教育指導官のみなさん。直接知識の研修と言うより、むしろお喋りと捉えてください。私は、先生、あるいは先生の顧問であるみなさんが、いくつかの規則として使う知識に関わる話だけを述べる立場にあるからです。率直に言えば、先生、あるいは先生の相談役の義務を行う中で使うことができる規則です。
教育指導官は顧問である先生と見なしたいと思います。先生の相談役である先生は、二重に難しい、あるいは二重のテクニックの話と見なします。
最初の項目は、現代の世界は以前と非常に違い、テクニックである教え、あるいはより技術的な知識を必要とします。そうすれば望む結果がたくさん、あるいは思い通りに早く得られます。何でも非常に変化し、そして探求しなければならず、対処しなければならず、以前よりたくさんしなければならなくなるのは、現代の人間の生活が、昔よりたくさん欲しがらせる状態に変化したからと考えて見ます。
水洗トイレがなかった時代は、用を足すのに、ほんの少しの水しか必要としませんでした。現代は水洗なので、一回に十二リットルの水を使います。計算して見ると、必要量は十二倍です。だから水を使う人は、十二倍の水を探さなければなりません。どんな方法で探しても、十二倍探さなければなりません。これは現代の有りようを見せる簡単な例です。
これは学問知識、あるいは十二倍以上に増やさなければならない他の仕事について話す必要はありません。それに私たちはのろのろ這ってばかりいられないので、改革解決して間に合わせなければなりません。これが知識、あるいは学問、あるいは技術をたくさん使わなければならなくさせる原因です。だから先生の相談役、特に教育指導官は、非常に困難な責務を負います。だから知識、あるいは知識である規則を、少なくとも以前の十二倍探求して使わなければなりません。そうすれば人を導くことができます。昔は等倍だけ使いました。
次に思うべき物は、現代人は疑念があり、あるいはあまり先生を信用しない、あるいはあまり尊重しないことが増え、先生同士でも疑念が増えていることです。つまり気安さがなく、昔のように気安く尊重しません。ダンマの面、宗教面も同じです。だから聖向聖果涅槃に到達することが非常に少ないです。先生さえ疑うもので、気安さに満ちた信仰がなく、溢れる信頼がないことが原因です。だから全部合わせ、あるいは全部緩めます。これは何が原因でも、見れば、先生も揃って益々疑わしい状態にあることと関係があるに違いないと感じます。
この原因は、物質主義と呼ぶもの以外の何でもないはずで、今先生方を覆うこと著しく、あるいは著しすぎ、あまり維持できないほどです。だから教え子も先生も、あるいは一般庶民も揃ってグラグラ揺れるので、全部引っぱり合います。時には子供の両親も、先生が望まない方向へ子供を導くことがあり、善い知識、善い振る舞いがある実践者にするより、一時だけ豪華な成り行きにします。だから現代は、善い教え子である人がどんどん少なくなっています。幼い時から物質の威力に引っ張られるからです。
だから世界の問題が増え、あるいは教えて訓練して学術の、あるいはすべての分野のすべての行動が目指す目的である永遠の平和を作るのが困難になります。この世代の子供たちが大きくなり、先生になると、その難しい状態はますます増えます。つまり信頼できないこと、本当に尊重しないことは次第に増え、問題も増えます。私はこれを強烈な問題、あるいは最高に問題と見なします。
次の問題は、私たちは学問だけ教える、あるいは紹介する問題です。知識だけ教えることはそれほど重要ではありません。それは大きな問題次第だからです。私たちが理想、あるいは規律、教え子であり、師である善い伝統習慣をなくしてしまったことは、大きな部分です。
こう話すのは、私たちの問題はたくさんあり、解決が困難な難しさがあり、そして世界のほとんどすべての分野、何処でも同じようと言うことができると、一度考えてしまうためです。人間が物質面の発展の威力に引っ張られることに関わる問題がたくさんあり、どの側も自立できません。そしてこの魅力に支配されると、何のために生まれたか知らないほど、心が身になくなります。
それは、何をしなければならないか、どうしなければならないか、特に一人一人の義務を知らなくさせる原因です。だから問題解決の方法について話すには、根源、あるいはこれらの困難を生じさせる深い根の部分を深く見るべきです。
他の方法による解決を、私が述べる必要はありません。みなさんは十分にたくさん教育研修を受けているかも知れないからです。私がそのような話をすれば、ココナッツを担いで来て椰子園の縁で売る話だからです。だから心をこれらの問題に遭遇するにふさわしい状態を維持するために使う話、ダンマの規則だけを幾つかしたいと思います。だからこのようにご理解ください。
仏教の教えには、厄介な問題を解決する助けにするために使う、そしてここでは、教育指導官のみなさんが関わる相手の心に勝利し、彼ら自身が志願する目的に沿って導く、何があるでしょうか。
今日は忘れないようにする物、つまり「零人間」という忘れられない言葉で、お喋りしたいと思います。きっと聞いて意味が分かりません。これから判断して見ます。私は今、私たちは世界の危機でも、教育界の小さな危機でも、あるいは私たちが問題で停滞している問題でも、正しい零人間であることで、いろんな危機を解決しなければならないと見ます。
私たちは世界の発展に伴って、もっと〇人間でなければならないと、仮定で話します。このように話すのは、失礼、彼らがバカみたいと言うような話し方です。しかしこのように話すのは最高に憶え易く、そして教育指導官であるみなさんの当面の問題解決は、この項目のダンマ、つまり〇人間に掛かっていると捉えます。だから他のどの話よりも取り上げて話すべき、あるいはこれについてお喋りすべきと考えます。
次に、〇人間という言葉を理解してしまいましょう。〇人間という言葉は何を意味するか、先生方は良くご存じです。そして知りすぎて要旨を掴めないということがあるかも知れません。〇はプラスかマイナスかと問えば、それは知るべきことを超えています。つまり誰でも、それはプラスでもマイナスでもないと知っているからです。だからそれは少なくなく、多くなく、下でなく、上でなく、だからゼロです。プラスは超え、もっと多ければもっと超え、マイナスはより下で、次にどのようならゼロでしょうか。
私たちは一日に何回超え、何回届かないか、そして普通の水準にいるのは何回か、〇という言葉の意味に気づくまで、何分何時間か考えて見てください。〇人間でいるのは一日に何分か、プラス人間は何分か、そしてマイナス人間は何分でしょうか。プラス人間である方が多いように見えます。
つまり毎日ほとんどは超えた人間です。私たちは大望を抱き、自惚れ、ガサツで。野望があり、これらの物は超える話で、悲しみ、萎縮、臆病、恐怖、挫けるなどはマイナスの側、あるいは低い側で、〇人間はあまりいません。結局自覚する人もあまりいません。いるのは我を忘れる人、つまり非常にプラスすぎる人だけです。
これは教えのような述べ方で、本当の、完璧なダンマの規定を述べています。しかし私は何かの種類の話し言葉で話せないので、〇人間という言葉を使います。他の話し方は理解が難しく、このように話すのは理解しやすいと見るので、このように話します。同時に〇人間であること、〇人間は、先生のいろんな問題も含めて、いろんな問題の解決を助けてくれると提案します。だからみなさんはプラスでなく、マイナスでなく、過剰でなく、不足でないという言葉を思わなければなりません。そうすれば理解できます。
直接ブッダの教えに視線を投じて、それは〇人間とどのように関わりがあるかを見ます。七覚支というダンマ集を一つ紹介したいと思います。先生のほとんどは、この言葉を聞いたことがあると思います。徳育、あるいは子供の道徳の教育課程にもあるからです。七つの覚支とは、「悟りを成功させるファクターである七つの項目」という意味です。この七項目は、サティ‐思い出すこと、択法=ふさわしい物だけを選ぶ、精進=努力、ピーティ=喜悦、パッサッティ=静まること、サマーディ=盤石な安定、捨=平然としている、と明示しています。
七つのダンマはどのように成功の要因でしょうか。これは要因にすぎないことを忘れないでください。そして七つ合わせて一つの成功の話になります。私たちはこのダンマをapplyさせます。つまり聖向聖果涅槃に到達するためのダンマであるこのダンマを使います。一般に応用すれば日常の話でも使えます。同じ教えで、変化させる必要はありません。熟慮して見れば見るほどこのように見えます。つまりどんな仕事の実践も、しっかりした基礎のある一つの仕事は、技術的プロセスを踏まなければなりません。
第一項目は、思い出すべきことすべてを思い出せる完璧なサティがなければなりません。すべての物を覆って関わる広い範囲を、すべて思い出さなければならない物、それをサティと言います。
第二項は、ダンマヴィチャヤと言い、ダンマを選ぶという意味です。教えとして、規則として使える目的と一致する話だけを選びます。私たちが花園へ遊びに行っても、その花園中の花を摘まないで、その時、あるいはその日に欲しい花、最高に良い物だけを摘むのと同じです。これは、私たちはいろんなmaterialを集めて、そしてどれがどのようか、どれにどんな働きがあるか、どれが主で本体か、確実に概要を掴んで選ぶことを、ダンマを選ぶと言います。
第三項は、ヴィリヤ(精進)と呼ぶものを使わなければなりません。これは行動に使う労力が、正しく十分なければならないという意味で、精進があればそういう意味です。これはほとんど説明する必要はありません。仕事の力を意味します。
第四項はピーティ(喜悦)で、みなさんがしていること、していることの目的、現在進行していることに喜び、満足、歓喜がなければなりません。ピーティとは生じてくる正しい感覚という意味で、美しい話やそのような話に溺れる喜びではありません。そして大金持ちになる夢の成功から生じる喜びでもありません。こういうのは違います。ダンマがある喜びでければなりません。つまり人々が「義務のための義務は、通り過ぎてお金まで行かない、あるいは他の結果にならい」と言うような、仕事をする満足です。
だからピーティが生じるのは、最高にするべき正しい善いことをしたことからだけです。することができて幸運と思うだけで満足します。お金を手に入れる、あるいは名声を手に入れる幸運は要りません。そこまで行く必要はありません。そこまで行けば、それは意図するピーティでなく、他の種類になってしまうからです。
例を挙げれば、農家が稲作をして耕す時、最初に畔の頭を掘って、一鍬耕した、一回終わったと満足し、二度掘ると二回終わり、三度目に掘ると三回終わり、どんどんピーティが増えます。こういうのを教えで正しいと言います。反対なら、一度掘ってもまだいっぱいあると鬱陶しく感じ、二鍬目、三鍬目も、まだたくさんある、まだ終わりは遠いと思い、ピーティは生じません。そして焦燥、動揺、イライラが生じ、仕事を投げ捨てます。それは仕事の力を養い、気力を養うピーティがありません。だからピーティが育てる精進がなければなりません。つまり満足によって培われる精進努力です。
第五項はパッサティと呼ぶダンマがなければなりません。つまり軌道に乗ります。軌道に乗り始めます。心や何かいろいろな考え、思いが、軌道に乗り始めます。この言葉は「静まる」という意味です。しかし私はここで「それが順調になる」と、理解できる簡単な意味を明示したいと思います。
それまではまだ順調でなく、まだ確信がなく、まだ疑念があり、成功するに違いないと思わせませんが、今それは確実で、軌道に乗りました。彼らはそれをパッサティと言います。つまり心が「満足がある。その仕事は軌道に乗った」と満足を感じ始め、更に満足とその仕事を愛して満足し、その仕事をすると同時に幸福を感じるのを、「軌道に乗る」と言います。
第六項はサマーディである心の盤石さがなければなりません。サマーディという言葉は、常に三つの意味があるようにしてください。「純潔な心がある」が一つ、「一つに安定した心がある」が一つ、そして「カムマニヤの状態がある」、つまり敏捷でしなやかで、心の面の仕事をするのにふさわしい。こういうのをパーリ語でカムマニヨーと言います。仕事にふさわしいという意味で、activeという言葉と最高に一致するように見えます。
だからサマーディは朦朧としたものと理解しないでください。パリスッドー=純潔な心、サマーヒトー=揺るぎない安定、カムマニヨー=仕事をする準備がある敏捷さ。こういうのをサマーディと言い、このような三つの部分が揃っていなければなりませんそうすれば成功は確実と言います。
最後の第七項はウペッカー(捨)です。この捨は何でもなく、ただ放っておきます。いろんな物が軌道に乗って走っているので、いろんな物を良く案配して、それ自体の成り行きに任せるように何もしません。する人は空っぽの心がなければならず、最後に至るまで、ダンマの方では聖向聖果涅槃に到達するまで何もしません。戒に関して、サマーディに関して、いろいろな物に関して良く準備し、正しく良く整える智慧があり、いろんなことを成り行きのままにすれば自然に経過します。
馬に車を引かせるには、馬を車に繋いで、大々的に車を調整し、車と馬と道と御者がぴったり合うまで大々的に馬を調整して、それがぴったり合えば、御者はただ手綱を握っているだけで、馬は走って行くのと同じです。
このような捨の時は、いつでも〇で、プラスもマイナスもありません。あれもこれもてんてこ舞いをする最初と同じように、最初はプラスやマイナスでてんてこ舞いし、そう考え、こう考え、そのように省略し、このように追加するのは調整区間だけで、本当に成功する区間は空、あるいは〇と呼ぶ物でなければなりません。このように話すと、時には「また空の話だ」という人もいます。私はよく、そのように言われますが、非常に嬉しいです。いつでもこのような空の話をすると、そのように掌握しておいてください。
〇人間はプラスでなく、マイナスでなく、過剰でなく不足でない空と話したのを忘れてしまわないでください。そして心のプロセス、つまり悟り、聖向聖果涅槃の話になる行動、家で世俗的な仕事をするにも、セロと呼ぶ状態に依存しなければなりません。あるいは空は重要な軸です。そうでなければ神経の病気、あるいは精神異常になり、全員精神病院へ行かなければなりません。
本当は彼らが気づかなくても、誰でも〇である状態、あるいは〇人間である状態に依存しています。私たちの本当の基礎は〇です。〇である基礎がなければ精神異常で、心の病気にならなければなりません。その結果、身体的な病気になって死ななければなりません。良く考えて見なければなりません。人物の基礎も、動物の基礎も〇で、〇の時は何も妨害する物がないと、良く思って見なければなりません。だからそれは。自然の最高の賢さです。
仏教のある宗派、禅宗などはこのような形で話し、私たちテーラワーダの側より主張します。つまり彼らは、「私たち人は通常何も問題がなく、それは最高に賢い。しかし目・耳・鼻・舌・体・心の面の感情に会う度に愚かになる」と話します。これは加工がいろんな考えを生じさせて暗くします。だから何かの正しい答えを知るには、心を〇にしなければなりません。そうすれば自然に答えられます。
一時、私たちはたくさん勉強し、たくさん教育し、たくさん規則を憶え、たくさん研究し、たくさん考えなければなりませんが、正しい答えに出会う時は、心は常に空、あるいは〇でなければなりません。プラスやマイナス、あるいは過剰や不足している時に生じることはできません。正しい答えは純粋に安定し、仕事にふさわしいサマーディと呼ぶ物にして、心が〇になった時に生じることができます。
時間は十分あるようなので、人間の目的は最終的にどのように最高か、そして〇人間として成功するか、あるいはどのように〇の心が持てるかについて話したいと思います。これは自分の義務をするほど利益があるかも知れません。先生たちはどのように世界を連れて行けるか。つまり私たちは、人間が得るべき最高に善い物に至るために、人間は全部同じように望むと受け止め、そして保証できる理想を規定しなければなりません。
先生方、先生の相談役、教育指導官などは、彼らと違う何があるでしょうか。珍しい物は何もありません。力を合わせて彼らをこの終点へ連れて行かなければなりません。だから先生は、この世界の誰でも同じ終点まで連れて行かなければなりません。次に初めの部分、この最初の部分に綿密に几帳面に関心を持ち、勉強を教えることも、終点まで連れて行く長い課程に含むと見なします。だから「あいうえお」を教えるような最も初歩の段階を、世界を終点に連れて行く仕事から除外しないでください。
次に。終点はどのようかという話をします。そして時には世界中どこでも、国際的に使える最高に普遍な物はどのようか、思わなければなりません。このように問題を設けたら、多少時間を犠牲にしていただいて、彼らが共通語、つまり世界の道徳界の共通語であるラテン語でSummum Bonumという言葉を使う最高に善い物について、思っていただきたいと思います。
私は道徳については話しません。moralityは判断し、論評し、批評する機会を与えず、固定的な規則、あるいは「こういうのは苦が生じない。そしてこういうので十分」と言う常識です。しかしこれだけでは、先生であるみなさんには不十分です。だからethics、あるいはmoral philosophyと呼ぶものである、道徳の哲学の段階まで高くしなければなりません。それには自由に精一杯熟考する機会が開かれています。
moralとethicsという言葉を混同しないでください。moralと呼ぶものは、常識の感覚になり、道理を使う必要はありません。つまり誰もが同意すれば規定し、道理は必要なく現れることができ、理解でき、誰にでも見えるもので、ethicsはmoral philosophyを意味し、道徳と呼ぶものの哲学です。それは、必ず問題が生じるのは当たり前です。知性を使うこと、あるいは考えが生じて常識の限界を超えますが、それでも道理がある物と見なすので、私たちは関心を持ちます。
Summum Bonumと呼ぶ物は、highest goodnessという意味で、彼らは四項に分けました。
第一項はHappiness、あるいはBlissfulnessで、これは常に考慮しなければなりません。道徳を規定する、あるいは何を教えるのでも、本当の幸福はいつでも先に目指す望みで、常に考慮しなければなりません。しかしそれは本当の幸福でなければなりません。(ここからは同音で表記が違うタイ語の話なので、訳すのが難しいです。分かる範囲でお読みください)。
つまり末子音がコークワーイのスック(幸福)です。末子音がコーカーのスック(熟す)は熱い話、形・声・臭い・味・接触の焼き炙る話で、ここでは使えません。末子音がコークワーイのスック、スッカは本当の幸福、涼しい幸福、清涼な幸福、正しい行動なので、煩悩あるいは煩悩の餌で焼き炙られません。
人間は、何が「熟す」で、何が「幸福」かを知って、厳格に区別するべきです。先生方が熟す方のスックに酔っていれば、生徒を何に導くか、考えて見てください。それは教育の終点である理想ではありません、しかしそれでも取り換えることがあり、次々に取り換えます。そして先生の中には、熟す方のスックに酩酊している人がいます。この問題を正しく片付けるには、煮えるスックか幸福のスックか、この問題を先に片付けなければなりません。そして先生は理想である本当の幸福がなければなりません。それから他の話に入ります。
教育も同じで、ナーマダンマ(抽象物)を意味し、先生に理想があり、意図があり、熟す意味のスックを目指さなければならないのではなく、幸福であるスックを目指さなければなりません。そうすれば世界は永遠の平和しかありません。それは幸福であり、物質を意味するスックではありません。物質に迷う話は最高に危険です。この世界を非常に足りなくさせるからです。
全員が集まって一度にたくさんの物を欲しがり、世界中のすべての物が足りなくなるからです。あるいは世界の物資があと十倍、百倍に増えても、熟すスックを好むことが多くなれば、それでも足りません。しかし幸福であるスックを好めば、世界の物質は余り、人間の必要以上です。
どうか「世界の人間は、今複雑困難と困窮、苦で暮らし、必要を超えた物で困窮している。体の、全身の、何かの必要を超えた物は困難にする」と、考えて見てください。生活に必要なだけにすれば、困難や混乱を生じさせる物はほとんどありません。世界が、世界中が一斉にこのようで、タイだけではありません。タイは、時には彼らの後ろをちょこちょこと歩き、非常に発展した国は、非常に苦です。
その苦の原因は自然の、あるいは身体の、あるいは全身全霊の必要を超えた物にあります。彼らはその部分を非常に増やし、非常にその部分を急ぎます。この世界は複雑困難が溢れ、混乱が増え、そしてこのようなのは、道徳の原則に反します。それは未熟な世界の話、未熟な物質、そのような何かになってしまい、道徳ではありません。
道徳の道に沿うなら、正しい幸福でならなければなりません。どの宗教の道徳でも、あるいはどの系統の道徳家のでも、全部このようでなければなりません。物質の奴隷に落ちれば、それは道徳の世界から回避され、ethicsと見なしません。だから道徳界は、dialectic materialismを道徳と認めません。このようなのははっきり見える例です。だから第一項は、本当の幸福について熟考しなければなりません。
第二項はPerfection、つまり完全無欠であることです。人間として完全であること、あるいは心の感覚の完全、あるいは何であれ、完全であることです。
今完璧かどうか、みなさんに質問して見ます。この完璧さは説明が難しいです。誰でも自分は完璧と言いたいからです。もし誰かに「完璧でない」と言われれば、火のように怒ります。しかし本当は完璧でしょうか。仏教の教えでは、「完璧な人は阿羅漢しかいない。一来、不還ではまだ完璧ではない」と見なし、完璧なのは阿羅漢だけです。これは良く注意してください。これから更に空、あるいは空っぽに行きます。
阿羅漢は空の心があり、プラスが空、マイナスが空で、過剰でなく、不足でなく、そして〇、つまり俺、俺の物が空です。俺、俺の物と感じる感覚は、いつでもプラスでなければマイナスになり、〇になりません。〇になるのは、俺、俺の物という感覚がなくなった時です。それが完璧で、何も欲しがらず、何も飢えせず、何も渇きません。
ルーパダンマ(物質)でも、ナーマダンマ(心)でも、まだ空腹な人、あるいは渇いている人は誰でも、「まだ完璧でない」と言います。その人物の人道はまだ完璧でない。あるいは彼の幸福はまだ完璧でない。彼の願望はまだ完璧でない。言い方次第です。まだそうなれなければイライラ、グラグラしなければならないので、衝撃を与え合います。だから幸福は求められません。
この世界が幸福を探せないのは、人間がまだ完璧でなく、そして完璧であることを知らないからです。仮に善に満ち、正しさに満ち、公正さに満ち、あるいは何でも、仮定で呼ぶことができますが、それはプラスと迷わないでください。完璧なら、俺、俺の物が空の感覚があります。そうすれば公正でも、正しさでも何でも本当です。そのようでなければ身贔屓な公正、いつでもいずれかの側に偏った正義です。
人が喧嘩をしているのを見てください。彼らはどちらも、彼らの様式で正しく、どちら側も公正です。しかし双方が一致しないので、上手く行きません。だから本当の善・正義・美・公正などと呼ぶ物は、俺、俺の物の欲求、飢え、渇きのない正しさでなければなりません。パーフェクションという言葉はこのような意味です。これは人間の最高に善い物という物の一つで、第二項です。
第三項、Dutyは義務です。そして義務の利益のための義務と説明します。今私たちは、義務の利益のため、あるいはお金のため、あるいは昇級のため、あるいは名声のため、あるいは何のために義務をしているでしょうか。いつDuty for the duty's sakeになるか捕えて見ると、どの人たちの中にもいません。時間の節約のために手短に言うと、義務の利益のために義務をするのは阿羅漢だけです。普通の人物が義務の利益のための義務をするのは非常に難しいです。いつでも、いずれにしても、俺、俺の物のために義務をしなければなりません。
学生、科学者、研究者でも何でも、見て見ると寝食を忘れ、妻子を忘れ、日も月も年も忘れて研究をするのでも何でも、まだ「義務の利益のための義務とは言えません。まだ何らかの物に迷い、何らかの物を期待しているからです。だからいるのは煩悩が無くなり、貪欲が無くなり、怒りが無くなり、迷いが無くなり、俺、俺の物という感覚が無くなった阿羅漢だけです。
阿羅漢になればどんな動きをしても、ただ行動のための動きだけになります。あるいはその行動はその行動のためで、行動の結果になりません。しかしこの項目の理想を普通の人の理想にするのは、普通の人にこの原則を持たせ、まっしぐらに奮闘努力させるためです。その時私たちを完璧にし、幸福にするからです。
義務の利益のために義務を行う時を熟慮して見てください。その時私たちは〇人間、人間であることが完璧な人間です。その時最高に冷静で、最高に幸福です。お金の為、名声のため、何かのために義務をするなら、それは正反対で欠陥があり、飢えていて、完璧にはなりません。それは熱いので、清涼で静かになれません。だから「これは理想であり、何かを買って食べられない」と軽蔑しないでください。本当は何かを買って食べるより最高に食べられます。「義務の利益のための義務」という理想にとって完璧で幸福にするからです。
先生のみなさん、あるいは先生の相談役、あるいは教育指導官がこの理想を掌握すれば、すべての方向の成功に遭遇すると主張したいと思います。誰でも集中的にみなさんを愛し、集中的にみなさんを信じ、尊敬し、このようです。それは、Summum Bonumという共通の道徳の第3項の理想を道具に使うことです。
まだ信じられなければ、「試さない」と言うほどにしないで、取り敢えず試して見るようお願いします。そして少しずつ真実を発見し、そして最後には「お金のための仕事」、あるいはそのような何かを順に嫌いになります。そして「仕事のための仕事」を次第に愛し、そして快適で、個人的にも、他人に関しても、職務に関しても、すべての物が快適になります。
第四項はGood willと言う善意で、Ill willの反対です。これも同じで、初めの三種類から生じます。あるいはGood willがあれば、初めの三種類に何かを与えます。それは本当のGood willを意味するからです。つまり私たちは彼らに対して善意があり、そして彼らも私たちに対して善意があります。
次にそれは世界中に対して、あるいは地球全体に対して善意があり、すべての命は一つの命、すべての人間は一人だけ、あるいはそのような何かという考えに導き、私たちが非常に欲しがるUniversal loving kindnessになります。つまり同じ苦がある人であり、同じ人である命があり、同じ問題があり、同じ心情があり、自分、他人がないほど愛させます。それがGood willです。このようなGood willは、すぐにまた、阿羅漢にしかないと言います。
それは誰にあり得るか、考えて見てください。それは俺、俺の物という感覚が無くなった人にだけある物でなければなりません。そうすれば他人・自分がないほど純粋です。庶民にあるような、あるいは世界にある善意は、お金や物で友人を買うことです。私たちを買って彼らの仲間にするために、あれこれたくさん与え、それで彼らは善意と言います。これは滑稽で、弁舌を弄して神様を欺きます。だから常にこの項目の罪を受け取らなければなりません。
そこここ、その国この国、全部善意の話で神様を欺くばかりです。本当は、それは悪意と呼ぶべきです。幕の後ろに悪意があるからです。人を引っ張って行って仲間にし、奴隷にし、そして自分の欲しい物を造らせます。その上相手の側を殺戮掃滅させて、善意と呼ぶことはできません。だから本当のSummum Bonumである善意は、〇人間、空の人、あるいは俺、俺の物という感覚がない人間の話でなければなりません。
だからこの四種類を憶えておいて、常に考えて見て、常に見て遊んでください。そうすれば私たちが誰を愛し、誰を信じ、誰かを本当に信頼し喜んで従う立場にあるか、簡単に自然に経過します。第一項は穏やかな幸福、本当の平穏で、第二項は人間であることの完璧さで、第三項は義務の利益のための義務、第四項は本当の、あるいは純粋な善意です。
このような目的を理想として掴めば、最高に正しい見解がある、仏教の正しい見解が最高にあると見なします。そしてそれは、困難と感じさせずに、私たちの体と言葉と心の行動を正しい方向へ引っ張って行きます。その上幸福で楽しいと感じます。それは幸福で楽しく、正しい方の発展なので、正しい理想、あるいは自然が規定した理想を軽侮しないでください。
私が取り上げて述べたのは、道徳家たちが探求して規定した物より良く探求、あるいは集めて判断、批評、あるいは規定できていないと感じます。これはすべての国、すべての言語の道徳家が考え、探求したたくさんの時代という意味です。そして今それは、動物のSummum Bonumはこのようで、このようにあると結論されています。仏教の教えと突き合わせて見るとぴったり調和し、矛盾しません。だから私はこの機会に、共通の道徳と捉える立場でお喋りしました。そして短くまとめれば零人間です。
人間は、世界共通の道徳の規則で、直接仏教の教えで最高に安全な人間になり。そして人間であることが最高に完璧になり、義務にとっての利益のための義務で動く。それは意図しなくてもそれ自体が善意です。「意図せずに」という言葉を観察して見ておいてください。私たちが他人に善行をし、善意を持つのは、意図する話ばかりのように見えます。意図するなら、まだどれも煩悩が混じっています。いつでも何かを望むからです。
しかし意図がなければ、つまり煩悩がなければ自然の、生まれつきの、本当に純粋な心の善意です。これらがある時を理想、目的にしてしまえば、何でも簡単になり、誰でも理解できます。私たちの行動はあまり意図しなくても、それ自体が自然に善くなります。こういうのを無意識と言います。こういうのもあります。つまりあまり意識せずに、それ自体が正しい方向に動いて行きます。そうすればどれほど簡単か、考えて見てください。
もう一部分を詳細に説明したいと思います。それは心が空の時、あるいは述べたような規則の〇人間である時、その時は奇跡のように何でも成功させることができます。不思議に、奇跡のように簡単に成功します。最初に心を〇にしなければなりません。他の時間にできなければオフィスにいる時、あるいは家にいる時、あるいは台所、部屋にいる時できなければ、教育指導官の義務をしている時は、何としてもできなければなりません。
その時間、その数分は何としても〇人間でなければなりません。これは、いつでもずっとすることはできないという意味です。熟慮すると、みなさんの義務は非常に難しいと見えるからです。義務は重く、私たちはどのように〇である心を持つ人間でなければならないか、見てしまってください。
先生を指導する、あるいは誰かを指導する教育指導官は、最低でも認める、あるいは寛容、あるいは tolerance (忍耐力)か何かが、相手の人より多くなければなりません。みなさんは、受け容れてもらうより、受け容れる側でなければなりません。次に彼らより智者であり、達者であり、偉大な統治者でなければなりません。それは、彼ら以上に彼らを受け容れなさいという真実の原則と正反対です。
プラスの心、あるいはマイナスの心があれば、受け容れられません。マイナスならマイナス式の頑固で、プラスならプラス式の頑固で、知性がありません。空っぽの心、〇の心があり、俺、俺の物がない時は、何でもすべて受け容れます。それです。みなさんの行動は可愛らしく、みなさんの言葉は聞く価値があり、みなさんの善意が反対側の心を覆うのは。みなさんは彼らの上にいることになり、そして彼らをすべて受け容れることで彼ら全員に勝利します。そして彼らのすべてを受け容れられることは、〇人間であることから生じます。
もう一度見ると、みなさんがこのように彼らに提案する義務を行うには、提案を受け入れる側より忍耐努力が必要です。次にみなさんは気づかずにプラスになり、マイナスになり、忍耐をしないで、そして彼らに我慢して聞かせ、我慢して信じさせる。そういうことは、できません。それはできる範囲にある話ではありません。
強制すれば、ドッカーンと爆弾を爆発させる抑圧があります。だから義務も倒壊し、あの人はこのようだ、その人はそのようだと責め合い、そして統率者を訴えて最高に厄介になります。本当は双方が過剰、あるいは不足な人間で、〇でないので怒りが一斉に沸騰します。
だから仏教の教えで、あるいは普遍の道徳の規則でも自由ですが、俺、俺の物という感覚を防ぎ、その結果、あるいはその時間に〇人間になれるダンマがなければなりません。私たちは〇人間くらい忍耐がなければなりません。そうすれば彼らに勝利できます。彼ら以上に忍耐があると言います。あるいは私たちは彼らに教え、彼らに提案することに関して、彼らより自分自身を管理できなければならないと言います。
私たちは自分自身を管理すること、self-control、あるいは忍耐、patienceと呼ぶもの、あるいはそのような何かがなければなりません。忍耐がなければならず、彼らよりも自分を支配しなければなりません。自分を管理することが彼らより少なければ、彼らを私たちが意図するように引っ張って行くことはできません。以前に、それは俺、俺の物で沸騰していると話したように、私たちも自分を管理できません。
一度まとめてしまいます。無理に話せば終わりがありません。私たちはこの話の理想を、彼らより深く理解していなければならないと述べてしまいます。だから教育指導官であるみなさんは、一般の先生よりSummum Bonumの理想、あるいは人間の最高の理想を深く理解してください。この理想を深く理解すれば、何でもすべて防ぐことができ、彼らを軽蔑する、あるいは何かする機会はありません。理想を理解しなければ、私たちは自惚れます。
この話の理想は述べたように四項あり、それには俺、俺の物がなく、どの項目を掴むこともできます。それはいつでも煩悩であり敵である物がないからです。だからみなさん自身の理想、つまり教育指導官自身の理想はどのようかも含めて、述べたような四項のダンマのように大部分の、全体の理想に、「それは何で、どのようか」興味を持ってください。しかし、基礎であるこのような実践に成功していなければなりません。
次にもう一つの分野、心理学の角度で強制することの難しさを見ると、彼らより自由な心がなければならないと言います。彼らはFree Will(自由意志)と言い、一般にこのように呼びます。道徳界ではFree Willと言い、ダンマの方、仏教の方では「自由な心」と言い、これは非常に難しい問題です。つまり私たちの心が自由でなければ、他人の心を強制できない、他人を引っ張れないと、正反対です。
「自分に勝ってから他人に勝つ」というブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)で話されているように、私たちは自分の物である心、自由な心がなければなりません。これが本当のFree Willです。しかし一般の人の感覚では、いつでも限界を超えた形になります。つまりどこに限界があるか分からない自由なので、Free Willは気づかずに間違った話になります。それはanimal behavior(動物行動)で、human conduct(人間の行為)ではありません。
Free Willは、動物行動も人間の行為もあり、動物、あるいは野蛮人の限界のない自由です。そしてそれが何かをするのは認められず、受け入れられず、呑み込めません。しかし人間の行為のような自由なら道徳、あるいはmoral philosophyの範囲内にあり、熟考しておき、原則を敷いておいてくれるので、仏教側も容認しなければなりません。moral philosophyでは、ダンマの方で私たちが話すのと同じに話します。
つまり半分ずつにします。あるいはpartial dissemination、半分ずつです。つまり私たちの望み通り、私たちが目指すのは半分で、もう半分は慣例で、あるいは哲学でも何でも、ダンマの、宗教の、伝統習慣の規則として規定しておいたのが半分です。こういうのは正しいFree Willです。
次に私たちはfreeという言葉に迷い、free なら何でも百パーセント好き勝手な free と迷うので、動物の自然の free に逆戻りします。教育指導官のみなさんも他の人と同じ free ですか。それとも教育研修をする時にFree Willですか。それは道徳の原則で注意深くしなければなりません。自分の怒りで、自分の知識で、自分の知性で、自分の論理だけではできません。どんな理由があってもできません。理由は他のことにも関わっているので、他の面もなければなりません。
ここでちょっと割り込ませていただきます。何が善か、何が正しいか、何が不善か、何が不正か規定する時、彼らは理由だけでしません。それは「他人も受け入れられる」とあります。Empiricism(経験主義)、あるいはrationalism(理性主義)、他人、あるいは人類が受け入れられれば、使い物になる理由です。そしてまだ、彼らはimmediate apprehensionと言う、intuitionism(直観主義)か何かもなければなりません。つまり自分だけでなく、他人にもすぐに見える理由です。
私たちはこのように自分の理由でするので、他人も受け入れなければなりません。他人にも見え、すぐにそのように理解でき、他人にもすぐ分かり、賛成できるという意味です。だからその理由は理由になります。これが「これが私の理由です」と主張する根拠です。そして私たちはこれで正しくすることができます。これがFree Will(自由意志)です。そして片足のウサギが立つ話は間違いです。少なくとも知性のある人は半分ずつというダンマの面の規則にします。私たちの目的が半分、ダンマの、道徳の、宗教の規則が半分。そして自由はそれだけです。
最後にまだ一項だけ残っています。私たちの善意は、承認できる範囲があるべきと熟考しなければなりません。私は簡単に「反論させる」と言います。つまり承認、あるいは反論、あるいは反論するための権利の主張は、道徳の基礎の何項目もない中の、一つの重要な基本です。誰も反論できないような道徳を規定すれば、使い物になりません。しかしブッダは「反論したければしなさい」と、機会を与えられました。
私たちも同じで、彼らに提案して教えるには、道徳の規則はいつでも承認する機会があることを忘れないでください。全部述べれば、religious sanction=宗教面の権利を主張して反論し、political sanction=政治面の権利を主張して反論する、social sanction=社会面の権利を主張して反論するなどです。
だからこの原則に従えば、私たちの提案を受ける人の反発の言葉にはどんな理由があるか、あるいは何の原則があるか注目するべきで、それはこの三種類の中になければなりません。彼らは「まだできない」という見方、あるいは宗教の信仰に依存し、あるいは政治面の理由に依存します。これもあまり関連ありません。時には政治の方が重要と見るかも知れません。取り敢えず受け入れてください。こういうのも、社会の話の部分が確実にあります。
私たちは社会の中にいるので、社会の利益のために、社会と共にしなければならないからです。だから注意しなければなりません。その利益が社会の利益に反さないようにしてください。「彼らに反論させて良い」と短く話を切り上げ、そしてその反論の結果、それは善くする助けになり、破滅させる助けにならないと心します。
最後は、「彼らは何で生きられるのか。動機と呼ぶものか。それとも何か。彼らは何で生きられるか」思わなければならい話と同じに見えます。つまり人は誰でも何らかの希望で生きています。命がある動物なら、動機として何かを望まなければなりません。希望は生きる動機、あるいは何かをする動機です。宗教面では、人は幸福になりたいと望みます。苦を恐れる、あるいは苦を嫌う、そのような何かが宗教に振り向かせ、宗教に身を委ね、宗教の実践をする動機だからです。
社会面なら、私たちは社会に軽蔑されたくない、あるいは私刑を下されたくない、そして社会のすべてから協力を得たいと希望します。この希望が私たちに社会の中で暮らしてダンマの実践をさせます。政治面は私たちに関りがないので、ほとんど話す必要はありません。しかしそれでも、政治の精神という点と似ていて、協力することで国の進歩を求めるためで、近くの人の環境の邪魔をしません。
そのような物は全部似ています。彼らと話し、彼らに教え、彼らに提案し、彼らをどちらかへ引っ張る時、この動機という物に逆らわないでください。そしてsanctionと呼ぶものは、極力できます。彼らに反論するだけで、あるいは彼らの見方に介入するだけで、彼らを振り向かせること、あるいはそのような何でもできます。
これです。取り上げた何種類でもない例は、〇(零)の状態がある種類の心、俺、俺の物がない心でなければ、どの種類の心でできるでしょうか。〇である心があり、〇の状態があれば、これらの話は簡単にでき、そして奇跡のように成功します。つまり信じられないほど簡単です。だから〇人間は俺、俺の物が空っぽの心がある点で、何でも成功しているとまとめることができます。一つの簡単で憶えやすい大原則だけを捉え、少なくとも教育指導官の義務をする時は、何としても自分を調整して〇人間にしなければなりません。
話したのは、教育指導官だけ名指ししているようですが、本当は説教台に座っている僧にとっても、誰にでも使える一般の教えです。これは古臭いでしょうか。説教台に座っている僧も、このような原則がなければならないと、自分で考えて見てください。そして私たちはブッダの時代にも、このような教えを発見しました。つまりある教典の中のです。今私が話しているような語句を使わないのは事実です。彼らは他の言葉を使います。そしてパーリ語でもあります。
しかし意味はこのようで、違いません。私は分析して比べて見ましたが、現代でも普遍的な道徳と同じ教えがあります。だから普遍的な道徳と見なすと、敢えて述べることができます。あるいはこれは直接仏教の教えで、過去・現在、そして終わりを知らない未来に使うことができます。そして動物、人間の心はあと何千年何万年でも、この形の中にあるように見えます。
次に一人の人も百年を超えない寿命があり、十分成長して物事を知るまでに二十年から三十年掛かり、老年の部分が十年か二十年あり、まだ真ん中に三、四十年残っています。これは非常に少なく、この教えを使う以上です。だからそれはふさわしいか、あるいはこの願望と最高に一致するか、持ち帰って考え、熟慮して見てください。
みなさんが宗教に厳格なら、七覚支という教えは、サティ・択法・精進・喜悦・軽安・サマーディ・捨があると私が検証する努力をしている点を見てください。しかし私は世界の用事に応用します。みなさんが普遍的な道徳を好きなら、自分の体にあるので、避けることはできないということです。私たちは「私は先生の、あるいは先生の相談役の義務をする」と捉えるにふさわしく、有益に使う努力をします。先生の相談役、これも先生、つまり世界の精神を導く人たちに含めます。これを忘れれば、自分を尊重しないと言います。自分を尊重しない人は、破産した人です。
中にはすぐに、「なぜまた自分かあるの? 俺、俺の物はないと言っただろう」と反論する人がいるかも知れません。このように考えるなら、「俺が無くなる前は、使い物になる俺がいなければならない」と考えることを知り、正しく知らなければなりません。今私たちは使い物になる俺があるか、あるいは使い物にならない俺があるか。これは考えなければならないことです。それは仕事をする中で証明されています。
何かをして破産するのは、使い物にならない自分、使い物にならない種類の俺、俺の物、プラスすぎる、あるいはそのような種類、あるいは過剰すぎる種類の俺があります。だから減らすことを知れば、少しずつ俺が無くなります。俺が無くなるのは、十分成功した心、俺が少なくなってなった心で、つまり十分な成功の準備をします。だから「今私たちは俺、俺の物があり、これを少なくして、〇人間というまで述べたすべての規則になる」と述べることに反論するかもしれません。
常にできなければ、教育指導官の義務をしている時間はそうしてください。このようにできれば、みなさんは全部成功します。つまり一度に全部、何でも善くなれます。つまり善い国民、善い先生、善い人間、善い仏教教団員、善い何でも、同時になれます。
口の話、腹の話、利益の話は考える必要はありません。このように実践し、このようにしていると、それは非常にたくさん自然に駆け寄って来るからです。つまり自然に正しい道を歩き、そして穏やかな幸福で進歩する方へ行くようになります。そして物質面で欠乏しても、物質面の結果がなくても、物質から生じる幸福以上に、仕事をすることに幸福があります。
だから持ち帰って考えていただくよう、伏してお願い申し上げます。賛成するなら、人間であることの最高の善に、世界の人全員を連れて行く先生の理想である、人を捕えて自分の意図するものに入れる教えとして使ってください。
今日の講義はこれで終わらせていただきます。
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