トップに大臣がいる、グル(先生)と名乗るみ なさん。
私はこの講義を、自らをグル(先生)と呼ぶ種類の人だけのために話します。だからこの講義が、グルと名乗る人以外の世界の人にとって完璧な結果がなかったら、ご赦しください。
初日の講義として、後の講義を理解するために先ず話さなければならない導入部だけを話すにふさわしい、あるいは話す必要があると見ます。だから今日述べるのは、ほとんどは、関心があるみなさんのための導入のようなものです。特に子供に教える道徳の系統の訓練を受けた方は、理解すべきすべての角度から、前もって概要を理解できます。
いろんな言葉は意味が違うことも理解できるので、先生という言葉が仏教の理想になると見えるよう、いろんな見解を発表する機会を頂戴します。あるいはお許しください。グルという言葉も、仏教の理想で述べれば、普通に理解しているのと多少意味が違うと見ます。だから関心を持って熟慮するようお願いする最初の項目は、グルという言葉の意味です。
規則に依存する類のサンスクリット語辞典でグルという言葉を見ると、spiritual guideという訳語に出合い、先生、あるいはそのような言葉はありません。ね、グルという言葉の意味は何かを表す一つの出発点です。「最高のグル」という意味である「教祖」という言葉に注目すれば、見れば見るほど、グルという言葉は精神面のガイドという意味に見えます。私たちの最高の教祖である世尊は、本当に精神の案内人だからです。つまり心の面、あるいは精神面の本当のガイドです。
精神面のガイドという訳語を書いた人たちは仏教教団員でなく普通の人ですが、インドの至る所にあるような、そして特に昔の意味を捉えれば、彼らにそのような意味を捉えさせます。どのように問答しても、teacherという言葉、あるいは何か浅いものでなく、常に精神面のガイドという意味になります。だからみなさん全員がグルという言葉の意味を、精神面、あるいは心の面の案内人と捉えてください。そうすればこの言葉の本来の意味で正しく、そして仏教の理想になります。
私たちがグルという言葉の意味を理想の形にするだけで、先生をプーチャニーヤブッガラ(尊敬すべき人物)にする助けになり、雇われた人から脱します。私はみなさんに、「尊敬するべき人」と「雇われた人」という言葉に関心を持っていただくようお願いしたいと思います。現代は「公務員は雇われ人」と、好く話す人がいますが、spiritual guideという言葉に関心を持ち、ブッダなどのように尊敬すべき人物とするようお願いしたいと思います。先生の本当の精神は、雇われた人の意味はあり得ません。昔から現代まで、未だありません。
先生の中には、自分を雇われた人にする方がいますが、特別と見なさなければなりません。基本、原則にはできません。公務員は国民の使用人という公務員規定の言葉も、本当の先生の精神がある先生に使うべきではありません。先生が雇われ人に落ちてしまったら、非常に厄介な問題が生じるからです。尊敬するべき人物は、自分の義務の遂行に、いつでも自由な理想がなければなりません。雇われ人と見なすなら、本当は雇われ人ではない別の意味にすべきです。
例えば出家は他人に教える義務があり、そして生きるためだけに四依を受け取りますが、受け取る四依を賃金と呼ぶ人がいるでしょうか。多分いません。だから先生も同じ理想を持ってください。そして自分を雇われ人と思わず、自分は人間同朋のことを考え、力の限り義務を行う人物と思ってください。生きている限り利益を受け取ることができ、自分で農作業をしなくても生きていけるだけです。
こういうのは尊敬するべき人物で、途端にspiritual guide の弟子の仲間入りができます。誰が雇われ人と見積もっても、雇われ人から脱します。みなさんがこのような理想を持つことは、先生が奉仕をし、簡単に自分の状況を喜ぶ助けになり、「先生は渡し舟にすぎない」と、先生の立場を侮辱しません。渡し舟とは、他の知識を学ぶ機会があれば試験を受け、通れば教師でない他の職位を維持し、あるいは他の職業になるだめの先生です。
これが、先生は尊敬するべき人物という言葉を誤解する結果です。だから軽蔑し、踏みにじることを生じさせ、自分を本当に成功した先生にすれば、一時の渡し舟である職業になります。先生は心の面の、あるいは精神面の導き手という理想を常に持ってください。そして広く見れば、どの知識も精神面の状態を高める物ばかりと言うのと一致します。これについては後日述べます
数学や絵画でも、本当にすれば心の面の賢さを生じさせ、自然のままにするより良い水準の常自覚が生じます。こういうのを、精神面の状況を上げると言います。だからすべての物を精神面の高い状態にすることを目指します。本当の精神面の状況を高めることが、直接心の面の教育訓練をしても、心や精神が低い自然である煩悩に覆われることより上にある人にします。それは身勝手に集約でき、仏教のすべて煩悩に集約できます。
先生の頭の天辺から足の爪先まで、そして毎時毎秒、すべての動きが、小さな子供から世界の人までの精神面の状況を上げる状態になるよう、伏してお願いしたいと思います。このような目的があれば、自然に、自動的にそのような行動が生じ、何の知識を教えても、普通の話を教えるだけでなく、小さな子供から順に高くなる子供の精神面の状況を高めることに明るさが生じます。
これをグル(先生)という言葉の意味と言います。導入として、先生はボロマグル、つまり私たちの教祖に入る系統で見ていただきたいです。
次に教育という言葉になりました。先生という言葉が精神面の状況を上げる人を意味する時、教育という言葉も精神面の状況を上げることを意味します。これはタイ語、あるいはサンスクリット語のスックサー(教育)に相当する、パーリ語のシッカーという言葉に注目してください。基本であるパーリ語にはトライシッカーという言葉があり、三種類の学習、あるいは教育です。三学である戒・サマーディ・智慧は、精神面の状況を本当に高くします。
戒もサマーディも智慧のどれも、精神面の状況を高め、話して暗唱させるだけ、あるいは問題に答えさせるだけでなく、心や精神面に本当の高さを生じさせる種類の実践でなければなりません。だからシッカーという言葉は実践行動を意味します。学習だけでなく、精神、あるいは心を本当に高くする種類の実践行動をすることです。
次に私たちは、どのように一般の学習に使えるでしょうか。多分難しい話ではありません。話は、記憶して試験が通れば止めるための知識だけの教育をしないで、教育と呼ぶ物を実践にし、行動し、あるいは訓練して行動し、心、あるいは精神面の高さを生じさせる種類の品行があるようにしなければなりません。このようならタイ語の教育という言葉は、ブッダの時代の、特に仏教の世界のスックサー、あるいはシッカーという言葉と同じです。
そのようなら私たちの教育という言葉は、まだ純潔清浄完璧さがある言葉で、デコボコではありません。つまり話して聞かせ、記憶し、そして問題に答えさせるだけでなく、本当の結果があるようにします。つまり教育を受ける人の心や精神を本当に高くします。これが教育という言葉です。先生という言葉と、教育という言葉にこのような理想があれば、その後簡単に仏教の教えを理解することができます。だから早く仏教の教えを理解するために、この形の考え方をして見てくださるよう懇願させていただきます。
もう一つ理解を調整しなければならないのは、ダンマという言葉です。私たちはダンマと呼ぶ物を教え、訓練し、あるいはダンマを知り、ダンマの実践をし、そしてダンマの結果を受け取りたいと望み、ダンマ以外に何もないからです。ここでチャリヤダンマと呼ぶものも、ここで研修をすることを目指すのも、ダンマという言葉に含まれます。しかし私たち仏教教団員は広い利益のためにこの言葉の十分な意味を理解すべきと、この機会に述べさせていただきます。
パーリ語のダンマという言葉は、最高に奇妙な言葉と見なします。すべての物を意味します。あいはthingだけで、例外なくすべての物を意味します。最高に普通の言い方で述べれば、最高に価値のない物、例えば埃の一粒からすべての物質の要素、実に心の話である涅槃まで、すべてダンマという一語に含まれます。今、明らかな教育の利益のために、もっと詳細に注目して見るべきです。
「ダンマ」という言葉がすべての物を狙うというのは、幾つかに分類できます。最初の対はルーパダンマとナーマダンマで、ルーパダンマ(物質)は心が感じることができる外部のいろんな物で、ナーマダンマ(抽象物)は、いろんな物を感じる心です。だから二つの側が生じます。ルーパダンマはobjectiveの側で、ナーマダンマはsubjectiveの側ですが、それぞれの側に、何種類と述べることができないほどたくさんあります。どちらの側も、二つの側で影響し合う部分である「ダンマ」と言います。
つまり心が外部のいろんな物を感じる状態もダンマと言い、触れて感覚になる症状、状態、触れること自体もダンマと言います。触れること自体もダンマと言い、心と外部のいろんな物が触れた後、当然結果が生じ、どんな結果になっても、全部ダンマと言います。心の面のmechanism、例えば怒りが生じ、何かを嫌うことが生じる、こういうのをmental mechanismと言い、これもダンマと言います。知性になる結果があってもダンマと言い、私たちに毎日生じる知性、あるいはいろんなexperienceと呼ぶ物もダンマと呼び、そして時間の経過と共に知性である形の結果が増えます。
ダンマとして生じた知性は、すべての苦に勝利する種類の実践行動を生じさせる結果があるので、宗教面と伝統面に、あれこれいろんな実践規定が生じます。これらもダンマと呼び、最後に生じる結果は聖向聖果、あるいは涅槃です。これら全部もダンマと呼びます。だからみなさんは、「ダンマでない物は何もない。パーリ語では、ダンマでない物は何もない」と見ることができます。
「ダンマを知るとは何を知ることか」は、知るべきすべての物を知ります。しかしすべての物を知ることができる、あるいは知らなければならないという意味ではありません。必要なだけ、あるいは知るべきことだけを知ります。指摘して見せるのは、すべての物をダンマと言うことだけです。パーリ語のこの言葉は、そのようだからです。だから物質も、心も、二つの側の触れ合いも、善悪の結果、あるいは善でも悪でもない結果が生じることも、聖向聖果涅槃も、全部ダンマと呼ぶと言うことができます。
これは「クサラー ダンマー アクサラー ダンマー アビャーカター ダンマー」というアビダンマの読経を思わせるかも知れません。すべての善の側の物も、すべての悪の側の物も、そしてまだ、善とか悪とか述べることができないすべての物も、という意味で、この三つだけですべての物を狙うことができます。これ以上はありません。これがダンマという言葉です。だから先生の立場で「ダンマとは何か」と質問されたら、仏教の教えで答えるのを忘れないでください。今私たちは仏教の教えについて話しているからです。
ダンマは、本当の綴りでは、維持している物という意味なので、二つの部類が生じます。一つは変化する物、もう一つは変化しない物です。変化する物は、変化の中で維持することができ、あるいは変化があることがそれです。だから変化する種類のダンマと呼ぶ物は、行(サンカーラ)の物、あるいは有為の物です。次にもう一種類の変化がない物は反対で、変化がないことがそれ自身で、変化しないことで維持できます。だから終わり、これ以上に何もありません。これがダンマという言葉の意味です。
「物質、あるいはすべての物質はダンマ」と、順に復習させていただきます。心もダンマ、触れることとも、生じるすべての感覚もダンマです。そして私たちが求めるチャリヤダンマ(道徳)である物はどの部分のダンマでしょうか。だから私たちの日常もspiritual experienceとして生じる知性に注目し、私たちはどのように考えなければならないか、しなければならないか、あるいはどのように話せば苦が生じないか、知識を生じさせなければなりません。それは、ほとんどそれ自体が教えます。
例えば火を掴めば熱く、それは二度と掴まないよう教えます。心の面の苦の話も同じです。この世界に教祖が生まれたのは、この話を観察して見る人、この話を探求する人、あるいは手探りする人だからです。「ブッダの先生は探求という名前」と私が述べていると、雑に捉えないでください。ブッダは終始、ご自身で探求する努力をし、その結果、発見したいと望んだ物を発見しました。私たちはブッダの弟子なので、そのようであるべきです。
ブッダは他人が話すことを、すぐに鵜呑みに信じてはいけないと命じておかれたからです。如行自身が話したことでも、すぐには信じる必要はない。自分の知性でさぐって見て、話したことは本当と見えたら、つまり「このように、そのようにすればこのような結果が生じる」と話したことは本当と見えたら、それから信じなさい。
例えば「貪り・怒り・迷いを捨ててしまえば、このように静かで幸福に暮らせると教えるには、自分で見えるまで見なければなりません。それから貪り・怒り・迷いを捨てる実践をします。私たちが関わらなければならない必要があるダンマは、滅苦に使う部類のダンマだけとハッキリ見ることができます。滅苦に関わらない物は、学ぶ必要はありません。急ぎの用事、あるいは急ぎの問題は、滅苦にあるからです。
だからある日、ブッダが遠い森の中で旅している時、一掴みの木の葉を摘まんで高く掲げて、比丘たちに「一掴みの木の葉と、森全体の木の葉と、どちらが多いですか」と質問なさると、誰もが当然、一掴みの木の葉は、森全体の木の葉と比較すれば少ないと見えるので、全員がそのように答えしました。次にブッダは、「私がみなさんに教えるのは、一掴みの木の葉と同じだけのダンマ、つまり苦の話、苦を生じ焦る原因の話、苦がない状態の話、そしてその状態に至る実践法です」と、主張なさいました。
大悟したすべてのダンマと比較すると、選んで教えるのは一掴みの木の葉と同じ。これは、サッパンユー(全智)である知識は森全体の木の葉と同じで、教えるべき弟子に教えるのは、一掴みの木の葉と同じです。道徳と呼ぶ物は一掴みの木の葉、あるいは一掴みのダンマに含まれなければなりません。つまり滅苦ができる実践行動の部分です。
私たちは恐れる必要はありません。ブッダが望まれた十分なダンマを知ることに後退する必要もありません。それは一掴みの木の葉と同じだけだからです。一掴みだけの話に対応できなければ、能力がないという意味です。そしてこの話が理解できなければ、私たちは知性のない人、あるいは愚かな人と白状しなければなりません。
だから関わらなければならない部分のダンマと呼ぶ物に興味を持ってください。これは、すべての物という意味でなく、知らなければならない、理解しなければならない、実践して結果を出さなければならないすべての物です。これが、私たちが興味を持たなければならない道徳と呼ぶものの範囲です。
今私たちは、ダンマという言葉の代わりに宗教という言葉を使います。これは、ブッダの時代は宗教という言葉がなく、言い回しもなく、普通に話す言葉でなかったので、現代にできた言葉と知っておいてください。ブッダの時代にはダンマという言葉だけを使っていました。
つまりゴータマサマナのダンマ、グル・ニガンダナープッタのダンマ、グル・サンジャヤヴェラッタプッタのダンマ、これらは今私たちが話すように、サマナゴータマの宗教、ニグロンダの宗教と言うのと同じです。今私たちが宗教という言葉で話すのと、ブッダの時代に彼らがダンマと話した言葉と同じです。だから宗教という言葉とダンマという言葉は、今の同じ物です。
ダンマ、あるいは現代の宗教という言葉は、少なくない、たくさんの問題を生じさせる物です。二千年もの時代が経過したので、二千年の間に何が生じたか、先生方も良くご存じです。この二千年の間にたくさんあります。関心を持つようお願いしたいのは、そして正しく使うために必要なのは、宗教、あるいはダンマと呼ぶ物は、少なくとも六つの形があると知っておくべきです。しかし六種類のうち、何としても有益に使うために関心を持たなければならないのは、一つしかありません。
後の講義のために、この機会に述べさせていただきます。だから基礎として理解しなければならない六種類の仏教について述べます。そして続いてダンマ、あるいは宗教と呼ぶ物だけでなく、すべての種類の文化と呼ぶ物も、文学も芸術も、あるいは建築も、すべて変化する六つの形の状態の中にあると理解するべきです。だから一般原則にできます。
仏教には六つの形があるというのは、最初の形はoriginで、ブッダがあちこちへ遊行して話された時、ブッダご自身が話され、教えられたダンマ、あるいは宗教です。これをオリジンと言います。オリジンは二千年の時が過ぎ、私たちがidentify(識別)するのは非常に難しいです。例えばどの仏像が一番ブッダの顔に似ているか明示するのは、選ぶ方法がありません。たくさんの仏像は顔がみな違うからです。同じように、三蔵の中のどの言葉、どの文章がoriginか、私たちは確認できません。だから多少知性を使わなければなりませんが、originは本当にあると見なさなければなりません。
教え、あるいはその後の形の宗教は発展し、それは物質である物、あるいは心でも、時間が経過すると当然発展、あるいは環境の威力による進化があると見なさなければなりません。これは誰かが意図してそうしたのでなく、自然にそうなったという意味です。例えば記憶伝承の誤り、あるいは写筆の間違い、解釈の間違いなどです。このような時間が経過したことは、ダンマ、あるいはブッダの宗教の状態も、誰も意図する人がいなくても環境によって変化があり、これも一部です。だからもう一つの形の仏教の教え、あるいはダンマになり、それ自体で多少変化しました。
その後三番目の形、つまりdevelopmentは人間、あるいは人間の手で触れることができるという意味になります。つまり解決改善してもう一部分、新しい物を生じさせました。だからパーリがあり、アッタカターがあり、珍しい意見があり、仏歴五百年から六百年頃完璧なアビダンマになりました。あるいは時代にふさわしく改変された教えがあり、Developed Buddhismになりました。これが一つの形です。
もっと悪いのは、transitionと呼ぶ状態で、元の形から急激に変化します。時代の変化、場所の変化が、変化した仏教を生じさせるからです。あるいは元の形から変化して仏教がある国に入る、あるいは一つの時代経過することで宗教間に争いが起こるなど、元の形のままで使うことに耐えられなくなるので、新しい教典を書かなければなりません。あるいは新しい宗派を創らなければなりません。見れば仏教の、あるいはダンマの全部でなくても、何らかの様式を捨てたと見えます。この形は、非常に危険に見えます。
それ以上に、時間が経過すると、あるいは変転が多くなって仏教の仕事が何らかの権力に落ちると、Influenced Buddhism、つまり何らかの権力に支配された仏教が生まれます。例えば都を支配する人の権力下に落ちた教育制度などは、royal priestか何かの種類の僧が生まれ、それは国王、あるいは誰でもいつでも任命でき、いつでも解任でき、その権力者の好きにできます。この種のInfluence Buddhismは更に危険です。現代になると、比丘を超える影響力があり、教えているダンマに変化を生じさせます。この種の仏教に注意してください。
最後は、どの仏教のapplicationが日常生活に本当に使えるApplied Buddhismになるか、そして道徳に関して本来の清浄か、現代の私たちが応用する、あるいは私たちに適応する仏教を順に探さなければなりません。すべては、かつて関心を持ったことがない人にとって難しい問題で、私たちはoriginまで一瞬飛ばなければなりませんが、それはできません。順に浚って行けば、出遭うのはevolution, development, transition, あるいはinfuenceか何かそのようなものだけです。
だから、今どうすればApplied Buddhismになるでしょうか。仏教、あるいは仏教のダンマは、少なくとも当然述べた六つの形、あるいは六種類の中にあるので、何としても正しく選ぶことに関心を持たなければなりません。ブッダが仲間に与える一掴みと言われ、たくさんの部分を森全体の木の葉と同じと言われたのは、すべて、あるいはおまけの六種類、あるいは六種類以上です。私たちは一掴みと言われた部分に関心を持たなければなりません。これは後日詳細に、明らかに述べます。今日は導入だけ述べるからです。
私たちの日常生活に本当に使える仏教は、現代人にとって沢山問題があります。現代の人間は、知りすぎて苦が多く、小うるさい儀式が多すぎ、あのようにこのようにするからです。新しく発明した知識も、すべてどうなるか分からない範囲にあります。私たちは際限なく精通する知性の威力を放置するので、問題は更に多く、重くなります。たくさん知っても世界を静かに、あるいは平和にできない種類で、知識が頭から溢れても、永遠に危機を脱せない話です。
だから私たちはどの形にするかしっかり規定するべきです。仏教、あるいは私たちにとって本当に有益に使う部分のダンマも、いろんな角度があります。私は幾つもの角度という言葉を使います。あるいは少なくとも六つの角度です。五、あるいは六という数は固定ではなく、見本として述べる、あるいは例えるだけです。
ダンマ、あるいは宗教としての宗教も一つの角度で、宗教であるダンマは、明らかに規定してある実践規則に則った体と言葉と心の悪を滅すための行動です。これを宗教、あるいはreligionであるダンマと言います。religionという言葉は、今至る所で論争しているように、どうすれば良いか分からなほど押し問答して曖昧な意味にしないでください。religionという言葉の意味は「心の面、精神面の苦を廃除する物」という意味で捉えてください。それだけで十分です。
私たちはタイ語の宗教という言葉を「教えの言葉」という意味だけに使いますが、それでは足りません。教えの言葉だけでなく、実践と実践の結果が含まれなければならないからです。religionという言葉を使うなら、それは「結び付ける」、あるいはそのような語根があるので、心や精神を神様、あるいは苦がない状態と結びつけるなど、正しい意味を捉えなければなりません。そうすれば使い物になります。
religionという言葉の意味を宗教という言葉に使うのは、仏教でもでき、精神と苦のない状態、あるいは完璧な滅苦の状態を結び付ける実践法を意味します。あるいはこの言葉は、神様に至るために実践法という意味があると捉えることも、苦のない状態、あるいは滅苦に至る実践規則があるという点でできます。神様という言葉の意味を苦のない状態という意味にすれば、どの言葉でも、どの宗教でも一致します。タイ語の宗教という言葉を基準にすれば、このような意味があります。そしてこれが、宗教であるダンマの一つの角度です。
次の角度は、好んで話され、そして西洋人が非常に関心を持つ哲学としてのダンマです。この角度は、再現のない知性に導く角度です。哲学とか何とか呼ぶ物は、泥に埋めた柱のように不安定だと、利益があっても確かでないと、先生方は良くご存知です。それでも宗教の角度よりたくさんの人が関心を持っています。それは楽しく、非常に楽しく、智慧の餌であり、智慧のある人の餌だからです。だから人は本当の宗教の角度よりも多く、哲学の角度のダンマに関心があります。
次の角度は科学の角度で、科学者の頭、あるいは気質がある人たちは科学の角度でダンマを見ることができます。そして本当にそのように見える方法があります。道理に基礎がある規則で述べてある仏教のダンマは、非常に検証に耐え、experimentと呼ぶのもがあるよう要求することもできます。しかし、このダンマは科学的な意味があると見せる規則がある、心の面でなければなりません。それもたくさんあります。
科学という言葉の意味を分けると、心理学、論理学、数学などは、仏教のいろんな種類の教えに分類することができます。このように何種類もの科学の角度だけでも、仏教には溢れるほどあり、学者の中には、酒に酔うように論理の角度、心理学の角度、あるいは数学の角度でも、知性を使って仏教を捕えることに酩酊する人がいます。それは直接滅苦でなく、智慧の話です。
もっと遠い角度は芸術の角度です。このダンマは、芸術の心がある人はダンマを芸術と見ることができます。そして非常に恍惚とします。人の心を美しくない状態から美しい状態に変える最高に不思議なダンマを理解、あるいは実践することは、最高に心を捕えます。仏教の教えで生きれば、当然本当の芸術のような生活があると述べることができます。
つまり苦、死、あるいは何でも嘲笑し、挑戦できる種類の生き方の芸術です。芸術という言葉は広い意味があるので、仏教は芸術を暗示する部分があり、芸術として関心を持つこともできます。だからBuddhist Art of Lifeという言葉があり、私たちより西洋人が関心を持つ物です。
彼らがタイの教えの言葉に関心がないのは、私たちにこの種の生き方の芸術を、彼らに見せる頭がないからのように見えます。日本の禅の人たちの方が良くできます。だからこの角度の仏教は、非常に心を惹く角度で、西洋人に関心を持たせ、早く仏教の本物を理解させないこともあります。
次の角度は文学の角度です。このダンマは文字の形で述べ、あるいは音声、あるいは意味でも、文学の状態である美があります。三蔵をダンマとすれば、誰も詳細に解釈できない難しい文学です。つまり非常に心を惹く文学です。残念なのは、私たちがあまりパーリ語を知らず、三蔵から文学の味を味わうほど言語を知らないことです。しかし私は、タイ語のように良くパーリ語を知り、パーリ語の三蔵を読めれば、誰でも三蔵の文学に酔うと主張します。
散文があり、詩があり、そして考えの表現の深遠さがあり、文学の状態の美である意味があります。ダンマ自体もその様な美しさがあり、ブッダが「初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しい」と話されたほどの美しさがあります。そして梵行を教え諭し、あるいはこの宗教を、初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しく公開されました。このように学生は文学としての三蔵に迷い、実践を忘れるかも知れません。
最後の角度の例を挙げると、例えば衛生の面です。これは非常に遠いですが、ダンマを衛生学の角度で見ることもできます。私たちがダンマの実践をすれば、身体的にも心の面にも関りがあるので、衛生と呼ぶ物が最高に生じるからです。心の衛生が良ければ体の衛生も良いです。体の病気が生じるのは、心の病気が原因です。
ダンマは当然ほとんどの心の病気を減らし、そして体の病気に繋がる結果にも関わります。私たちが宗教の規律に従うだけで、心に関わらなくても最高に爽快で、あるいは身体面の安楽があります。これが、健康衛生面で見ることができる項目です。
これが仏教がいろんな角度で見られることです。どの角度が最も正しい角度か、あるいは最も重要か、熟慮して見てください。間違った角度を掴めば、飲酒し、アヘンを吸い、大麻を吸うに違いありません。つまり中毒になって関心を持つべき角度に関心を持ちません。だからこの六つの角度は、宗教と呼ぶ物が望まなければならない角度と見なします。
宗教としてのダンマ、哲学としてのダンマ、科学としてのダンマ、芸術としてのダンマ、文学としてのダンマ、衛生学としてのダンマなど、それぞれの角度は、最高に意図すべき宗教と呼ぶ角度です。しかし私たちは古臭いものと見がちです。現代の教育に熱狂している人は、哲学、科学の意味に陶酔するのが好きで、宗教、あるいはダンマを話す声は古臭い物と感じるので、後ろを向きます。
本当は、彼らは愚かではありませんが、ほんの少しうっかりしたので、最初の部分で背を向ける行動があります。それで真実を知ることができません。最初から背を向ける行動をするからです。これです。話は初めに本の少し間違っただけで、最後には大きな間違いである結果が生じます。
正しい形、そして正しい角度のダンマを知らないからです。少なくとも、「まあ! 理解できないほど多い」、あるいは「私には必要ない。誰にも必要ない」と言うほどです。このダンマは子供でも大人でも、庶民でも、どの年齢の出家でも、すべての生き物に必要なのに。要するに人間の苦はダンマで解決しなければなりません。世界の永遠の平和は、ダンマによって創造しなければなりません。ダンマに基礎がなければなりません。
私たちは宗教という言葉、あるいは神様という言葉、あるいは何という言葉を使っても、意味は同じです。つまり実践すれば静かな幸福を生じさせる助けになるダンマです。しかしこれが見えなければ、あるいは他の物に見えてしまえば、ダンマに関わることはありません。そしてダンマに関わっても、間違った方法になるだけで、本当のダンマを深く理解できる状態になりません。
だから最初に、このダンマのいろんな形と角度に関心を持つべきです。私は先生のみなさんに、森全体の木の葉と同じ、すべてのダンマの中の一掴みのダンマと呼ぶ物である、ダンマと呼ぶ物の一つの本実の点を深く理解するようお誘いする努力をしていると捉えてください。これについては後日熟慮します。
続いて道徳である部分のダンマの訓練をすることについては、正しい目的があるべきです。ダンマは常に正しい物でなければならないからです。それが間違いなら、あるいは間違った感覚が生じたら、ダンマを間違って理解したと理解しなければなりません。
ダンマは大きな規則で二つに分けることができます。つまりローキヤ(世俗)の側が一つ、そしてロークッタラ(脱世間)の側が一つです。この二つの言葉は、現代の辞書には無くても良い言葉だと、かつて非常に虐げられました。しかし本当は、この二つの言葉はハッキリした意味と、ぴったりした意味があります。ローキヤダンマという言葉は、人を世界の領域の幸福にするダンマという意味で、ロークッタラダンマは、高いダンマという意味で、人を、世界の上と呼ぶ幸福にすることができます。
ローキヤダンマ、あるいは世界の領域は、「魚を捕まえたら魚の棘に刺されるべきでない。魚を食べるなら魚の小骨で咽を刺されるべきでない」という譬えで簡単に規定します。この世界は最高に小骨がある魚のようです。私たちの世界は最高に小骨のある魚のように、良く捕まえることができなければ棘に刺され、良く食べなければ小骨が喉に刺さります。
これは、私たちが世界で生きることを意味し、勉強している時期も、何らかの結果を得るために職業を営んでいる時も魚を捕まえることに例えられ、勉強をしている子供の時から、職業を営む大人まで、あるのは魚の棘に刺されることばかりです。
次に財産である名声・名誉・部下などの結果を得れば、これらを魚と言い、良く食べなければ、喉に刺さる、あるいは死に至る棘があります。だから魚を捕っても棘に刺されず、魚を食べても小骨に刺さらない、まとめてローキヤタンマと呼ぶ世界の領域の幸福のために、世界の範囲で実践するダンマ、何らかの実践項目があります。
次にロークッタラダンマと呼ぶもう一種類のダンマは、世界より上の幸福のためで、例えれば、魚を獲る必要、あるいは魚を食べる必要はありません。それは正反対と言えるほど高い話です。しかしそれでも人間が到達できる範囲にあります。そしてその時です、私たちが最高の幸福を受け取るのは。社会の部分の幸福でなく、個人的な幸福でも。
だから私たちはより多くの利益を掴むことを知るべきです。一人一人の個人については、自然がふさわしく創ったので、ロークッタラの幸福を受け取るくらい遠く飛ぶこともあります。これも世界より上、カンマより上、輪廻より上、あるいはすべての苦より上にいると言います。だから私たちは後で理解する利益のために、カンマ、輪廻、そして苦という言葉に切掛けとして関心を持つべきです。
この機会に、仏教のカンマの話は最高に多く誤解があり、そして「正しく理解している」と自慢していると、説明の言葉を挟ませていただきます。これはブッダの話を履き違い、最高に仏教を履き違うことです。つまり私たちは、仏教は善業善果、悪業悪果と教え、それだけが仏教と信じています。こういうのは正しくありません。私は「それは正しくない。そのように述べるのは正しくない」と主張すると、聞いておいてください。
ブッダはそれ以上にいろいろ述べられています。善業善果、悪業悪果だけ述べるのは、宗教に至らないどの様式の道徳にもあります。なぜブッダが、他の人と同じように述べなければならないでしょう。もしそうなら、ブッダは必要ありません。ブッダのカンマの法則は、「どのようにすればカンマの上にいられるか」まであります。
これは、休まず泣き続けるほど悪いカンマの成り行きにならなければならないなら、それは堪らない。善いカンマがあれば、善いカンマの経過になり、休みなく笑う。こういうのも堪らないと説明しています。それが善や徳でも、悪、あるいは罪でも、どちらも喘いでいます。罪も罪なりに喘ぎ、徳は徳の様式で密かに喘ぐので、それらより上にいることはできません。
だからブッダは三番目のカンマを教えました。つまり善でも悪でもないカンマです。これが本物の宗教です。あるいは実践すれば、当然聖向聖果涅槃が生じるアリヤマッガと呼ぶ梵行の本物です。だから聖向聖果涅槃のための実践は善業でなく、善の上、悪の上にある三番目のカンマです。そして善業悪業を終わらせるカンマです。
つまりアリヤマッガの実践をして、心が善悪に執着することより上になれば、涅槃と呼ぶ種類の静かな幸福に遭遇すると説いています。ブッダはカンマをこのように教え、誰もが「善業は善、悪業は悪」と、それだけを話しているように教えません。ブッダはそれだけの低い物を教えず、最高の物、つまり人間はカンマに勝利できると教えました。これがカンマの終わりであるロークッタラと呼ぶ実践項目です。
それは魚を食べる必要がなく、魚を獲る必要がないのと同じです。輪廻より上にいるというのは、私たちがカンマで経過しなければならないなら輪廻を意味し、循環するという意味です。輪廻は循環で、輪廻は循環する環です。循環する環は欲望である煩悩があり、そしてその欲望による行動があり、そして報いである結果が生じます。
私たちはそのカンマの結果を味わい、次に他の願望があり、続いて他のカンマを創り、それから他のカンマの結果を受け取り、際限なく鎖のように繋がっている環で、一日一日に幾つの輪があるか、考えて見てください。これが人を覆って苦にする、仏教の縁起と呼ぶ物です。これらの輪より上にいることができれば、輪廻の上にいると言い、明るく清潔で、最高に静かな心があります。
このようなら、苦の上と言います。そして本当に苦より上です。使うお金か何かが十分あるから苦の上にいられるのではありません。貪りにより、怒りにより、いろんな迷いにより、心の面の個人的な苦があります。こいうのは苦の上ではありません。煩悩の上、カンマの上、輪廻の上にいる以外は。
そうすれば私ちちの日常はローックタラ式の安穏、清潔、清涼、そして明るく静かに暮らせます。だからローックタラの世界はヒマラヤの向こうの、あるいは雲の上の、何でも色んな物の上にあるものと理解しないでください。背丈二メートルばかりの、そしてまだ死んでいない、生きている身体の中になければなりません。ブッダはこのように話されました。私が勝手に言っているのではありません。
ローキヤダンマ(世俗の部分)もロークッタラダンマ(俗世を出る部分)も、当然背丈二メートルばかりの身体の中にあります。だから私たちは、社会の話もローキヤダンマの側の完璧でなければなりません。社会の話の正しい品行がなければなりません。一人一人の個人はローキヤダンマ、あるいは社会の話の正しい振舞いだけでなく、自然が「得ることができる」と規定した得るべき利益を何としても手にしなければなりません。
つまりロークッタラダンマ、あるいは社会が受け取るより高い幸福が、聖人か何かの社会を生じさせます。奇妙な物と見ないでください。一人一人の個人が、人間が得るべき最高に善い物を何としても手に入れるには、哲学の世界で一般にSmmum bonumと呼ぶ物を手に入れるべきです。彼らはこの言葉を、The utmost goodness that man can get this very life(人間が人生で得ることができる最高の善)と定義しています。
だからこれは、社会的な静かな幸福だけではありません。それは幾らも高くありませんが、これは、社会が到達するより遠くまで突進できる個人の心の面、精神面の幸福でなければなりません。述べたような二つを受け取れば、人間に生まれたことが無駄でないと言い、まだ得られなければ、一度人間に生まれたこと、つまりロークッタラダンマの世界である部分はまだと言います。しかしローキヤダンマの部分も、一部で見ているようにまだ得ていません。
こういうのを、人間に生まれたことの百パーセント、つまりどちらの半分も無駄、あるいは何も手に入れないと言います。私たちがローキヤダンマとロークッタラダンマの利益を得る目的で仏教を学ぶことも、仏教、あるいはダンマからの利益と言います。これです。私たちが何としても何かを得るために仏教に関心を持つ、一般の大きな系統は。
最後の話である概要とさせていただくのは、みなさんが聞いたことがある話で、仏教、あるいは仏教の心臓部である四聖諦と呼ぶ物です。誰でも四聖諦は苦の話、苦を生じさせる原因の話、苦の消滅の話、そして滅苦に至らせる実践法の話で、四つの話をまとめて四聖諦と呼ぶと知っています。「これが中核であり、本当の構造である状態の宗教」と述べるのは非常に正しいです。
四聖諦の教えは知識であり、四つの教えであり、十分完璧に知るべき色んな物を知らなければならない時に使う教えです。あるいはロジックの要素と捉えれば、「それは何か、何から生じ、何のために、どんな方法で」という四聖諦の教えで始める規則がなければなりません。だから先生方の誰かが、教えとして捉えられる仏教の論理はどのようか知りたければ、この四聖諦の話を原則にしてください。それは簡略で、そして述べたように「とは何か、何から、何のため、どういう方法で」の四項しかありません。
この論理を、今問題である道徳の話に使うなら、「道徳とは何か、何によって、何のために、そしてどんな方法で」という項目にします。そして答えは、私たちの道徳は苦がないための正しい実践行動です。私たちの世界は今煩悩があり、そして苦の話である問題に遭遇するからです。私たちに道徳があるのは苦を滅してしまうためで、すべてに正しい実践方法によります。そして仏教の教えで完璧な道徳の実践と呼ぶことができます。
だから最後の項目「どのような方法で」は、みなさんは八正道の話があり、先生方は一部慣れていると信じますが、特にこれには関心を持ってください。滅苦ができる物、そしてブッダが「これが梵行です」と言われているからです。
梵行は仏教の宗教本体を意味します。梵行という言葉は現代で言う「宗教」のような言葉です。梵行は、女性が純潔の話に慎重にすることを意味するだけではありません。すべての梵行は八正道です。これはブッダが話された教えです。そして八正道で実践することは梵行です。八正道は八つの正しさで、理解面の正しさ(understanding)、あるいは考え(view)、あるいは信仰でも(belief)正しいことで、これを正しい見解と言います。
目的の正しさはaimの部分、あるいはambitionでも、これを正しい志と言います。この二つの正しさを智慧の側の話の正しさと言います。考えを知り、信じることを知り、そして志すことを知るからです。次の正しさは話すことの正しさで正しい言葉と言い、正しい身体面の行動を正しいカンマと言い、正しい生き方(livelihood)を正しい生活と言います。この三つの正しさは戒の部類で、正しい身体面、言語面の品行です。
次の正しさは正しい努力で正しい精進と言い、自分自身を常に正しく自覚(mindfulness or attentiveness)することを正しいサティと言います。そして堅固な心、正しく集中した(concentration)心があることを、正しいサマーディと言います。このような三つの正しさは、サマーディの部類です。
次にもう一種類、特別に紹介させていただきます。つまり八正道の場合は、ブッダは智慧を先にし、それから戒、そしてサマーディの順に並べていて、「戒・サマーディ・智慧」の順にしていません。それは行動の状態、あるいは教育に便利な論理の側ですが、本当に実践するにはそのようではできないので、智慧を先頭にしなければなりません。それから戒、あるいはサマーディになります。智慧が先導しなければ、至る所で見かけるように、戒やサマーディは藪や森に入るからです。
だから智慧が先でなければなりません。それから戒があり、そしてサマーディがあります。智慧が戒を導き、サマーディを導きます。戒とサマーディに発展する力があるだけ智慧を育て、智慧は戒とサマーディをその度に引っ張ります。だから藪や森に入ることはありません。そして実践する方法は、常に智慧・戒・サマーディで、いつでもこのような順になっています。
論理の部分では、戒・サマーディ・智慧と並べても自由です。ここでは「八正道では、誰も変えられない。他に変えるべきと誰も証明できない」と挑戦されたような順に並べられていると、関心を持ってください。だから私たちが欲しい道徳に最高に有益に使うために、どうか正しい見解、正しい志、正しい言葉、正しい業、正しい生活、正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディに関心を持ってください。
次に私が提案したいのは、八つの項目がこのように固定した順番である時、正しい見解と正しい志という言葉の意味を観察して見てください。それは本当の智慧で、考えを知り、信仰を知り、願いを知ります。これは知育という言葉に相当するべきです。最初の二つの項目は、良く見れば知育と、ハッキリ見えると提案させていただきます。
次は正しい言葉は正しい物言いで、正しい業は正しい行動で、正しい生活は正しい生き方で、この三つはチャリヤスックサー(徳育)に相当します。誰も反論できないように、あるいはここで分けるなら、正しい生活は新たに加える手工芸育に相当すべきです。手工芸育という言葉の意味は、直接生計を営むためだからです
。
残る三つは正しい精進・正しいサティ・正しいサマーディで、サマーディの側の話ばかりです。これは体育です。ダンマの教えでは、サティも努力もサマーディも力と見なすからです。智慧は鋭さと同じで、サマーディは力です。あるいはその鋭さに十分な仕事をさせる重さです。
だから私たちの力という言葉は、私たちには体育という言葉があり、少なくとも体の力だけでなく、気力、あるいは心の面の力を意味するべきです。次にそれはFluke(まぐれ)、あるいはco-incident(一致)、あるいは何でも、考えて見ると、八正道を見ると、意味でも順でも、なぜ知育・徳育・手工芸育・体育と呼ぶ物に相当するのか、面白く感じます。
私たちが三種類だけ、つまり手工芸育がなく、正しい見解、正しい志は知育で、正しい言葉、正しい業、正しい生活は徳育で、そして正しい努力、正しいサティ、正しいサマーディは体育の構造ですが、手工芸育を入れるなら、正しい生活の所でなければなりません。どのように検証するかは、他の方法はありません。
だから私たちはこの系統ですると決め、この系統を学んで実践したいです。そうすればみなさんの学生はブッダの梵行をする人で、すべての行動は仏教の梵行です。これが、私たちの道徳教育の系統を、どのようにブッダの梵行と合うよう調整するかという、一般的な紹介です。
少し時間が残っているので、一分だけ昔話をさせていただきたいと思います。それは「茶碗から零れた茶」です。茶腕から溢れた状態は、私たちにとって最高に障害だからです。日本のナムインという名の禅のアーチャンは、ダンマに精通していると国中に名の知れた人で、日頃から禅の高いダンマを教えていました。次にある大学の主任教授、これも国中に名声が轟いている人が、アーチャンナムインを訪ねて禅の仏教を学ばせて欲しいと乞いました。アーチャンナムインは伝統に従って迎えました。
アーチャンは茶碗を持ってきて置くと、急須から茶を注ぎました。アーチャンはいっぱいになって溢れるまで注ぎ、それでも注ぎ続けるので、碗から床に溢れ、それでもまだ注ぎ続けました。教授はどうしたら良いか分からず、そわそわして我慢できなくなり、「もう満杯ですから、それ以上は入りませんよ」と言うと、アーチャンナムインは、「あなたも同じです。あなたはあなたの意見と 推測がいっぱいで、溢れています。私が禅を注ぐことはできません」と答えました。たったこれだけで、教授に禅を教える半分に相当します。
話は同じです。みなさんもみなさんの意見が溢れていて、それも自分式の考えが溢れています。だからみなさんは正しい仏教を受け入れることができません。私は教師で知識があり、考えがあり、考え方を知り、たくさん勉強して来たから、仏教を深く理解する準備が整っていると迂闊にならないでください。みなさんは往々にして茶碗から溢れたお茶、つまりナムインの茶腕の中の茶の状態があります。だからアーチャンナムインは、「碗に茶を注ぐには、先ず茶碗を空にしてしまいなさい。そうすれば注ぐことができる」と言いました。
これです。みなさんがいくら講義、研修、指導を受けても、みなさんの茶碗が満杯なら、当然それ以上受け入れることはできません。まだ混乱した種類の知識がいっぱいで、正しい原因を知ることがきません。そしてそれらの知識は何らかの形のダンマにならず、混乱します。だから自分自身の、生徒学生の、心の面の問題解決に十分でなく、精神の状態を高めることができません。すべての方法を正しい知識や理解があるように、そして注げるように改良しなければなりません。
詰め込む話、あるいは常に溢れた話、そして頭から溢れる知識以外に、誰にとっても利益のない話にしないでください。世界の人間の危機を脱せない普通の知識以外に、私たちが世界に平和を生じさせることができないのは、これが理由です。
要するに、これから研修する私たちの道徳は、一掴みの木の葉と同じ量だけで、多くも何でもありません。ローキヤダンマ(世俗の教え)とローックタラダンマ(世俗を出る教え)の部分も、日常生活の利益になさい。新しい系統を作る必要はありません。私たちはブッダを規則にします。つまり四聖諦があります。自分たちの物を原則にするなら、述べたように八正道と一致する知育・徳育・手工芸育・体育です。そして最後に私たちは、将来短い時間に四聖諦の話を理解できます。
今日の講義はこれで終わらせていただきます。
次へ | ホームページへ | 法話目次へ |