f 14.仏教の意味のグルの理想

14.仏教の意味のグルの理想





1966年1月22日
ペップリー県教員会議研修講義

 グル(先生)と名乗るみなさん。企画してくださった方々のご尽力により、本日お会いできたことを非常に嬉しく思います。そしてグル(先生)のみなさんの利益である何らかの法話を話させていただくようお願いします。私が今日述べる話は、先生の知識に関わる話ではありません。あるいは教育課程、協同組合に関わる話でもありません。私はその部分の知識、あるいは能力がないからです。

多 少知っていても、みなさんも当然ご存知、あるいは私より良く知っているので、私は仏教の教えあるいは理想のグルに関わる話をし、最後に仏教の意味のグルの理想について述べようと思います。

 最初に私たちは、「グル(先生)の理想とは何か」、そして「仏教で野意味はどのようか」を理解しなければなりません。

 「理想」という言葉は、ある人は「理想は食えない。何も買えない。お金には敵わない。思いがけない幸運や供え物、あるいは名声、あるいはそのような何かには敵わない」とまで嫌う人がいます。だから理想を尊重しないで、述べたように何も買って食べられない物としてしまっておきます。ここでは、それが正しいか間違いか判断しません。しかし仏教の教えでは理想を好みます。つまり「人間が得るべき最高に善い物」と好みます。それは食べられる物か、何かを買って食べられる物か、あるいは思いがけない幸運、供え物かどうか考えません。

 しかし最高に善い物、あるいは最高の物、あるいは人間が得るべき最高に素晴らしい物という事実に注目すれば、ナーマダンマ(抽象物)に過ぎなくても、つまり心の面だけに結果がある物でも、ブッダは、心は体より重要と見なします。つまり身体を導いて理想の目的に成り行かせ、そして簡単に物質面、あるいは体の幸福の利益を生じさせることができます。だから仏教は理想を好み、行動があっても、身体と言葉の行動があっても、理想の成り行きにするのを好みます。


 仏教の教えに関心があれば、「理想」というものに関心を持たなければなりません。だから「理想は何も買って食えない」という考えを,一先ず休んでください。そして理想は何かを買って食える物より大事という項目について熟慮してください。例えばお金や名声などより大切です。「仏教の教えで」の部分は、仏教の様式、あるいは仏教の教えで、「グル(先生)」という言葉の理想だけに注目するという意味にします。

 なぜなら現代教育の原則に注目すれば、仏教の理想にならないかも知れないからです。私は仏教の比丘の立場なので、この機会に、あるいは仏教の様式、教え、あるい「グル」という言葉は何を意味するか、あるいはどんな理想があるかという理想に従って講義します。これが「仏教の教えのグルの理想」という名前で述べる法話です。煩わしい研修と捉えず、どうぞよくお聞きください。


 最初の項目は、「グル(先生)」という言葉について判断します。グルと呼ぶ人物は、グルの義務をする世界の人物の一種です。次にグルという言葉はどんな訳語で、どんな意味があるでしょうか。

 グルという言葉は、綴りでは重いという意味です。つまりグルという言葉は重いですが、その意味を越えて素晴らしい義務をする人です。つまり精神面を導く人の義務をします。関心がある方は、「精神面の案内人」という言葉をしっかり憶えてください。ブッダ在世時以前の古い本を探すと、書物の形をしていなくても、口で教える教えの形があるので、グルという言葉の意味は、精神面の導き手という意味があると掴めます。あるいは精神面の道案内でも良いです。

 なぜ「精神面の導き手」と呼ぶかは、世界の動物の精神面を照らして、望ましい終点に行く道を教える光だからです。非常に不思議なことに、大昔の「グル」という言葉は、「ウパッチャー」という言葉以上の意味がありました。古い書物のウパッチャーという言葉は、サンスクリット語の本でも、音楽などの職業の知識を教える先生を呼ぶのに使い、音楽を教える先生である人もウパッチャーと呼んだと、このようにあります。これはグルという言葉の方がウパッチャーという言葉より、遠い意味があるということです。

 ウパッチャー、グル、アーチャン(三語とも師という意味)という言葉は関りがあり、房になっています。そして最後に、グルという言葉は、びっくりするような意味があります。つまり述べたように精神面の指導者です。しかしその後、意味が次第に変化して、この言葉がインドから出ていろんな国に行き、私たちのタイに来ると、意味、あるいはこの言葉の使い方が変化し、勉強を教える先生だけになったことがあります。

 だから私たちは、タイ語だけのグルという言葉の意味にするべきでなく、パーリ語、あるいはサンスクリット語の、元の言語の意味を使わなければなりません。そうすればその意味を十分に理解できます。


 精神面の導き手というのは、動物の道を照らす光です。だから重さがあります。どこに重さがあるか。すべての人の頭に重さがあります。聞くと下品な言葉みたいです。下品に言うと、人の頭の上、あるいは頭(こうべ)にあります。これは粗野な意味、あるいは低い意味でなく、むしろ罵る言葉のように見えます。しかし彼らは、グルは世界の動物の上に恩があるという意味にします。つまりグルと呼ぶ種類の人物は、他の種類の人物以上の恩があります。グルは命、あるいは精神を光で照らし、動物を終点まで歩いて行かせる人たちだからです。

 ボロマグルという言葉は、疑うまでもなくブッダを意味します。グルの頂点なので、他の誰よりも最高の精神面の先導者です。ブッダの弟子であるすべての比丘も、同じ義務をするのでグルと呼ばれます。つまり光で動物の精神を、述べたような終点へ導くからです。だからこれらの人たちは、どの人の頭上にも重さがあります。つまり誰でもこの真実を知らなければなりません。そして見過ごしてはならず、報いなければなりません。あるいはグルの教えの言葉に従って実践することで、グルの恩に報いなければなりません。


 次に、グルがどのように精神面を導くか、あるいは光で照らすかという角度で見ます。どのようにすれば現代にも使えるか、よく考えて見てください。「あいうえお」を教えるのも、精神を導くことの一種です。文字を教える面で光を生じさせ、高くなれば道徳やいろんな行儀作法を教えるので、更に光で照らすことになるからです。

 だから職業、あるいは手工芸、あるいはいろんな技術を教えるグルも、すべては一種の光を与えるので、それらの動物の精神を光で照らして安全に歩いて行かせます。だからグルの理想は精神の案内人、あるいはすべての動物の精神面を導く人です。

 世界の人間を種類別に分ければ、グルと呼ぶ人物は、「尊敬するべき人物」である最高の種類の立場にあると見ることができます。なぜなら誰でも、グルと名乗る種類の人物の指導を受けなければならず、そうすれば危機を脱すからです。そうでなければ生まれた時のように愚かで、発展成長する術がありません。だからグルは世界を導く人です。

 あるいは松明を掲げ、光のあるランプを持って世界の人を歩いて行かせる人です。これは事実です。事実以上に述べる必要はありません。率直に、成り行き任せに、その理想に従って話せは十分で、私たちは、グルは精神を成形する人、そして他の種類の人物の精神を導く人と見ることができます。


 最初のグルは誰かと疑問に思うなら、両親に最高の名誉を差し上げなければなりません。つまり世界の最初のグルである父母を見ます。生まれた時から息子、あるいは娘に光を与える人だからです。しかしグルという言葉に含め、ブッダは「ブッパーチャーン(世界の動物の最初の先生)」と呼ばれています、だからグルの理想が父母を意味しても、光の面で導くこと、あるいは光で精神を導くこと以外の何でもありません。だから私たちは、グルである人物は本当に尊敬するべき人物と見ることができます。

 尊敬するべき人物と呼ぶのは、すべての人の頭上にいるからです。すべての人が尊重しなければならず、恩に報いなければなりません。グルがサンマーサンブッダのように尊敬するべき人物の立場にあれば、あるいはサンマーサンブッダと同じような意味があれば、グルであることは小さなことではありません。


 グルと名乗ることは、遊びにできることではありません。本当のグルは、このような意味があるからです。グルの理想に従って正しくしなければ偽りのグルになり、最後には尊敬するべき人物でなくなります。彼らがある所の一部の先生を、「グルではなく、勉強を教えるために雇われているただの勤め人」と見積もるように、尊敬するべき人物は勤め人になります。

 理想を消えさせる原因は、その人が誤りをした側で、グルの理想が誤りではありません。動物を精神面で導く人であるグルの理想はいつでも正しいですが、グル本人、あるいはグルと名乗るその人が、この理想を軽視してしまいます。「理想は食えない、何も買えない」と捉えるからです、だから期待するのは賃金、あるいは給料だけで、自分を勤め人にするので、尊敬するべき人物であることが消えます。

 たとえで説明したいと思います。心臓を強制して、心臓を取り出して見ることができると仮定すれば、理想があるグルの心臓の中には、智慧と慈しみがぎっしりと詰まっているはずです、智慧とは学問知識、能力、教え子を光で照らす職業能力で、これを一種類の智慧と言います。慈しみとは自分の教え子を我子のように愛し、可愛がり、憐れに思います。これを一種類のメッターと言います。この二種類が、理想があるグルの心臓の中にぎっしり詰まっています。

 この理想を放棄してしまうグルは勤め人になり、心臓の中には賃金、あるいは給料を受け取りたい気持ち以外に何もありません。そして酷くなれは時間の不正をし、自分の仕事である職務で不正をします。身勝手だから、智慧と慈しみがないからです。こういうのは勉強を教える勤め人になり、グルという言葉の理想のグルではありません。


 これです、グルの価値はどれほどあるか指摘して見せる、仏教の教えのグルの理想はこのようです。グルの理想がこのようである時、グルの価値、あるいは値段は幾らでしょうか。疑うまでもなく、グルの価値は尊敬すべき人物の資質の中にあり、勤め人にではありません。理想を忘れた人たちは、気づかずに勤め人になり、おまけにグルの職業を橋と非難します。

 勤め人である種類のグルは、グルの職業を階段にすぎないと軽蔑するので、自分の職業を「ただの渡し舟」と自分を軽蔑し、自分の名誉を踏みにじります。グルになったのは、他の仕事が見つからないから取り敢えずグルになり、それから何かの勉強をしながら、機会があればグルの仕事を捨てて他の職業に就きます。向こう岸へ渡って、それから望む場所へ行く渡し舟の状態があります。

 こういうのを、グルの理想を裏切る人と言います。そしてその人はグルでなく、グルの職業についた初日からただの勤め人です。仏教の教えのグルという言葉の理想はこのようです。そしてグルの価値は「尊敬すべき人物」です。私は誰にも遠慮せず、率直に述べています。この内容は利益があるか無いか、グルであるみなさん次第です。持ち帰って熟慮判断してください。


 私は敢えて率直に述べ、誰にも遠慮しないのは、教祖は偉大なグル、教祖の弟子もグル、私もグル、みなさん全員も同じ理想があるのでグルと、冒頭で述べたように、友人と見なすからです。だから私はグルと呼ぶ人同士の苦を語る、あるいは理解し合う立場で、率直に話すことができます。だから出来事にふさわしく、あるいはみなさんが最高の利益にする分だけ熟慮判断してください。

 人間に生まれたら、人間が得るべき最高に善い物を手に入れるべきです。だから私たちは最高に周到に熟慮して見て、そして最高に多く、最高に高く、そして最高に早く、何としても利益にします。この言葉は、このような目的で述べました。私たちは人間に生まれたことの、そしてグルであることの利益を最大限に掴みます。これを、私たちはグルの理想について、そしてグルの価値、あるいは値段について、仏教の教えに従って適度に熟慮したとい言います。


 次に熟慮するのはグルに関わる物、つまり教育についてです。教育と呼ぶものは、グルという言葉と同じ理想があります。何が教育の理想か仏教の教えで述べれば、最高に簡単に述べることができます。あるいは鼻の先、舌の先にあると、教育の理想はすべての苦を消滅させることにあると、子供でも誰でも言うことができます。

 スクサーという言葉は、サンスクリット語、あるいはパーリ語でシッカーという言葉から来ているのに、タイ語では意味が狭くなったということもできます。タイ語のスクサーは、パーリ語ではシッカーで、サンスクリット語ではスクサーと言います。この三語は音は違っても、あるいは綴りは違っても、同じ言葉です。

 パーリ語のシッカーという言葉は、完璧な滅苦のための品行、実践行動を意味し、それには知識も含まれます。知らなければ正しく実践できないからです。だから知識と実践は並行しなければなりません。別にしません。知識も実践も、完全な滅苦を目指します。完璧な滅苦は最も低いものから最も高いものまで、例えば食べる物が何もない苦まで言います。

 だから私たちは貧困、あるいは食べ物がないことによる苦を消滅させるために、職業を学ばなければなりません。しかしこれは最高に低い口の話、腹の話と見なします。だからこの種の、あるいはこれだけの教育は、教育の理想ではありません。


 ブッダの意味はそれ以上の滅苦を意味し、特に人の人間であることが消滅する原因である、煩悩から生じた苦です。食べる物がない貧しさは、その時はまだ人間であることは消滅しておらず、まだ善い人間、善人、行いの正しい人でいられます。しかし煩悩の威力下に落ちれば、お金持ちでも人間であることが消滅します。

 私たちは、たくさん財産がある人、たくさん権力がある大臣でも、人間性がない人を見ることができます。それは汚職、あるいはそのような人と、いろいろ呪われています。たくさんの権力を掌握し、たくさんお金があり、何でもいろいろあっても、彼らの人間である意味は消滅したからです。だからみなさん、煩悩が原因で生じる苦は、貧困や病気など物質面の苦より怖いと捉えてください。

 私たちの教育は、煩悩から生じる苦を排除できるまで高くすべきです。そうすれば完全な滅苦になります。これが仏教の教えのシカー、あるいはスクサーという言葉の目的です。最初の段階は学ばなければなりません。学ばせる話はたくさんあります。三蔵と呼ばれる書物は何万頁もあり、他の側のテキストより少なくありません。学べば最後まで実践できるので、完璧な教育です。

 つまり最初から最高まで、あるいは低いのも中間のも高いのも、完璧な滅苦である結果を受け取れます。つまりこの世界にも、他の世界にも勝利でき、そして世界の上である涅槃までです。みなさんに関心があっても、今は関心がなくても、取り敢えず聞いてください。何としても勝利しなければならない私たちの義務は、この世界に何として勝利し、他の世界にも勝利し、そして何としても世界より上の話である涅槃することです。


 世界の話は、この世界で知らなければならない、そして行動しなければならないことを意味します。例えば生計を営むこと、いろんな進歩発展、この世界で善人であるなど、これを世界に勝利すると言います。他の世界とは、私たちが他の世界、他の生に生まれなければならない時も、善を維持できる状態の行動をしなければなりません。

 しかし最後は世界より上の話で、完璧な滅苦、どの世界にも二度と生まれないことを涅槃と言います。だから仏教の教育は、この世界のすべてに勝利させ、他のすべての世界に勝利させ、そして最後は、すべてにおいて世界より上にいさせ、涅槃に到達させます。

 今研修を受けているグルであるみなさんの「教育」という言葉の理想はどのようかは、当然みなさん良くご存知です。しかしそれは十分かどうか、正常な幸福で暮らすみなさんの人間であることにとって十分か、よく熟慮して見てください。教育という言葉の理想が、人が社会で快適に生きられるよう、あるいはこれらの社会と上手くやっていけるようにするだけなら、それは滅苦のために十分でしょうか。


 「社会で生きて行けるようにする、あるいはその社会と上手くやって行ける」と言うのは、社会がどのようでもそれに合わせて、波風を立てない以上の意味はありません。次にその人が低い方を好み、煩悩欲望の奴隷である方を好めばどうでしょうか。最後は明らかに見ているように、苦を受け取らならなければなりません。今この世界の社会は、煩悩欲望を消滅させることに注目していますが、煩悩欲望を振興しています。つまりもっとたくさん自分の物にするために、てんでに世界にある利益を奪い合います。

 その結果いろんな側に分かれ、どちらも権力があるので、殺戮、掃滅するもの、つまり私たちが大戦と呼ぶものを始めます。私たちも彼らの影響を受け、幸福でなく暮らします。社会の発展、あるいは物質面だけの利益を目指し、心の面、精神面の利益を考慮しないからです。

 世界の半分、二つの半分の中で二手の陣営に分かれるのは、物質面の奪い合い以外に意図はありません。この世界にある利益を最大限に自分の物にするために、彼らは最大限に有利になりたがり、だから戦います。だから彼らの教育は、このような義務を行える人にすることだけを目指します。つまり利益を探求する義務を行うことができ、直接にも間接にも利益を掻き寄せ、多くを自分の物にし、そして「良い暮らし」という状態にでれでれしていますが、限界を超えます。つまり煩悩欲望に支配され、良い暮らしの限度がありません。


 これが酩酊させ、その結果何をするべき、何はするべきでないか分からなくなるので、私たちの世界は戦争と呼ぶもので混乱します。熱い戦争も冷たい戦争も、地上戦も地下戦も、いろいろあります。世界の教育が間違った方向へ導くので、物質面だけ、あるいは身体面だけの結果や理想を目指し、仏教式の心の面、あるいは精神面の滅苦について考えないからです。

 私たちは、すべての宗教はすべての人間に精神的な幸福を受け取らせることを目指していると見ることができます。しかし現代の世界の教育は物質面、あるいは身体面だけを目指します。それは目が暗むことの基盤で、最後は遊びのように殺し合うのが見えます。自殺し、水に飛び込むのが見え、こういうのが遊びと言うものです。

 教育がダンマの方を向かないので、そのような状態で死を受け入れます。その人の目が暗むと、間違った道に導かれるからです。身体面の幸福崇拝は、ブッダ以上に帰依します。これを、自分を破滅に導く教育と言います。

 群れの多くの人がするようにしたがれば、自分もそのようになり、そして多くの群れの人は無明から生れて、煩悩欲望の威力下に落ちているので、ほとんどは煩悩欲望の成り行きになります。世界の多くの群れの人がこのようになってしまえば、この世界はどうでしょうか。今日より更に燃え上がるのは疑うまでもありません。

 教育、あるいは進歩、物質的な研究がどんなに発展しても、それは世界の人をますます複雑困難にする方向の繁栄で、今まで前以上に苦が多くなります。彼らが教育を正しくした時だけ、物質面も心の面も教育の理想が消えてしまわないので、世界の進歩は静かな幸福、快適安全のためになり、体と心が並行します。


 今それは身体面、あるいは物質面に偏り過ぎて過剰になり、心の面、精神面はまだ閑散とし、まだ遅れています。精神面のリーダーが自分の義務を放置しているからです。教育という言葉の理想を事実と違って理解しているので、一般の人間として、そしてグルとしてこの世界をどのようにふさわしくするかということに責任を持つか、最初に考えるよう希望します。

 グルという言葉はさておき、一人の「人間」というのは、誰でも人間です。この人間一人一人に、世界でしなければならないどんな義務があるでしょうか。自分たちの世界をどのような状態にすれば、この世界を幸福、安楽、あるいは平和な幸福がある世界にするために生まれて来た人間の一人であることにふさわしいでしょうか。

 私は、教育という言葉の意味を正しく理解し、最後にグルという言葉の理想を正しく理解する以外に道はないと見ます。グルは世界のすべての人を導く人物だからです。グル自身も人間の一人ですが、物質面でも心の面でもリーダーである義務を引き受けました。つまり身体面も導き、精神面も導き、正しく導けば、この世界は見事な状態になり、穏やかな繁栄があり、爆弾、あるいは火、あるいは困難、苦に絶えることによる繁栄ではありません。

 平安、あるいは世界の恒久的な平和は、当然教育という言葉の正しい理解に掛かっていると見るとこができます。教育が詳細に熟慮された結果、正しく理解され、そして真実と一致する正しさで進行できれば、世界は今より善くなり、更に見事な物になります。そしてもし世界が、ブッダが与えてくださった意味と一致する教育の理想を掌握すれば、世界は更に善くなり、すべての種類の苦がない聖人の世界になります。軍隊は必要なく、警察も要らず、刑務所も要らず、学校もほとんど必要ありません。至る所で教え諭すことがあり、善行が身に付いている人が手本だからです。


 今私たちは、感化院を建てなければなりません。鉄格子のある獄舎があり、警官がいて、兵士がいる建てるべきでない学校。それは私たち人間を複雑困難にします。私たちは世界の教育をこの状態、この形で運営して来て、それでどこの誰を責めるのも、神様を責めるのも正しくありません。神様はこのような教育の理想を規定していないからです。規定したのは他の物で、私たちは放置してしまいました。

 社会の中で便利に共に暮らせるため、あるいは社会と上手くやっていくためと、好き勝手に教育の理想を規定しました。ほとんどの社会が煩悩の威力下に落ちれば、疑うまでもなく、人間同士で苦しめ合う人間になります。だから私たちは煩悩に勝利し、自分を支配し、自分を管理することを知る方向へ社会を導かなければなりません。

 教育という言葉の理想、あるいは意味を、ブッダが望まれたように最高にするべきです。つまり身体面も心の面も完璧な滅苦です。体の話を知っているだけ、心の面の話を理解しなければなりません。今私たちは物質、あるいは体の話を知りすぎますが、心の話、あるいは精神の話を十分知りません。だから教育は半分だけ、あるいは片側だけになります。つまり身体面の幸福の利益になるだけです。

 最後には身体面の幸福、陶酔、酩酊に導き、心の面、精神面の静かな幸福はありません。だからグルと名乗るみなさん全員が助け合って、この世界に心の面、精神面の光を受け取らせれば、世界はもっと見事になります。私たち全員が、あるのは欠乏ばかりの現在のように大変でなくなります。私たちが、世界をそのようにするだけだからです。つまり煩悩の威力下に落ち、ブッダを先頭とするすべての学者の意味の理想がありません。


 教育の理想は、社会と上手くやっていけるようにすることだけに止まるべきでなく、勇敢にもっと高く考え、勇敢に思うべきです。つまり社会を滅苦へ、あるいは涅槃へ、何としても引っ張って行ってやるべきです。聞くと否定したくなります。あるいは不可能な話に聞こえますが、事実はそのように維持しています。正しさはまだそのように維持しています。

 教育の理想は、人がすべての苦に勝利できるようにするという意味です。特にすべての種類の煩悩に勝利し、そして涅槃を望まなくても、自然に涅槃になります。人が心の中の悪である貪り・怒り・迷いを完全に支配すれば、自然に涅槃になります。誰かを苦しめようと考える人もなく、誰かを侵害しようと考える人もなく、誰かより有利になろうと考える人もいません。それで戦いができるか、考えて見てください。

 冷戦、水面下の戦争と呼ぶ優位に立つための戦い。これです。熱い戦争、あるいは陸上の戦争より凶悪なのは。それは寝ても覚めても、昼も夜も、生まれてから死ぬまで心を苦しめるからです。爆弾が私たちを危険にするのは体だけの暑い戦争、あるいは時々ある陸上の戦争とは違い、煩悩は精神を危険にし、心を危険にし、人間であることを消滅させます。

 私たちが爆弾で何回死んでも、人間であることは消滅しません。私たちは何も悪事をしないからです。しかし煩悩が一度爆発すれば、人間であることが消滅します。つまり悪を行えば人間で無くなります。振る舞いが人間であることにふさわしくないからです。どちらの方が恐ろしいでしょうか。つまり爆弾の方が怖いでしょうか。それとも煩悩の方が怖いでしょうか。


 爆弾も煩悩も、どちらも欲しくなければ、教育が煩悩を排除するようにするべきです。世界の人の煩悩を排除できれば、疑うまでもなく、世界に爆弾は一つも無くなります。世界に爆弾が生まれるのは、人に煩悩があるからです。その根源を断ってしまえれば、つまり世界の人の煩悩を排除してしまえれば爆弾はなく、グラグラ揺れること、その他の貧困も困窮もありません。

 だからブッダの理想で煩悩を排除することを目指す教育は、人間にとって本当に正しい教育です。これと違えば中途半端な教育で、物質面、身体面だけに酔わせ、無理やりその形で実施し続ければ、私たちが見ているような破滅をもたらします。


 次に熟慮するのは「グル(先生)」という言葉と「教育」という言葉の関連はどのようかです。みなさんは当然ご存じなので、「グルは教え導く人で、教育とグルは切り離すことができない」と教える必要はありません。グルは教育を監督する人とは教育の支配人という意味で、教育を任された人、教育をする人、教育を管理する人、何でもすべてはグルの掌中にあり、述べたようにグルは心の面、精神面で世界を導く人と述べることができるほどです。しかしブッダの理想のグルでなければなりません。だから私は、ブッダ式のグルの教育監督について述べます。

 精神を高めること、あるいは教育監理全般が暗く、あるいは精神面で低下していると見えるのは、普通は最初から、つまり生まれた時から教え始め、それは知るべきことを教えるという意味で、ご飯を食べる話、寝ること、衣服をまとうこと、両親が教えることから、学校で勉強をし、道徳の訓練を受けますが、最後は最も高い職業の訓練をし、大学になり、その教科の先生になる。これを一般の教育監理と言います。しかし結局本当の目的である、何としても煩悩に勝たせることに至りません。

 だから教育監理はまだ中途半端、あるいは完全でない、あるいは間違いとまで言います。教育を受けた人を自立させることができないからです。最後にグルになったと言っても、苦を除くこと、あるいは自分の苦を軽減させることができません。グルと名乗るグルである人物もまだ暗く、まだ訳が分からず、まだ自分の問題を解結できないからです。

 中にはグルと名乗っても薬を飲んで死に、水に飛び込んで死ぬ、自分で解決できないグルもいます。このような状態で、生徒に教育監理してやることはできません。


 教育監理は自分自身を善い手本にして、「このようにすれば苦に勝てる」と生徒に見せると理解し直してしまうべきです。苦に勝利する種類の教育監理は、ブッダの様式の教育監理なので、品行が身に付いていて、このような品行は苦に勝利できると他人に見せることを好まれます。

 勉強を教えるだけ、あるいは倫理や道徳を教えても言葉で教える、あるいは文字で教えるのは好まれません。グルと教え子が助け合って暗唱し、品行が身に付いていない。このようにするのは無駄骨です。生徒がグルを信用しないからです。グルは行動せず、オウムや九官鳥のように話すだけなので、生徒はグルを信用しなくなるからです。

 次に、反対にグル(先生)が何も話さず、口や声で教えなくても、普通に身に付いている品行で行動し、何でも手本として身に付いている。こういうのは、生徒もグルを信頼してグルを真似ます。生徒はグルを両親と同じだけ愛し、グルを尊重し、権力のある人、あるいは彼らを死なす物を恐れるように、非常に畏敬します。


 私たちは、教育にブッダのような理想があった時代、そしてグルにブッダ式の理想があった時代は、弟子は非常にグルを尊重し、非常にグルを愛したと見ることができます。現代はほとんど探すことはできません。そのような状態を探すことはできません。グル、あるいは教育という言葉の理想が変化しました。これは誰も責められません。

 これは全体の問題ですが、全体は誰でもない、私たち全員です。だから解決する責任は私たちにあります。みなさんは本当のグル、あるいは勉強を教える勤め人でしょうか。これは決意しなければならない話です。みなさんが理想を愛す人なら、グルになる決意をしなければなりません。勉強を教える勤め人になる決意をません。その時です、ブッダの様式のグルであることがこの世界に現れ、そして疎開を平安、あるいは平和に導くのは。

 どうか決断してくださるよう、伏してお願い申し上げたいと思います。しかしどの形に決断するかは、お願い、あるいは強制しません。誰でも当然自分を尊重尊敬し、自分の誇りがあるからです。しかし世界はどんな状況で危機を脱せるかを見て、そのように決意すれば、それは最高に有益です。少なくとも自分を含めた私たち全員を、この世界の静かな幸福に遭遇させ、そして尊敬すべき人物でいさせます。

 つまり勉強を教える勤め人でなく、尊敬するべき人物、つまり世界の誰の頭上にも恩がある人物になります。私たちは世界全体の精神を照らす義務をするので、世界の精神を導く人物、あるいは世界の精神面の状況を高める人の一人になりたいと志願します。


 このようなのと、一か月の給料百万ばかり貰うのと、どちらに価値があるか比較して見ます。みなさんは世界の尊敬するべき人物であるのと、毎日快適に暮らすだけ十分な収入があるのと、一か月百万の収入がある他の仕事を探すのと、どちらにしますか。どちらを選びますか。まだグルであることに耐えるなら理想を愛すという意味で、冒頭で述べたような渡し舟である職業ではありません。自分はグルであると言うにふさわしく、力を合わせてこの世界を見事に、静かな幸福にするために尊敬するべき人物になることを志願します。

 しかしまだ庶民のある人たちは煩悩の奴隷に落ち、身体面の悪霊の奴隷に落ちています。そのようにするのは愚かです。何十万もの給料は、何でも大量に買うのに使うだけ十分で、グルの理想を思うでしょうか。こういうのもできます。それは踏切れない話で、強い心で決断しなければなりません。

 ここで、グルの理想を本当に愛している本当のグルに、尊重尊敬を表わさせていただきます。その種の人物は体の中にダンマが満ちていて、メッター(慈しみ)と智慧が精神に満ちている人物として、ブッダもその種の人物を尊重しました。ブッダは当然ダンマを尊重しました。


 「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を読んだ方は、ブッダもダンマを尊重なさったという文章に出会います。大悟してブッダになられて、これからは誰を尊重すれば良いか熟考なさいました。「誰か一人を尊重すれば、その人を困惑させ、頭が七つに割れる。だから誰かを尊重する道はない。しかし尊重すること、あるいは尊重する物がなく暮らすのはふさわしくない」。最後に「ダンマだけが、ブッダが尊重できる物だ」と気づきました。

 すべてのブッダ、過去のブッダのどの方もダンマを尊重し、未来のすべてのブッダもダンマを尊重し、現代のブッダもダンマを尊重すると、ブッダはこのように話して主張なさいました。だから私たちは給料、あるいは賃金のことを考えるよりダンマのことを考え、ダンマを尊重します。そうすればブッダも含めて。天人と人間が尊重する物になります。このような状態、あるいはこのような状態で高くなる理想は悪いか、それとも何でも買って食べられるお金より低いか、熟慮して見てください。


 みなさんは少し詳細に熟慮して見なければなりません。みなさん自身の困難、あるいはみなさんの家族の困難は、理想を尊重することから生じるでしょうか、それとも理想を尊重しないことから生じるでしょうか。毎日毎月生じる誰の家族の困難も、それは何から生じるか、広く調べて見てください。最後には、家族の誰かに理想がなく、理想を尊重しないからと見えます。お金や肉体面の幸福など、物質面の利益・幸福、目・耳・鼻・舌・体・心の面の陶酔、楽しさ、美味しさだけを考えるだけです。

 そのように理想を尊重しないことが家族に困難を生じさせます。煩悩欲望で満足することを知らない家族に、経済バランスが取れる日はありません。煩悩欲望は満足することを知らない物だからです。だから破滅、仲違い、混乱、騒動、いろんな混乱状態が理想のない家族、もっと述べるなら、ダンマがない家族にあります。

 どの家族でも理想に立ち、ダンマを基礎にし、ブッダと同じように尊重する物であるダンマがあれば、どんなに貧しくても苦はなく、困難はなく、混乱はありません。貧しい農民の家族でも静かな幸福があり、見れば一月に何千、何万の収入があっても、焦燥がいっぱいの家族より尊敬したく、崇拝したくなります。

 理想のない家族は焦燥に焼き炙られます。だから精神の案内人である人は誰でも、家長でも何でも、つまりすべてのグルでも、世界の困苦の原因についてたくさん思うべきです。そうすればそれは、「理想を選ぶか、それとも今流行っているように物質面の利益を選ぶか」決意させます。


 私たちは、このようなそのような状況を解決するために、何回も集会していると見えます。政府のもあり、低くは庶民のもありますが、判断するために集会をするのは、物質面の話だけのように見えます。つまり身体面の話だけで、心の面、精神面であるダンマの側は、あると見えたことがありません。偶にあっても、仏教協会の一部で遊びのようにし、少しすぎ、身体の側でするように多くありません。

 だから私たちは自分の人生の問題を解決できません。全部はできません。私たちの命は身体だけでできているのではなく、もう一部分心、あるいは精神もあるからです。身体面の問題だけを解決していれば半分しか解決できず、最後に苦に勝利できません。しかし身体面の問題解決は、何としてもそれを管理するのでなく、反対にその威力下に落ちています。

 つまりその奴隷、下僕になり、それを振興させる道を探します。道理以上、必要以上の、身体面の良い暮らしの話だけで、必要を超え、心の要求、あるいはダンマの要求を忘れています。つまりいくら解決しても、解決できないということです。百回も千回も会議を開いて、どのようにどれだけ解決しても、心を解決しないから解決できないと考えて見てください。


 人の善悪は身体でなく、心にあるので、身体・口・腹だけを解決しても、人を善くする助けになりません。人が悪い時は、他の物で解決できません。善い学問があり、善い統治があり、何でも善い道具があっても、人が善くないだけで全部瓦解します。私たちにどのように素晴らしい民主主義制度があっても、善人がいないだけで危機を脱せません。だから何でも善人を求め、善い心があり、道を正しく歩く精神がある人を求めれば、世界は穏やかな幸福なります。

 熟慮して、「今は何もかも不可能で、望み通りに解決できないのは、善人がいないから」とはっきり見なければなりません。善人が、その仕事の義務を実践する十分なだけいません。少なすぎ、時にはいません。しかし善人が十分いて、犠牲によって自分の義務に専心すれば、あるいは俺のことを考えないで理想を考えれば、疑うまでもなく、私たちの国、あるいは世界は、一瞬にして輝き、静かになります。

 それぞれの人が身勝手でなく、身勝手でない種類のダンマがあり、明るく輝く精神があり、清潔・澄明・静寂があり、ブッダと同じ理想があれば、「この世界で使う善人がいれば、この世界は聖人の世界になる」と言います。このように小さな国の統治だけでなく、世界中を静かに、穏やかにすることができます。


 しかし今、私たちの国はこれだけ少ないので、まだ満足できる物にすることができず、できるのは妨害して混乱させるだけです。それは何に欠けるからでしょうか。それは、心が本当に善い人が十分いないからです。このような理由で、私たちの教育の理想は拡大すべきでしょうか。あるいは善い心があり、高い精神がある人にすることを目指すべきでしょうか。

 他人にすることができなければ、先ず自分自身をそのようにして、それから家族に種を蒔き、それから村内、町内、あるいは国に拡大すれば、簡単にできます。しかしそれぞれの側が物質面の利益を求めて自分の物にするだけなら、世界の全員が先生で生徒がいなくても、この世界を善くすることはできません。このようなので、ブッダの教えの、あるいは仏教のグルの理想は、小さくないと見えます。

 何も買って食べられなくても、直接食べられなくても、本当は何か買える、食べられる物を手に入れさせる本当の根源です。そしてそれ以上に、人間であることの理想にふさわしく、この世界を静かにし、国を静かにします。世界で暮らすには高い心を持って、すべての苦に勝利しなければなりません。


 最後に、この研修はちょうど良い時間になったと感じます。この講義を、グル(先生)であるみなさん、あるいはグルと名乗るみなさんが持ち帰って熟慮して見て、「ブッダの教えをどのように使えば、私たちの国を幸福にできるか」熟慮して見るために、考え方、見方を説明しただけです。あるいはそのように高いのは、自分自身をグルと呼ぶみなさんもブッダの社会の一員である、世界の動物の精神を照らす人だからです。みなさんはブッダの規則を受け入れ、みなさんの義務の実践にどれだけ使うが、考えて事実のままに見て、そして本当に見えただけ実践すれば、愚かに信じる必要も、鵜呑みに信じる必要もありません。

 私が言ったことを信じる必要はありません。理由のあるみなさん自身の知性で信じるよう、厳格にお願いします。熟慮して、自分自身で判断して、何が事実か本当に見えたら、教えとして守らなければなりません。そのようにすることで、みなさん誰でもブッダの理想のグルになり、尊敬するべき人物になります。善、あるいはすべての人の頭上に価値があり、誰でも崇拝し、尊重するにふさわしい、世界が尊重すべき人物になります。

 特に今日は「グルの日」で、私たちはグルをそのように賞賛します。そのような実践を好まなければ、みなさんは自分自身がグルであることを裏切り、グルを拝む時グルの善を賞賛する項目で自分自身に偽りを言い、グルと名乗るみなさん自身がその規則に従わないという意味です。


 これです。私たちに関わる欠陥やいろんな障害のすべてを解決し、純潔で清潔で、静かで涼しい呼吸ができるようにし、私たちが正しい理想を持ち、理想で正しく実践し、他の人より先に幸福になり、同時に世界全体も幸福になるよう助けるのは。しかし世界全体が私たちのようにしなければ、私たちが一人でしても損はなく、望み通りのこれで幸福を受け取ります。

 ダンマはこのようです。このように断固としてゆるぎないので、みなさん全員が持ち帰って熟慮して、グルは本当に精神面を導く人かどうか、世界の動物の精神面を本当に高くする人かどうか、グルの価値は勤め人でなく尊敬するべき人物で、グルの職業は渡し舟ではないと、真実を知ってください。

 グルと教育は対で、教育監理をする人は、自分自身に教育が身に付いていなければなりません。生徒に尊重され、両親以上に愛され、両親より畏敬されるようにすれば、最後には、すべてみなさんが望むように生徒たちを導くことができます。

 グルのみなさん。熟慮して見ることを期待します。そして体と心を並行して、つまり物質面と精神面、清浄で輝く心と精神があるよう自分自身を進歩発展させ、望み通りに生徒、あるいは世界のすべての人を光で照らしてください。

 時間になりましたので、講義を終わらせていただきます。



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