ダンマにご関心があるみなさん。今日は、エーカヤナマッガについてお喋りします。前回はボロマタムについて話しました。つまり人間が何としても到達しなければならない最高のもので、目的の話です。今日はマッガの話について話します。エーカヤナマッガという名前がある道は特別な意味があります。この部分です、私たちが学んで熟慮しなければならない、あるいは判断しなければならない部分は。
今みなさんは、道についての話を聞く機会がありますが、それは地獄の道・天国の道・梵天界の道・涅槃の道まで、たくさんの道になります。しかしエーカヤナマッガと呼ぶ涅槃の道は、あまり好む人がいないように見えます。天国の話、あるいはそのような何かの話の方に関心があるように見えます。そして一斉に選ばせれば、面白おかしく幸福である話の方に関心があり、選びます。しかしそれらの道はエーカヤナマッガという言葉、梵天界の道と呼ぶ物に含まれません。
エーカヤナマッガという言葉は、「涅槃に歩いて行く自分だけの一本だけの道」という意味です。特別な意味があり、人間や天国、あるいは梵天界に関りません。だから私たちはこの道に関わる話は、特別に理解しなければなりません。
次に、特に先生であるみなさん。「グル(先生)という言葉は神面を導く人いう意味」と、正しい意味を捉えていただくようお願いし、説明したことがあります。教え子を精神面でどこへ導いているか、何の目的があるか、グルである人について詳細に熟慮して見なければなりません。そしてもっと重要なのは、自分が今どの方向へ歩いているか、そして彼らをどこへ導き、何の目的があるかです。
それはまだ、自分がどの道を、どのように歩いているかより重要ではありません。グル(先生)も、人がエーカヤナマッガと呼ぶ道を歩くよう導く人と捉えなければならないと、はっきり理解しなければなりません。つまり涅槃が目的にある道です。
今、「大きな道は行き来すべきでない」というスローガン、あるいは金言について考えて見ます。これはタイの大昔の金言ですが、ダンマ、あるいは宗教から来ています。私たちは宗教と密接に付き合い、何を話すにも宗教、あるいはダンマに関わる話ばかりだからです。昔の人は、大きな道は歩くべきでないと言いました。それはダンマ、あるいは宗教に関る意味があります。大勢の人が歩いて平らで広くなった、誰でも好んで歩くので平らになり、大きな道になったという意味です。
これは、大勢が歩く大きな道を歩いてはいけないという意味があります。そしてそれは当然それ自体が、ほとんどの人が欲しがる物は、恍惚、煩悩欲望の威力による満足で、彼らはそれを「自分」と理解しがちだと教えています。彼らが「私の好み」と言うのは、「煩悩の好み、欲望の好み」と、彼らは知りません。常に欲望を自分に、煩悩を自分にしているからです。
煩悩、あるいは欲望が王座を占拠して座って「自分」になっているので、それが支配しています。だから「私の好み」と話さないでください。気を付けてください。それが「私」であるはずがありません。それは煩悩欲望の私、あるいはダンマの私です。これは公正でなければなりません。誰の肩も持たず、依怙贔屓せず、人には誘惑する煩悩欲望があるという理由で、煩悩を審査判断するのを誘躊躇いません。煩悩の欲が牽引する物なので、同じ物を好みます。あるいは「歩いて」同じ行動の結果を探求し、行動し、味わうと言います。その結果大きな流れが生じます。この言葉を述べた人は、何を意味するか良く知っているので、「大きな道は行き来するな」、踏み入れるなと言いました。
ここでの「大きな道」は、煩悩欲望に従う道を意味します。つまり愛欲と縺れ合い、愛欲の物で、愛欲煩悩、あるいは別の呼び方では愛欲耽溺と言います。愛欲と縺れ合う状態で、愛欲と縺れ合う自分があります。世界で最高に大きな話であり、その結果世界の普通の話になります。だから人は大きな道と呼び、そしてほとんどすべての人がそうであると言うことができます。
だからそれは自分の思い通りにすること、つまり煩悩の言いなりになり、身勝手で煩悩のことばかり考えます。だからこの道を歩けば利己主義があるという意味です。愛欲と呼ぶものは、溺れれば、愛欲と呼ぶものを掻き集める利己主義にする原因だからです。
現在の世界の問題の根源は他でもなく、愛欲と呼ぶものに根源があります。それを物質主義、あるいは何と呼んでも良いですが、近い意味があります。つまり世界の領域の形・声・臭い・味・接触・考えの楽しさに惑溺します。形・声・臭い・味・接触と呼ぶものを、パーリ語で「物質」と言います。個体である物質でなくても物質と言います。
形は物質に見えます。声や臭い、味、皮膚の接触は物質ではありませんが、物質と呼びます。物質に関わっていて、物質から生じる味があるからです。だからここでは簡単にまとめて物質主義と呼びます。いう意味で、幸福である物質の味、物質者ら生じる恍惚を好み、物質に溺れることを意味し、パーリでは愛欲、愛欲耽溺と言います。
ブッダの時代には、著しい物質主義の大きなグループがありました。カーマスカッリカーヌヨーガ(幸福耽溺)と呼ぶ人たちです。教祖の名はチャーラヴァカ、あるいはローカーヤタという名前で、これは物質の話、世界の話ばかりでした。この人たちは物質から生じる幸福の探求だけを教え、物質から最高に幸福を得れば、彼らは涅槃と言いました。だから彼らには最高級で緻密な欲情である涅槃があります。これは大きな道の話です。
最後に自分の好きなようにする話、つまり煩悩の言いなりで、そしてこれらの物質を手に入れる身勝手が、現代は最高に多くなりました。物質面の発展は突っ走る一方だからです。それは走るように発展しますが、心の奥の、あるいはダンマの面の発展はのろのろ這ってもまだできず、ほとんど急停止、あるいは忘れ去られ、捨てられてしまったと言います。だから現代人の多くは物質に敗北します。そのために飽きさせないよう提案し、報い保証する物があり、飽きると、あるいは飽きる前に代わりの物があります。これが物質面の進歩です。
私たちの子供が自分を管理できなければ、あるいは保護者も管理できなければ、ほとんど世界中の人が物質の奴隷になるので、誰がどう解決できるか分からない新しい問題があるような、新しい世界があります。その結果眩暈がし、成り行きに任せると言うのを認める人たちもいる新しい世界と見なし、新しい形の道徳を規定し、不邪淫は戒の中にないと捉えます。つまり不邪淫戒などの項目は止めてしまい、必要ありません。このように列を成しているグループもたくさんあります。
だから最高に危険と、明らかに見える話です。つまりこれらの子供が大きくなって国の統治者、あるいは国の首長になった時、彼らは世界の向きをこの道に並ばせることが多くなり、最後には真っ青な顔をして眩暈がするほど物質の奴隷になり、何の感覚もなく殺し合います。つまりアリを殺し、シロアリを殺し何かの虫を殺すように、何も考えないで人が人を殺し、そして世界は終焉に至ります。ね、この大きな道はこのような結果をもたらすと見ることができます。
正反対を思って見ると、私たちは「小さな道」という言葉を得ることができます。大きな道が大勢の人が歩くなら、小さな道はあまり人が歩かいない道を意味します。だんだん狭くなり、だんだん消え、常に道ではありません。宗教の角度のダンマで述べれば、アッタキラマターヌヨーガ(苦行耽溺)と呼ぶものは、身体を苦しめます。これらの人は、物質に惑溺する最初の人たちと正反対です、
一方これらの人たちはバカみたいに、限界を超えるほど愛欲を味わう基盤を不能にします。いろんな器官を危険にするまで愛欲を嫌う項目を儲け、心が愛欲の方向に傾くことがないように、いろんな方法で身体を傷め、器官の能力を消失させます。
この小さな道の側は、愛欲は直接の敵というほど惑溺するので、完全に消滅させなければなりません。事実も非常に感覚に逆らっているのに、根源を消滅させ、愛欲を消費する道具や、そのような物を消滅させます。しかしできるのは迷いのせいです。だからそれは自分を攻撃することで、前者が物質面で著しい身勝手である時、後者は自らを攻撃し、そしてまだ「神様を信じる人たちに神様は身体を苦しめる話を喜び、神様と共に住むことを非常に喜ぶ」という理想を介入させます。だから大々的に自分を苦しめます。こういうのを私は小さな道と呼びます。
他にまだ何か、大きな道、小さな道でない物はあるでしょうか。私たちが使うよう強制されている話す言葉がなければなりません。つまり「真中の道」、あるいは「ちょうど良い道」で、仏教ではそれを中道と呼びます。そして中間、あるいはちょうど良いという意味があります。
つまり自分をちょうど良く管理する目的があり、好き勝手にせず、意に逆らいませんが、自分をちょうど良く、あるいは正しい方法で管理します。そしてダンマの面の発展があるよう管理し、利己主義でなく、狂ったように自分を攻撃しません。美しく、純潔に、清潔に、明るく、静かに、そのような何かにします。だから「中道」、あるいはマッジマパティパダーと呼びます。
ね、「三つに見えるよう三つに分けることができる」と、簡単に見えます。つまり大きな道、小さな道、ちょうど良い道です。だからエーカヤナマッガと呼ぶ物はどの部類に入るでしょうか。みなさんは、ちょうど良い部類に入ると、すぐに見ることができます。中間と呼ぶ、あるいは中道と呼ぶ物はこのエーカヤナマッガと、おぼろげに糸口を得ることができます。大きな道はいらない。小さな道もいらない。ちょうど良い道にして、詳細に広く糸口を掴み、それから続きが見られると言います。
ここで道という言葉に、特別に関心を持っていただきたいと思います。それは、本当はダンマの名前です。他の物と理解しないでください。ここで道という言葉は、庶民から借りたダンマの名前です。庶民の言葉は、普通は足で歩く道、荷車の道、人の道、獣道、何でも意味します。道と呼ぶ物は庶民が話す言葉の道で、もう一方の心の面の話である道は、後から生じたばかりです。
彼らが実践系統を発見し、実践の流れに出会った時、何と呼んだら良いか分からないので、庶民の言葉を借りで道と呼びました。だから道という言葉はダンマの名前です。思索家、心の面の探求家が、何らかの系統、あるいは流れを探求して見つけると、「これが道だ。街道だ」という感覚が生じます。だから道という言葉を他より先に考え付いたので、道と呼びました。
次に、道という言葉の意味を広く見ます。私は仏教の世界だけに限定せず、すべての宗教、あるいは考えのすべての分野まで広く見るようお誘いしたいと思います。このように広く見ると、自分自身を橋にする人も道と呼ぶと気づきます。これはキリスト教のイエスを意味します。イエスは「私こそが道です」と述べたからです。イエスが「私は道です」と述べたのは。「すべての人が神様に至るには、私を通過しなければならない」という意味です。
つまりイエスに連絡し、イエスの教えで実践します。イエスが神様の啓示を受け、そしてそれ以上に命を投げ捨てました。動物であるこれらの人の為に死を受け入れ、イエスの犠牲を見る機会があり、そしてイエスの死によって心を入れ替えました。イエスは命をもって、人と神様の間の橋を架ける道にすると言います。
考えて見てください。すべての先生はこのようでしょうか。つまり自分を投げ捨てて、子供たちを人間の命の目的まで歩いて行かせる橋でしょうか。これは犠牲という意味です。先生が勤め人なら、当然このように自分を投げ捨てることはありません。あるのは一月経ったら給料を受け取るために、一日一日仕事を終わらせるだけです。みなさん見てください。多くのグル(先生)はこのようです。
自分を本当のグルと呼ぶ人でも、まだこのような始末で、ほんの一部のグルは清潔な心があり、前回話したSummum Bonum のduty for the duty's sake という項目のように、「幸福は仕事にある」という感覚があることで、自分を投げ捨てて橋にする十分広い心があります。
義務にとっての利益のために義務を行うグル(先生)は、義務の中に幸福があり、給料、あるいは何でも、それはゴミになり、埃になり、徳に供える物になります。この部類のグルだけが、自分を投げ捨てて橋にし、あるいは犠牲による道にします。動物であるあどけない子供たちが毎日成長して、本当に早く便利に歩いて行けるよう、何でも、どんな方法でもします。だからこの種の先生が少し多くいれば、私たちの教育は今より善くなります。グルが道になることを、自分で道になることを受け入れるからです。
もっと深く見ると、述べた中間の道の実践項目が終点に導くと述べなければなりません。それは全く身勝手がなく、つまり自分がなく、俺、俺の物がまったくありません。身勝手から身勝手でないことへ行く実践、これが終点です。中道と呼ぶもの、特にダンマ、あるいは道と呼ぶ八支がある物は、詳細で明らかな仏教の実践項目です。
そして私たちは次に、グルたちにあるかどうか考えなければならない項目があります。つまりグルたちは今、この中間の道を歩いているでしょうか。それともほとんど大きな道を走っていますか。それとも少数の人たちは、精いっぱい我慢して小さな道を走っていても勝手ですが、真ん中の道を歩いているグルはどれだけいるでしょうか。
よく考えて見てください。勤め人であるグルは賃金を貰うために必死で働き、中間の道を歩くことは望めません。心が全部大きな道に流れて行ってしまうので、中間の道を歩く残りがないからです。だから身勝手でないことから生じた知性であり、そして心を管理し、心を訓練して教えることができる鋭利な知性、あるいはグル自身を管理して善い手本にし、善い手本になって見せることで教え子を導き、あるいは幸福になって見せる、よく切れる知性がありません。だから道と呼ぶものが中道を意味する時、グルであるみなさんにあるかどうかという問題があります。
「道」のもう一つの意味は深遠という意味で、自然の深遠な真実を意味します。それは深遠なダンマで、この項目は中国のタオと呼ぶ宗教に注目します。中国の宗教について話せば、老子、孔子の正しい教えの言葉を意味し、それらは真実です。今の道教ではありません。今のは蝋燭と線香に火をつけて、石の獅子頭を崇拝することが残っているだけで、そういうのではありません。
それは間違ったものだけです。あるいは、当然どの宗教にもある、範囲外まで伸びた肉腫にすぎません。仏教にも愚かな物がたくさんあり、キリスト教にも後世の人の愚かさがたくさんあります。だからどの宗教について話す時も、私たちは正しい部分、あるいは本当に元からある物に注目しなければなりません。
道教の人たちは、道という言葉を深く理解するのに、道という言葉一語で十分と見なします。道という言葉は道路という意味ですが、普通の人に見えない深遠なダンマを意味します。学ばなければならず、思索しなければならず、そうすれば見えます。道と呼ぶものは無為という意味があります。つまり作り出す縁がない物で、生じることも変化することも、死も何もありません。本当の道と呼ぶものはどのようでしょうか。彼らは道と呼びました。
自然の意味、あるいは深遠な真実を道にするなら、先生方に、もうこれに到達したか、もうここまで歩いたか、あるいは関心だけでもあるかを問題にします。これはもっと深く、あるいはもっと多い話です。
私が取り上げて述べたのは、道と呼ぶものは三つの意味があると指摘して見せるためです。自分を投げ捨てて橋にできる人でも良く、橋でも良いです。あるいは道(タオ)など、終点を道と呼んでしまうこともあります。私たちは身を投げ捨てて橋にした人かどうか、あるいは中道である道があるかどうか。あるいは終点に至ったかどうか。先生が自分自身に答えるために問題にしなければなりません。
「エーカヤナマッガ」という言葉は、終点に歩いて行くための実践項目を意味します。この言葉をちょっと詳細に熟慮すべきです。エーカヤナマッガという言葉は、非常に反論されます。このパーリ語の言葉は一つ以上の文法上の形を取っているからです。パーリ語はこのようです。つまり二つの形、三つの形にすることができます。だからエーカヤナという言葉は、訳す理由があれば、誰でも訳すことができます。
一本道と、こう訳すこともできます。あるいは一人の人物のための道、こういうのでも良いです。そして一つだけの物に到達させる、一つだけの終点に至らせる道です。だから私は三つ全部を、三つ全部の意味を掴んで、三つ続けて「一人の人物が一つだけの終点に歩いて行くための一本の道」と言います。ね、エーカヤナマッガという言葉の意味になりました。
これから、例えば一本道は戒・サマーディ・智慧を意味するように、その意味を一つずつ熟慮していきます。私たちが好んでマッガと呼ぶ物は、マッガは一本道、あるいはマッガは戒・サマーディ・智慧という順に並べてなく、ブッダは智慧・戒、それからサマーディの順にしたと紹介、あるいは強調したことがあります。これは小さな話ではありません。時には不注意、がさつさでこれらの事実を見落とし、それが私たちの実践を急停止させ、停滞させ、最後には挫折させることもあります。
私たちは戒・サマーディ・智慧の並び方だけで、智慧・戒・サマーディと、ブッダが並べた順に並べないからです。ナックタム試験三級、二級、一級の勉強をしたことがあるので、この話を知っている人は良いです。しかし学んだことがない人は知らないかもしれないので、このように話して聞かせました。
八支があるマッガ(八正道)の八項目の最初の二項目は、正しい見解、正しい考えと呼ぶ智慧で、これは智慧です。三、四、五番目は戒で、正しい発言・正しい仕事・正しい職業です。五、六、七番目はサマーディで、正しい努力・正しいサティ・正しいサマーディです。みなさんはすぐに、智慧・戒・サマーディの順になっていると見えます。正しい道はこのようでなければなりません。
いつでも先導する智慧が先になければなりません。そうでなければすごく道に迷い、智慧がなく、正しい見解なしに戒を維持すると、岩や藪に突っ込んだ戒になるように、霊験のため、神聖さのため、幸運のため、天国の宮殿と交換するため、天国に行くために持戒をすると、岩や藪に突っ込んだ戒になります。智慧を先頭にしないからです。
正しい見解をマッガの先頭にすれば、それが「何が何か」を教え、苦は何か、苦を生じさせる原因は何か、苦の滅尽はどのようか、苦の滅尽に至らせる道はどのようかを教えるので迷うことがなく、霊験のため、神聖さのため、幸運のため、天国のために戒を持す機会がないので、身勝手の消滅に歩いて行くために戒を持し、身勝手を脱ぎ捨て、自分がなく、身勝手を排除するために持戒します。身勝手の消滅を目指すだけなので、戒のどの項目もこのように正しくなり、道を外れません。
これです。注意してください。智慧を先にし、それから戒、そしてサマーディです。次にそれをしていくと、それは戻って智慧を増やして強力にし、智慧は戒とサマーディを更に強力にし、戒とサマーディがもう一段階強くなったら、戻って智慧を一層強くし、輪になって、このように関連し合います。このような状態を、「正しい道は正しく経過し、智慧が羅針盤のように、あるいはそのような何かのように、いつでも先導しなければならない」と言います。
「一人だけが歩く」と言うのは、「カンマの法則はその人だけのもの」という意味です。行動した人がその結果を受け取らなければなりません。カンマは、その行動をした人の身体と言葉と心にあるからです。だから代わることはできません。大勢の人が同じ行動をしても、それにもぞれぞれの人がする部分があり、自分のカンマの結果を受け取ることができます。一緒にして、一緒に同時に結果があっても、すべてその人だけの物と捉えるべきです。
だから私たちは、「他人に助けてもらうことを期待してはいけない。神様の助けを期待してはいけない。精霊の助けを期待してはいけない。幸運の助けを期待してはいけない」という項目に注意してください。占い師を訪ねたり、精霊の祠を建てたりするのは子供の話です。それが安心させるのは子供と、子供と同じ状態がある大人だけです。だから精霊を祀るためだけの行動、あるいはいろんな運不運で安心するのは、外部の物、あるいは他の人物、他の物を拠り所にする、あるいは原則にすることです。
正しいのは、厳格な規定文で自分を基準にしなければなりません。自分に頼る「自分は自分の拠り所」という厳格なブッダバーシタがあります。そうすれば第三番目のカンマまで、正しい、相応しいカンマを作ることができ、善悪、身勝手から脱します。善いカンマ・悪いカンマは注意してください。一番二番のカンマは注意してください。それはまだ輪廻し、まだ身勝手です。
善を愛す人はまだ身勝手で、三番目のカンマに至った時、つまり聖向聖果の実践は、完全に身勝手を消滅させることができます。それが善より上、悪より上にある、直接エーカヤナマッガという三番目のカンマです。つまり本当に無苦に至らせます。
終点の「一点に」というのは、涅槃を意味します。これは自分がなく、自分が消滅し、取で「自分がいる」、あるいは「自分の物」と執着する感覚がない状態を意味します。つまり取の消滅ゆえに、自分が完全に消滅します。これを「終点に行く一点」と言い、このようだけで、他にはあありません。梵天界でもなく、美しい人間の国でもなく、弥勒菩薩の世界、そのような何かでなく、俺、俺の物という取から生じた自分が消滅しなければなりません。それが目指す終点の状態です。
まだ終点に至らなければ、自分が薄くあり、自分が少しあるという意味です。つまり少し身勝手があります。悪い身勝手から善い身勝手に、善い身勝手から善い自分を少しにし、身勝手がなくなるまで薄くし、自分があるという感覚が終われば終わります。終点はこのようです。だからエーカヤナマッガ、あるいはマッジマパッティッパダー(中道)と呼ぶものは、このように終点に導きます。
次に、もう一度視線を投げて全部の流れを見ると、身勝手から出発して、自分があることから自分がないこと、まったく身勝手がないことに行くのがエーカヤナマッガです。普通の凡夫は、以前述べたような俺、俺の物という感覚があり、阿羅漢は反対に、俺、俺の物という感覚がありません。だから凡夫であることから阿羅漢であることへ歩いて行く道を、エーカヤナマッガと言います。
一本だけ、真っ直ぐに、そして一人だけで一点に直行して歩いて行きます。つまり永遠に自分がないこと、滅、生じている物の消滅という意味です。生じている物は形態だけで、何もありません。しかし苦、あるいは何と呼んでも良いです。本当は俺で、俺を全部消滅させ、俺という取がない。これが終点です。
今私たちはエーカヤナマッガであるマッジマパッティッパダー(中道)について話しています。それは八正道に則った実践です。その系統で述べるのは一般に理解しているので、重複して述べません。八正道の話を学んで良く理解し、要点はどのようか何としても掴んで、智慧・戒・サマーディの順の並びはどんどん発展して自分を消滅できます。今日述べる部分は、「自分に執着しない、自分がない」点で終わると主張するだけです。
だから私たちは「自分がある・自分がない」話をする方が良いです。つまり「そのような四念処はエーカヤナマッガ」と聞いている教えを実践します。そしてパーリも「エッカーヤノー ビッカヴェー マッゴー」等々と、四念処に言及します。
これから話す四念処は、非常に誤解するので実践できません。長々しい大念処経を、文字を飛ばさず、省略せずに読めば、終わるまで二時間以上掛かります。非常に多くの語句があり、二時間以上掛かって終わりますが、アーナーパーナサティ経の形である本当の念処があります。これはブッダが目指された点でと一致し、そして明らかに四念処であるブッダバーシタの形をしています。それは私たちに「初めの経にマハーという言葉をつけ加えて、後世に書いた経ではないか」と疑念を抱かせます。
後世に次々に加えたのは、後世の人が「この項目のダンマは入れることができる。この項目のダンマも入れることができる。その項目のダンマも入れることができる」と見て、そして後の時代の結集で次々に書き加えたので、有り余る種類の、あるいはそのような長々しい経が幾つもでき、大念処経もこれに含まれます。
それは間違いではありませんが、学んで要旨を掴むことができず、全部霞んでしまいます。何十種類も同時にしなければならないので、誰にもできません。エーカヤナマッガである念処はアーナーパーナサティ経、あるいは四念処経でするので、マハーという言葉はありません。それには次のような短い言葉があります。
身体について学んで、動物・人物・自分・私・彼ではないと知ることを、カーヤーヌパッサナーサティパッターナ(身随観念処)と言います。そして明らかに知るまで受を学ぶことをヴェーダナーヌパッサナーサティパッターナ(受随観念処)と言い、心を学ぶことをチッターヌパッサナーサティパッターナ(心随観念処)、ダンマの話を学ぶことをダンマーヌパッサナーサティパッターナ(法随観念処)と言い、わせて四つの話です。
第一部の身随観念処の学習は、「体は呼吸と知る」と言うほど端折り、ここでは、呼吸を体にします。「体に関して」という言葉はいろいろあり、呼吸もその一種です。だから体の重要な縁である呼吸を見ます。呼吸が止まれば、その時体も終わるので、呼吸を見て、呼吸に関する訓練をし、述べたような結果を最高に生じさせます。例えば長い息、短い息を規定して良く知ってしまい。それから深遠な意味の呼吸を、「それは体を加工し、カーヤサンカーラと呼ぶ」と知ります。この呼吸をカーヤサンカーラと呼ぶのは、身体を加工する(変調させる)からです。
カーヤサンカーラである荒い呼吸は荒い心でまだ混乱し、呼吸、あるいはカーヤサンカーラが静まれば身体も静まり、心も静まるという意味です。それならこのカーヤサンカーラである呼吸を滑らかに静かにすれば、身体も自然に静かになり、心も静かになります。だから第一部である身随観念処は四つの規定があり、長い息・短い息を規定し、すべての呼吸を規定し、そしてカーヤサンカーラである呼吸を静めます。このような四項目です。
長い息と短い息を規定するのは、最初は呼吸に慣れるためで、身体を良く調整し、良い衛生があるようにしり、呼吸について知り尽くします。そしてそれは体を加工する物と知ります。私たちが怒ると呼吸は荒く速くなり、気分が良い時は呼吸は滑らかで長くなると、明らかに見えるように関わりがあります。ゆったりしている時。呼吸は正常の水準にあり、繊細で緻密な難しいことを考える決意をすると、呼吸も繊細で緻密になります。そうでなければ考えられません。
ね、直接体と関わっていると、はっきり見えます。だから呼吸を滑らかにできれば身体も静まり、心も静まるという規則を掴むことができます。だから第四項はカーヤサンカーラを静め、サマーディになるまで滑らかにし、サマーディである結果があります。だから最初の部は、サマーディまで実践できます。
第二部は受随観念処で、この受は、あれこれ受を使って大騒ぎにしません。それはむしろ道から逸れた所に引っ張って行かれるだけなので、私たちはサマーディから得た受だけを使います。サマーディをして集中すれば、そのサマーディの中にピーティとスッカ(喜悦と幸福)である受があります。だから繊細で緻密な受であるピーティとスッカを、ここで学ぶため、実践するための受にします。
それは普通の人が簡単に見るより広い意味があり、「世界のすべての動物は受の奴隷で、ほとんどは幸受の奴隷と」いう真実があります。そしてそれは苦受の奴隷でもあります。つまり苦受がある時は怒りなどの苦受の威力で大騒ぎして沸騰しますが、ほとんどは幸受の奴隷です。だから欲望が生じ、取になり、有になり、生になれます。
受の威力をなくすことができれば、受の意味をなくすことができれば、苦になるほどの欲、あるいは取はありません。だから受を、最高の受を処理してしまいます。「最高の受の執着を消滅できることは、世俗の低い執着は確実に消滅できる」ということです。だからサマーディの受を使うようお勧めします。
だから受随観念処は四項規定します。第一項はピーティ(悦び)を規定し、第二項はスッカ(幸福)を規定し、第三項はこの受はチッタサンカーラ、つまり呼吸が体を加工するように、心を加工すると規定します。第四項はこのチッタサンカーラを静めます。受の奴隷にならないために、欲望、取を生じさせないために、つまり受に心を加工させないように、加工しても少しだけにさせます。この受の部は、ピーティはどのようかよく観察して見て、それを規定し、それに良く慣れてから、ピーティと違う味があるスッカを規定し、それに慣れます。
第三項になると、「ほら、こいつが心をそのようにこのように加工する」と知ります。つまり「受の威力でこのようだ。そのようだ」と考えます。受は名前を変え、チッラサンカーラと呼びます。受が心をどのように加工するかという話を学んだら、どのように管理するか、それの加工をどのように減らしてしまうか、それに心を加工させなくなるまで、明らかに見ます、
受が心を加工できないのは、阿羅漢の段階だけで、それより低い段階は、聖人になっても阿羅漢より低いのはまだ、受がいずれかの段階の心を加工します。凡夫については言うまでもありません。いつでも受の奴隷だからです。だから次々に心を加工して考えさせ、善くし、悪くし、大騒ぎ、大混乱します。しかし受を管理して心を加工させなくできれば、その心は愛欲の考えをせず、煩悩欲望の考えをしないという意味です。
この受はいつでも貪・瞋・痴の考えを生じさせるので、それを管理できれば受は加工できないという意味です。あるいは加工しても少しだけ、あるいはこれを管理する第四項の規律の中で加工します。このように善いです。これを「チッタサンカーラを静めている」と言います。受が心を加工するのを少なくするという意味で、まったく加工しなくなるまで少なくします。このようなら、受随観念処です。
心随観念処と呼ぶ第三部になりました。第一部は体を学び、体を知り、体に対処し、第二部は受を学び、受に対処し、第三部になると受から離れて心を見、心を学びます。正しくは受がそれを加工します。そして直接心で実践し、直接心を見ます、だから第一項は「心を知る」と言い、心と呼ぶものを先に知り、第二項でそれを喜ばすことを知ります。
ダンマの面の楽しみは外部の、煩悩の、形の面の楽しみではありません。心に幸福を感じさせて楽しみ、喜びます。第三項は心を剛直に、サマーディにでき、第四項は心に執着を手放させます、この四種類は、心に関わる角度の学習のためです、
第四段階で心を見、心を知ることに関心を持ち、その結果心をどのようにでも支配できます。この三つの状態を楽しませることもでき、安定させることもでき、執着している物を手放すこともできます。一時的でも、心をカッカさせる「俺、俺の物」の執着を終わらせるので、一時だけでもできます。それは完璧に手放すまで、方便・方法でします。それは最高の段階の話です。
最後の部は第四部で、法随観念処と言います。体・受・心、あるいはすべての物に生じる真実の状態を見ます。体・受・心を見る代わりに、今これらの物に生じている真実を見ます、普通は無常を見、ヴィラーガである緩むこと、薄れる物、緩む物であるダンマを見、そして滅である、俺、俺の物の、煩悩の、欲望の滅尽を見ます。そして今それを返却したことを見、あれこれに「俺、俺の物」と執着しません。この心がかつて執着していた物、どのようにでも停滞していた物から「今は脱出し、返却した」と見るという意味です。
だから短く、「今私たちは、体と受と心と関わっている自然の、最高に隠された状態を見た」と言うことができます。これが、すべての物の無常であることです。最高に無常が見えるまで実践をした時、心が執着していたことが緩み、この緩む状態を、ヴィラーガと呼びます。この緩むことが、最後には執着を消滅させ、ニローダ、自分が消滅すると言います。自分という理解が消滅し、煩悩欲望が消滅し、煩悩欲望が消滅すれば、払い落すのと同じ状態があります。つまり心が世界から脱出し、世界は心を覆わず、以前のように心を包囲しません。これを法随観念処と言います。
この方法、つまりこのような四部四項で実践すれば、ブッダが望まれ、話しておかれたように、そして主張されたように、正しく直に四念処に励むと言います。そしてこのようにすることがエーカヤナマッガです。
次に、忘れないために、薄れないために、もう一度短く簡単にまとめさせていただきます。本当に自然の話は、私たちは全員、何かを「俺、俺の物」と執着し、そしてそれが原因で最高に苦になるとあります。次にどうするか。それは「すべての物は執着して常時心に入れておくべきではない、それに執着を生じさせてはいけない」という真実を使う方法でできます。心に「すべての物は執着すべきではない」という真実の話を規定させたいからです。
これが、私たちが欲しい物です。次に私たちができないのは、いつでも大きな道に沿って走り、いつも望んでいる低い感情に傾き、魚を陸に投げ落とすと、魚は常に水に入れる方向を探して水に飛び込むように、心も水に沈んで浸かりたがるからです。つまりいろんな状態の欲情に浸り、慣れて習性になります。だから「すべての物は執着すべきでない」というダンマを規定できません。これも問題の一つです。
もう一つは、それを規定できても、長く規定できず、その方向、この方向へ走って逃げ、規定できるのは少しで、他の物に変化します。何かを少し規定すると、他の物に変わります。しかし私たちの願望は、常に「すべての物に執着すべきでない」と規定させたがります。つまりすべての呼吸の出入りを規定させたがりますが、心は何かを、そのように長く規定できない物です。
だから問題は「私たちは練習しなければならない」とあり、私たちは心を捕まえて水から上げたがります。つまりかつては好んだ感情である水から上げて、煩悩を消滅させる新しい感情に、連続して長くいさせます。このような課題があります。
短くまとめると、心を訓練して、私たちが望む何らかの物を規定させ、継続して長く規定できないことについては、方便があります。最初に簡単な物を規定させ、すぐに最高に難しい物、「サッペー ダンマー ナーラン アビニヴェサーヤ=すべての物は執着すべきでない」という真実を規定させないでください。これは難しすぎます。これは、まだ野蛮な心にとって不可能です。だからまだ野蛮な段階にある心を捕まえて、最初は簡単な訓練をさせます。つまり呼吸を規定します。
呼吸はこの体にあるのでどこかへ行く必要がなく、簡単に規定できるからで、規定するのが簡単です。だから短い、長い、入る、出る息を常に規定し、何としても一度呼吸を規定してしまいます。規定する練習で目指すのは、新しい物を規定するだけ、そして長く規定します、そうすれば心が呼吸を規定できるまでこの段階に成功して、初禅、二禅、三禅。四禅そのような何かと呼ぶサマーディになります。ね、それは一つの段階の成功です。心で自分が望む物を規定でき、望むだけ長く規定できると言います。
次は取り替えます。呼吸を規定することから他の物を規定することに変え、「すべての物は執着すべきではない」と、最高のダンマにどんどん近づけます。だから私たちは、サマーディから生じた受であるピーティ(喜悦)、あるいはスッカ(幸福)を規定することで心を騙す方便があります。これは、心をこのように向き変えさせる方便で、気に入った物で子供を騙すのが得意なように、段階的に騙して望むような心にします。
次にサマーディから生じたピーティとスッカに恍惚として惑溺し、欲情を忘れ、世界を忘れるので、元より高い段階にいます。そしてそれは簡単に長く規定できます。ピーティとスッカは非常に心を惹きつけるので、これらの物は長く規定できるからです。
今心は、新しい物である何らかの物を長く規定でき、欲情を捨ててダンマ、ピーティ、スッカに長くいることができます。次に学ぶのは、「これらの物は煩悩欲望をそのように加工するので、心を加工して煩悩欲望の考えにさせる」と見させ、理解させます。それからそのような加工を減らさせる方向の訓練をします。欲望が生じたら、あるいは何か事が起きたら、欲望煩悩が加工するのを放置しないで、知性の方へ加工させます。つまり「何が何か、心はどのようか、受はどのようか」、真実のままに知ることが増えます。
これは、心を非常に善い状態に引き上げることができるという意味です。つまり非常に発展します。これをバーヴァナーと言います。バーヴァナーとは発展させるという意味です。ぶつぶつぼそぼそ何かを唱えるという意味ではありません。バーヴァナーという言葉は、developmentに相当し、良くし、発展させます。今それはこれほど発展しました。つまり水である欲情に落ちて、沈んで習性にしません。
多くは水から上がり、このように陸に来て、最初の段階である陸に満足し、最後に自分自身がどのようかを見る訓練をします。そしてそれにダンマの面の楽しみを作らせ、ダンマの面の喜びで楽しませることができます。そしてサマーディにする練習をして安定させ、三つの性質があるようにします。純潔が一つ、一つだけの感情が一つ、そして仕事に対して敏捷であること・が一つです。これが「パリストー・サマーヒトー・カンマニヨー」です。この三つの言葉は、サマーディという言葉の最高に正しい意味です。
純潔な心と呼ぶものは一つだけの感情があり、そして心の面の仕事をするのに敏捷です。彼らはサマーヒトーで良く安定していると言います。しかし欲情、あるいはかつて執着していた物への執着を支配にふさわしく手放せれば、これを「心はこの段階まで発展した」、あるいは「developした」と言います。
最後の段階は、高い学習をさせ、無常を教え、ヴィラーガ(離欲)を教え、ニローダ(滅)を教え、パティニサッガ(捨離)を教え、高級で繊細なダンマを見、無常の状態を見、ここでは苦と無我も合わせて、ここでは無我も含めて無常と言います。すべての物の真実を、無常・苦・無我と見させます。そしてそれはニッピダー(厭離)の感覚を生じさせます。
つまり無常であり苦であり無我である物に倦怠し、倦怠すれば手が緩み、それまで執着で強く掌握していたが、今は倦怠したので執着すべきでないと見るので手が緩みます。彼らはヴィラーガ、執着が緩むと言います。そしてニローダである、自分、あるいは苦が消滅していくのを見ます。自分と苦は同じです。「サンキッテン パンチュパーダーナッカンダー ドッカー」と唱えている文句を忘れないでください。要約すると「取がある五蘊は苦」です。それが本当の苦です。今それは消滅してニローダになります。
五取蘊が消滅してニローダになり、心もこれらすべてを永遠まで洞察します。今世界は心から脱落し、世界、あるいは苦と呼んでも、世界と苦は同じで、払って弾き飛ばすように心から脱出させます。こういうのを彼らは一語でパティニッサッガ(捨離)と言います。世界は世界にあり、この心は二度と世界と関わらないロークッタラチッタ(世界から脱した心)です。これは第四項、あるいは第四部はこのような流れです。
本当の要旨であり、直接の、急ぎのエーカヤナマッガである四念処はこのようです。大念処経のように長くありません。あれは部類ごとに分けてあり、実践と関連しません。だからサティパッターナスッタで話されている四つの念処を掴むようお勧めします。アーナーパーナサティ経と呼ぶものと、他のいくつかの経は、一呼吸ごとにアーナーパーナサティの実践をして、四部で四種類を捨てます。こういうのがエーカヤナマッガです。
エーカヤナマッガに依存して子供を訓練するなら、私たちはエーカヤナマッガの規則で子供を訓練するにはどのようにしなければならないか、という話をします。このように長くて深遠な話を、子供は聞くことができるでしょうか。それは滑稽です。簡単に聞ける形、あるいは状態を指摘して見せなければなりません。
しかし「身勝手になるほど執着しない」という同じ系統で、一つの話しかありません。私たちは、四部の実践項目は、体の話も、受の話も、心の話も、ダンマの話も、全部自分に執着しないためと見ることができます。ナックタムを勉強したことがある方も、口癖になるほど唱えています。
体は体だけ。動物、人物、自分、私、彼ではない。
受は受だけ。動物、人物、自分、私、彼ではない。
心は心だけ。動物、人物、自分、私、彼ではない。
ダンマはダンマだけ。動物、人物、自分、私、彼ではない。
全部を合わせて見てください。それは動物・人物・自分・私・彼ではありません。全部の意味は、「何かを動物・人物・自分・私・彼と理解して執着しない」ことにあります。
執着は誤解による、迷いによる思い込みにすぎません。時には執着はウパダーナ(取)ということもあり、思い込みをマンニャナーということもあります。マンニャナーとは思い込みです。思い込むということもあり、サンニャー(想)と言う時もあり、そのようなサンニャーがあり、このようなサンニャーがあり、突飛なサンニャーばかりです。
まとめると、動物・人物・自分・私・彼という執着で、もっと短くすると、俺、俺の物という執着です。彼にすれば彼と彼の物で、私なら私と私の物で、それぞれに俺、俺の物という執着があります。
子供たちに「俺、俺の物という執着は苦であり、自分と他人、双方にとって危険」と見せます。私たちが泣くのはこれが原因で、苦になるのもこれが原因で、他人を苦しめるのもこれが原因で、他人が私たちを虐めるのもこれが原因です。身勝手が原因だからです。執着があれば身勝手で、身勝手という言葉を使えば分かり易くなります。「身勝手ではいけない」一言で十分です。そして家や学校で日常的に何らかの間違いをするのは、すべて身勝手によると見るよう教えます。
これは、「何かすべての過ちは身勝手から来ている」と、先生自身がまだ見ない、まだ見えない、まだ気に掛けない、まだ勉強しないほどかも知れません。愛すのは身勝手だから、嫌うのも身勝手だから、怒るのも身勝手ゆえ、恐れるのも身勝手ゆえ、何もかも身勝手に含まれます。自分があると見るので、身勝手です。
だから私たちは身勝手の話を良く学び、取り上げて教育し、良く熟慮し、この身勝手をもっと管理しなければなりません。そしてそれを普遍的な原則と見るべきです。どの国も、どの言語も、どの宗教も全部この話を理解し、そして身勝手をなくしたいと望んでいると見るべきです。しかし彼らができるかできないか、あるいは口だけか、本心はしないかは、彼らの勝手です。
今世界中で好まれ、すべての国すべての言語がselfishness、つまり著しい身勝手を無くすと言います。この宗教では深遠なegoismと呼ぶ、基礎である繊細で深い身勝手を排除したがります。沸騰してSelfishnessになるのは、非常に荒いです。そしてselfishnessを世界は良く知っていて、彼らは排除したがります。子供たちにselfishnessのような身勝手を先に排除する訓練をさせたがり、もっと繊細なeonismまで無くす必要はありません。
Eonismは繊細な身勝手を意味し、そして自分や他人に対して善意です。そして善行をすることもあり、悪の道に入る必要はありません。しかしselfishnessは善くなる機会がなく、一方的に悪の道になるだけです。だからこの方が荒く、危険になるほど蔓延すると見なします。だから私たちは子供たちに、身勝手を減らすよう教えるべきです。
弟妹に嫉妬しないことから惜しまないこと、ケチでないこと、傲慢でないこと、「この皿は俺のだから誰も使ってはいけない、何もかも自分のだから他の人は手を触れてはいけない」というようなのまで、全部身勝手の話です。だからこの身勝手の話を、それは自分を苦しめる物、あるいは憎み合わせる物、あるいは敵意を持たせる物と、このように休まず教えます。
次に「身勝手が生じればいつでも心が動揺して乱れ、計算もできず、記憶もできない」と、詳細に教えなければなりません。身勝手が沸騰すれば心が混乱するので、彼ら自身に、「身勝手がどのように沸騰しているか、どんな形か。その結果計算もできず、何も記憶できない。その感情が消えた時、心は明るく澄んで身勝手が空になり、計算が良くでき、何かを早く記憶できる」と観察させます。
あるいはスポーツで、何かを投げて命中させるにも、最高に命中するのは、心が身勝手で揺れていないからです。あるいは手仕事をするにも精緻にできるのは、心が混乱してなく、動揺してないから精緻に美しくできます。
これが子供たちに使うことができる、あるいは身勝手から身勝手でないことに向かって、子供たちが歩かなければならないエーカヤナマッガです。そしてそれは、子供たち、少年、若者、娘、大きな子供から家長、主婦まで、段階的に同じ系統を使うことができ、本当に一つの流れです。
ざっと見ないでください。一つだけの系統という言葉に迂闊にならないでください。それは幼児から、あるいは胎児から生まれた子、幼児、少年、若者、娘、結婚して所帯を持った家長、主婦から年寄まで、歩く道を変える必要はありません。一本線、一本道、終点に行くまで一本だけで、他の線はありません。何としても身勝手から身勝手でないことに向かって、この一本道を歩かなければなりません。
考えて見てください。私たちが持戒をするのも、サマーディの訓練をするのも、身勝手を静め、抑え、現れないようにするためです。あるいは智慧の方の実践、ヴィパッサナーをするのも、身勝手を根こそぎ掘り上げて燃やしてしまうためです。それ以上何もありません。あるいは布施まで低くしても、身勝手を排除するためです。天国のため、天国と交換するための布施は、友達にそのような物を好ませるためで、あまりこの意味の中にありません。それは世界の話、世界であり、欲情である結果を求める話です。だから純粋な布施は、身勝手を排除しなければなりません。
私たちがブッダ・プラタム・プラソンを拝むのは、ブッダ・プラタム(ブッダの教え)・僧を尊敬するのは、身勝手でないことに注目します。ブッダを拝むのはブッダは身勝手がない人だからで、プラタムを拝むのは、プラタムは身勝手を消滅させるための実践体系だからで、僧サンガを拝むのは、実践者を拝みます。そして私たちも身勝手を消滅させるために実践します。何か知らない神聖な物として拝んで霊験を生じさせないでください。熱心にぶつぶつと唱えるのは愚かなので、いつでも身勝手の話です。
だからどの部分の実践をしても、三宝帰依から布施・持戒・サマーディ・智慧まで、身勝手でない一つの系統の話です。そして聖向聖果涅槃に到達します。それです。次第に自分が無くなって、残りが無くなって終わり、涅槃になります。ね、私たちは、一人の人物が一つだけの目的に向かって歩くための一本道と見ることができます。胎内の子供から棺に入る年寄りまで、誰でも使うことができます。
なぜ胎内の子供と言うのかは、身籠っている母親に善い行動を実践し、道徳の範囲内にいてほしいからです。身勝手にしないでください。そうすれば胎内の子供が胎内にいる時から、身勝手でない種が宿り、生まれてから簡単に身勝手でない人になります。だから胎内の子供から訓練すると話してしまいます。生れて歩けるようになり、走れるようになったら、身勝手でない話の訓練をします。これがエーカヤナマッガです。
以前に述べたように、ボロマタムの道であるエーカヤナマッガの話について、適度な時間お喋りしたと見なします。持ち帰って考え、理解し、そしてどの部分でも本当に見えたら実践してください。それは誰にとっても利益があります。そして「グル(先生)は教え子の精神を高める人」という理想の目的が現実になります。夢が本当になり、そして永遠に静かさによる幸福があります。
これで講義を終わらせていただきます。
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