挨拶集





初版挨拶





 このブッダの言葉によるブッダの伝記は、三蔵の中から、ブッダご自身が語られた伝記に関わる言葉だけを選んで集めました。

 ブッダの伝記のどの部分も、ブッダご自身の言葉と、三蔵を編纂したプラサンギーティカーチャーン(初めての結集で編纂した阿羅漢の方々)の言葉が散在していて、一纏まりになっていないので、学習するのが大変です。プラマハーサマナチャオクロムプラヤーワチラヤーナワローロット殿下がこの不便さにお気づきになられて、殿下が編纂された「ブッダの伝記」第一版の挨拶に、次のように書かれています。

 『ブッダの伝記が、結集で編纂されたブッダの言葉のどこにもないのは、まったくもって残念である。誕生の話は長部マハーヴァッガのマハーパターナスッタに、少年時代の話は増支部のティカニバータに、出家する理由から五比丘が阿羅漢になるまでの話は中部ムーラパンナーサに、出家してから苦行をして、その後悟るまでの話は中部ムーラパンナーサのマハーサッチャカスッタに、

悟ってから筆頭弟子が出家するまでの話は律のマハーヴァッガに、ブッダの仕事についてはいろんな経のいろんな所に、涅槃間近の頃から涅槃され、クシナラーの王が火葬し、仏舎利を分けて配るまでは、長部マハーヴァッガのマハーパリニッバーナスッタにというように、バラバラにその国のパーリ(ブッダの言葉)に入っている。

 経典を書いたアーチャン方は、ある話を編纂する時、アットゥッバッティ(生じた理由)と呼ぶ話法を用い、もう一つ、折に触れ手に入ったものを記しておいたと理解する。だから一つの箱には同じ経の話を並べておかなければならないが、それでもバラバラに並んでいる』。

 しかしそのワチラヤーナ殿下の本は、ブッダが話された言葉と、結集した阿羅漢方が編纂した言葉でも、所によってアッタカター(後世に書かれた解説)が混じっていて、どれがブッダの言葉で、どれがアッタカターの解説かを明らかにする注釈がありません。解説と推測で作られたからです。

 この「ブッダの言葉によるブッダの伝記」は、学習者が勉強しやすいよう、そして今後もブッダの伝記を判断する便宜のために、パーリ(ブッダの言葉)の中から、教祖自身が語った言葉だけを選んで翻訳したもので、三蔵を編纂した阿羅漢の方々や、経典を書いたアーチャンの言葉は混入していません。

 だから後で「パトムポーティ」などの新しく書かれた本や、外国のブッダの伝記などを読んでも、何が本体で何が尾ひれか、容易に理解できます。

 「ブッダの言葉によるブッダの伝記」は、初心者が基本として、本当のブッダの歴史を把握する一般の本より重みがある、ブッダ自身の言葉という意味で、その後、三蔵を編纂したアーチャンの言葉である部分や、アッタカターや、古くから伝わっているいろんな伝記を勉強します。このようにすれば、ブッダの伝記をすべて知ることができ、盤石な基礎になります。

 そしてどれが芯材でどれが辺材か、どれがどれくらい枝葉かが分かり、機会があれば、最高に根拠がある物から根拠の薄い物まで、すべての種類を学習することができます。

 今は、読者のみなさんに、ブッダの伝記の真髄を、つまり初めの段階として「ブッダの言葉によるブッダの伝記」を学習なさるようお勧めさせていただきます。

 このダンマを広めることから生じる善を、ブッダに捧げます。

1934年5月1日






解説(第二版)



 本書ができた理由について述べるにふさわしいと思います。

 最初に、世尊が探求されたこと、実践、そして日常生活から、教え方、そして様々な目前の問題解決方法まで、足跡を探求し、そして世尊の足跡、あるいは広い意味で言う「阿羅漢の足跡」を追いたいと関心を持ったので、その目的に合った話を、いろんな所から集める努力をしました。

 直接三蔵から集める努力をすると、実践系統を説いている非常に価値のある話を見つけました。おまけに直接ブッダバーシタ(ブッダが言われた言葉)でもあったので、私は新たな決意をしました。

 つまりこの段階で、三蔵を編纂したアーチャンの言葉を避けて、ブッダバーシタだけを選んで集めて置くことです。その結果本当の望みと一致したブッダの言葉の形であるいろんな話が得られました。

 三蔵に慣れていない寺の外の人は、三蔵は編纂者であるサンギーティカーチャン(三蔵を編纂したアーチャンたち)が、ほとんどは、世尊のご自身に関わる言葉を並べて、「どこに滞在しておられる時こういう出来事があり、そしてこのような言葉を言われた」と綴ったと知るべきです。弟子や重要な人について述べた話は少ないです。

 そしてその他にも、深遠な言葉の説明であるガムビーニデーサもあります。サンギーティカーチャンが語ったいろんな経の中に、直接世尊について語った話は少なく、ブッダが経歴について、そしてご自身の行動について語られた経も少なく、そしてあちこちに少しずつ散在しているので、まだ隠された物になっています。

 だからブッダご自身について語られた言葉がどれだけあり、どのようかを知りたいと望む人は、三蔵を全部調べたと言えるまで、すべての頁を注意深く調べて、吟選しなければなりません。そうすればすべてをまとめて、何が初めで何が後にあったか、あるいはどのように関わっているか精査することができ、望みどおりの話を手に入れることができます。

 難しかったのは、それらの話が三蔵の一か所にまとまってなく、あちらにこちらに挟まっていて、ほんの少し隠れている箇所もあるので、本気で真剣に選ばなければならなかったことです。だから選び出すのに一年掛かり、それから繋がるように編集しました。

 最初私は、ブッダの伝記は著者の数だけあると考えず、そして既に学習されていると考えたので、ブッダが語られたブッダの伝記を編纂する気持ちはありませんでした。そしてもう一つ、その時私は、秘されたダンマの実践の跡跡を探求することだけを目指していたので、三蔵から探し出すのは、秘されたダンマの実践の跡だけでした。

 悟るために努力をされた時期と、悟ってから様々な人に教えられた時期、いろんな時期のブッダ自身の実践について語られた言葉を、いろんな部分から探したいと思って、求めていたダンマの実践の話を見つける中での自然な成り行きでした。

 悟るために努力をなさっていた時のブッダ自身について語られた話は、思っていたよりたくさんあり、そして「ブッダの足跡を追う」あるいは「阿羅漢の跡を追う」と考える人にとって、極めて利益のある話になりました。それは非常に私を満足させ、疲れが吹き飛ぶほどでした。

 特に「このようにブッダが悟る前の、試行錯誤の部分があるブッダの伝記本は、今まで誰も作ったことがない」という点を、あえて主張します。それは四九頁から一〇四頁までです。

 そしてすべてはブッダご自身の言葉であり、今までの他のブッダの伝記本のように、サンギーティカーチャン(三蔵を編纂したアーチャンたち)の言葉はなく、アッタカターも混じっていません。特に「悟る前にサマーディニミッタを意識された」、「悟りの前に愚かさを消滅させた」等々は、修行者にとって嬉しく、手本に使うほど関心があるということが分かっています。

 悟った後の出来事について述べられた話、例えばいろんな教祖を教えることで、あるいは教える方便で苦しめた話は、一様に、少なからずダンマの実践の痕跡を見せている話ばかりです。そしてブッダの日常生活を知ることができ、その結果、私たちはブッダの日常の動向が見える類の、ブッダの近くにいると感じます。

 本書に伝記よりダンマの項目が多いのは、今述べたように自伝の中のダンマの実践の軌跡を探求したからです。そしてもう一つ、この真実に気づいた時、「この本をブッダのダンマの実践の歴史」、あるいは「ブッダのダンマの実践面の伝記」にしようと決意しました。


 ブッダの伝記の編纂を良く観察して見ると、少なくとも三つの系統があることが分かります。

 一つは、人を信仰に誘うことを直接目的とし、特にほとんどの人が学習者ではない一般庶民で、例えば「パトムサンポーティ」と「ラリタヴィサタラ」など神通力に重点があり、ブッダの恩恵、あるいは Gospel を称賛する本で、一つの善い結果があると見なします。

 つまり人の心を強く掴んで、自分の宗教に夢中にさせることができます。しかし神通力の面を重視しすぎるので、学習者やダンマの実践者には倦怠を生じさせます。この種の伝記しかないのは不十分で、別の種類の物が必要になります。

 二つ目は由来や経歴の面の説明を目指し、多くの人に真実と思わせる話を説き、現代の学生が喜ぶ歴史的、あるいは科学的基準で根拠があるよう目指すもので、ワチラヤーン親王の本、あるいは E.J.Thomasu 博士の「 0Life of Buddha 」などがそうです。

 いずれにしてもこの二つの系統は、もう一部の人たち、つまりブッダが出家して悟り、宗教を公開し、そして最期の時つまり涅槃の時まで、どのようなダンマの実践をしてこられたか、あるいは歴史的真実を知りたいダンマの実践者が喜ぶものではありません。そこでこの二つと系統の違うブッダの伝記が必要になります。

 三つ目の系統はタンマだけ、つまり、後に続く人が規範にするために、ブッダのすべての行動が明らかに現れているダンマの項目を説明します。神通力の面を説くことを目指す本は、神通力で人の心を引くことができる部分だけを詳しく説明し、あるいは選び、ダンマを説いている部分は大雑把か、あるいは無視し、そして由来や経歴は書きません。

 そして由来や経歴を書く本は、由来や経歴しか判断せず、神通力や説法の面を考慮しません。これはタンマを説く、あるいは直接実践の軌跡を解説するブッダの伝記本との違いを、ハッキリ表しています。

 探求している間中、私はそれを切に望み、そしてもう一冊作れるだけ十分な分量があると分かった時、すぐに決意し、そしてみなさんがご覧になっているように、実現しました。

 私はまだ、本書はダンマの面を完璧に説明したブッダの伝記本と見なすべきと主張しません。限定した範囲だけ、つまり話された言葉にあるだけ、そして本書を作る教えがそれだけの範囲で、三蔵から集めただけだからです。

 完璧にするにはブッダの言葉に限定せず、一般のサンギーティカーチャン(三蔵を編纂したアーチャンたち)の言葉とアッタカターと、そして(ブッダの言葉でない)一般の経典のレベルも一緒に収めなければなりません。それは、みなさんが手にされている本の何倍もあります。

 いずれにしても、ブッダ自身が話された言葉の分部はすべて集めたと主張することができ、そしてダンマの説明の本にしたと主張できることに満足しています。 


奇跡について

 本書には、兜率天から胎内に下りて来て生まれる話など、多少奇跡の話が混じてはいても、皆さんは当然、それは、三百五十七頁の中のたった七、八ページで、更に、この部分の奇跡をよく検討すれば、文字通りに捉える必要はないと分かります。ダンマーディサターナ(出来事について述べる話法)として簡単に説明できるからです。

 たとえば生まれてすぐに北の方向に七歩歩いて、すべての世界の勝者であり、二度と生まれることはないと大声で言った話は、語り手が、ブッダはブッダとして生まれたと説明する目的だった見ることができます。それは体の誕生でなく、心の誕生です。

 七歩という数は、アッタカターチャン(アッタカターを書いたアーチャン)が、人を悟らせる七段階の実践項目(七覚支など)もあると説明しているのもあり、ある研究家は、ブッダが遊説して歩いた七つの田舎を意味すると言っているのもあります。

 「北へ向かって歩いた」というのは、当然、当時たくさんの信者を有す教祖群に対して、勇敢に公開したことを意味します。「すべての世界に勝った人」というのは、この教えは世界の最後の教えで、今後誰もこれ以上の教えを発見して教えて、世界を高めることはできないという主張です。

 そして「ブッダは二度と生まれない」というのは、当然ブッダは、「真実は生まれる人も死ぬ人もいない。人はなく、あるのは当たり前に生じて消滅するサンカーラ(行)だけだから」という真実を発見したことを意味します。

 (この種の様々な奇跡について関心があって研究する人は、ワチラヤーナ親王殿下の「ブッダの伝記」を読まれることをお勧めします。私は、その奇跡は研究しなければならないことと見ます。編纂者がそのような方便で人を勧誘するために改ざんした、あるいはそのように創作したからです。

 ダンマの実践を志す人は関心を持つ必要はありません。跨いでしまってダンマの実践に関心を寄せましょう。

 いろんな奇跡は、人の気を引いてダンマの実践に関心を持たせるためなので、一度ダンマの実践に到達してしまえば、奇跡に関わる話の問題はありません。無理に判断しようとすれば、無駄に一生を終わってしまい、その上間違った判断をしてしまいます。

 述べたような別の目的で書かれているからです。ですから、奇跡を説くことを目指すブッダの伝記本の義務ということにしておきます)。


 私が編集した本に飛び込んだ七、八ページの奇跡のような話について、読者の方が観察するべき、もう一つ特別な項目があります。不思議なことに、天国にいて、死んで、そして生まれる、この奇跡のような話の要旨が、中部のパーリ(ブッダの言葉)アッチャリヤブータダンマスッタにあることです。

 しかしプラアーナンダが述べている言葉であり、プラアーナンダが「このような話を世尊ご自身の口から聞きました」と、述べていて、直接世尊が語られたと明言しているサンギーティカーチャン(三蔵を編纂したアーチャンたち)の言葉である他の話と違います。

 なぜサンギーティカーチャンの方々は、このように強烈な奇跡の話をプラアーナンダの言葉として綴ったのでしょう。(私たちは、当然サンギーティカーチャンの中にプラアーナンダもいたことを知っています)なぜ他の経のように、直接ブッダの言葉として述べなかったのでしょう。

 更に、みなさんがアッチャリヤブータスッタを読まれれば、なぜたくさんの比丘と世尊がいる前で、世尊から聞いた話をプラアーナンダに語らせた話にしなければならなかったか、疑問が生じます。

 この話を見つけ、そして本書に収めた時、私にこの問題が生じ、私としても結論に至らず、そして大した分量ではないと見たので、読者のみなさんが特に観察するために、本書に収める決意をしました。この部分だけは話の趣旨のように現れています。

 そしてこの部分は、その部分の言葉が明示しているように、間接的なブッダの言葉と観察してください。要するに、本書三五七ページの中の七ページ余りは、間接的なブッダの言葉です。


 次にブッダの言葉によるブッダの伝記に、仏教の外部の人が話した言葉を、付録として収めました。外部の人、あるいは敵である人が言った言葉は、ブッダ自身の言葉に負けない信頼できる真実があると見なします。外部の敵である人は、当然称賛を避ける方へ傾き、非難を避ける方へ傾かないからです。

 発言しなければならない時は、当然最高度の称賛に傾かず、貶すばかりで、欠点を探せなければ正直に言うので、「敵が影で称賛する声は、百パーセント真実である」という原則を捉えることができます。

 以上の理由で、私は外部の人がブッダについて言った言葉は、ブッダ自身の言葉と同じくらい信頼できる重さがあると信じるので、本書に収めました。しかしブッダの口から出た言葉ではないので、「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の付録とにしました。

 全部で二十七ページあります。この部分だけでも、最高に興味深いブッダのいろんな行動が説明されています。そして他の人からは聞けない話なので、学習者の方は特別な関心を持って学習してください。


 要するに本書は、ブッダの体で現された手本から求めるべき実践原則集になることを目指して生まれました。そして三蔵の中に現れているだけのブッダの言葉であり、奇跡の話が、三百五十七(頁)中に七(頁)あり、ブッダ自身の言葉に負けない信じるべき重さがある、外部の人の発言である話もあります。

 本書の初版は一九三五年で百五十一話、今回は四十八話増えて二百三十六話あります。二版で追加した話は、初版発行の後見つけた枝葉の話で、初版の時は、まだ収蔵する必要はないと見ていましたが、

 今回は完璧にするために、間接的なブッダの言葉、つまりパーリ(ブッダの言葉である経)アッチャリヤブータダンマスッタの冒頭で述べられている物も含めて、すべて収蔵しました。今回増補した話には、索引の題名の後に印をしておきました。

 (この後の索引についての説明がありますが、和訳には索引がないので省略します。訳者)。

 増補改訂版「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の編集に関して、一緒に住んでいる二三人の法友に、原文の書き写し、索引の作成その他に関してご苦労をいただいたことに言及するべきだと思います。

 信仰と、今回の犠牲と苦労と協力が、永遠に「法施の友」の習性になり、仏教の普及のための犠牲が、将来益々習性になりますよう。

 最後にこの仕事から生じるすべての善を、以前から発願しているように、世尊の恩恵を祭るために供えさせていただきます。


1951年12月1日






挨拶(第三版)




 第三版の今回、特別に述べなければならないことは、新たに十二話増えて、三五七頁から三九六頁になったこと以外には何もありません。

 私たちテーラワーダの三蔵から集めた「ブッダの言葉によるブッダの伝記」は、これだけの完璧さがあり、暇な時間を見つけては二十二年間続けて来た「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の制作の終りであると、述べさせていただきます。

 他の重要なことは、初版と第二版で明らかになっているので、この機会に全部使ってください。学習者のみなさんが力を合わせて、ブッダの足跡を追うことを望む生き物のために、そこで述べられている方法で、自身が望むだけブッダの足跡を探求されることをお願いして、「ブッダの言葉によるブッダの伝記」の制作に幕を引かせていただきます。

1958年4月1日





本書の使い方



 (1) すでにナックタム(ダンマの試験合格者)、あるいは説教者である人が本書から利益を受け取る時、飽きないようにする方法があります。

イ 本書の中の話を、今まで聞いたことがない話だけを、興味をもって一度読み通します。

ロ それから終りの索引を使って、索引の順に言葉を見て、どの言葉を見ても内容、あるいはその言葉の意味が、即座に明らかに周到に現れなければなりません。既に学んだことがあるからです。内容が明らかに出てこなかったら、初めの分部でも、あなたはまだ本書になれていないということかもしれません。

 あるいはその言葉の意味をまだ知らないのかもしれないので、索引にあるページの本文の内容を読まなければなりません。たとえば「田を耕す」「魚の罠」「体毛が寝る」「カニ」「鋏を折られたカニ」「ピヨピヨ鳴く」など、時には、面食らう、考えが及ばない言葉もありますが、あなたにとって重要でない言葉と考えるべきではありません。

 何としてもその言葉の深い意味を知るまで学習しなければなりません。たとえば「カニ」という言葉は、自分の教義を自慢する邪見の人、すなわちカニが鋏を振る上げるように見解を振りかざしている教祖を意味します。要するにカニという言葉は、ブッダが、見解を自慢する人を呼ぶのに使いました。

 あなたが順に索引を見て、何も神経を妨害するもの、あるいは疑念を妨害するものがなければ、あなたは編者が弟子にしてもらいたい類の、この系統の深くて広いダンマの知識があるということです。

ハ あなたが説法をする時、あるいはダンマの解説を書く時、本当の意味はどうか確信がない言葉で停滞するかもしれません。あるいはその言葉や話が、どの話、どの経の引用か定かでない時、意味は良く理解していても、根拠である由来、ブッダはどのように話されているかを知りたい時は、この索引を使えば簡単に見つけることができ、間もなくあなたは説法に熟練します。あるいは根拠のある著述になります。

(2) 特に心の面(智慧ではなくサマーディの面)だけのダンマの実践者の本書の使い方は、みなさんの友人は、次のような有益に使ってきました。

イ あなたが「これは直接ブッダの足跡に従ったダンマの実践の話だ」と見る物だけに特別な関心を持って、全部洩らさずに一度読みます。少なくとも聞いたことがない、知らない話が必ずあるからです。

ロ 日常の時間を使って、索引の言葉を基準にして、自分の記憶と理解を復習しますが、必ず直接バーヴァナーに関わる話の言葉でなければなりません。それは質疑応答の形、あるいは他の人に質問してもらって答える形でできるかもしれません。

 たとえば彼が索引を見て言葉を選んで、「愛欲想を意識する」「四如意足に励むための実践項目」「偉大な光の出現」「形を凝視しすぎる」「すべてのヴィタカの流れの心の威力の上にいる」「歩くことで臆病を無くす」「光を記憶できても形が見えない」「雀を強く掴みすぎる」「長く熟考しすぎる」「小鳥を捕まえて焼酎で死なす」「動くサマーディ」「少ないサマーディ」「得意」「恐怖」等々、これらの言葉の意味は何かを質問します。

ハ 常にバーヴァナーの問題に答えられる話、特に悟る前の探求の話や、生じたいろんな徳についての話を選んで読みます。たとえば初禅などの規定は、一つひとつの語句を、一語の語句の規定の説明が無くなるまで詳細に思慮します。森や山でこの本を読む人は、村や町で読むより良い結果があります。

(3) 一般の学習者、特にお寺に慣れていない人、あるいは出家して学んだことがない人は、次のように学びます。

イ 本書は同じ類の話しか並んでないので、先ず他の適当な初歩の本で、一般的なブッダの伝記を学びます。今までにブッダの伝記を読んだことがなければ、訳の分からない箇所があるかもしれません。

 しかし、これから繋がっている項目を観察して多少努力すれば、理解できないことはありません。あるいは、初歩のブッダの伝記を読んだ人に質問してもいいです。

ロ 話の系統、特に筋と伝記がどのようかを知るために、一度本書をざっと読みます。便利な方法は、目次を何度も読んで、疑問を持ったものからどんどん読んでいきます。

ハ 常に自問するために巻末の索引を使って、いずれかの語句に疑問が生じ、考えたくなったら、疑問のある言葉がなくなるまで、しょっちゅう開いて見ます。

(4) 「パトムサンポーティ(ブッダに関する経)」の話に慣れている清信士、清信女は、自分が聞いたことがあるのと違う話を聞くために、繰り返ししかない部屋に自分を閉じ込めない、十分自由な心で読みます。

(5) いろんな方面の人の伝記について講義しなければならない作家の方は、ブッダの伝記に間違った色付けをしないよう、注意深く読まなければなりません。比較対照する、あるいは引用する時、その点を最高に良くできれば、作家は他のどの人たちよりも良く、ブッダの話や教えを、普及させることができます。




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