral、あるいはMoralityに相当させ、チャリヤダンマという言葉をEthicsという言葉と一致させます。一般のテキストを見ると、「Ethicsという言葉はMoralityの哲学」と明示してあるからです。次にMoralityとMorality のPhilosophyは同じではありません。私たちはEthicsという言葉を、私たちがチャリヤダンマと注目する言葉にし、そしてMoralityという言葉をシーラダンマにすれば簡単になり、良く区別できます。
Ethics、あるいはチャリヤダンマという言葉は一致します。良く考えて見ると、パーリ語を知っていれば、勉強してきただけでも、チャリヤは行動すべきという意味と見え、行動したという意味ではないと一致します。これは、考える話、夢の話だけで、フィロソフィーという言葉と一致します。
シーラダンマという言葉は、今行動している、あるいは行動したことを意味し、Moralという言葉と一致します。シーラはパーリ語で「正常に暮らす」「正常な生活」という意味で、行動している、あるいは行動したという意味です。同じ言葉とするなら、チャーリタダンマ、あるいはチャーリータであるべきで、行動したものです。チャリヤダンマは行動すべき、行動しなければならないという意味で、もっとたくさん口論しなければなりません。
シーラダンマは今行動している物です。これです。文字ではこのようになり、意味としてはチャリヤダンマ、あるいはEthicsは、考えなければならない哲学の形の中にあり、時には逃避して実践したことがない話、論理だけの話になります。シーラダンマ、あるいはMoralityの話は、本当にしている当面の問題です。
ブッダはチャリヤダンマ家かシーラダンマ家かと問うなら、この規則では、ブッダはシーラダンマ家であり、チャリヤダンマ家ではないと見なさなければなりません。率直に言って、ブッダはPhilosophy、つまり論理面、学識面だけ話すことを最高に嫌い、不細工と見て嘲笑しました。だからブッダはシーラダンマ家です。つまり当面の問題、急いですぐに実践できることだけを述べました。そして真実もそのようです。
悪を捨て、善を行うために行動する話は、何が何かを知らない点では難しくありませんが、自分を強制して行動させるのは難しく、あまりできません。これが難しいです。だからブッダは何かと問えば、Ethicistと言うより、むしろMoralityと答えなければなりません。つまりブッダはチャリヤダンマ家より、むしろシーラダンマ家です。タイ人はこの二語を書く時、話す時に曖昧に使っています。それなら、チャリヤダンマならEthicsを指し、そしてシーラダンマはMoralityを指すと、このように決めてしまうのが良くはないでしょうか。
次に今日話す、青少年のチャリヤダンマを振興させるという題は曖昧か、Ethicsを指すのか、Moralityを指すのか、という話になりました。論理面の話、あるいは哲学、あるいは論理学、あるいはそのような何かの話をすれば、豆が煎れる前にゴマが焦げると言われるように、遅すぎるかも知れません。だから私は、シーラダンマを意味する主題でチャリヤダンマについて述べます。つまりEthicsよりMoralityという意味です。
問題は次のようにあります。シーラダンマという言葉は非常に広く、私は青少年に関わるシーラダンマに限定します。特に青少年、特に当面の問題、火急の問題です。だからここでシーラダンマと呼ぶものは、青少年だけに注目します。講義の題については、便宜のために次の項目で述べます。
第一項 青少年の病気。病気という言葉は、望ましくない物という意味です。
第二項 病気の原因
第三項 医師、あるいは研究、あるいは治療をする人
第四項 薬を使う威力、あるいは子供に薬を与えるいろんな動機。
第五項 治療に使う薬
第六項 病気がないという状態はどのようか。
第七項 概要をまとめて、これらを簡単に憶える物にする。
これらの題からも、私の好きなようにし、一般の人の規則ではないと見ることができます。病気のない状態はいったいどのようかについて最後に述べるのは聞き難いか、あるいは聞き易いか、どうぞ自分自身で聞いて見てください。
1.青少年の病気
最初の問題は、青少年の病気です。病気という言葉を使うのは、パーリ語の教典の中で使われている言葉であり、このような症状、あるいは状態に注目した時、心の面の病気、あるいは煩悩の面の病気、あるいは呼び方次第で精神の病気などと呼んでいるからです。人が煩悩に覆われ、そして見苦しい、望ましくない状態で行動することを病気と言います。パーリ語の中で使われています。
だから私たちは、病気という言葉は、少なくとも三種類の意味を掴めます。つまり直接身体面の病気。これは話す必要はありません。そして神経など、体に関わっている部分の心の面の病気。これも私が話す必要はありません。しかし三番目の病気である精神面だけの病気、体に関わらない心の面である知性、見解、あるいはそのような物の病気があります。直接体の病気と心の病気は、もう一つの話に分けさせていただき、病院があり、何があり、職員も揃っています。
精神の病気はシーラダンマ面の病気、あるいはチャリヤダンマの面の病気、呼び方次第です。この言葉の意味が好きなら、煩悩が心を覆って心の持ち方を誤り、そして自分勝手な行動があると言います。こういうのばかりです。どの種の煩悩もこのような状態があり、青少年に生じる病気も、全部このようになっています。つまり心の持ち方を誤るほど煩悩に心を覆われて、自分勝手に行動します。だから私たちの青少年は今、チャリヤダンマの面、あるいはシーラダンマの面の病気に罹っていると見なします。
まだ病気の症状に関した事実があります。ただの「若い子」と話す時、私たちは曖昧な言葉、あるいは広すぎる言葉を使うかもしれません。若い子という言葉は幾つもの段階、幾つもの種類があるからです。これについてたくさん思ってください。一つの種類にして広く曖昧に判断しないでください。今病気である若い子は、少なくとも三段階あると分類してください。大部分は同じでも、細かい部分の事実に大きな違いがあります。ほとんど私たちは、進歩した世界の教育に応じて若い子のシーラダンマは悪くなったと注目しています。
ね、どの年齢の、どの種類の、どの段階の子供も同じです。あるいは若い子のシーラダンマは進歩した世界の教育レベルより悪くなっていると、このようでも、このようにまとめて一様である事実を見てしまってください。今私たちの子供は物理的に、生れてくると非常に美しく、姿形、容貌が二、三十年前に比べて非常に美しいと感じます。これは誰でも観察して見える事実です。
これは心理学、あるいは生物学でも、もう一つの問題ですが、私たちが見ると、子供たちの多くが胎内にいる時から美しく生まれてくるのは、彼らの心の面も善くなっているという意味ではありません。反対に、大きくなると知識面、あるいは知恵の面は高くなりますが、チャリヤダンマの面はそのようでなく、反対に低下すると分かります。
これをグラフに描いて見ると、年齢が増えるにつれてどのようになるでしょうか。子供の年齢が増えると知識面、知恵面の指数は高い方へ跳ね上がりますが、シーラダンマの面の指数は反対に低い方へ飛び出します。これは一般的な事実です。
しかし今の事実だけを使って、すべての段階の子供たちの問題解決はできないように見えます。今問題のある子供たちを、病気に応じて、少なくとも述べたような三つの段階に分類しなければならないからです。最初の段階は最も低く、今日私たちが呼んでいる言葉で、ヤクザなレベルです。二番目は、将来ヤクザな人になるかも知れないレベルで、誤った道を歩く兆しがあります。
三番目は心の面、精神面ではまだ安全でないと言うだけにします。ヤクザ(愚か)、あるいはヤクザになるほどでなくても、心の面、精神面で苦悶のある人になります。例えば泣き虫で、自分本位で、神経の病気に罹りやすく、最後には簡単に自殺します。こういうのも精神面の病気と言います。しかしヤクザなレベルではありません。
「ヤクザな程度の子供はたくさんいる。少なくはないが、あまり先生の機構に関わって来ない」という観察点を、先生は持つべきです。私は反対に、この種類は非常に憂慮すべきで、最高に危険と見ます。ちょっと時間をいただいて例を挙げさせていただきます。その若い子は中国人に雇われて寺の塗装をしました。彼は使い物にならないような仕事振りで、正常でない心があり、塗り方のことで注意すると、その塗料の仕方でしないで、怒り、怒るだけでなく皮肉を言い、わざと、もっと間違った仕方をしました。
何を話してもあまり聞こえず、口の中でぶつぶつ話し、下品な言葉だと分かります。そして彼らが仕事の間や友達と話すにも、下品な言葉で怒鳴り合い、あまり見たことがない振る舞いがありました。私の寺では、果物を投げつけた人は誰もいません。初めて見ました。結局この二人の若者は主人に追い払われました。このようにすることは、彼らにも何の利益もなく、私もついでに利益を失い、雇い主も利益を失いました。
彼らの雇用主はたくさん仕事をしなければならず、私は反対に多くの仕事を断たなければなりませんでした。彼らにさせなかったからです。これを彼らの雇用主は利益を損ない、私も利益を損ない、その若者も利益を損なったと言います。これを火急の問題、当面の問題と言います。例に挙げたこのケースだけでなく、何処にでもいると思います。私たちの若者は、このようなレベルもいると、どうぞ考えて見てください。
一方将来不正をする段階はまだ賭けで、確かではありません。泣き虫で、神経の病気に罹りやすく、簡単に自殺する三番目の段階も心配です。だから先生のみなさん、少なくとも述べたような三段階の若者を思ってください。何でも同じ規則を使わないでください。それは滑稽で、愚かです。
考えて見ると、私たちの世界は全部、今恐ろしい規則が何種類もあると見えます。例えばどんな法律を出しておいても、どの国もすべての階層の人に使います。こういうのは正しいか正しくないか、考えて見てください。善すぎる法律は、却って非常に危険になります。つまりその法律を使うのに、何か始めるまでダラダラしています。国中の人もどうにもならないと見ます。これが善すぎる法律で、一つの法律をすべてのレベルの人に使います。
それはブッダの教えに反すと信じます。ブッダは、粗暴な人には粗暴な方便を、緻密な人には緻密な方便を使い、そして殺すべき人を殺すと、このようにと主張さっています。要するにこの世界の人間は今、理解できない奇妙な物があり、そして人間が解決できないほど世界の問題を増やします。いろんな種類の愚かさがあるのは当たり前だからです。
次に、私たちの子供は述べたのと同じ症状があり、法律、あるいはその段階にふさわしくないいろんな規則は悪い結果があります。それ以外にも、子供は環境によって厄介な問題を増やす道を歩いています。今の子はタマリンドの葉のスープも食べたことがありません。現代人の上等な料理のテキストにないからです。彼らは必死に別の方向へ行く野望があります。しかし食住の話をで高望みするのは、心の面の衰退を生じさせる凶悪な問題の一つであることを忘れないでください。私たちは子供が食住の話で高望みする問題を、もっとたくさん思うべきです。
一つばかり滑稽な例を挙げます。ある時本を印刷するのに使うため、中国の印刷機の代理店と連絡を取りました。それは品質があまり違わないのに非常に価格が安いので、「なぜそんなに安く売れるんだね。きっと使いものにならないに違いない」と、冷やかすように質問すると、向こうは私が知っていることを分かっていて、「中国人は床に寝て大根を食べ、西洋人は寝台に寝て牛や鶏を食べるから、同じ品質の印刷機を同じ値段で売ることはできない」と、滑稽に答えました。
このような話は食べることについてどれくらい重要な問題か、考えて見てください。私は日本人の友人が話したのを聞いたことがあります。日本の総理大臣の中には、豆腐売りから新聞売りになり、それから新聞記者になった人がいます。その人は質素な暮らしをしていたので、大臣になっても、その家族は大根などを食べていました。だから反対の生活をしている人と違う種類の考えがあります。時にはこれが、日本の民主主義が安定していて、兵力を使う必要がなく、そのような力を使わなくても良い理由かもしれません。非常に自然に近い規則を持しているからです。
今私たちは、子供たちは今これらの話を切望し、急ぎすぎていると見えます。それは問題、あるいは彼らが道徳の話に慎重にならない縁の一つです。この話を切望すればするほど身勝手になり、手に入れることだけを考え、お金だけを考え、お金から得る楽しさだけを考え、道徳についてあまり配慮しません。今学校に入るには、規則で正しくない何かの料金を、たくさん払わなければならないと話します。
ある子供は涙を流すほどで、両親も涙を流します。これも子供たちを心の面で壊滅させる原因の一つです。彼らはきっと「恨みを雪ぐ」というほど考えます。つまり卒業して大きくなったら、最高に多くこの面の雪辱を晴らします。涙を流すほどお金を払わなければ、どこかの学校に入れないからです。だから私たちは助け合って子供の病気、あるいは子供の病気の原因について、いろんな事実を、広く注意深く見守らなければなりません。すべてを、本当にある若い子の病気の症状と言います。
2.病気の原因
次に、病気の原因と呼ぶ二番目の項目について述べます。彼らはこの世界に生まれて、魅力的な物の最中で目を開けた時から、彼らに道徳を蹂躙させる項目に注目すべきです。彼らはこの世界で、非常に魅力的な物の中で目を開け、例えばこの世界は魅力的な物で溢れ、目・耳・鼻・舌・体・心の面の楽しさ、美味しさ、物質主義の魅力は世の至る所に溢れ、終わる道がありません。見るとキリがなく、増える一方で、世界の物質主義は至る所に溢れていると言います。子供が目を開けると、これらの魅力に陶酔するように汚されます。
昔の声は、隠れた場所でひそひそ話されましたが、今ではその種類の声は、放送中のラジオの中で一日中鳴り響いています。これはどんな事実か、公然と話すべきでない卑猥な言葉が、現代の歌の中に、性に関わる歌、そしていろんな物に関わる歌にあると心して聞いて、我慢して聞いて、観察してください。そのような言葉を明るい場所で話せるのは、娼婦か最低の女だけです。普通の人は話さない話、隠れた場所で隠れて話す話と見なしますが、今は何処でも彼処でも、いつでもこれらの声があると言うようになりました。
自分で観察して見てください。私は詳しく述べません。もう一つは静寂な場所だけで見られたいろんな絵が、今では道端のどこにでも現れています。今人は、何も考えずにお金を欲しがり過ぎるので、卑猥な話を芸術で包むずるい方便を使って「卑猥でない」と言う主義になりました。しかし若い子に現れる結果はそのようでなく、常に卑猥な話と同じ結果があります。つまり子供の心を染めて、低い方へ歪ませます。
次に一部の大人が、自分自身を物質面、肉体面の幸福を強烈に祭り上げる手本にすれば、子供たちは他になりようがありません。子供たちが紳士であること、あるいは善悪を弁える感覚、あるいはブッダと呼ぶものを崇拝するよりは、迷って性の話、性の感覚を祭り上げる人になります。これが、私たちの子供が、これらの病苦の原因の威力でどのように循環するか、という話です。
まだいろんなマスコミがあります。例えばラジオ、新聞、あるいはどんな宣伝でも、お金を集めることだけを目指し、そして性の話は簡単にお金になると分かると、卑猥で猥褻な話を売らせるため、違法でなく宣伝するために芸術で覆い隠します。私は、先生の管轄の中にある一流の新聞と呼ぶ新聞にもまだあると主張します。だから正常な心で詳細に観察して見てください。
猥褻という言葉は、ダンマの方では「慚愧を消滅させる」という限定した意味、あるいは慚愧の盤石さまで揺るがすという意味があります。今一般の人のこの言葉の意味はどのようか、あるいは外国ではこの言葉の意味はどのようか知りませんが、ダンマで見れば、慚愧の感覚を消滅させるものです。あるいは慚愧の盤石さを揺るがすものを猥褻と言います。一流の新聞の一流と言われる作家の読み物にも、このような状態があります。つまり何かで覆い隠して、人を騙して信じさせる猥褻な話があります。
次に見るのは歌と音楽です。それは今掌を返したように変化したと、良く観察して見てください。音楽、あるいは歌、あるいは舞踊と呼ぶ芸術などすべては、最初人間はそれらのものの価値を認め、心の憂鬱を抑え、怒りの噴出、足掻き、藻掻き、あるいは心の緊張を緩め、正常な状態に戻すためでした。だから音楽、踊り方、踊りのための歌、あるいはいろんな歌は、静かさ、しとやかさがあり、特に東洋、特にタイの歌や音楽、あるいは踊りのしぐさはそうでした。
今私たちは西洋、あるいは反対の人たちを真似て変化し、音楽、歌、いろんな踊り方は、もっと煽る結果を期待するようになり、止めるため、休むため、正常にするためではありません。つまりRelaxationではありません。反対に、普通より強烈に刺激する話で、音楽の本当の目的に反します。あるいは神様が創って規定しておいたこれらの物の目的に反します。私たちはこの話で神様の、あるいは自然の意思に直接逆らう側と言います。
だから私たちに今あるのは、歌、踊り、あるいは西洋の尻を追う何でも、止まらせて静かに、穏やかにしないで、急き立ててイライラさせるものばかりです。次に若者が音楽、歌、踊りでも何でも、このような物を好めば、どうでしょうか。それはタイらしさを全部捨てます。そしてこれらの物から正しい結果を受け取れません。だからこの話に間違いをしていると考えてください。
最後に昔のインドの芝居、あるいはシェイクスピアの時代も、男性だけを使い、どんな役も男性を使ったと分かっています。現代は、女性役は女性を使い、男性役は男性を使い、そして身振りが普通より強烈で、これは同じ結果になりません。これは、若者の病気の原因はたくさんあり、そして強烈で、このように広いという意味です。これを「彼らは、このように誘惑して道徳を踏みにじらせる物の中に生まれて来た」と言います。
次に私たちの身近な話を狭く見ます。例えば私たちがしている子供の習性を染めるものは、たくさんあります。それは正しい話か、それとも恥ずべき話か疑わしいです。最初の例は、休日が日曜日と重なった場合に代償として公務員を休ませる制度ができたのなどは、こういうのは一体どういう意味でしょうか。著しい身勝手で全体を考えず、国を考えません。そうではないでしょうか。今年は労働の日を補償するために三日の月曜日に休まなければなりません。
あるいは日曜に相当するウィサーカの日を補償するために十七日の月曜日に休まなければなりません。あるいは大王祭の日の補償として十五日の月曜日に休まなければなりません。あるいは国王誕生祭の補償として十二月六日に休まなければなりません。これは、一日は国の日ですが、国より不利になるのを認めず、国に対して緊張があります。ウィサーカの休日を補償しなければならないのは、宗教より不利になりたくないという意味で、まだ補償としてもう一日要求すると考えて見てください。
一日、私たちは王様に対して不利になりたがらず、補償としてもう一日休まなければなりません。国王陛下の生誕祭なのに。この目的はどのようか知りませんが、反応に結果は子供たちの心を染めて、国に対して、宗教に対して、国王に対して、ほんの少しも不利になりたがらない人にします。私は、このことは誰も意図してなく、誰も思わないけれど、それは子供たちの習性を染めて緊張させ、得をしたがり、不利になりたがらない話と言えば、危険です。
あるいは「前で拝んで後ろで騙す人にする」という言葉を使うこともできます。つまり口では国のこと、宗教のこと、国王のことを考えると言いますが、休まなければならず、犠牲にできません。補償を要求しなければなりません。西洋人のようにするか、あるいは誰のようにするかは自由です。また別の話です。しかし結果は、子供を犠牲を好む習性の仏教徒に矯正する状態になく、全部ブッダの教えに抵抗します。正しいか正しくないか、持ち帰って考えるようお願いします。
しかし「お祖父さんお祖母さんたちはこのように緊張したことはない。私たちの先祖はこのように緊張したことはない」と心配です。次に子供たちは今後、国・宗教・国王と呼ぶものにも緊張した人になるので、憂慮します。子供たちがこの世界に生まれてこのような物に出合い、そして批判することなく習性になるからです。
次に私たちは、現代の子供はバランスの取れない、つまり過剰な物の中で大きくなると見ます。子供は生まれると、適度を超えた過剰な保護と奉仕を受け、五六十歳の人の時代と同じではありません。だからこれらの子供はどのような習性があり、どのようになる準備があるか、持ち帰って判断して見てください。
子供が生まれた時玩具があり、食べる物があり、テレビなどの観る物があり、これらは何でも当たり前の物であり、苦労して求めなければならない意味がないので、今の子は、生れたらテレビがなければならないと権利を要求します。彼らは生れて何もする必要がないからです。このようなら、子供の心は非常に憂慮すべき状態にあるという意味で、何かバランスを取るための重りがなければなりません。さもなければ、その度に先生方に厄介な問題がたくさん生じます。
次に子供の病苦の最後の原因は、突っついて道徳の行動をさせるものがないと言います。道徳を好せる刺激、あるいは刺激する物がありません。何の実践でも、動機と呼ぶものがなければなりません。つまり心を刺激して、心を支持して、その様式の行動をするために犠牲にすることを喜ばせる物。特に道徳と呼ぶものには、最高に動機が必要です。
だから道徳家は、道徳の話に関して熟慮しなければならない問題の一つとしています。現代の子供は道徳面の動機に欠け、三つともないということができます。道徳面の動機は、一般の道徳家が次のように結論している物を採用します。
(1)宗教的動機。これは天国へ行きたい、あるいは出世したい、そして地獄を恐れるという意味です。私たちの先祖にはたくさんありました。私たちの先祖は地獄を恐れ、天国に行きたがりました。この気持ちが、志願して精一杯道徳の行動をさせる宗教的動機です。今私たちの子供にはこの動機がありません。地獄を恐れず、天国を欲しがらないからです。
(2)社会的動機。社会に対して恥を知り、誰かに嘲笑されたくない、誰かに侮辱されたくない、あるいは社会に好まれ、称賛され、尊敬されたい気持ちです。今私たちは恥ずかしがりません。他人のことは構わない主義があり、誰が出世しても、誰にお金があっても使い物になり、社会が何と言っても気にしません。大人は社会的動機に欠け、子供たちもこのようです。
(3)政治的動機は政治に関わる突く促す威力です。これはまだ国を愛し、国王を愛し、本当にタイを愛していれば簡単にできます。しかし今、国を愛すのは口だけです。あるいは子供たちが知っている国は、国旗だけです。こういうのも丸裸になります。国のことを考える本当の国がありません。次に国、あるいは政治に対する犠牲も正しくなりません。これを三つの動機と言います。Ethics面は今消滅しつつあり、子供もこのようになっています。
全部をまとめると、これが若い子の病気の原因と言うに十分です。私たちは原因を解決しなければなりません。例えばこれから熟慮する正しい動機を創ります。これを若い子の病気の原因の第二項と言います。
3.医師。病気の研究や治療をする人
三番は「医師。病気の診断、あるいは治療をする人」と言います。医師という言葉は先生(グル)を意味します。あるいはこの話を審査する義務のある国の研究開発法人、あるいは社会契約で、この話の担当者である宗教、お寺の僧を意味することもできます。だからまとめて短く、病気の研究と治療をする人、医師と呼ばなければなりません。
病気の研究、あるいは治療をする人については、最初の段階を次のように仮定することを容認していただきたいと思います。医師が同じ病気なら、その病気が本当にあっても、当然その医師が病気の研究をして原因を発見するのは困難です。あるいは研究する人は原因である物を間違って見、そして原因でない他の物を原因と見てしまいます。委員会、あるいは若い子の病気を研究する人は、自分は若い子たちと同じ病気かどうか、良く注意しなければならないという意味です。
一番の項目で述べた子供の病気の症状がどのようか、研究者は、自分は今同じ病気に罹っているかどうか自分自身をチェックして見て、もし同じ病気なら、この子は何の病気か発見することはできません。それ以上に、研究者、あるいはその医師自身が何の病気であるか見えず、自分も病気でなく、子供も病気でも何でもないと見えます。何が病気か、どんな症状が病気かを知らないでの、これもあり得ます。これくらい注意してください。
次に研究者は限界を超えた研究をし、学問的過ぎてImpracticalで、発見、あるいは研究した論理は使い物にならず、実践できません。最高に正しくても、広すぎて実践の範囲外ということもあります。あるいは実践面も結果が少なすぎるということもあり、象に乗ってバッタを捕るように割に合いません。こういうのもあります。これも、私たちは道徳家というより、Ethicist、あるいはチャリヤダンマ家すぎると、冒頭で述べた事実に関連しているはずです。
チャリヤダンマ家、あるいはEthicist過ぎれば、際限なく逃避した論理の話で、何時実践するか、始めることを知りません。これを過剰と言います。これは、学識面の論理偏重を好み過ぎるからです。つまり実践者であるより、先生であることに熱中しすぎるからです。あるいは道徳の話、経済の話、何かの話を教える先生でありすぎ、自分自身に実践がなく、そして実践する人もいません。
ね、研究者自身も病人と同じ状態にいて、自分は病気でないと感じていれば、研究者自身も病気である状態に満足してしまうと考えて見てください。医師、あるいは研究者が病気になり、子供、あるいは病人に休まず見せてしまうので、人は信頼せず、信仰せず、あるいはその人に研究、あるいは治療されたがりません。これを、若い子の病気の研究をする人について、最初の段階で見なければならないものと言います。
次に私たちの先生まで狭くして熟慮すると、東洋の先生は「グルは精神面を導く人」という昔の理想をどんどん嫌いになっていると主張すると同時に、お詫びさせていただきます。サンスクリット語などの古い辞書を開いて見てください。グルという言葉は、全部Spiritual Guide、精神面のガイドです。昔からこのような意味があり、そしてグルと呼ぶ人はこのような義務をし、子供に教えるにも精神を高くする状態で教えるので、常に精神面のガイドと呼ばれます。
現代は、生活面が非常に変化し、グルをはにかませ、あるいは精神面のガイドになることに吐き気を催させます。しかし精神面を高くするか低くするか考慮することなく、学問や勉強、あるいは、世界が求める何かの知識だけを教える「勤め人」と呼ばれる方へ向きを変えました。ね、人が勉強やいろんな知識をたくさん知れば、精神も常に高くなると理解しないでください。それは分かりません。精神は低い方へ引っ張られるかも知れません。
グラフを描いて観察して見てください。精神面のガイドは、非常に深遠な意味があります。勉強を教えるのも精神を高くしますが、教え方が違います。「子供たちの精神面を高くしようと考えることなく」と言うのとまったく違います。だから本当のグルは、学問や勉強を教えても、あるいは何の技術を教えても、同時に学ぶ人の精神を高くしなければなりません。このような義務を十分に行えば僧になり、宗教の僧、あるいは出家になります。
庶民が望むように普通にしても、グル、アーチャンと呼ぶことができます。ブッダのように精神面を最高に高くする人は、極力、最高にするからです。先生も同じ、元々の意味の理想があるべきですが、水準まで高くしないだけです。だから精神面のガイドという言葉を嫌うべきではありません。グルという言葉、つまり精神面を高くする人、あるいは精神面のガイドという言葉を嫌悪するほど西洋風の感覚に覆われないでください。
西洋の先生はグルという言葉、つまり精神面のガイドという言葉を全く知りません。この理想は東洋、特にインドのものだからです。グルという言葉はインドの言葉だからです。インドの言語と文化はタイの文化の源流です。だからインド語のグルという言葉は、仏教も含めたインドのいろんな文化を受け入れて来たタイ国内でも使うべきです。これもインドの文化です。
グルが「グルは精神面のガイド」という言葉を嫌ってしまえば、グルも少しずつ、生活のためにお金を稼ぐ話、物質面、経済面の進歩発展の話などを教える人になり、ダンマの面になる精神面を高める目的で教えません。現代の世界の教育は精神面の話、特に「すべての動物は自分のカンマで経過しなければならない」話を教えません。この話を教えないことには凶悪な害があります。
ある種の人に、自分より善い人、高い人の善を奪い、善の結果を奪おうと野望させ、奪って平等にしようと野望させるからです。彼も庶民であり、一人の国民という理由だからです。このようなことは、「すべての動物は自分のカンマがあり、善行悪行を作っておいても、そのカンマで経過しなければならない。だから徳のある人が賢く生まれ、もう一人があまりない時に何から何まであり、たくさん幸福になるのは、公正であるべき」という、ダンマの話の教育がないからです。
こういうのを「正しい理解がある。高い精神がある」と言います。低い精神があれば、分配しなければならないと考えます。こういうのは、世界の状況を解決できないほど最高に変化させなければなりません。教育の進歩、時代の進歩ほど精神が高くないからです。
私たちは、タイ以外の世界のどこの教育省も、「グルは精神のガイド」という考えがほとんどないと言うことができます。しかし私たちは少しずつ、グルという言葉の昔からの理想を捨て、最後に低く落ちた精神があり、安定せず、あるいは社会にとって危険である主義に抵抗する砦でなくなりました。社会にとって危険な主義の種が、どこからも入って来なくても、私たちの国内で、このような低い状態に落ちた精神がある人の心の中で萌芽することができます。
だから私たちは、若い子から幼い子まで、正しい精神の状態がある人であるよう、いつでも高くなるよう注意しなければなりません。だから先生が若い子の病気の研究をするなら、これらの物についてたくさん思うべきです。これを、私たちが思わなければならない三項目と言います。
4.薬を使う権限
次に第四項は、薬を飲ませる権限、あるいは子供に薬を飲ませるのに使う動機について話したいと思います。権限という言葉は強制を意味し、動機の方は強制しないで、自分からするという意味です。しかし私たちは両方とも使わなければならないように見えます。民主主義という言葉の意味も間違って捉えれば、この話にとって非常に危険です。つまり権力を使うべき場合に権力を使いません。
だから民主主義という言葉の意味、特に彼らが敷いた道徳の規則を守らせるよう、良く学んでください。これから熟慮しても良いです。しかしここで権力を使って強制して、するべきことをさせる、つまり自分自身にとって利益になる状態の処方の威力について話したいと思います。正しいと捉えるか、誤りと捉えるか、本当に考えて見てください。
断固とした権力を維持する機構の権限、例えば独裁の権力、戒厳令の権力、革命の権力、このような何でも、私たちは時々使うのを好み、正しい物、然るべきものを受け入れます。それで何故私たちは、道徳面の解決に関わるこれらの権力を使わないのでしょうか。これを、権力を維持する機構の権力と言います。これが思わなければならない第一項です。
次に第二項は、社会の本当の要求、あるいは国の要求で、純粋な社会の政治に関わらなくても、常に道徳があることを要求します。なぜ私たちは道徳を解決する権力を社会の要求、あるいは合意になるようにしないのでしょうか。その次は狭くして、父母なども何らかの処置をする権限があります。なぜ子への愛と、子の言い成りで弱腰なのでしょうか。生まれた時から間違っています。
次は先生で、先生が正しく誠実に義務を行えば、西洋式に休まず子供に賛成して慰めるのでなく、権力を使わなければならないと信じます。今は良すぎるかもしれません。良すぎて使い物にならないかも知れません。権力を使わなければならない場合は、何等かの権力を使わなければなりません。すべては直接と間接的な権力の使い方次第と言います。
次に権力を使うことは、チャリヤダンマ(道徳)、シーラダンマ(道徳)を創る、あるいは使って、前からある何らかのシーラダンマを増やす権限に分類でき、ふさわしく思わなければなりません。このすべては、最初の項目である「権力を使わなければならない」という話に集めます。
次にもう一つは動機、自分から進んで善行をしたくさせる刺激です。昔の子供は罪を恐れ、幼い頃から父母や祖父母のように徳を欲しがると先ほど述べたように、彼らは道徳に不屈の精神がありました。次に現代の子供は、この部分に欠けます。誘惑して騙す物があるからです。宗教の言葉風に言えば、「引っ張って行って誘惑し、この道から転向するよう騙す悪魔がいる。魔王がいる」と言います。その結果現代は、地獄も恐れません。
徳と呼ぶものは、本当の物質にも敵いません。たとえば金銀や荷物、これらの何でも徳より良いです。父母も子供を引き止めておけません。自分自身も自分を引き止められないからです。あるいはほとんどできません。だからチャリヤダンマの世界では、Summum Bonumと言う、人間がこの生で受け取るべき最高に善い物はすっかり変化し、昔からあった物と正反対になったと言います。これを、子供を道徳の中に居させる動機は、このように変化したと言います。
次に、「せっかく生まれて来たのだから、人間が手に入れるべき最高に善い物を手に入れるべき」と子供たちに自由に考えさせる問題を出して、この話の事実が見える道を教えて、検証する方法を探さなければなりません。しかし人間が手に入れるべき最高に善い物は何か、学生らしく考えさせます。私たちは自分であること、そして自分が学生であることを尊重尊敬するよう仕掛けなければなりません。
同時に「グルは人の精神を高くする人」という教えで段階的に知るよう教えます。最初の項目は教えて検証しなければなりません。そして最高の努力で何でもして、子供たちに「私たちの六処の面の要求は本物でなく、本当でないと知らせなければなりません。つまり誘惑する形を見る目の要求、美しい声を聞く耳の要求、美味しい味を味わう舌の要求等々、全部で六つ、つまり形・声・臭い・味・接触に注目する目・耳・鼻・舌・体・心である六処の要求は本物ではないと言います。
現代の新しい科学でも検証できます。グルもたくさん教える方法があります。現代の科学も真実でなく、光波、音波、神経波の欺瞞と検証できるからです。神経やいろいろたくさんの方法で、形・声・臭い・味・接触は真実でないと知ることができます。だからより事実である物を見るべきです。これらの物を遊びにし、次に少しずつ高くして、六処を管理し、目・耳・鼻・舌・体・心、これらを管理して人間であることの範囲内に居させる方が善く、安全で、そして楽しくもあります。その上素晴らしいです。
その方が楽しいと言うのは、聞いて信じられません。しかし先生のみなさん、「楽しさは満足と、形になった成功から生じる。それも楽しさ」と、持ち帰って考えるようお願いします。だから私たちは、目・耳・鼻・舌・体・心に酔う話でなければ楽しくないと捉えないでください。本当は興味があり、そして満足があれば何でも楽しくなり、禅定に入る話も楽しいです。ダンマの教育も楽しいです。だから自分を強制して規律の中に居させることも、自分を律すことに楽しさがあるボーイスカウトの理想のように楽しくするべきです。
次にそのようにしないことこそ最高に苦で、そして社会に解決できない問題を作ります。つまりどんどん衰退する問題でいっぱいになります。もし人が、目・耳・鼻・舌・体、形・声・臭い・味・接触の六処の奴隷に落ちれば、これらの人が国・宗教・国王を愛す日はない、あるいは私たちが望むように国・宗教・国王に誠実になる方法はないと、いつでも検証して見せます。ボーイスカウもト、学生も、庶民も毎日国を愛す話で宣誓する話は、物質の奴隷に落ちればあり得ません。
私たちは子供にオスカー賞を受賞した人の伝記を聞かせるより、もっと尊重尊敬、関心を持つべき人物の歴史や話を聞かせるべきです。ラジオを聴いて見てください。オスカー賞を受賞した人の経歴を国の重要人物の経歴より多く放送しています。あるいはオスカー賞を受賞すべきで受賞しなかった人でも、こういうのもこれらの人物の経歴を、国の重要人物の経歴より多く放送しています。だからダンマ、あるいは道徳、あるいは宗教という言葉の理解をし直さなければなりません。
今子供は理解できなくなりつつあります。先生のみなさん、どのようにすればこれらの子供に、正しい、あるいは公正な宗教という言葉を理解させることができるか、これをたくさん研究してください
インドの若い子について少しばかり話して聞かせたいと思います。私がインドへ九十日ほど旅行した時、休みなく観察しました。インドのほとんどが教育で遅れていても、道徳はまだ何も変化してなく、未だに善いと、見てすぐに分かりました。若い子が付いて来て、何でも遣いをし、案内や写真撮影、映画撮影などを手伝い、カメラでも何でも、いろいろ持つのを手伝います。私が「なぜ私たちはこのように迂闊なのか」と驚くと、一緒に行った人が笑いました。
ブッダに由縁のある本当のジャングルの中で、警察も何もなく、これらの子供たちが手伝いに来て荷物を持ち、私たちを放っておいて、彼らは後ろをついてきます。私の荷物ではありませんが、私は持ち主の代わりに恐ろしく感じました。持ち主は反対に笑い、これらの子供が荷物を持って逃げ去ったことは一度もないと言いました。タイでは反対に、ペップリーのバンダイイット寺で、西洋人女性のカメラを奪い、その上助けようとした夫に加害したというニュースがありました。あるいはクルンテープのプラチェットゥポン寺でも、カメラが一瞬で無くなるので注意しなければなりません。
インドと比較すると、どこでも正反対です。教育が低いから人に道徳がないと責めるのは、あまり正しくないように見えます。むしろ別の話に見えるからです。インド人にはまだ、変わった道徳面の話がたくさんあります。聞くとこれらの人は、泥棒になるより乞食になる方がマシと捉えていると感じます。だから私たちは乞食が溢れているのを見、そして泥棒を探して(数滴の)目薬にすることもできません。
これは心に深く刻まれている道徳の教えです。だから暴力沙汰はあまりありません。恐ろしく口で争うことはあっても、道具を使うことはなく、武器は言うまでもありません。百姓が稲を刈っている傍でサルの群れが稲を刈る人と競争で食っていても、誰も追い払わず、叱る人もいません。犠牲心で、動物への慈悲で、前もって捧げているからです。だから動物は食べられるだけ食べ、人も分け前があります。こういうのも、タイにはありません。
だから動物に危害を加えない、あるいは動物を支配しないのは、至る所にあります。思うと不思議です。これを、道徳の話と教育の話は別の話に見えると言います。そしてまだ、非常に誤解されています。私たちは道徳面の助けをし、教育を有益な物にする宗教の規則を侮辱するべきではない、と思わなければなりません。さもなければ、教育は却って害に、あるいは危険になります。
5.病気の治療に使う薬
次に第五項は、病気の治療に使う薬です。さっと述べたいと思います。残っている時間が少ししかないからです。子供の病気の治療に使う薬について、広く三つの方法を思わなければなりません。最初の方法はプラタム(ブッダの教え)、あるいは仏教で、二番目の方法は普遍的なチャリヤダンマ(道徳)の規則で、三番目の方法は特にボーイスカウトの規則です。
宗教の教えの話は不可能な話とか、時代遅れとか、私たちの望みと矛盾するとか、非常に誤解されています。これはたくさん熟慮してください。詳しく述べる時間がありません。仏教の教えについては、本の通りに狭く見ないでください。更に古臭い物になって、最高に滑稽です。
私たちは「文字は利益がなく、意味にこそ利益がある」という教えを守らなければなりません。文字は、時々誤解することもあります。仏教の教えについて話せば、千二百五十人が集会したサンガの中で、これが仏教の教えであると主張して話された、パーティモッカの六つなど、重要な教えを先ず思うべきです。
その教えには、「アヌーパワートー 悪口を言わない。アヌーパカートー 加害しない。パティモッケー チャサンワロー 良い規律がある。マッタンニュターチャバッタサミン ちょうど良い生活。パンタン チャ サヤナーサナン 静かな住まいを好む。そしてアディチッテー チャ アーヨーゴー いつでも心を善くなるよう訓練する」とあります。聞くと、何も矛盾する物はありません。
『悪いことを言わない。ちょうど良い生活。善い規律。静かな住まいに満足し、何を考えても善くし、何をしても善くし、そしてどんどん心が善くなるよう熟させます』。この六つは、現代人にとっても古臭くありません。そればかりか八正道の教えがあり、七覚支の話、その他いろんな話があり、どれも使うことができます。しかし人は誤解して別々の物と見、ヒマラヤの空の向こうの話、僧の話と見、庶民の物ではないと見ます。
しかしそれでも、「すべての子の中で、言うことを聞く子が最も素晴らしい子」と、ブッダが話された一つの興味深い言葉があります。つまり一般に人は子を、親より優れている子、何をしても親と同じにできる子、何をしても親より劣る子の三種類に分類します。このような三種類に分けるのは、ブッダはまだ保証しません。まだ確実でないからです。しかし言うことを聞く子は最高に素晴らしい子と話されました。
何をしても親より良くできる子は親の言うことを聞かないかも知れず、親に対する振る舞いにダンマがないかも知れません。私たちの子供は、この教えを重要なことと注目すべきです。つまり言うことを聞く子でなければなりません。賢く熟練した子、哲学者か何か、先生より秀でたような子に注目しません。ブレーキのない子はどんなに賢くても危険であり、危ういです。
仏教の教えは、言うことを聞く子を最も素晴らしい子と見なします。私たちの若い子が言うことを聞く子だけだったら、問題は全部解決し、何も残りません。だから「これはブッダバーシタ」として守ってください。つまり「言うことを聞く子」です。まとめると、残っているのは、私たちは仏教の教えを治療薬として使えるかどうかという問題だけです。
チャリヤダンマの原則については、普遍のチャリヤダンマの原則は、すべての人間が手に入れるべき最高に善い物は、四種類あると結論しています。
(1)静かな幸福、
(2)人間であることの充実、
(3)純粋な義務、
(4)普遍的なメッター(慈しみ)です。
静かな幸福は、本当に静かな幸福です。私たちは子供に「偽の幸福、本当の幸福はどのようか」教えて知らせるべきです。楽しさは幸福と同じではありません。人間であることの充溢は、知性、知識の充実です。ね、簡単ではありません。特別に細かく決意しなければなりません。純粋な義務は、義務のための義務です。これはほとんど理解できません。義務はお金のため、名声名誉のためと捉えてばかりいるからです。だから道徳が衰退するほど誤解があります。
義務のために義務を行うのは百パーセント善く、お金や名声名誉が手に入れば、副産物の話です。成り行きで食べて使うのは、直接の目的ではありません。私たちは人間の最高の善が直接の目的で、義務の利益のために義務を行います。そして四番目の普遍的なメッター(慈しみ)は、一般のすべての人を愛します。チャリヤダンマ家の中には、五番目に、自由である要求を増やす人がいます。これは民主主義と同じです。
正しい自由なら使い物になりますが、間違った自由は使い物になりません。ね。普遍的なチャリヤダンマに基礎として注目しても、若い子のチャリヤダンマの問題解に使うこともできます。そして仏教の教えにも反しません。私はもう一つ、ルークスア(ボーイスカウト)の規則だけでも、これらの問題を解決できると主張したいと思います。ルークスアの規則の詳細はどのようか、私が述べて、椰子園で椰子の実を売る必要はありません。しかし考慮しなければならない話が幾つかあります。私たちはルークスアの話の中に解決しなければならない話がまだたくさんあります。
ルークスアなどに自分勝手でないことを教えなければなりません。それは仏教の至高の教えです。キャンプファイヤーか何かを知るように、たくさん自分勝手でないことを教えます。そして賢さ・機転・勇敢・忍耐等だけに止まってはいけません。それはまだ誤った状態に使うことができるからです。正直・恩を知る・犠牲・十分な責任など、もう一度それらを管理する美徳がある話を創らなければなりません。
これは仏教、あるいは普遍的なチャリヤダンマ、あるいは全部一致する何かの教えで、ダンマがある人にします。そしてもう一つは、このルークスアを、今よりもっと広く好まれるようにしなければなりません。今は狭すぎます。私たちで庶民・商人・農民に好まれるようにしなければなりません。彼らは自分の子供たちを、一度沙弥として出家させるのが流行りで、戻ってくれば信頼できます。今沙弥としての出家は、非常に衰退しています。
つまり本来の目的と非常に違い、あまり結果がありません。そして解決が難しい状況にあります。寺側に権力がなく、資本もないからです。しかしルークスアの企画を使って、かつて誰でも子供を沙弥にさせたがったように、誰でも自分の子や孫をルークスアにしたがるよう、人気を得ることができるかも知れません。これは、庶民や商人、農民の状況にふさわしいルークスアの評判を創るという意味です。今のように狭くしないでください。
次に一般原則では、ルークスアの規則も、道徳面の教えの形にならなければなりません。つまり本当に実践しなければなりません。この理由で失敗したすべての企画のように、チャリヤダンマ(道徳)だけ、論理だけ、あるいは哲学だけにしないでください。学問だけ、論理だけ過ぎて実践の話で溢れなければ、同じように失敗に終わるでしょう。
6.病気のない状態はどうするか
六番目は、病気のない状態はどうするかと規定しました。仏教の教えでも、チャリヤダンマの規則でも、ルークスアの規則でも、どうしたらタイの物を持てるか、そしてどうしたら結果である病気がない状態になるか、熟慮して見てください。新しい文化の規則を捉えないでください。それは病気がない状態に見えません。反対に慢性病の状態です。だから「心の病気がない状態の話で、あまり西洋の真似をしないでください」と、率直に話します。
ちょっと自然に考えて見る方が良いです。つまり西洋人は皮膚の肌理が粗くて固く、体中に体毛があり、タイ人は肌理が細かく体毛ははっきり見えず、髭も少ない。このような自然があり、私たちは彼らの真似をすることはできないと考えます。あるいは普通、西洋人は薄味の食べ物を食べ、激しい音楽や舞台芸術を好み、私たちタイは濃い味の食べ物を好んで食べ、たおやかな音楽を好み、このように正反対です。
自然に真似することはできません。ブッダを思うと、ブッダはモンゴロイドで、皮膚が黄色くて肌理が細かいです。私たちはどのように、あるいはどれだけ後を追って歩けるでしょうか。この話は、話せば話すほど嫌らしい民族主義の話です。しかし話しておくのは、この話で何かが過剰にならないように、防止しておくためです。
次にタイについて、チャリヤダンマの話で他国の後を歩かなければならないなら、最高に恥ずかしい話と見なさなければなりません。ブッダの後を歩くのは恥ではありません。なぜなら「みなさん、鵜呑みにブッダを信じてはいけません。自分自身の見方を信じなさい」という教えがあるからです。聞いたら自分で考え、自分で見えたら信じます。こういうのは恥ずかしくないと言います。そして愚かに後を追うのではありません。
仏教教団員にも道徳があり、特に私たちの文化があります。私たちは指導者、あるいは挑戦者であるべきです。この話で誰かの後を追う人にならないでください。自分を仏教教団員にし、そして仏教教団員であるタイ人であってください。そしてチャリヤダンマの話、シーラダンマの話に、自分自身のものがあります。この話で誰かに頼る、あるいは誰かの後を追いたいと望まないでください。物質の話はまた別の話で、それについては話しません。
だから仏教の教えである道を考え、研究し、物質の話でも、国を創ることに応用しなければなりません。国を創る話は非常に物質の話ですが、仏教の教えを応用して成功させることができます。そして子供にとっても危険はありません。その仏教の教えを文字で捉えないで、意味で捉えれば百パーセント使うことができます。文字で捉えれば、ちょっと解釈を間違っただけで最高に矛盾し、僧は国のために何もする機会が無くなります。
次に仏教の教えを応用したルークスア(ボーイスカウト)の規則を教えるのは、若い子にとって更に素晴らしく偉大で、残らず全部問題解決できます。だから私たちは、ルークスア、あるいはルークスアでないかは重要でなく、呼ぶ言葉、名前だけですが、実践規則は重要と言います。最後にすべての子供が言うことを聞く子に、最高に素晴らしい子に、つまりブッダが望まれたように、ブッダの言うことを聞く子になります。
7.実践しなければならないことのまとめ
次にもう少し時間をいただくのは、述べたすべてをまとめるためです。私たちは、若い子のシーラダンマ、あるいはチャリヤダンマを増やすすべての計画を止めなければならない、あるいは無くしてしまわなければならないと熟慮します。答えは広い規則であるべきです。子供にとって利益がある物は振興させ、子供の心に害のある物は、物質面の結果があっても中止、あるいは消滅させることを認めなければなりません。
例えば映画の税収入が年間何千万でも、四五千万でも、これらの話が若い子の精神を害します。お金で計算すれば年間何百万でしょうか。私は四阿僧祇、何千億万、書ける数字はないと思います。そして国が受け取るべき年間四千万は、何の意味もありません。私たちにこれに対処する権限があるなら、単刀直入に手術をするような仕方でなければなりません。
お寺がお寺の行事を催して、一度に何万、あるいは何百万かの収益があっても、お寺の中で行われるアパーヤムッカ(賭博、飲酒など悪趣の道)は子供の精神に危害を与え、数字で数えても数え切れません。お寺は用心すべきです。あるいは犠牲にすべき、子供のことを考えるべきです。
このようなお寺の行事は何等かのアパーヤムッカがあると、自分で考えて見てください。次に何億、何十億にもなる酒税など、大きな問題ですが、それも同じ状態で思うべきです。これを廃止しなければならない側と言います。
次に反対側の、私たちが創らなければならない、あるいは振興しなければならない側です。道徳であるもの、あるいは道徳を支援することを、楽しく、あるいは反対側の物のように夢中になるようにしなければなりません。これは誰も信じる人がいないかも知れませんが、プラタム(ブッダの教え)、あるいはダンマは、それ自体が娯楽であると、私は常にこのように述べて主張します。どうぞダンマを、ダンマ自体に映画や芝居を見るような楽しさがあり、満足がある娯楽にしてください!
そうすれば精神面の娯楽と呼びたいと思います。Spiritual Theatreは精神面の劇場、あるいはそのような物です。ダンマ、あるいはチャリヤダンマ、あるいはルークスアのすべての品行に楽しさを生じさせる最新の方法を探すことで、何としても娯楽である物にしなければなりません。
もっと高くすれば、子供は「善行をするのは最高に楽しく、そして楽しさはそれ自体が娯楽である」と知らなければなりません。かつて身勝手をなくすと見なされていたスポーツは、今はそのようではなくなってしまいました。世界の最高レベルの大きなスポーツの世界を観察して見てください。利己主義が溢れ、有利になる機会を狙い、裏のルールを使って有利になろうとすると聞きます。だからこのようなスポーツは身勝手を減らさず、間接的に身勝手を塗り重ねます。だから私たちはこのような規則を持つことはできません。スポーツは楽しいだけとします。
そして身勝手をなくすと推測する、あるいは括ることはできません。それは、子供が身勝手をなくすことに楽しさが見えるまで、身勝手をなくなるとはっきり見えるようにしなければなりません。一般の人が自分を律して規律の中に居させるのは苦であり、困難ばかりと見ますが、事実ではありません。正しい方法で関わればダンマの行動は楽しく、感銘深い味があり、そして中毒に、善の面の中毒になることができます。
要するに、私たちは道徳の中に娯楽を創らなければなりません。道徳に娯楽を創ると聞くと滑稽です。私たちはシーラダンマに娯楽を生じさせるくらいチャリヤダンマの話をたくさん研究します。祖父母の時代の、昔の本当のタイの文化はそのようでした。祖父母の時代の人がまだ子供の頃は何を楽しんだか、振り返って考えて見てください。時には、砂を寺に運んで来て、塔を創って楽しみ、現代と違います。なぜ彼らは楽しかったか。それは何か違ったものがあったからです。
今私たちは責任を取ることを知らず、どのように責任を取らなければならないかも知りません。私たちは何のために生まれて来たのか、なぜ人間でいるのか、何も知らないからです。戻って、私たちはなぜ人間なのか、人間の善はどこにあるのか、心の、精神の本当の休息は何処に、どのようにあるのかを教える教えを探さなければなりません。
教育、あるいは世界のすべての仕事は、結果である静かな幸福のため、あるいは精神の休息のためです。しかしなぜ、休息を受け取らず、反対にあるのは拡大していく大騒ぎ、大混乱ばかりなのでしょうか。それでもまだ休まず、他の世界に蔓延します。
ね、最後の結果は、非常に大きな話とはっきり見えます。そして小さくはない大きな問題に遭遇しなければならない先生のカンマになります。例えれば大きな戦争、子供と大戦をする、最高に困難な戦争をするくらいです。だから私たちの、先生たちのカンマと捉えるべきです。私も自分自身を先生の一人に含め、「私たちのカンマ」と呼ぶものの中に含めます。そして見れば見るほど重い問題に遭遇する私たちのカンマと感じます。
カンマと言うのは振り払うことができない、断ることができない、あるいは自分の能力の限りしなければならないからです。だから私たちは子供たちを支配下に置いている魔王、サターンから何としても取り戻さなければなりません。何としても奪い取らなければなりません。今世界中、あるいは地球全体が同じ問題を抱えていても、それは人間がうっかりして、魔王の餌である煽情する物を製造し、気づかずに、限りなく世界を大々的に誘惑するからです。
だから先生のみなさん、精神面のガイドであることを恥ずかしがらないでください。本当は、男性のグル(先生)は子供の慈悲深い父であり、女性のグルは子供の慈悲深い母で、勉強を教えて給料をもらう勤め人ではありません。先生は子供に勉強を教えるために社会に雇われ、給料で口と腹を養う人でなく、「男性教師は子供の慈悲深い父、女性教師は子供の慈悲深い母」と常にこのように見れば、これらの問題は解決できます。この大きな戦争に、難しくなく勝利できます。
自然はすべての先生は教育省、あるいは政府の所属でなく、阿羅漢に所属させたいと望んでいると、深い部分まで深く見るようお願いしたいと思います。つまり深い部分の本当の心の面、精神面では、自然は私たちを阿羅漢、あるいはブッダの阿羅漢に属させたがっています。つまりグルは世界の不吉な物、サターン、魔王を撃退する義務をしなければなりません。そして世界の精神面の状態を何としても高くします。それは直接阿羅漢の義務です。
だから心の面、精神面、あるいは深い部分の自然では、先生は阿羅漢に属すので、尊敬するべき人物です。勤め人ではありません。この方法は人間が危機を脱すのと同じ方法です。この世界はこの規則で危機を脱すことができます。これをまとめると、私の考えでは、若い子のチャリヤダンマ(道徳)を創造して解決する方法です。
すべてを、私の最高の主張と捉えてください。あるいは挑戦でも良いです。私は受け入れます。一部の先生は最高に古臭い、最高に田舎っぽい、最高に時代遅れと捉えるかも知れない挑戦、あるいは主張です。しかし仕方がありません。私は見れば見るほどこの方法が見え、他の方法は見えません。
だから時間が許すだけ、この形でいろんな考えや思いを吐露しました。あまり詳細に述べることができませんでした。時間の制限があり、そして時間を多少経過したからです。だからこれで、今回の、若い子のチャリヤダンマの振興に関わる考えの発表を終わらせていただきます。
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