ナンモー ダッサ バガヴァトー アラハトー サンマーサンブッダッサ
イェー チャ ブッダー アティーター チャ イェー ブッダー アナーガター
パッチュパンナー チャ イェー ブッダー サッペー サッダムマグルノー ティ
サンモー サッカッチャン ソータッボーティ
ただ今より智慧の飾りにするため、信仰を振興し、そして仏教教団員のみなさんの努力が、みなさんの拠り所である教祖の宗教面で進歩発展するために、時間になるまで世尊のダンマの説法を始めます。
今日の説法は、初めてのアーチャンを記念すべき日にちなんだ説法と、みなさんもご存じのように特別の説法です。そしてみなさんで協力して追善供養して祖師に善を捧げます。だからこの行動に関わる説法は、初めての先生である方々に関わる話について述べます。グル(師)やアーチャン(師匠)、あるいはウパッチャー(導師)に関わる話と言い、その人物が大小すべての弟子、あるいは朋輩、あるいはどんな関係か場合によりけりです。
ここではグル(先生)にふさわしい、あるいはグルやアーチャン(師匠)である人物、一般に尊重、崇拝される人、あるいは短くグルである人物、つまりすべての人に重みがあるべき、尊重するべき人物について話します。
私たちは女性も男性も、子供も大人も、尊重される立場である人物がいるべきです。少なくとも故人である先生、目撃証拠として現れている骨が、グルにふさわしい人物としてあります。つまり尊重すべき、あるいは重く扱うべき、あるいは関係次第で先生と呼ぶべき、あるいは導者と呼ぶべき人物がいます。一般的に言えば、この世界に、誰でも尊重する物がなければならないと言うことができます。
つまり誰にも先生がいなければなりません。尊重する物がなく平等に暮らすのは苦だからです。「平等に暮らすのは苦」と、大昔から久しく言われています。私たち仏教にも、ドゥッコー サマーナサムサーソーという言葉があり、「平等に暮らすことは苦」と、このようです。つまり私たちには尊重する物、より高い物、あるいは同じでない物がなければならないということです。それがグルにふさわしい人物です。
次にグルである人、あるいはグルにふさわしい人物はどのようかについて、詳細に熟慮します。一般の知性を飾る物にするために、そして証拠である骨がここにある、故人であるアーチャンの恩を思うために説法します。みなさん、しっかり聞いてください。
「私たちには先生がいなくてはならない」という最初の項目は、一般に正しく、反対がないものであってください。人が生まれると何も知らないので、教える人、導く人、手を引く人がなければなりません。そして遵守する教えがなければなりません。そして遵守している教えで行動して何としても成功するために、尊重するのに使う尊重する物がなければならないと熟慮して見てください。だから尊重の基盤である物は大切です。私たちが毎日穏やかに暮らせるのは、尊重するものがあるからです。
私たちが先生を呼ぶ時「ターンアーチャーン」と呼ぶのは、尊重する立場にいる人という意味です。そうでなければその方を「ターンアーチャンーン」と呼びません。重要な意味は尊重の感覚がある点にあります。尊重があれば、言うことを聞く、同じように行動する、あるいは同情するなどの他の感覚もあります。あるいはその方の心に逆らうことはできません。
このようなら、当然善と美だけがある道であり、自分とその方の利益になる道です。今私たちは、尊敬する方々のための追善供養をするために集まりました。「尊重の基盤である人物」という言葉は、続けて説法を聞く心に常にあると思ってください。
尊重する物という言葉は、「初めての先生」と呼ぶ最初の人物、つまり父母まで思うべきです。父母は尊重し供え物をする人、そして先生の立場にありますか、タイ語ではアーチャンと呼ばず、グルとも呼びません。父母と呼ぶのは、もう一つの重要な状態である、生まれさせた人に注目するからです。私たちの命は二人の人物から貰い、この二人は父母という立場にあります。
しかし父母は私たちに命を生じさせだけでなく、先生の義務もすることを忘れないでください。つまり何から何まで、すべてを教えます。小さな時から、あるいはこの世界で目を開けた時から教えます。最高に重要なのは、食べ物を食べることを教え、危険を防ぐことを知るよう教えるので、このように危機を脱して来られました。そして初期に知るべきことすべてを教えて知らせました。だから父母は誰よりも先生であり、すべての人の誰より最初の先生です。だから私はブーラパーチャーン(最初の先生)と呼びます。
もう一つの見方をすると、父母は尊重の基盤で、グルにふさわしい人物という言葉と一致します。父母は子にとって幼い時から尊重すべき立場にありますが、父母としての愛の方が多いので、いつでも、寝ても覚めてもグルであることが父母の身にあっても、グルと呼びません。だから私たちは他のことより先に、グルである父母について思うべきです。これがグルにふさわしい人物であるグルの一人です。
次に、その後義務を引き受ける人である学校の先生、あるいはお寺の戒師について述べます。これは全部、グルの立場にあります。私たちはいろんな名前で呼び、「グル」「アーチャン」「ウパッチャーアーチャン」もあります。しかし意味は同じ所にあり、一つは尊重すべき人で、グルも尊重すべき、戒師も尊重すべき、アーチャンも尊重すべきです。
ここでみなさんに、グルや戒師はどのようか、つまりどの種の人物か知っていただきたい、あるいは少し詳細に熟慮していただきたいと思います。タイ語を基準にすれば当然錯綜します。錯綜するように呼ぶからです。だからパーリ語、あるいはサンスクリット語を基準にし、そして昔のインドで使われていたように捉えます。このようにすれば意味も違ってきます。それぞれの言葉は同じではありません。そしてアーチャンという言葉から遡ってウパッチャーになり、それからグルになります。
アーチャンという言葉は、一般に訓練をする人を意味しますが、特に行儀作法、行動、あるいはほとんどは社会に対する振る舞いで、社会の作法の訓練をする人です。
昔のインドの地方のウパッチャーという言葉は、学問だけのアーチャン(先生。師匠)を意味し、弟子は知識だけに注目しなければならないアーチャン、つまり職業のアーチャンでした。何らかの職業を教えるアーチャンを、彼らはウパッチャーと呼びました。歌を歌うのを教える、音楽を教えるのも、その知識のアーチャンと呼びました。弟子である人は何らかの知識、何らかの義務に注目しなければなりません。これが一般に使われる言葉です。すぐに、仏教の狭い世界の意味を思わないでください。
仏教の狭い世界のウパッチャーという言葉は、サンガがその人に具足戒を授けるために、具足戒に誘導する人を意味します。だからこのような場合のウパッチャーは深遠な意味があり、その人物をシッカーがあると言い、そしてすべての比丘と同じように、比丘の職業がある、比丘サンガと一緒にする職業に就かせる人です。私たちはまだこの言葉を、「ウパッチャーは具足戒を授ける人」のように非常に誤解しています。本当は具足戒を授けるのはサンガです。
だからウパッチャーは具足戒を授かって比丘を目指す人が注目する物です。つまり出家する人はウパッチャーに注目しなければならないので、その人はウパッチャーと呼ばれます。そしてその人も出家したばかりの比丘に、シッカーとすべての比丘に関わる職業があるようにさせます。このように熟慮して見ると、ウパッチャーという言葉は、どんな種類の職業知識でも、一般の広い意味で、職業を成功させる人という意味があります。
次にグルという言葉になりました。ここでのグルという言葉は精神面のリーダーという意味があります。つまり心の面、精神面のすべての深遠な知識、普通のグルが教えることができないので、精神面の導き手である、この種のグルの義務で、この世界に勝利するため、次の世界に勝利するため、そして勝利して世界を超えるなどするために、精神に正しい道を正しく歩かせます。これを精神面の導き手と言います。
グルの義務は、行儀作法の訓練をするアーチャンより高いです。そして職業を教えるウパッチャーより高いです。良く熟慮して見れば、ブッダも精神面の導き手であり、最高のグルでした。精神面の導き手は高い道を行かせ、ロークッタラと呼ぶ世界より上に行かせられるからです。
復習させていただきます。その前にみなさんは、「アーチャンは作法を訓練する人、あるいは一般の知識から勉強を教える人までで、ウパッチャーは特に何らかの職業を教える先生で、グルは普通より深い知識である、精神面を導く人」と、メモしなければなりません。それは非常に違いがあり、段階的になっていると熟慮して見てください。昔インドで使っていた言語ではこのようです。
しかし現代になると、特にタイではグルという言葉がアーチャンに代わり、そして勉強を教えるグルも、あるいは職業を教えるグルも、先生全般を呼ぶので、言葉は錯綜混合します。タイ語のように話す時はタイ語のように話さなければなりません。
しかし元のパーリ語・サンスクリット語で話すならその言語を真似なければなりません。そしてそのような意味にします。そしてみなさんは、グル、ウパッチャー、アーチャンはどのように違うか、自分で熟慮します。
故人である先生は、グル、ウパッチャー、アーチャンの立場にいます。一方では行儀作法や勉強など細かいことを教え、もう一方では特に職業だけを教えて、その人物が危機を脱す助けをし、もう一方で、精神面の導き手で、善である実践の良い手本であり、実践して人物の心、精神を高い方へ進歩させたので、グル、ウパッチャー、アーチャンと呼び、それ自体全部混合していました。
しかし私たちは「ターンアーチャンペット(ペット先生)」と呼びます。これだけ熟慮するならまだ十分でないので、その方は作法を訓練する人であり、職業を教える人でもあり、精神面の導き手でもあったと熟慮して見なければなりません。グルという言葉はこのように広い意味があります。
お浚いして見ると、父母である人もグルであり、行儀作法も教え、職業も教え、その人の能力に応じて多少は精神面の導き手でもあると見ることができます。だから私たちがまとめてクルーバーチャーン(先生)と呼ぶのは、まったく小さな話ではないと見ることができます。そして行儀作法の訓練する人でもあり、職業を教える人でもあり、精神面の導き手でもあると、三つ意味が違いを熟慮すればするほど、父母の恩に満足します。そして父母はまだ命を生まれさせ、人にしてくれた人である特別な意味があります。
次に「グルにふさわしい人物であるグル」という言葉について熟慮します。私たちにグルは必要ないと不注意にならないでください。そしてそれぞれの人はグルにならないと不注意にならないでください。それらの方々が黙って座っていても、その方はグルだからです。
仮にターンアーチャンペットが黙って座っていて何も話さなくても、まだグルです。黙って座っているのを見れば、私たちは何かを理解しなければならず、その結果、師を失望させるようなことは何もする気にならないという意味です。師に遠慮するから、師を愛しているから、そして師が何を望まれているか、師の心を知っているからです。だから黙って座っているだけで、まったく口を開けなくても、師は全身全霊、極力グルです。
だから口を開けることについて話す必要はありません。ある時、師は棒を持って、子供の中の誰かを鞭打たなければならず、あるいは比丘や沙弥に段階的に教え諭し、何も話せなくなって黙って座っていてもまだ、グルです。残っているのは棺の中の亡骸だけでもまだグルで、火葬してレンガにして搭の中に入れても、まだグルの立場にあります。つまり私たちはその方に対して、そしてその方の骨、あるいはその方の名誉、あるいは現れているその方の何でも尊重します。
それらすべてはグルです。つまり心を導くもの、あるいは人を思い出して、その方が成り行かせたい方向に考える感覚を生じさせる助けをし、そして私たちは師を尊敬尊重し、恩を感じます。「師はこうさせたがっていた」と感じるようにしなければなりません。だから師はレンガに詰めて搭に入れても、永遠にグルです。これが、グルと呼ぶ人物をどのように思わなければならないかという項目です。それには父母・グル・ウパッチャー・アーチャンの意味が全部あります。これが人間のような人物であるグルです。
次に人物でないグル(先生)、つまり出来事などについて述べます。人に知性があれば、いろんな物がグルになれます。
本当のことを言えば、いろんな物はいつでもグルで、特に私たちの日常に関わる物、私たちが毎日している仕事、あるいは人生で通過して来た出来事、あるいは様々な物に遭遇して来た人生、それらはグルです。毎日している仕事は教えて賢くし、善くすることを教えます。その仕事は先生です。通過してきた出来事、貧困になり、金持ちになって貧しくなり、楽あれば苦あり。このようなものはグルです。通過して来て私たちの全身全霊に入っている物はすべてグルです。私たちは他の物より、むしろこれらの物によって賢くなりました。
グル(先生)と呼ぶものは人物だけではないと、良く考えて見なさい。仕事や人生もグルになれます。しかし愚かな人は関心がなく、反対に不注意で、自惚れ、この種のグルを尊重しないので死ぬまで愚かです。関心を持って正しく理解すれば、この種のグルは最高に重要です。これから熟慮します。つまり「失敗もグル」と、指摘して見せます。
実行して失敗し、非常に困難を受け取った行動。それはグルです。それは本当に教え、強烈に教えるからです。正しさはあまりグルではありません。これはどのようか、熟慮して見てください。失敗した時罪を受け取り、苦を受け取ります。それは痛み、たくさん考え、たくさん思うので、たくさん教えるグルです。
しかし正しくすると満足する結果を受け取るので、楽しくうっとりし、グルを知らず、グルを喜ばず、それがグルと知りません。これです。よく注意してください。苦はグルです。しかし幸福はあまりグルでなく、却って饒舌散漫へ誘ってしまいます。
「失敗はグル」と,良く熟慮することに満足なさい。苦や困難はグル、最高のグルです。正しさ、あるいは楽しさ、快適さにあるのは欺瞞だけで、世界や人生を誤解させ、全然グルではありません。苦や困難に感謝なさい。あるいはものすごい困難を受け取った失敗も、最高のグルと言います。
この種のグルは、あまり関心を持ちません。私たちはあまり尊重しません。それは私たちの愚かさなので、この種のグルから何でも少し受け取ります。少し受け取れば、私たちはその後たくさん困苦がなければなりませんが、失敗、あるいは苦や困難に深く関心を持てば、最高に善い知識を得、そして二度と失敗しないで正しくできるよう教えます。
次に見るのは、人物でないもう一種類のグルは、もっと繊細で深遠なのがあり、つまり自然です。自然と呼ぶものは、自然に普通にあるいろんな物を意味し、石、植物、大地、暑さ寒さ、何でも、そして最高に重要なのは、生老病死、私たちの心に自然にある煩悩、苦など。これが特別なグルである自然です。この種のグルを良く見て、正しく良く知らなければなりません。
あるいはこのグルは正しくすれば自然にさせ、生まれ、老い、病んで死ななければならなり自然。無常であり苦であり、無我でなければならない自然。煩悩が生じて焦燥しなければならない自然。煩悩がない自然は清涼で、自然であり、自然の法則であるたくさんの場所。これらの自然はグルで、いつでも、頭のてっぺんから足の爪先までグルです。私たちは、どの種類のグルよりこのグルから賢さを受け取り、どの種のグルより深遠です。
良く言えば,「自然は神様より良く教える」と述べることができます。理解できなければ、「自然は、神様より良く教える」と言うことに、きっと反論するでしょう。ここで神様が教えるというのは、神様である人物が口で教えるという意味で、教える人のように声で教えるのを、神様が教えると言います。自然が教えるのは、教える人物はいませんが、心に生じているいろんな物、例えば煩悩が生じるとどのように熱いか、どのように痛むか、どのように苦かを教え、煩悩がない時、それはどのように穏やかかを教えます。
自然が教えるのははっきりして明らかで、厳格で、心で最高にはっきり見え、人物が教えるようではありません。後者はもう一段階考え、思い、学んで実践しなければならない言葉だけで、自然が教えるように、その場に間に合いません。だから、自然が教える方が、神様が教えるより良いと述べることができます。
そしてその理由で、ブッダは「みなさん、如行(ブッダの一人称。漢訳では如来)が述べたことをすぐには信じないでください。みなさんは熟慮して、心の中、生活の中に本当にある物を知り、そして本当に見えたら、それから如行の言葉を信じなければなりません」と話されました。例えば「貪り・怒り・迷いは煩悩で、苦を生じさせる原因」と、このように教えるのは、すぐに信じてはいけません。理解できないからです。しかし本当に貪り・怒り・迷ってしまえば、苦はどのようか、即座に、そして最高に知ります。
だからブッダは「如行を信じてはいけない。しかし感じた自分を信じ、あるいは私が教えたように、それと関わった自分を信じなさい」と教えられました。例えば如行が苦の話を教えたら、みなさんは自然である苦を理解しなければなりません。そうすれば苦を知り、苦を理解します、滅苦の話を教えても、滅苦が現れるまで実践しなければなりません。そうすれば滅苦を知ります。
苦、あるいは滅苦が現れるのは、自然が現れて、自然が教えます。だから私たちは即座に、ブッダはこの義務を自然に委ね、あるいは丸投げされ、私たちに自然と連絡させて、自然に教えさせたと見ることができます、だからブッダは、「私は道を指すだけ。歩くのはみなさん自身が歩かなければならない。代わりに歩ける人は誰もいない」と話されました。
ブッダが代わりに滅苦をすることはできないので、自分自身で滅苦をしなければならないという意味です。私たちは苦である自然と、滅苦である自然を深く理解して、自然を心で明らかにしなければなりません。そうすれば自然が教えます。だから教祖は、私たちが自然をグルにするよう教えました。「ブッダは私たちに、自然をグルにするよう教えられた」と言うのは、自然にダンマを理解させ、自然にすべてのダンマを深く理解させ、そしてその自然が教えて、心で明らかに知らせます。
ブッダが私たちにとって偉大な恩があるのは、自然を自分のグルにできる道を示された点です。これはつまりダンマをグルにできることです。ブッダが私たちのボロマグルと呼ばれるのは、この理由です。自然をこのようにグルにする道を示されたから、冒頭で述べた言葉があります。「イェー チャ ブッダー アティーター チャ、過去のすべてのブッダのどのブッダも」、「イェー チャ ブッダー アナーコタ チャ、未来のすべてのブッダのどのブッダも」、「イェー チャ ブッダー パッチュッパンナー チャ イェー ブッダー、現代のどのブッダも」、「サッベー サッダッマムグルノー、それらのブッダのみなさんの何方も、すべてはダンマを尊重します」。
どのブッダもダンマを尊重します。なぜブッダがダンマを尊重しなければならないか、考えて見てください。それは、プラタム(ブッダの教え)はブッダのグルであり、ブッダより上のグルだからです。これはその教典の中の話に現れています。ブッダが大悟してサンマーサンブッダになられたその日、「如行は何を尊重する物として持とうか。誰を尊重する人にしようか」とつぶやかれました。
ブッダは繰り返し検討され、最後に、ブッダにとって尊重するべきものはダンマ以外に誰も、何もないと気づかれました。だからどのブッダもプラタムを尊重し、グルにしました。だから私たちはグルの頂点、あるいはボロマグルは、すべてのブッダが尊重する物であるプラタムで、ダンマと呼ぶ物にゆるぎない尊敬があると述べることができます。
これです。グルと呼ぶ人には二種類あると整理して見てください。つまり人物であるグルが教えてくれ、父、母、グル、ウパッチャー、アーチャンなどが一つの部類で、人物であるグルと言います。次に人物でない種類のグルは、ナーマダンマ(抽象物)であり、あるいは人物でない物であり、これも一つの部類です。これも私たちに毎日本当に何かを教え、プラタムと呼ぶ深遠な自然を知るまで、毎日それに明らかさがあるようにします。そしてプラタムは、すべての尊敬するべき物の基盤としてグルの頂点にあります。
最後にもう一度、ダンマを深く理解し、ダンマに到達し、本当に完璧な真理に到達すればダンマがあると、あるいはグルであるプラタムがあれば、「まだいる最後のグルは自分自身」と思う機会があると熟慮して見ます。
最高にダンマに到達した人は、当然自分にとってグルである状態があり、すべての種類のすべてのダンマを洞察して明らかに知る人でなければなりません。そうすれば自分にとってのグルと呼べる人です。私たちが何かを知りたい、何かを見たい、何かを認識したければ、知ること、見ること、自分自身で良く知ることができるという意味です。
今何か疑問があれば、自分自身に問うことができます。どこかの誰かに聞く必要はありません。苦の話、滅苦の話、あるいは苦が生じる原因、あるいは滅苦に至らせる道の話、聖向聖果涅槃の話も、自分自身に質問でき、自分で答えることができ、そして他人が答えてくれるより最高に良いです。だから最後に人物が至高のダンマに到達すれば、自分自身のグルになり、最高のグルである自分がいます。
しかし良く熟慮して見ると、ここでの自分はダンマ、あるいはプラタムです。プラタムが心の中に完璧にあり、何もかも心の中に揃っているからです。だから探すことができ、あるいは質問でき、あるいは欠陥がなく、欠点もなく、自分の心から何でも引っ張り出して使うことができます。このような人を、満ち足りた人、つまり阿羅漢と呼びます。
阿羅漢という言葉は、人であることが満ち溢れた人物という意味で、人間であることが充溢した人間という言葉にふさわしい人で、人間であることの終わりに至ったので自分自身のグルです。そして自分にとって重要な人で、自分に対して尊敬があり、仮定で「自分」と呼ぶ状態の中にあるプラタムを尊重します。
ブッダは「アッタディーパー アッタサラナー、ダンマディーパー、ダンマサラナー」と言われました。みなさん、灯火である自分があり、拠り所である自分がある人でいなさい。つまり灯火であるダンマがあり、拠り所であるダンマがあります。ね。最高にグルにふさわしい人物、最高にグルである人物がいて、最高にグルである自然があり、人間が受け取るべき最高に善い物を受け取り、人間に生まれて仏教に出合った機会を無駄にしないと言います。
最後にみなさん、グルという一語はどのように重要か、熟慮なさい。これから簡単に復習します。人物であるグルもあり、つまり父母、グル、一般に言うウパッチャーで、人物でないグルは、私たちを取り囲むいろんな物は何でも教えて賢くし、仕事も私たちを賢くし、無常・苦・無我の法則がある自然、生老病死なども何かを教えて、私たちを賢くします。
そしてこれらすべてのダンマを深く理解すれば、自分自身も含めてすべての物にとってグルになることができます。つまり自分にとって最高の利益を受け取り、そして他人を助けることができ、あるいは他人に教えることができます。だから「溢れんばかりの人」と言い、最高に善い物を手に入れた人間であり、生まれて仏教に出合ったことが無駄になりません。
このような機会に。私たちは表敬するため、つまりみなさんのグルである人物、故人であるアーチャンに対して表敬するために集会し、その方はどのようなグルだったか良く思い、良く熟慮しなければなりません。直接にも間接にも全部思いなさい。そして黙って座っておられても、最高に善いグルであり、仏塔の中に詰められていても、これからもグルでなければならないので、油断しないでください。
故人に尊重、恭順、正直、報恩、何でもすべてを永劫に捧げなさい。そしてこの敬愛の気持ちを、グルの道から落ちないよう、つまりダンマ、あるいはすべてのブッダのグルであるプラタムと呼ぶものだけの道になるよう、心を引き止めておく物になさい。
最後に、アーチャンが喜ぶと考える私たちの感覚で積んだ、私たちにあるすべての善を捧げることができます。そうすればすべての善の部分は、アーチャンの徳を崇拝する物になり、後生のすべての趣にふさわしい利益になるでしょう。ちょうど良い時間になりましたので、これで終わらせていただきます。
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