ダンマにご関心のあるみなさん。今日の講義は、グル(先生)の話に関心があるすべての人、あるいは特にグルである人とのお喋りと見なしてください。しかし私はボロマタムについてお喋りします。私は、この話はグル(先生)である人、あるいは同じような状態にある他の人、つまり助け合って世界に輝きがあるようにする人が関心を持つべき、あるいは理解すべき、そしてその規則で実践すべき話と見ます。
ボロマタムと呼ぶものは、聞くと滑稽に感じるかも知れません。時間の節約のためにこの言葉を使わなければならないからです。そして道徳家の世界の至る所で、あるいは道徳哲学家が使っている言葉だからです。そしてこの言葉は、ブッダの時代から使われている言葉でもあります。簡単に理解するにはこの言葉の意味、あるいは目的について話さなければなりません。そうすれば詳細に判断することができます。
ボロマタムは最高のダンマという意味です。今道徳界全般でパーリ語を使わず、彼らはすべての国、すべての言語の共通語、特にラテン語を使います。だから道徳家の世界で使っているSummum Bonumという短いラテン語があり、「人間が生きている間に得るべき最高に良い物=The utmost goodness that man can get in this very life」と説明します。これは学生、あるいは道徳家の世界の、すべての国すべての言語で共通です。そして彼らは、最高に善い物を四つに決めました。
これを短く「The highest goodnessは四つある」と言います。つまり穏やかな幸福、Happiness、あるいはBlissfulness、そして完全であることPerfection、それから義務であるDuty、そして善意、Good will、全部で四つです。これをSummum Bonum、あるいはボロマタムと言います。仏教界にはSummum Bonumである涅槃があるので、四項の最初は幸福を意味するということです。しかしあと三項もあります。
次にボロマタムという言葉の由来を振り返って考えて見ると、「アヒンサー パラモー サンモー」というブッダの時代以前からある文章は、「アヒンサーはボロマダンマ」という意味です。パラモー ダンモー、それが語形と一致するボロマタムです。そして早すぎる物を「加害は短く簡単な低い話で、ボロマタムにはできない」と言います。
みなさんがパーリ語、あるいは仏教のダンマを学んだことがあれば、アヒンサーという言葉は、非常に偉大な言葉と気づくと、もう少し関心を持ってください。それを簡単に「非加害」と訳すのは事実ですが、加害しないという意味だけでなく、私たちが喧嘩と理解しているようなこともしません。
苦しめるという言葉は他人を苦しめず、自分も苦しめないことを意味します。そして最終的には自分を苦しめません。自分を苦しめなければ、当然他人を苦しめないからです。自分を苦しめるのは貪り・怒り・迷い、その人の煩悩で苦しめます。貪り・怒り・迷いがあれば自分自身を苦しめ、それは他人も苦しめます。貪りがなく、怒りがなく、迷いがなければ、自分自身を全く苦しめません。それです。それが、苦がないという意味の涅槃です。
私たちが自分自身を苦しめるのはとても微妙で、見るのが難しいです。特に愚かさ、迷いである無明が自分自身を困難にし、苦にします。そして微妙な部分は気づかない苦です。だから振り払って排除できないので、いつでも密かに苦しめます。苦である苦しめることを全部出してしまえれば、涅槃です。だからアヒンサーという言葉、つまり苦しめないことは小さないことから大きなことまで、そして最高に深遠な苦しめないこと、愚かさ、迷いで自分自身を苦しめないことまで意味できます。こういうのをボロマタムにできるかどうか、考えて見てください。
そしてこの理由で、世界のすべての国、すべての言語の道徳家が仏教を学び、「仏教の涅槃こそ仏教のSummum Bonumだ」と感嘆します。私も同感です。これをボロマタムと言います。だから私はこのボロマタムを取り上げて、今日お喋りします。
みなさんは、ボロマタムはグル(先生)と何の関係があるの?と質問するかも知れません。そのように聞くなら、考えるべきです。グルである自分自身を知らないようなものだからです。グルはどのような意味、あるいは理想があるか、自分自身を知る人は、「グルは、人をボロマタムに導く義務がある」と、すぐに答えることができます。この世界のグルは、人をボロマタムに導く人以外の何でもありません。
私はいろんな所で何度も、グルはspiritual guide 、精神面の案内人と述べてきました。最初は多少嘲笑されましたが、今は「グルは精神の道案内人」という言葉に、たくさんの人が同意しているように見えます。精神面の話をするのは身体の面の話より重要だからです。身体面、あるいは足で歩く大地などは深遠でなく、高くも何でもありません。精神の案内人は最も高いと見なします。正しく歩く精神は、Summum Bonum、あるいはボロマタムに簡単に到着するからです。
先生の中には、「あいうえお」を教えることは精神面のガイドではないと考える人がいるかも知れません。その人は考えないから、あるいは粗く見過ぎるからです。正しくは、文字を教えることから始めなければなりません。そうすれば精神が高くなり、あるいは順に目的地に歩いて行けます。文字を知らない精神を、「まだ非常に愚か。非常に未熟。非常に低い」と言います。だから最初の光である文字を教えることから始めます。
「あいうえお」を教えていても、精神面の案内人と呼ぶことができます。しかし目的地に至るまで次々に導き、雇われて、一日一日文字を教えるだけではありません。それはグル(先生)の理想ではありません。本当の理想は、世界の人が目的地であるボロマタムに到達するために命を捧げます。
次にダンマという言葉について話して見ます。ボロマタム(ボロマダンマ)という言葉を理解するために、ダンマという言葉について話して見ます。仏教、あるいはパーリ語でも、ダンマという言葉は非常に奇妙な言葉で、「私はダンマを理解した」、あるいは「ダンマを知っている」と話せるのは、最高に自慢する人だけです。
本当の学者学生は、ダンマと呼ぶ物は何か、定義は何か、あるいはタイ語にしたら何と訳すか、という項目に関して怪訝に感じます。そして英語などの外国語に訳したら、ダンマは何と訳すか。タイ語もダンマという言葉を訳す智慧がないと見えます。私たちは元のパーリ語の「ダンマ」という言葉をそのまま使わなければなりません。タイ語に訳すことはできないに違いありません。幸運にも私たちの祖先はこの言葉を訳さず、元のまま「ダンマ」という言葉を使いました。
外国人は英語などに訳そうとし、最初はlaw、あるいはnormと規定しました。集めて見ると三十以上の言葉がありますが、一語も十分なのはありません。結局降参して、Dhammaという言葉を使いました。「Dhamma、あるいは Dharmaという言葉は。タイ語のダンマという言葉」とタイ語辞典にあるように、外国語の辞典にも収められています。ね、ダンマという言葉の意味に関しての最初の難しさを見てください。
パーリ語で「ダンマ」は、例外なくすべての物を意味します。何の価値もない埃の粒もダンマと呼び、心の面、精神面の話、幸福、苦、品行、実践、実践の結果、聖向聖果涅槃まで、ダンマという短い言葉に含まれると述べたように、ダンマでない物は何もありません。ね、タイ語で何という訳語を使うか考えて見ると、結局言葉がないので、ダンマという言葉を使わなければなりません。そして次のような部類に分類します。
教えを意味するダンマ、真実・公正を意味するダンマ、原因を意味するダンマ、結果を意味するダンマ、世界のすべての現象を意味するダンマ、このように分類しても満足する利益が得られません。だから非常に使われている定義が残っています。どこでも保証されていると見なされるほど今も普及していて使われています。つまり神智学協会が使い始め、その後いろんな人が賛成し、それから仏教界も同意しました。
そしてダンマという言葉の意味を、「すべての人間のすべての部分、特にその人の進化のすべての段階にふさわしい実践体系」と定義しました。
彼らは、The course of conduct right for a manという言葉を使い、=人間のための、人間にふさわしい、ai the particular state of his evolution 人間のすべての段階、特にその人の発達の段階、つまり人間としての発展にふさわしい、その人の発達のすべての段階、人間にふさわしい何らかの実践規則。それがダンマです。ダンマという言葉は、このような定義で使います。
次に見るのはタイ人、あるいはパーリ語、サンスクリット語家も、彼らがこのように使っているのを熟慮して見て賛同し、彼らは私たちより良く規定することを諦めたようです。世界中の仏教教団員の世界はこのように決着しました。これはほとんど外国人を意味します。
私たちタイ国内は眠っていて、ダンマという言葉を何と規定するか、夢見ることができません。思ったことも考えたこともなく、意に関せず、まだ眠っていられます。しかし今世界中はこのように決着した、あるいはこのように規定したと、そしてそれは非常にふさわしいと話してお聞かせします。
「人間の発達の中でよじ登って行く、すべての段階の人間にふさわしい実践規定である物」と思って見てください。だからダンマと呼ぶ物は人間にとって最高に、食事以上に必要です。私たちがこのように感じれば素晴らしいと見なします。他の宗教、他の教理を思って見てください。イエスはマタイの章のある部分で、サターンがイエスに、目の前にある岩でパンを作るよう言うと、イエスは「ばかばかしい。私たちはパンによって生きているのではない。私たちは神様の教えのすべての言葉と一致する正しい行いによって生きている」と、このように言いました。
神様の教えのすべての言葉で正しく生きるのは、一般に、どの宗教でも使い物になるという意味です。つまり食べ物で生きるのではありません。パンという言葉は食べ物を意味しますが、むしろ、教えのすべての言葉で正しい実践によって生きることができます。食べ物だけで生きられるなら、それは豚・犬・カラス・鶏と同じ動物の一種で、何も良くなく、生きていないのと同じです。述べたような状態のダンマがあることで生きれば、生きていると言います。だからダンマによって、ダンマゆえに生きられると見なします。だから関心を持ちます。
次に、ダンマという言葉は深い、あるいはかなり広いと話して見せます。この言葉を遊びにしないで、特別にこの言葉に関心を持つべきです。みなさんは何でも浅く考え、そして鵜呑みに信じがちです。例を挙げてお聞かせます。私たちが聞き慣れている詩の文句のように、かなり滑稽な見本です。
世界の何もかも無常
罪と徳だけが確実
身体について来る影はピンと張りつめ
罪と徳が庇護するまま
このような詩は、富と徳だけが確実と教えています。誰でも同感し、不変である徳と罪の話に執着します。世界の何もかも無常で、罪と徳だけが確実と言うからです。徳と罪だけが確実、その他は無常。これはブッダのダンマを知らない人が書いた詩です。ブッダが言われたように言うなら、徳と罪は無常の物、すべての物のように無常と言います。
しかし確実な物はあり、本当に確かなのは、徳でも罪でもない物、あるいは徳より上、罪より上の物です。次に私たちは本当に確かな物に関心を持ったことがないので、徳と罪は無常、あるいは確かな物とし、そして執着しなければなりません。このようにしています。
それは正しいでしょうか。それは少し正しく、間違いではありません。ある部分は正しいですが、小さな部分です。あるいはこれが仏教の教えかどうかは、これを仏教と認めることはできません。ブッダはそのように教えなかったからです。本当に確かな物はボロマタム、つまり涅槃と教えました。これは原因や縁が加工する徳でも罪でもなく、そして因と縁によってグラグラ揺れません。それが本当に確実なら、私たちはそれを作ることはできません。あるいはそれは終わりません。しかし作ることができ、終わることもある物は確実ではありません。
取り上げたものを基準にする意図はありません。あるいは何かケチをつけるつもりもありませんが、先生のみなさんがテキスト、今信奉している何の主義、教えでも、まだ完璧には正しくなく、正しさが少なすぎると観察して見るためです。だから何が確実か問うなら、煩悩がないこと、あるいは涅槃、あるいは短く共通語でSummum Bonumと呼ぶ物です。
だから私は煩悩がないこと、徳も罪も欲しがらず、徳にも罪にも執着しないことが、目的である本当に確かな物と結論します。本当かどうか、持ち帰って休まず考え、(自分を)教育してください。そうすればいつか出会います。ここでは煩悩がないことは終点である本当に確実な物という意味にします。
ここで、みなさんが子供たち、あるいは教育の少ない人に簡単に説明できるものを紹介します。世界のやり方では、算数の簡単な計算、例えば足し算引き算など、心+身体+煩悩という問題や公式を出して見て、結果は人が罵ると怒り、愛すよう煽る物があれば愛し、罵る人、罵られる人がいれば、問題が起きます。
心+身体+0で煩悩がなければ、反対の結果があり、罵っても怒らず、罵られた人がいる、あるいは罵った人がいると感じません。そして罵ることもありません。罵ることもなく、罵った人もなく、罵られた人もいません。体と心だけで、煩悩が足さなければ。しかし煩悩を足せば、和である結果は罵ることがあり、罵った人、罵られた人がいて、危機である問題も生じ、このように違います。
煩悩があることの価値を、このような数式で子供に教えて知らせなければなりません。彼らが困窮している、罵り合っている、あるいは喧嘩をしているのを、「煩悩があるからだ」とハッキリ見させます。取り出してしまえば、残るのは身体と純潔な心だけです。それを空っぽの心と呼びます。煩悩である考えや思いがなく、あるのは知性だけだからです。
これは「体と心しかなく、煩悩に介入させなければ、あるのは知性だけ」という意味です。心は知るダートゥ(分子。界)で、それ自体に知識があるからです。今知ることができないのは、煩悩が重なって覆っているからで、取ってしまえば、それ自身で知ることができます。だから純粋な五蘊、つまり清潔で煩悩がない体と心は、それ自体が何でも知り、何でもすることができ、そして苦はありません。
何かを足さなければならないと理解しないでください。本当の心の自然だけで自然に知識を得ることができます。だからこの世界に生じるいろんな話は全部、煩悩以外に何もないと見ることができます。煩悩がないだけで問題は起こりません。厄介な問題はありません。厄介な問題であるいろんな話は、煩悩の話ばかりです。
私たちは「罵ることはできない。そして罵られたと感じることはできない」と考えるべきです。煩悩を恐れ、煩悩の手法の成り行きを恐れるからです。だから私たちは他人を罵ることはできません。そして人に罵られたと感じることもできません。私たちは最高に凶悪な物である煩悩を恐れるからです。簡潔な状態に、あるいはこのようにはっきりした状態に関心を持ってください。だから最高に凶悪な話である物は煩悩です。私たちは煩悩と呼びます。
他の人たちは魔王、あるいはサターンでも何でも、たくさんの名前があります。しかし私たち仏教徒は、直接短く「煩悩は猛毒がある物」と言います。みなさんが怖がる何よりも恐れるべきです。人々は何を恐れるか知りませんが、夜も眠れず、神経の病気になり、精神異常になる人もいます。中にはコミュニズムを恐れて眠れず、精神病院に入院しなければならない人もいます。それはもっと滑稽な話で、最高に恐れるべき物を、反対に恐れません。
ここで少し話して聞かせたいと思います。ある外国人が大変苦労をしてスアンモークへやって来ました。馴染むために少しお喋りをした後、「一緒にコミュニストと闘ってください」と、来訪の本当の目的を明らかにしました。その人は「今共産主義は世界の危険です、どうか一緒に戦ってください。特にこの国の出家である人たちは最高にふさわしい」と言いました。
私が、「ここの私たちは、コミュニスト以上に煩悩を恐れます」と答えると、その人は、二度と偉そうに振る舞うために現れませんでした。二度と私に関わりませんでした。私はコミュニズムより煩悩を恐れるからです。その人は煩悩の話に関心がなく、そして恐ろしいと感じない私たちを、コミュニストと戦わせるために引っ張って友達にする話に関心があるということです。
それらすべての危険は煩悩に由来すると理解したら、煩悩に抵抗し、煩悩をやっつけてしまう方が良くないでしょうか。コミュニズムの主義も全部煩悩が根源にあり、発端は煩悩にあるからです。だから直接やっつけ、根源を消滅させる方が善くないでしょうか。その方が正しく、そしてより本当です、だから彼は二度と私を煩わせません。私たちがコミュニズムよりも煩悩を恐れるのは、彼らの煩悩を表しているからです。
これは、何もかも煩悩の話から脱せないと見ることができます。みなさん特に関心を持ってください。次に私たちは、今私たちは何の下僕、奴隷、奉公人、あるいは何かは呼び方次第と見ると、煩悩以外の何もないと気づきます。次に「あらゆる種類の奴隷は、煩悩の奴隷」と、広く、あるいは感じるまで、あるいは明らかに見えるまで見ます。お金の奴隷、あるいは借金の奴隷、あるいは異性の奴隷、どの種の奴隷でも、すべては煩悩の奴隷である話です。
無明の奴隷、愚かさの奴隷、迷いの奴隷、老人は棺に入るまで子や孫の奴隷で、奴隷から逃れられたことがないのは、煩悩の奴隷だからです。何かの奴隷であることはどの種類も、煩悩の奴隷に集約できます。それはどれほど関心を持つべきでしょうか。同時に、どれほど恐ろしいでしょうか。
先ほど、私たちは無明である愚かさ、迷いの奴隷なので正しく歩けず、どこに道があるか知らず、光がないと述べました。私たちはグルと呼ぶ種類の人物を、灯かりを掲げて道を照らす人にしなければなりません。私たちにボロマグルであるブッダがいるのは、最高の光があるから、ブッダは偉大な光だからです。次にグル(先生)であるみなさん。どの学年でも、どの段階でも、全部松明を持ち、掌中に世界の動物の精神を照らす光があります。だから私たちは奴隷解放を助ける、人を奴隷から解放する義務があると考えます。
ここでもう一つ滑稽に話したイエスの言葉について思ってほしいと思います。『私と一緒に来なさい。私はあなたに、魚の代わりに人を捕まえさせます』。イエスの初期の弟子は漁師ばかりで、彼らは無秩序に魚を獲っていたので、イエスは「人を掴まえに行く方が良い」と、彼らを漁から引き離しました。これは、人を捕まえて神様の家族にさせ、神様の光を受け取らせ、苦から、そしてサターンの威力から脱させるという意味です。これは非常に美しい言葉です。
「魚を獲らないで、人を捉える方が良い」。これは、私たちが自分を闇から解放し、精神面を導くことで光に向かわせるのと同じです。だから世界のすべてのグルは、獄舎から、つまりいつでも貪・瞋・痴を生じさせる無明の闇から、煩悩の奴隷であり、死ぬまで気づかず苦に耐えることで生きている人を開放する人です。ね、私たちは煩悩の奴隷を止めてしまいましょう。
中には、なぜ私たちは「仏法僧の奴隷、三宝の奴隷」と言うのか、私たちは三宝の奴隷と宣誓するのか、疑問に思う人がいます。これは、「私たちは煩悩の奴隷であることから脱したいから」と、簡単に答えることができます。ブッダは煩悩を、煩悩の奴隷であることを脱ぎ捨てることができました。本当は、それは自分自身の奴隷です。煩悩の奴隷は自分自身の奴隷で、自分自身の奴隷は煩悩の奴隷です。
そして今、自分を煩悩にし、煩悩を自分にしています。私たちは自分自身の奴隷から解脱し、三宝の奴隷になりたいので、三宝の奴隷になると志願します。三宝の奴隷は、ブッダは私たちを自由に、つまり〇人間にするからです。〇は円です。このように話すのは憶えやすいためです。〇人間、あるいは空。今誰が〇人間か、あるいは自由か、考えて見てください。
家族を見ると、家長が一番の人間で、主婦は二番の人間、長子は三番の人間で、二、三、四番目の子は四、五、六番の人間で、その次の何でも、〇人間はいません。誰もが自分自身の奴隷であり、煩悩の奴隷だからです。だから一番、二番の人間ばかりです。世界中を見ても、一番二番の人間がいて、自分自身の奴隷、煩悩の奴隷ばかりで、〇人間には敵いません。これは、自分自身がない、俺、俺の物に執着がない、身勝手の原因であり、身勝手と呼ぶ俺、俺の物が何もないという意味です。
今、世界の誰でも、利己主義は世界の危険と知っています。利己主義だけで、それより良い物は何もないので、人目のある場所でもない場所でも、地下でも地上でも、延々と苦しめ、この世界に恒久的な危機はあり、終わりません。これが利己主義の結果です。それは一、二、三番等々の人間は非常に利己的で、たくさん数を欲しがり、あるいは数が少なくて利己的でも、自由です。
しかし〇人間は、身勝手のない心がある人間です。軽視しないでください。女性も男性も、子供も大人も、誰でも時には、時々、一瞬、〇人間になります。心に利己主義がない時はいつでも、その時私たちは〇人間で、利己主義がありません。
〇人間は危険がなく、誰にとっても危険ではありません。自分で考えれば見えます。そして無明や煩悩欲望である身勝手がありません。〇人間は毒がなく、危険がなく、何もありません。私たちは今、煩悩の危険が見える人、空っぽの人、あるいは煩悩がゼロの人になりたいので、三宝の奴隷になります。ブッダに、煩悩から解放される助けをしてもらいます。
煩悩の奴隷でなく、〇人間になるため。それは光で、闇の中にいる人を導ける人、空っぽの心がある人で、空っぽの心があれば、その中に知性があり、何をしても間違わず、自然に正しくできます。俺、俺の物の話がぎゅうぎゅう詰めなら、何をしても間違い、話し間違い、考えも全部間違います。
私たちは大切に育て、良くし、良く実践して、心を俺、俺の物である感覚がない状態にするよう努力します。俺、俺の物である何かを、最高に、できる限り無いようします。そうすれば何でも良くでき、そして楽しいです。空っぽの心は何をしても良くでき、良い結果があり、そして楽しく、疲れを知らず、苦と感じないからです。心がぎゅうぎゅう詰めなら全部正反対で、仕事も成功しません。愚かで、迷い、憂鬱で暗く、そしてその時の感覚は幸福でなく、まったく楽しくなく、生き地獄に落ちたように感じるからです。
〇人間はどのように善いでしょうか。一二三四でいっぱいのぎゅうぎゅう詰め人間は何があるか、どのようか。これは灯かりがあるため、煩悩の奴隷であることが空であるため、人間の最高であることに到達するために、私たちが向きを変えて三宝を目指します。永遠で完璧でなくても、一時、一時的でも、最高に素晴らしいと見なします。だから空っぽの心、あるいは苦がない涅槃である心を持ってください。時々でもまだマシです。たくさんすればたくさんあり、あるいは長くなります。この話を理解し、そしてこのような状態で向きを変えれば、できます。まだ闇で、まだちんぷんかんぷんなら、あるいはまだ霧中で西も東も分からなければ、できません。
霞んで暗いこと、あるいは方向を知らないことについて、少しお喋りしたいと思います。正しく言えば、「苦は投資して買わなければならない」と言うべきです。幸福はタダでやり、投資する必要はありません。これは、苦と呼ぶものは煩悩・欲望、あのようなこのような願望の威力でし、そして努力をしなければなりません。あのようなこのような犠牲をすれば、煩悩を涵養する物である、愛している物が手に入ります。
ね、苦を得るために投資しなければならないことばかりです。幸福は何もする必要がなく、何も投資しなくても良く、〇人間であり、利己主義のない人間であるよう努力します。身勝手が空なら、何も投資する必要はありません。一つずつ、一種類ずつ全部投げ捨ててしまい、何も無くなれば空っぽ、あるいは幸福です。
これは「幸福はタダの物、無料でやる」と、はっきり述べることができます。一方の苦は、非常に困難と苦労と、高い投資をして得なければなりません。そして私たちは、その苦が欲しいと志願します。本当は誰でも、当然買う必要がないタダの物を欲しがり、このような機会を探しているのに。
しかしタダで貰えるタダの物、良くて、本当に素晴らしい物は、誰も得ることに関心がなく、反対に投資しなければならない物を欲しがります。時には命を投資しなければならず、無駄死にしても得られないこともあります。そしてすべては苦の話ばかりです。自分を正しく維持する何も欲しがらない人にあるのは知性だけで、義務で実践し、幸福です。これからこの義務の話について話します。
ここで、投資しなければならない、あるいは汗を滝のように流さなければならないのは苦の話だけで、幸福の話は、「ブッダはタダで与える」と言って終わらせてしまいたいと思います。この文句は、ブッダが話されたことがあります。『ラッダー ムダー ニッブティン ブンチャマーナー ニッバンティ ディーラー ヤターヤンパディーポー』。彼は涅槃を手に入れ、お金を払う必要がなく、ただで消費する、という意味です。
これは「涅槃、あるいはSummum Bonumは無料の物。自然はタダで配り、そして誰も欲しがらず、苦労して投資しなければならに物を喜んで受け取り、体と引き換えに、命と引き換えにする」と知らせるためです。これは、迷い・盲目はどのようかという見本です。コンチャク(五鈷杵)は蓮の花には見えません。間違いを正しいと見えません。それは迷いの話で、恐れなければなりません。避けなければなりません。この話に賢さを探さなければなりません。
先生の義務を遂行するには、少なくとも自由な〇人間でなければなりません。十分〇でなく、半分〇でもまだマシです。つまり利己主義を少なくし、半分〇にします。つまりまだ利己主義が完全に無くなりません。こういうのでもまだマシです。身勝手でないだけで、他人に利益を成すことができます。このように簡単にしましょう。グル(先生)であるみなさんを、子供に与えてしまいましょう。自分の執着、あるいは自分の利益だけを考える、こういうのを、あどけない子供に上げてしまいましょう。
ずっとできなければ、少なくとも教室で教える一時間、教えている教室の中でだけ〇人間になり、自分の物である自分はありません。全部子供たちに上げてしまうからです。だからそれ以上話す必要はありません。慈しみ、憐れみは自然に生じ、子供をどう教えるかという賢さは自然に生じ、努力は自然に生じ、忍耐辛抱も自然に生じ、犠牲か何かも自然に生じます。〇人間は身勝手でないからです。これを「自分を子供に与える」と言います。
完璧なグルの精神は、世界に、世界中に自分を与えるという意味です。そして「グルは世界の動物の精神面の状態を高く引き上げる人」、あるいは「世界を灯火で照らす義務をする人」という理想を持ち、Summum Bonumはどのような価値があるかを見れば、〇人間になるのは簡単です。
命や全身を捧げる利己主義を捧げ、本当に完璧なグルになり、利益を得て家族などを扶養するために勉強を教える勤め人ではありません。それは非常に少ないです。だからいずれにしても教えている時間内は〇人間であり、自分のことばかり考えず、家族のことばかり考えず、給料のことばかり考えず、他の何も考えないでくださいと懇願します。
私たちはグル(先生)という言葉の意味での理想があり、そしてそれは何もありません。ブッダがボロマグル、あるいは本当の先生であられたように、家族もないからです。ブッダの時代には、人生を他人に捧げた人ばかりです。なぜ家族を持つか知らず、そしてグルの理想で義務を行うことは、そのように家族などを持つことより心を惹きつけました。その後、私たちはその種のグルを探せなくなり、家族がいるグルにしなければなりませんでした。
だから全部〇でなくても、半分だけ〇でもまだ善いです。つまり利己主義がなく、あるいは家族のことばかり考えず、給料のことは少しも考えず、そして人間同朋のことを考え、ダンマを考え、ほとんどは人間の最高の善を考えます。いつでも空になれる心があり、常にこのような状態で、最大限にグルにふさわしい心があります。
次に人間が知るべき、あるいは関心を持つべき、あるいは手に入れるべき、Summum Bonum と呼ぶ最高の善になりました。これがあるのは〇人間、あるいは利己主義のない人間だけです。つまり彼らは仕事に幸福を見出すことができます。その幸福は直接仕事から得るのでなく、お金からでもありません。お金の話はする必要がなく、最高に楽しい仕事だけについて話します。少なくとも半分は〇人間の心でする仕事だからです。
仕事の中にある幸福の話は非常に特別なもので、見えない人は、この義務を純潔清浄に実践することはできません。しかし見える人にとって、見える物に幸福を探すより、仕事に幸福を探せることが最高に素晴らしいです。だからこの種の人は最高に高いボロマタムに到達した人、仕事に幸福を見出せる人と見なします。
これからボロマタムから得る幸福について熟慮します。どうぞみなさん、道徳家、あるいは世界の哲学者は異口同音に、「何百年間のどの時代もこの世界の教育は発展し、人間は道徳面の重要な物であるいろんな物を見ることができた」と言います。これらの人は次々に考え、次々にテキストを書き著し、何十冊、何百冊か分かりません。
倫理、つまりEthicsについての本は、moralityと呼ぶ道徳の基礎です。Ethics、あるいは行動哲学では、人間の最高に善い物は四種類あると捉えます。つまりhappiness =本当の幸福、Perfection=人間であることに満ちていること、duty for duty s sake=義務の利益のための義務、good will=善意です。
第一項のhappiness=幸福と呼ぶ物は、ここでは述べたように煩悩の奴隷でない種類の幸福でなければなりません。煩悩の奴隷は焼け焦げるからです。こういうのはSummum Bonumの中にある幸福ではありません。熱いのは、形・声・臭い・味・接触、目・耳・鼻・舌・身体・心の幸福で、これは焼けて熱いです。貪り・怒り・迷い、その他で熱いです。本当の幸福はそのような幸福を意味しません。熱くありません。それは涼しく静かな種類の幸福です。
熱さが抑えられれば抑えられるだけ、静かになります。これは煩悩が薄れた分だけ、本当の幸福になるという意味です。煩悩が〇で、消滅すれば幸福はこの言葉の意味で完璧です。Happiness、あるいは道徳の哲学面でblissfulnessと呼ぶ物は、述べたような熱い幸福を意味しません。人間が現生で何としても得るべき最高に善い物と見なします。
本当の幸福は何から、あるいは何と一緒に生じるでしょうか。それは第三項である、「義務の利益のための義務の実行」から生じます。そしてそれは、perfectionという人間性の充実と同時です。今私たちは人として満点でしょうか。冗談を言うように簡単に、率直に質問します。今私たちは十分な人でしょうか。
「みなさんはまだ十分な人でない」と言う人がいれば、みなさんは怒り、時には罵るかも知れません。他人が私たちを「十分な人でない」と言うのは、最高に罵る言葉と見なすからです。しかし実際、みなさんは十分でしょうか。みなさんは十分な人でしょうか。もう十分、あるいはperfect でしょうか。
身贔屓でなく、誰の肩も持たず、満ちているか未だか、よく考えて見てください。心理学者で言う人がいるように、十五パーセント以上欠けています。時には十五パーセントでなく、私たちの人間であることは五十パーセント以上欠けています。十分に満たすには、〇人間であること、あるいは本当の人間の理想が満ちていなければなりません。
つまり煩悩が終わり、穏やかな幸福、本当の安楽、あるいは本当の人間の理想で満ち、煩悩が空でなければなりません。あるいは〇にしなければなりません。そうすれば反対の物が現れます。つまり煩悩がないことが現れれば完璧になります。これを人間であることのperfectionと言います。
仏教では、阿羅漢だけを完成した人間と見なします。彼らは阿羅漢の意味を、The man perfectedと訳し、重要性を強調するために、「完璧な」という言葉が後ろに来ます。満ち足りた人間は阿羅漢、あるいはsaint、あるいは最高の人間です。不還もまだ完璧でなく、一来もまだ完璧でなく、預流もまだ完璧でないと、慌てて挫けないでください。だから私たちもついでに完璧ではないとしましょう。
残念がらないでください。恥じる必要はありません。しかし完璧にするために最高に努力するべきです。一種類ずつ完璧にし、満たせる物は先に満たします。まだ知らないことはそれを知り、それを完璧にします。彼らがSummum Bonumと捉えるperfection に至るまで欠けている物を完璧にすれば、間もなく全部完璧にすることができます。
第二項の人間であることの充実、perfectionは、人間であることが完璧なら幸福があると、簡単に見ることができます。一項目のHappinessも満たし、満ちた人間は世界の問題を作りません。今の世界で混乱している人間は、どの党も、どの団体も、どの制度も、完璧でない人間ばかりです。満足でない人間はこのように厄介なことをするので、人間であることの本当の完璧さは、人間の最高の善とします。
第三項はduty for the duty's sakeで、義務の利益のための義務という意味です。私たちは今、何のために義務(職務)を行っているでしょうか。お金の為、名誉の為でしょうね? 家族を扶養するために支出するお金、目・耳・鼻・舌・体・心の面の楽しさのため。これはお金のための義務、あるいは名声のための義務です。自分は死んでも犠牲にできますが、名声の為と言います。こういうのは、Summum Bonumであるdutyと言いません。
それは煩悩がある人、執着がある人のdutyで、Summum Bonumの目的である本当のdutyは、いつでもduty for the duty's sake、その義務にとっての利益のための義務です。私たちに利己主義がないという意味で、利己主義である自分はありません。次に一種の知性が生じて純粋な知性になり、純潔な心、純潔な身体は、自分自身の義務を行うので純潔になります。これが義務の利益のための義務です。
あるいは少し小出しにして、人物を基準に話せば、神様の望みに従った神様のための義務と言います。このようにもできます。神様は自分でなく、身勝手でなく、善・美・正義・公正。それが本当の神様だからです。人間である神様は怒りを知り、愛すことを知り、人を嫌うこともでき、意地悪もできます。それは神様でなく野生動物の一種のようです。神様ではありません。
神様という言葉は、善・美・真・正義・公正という意味がなければなりません。あるいはSummum Bonumと呼ぶのは、神様の利益のために義務をするという意味です。つまり義務の最高の善にとっての利益のための義務をします。
誰でも義務の利益のために義務を行えばperfectで、完璧です。あるいはその義務の中に幸福があります。これが仕事の中にある幸福で、お金に関わりません。次に、それで口と腹はいっぱいにならないので、まだ空腹の問題があると質問する人がいるかも知れません。それは大きな問題でなく、小さな問題です。誰でも義務の利益のために義務を行えば、崇拝する人がいるので、食べるのに足りない口があるからです。
つまりブッダやすべての阿羅漢方は何も仕事をしませんが、食べきれないほどの物があるように、お供え物がたくさんあり、食べる口が足りないほどです。次に本当に義務の利益のために善美を行う人は、この世界にも尊敬する人がいて、喜んで賞賛して支援するので、食べるに十分でない口があり、食べきれません(口が足りないほど食べ物があります)。だから考える必要はありません。
みなさんが給料を受け取って義務をしなければならなくても、給料は供え物と見なします。線香と蝋燭のようなゴミすぎませんが、人々は名誉の印にするために火を点けます。だからみなさんの給料は名誉、あるいは崇拝の印になります。だからみなさんは、勉強を教える勤め人ではありません。勤め人でなく、そして雇われて勉強、あるいは道徳を教える人ではありません。みなさんは義務の利益のために義務を行うので、給料は、尊敬するべき人物になった人を崇拝する供え物として供える花、線香、蝋燭のようなゴミです。これがSummum Bonumであるdutyの意味です。
第四項はgood willと言い、悪い望みであるill willの反対です。good will=善意は、他人に対して先に善意を持てば、他人も自分に善意を持つので、世界中善意になるなど、簡単な意味です。今私たちは、世界中、互いにgood willがないので、私たちは世界全体に対して善意がありません。
私たちは少なくとも二つに分け、熱い戦争、冷たい戦争で、殺し合いに熱中します。いくら知識があっても、殺し合うために集結し、罵り合う声で雰囲気が覆われるまで罵り合います。特にラジオを聴いて見てください。二十四時間、あるのは罵る声だけで、善意は世界のどこから来るでしょうか。
この世界に、お互いへの善意はありません。だからこの世界は恒久的な危機を受け取るばかりです。世界の雰囲気に善意がなく、あるのは悪意だけなのはいい気味です。だから助け合って解決しなければならない問題です。ここではgood willはSummum Bonumであり、世界の人間の本当の望みの頂点とし、世界にgood willが覆う雰囲気があるよう、しっかり目指します。仏教では慈悲やそのような物と言い、呼び方次第で世界のお守りでも良いです。彼らはgood willと呼び、世界中が理解している言葉です。
次に私たちに本当に慈悲があるには、〇人間でなければならないだけです。〇である人間、あるいは半分〇でも、何とか〇人間であれば、その義務は純潔清浄で、dutyの利益のためのdutyです。これも同じで、利己主義がなければ、good willも完璧です。
今の世界の人は非常に夢見て、「身勝手がない、身勝手がない」と寝言を言います。今戦っている人たちも利己主義がないことを望み、相手が利己的であってほしくないために、利己主義がないことを要求しますが、自分は目いっぱい利己的です。こういうのはできません。いろんな物がいっぱい詰まっている人間は、good willがある〇番の人間になれません。だからブッダは私たちに、俺、俺の物という執着を段階的に軽くするよう教えました。そうすれば他人を慈しむことができます。ブッダは〇である種類の慈しみの感覚で生きていました。
ブッダは住む物であるブラフマヴィハーラ(梵精舎。四梵住)があると、ブッダを攻撃しないでください。それはブッダであることからブッダを降ろして、ブラフマだけにすることです、ブラフマヴィハーラである慈悲に住んでいるからです。ブッダは「私はスンニャターヴィハーラ(空精舎)に住んでいる」と主張なさいました。三蔵を読めば、「如行はスンニャターヴィハーラに住んでいる。サーリープッタ、あるいは誰でもスンニャターヴィハーラに住んでいる。つまり空の心、身勝手がゼロの心で、自分がなく、俺がなく、俺の物がない」とあります。
それです、本当の慈悲は。ブラフマヴィハーラのような慈しみは、まだ身勝手で人を愛し、愛す人である自分、愛される人である自分がいます。ブラフマヴィハーラでも良いです。正しいですが、まだSummum Bonum の意味で完璧なgood willであるほど最高の慈しみではありません。
最高の慈しみは自分がなくなった人、あるいは身勝手がなくなった人間の物でなければなりません。次に知性は自然に他人を愛します。それは自然の義務だからです。だからメッターも、カルナーも、ムディターも、ウペッカー(慈・悲・喜・捨)も、簡単に、十分にあります。しかしそれはスンニャターヴィハーラ(空精舎)の威力によってあり、ブラフマヴィハーラ(梵精舎)ではありません。
ブラフマヴィハーラにいると言うのは、まだ自分があるメッター・カルナー・ムディター・ウペッカー(慈・悲・喜・捨)で、時には非常に心が苦労し、苦になるまで他人を憐れみます。あるいは他人がカンマのままにならなければならない時、ウペッカー(捨、平然としていること)でいられず、助けられない時寂しく感じます。ブラフマヴィハーラ(四梵住)の段階でも、このように厄介な問題があります。だからスンニャターヴィハーラはできません。つまり「俺、俺の物が空」で暮らす〇人間にはなれません。これが、最高のgood willです。
だから私は、「ブッダは大海というくらい、大空と言うくらいの大慈悲がある。あるいは何と言うか限界がなく、何でも際限ない物がブッダの慈悲を譬える言葉」と述べます。
だから私たちは、人間の最高の善は四つあると見ることができます。本当の幸福・人間性の充溢・義務の利益のための義務・完璧で豊かなは本当の善意です。次に先生であるみなさんはどうするか、精神面のガイドを目指すのは、彼らをSummum Bonumへ導くためです。そして自分たちにSummum Bonumの四種類がなくてはできません。これを考えて見てください。
だから私たちが誰よりも先にこの四つの物に関心を持って、人間の本当の幸福はどのようか、人間性の充溢とはどのようか、そして純粋な義務の利益のための義務はどのようか、本当のgood willはどのようかを知らなければなりません。
世界のミッション団体のgood will(善意)は、お金で他人を買って仲間にします。good willと迷わないでください。彼らは幾つものグループや会を設立し、いろんな物を餌にして騙します。それは人を買って自分の仲間にするためで、good willではありません。しかし彼らはgood willと言います。
サンタワマイトリー会でも何でも、彼らはgood willと言いますが、それはここでのgood willではありません。それは党派にする意図で、助け合って他の部類を掃滅します。これをgood willと呼ぶことはできません。私たちを訪ねてきてもgood willのためでなく、私たちを連れて行っても、good willのためではありません。
私たちは本当のgood willを知らなければなりません。そして先生の義務を行うことの簡単さ、世界中のあどけない子供たちに上げる愛があること以外に何もありません。家に一人か二人の子がいて、その子を愛すのはgood willではありません。世界、あるいは全世界、あるいは宇宙に人間は一人だけしかいないという気持ちがなければなりません。
つまり人間、あるいはすべての命は、何であろうと一つの命しかありません。なぜでしょうか。それはどの命も全部同じだからです。無明で暗く、欲望に焼き滅ぼされ、同じ問題があり、同じ頭と胸があり、同じ苦があり、何でも同じにあり、同じ苦の所有者なので同じ人と見なします。このようなので、good willを基盤にして人間を愛し、同じ一人の人のようにすべての隣人を愛します。
世界の人全員と関われなくても、私たちは関り合いに限界があり、仕事である義務に限外があります。だから何人の子供が私たちの責任の中にいても、私たちはgood willという言葉の意味で自分の義務を純潔清浄に行います。そうすれば義務の利益のための義務になり、そしてグルであることの充溢によじ登ります。そしてお金の為でない仕事から生じた本当の幸福によじ登ります。
お金のための仕事、仕事のためのお金が幸福にすると言うのは、ちょっと注意してください。間違った意味を掴めば危険になるので、正しい意味を掴まなければなりません。「仕事は幸福。お金に目をやる必要はない」というのは、仕事の中にも幸福があり、職務自体が幸福です。そしてグルであること、あるいは人間性を充溢させ、そしてそれは、いつでも自然にgood willです。
私が、今日はボロマタムの話についてお喋りをしますと述べた「ボロマタム」と呼ぶものは、最高に素晴らしい、最高の話と見なします。そしてそれは、人々をボロマタムに導かなければならない義務があるグル(先生)の職務に関わりがあります。自分自身も四つのボロマタムの系統で正しくあり、ボロマタムの四項で歩いて行かなければなりません。
それは共通のもので、学者、世界の本当の哲学者の集団の至る所で好まれ、賞賛されています。つまりすべての道徳家、あるいは考察する義務しかなく、まだ何も実践していない道徳哲学者も、誰もがこのような見方をし、このように認め、このように一致した規定をします。
もしかしたら「〇人間、あるいは自分がない人はどのようですか。理想で何を買って食べられますか」と質問する人がいるかも知れません。これは物質主義で真っ暗な人が、常に思わなければならない問題です。私たちにはこのような問題はありません。私たちは、セロ人間は自分自身の中にボロマタムがあると、明らかに理解しているからです。それです。すべてを〇にすることがすべての終わりです。
煩悩、欲望、利己主義、敵である物が〇になるからです。俺が消え、俺の物が消え、何もかも終わります。つまり涅槃であり、人間性に満ち、素晴らしい仕事である義務のための義務をし、そして最高のメッター(慈しみ)であるgood willになり、四方向から周辺全部になり、全部を得ます。だから何も無いことはすべてを得ることと言います。
無一文になる話は、ある人がブッダに拝謁して、反論するように、あるいは挑戦するように、「彼らは、ゴータマサマナは無一文の人ですねと言いました」と申し上しました。ブッダは「そうですよ。私如行は一文無しです」と答えました。そして次のように説明して聞かせました。「自分がなく、自分である物がなく、自分の物がなく、俺である物がなく、俺の物がなく、取で執着する物は何もありません。自分がないのは無一文です」。
ブッダはこのように認め、同時に涅槃に到達するには煩悩かない丸裸であることで、肉体、あるいは全身も煩悩の話なので、無くしてしまう方が良いと指摘して見せました。全身を無くしてしまうには、俺、俺の物を、毎日毎晩終わらせることです。こう言う方が良いです。それはジャータカの話の中のサルに罵られません。三蔵の中にジャータカの話があり、人間がサルに罵られるのは、昼も夜も「俺、俺の物」しかないからです。
この話はほんの短い話で、ボーディサッタ(菩薩)である猿が捕まって城の中で飼われ、彼が望んだ時解放されて森に帰りました。つまり一時的に飼われただけでした。人間の国から戻ると、子分のサルたちが「人間の国で何か楽しいことがあったら話して聞かせてくれ。感動するような、不思議な話を話して聞かせてくれ」と言いました。サルのボーディサッタは「ヒランニャン メー スヴァンニャン メー エーサー ラッティン ヒヴァー カター」と答えました。
「昼も夜も聞こえるのは、俺の銀、俺の金、俺の子、俺の妻という言葉ばかりで、何もかも俺の物ばかり」という意味です。すべてのサルは一斉に走って川へ降りて行って耳を洗い、「初めて汚い声を聞いた」と言いました。ね、サルが罵る、あるいはサルが耳を洗って当てつけをすると言います。
私たちはサルに罵られる、あるいはサルに耳を洗われるべきではありません。今は俺がない人になり、Summum Bonumの四項を全部得たからです。つまり本当の幸福、人間であることの充溢、義務の利益のための純潔な義務の遂行、そして善意である人間の愛、人間のメッターがあります。
私は、ボロマタムの話について十分に話したということです。みなさん、何をどれくらい選ぶか、自由に、自分の好きなように考えるようお願いします。知性が十分あれば自分で見え、自分で志願し、そして全部を得、何も歪ませず、何も回避しないことを期待して強制しません。そしてそれは想像以上に報いを受け取ります。
つまり最高の楽しさ、毎日する仕事に涅槃があります。あどけない子供たちに対して義務を行っている時、いつでもダンマの、涅槃の味を飲むように、心の中の清涼さである利益を受け取ります。これが私たちが関心を持って解決し、私がボロマタムと呼ぶ物に関わる話のいろんなことを良く片付ける結果です。
時間になりましたので、これで、今日の講義を終わらせていただきます。私は、ボロマタムの話についてお喋りをしたと見なします。
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