第四部付録

外部の人の声





付録の解説

 この部の伝記を編集している時、バラモンたちがブッダについて述べるなど、外部の人の言葉に現れている様々な伝記を見つけ、ブッダの伝記の付録にするべきだと思いました。これら外部の人の言葉は疑念の基盤でなく、自慢話だと他人に非難されないので付録として四章に収めました。

 ブッダご自身が話された言葉でなくても、同様に信頼できる道理があります。それにこのような外部の人が話した話は少ないので、もう一冊「外部の人の声によるブッダの伝記」を作るには少なすぎるからです。

 長部シーラカンダヴァッガのブッダヴァチャナである梵網経で、大衆がブッダを知っているのは、最高でも戒の部分の美徳だけだと言われています。だからこの付録の外部の人の声が、戒の部分だけでも不思議ではありません。戒は外部の一般の人の目に見えるからです。

 それでも足跡を追いたいと望む人の手本になり、もっとブッダを知るために学習したいと望むだけでも少なからぬ善です。更にこのようにあまり知れ渡っていない、あるいは学習されたことがない話なので、十分な熟慮と考察で読むべきと思います。

編者


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一般人の評判


純潔な梵行を公開したサンマーサンブッダであられる

ブラフマーユバラモンの言葉
中部マッジマパンナーサ 13巻529頁545項

 そうです、ウッタラさん。サキヤの王子であるゴータマサマナは、サキヤの家から出て、五百人程の比丘の大群を伴ってヴィデハの人々の中を遊説されています。

 そしてゴータマサマナを称賛する声は「こういう理由で世尊は自分で正しく悟った阿羅漢であり、知識と品行が完璧で、良く行った人であり、世界を明らかに知り、訓練すべき人を誰よりも良く訓練する御者であり、それ以上の人はなく、ダンマを分類して生き物に教える天人と人間の先生です。

 世尊は天人界・悪魔界・梵天界の世界と、サマナ・バラモンと、天人と人間の動物群を、最高の智慧で明らかにし、公開して他人に教え、初めも美しく、中間も美しく、終わりも美しいダンマを説き、梵行を公開し、義も細部も純潔で完璧です。このような方である世尊を見ることは、善です」と、このように広まっています。

 さあ、ウッタラさん。あなたはゴータマ様に拝謁し、このように広まっている称賛が本当かどうか観察してお出でなさい。私たちはゴータマサマナを知ることができます。





光である説法がある

ヴェーランジャバラモンの言葉
律蔵マハービタン 1巻9頁4項

  ゴータマ様は誰よりも先に生まれた人で、ゴータマ様は最高に素晴らしい人です。ゴータマ様! その説法は非常に美しいです。その説法は非常に美しいです。ゴータマ様が公開されたダンマの説明は、伏せていた物を裏返したようで、閉じてある物を開いたようで、道に迷った人に道を教えるようで、あるいは目の良い人はすべての形が見えるように、暗い場所に明かりを灯したようです。

 教えとサンガも含めて、拠り所としてゴータマ様に至らせてください。今日から私を三宝を拠り所とする清信士として憶えておいてください。更にゴータマ様。サンガのみなさんとご一緒に、ここヴェーランジャーで雨安居なさってください。





重要な教えを説かれ、弟子と一致するのは不可思議

ヴァッチャゴータラ修行者の言葉
相応部 14巻479頁793項

 ゴータマ様。不思議な話です。重要な教えで、教祖と弟子が説明する要旨と意義と言葉が一致するのは、これはあったことがございません。ゴータマ様。今しがた、私はモッガラーナサマナを訪ね、この話を質問しました。モッガラーナサマナも、ゴータマサマナ様と同じように、これらの言葉と内容で私に答えて教えてくださいました。

 ゴータマ様。これは不思議です。重要な教えで、教祖と弟子が説明する要旨と意義と言葉が一致するのは、これはあったことがございません。

 他の経(相応部 サラーヤタナヴァッガ 14巻561頁761項)では、パセンディゴーサラ王が、世尊とケーマー比丘尼について、上記の称賛の言葉と同様に述べています





要旨だけの教えがある

ヴァッチャゴータラ修行者の言葉
中部マッジマパンナーサ 13巻248頁252項

 ゴータマ様。集落や町から遠くない所に生えている大きなサーラの老木は、その樹が老いると枝葉が落ち、皮と外皮が剥がれ落ち、辺材も順に剥がれ落ち、後に枝と葉がなく、皮と外皮がなく、辺材もまったくなく、あるのは本当の芯だけになるように、ゴータマ様。この説法は非常に美しいです。この説法は非常に美しいです。

 ゴータマ様が公開されたたくさんのダンマの説明は、伏せていた物を裏返したようで、閉じてある物を開いたようで、道に迷った人に道を教えるようで、あるいは目の良い人がすべての形を見ることができるように、暗闇にランプを灯しておくようです。

 どうぞ私を拠り所であるゴータマ様とダンマとサンガに至らせてください。今から生涯、私を清信士として憶えておいてください。





宗教梵行を完璧に樹立なさった

ヴァッチャゴータ修行者の言葉
マハーヴァッチャゴッタスッタ
中部マッジマバンナーサ 13巻256頁158項

 発展したゴータマ様。ゴータマ様ご自身も(この梵行から)満足を受け取り、比丘たちも(この梵行から)満足を受け取り、比丘尼たちも(この梵行から)満足を受け取り、白衣の在家、清信士たちも(この梵行から)満足を受け取り、白衣の在家で、まだ愛欲を味わう清信士たちも(この梵行から)満足を受け取り、そして白衣の在家、清信女たちも(この梵行から)満足を受け取ります。

 しかし白衣の在家でまだ愛欲を味わう清信女が(この梵行から)まだ満足を受け取れないなら、この梵行(宗教)は、それゆえにまだ完璧に至りません。

 ゴータマ様。しかしゴータマ様ご自身も(この梵行から)満足を受け取り、比丘たちも(この梵行から)満足を受け取り、比丘尼たちも(この梵行から)満足を受け取り、白衣の在家、清信士たちも(この梵行から)満足を受け取り、白衣の在家で、まだ愛欲を味わう清信士たちも(この梵行から)満足を受け取り、そして白衣の在家、清信女たちも(この梵行から)満足を受け取るので、この梵行(宗教)は、それゆえに完璧に至ります。

 ゴータマ様。ガンガの水は海の方がへこみ、海の方へ傾き、海に注ぎ、そして海で止まるように、ゴータマサマナの教団員は在家も出家もすべて涅槃へ傾き、涅槃へ注ぎ、そして涅槃で止っています。





プラゴータマの教戒は頂点

ガナカモッガラーナバラモンの言葉
中部ウパリパンナーサ 14巻88頁104項

 ゴータマ様。根の分部の芳香が良いすべての木の中ではカルサナーが最高だと言い、芯の香りが良いすべての木の中では赤チャンダが最高だと言い、花の香りが良いすべての木の中ではジャスミンが最高だと言うように、すべてのパラマッタダンマ(涅槃に至るダンマ。第一義諦のダンマ)の中で、ゴータマ様の教戒は当然最高です。

 ゴータマ様。ゴータマ様の説法は非常に美しいです。その説法は非常に美しく、ゴータマ様が公開されたダンマの説明は伏せていた物を裏返したようで、閉じてある物を開いたようで、道に迷った人に道を教えるようで、あるいは目の良い人がすべての形を見ることができるように、暗闇に明かりを灯したようです。

 今日から私を、生涯三宝を拠り所とするに至った清信士と憶えておいてください。





プラゴータマに出合ったら逃れられない

サッチャカ裸行者の言葉
中部ムーラバンナーサ 12巻435頁403項

 ゴータマ様。私は実に他人の徳を打消してばかりいる人で、言葉が粗暴です。

 ゴータマ様。サカリがついた象に衝突しても、燃え盛る松明に遭遇しても、猛毒に遭遇しても助かる道は多少ありますが、ゴータマ様に出会ったら、逃れることはできません。私は他人の徳を打ち消してばかりいる人で、言葉が強すぎます。「自分の言葉で自分を清算できる」というゴータマ様の言葉を理解したので、どうかゴータマ様とサンガも含めて、私の食べ物を、明日召し上がるために受け取ってください。





子供が集ってカニの爪を叩くように敵の言葉を折れる

リッチャヴィー領主 ドゥッムカの言葉
 中部ムーラバンナーサ 12巻432頁400項

 「村や町から近い所に蓮池があり、その池に一匹のカニがいて、村から大勢の子供がその池へ行って、そのカニを獲って地面に置き、そのカニがどちらかに挟みを傾けると、子供たちが待ち構えていて棒や瓦の欠片で叩きます。このようにカニの挟みが全部へし折られると、二度とその蓮池に戻ることはできません。同じように、世尊に折らてしまったサッチャカの棘や針に覆われているディッティは、反論するために世尊に近づくことができないように、旋回するばかりで足跡の中にいません」。

 リッチャヴィーの領主トゥッムカがこのように言うと、サッチャカが彼に「トゥッムカ領主さん。お止めなさい。あなたは口が過ぎます。私はあなたに文句を言ったのではありません。プラゴータマに言ったんですよ」と言いました。 





世尊と競える人はいない

サッピーニー川の修行者の言葉
増支部ティカニバータ 20巻241頁504項

 ほらね、サラバさん。大きな森のキツネが獅子吼したいと望んでも、実際に吠えれば狐の声、山犬の声のように、サラバさん、あなたもゴータマ様の影で「私は獅子吼をする」と言って、それでキツネの声、山犬の声で吠えます。

 ヒヨコが雄鶏のように鳴きたいと望んでも実際に鳴けばヒヨコの鳴き声のように、サラバさん、あなたもゴータマ様の影で「私は鳴く」と言ってもヒヨコの声で鳴きます。

 一匹だけで囲いの中にいる牛は自分の声は響くと己惚れますが、同じようにスラバさん。あなたはゴータマ様の後ろにいると、自分の声は響き渡ると理解しています。





(同じ教えでも)他の人たちより優れた実践

知識者の称賛の言葉
チェラカッサヴァに
大獅子吼経
長部シーラカンダヴァッカ 9巻207頁261項

 カッサパさん。私はそれらのサマナバラモンを訪ねて、「ほら、あなた。知識者はそれらの条件の中で、合意できない条件は何でも除けて置き、合意できる条件を取り上げて、

『それらのダンマが捨てられて残っていなくても、行動になれば、これらの発展した人が一致して規定したダンマはどれも不善と言い、不善と見なされ、罪のあるダンマであり、罪のあるダンマと見なされ、付き合うべきでないダンマであり、付き合うべきでないダンマと見なされ

、聖人にふさわしくないダンマで、聖人にふさわしくないダンマと見なされ、黒いダンマであり、黒いダンマと見なされる。ゴータマサマナでも、あるいは他の発展した先生でも』と熟慮し、分類し、審問し、教祖と教祖、サンガとサンガを比較します」と言いました。

 カッサパさん。これはあり得ます。カッサパさん。この場合、知識者が取り挙げて熟慮し、分類し、審問して見て、私たち(ブッダとブッダの弟子)をその項目で非常に称賛します。

 カッサパさん。もう一つ、知識者が教祖と教祖、サンガとサンガを比較して見て、

「これらの発展した人が一致して規定したダンマはどれも善と言い、善と見なされ、罪のないダンマであり、罪のないダンマと見なされ、付き合うべきダンマであり、付き合うべきダンマと見なされ、聖人にふさわしいダンマで、聖人にふさわしいダンマと見なされ、白いダンマであり、白いダンマと見なされる。それらのダンマを清浄に漏らさず遵守して品行をしているのは誰だろう。ゴータマサマナ、それとも他の発展した先生」と取り上げて熟慮し、分類し、審問します。

 カッサパさん。これはあり得ます。カッサパさん。この場合、知識者が取り挙げて熟慮し、分類し、審問して見て、私たち(ブッダとブッダの弟子)をその項目で非常に称賛します。





ブッダの弟子は、他の人たちより優れた実践ができる(同じ教えで)

ブッダについて述べた外部の人たちの声
大獅子吼経
長部シーラカンダヴァッカ 9巻208頁264項

 カッサパさん。もう一つ。知識者はそれらを取り上げて、

「これらの発展した人が一致して規定したダンマはどれも不善と言い、不善と見なされ、罪のあるダンマで、罪のあるダンマと見なされ、付き合うべきでないダンマであり、付き合うべきでないダンマと見なされ、聖人にふさわしくないダンマで、聖人にふさわしくないダンマと見なされ、黒いダンマであり、黒いダンマと見なされる。

それらのダンマが捨てられ、残っていなくても行動になれば、ゴータマサマナでも、あるいは他の発展した先生でも」と熟慮し、分類し、審問し、教祖と教祖、サンガとサンガを比較します。

 カッサパさん。これはあり得ます。カッサパさん。この場合、知識者が取り挙げて熟慮し、分類し、審問して見て、私たち(ブッダとブッダの弟子)をその項目で非常に称賛します。

 カッサパさん。もう一つ。知識者が教祖と教祖、サンガとサンガを比較して見て、

 「これらの発展した人が一致して規定したダンマはどれも善と言い、善と見なされ、罪のないダンマであり、罪のないダンマと見なされ、付き合うべきダンマであり、付き合うべきダンマと見なされ、聖人にふさわしいダンマで、聖人にふさわしいダンマと見なされ、白いダンマで、白いダンマと見なされる。

 それらのダンマを遵守し、残らず清浄で品行をしているのは誰だろう。ゴータマサマナ、それとも他の発展した先生」と取り上げて熟慮し、分類し、審問します。

 カッサパさん。これはあり得ます。カッサパさん。この場合、知識者が取り挙げて熟慮し、分類し、審問して見て、私たち(ブッダとブッダの弟子)をその項目で非常に称賛します。





分別論者であり一向論者ではない

ヴァッチヤマーヒタ長者の声

 異教の人たちがヴァッチヤマーヒタ長者に「長者さん。ゴータマサマナはすべての苦行を貶すと聞きました。当然みすぼらしい暮らしのすべての苦行者を罵り、当然一方的に悪口を言うのですか」と言いました。

 「発展したみなさん。世尊は、すべての苦行をけなし、当然すべてのみすぼらしい暮らしの苦行者を罵り、当然一方的に悪口を言いません。発展したみなさん。世尊は貶すべき人をけなし、称賛すべき人を称賛します。発展したみなさん。世尊はこのように貶すべき人を貶し称賛すべき人を称賛するので、分別論者であり一向論者ではありません」。

 ヴァッチヤマーヒタ長者がこのように述べると、ある修行者が長者に「長者さん。ゴータマサマナの美徳を称賛するのはちょっと待ってください。ゴータマサマナは破滅に導く人で、規定しない人です」とこのように言いました。ヴァッチヤマーヒタ長者は次のように答えました。

 「発展したみなさん。これについてもみなさん、世尊は、これは善、これは不善と規定なさいます。このように善・不善を規定するので規定する人と言われます。世尊は破滅させる行動をする人でも、規定しない人でもないと言わせていただきます」。

 (このように聞くと、異教の修行者は黙ってしまいました)。





タターの教えを規定なさる

修行者ポッタパーダの声
長部シーラカンダヴァッカ 9巻235頁296項

 猊下。その時、世尊が立ち去られて間もなく、その修行者たちが私を取り囲ん で「ポッタパーダさん。こう言うことです。ゴータマサマナの言葉は何でも、あなたは『そのとおりです、世尊。そのとおりです、世尊』と随喜しますが、私たちはゴータマサマナから、

 『世界は不変か不変でないか。世界に終わりはあるか否か。命と体は同じか否か、死後もそれまでどおり存在するか否か、死後存在するのもあり、存在しないのもあるのか、死後存在するのでもなく、存在しないのでもないのか』というエカンシカダンマ(註)を、少しも聞いていません」と言いました。

 猊下。修行者たちがそう言うと、私は彼らに「この私も『世界は不変か不変でないか。世界に終わりはあるか否か。命と体は同じか否か、死後もそれまでどおり存在するか否か、死後存在するのもあり、存在しないのもあるのか、死後存在するのでもなく、存在しないのでもないのか』というエカンシカダンマを、少しも聞いていません。

 しかしゴータマサマナは、当然ダンマッティタターであり、ダンマニヤマターであるブータパティパダー、タッチャパティパダー、タターパティパダーを規定しています。

 ゴータマサマナがこのようにダンマッディタターであり、ダンマニヤマターであるブータパティパダー、タッチャパティパダー、タターパティパダーを規定した時、知識者と私は、どうしてゴータマサマナの金言を金言として喜ばないことがあるでしょうか」と言いました。

註: エカンシカダンマとは、原因と縁で経過するという項目がない、一方だけの主張があるダンマです。一方ダンマッティタターでありダンマニヤマターであるタターパティパダーなどは、縁生(因果。因果の法則)、縁起を意味し、すべては原因と縁で経過すると述べ、何もどちらか一つになると一方的に言うことはできません。(編者)





美徳が深いので、他人は論理で推測するだけ

ボロを着た修行者の言葉
中部ムーラバンナーサ 12巻336頁329項

 ジャーヌッソーニバラモンは遠方から歩いて来るボロを着た修行者を見て、「ヴァッチャーヤナ氏族の方は、このような日に、当然どこから来たのですか」と訊きました。

 「発展なさった方。私はゴータマサマナの所から来ました」。

 「ヴァッチャーヤナ氏族の発展なさった方。学者たちが揃ってゴータマサマナは博識と見なしています。どれほど鋭いのですか」。

 「発展なさった方。私はプラゴータマの博識と、どれほど鋭いか知ることはできませんよ。知ることができる人は博識で、そしてゴータマサマナと同じくらい鋭い智慧のある人だけです」。

 「発展なさった方。あなたはヴァッチャーヤナ氏なので、彼らと同じようにゴータマサマナを称賛しますか」。

 「発展なさった方。何で私がゴータマサマナを賞賛しないことがあるでしょう。ゴータマ様は誰からも天人や人間より素晴らしいと称賛される方です」。

 「ヴァッチャーヤナゴッタの発展なさった方、ゴータマサマナは何の威力でこれほど信頼があるのでしょうか」。

 「発展なさった方。私はゴータマサマナをそれほど信頼しない人でした。このことは、賢い象の捕獲者が森へ入って長さも幅も十分な象の足跡を見つけると、彼は「大きな象に間違いない」という確信に至るように、私はゴータマサマナの四つの確認事項を見た時、その時私は、世尊は自分で正しく悟った人で、教えは世尊が正しく悟ったもので、サンガは世尊のお弟子である実践者だと確信しました。

 発展なさった方。四つの確認事項とはどのようでしょうか。

(1)私は、手慣れた討論をしたことがあり、鹿の毛を突き刺せるくらい非常に鋭い智慧があり、精緻な智慧があるカッティヤ(武士階級)である学者たちが、自分の智慧で他人の考えを攻撃して回るのを見ました。

 それらの学者は、ゴータマサマナがどこの集落、どこの村に滞在していると噂を聞くと、「この問題をゴータマサマナに質問して、ゴータマサマナがこう答えたら、私はこう反論しよう。こう説明したら、こう反論しよう」と様々なケースまで想定して、ゴータマサマナを滞在先に訪ねました。

 ゴータマサマナはダンマの解説をし、それらのカッティヤである学者の心を目覚めさせ、勇敢で明るい気力を与えました。それらの学者は目覚めさせられ、そのように勇敢で明るく気力が出たので、問題を質問せず、考えておいた反論もしないで、一人残らずゴータマサマナの弟子になりました。

 発展なさった方。私はその時ゴータマサマナの、この一番の確認事項を見たので、世尊は自分自身で正しく悟った人で、ダンマは世尊が正しく説かれたもので、世尊のサンガは善く実践する人だと確信するに至りました。

 「発展なさった方。(2)私は、手慣れた討論をしたことがあり、精緻な智慧があるバラモンである学者のある人たちが(以下同文)

 「発展なさった方。(3)私は、手慣れた討論をしたことがあり、精緻な智慧がある長者である学者のある人たちが(以下同文)

 「発展なさった方。(4)私は、手慣れた討論をしたことがあり、精緻な智慧があるサマナである学者のある人たちが(以下同文)

 発展なさった方。ゴータマサマナは、それらの学者の方々を、当然出家させました。

 それらの学者がそのダンマヴィナヤで出家すると、静かな場所で遠離する人になり、不注意でなく、煩悩を焼く努力があり、日常的にサマーディの努力に自分を追い遣り、間もなく、家を出て出家し、家のない人になった良家の子息が望む物である、それ以上の物はない梵行の終りを、最高の智慧で明らかにし、そして常にその感覚の中にいます。

 それらの方々は揃って「発展したみなさん。私は二度と自分の心を破壊しません。今まで私たちはサマナではないのに自分はサマナだと宣言し、バラモンではないのに自分はバラモンと宣言し、阿羅漢ではないのに自分は阿羅漢だと宣言しました。今私たちはサマナであり、バラモンであり、今私たちは阿羅漢です」と言われます。

 発展なさった方。私がこの四つのゴータマサマナの確認事項を見た時、その時私は、世尊は自分自身で正しく悟った人で、ダンマは世尊が正しく説かれたもので、世尊のサンガは、善く実践する人だと確信するに至りました。

 その時ジャーヌッソーニバラモンは車から降り、布を左肩に掛けて右肩を出し、世尊が滞在しておられる方向へ向かって合掌して、三度詠嘆しました。

 ナンモー タッサ バガヴァトー アラハトーサンマーサンブッダッサ

 ナンモー タッサ バガヴァトー アラハトーサンマーサンブッダッサ

 ナンモー タッサ バガヴァトー アラハトーサンマーサンブッダッサ

 そして「私がゴータマサマナに出合えるのはいつだろう。どうすればゴータマサマナと会話できるだろう」と言いました。





一般人の称賛の言葉より上にいる

ピンギヤニバラモンの声
増支部パンチャカニバータ 22巻263頁194項

 (カーラナパーバラモンとピンギヤニバラモンが、世尊に言及している会話で)

 「ピンギヤニさん。あなたはゴータマサマナの博識と洞察力をどう思いますか。熟達した大学者に見えますね」。

 「発展なさった方。どうして私にゴータマサマナの博識と洞察力が分かるでしょうか。分かるにはゴータマサマナと同等でなければなりません」。

 「ピンギヤニさんは壮大な称賛の言葉でゴータマサマナを称賛していると聞きました」。

 「発展なさった方。ゴータマサマナを称賛できるどこの誰を見ても、ゴータマサマナは天人よりすべての人間より素晴らしいと称賛するばかりです」。

 「ピンギヤニさん。ゴータマサマナの何の利益の力を見て、そんなに尊敬するのですか」。

 「発展なさった方。最高の味で十分満足した人が他の不味い味を望まないように、発展なさった方。ゴータマサマナのどんなダンマでも、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を聞いた人は、その人は他のたくさんのサマナのいろんな状態のダンマを聞きたがりません。

 発展なさった方。あるいは黄チャンダや赤チャンダの木の瘤を手に入れ、下で、中間で、あるいは上で匂いを嗅いだ人は、当然混じり気のない匂いを嗅ぐように、ゴータマサマナのどんなダンマでも、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を聞いた人も、そのような状態の歓喜と喜びに遭遇します。

 発展なさった方。あるいは重病で苦がある人は賢い医者によって病気が治るように、ゴータマサマナのどんなダンマでも、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を聞いた人も、その状態で維持できないことに到達します。

 発展なさった方。あるいは冷たく白い水が空の光でキラキラ光り、便利に昇り降りできる階段がある心地よい場所である蓮池に、体が蒸れて暑く、暑さに包まれて疲労し、体が震え、喉が渇いている一人の男が歩いて来ると、男はその蓮池に下りて行って水を浴び、水を飲んで、焦燥と渇きと困難とイライラを、すべて沈めることができるように、

 発展なさった方。ゴータマサマナのどんなダンマ、つまり経、応頌、授記、偈、自説、如是語、本生経、未曾有法、方広(毘陀羅)を聞いた人も、そのような状態で焦燥と渇きと困難とイライラを、すべて抑えることができます。

 (ピンギヤニバラモンはこのように述べると、カーラナパーリバラモンは立ち上がって布を肩に掛けて一方の肩を出し、世尊が滞在しておられる方向を向いて右膝を着いて合掌し、三度詠嘆しました。

 ナンモー タッサ バガヴァトー アラハトーサンマーサンブッダッサ

 ナンモー タッサ バガヴァトー アラハトーサンマーサンブッダッサ

 ナンモー タッサ バガヴァトー アラハトーサンマーサンブッダッサ





四つの高い徳がある

ヴァッサカーラバラモンの言葉
ラージャガハに近い竹林精舎で
増支部チャトゥカニバータ 21巻47頁35項

 発展なさったゴータマ様。これは不思議です。これは今までありませんでした。私は、猊下が四つのダンマがあるとおっしゃったと記憶します。

(1) 発展なさったゴータマ様は、大衆を援けるため、大衆の幸福のため、多くの会衆をアリヤニャーヤダンマ(善)にいさせるため、つまり美しいダンマがあり、善であるダンマがある人にさせるために実践なさる方です。

(2) 発展なさったゴータマ様は、何かを熟考しようと決意なさると、それを熟考することができ、何かを熟考しないと決意なさると、それを熟考しないこともでき、何かを考えようと決意なさると、それを考えることができ、何かを考えないと決意なさると、それを考えないこともできます。

 それというのもゴータマ様は、すべての考えの流れより、心の威力が上にある方だからです。

(3) 発展なさったゴータマ様は現生で幸福になる道具であるダンマ、高い心にするダンマである四つすべての禅定を、大変でなく、簡単に、望み通りに得られる人です。

(4) 発展なさったゴータマ様は、漏がなくなって漏を探すことができない心解脱、智慧解脱を、生きているうちに最高の智慧で明らかにすることができ、そしてそのダンマヴィハーラ(ダンマ精舎)の中にいます。





ムッダーとムッダーティバータをご存知

アッタカーマ天人の声
小部スッタニパータ 25巻525頁424項

 バラモンさん。私もそれは知りません。私のその知識はありません。ムッダー(愚昧)とムッダーティバーダ(頂堕)は勝者だけのためのダンマダッサナだからです。

 (しかし)オッカーカラージャ王の血筋のサキヤプッタサマナがカビラバスツの都から出家して、世界の指導者、大衆を明るくする人、自分で悟った人になり、すべてのダンマの岸に至り、神通力に到達し、すべての力が揃い、すべてのダンマに目があり、すべてのカンマの終わりに至り、ウパディが終わるダンマで解脱して世界の貪欲を破った人ブッダになり、ブッダの目があり、ダンマを説いておられます。あなたが質問なされば、世尊はあなたにムッダーとムッダーティバータを説いてくださいます。





いろんな四衆がいっぱいいる

ハッタカ天人の言葉
バラーナシーに近いイシパタナマルガダーヤヴァナの森で
増支部ティカニバータ 20巻359頁567項

 猊下。猊下が人間であられた時実践なさったことがあるこれらのダンマを、今私は実践しています。その上、人間の時実践なさったことがないダンマも実践しています。

 猊下。今世尊が人間群、比丘、比丘尼、清信士、清信女、王や大臣、異教の教祖、そして異教の弟子に囲まれていらっしゃるように、私も普段、たくさんの天人に囲まれています。天人はみなは「私たちはハッタカ天人の住まいでダンマを聞こう」と決めています。

 猊下。私は三つのものに飽きません。三つとはどのようでしょうか。三つとは、

 私は世尊を見ることに、死ぬまで飽きません。

 私はサッダンマ(正法)を聞くことに、死ぬまで飽きません。

 私はサンガを支援することに死ぬまで飽きません。

 猊下。私は死ぬまでこの三つに十分と思うこと、飽きることはありません。





プラゴータマの忍耐を見下す人は目がないも同然

ある天人の声
相応部サガータヴァッガ 15巻39頁130項

 (ブッダが石の欠片で負傷され、マッダグッチミガダーヤヴァンに滞在なさって、激しい苦受を味わっておられる時、憔悴することなく常自覚でその受に耐えることができ、獅子の寝相で横になっておられました。サトゥッラパカージカー天人の一行が見舞いに来て、面前で、

 一人は「象のように忍耐されている」と言い、一人は「獅子のように忍耐されている」と言い、一人は「良馬のように忍耐されている」と言い、一人は「牛の群れの頭のように忍耐されている」と言い、一人は「荷を引く牛のように忍耐されている」と言い、一人は「よく訓練された戦争に出る動物のように忍耐されている」と言い、最後の天人は次のように嘆じました。

 みなさん。(ゴータマサマナの)よく訓練されたサマーディをご覧なさい。貪りで膨張せず、憂いで萎まず、そして二度とササンカーラ(行がある)ダンマで脅して禁止する必要がない、(ゴータマサマナの)良く解脱なさった心をご覧なさい。

 龍のように、獅子のように、良馬のように、群れの長牛のように、荷を引く牛のように、よく訓練された戦いに行く動物のようにと理解する人は、見下されるべき人と言います。その人は見る目がない人以外の何物でもありません。 





天人が喜ぶ美徳

サッカ王(ダオサッカデヴァラージャ)の声
長部マハーヴァーラヴァッガ 10巻253頁211項

 天人の統領であるサッカ王(梵天)がトウ利天の天人に、「無苦であるみなさん。みなさん、世尊の真実のままの八つの美徳を聞きたいですか」と言いました。それらの天人が聞きたいと答えると、サッカ王は世尊の八つの美徳を、トウ利天の天人たちに真実のままに話しました。

1.世尊は多くの人を支援する利益のため、多くの人の幸福のため、世界を可愛がるため、天人とすべての人間を支援する利益のため、幸福のために実践なさいました。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

2.世尊が良く説かれたダンマは、学習して実践した人が自分で見ることができ、時に左右されず、(友人を)呼んで来て見せるべき、自分に取り入れるべきダンマで、知る人その人だけが知るダンマです。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

3.世尊は「これは善、これは不善、これは害がある、これは害がない、これは味わうべき、これは味わうべきでない、これは緻密、これは白いダンマと黒いダンマに分類できる」と、良く規定なさいました。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

4.世尊は、すべての弟子に涅槃へ行く道を良く規定なさいました。涅槃とパティパダー(道)は、ガンガ(ガンジス川)の水とヨムナー川の水のように溶け合い、当然一つになって流れて行きます。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

5.世尊には有学の実践者である友と、漏が終わって梵行が終わった友がいます。だから群れから離れられ、お一人でいることに喜びがおありになります。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

6.溢れるほどの世尊への供物と称賛は、人々が満足している王と同じですが、世尊は陶酔がなしにお食事を召し上がります。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

7.世尊は言われたように行動され、行動したように話されます。だから世尊はヤターヴァーディー(説いたように行動する人。言行一致の人)、タターカーリー、ヤターカーリー、タターヴァーディーと言われます。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

8.世尊は疑念を越えた方で、何は何だという疑念がなく、成功した望みがあり、性格である増上梵行があるに至りました。私は過去でも現在でも、世尊以外にこの美徳がある教祖を見たことがありません。

 (天人の統領であるダオサッカがとう利天レベルの天人に、このように世尊の八つの美徳を真実のままに話すと、天人たちは大きな喜びの声を上げました。あるグループは「このようなブッダが世界に四人ばかり生まれてほしい」と言い、あるグループは「三人ばかり生まれてほしい」と言い、あるグループは「二人ばかり生まれてほしい」と言いました。サッカ王(梵天)は「世界に、一度に二人以上のブッダが生まれることはあり得ません」と説明しました)。





非常に良い衛生がある

ローヒッチャバラモンの言葉
長部シーラカンダヴァッガ 9巻285頁353項

 こっちへお出でなさいローシカさん。ゴータマサマナは、大衆がどこへ訪ねて行っても拝謁できます。

 あなたはそこへ行って拝謁し、病気が少なく、患いが少なく、シャキッと立ち上がることができ、力があり、安楽に暮らすゴータマサマナに「ゴータマ様と比丘のみなさん、明日召し上がるために、ローヒッチャバラモンの食べ物をお納めください」と、自分の言葉でおっしゃい。



髪を引っ張って淵に落ちた人を助けることができる

 ゴータマ様。淵に落ちようとしている男の髪を掴んで引き上げ、地上に立たせる人のように、この場合の世尊は、淵に落ちようとしている人の髪を掴んで引き上げ、地上に立たせる人のようです。






どれにも高い美徳がある

ソーナダンタバラモンの言葉
長部シーラカンダヴァッガ 9巻146頁182項

 五百人のバラモンが最高レベルのバラモンの地位が廃ることを恐れて、ジャムパー領主ソーナダンタバラモンがブッダに拝謁に行くのを阻止したので、ソーナダンタバラモンはブッダに拝謁しなければならない理由を次のように述べました。

 発展したみなさん。それならゴータマサマナがこちらに出向くのではなく、なぜ私がゴータマサマナに拝謁に行かなければならない側なのか、私の言葉を聞いてください。

 私が知る限りでは、ゴータマサマナは父方も母方も生まれが良く、先祖七代遡っても全部純潔な胎に生まれ、誰も素性について抗議や異議を申立てられる人はいません。これがゴータマサマナがこちらへ出向くのでなく、私がゴータマサマナに拝謁に行かなければならない理由の一つです。

 ゴータマサマナは偉大な王族を捨てて出家しました。これがゴータマサマナがこちらへ出向くのでなく、私がゴータマサマナに拝謁に行かなければならない理由の一つです。

 ゴータマサマナはまだ若く、髪はみどりの黒髪で、発展中の若さで家を出て出家し、家からの利益を期待せず(等々)、ゴータマサマナは、両親が出家することを望まず、顔中を涙で濡らして反対されている時、髪と髭を下ろして渋で染めた布をまとい、家を出て出家し、家からの利益を期待しませんでした。

 ゴータマサマナは、見栄えのする勇壮な姿で、帰依する基盤であり、非常に美しい肌の艶があり、大梵天のような肌艶、大梵天のような体型で非常に美しいです。ゴータマサマナは戒のある人で素晴らしい戒があり、善である戒があり、善である戒が完璧で、(等々)

 ゴータマサマナは美しい物言いをし、美しいことで鳴り響き、庶民が喜ぶ物言いをし、騒々しくなく、混乱せず、聴衆に要旨を理解させることができ、(等々)、ゴータマサマナは大勢の人の先生であり、校長先生です。

 ゴータマサマナは欲貪が終わった人で、愛欲に関わる焦燥がなく(等々)、ゴータマサマナはカンマの教理を教え、動物を善に導く行動を教え、(等々)、

 ゴータマサマナは高い身分、つまり混じり気のないカッティヤ(王族)の家系から出家し(等々)、ゴータマサマナは財産が豊富で消費財が豊富な富豪の家系から出家し(等々)、

 ゴータマサマナは地域外の大衆、外部の田舎の大衆が、疑問点を質問するために訪ねて来(等々)、ゴータマサマナは多勢のいろんな天人が命を捧げて帰依する人です。

 ゴータマサマナは「世尊はご自分で正しく悟った阿羅漢で、知識と品行が完璧で、良く行った人で、世界を知り、訓練すべき人を誰よりも良く訓練する御者で、天人と人間の先生で、明るい人で、ダンマを分類して動物に教える」と、このように美しい名誉の言葉が広まっています。

 ゴータマサマナは大人物の三十二相がある人で(等々)、ゴータマサマナは平素、誘い受け入れる言葉がある人で、柔和な言葉があり、表情が明るく、ヒヤリとせず、口ごもらず、時と場所に正しい言葉があり、挨拶は先になさり(等々)、

 ゴータマサマナは、四衆が尊敬し、尊重し、崇拝し、跪拝する人で(等々)、多くの天人と人間がゴータマサマナだけに帰依しています。

 ゴータマサマナがどこの村や町に滞在しても、非人間は当然村や町の人間を妨害しません(等々)。ゴータマサマナは集団を率いる人で、集団の先生で、どこにもあるすべての教義より卓絶している人と明らかになっています。

 一般の教祖に生じる名誉とゴータマサマナに生じる栄誉は違います。実際ゴータマサナマナに生じる栄誉は知識と行動が完璧であることによる物で、それ以上の物はないからです。

 マガタ国の王であり将軍であるピンピサラ王は、妻子も議会も大臣も、揃って生涯ゴータマサマナに帰依するに至り(等々)、コーサラ国のパセンディ王は、妻子も議会も大臣も揃ってゴータマサマナに生涯帰依するに至り、

 ポッカラサーティバラモンは妻子も議会も大臣も揃ってゴータマサマナに生涯帰依させるに至り、ゴータマサマナは、マガタ国の王であり将軍であるピンピサラ王と、パセンディコーサラ王、ポッカラサーティバラモンが尊敬し、尊重し、崇拝し、信仰し、拝礼する人です。

 ゴータマサマナがチャンパーへ遊説し、チャンパーの都に近いガッガラーという蓮池の畔に滞在されている時、発展したみなさん。サマナでもバラモンでも、私の領地に来た人は、客と名が付けば当然私たちが尊敬し、尊重し、崇拝し、信仰し、拝礼しなければならない人です。

 ゴータマサマナもお出になったので、ゴータマサマナは私たちの客であり、私たちが尊敬し、尊重し、崇拝し、信頼し、拝礼するべき客です。これもゴータマサマナがこちらへ出向くのでなく、私がゴータマサマナに拝謁に行かなければならない理由の一つです。

 私がゴータマサマナの美徳を述べるのはこれだけですが、ゴータマサマナの美徳はこれだけではありません。ゴータマサマナは非常に徳が高く、測ることはできません。





大人物の三十二相がある

ウッタラ青年の言葉
中部マッジマパンナーサ 13巻532頁589項

 (ウッタラ青年は七か月もの間ブッダと同行して観察し、戻ってから自分のアーチャンに、観察したことを報告しました)。

 発展なさった方。プラゴータマの噂は本当です。ゴータマサマナは噂どおり、噂と違わず、大人物の三十二相があります。

 ゴータマサマナは足の裏が平らで、これは大人物の相の一つです。(その後は第一部の初めのブッダ自身の言葉にあるのと同じです)・・・・・・、ゴータマサマナは、頭が冠を受ける形の段があり、これも大人物の相の一つです。これらがゴータマサマナの大人物の三十二相です。



威風堂々とした優雅な姿

 発展なさった方。ゴータマサマナが歩く時は当然右足を先に出し、歩幅は大きすぎず小さすぎず、早すぎず遅すぎず、脛で脛を押さず、足首と足首が当たらず、(水中を歩くように)足を高く上げず、足を低く引きずらず、足を捩らず(つまり足を出すたびに絡まない)、脚が揺れません。

 ゴータマサマナが歩く時は体は安定して揺れず、そして歩くために力を出さなければならないと感じません。振り向く時は当然体全体で振り向き(顔だけで振り向かない)、上方を見ず、下方を見ず、急いで歩かず、(牛などの)くびきくらい先を真っ直ぐに見て、頸木より外側はニャーナダッサナ(智見)で見ます。


尊敬したくなる優雅な作法

 発展なさった方。ゴータマサマナが集落に入る時は当然背伸びをせず、屈まず、体をねじらず、揺らさずに入り、ゴータマサマナが座る時は体を回さず、遠すぎず近すぎず、手で体を支えずに座り、座って椅子に沈まず(たとえばほとんど寝るくらい背もたれに寄りかかるなど)、ゴータマサマナが座ると手はビクともせず、足もビクともせず、脛で脛を支えて(足を組んで)座らず、くるぶしでくるぶしを支えて座らず、手で顎を支えて座りません。


家の中でビックリしない

 発展なさった方。ゴータマサマナが家の中で座る時当然ビックリせず、ゾッとせず、戦々恐々とせず、戦慄しません。平素からビックリせず、ゾッとせず、戦々恐々としない人で、鳥肌が立つことがなく、心はヴィヴェカ(遠離)に戻っています。


集落で食事をする時きちんとしている

 発展なさった方。ゴータマサマナが家の中に座って鉢を洗う水を受け取る時、当然鉢を高く上げず、鉢を傾けず、鉢を転がさず、鉢が揺れず、当然鉢を洗う水は多すぎず少なすぎず、カシャカシャ音を立てずに洗い、転がさないで洗い、鉢を床に置かずに手を洗い、そして手と鉢を一緒に洗い終わります。鉢の水を灌ぐ場所は、遠すぎず近すぎず、そして水を撥ね飛ばしません。

 ゴータマサマナがご飯を受ける時は、当然鉢を高く上げず、鉢を傾けず、鉢を転がさず、鉢が揺れず、当然ご飯の量は多すぎず少なすぎず、汁やおかずも適量で、当然ご飯の固まりを丸めて口の中に入れ、転がして正しく噛んで、二三回引っくり返して飲み込みます。

 ご飯の皮膜が細かく砕けない間は当然体内に入れず、そして少しのご飯の皮膜も口の中に残さず、当然ご飯の固まりを半分だけ(一度に固まりの半分だけ、あるいは口の半分だけ)入れます。


食べ物の味に夢中にならない

 発展なさった方。ゴータマサマナは自分が食べ物の味を知ったと感じても、味の虜になる喜びを感じません。ゴータマサマナは八項目で食べ物を食べます。

 つまり遊びのために食べず、味に酔うために食べず、肌のために食べず、各部分を飾るために食べず、ただこの体を維持するため、体を維持するため、空腹の苦を防ぐため、梵行を援けるためにだけ、「このようにすることで、私は当然古い受を無くし、そして新しい受は生じさせない。体を維持すること、食べ物の害がないこと、そして安楽な暮らしは私にある」と考えて食べます。


鉢の中に勤めがある

 発展なさった方。ゴータマサマナが食べ終わって鉢を洗う水を受ける時、当然鉢を高く上げず、鉢を傾けず、鉢を転がさず、鉢が揺れません。

 当然鉢を洗う水は多すぎず少なすぎず、カシャカシャ音を立てずに洗い、転がさないで洗い、鉢を床に置かずに手を洗い、そして手と鉢を同時に洗い終わります。食べ終わって鉢を置く場所は遠すぎず近すぎず、鉢を放置せず、鉢の維持を無視しません。


集落での食事が終わって戻る

 ゴータマサマナは食べ終わるとしばらく黙って座り、そして時間を無駄にしないで祝福し、食べた食べ物を貶さず、他の食べ物を褒めません。当然その教団員とダンマの会話をして勇敢で明るくし、それから座を立って去って行きます。

 ゴータマサマナは怒りで出し抜けに行動せず、ぐずぐずせず、そして誰にも分からないように姿を消しません。


シンプルな装い

 ゴータマサマナの体を包むチーヴァラ(衣)は短すぎず長すぎず、きつすぎず緩すぎず、風はゴータマサマナのチーヴァラを捲り上げず、埃はゴータマサマナのチーヴァラに付きません。


動物を援けることだけを目指す

 ゴータマサマナはお寺へ戻って座り、用意してある座に座って足を洗います。ゴータマサマナは足を美しく手入れする人ではありません。

 足を洗うと、結跏趺坐して体を真っ直ぐに立て、サティを現前に据え、自分を苦しめる考えをせず、他人を苦しめる考えをせず、自分と他人を苦しめる考えをせず、自分を援け、他人を援け、自分と他人を援ける、つまり世界全体を援ける利益になることを考えることができます。


八つの声調でダンマを説く

 ゴータマサマナがお寺に着くと、(夕方)当然教団員を集めてダンマを説きます。教団員に媚びず、当然ダンマの説明の会話で、教団員を勇敢で明るくします。

 ゴータマサマナの口から放たれる輝いて響き渡る声には八項目があります。つまり矛盾がなく、聞いて理解でき、美しく、聞き堪えがあり、流暢で、不明瞭でなく、沁み渡り、遠くまでハッキリと響き渡ります。

 ゴータマサマナが教団員に主旨を理解させるために用いる声は、教団員以外には響きません。それらの教団員はゴータマサマナのダンマの説明の会話で、勇敢で明るくなり、座を立って去る時も、まだ去りがたい情で振り返ります。

 発展なさった方。私は当然ゴータマサマナが歩く時、立っている時、家へ入る時、家の中で黙って座っている時、家の中で食事をする時、食べ終わって黙っている時、食べ終わって祝福する時、お寺へ着いた時、お寺へ着いて黙って座る時、お寺へ戻って教団員にダンマを説く時を見ました。ゴータマサマナは今述べたようで、そして今述べた以上です。 

 「アラハンタサンマーサンブッダである世尊に拝礼させていただきます。アラハンタサンマーサンブッダである世尊に拝礼させていただきます。アラハンタサンマーサンブッダである世尊に拝礼させていただきます。ゴータマサマナと会う機会があったら、私はゴータマサマナと言葉を交わさなければなりません」。

 これは、聞き終わったブラフマーユバラモンの感嘆と、世尊とのお付き合いを望む言葉です。




百のブッタの徳

ウバーリ長者の声
中部マッジマバンナーサ 13巻77頁82項

 発展なさった方。私の言葉をお聞きなさい。私は世尊の弟子です。世尊は、

1.智慧がある哲学者で、

2.モーハ(愚かさ)がなく、

3.心を縛りつける大黒柱を折った人で、

4.壮麗な勝利のある人で、

5.困窮、傷心させる物がない人で、

6.いつも変わらぬ心がある人で、

7.ブッダである人の正常がある人で、

8.利益を生じさせ成功させる智慧がある人で、

9 輪廻の荒海を渡ることができた人で、

10.すべての穢れがなくなった人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

11.誰かに、何は何かと質問することがない人で、

12.常にダンマの満足で満足している人で、

13.世界の餌を吐き出してしまった人で、

14.すべての動物にムディター(喜。他者の幸福を喜ぶこと)がある人で、

15.し終えたサマナバーヴァがある人で、

16.本当のマヌ神の生まれの人で、

17.最後の体がある人で、

18.本物の人で、

19.誰も例えようがない人で、

20.埃に例えられる煩悩がない人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

21.すべての疑問が無くなった人で、

22.動物を素晴らしい状況に導く人で、

23.萱を刈るように煩悩を断つ智慧のある人で、

24.すべての御者より素晴らしい御者で、

25.すべての美徳で誰も超える人がいない人で、

26.すべての動物の喜びの基盤であるダンマがある人で、

27.疑念を全部出してしまった人で、

28.すべての動物を明るくする人で、

29.思い込ませる道具である慢を断った人で、

30.勇壮にするヴィーラ(英雄)ダンマがある人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

31.すべての人間の中の頂点である人で、

32.誰も規定することができない美徳がある人で、

33.誰も推測できない深遠な状況のダンマがある人で、

34.ムニー(牟尼)にする智慧に至った人で、

35.すべての動物を安全にする人で、

36.ヴェーダつまりモーハ(痴)を突き抜けるニャーナ(智)がある人で、

37.ダンマの中に安住している人で、

38.良く組織された僧がいる人で、

39.疑わせるものである煩悩を越えた人で、

40.すべての首枷から脱した人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

41.身近で最高の大臣のような人で、

42.煩悩の妨害が静まった眠りのある人で、

43.有があるようにする煩悩が終わった人で、

44.すべての苦から特別な解脱をした人で、

45.出来事にピッタリな考えのある人で、

46.ムニーにする智慧がある人で、

47.旗を下ろすように慢を捨てた人で、

48.ラーガがない人で、

49.(訳注:原書のこの項目が欠落しています)。

50.遅らせるものである煩悩が無くなった人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

51.七人目である偉大な徳を探求して発見した人で、

52.不正がない人で、

53.三つすべての明がある人で、

54.すべての動物の梵天である人で、

55.浴びること、洗うことが終った人で、

56.すべての行動に規則がある人で、

57、静まった心、本性がある人で、

58.すべての煩悩の都を破壊した人で、

59.(訳注:原書にこの項目が欠落しています)。

60.すべての動物の統領である人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

61.敵つまり煩悩から脱した人で、

62.最高に訓練した自分がいる人で、

63.到達すべきダンマに到達した人で、

64.すべての要旨を明らかにした人で、

65.どんな場合にも完璧なサティがある人で、

66.正常で明らかな知識と、明らかな見解のある人で、

67.煩悩の威力に潰されない心のある人で、

68.煩悩の威力で膨張しない心のある人で、

69.煩悩の威力で動揺しない心のある人で、

70.煩悩の威力より上にある心に到達した人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

71.正しく行った人で、

72.サマーディと智慧を仔細に見る人で、

73.煩悩が追って行けない本性がある人で、

74.すべての憂鬱な物がない清浄な人で、

75.欲望とディッティ(邪見)が住めない人で、

76.恐怖の基盤であるものに恐怖がない人で、

77.すべての煩悩の妨害が静まった人で、

78.素晴らしいダンマに到達した人で、

79.荒った曝流を渡った人で、

80.他の人にもその曝流を渡らせる人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

81.鎮まった本性がある人で、

82.緻密な智慧がある人で、

83.偉大な智慧がある人で、

84.貪りのない人で、

85.すべてのブッダと同じような往来がある人で、

86.善く行った人で、

87.比較できる人がない人で、

88.肩を並べる人がない人で、

89.勇敢な智慧がある人で、

90.しなやかな智慧のある人です。


 私は世尊の弟子です。世尊は、

91.網、つまり動物を罠にかける欲望に穴を開けた人で、

92.目覚めた人、正常で明るい人で、

93.煩悩は離れて行った煙のような人で、

94.欲望とディッティに、二度と塗れない人で、

95.人が崇拝するにふさわしい、供養されるにふさわしい人で、

96.世界中が崇拝しなければならない人で、

97.すべての人より最高に高い人で、

98.誰も計測できない徳がある人で、

99.大人物で、

100.徳望で頂点に達した人です。


 私は世尊の弟子で、世尊はこのようです。





生涯梵行をする僧がいる

パセンディコーサラ王の言葉
サーカヤ地域のニガマメダルパで
中部マッジマパンナーサ 13巻509頁562項

 猊下。私の世尊の観察は「世尊は自分で正しく悟った方で、ダンマは世尊が良く説かれたもので、僧サンガは良く実践する世尊のお弟子」とこのようです。

 猊下。これについて私は、サマナ・バラモンのある人たちが厳格な梵行を十年、二十年、三十年していても、別の時代には良く浴びる人良く塗る人になり、髪と髭を飾り、人にかしずかれて五欲で満たされているのを見ます。

 この宗教の比丘は純潔で完璧な梵行を、生涯、息が絶えるまでしていると見えます。猊下。私はこのように純潔で完璧な梵行は、この梵行以外に見ません。これは私が世尊を観察した、観察事項の一つです。


整然とした僧教団員

 まだあります、猊下。王も王と仲違いし、武士も武士と仲違いし、バラモンもバラモンと仲違いし、長者は長者と仲違いし、母は子と仲違いし、子は母と仲違いし、父は子と仲違いし、子は父と仲違いし、兄弟は姉妹と仲違いし、姉妹は兄弟と仲違いし、友人も友人と仲違いしますが、この梵行ではすべての比丘が一致団結し、互いに明るく、仲違いせず、水と牛乳のように溶け合い、互いに可愛いがる視線で見ているように私には見えます。

 猊下。この教団以外に、このように一致団結した教団は見えません。これも私が世尊を観察した、観察事項の一つです。


しっとりして清澄な僧教団員

 まだあります、猊下。私は常にこのお寺あのお寺、この庭園あの庭園を歩き回っていますが、あるサマナ・バラモンたちは痩せこけて憂鬱そうで、肌の色艶が悪く、痩せて黄色く、どこもかしこも筋ばかりで、誰も見たくないと願っているように見える人たちを目にします。

 私は「それらの方々は嫌々梵行をしているに違いない。そうでなければそれらの方々が作って隠している何らかの罪があるに違いない。だから痩せこけて憂鬱そうで、肌の色艶が悪く、痩せて黄色く、どこもかしこも筋ばかりで、誰も見たくないと願っているようだ」と見ます。

 私がなぜそのようなのか尋ねると、それらの方々は「大王様。私たちは種族の病気があります」と答えました。

 一方この宗教の比丘は明るく楽しそうで、高い知識と高くなっていく内心の感覚が現れていて、満ち足りた形(体)があり、瑞々しい根があり、掻き寄せる気持ちが少なく、毛が寝ていて(恐怖、傷心で鳥肌が立たない)、他人から与えられたもので生活し、心は鹿のよう(しとやか)に見えます。

 これらの方々は、世尊の宗教の今まで以上に偉大な功徳を知っていらっしゃるからこうなるのだと思います。猊下。これも私が世尊を観察した、観察事項の一つです。


静かなサンガ教団

 まだあります、猊下。私は聖水灌頂を受けた王で、殺すべき人を殺し、没収すべき人から没収し、追放すべき人を追放する十分な権力があるのは事実ですが、私が座って事件を審判していると、人々が騒々しく、時々私の声が消されてしまう時、私は「みなさん。座って事件の審判をしている私の声を消さないで、私が言い終わるまで待ってください」とこのように言うのにはお手上げです。それでも彼らは騒がしくて、時々私の声がかき消されます。

 この宗教の比丘は、世尊が何百もの座っている教団員にダンマを説かれる時、くしゃみや咳の音もありません。

 弟子の誰かがそこで咳をすると「静かに。音を立てないでください。私たちの教祖がダンマを説いている最中です」と知らせるために梵行仲間が膝で膝を突きます。非常に不思議です。刑法と武器を使用しないでこのように秩序がある教団は、今までにないと思います。

 猊下。私はこの教団以外に、このように秩序があるきちんとした教団を見ません。猊下。これも私が世尊を観察した、観察事項の一つです。


訪ねて来た悪意の人に勝つ

 まだあります、猊下。私は、この世界のカッティヤである学者、ブラフマである学者、長者である学者、サマナである学者の中には、鋭い智慧があり、闘論に慣れた熟練者で、鹿の毛を射ることができる弓の名人のように、自分の智慧だけで他人の見解を攻撃して回る人がいるのを見ます。

 それらの学者がゴータマサマナがどこかの村や町に滞在していると聞くと、問題を用意し、「私はこの問題をゴータマサマナに質問し、彼がこう託宣したら私はこういう言葉でその言葉を打倒する」と自慢します。

 そして実際に世尊を訪ねて行くと、世尊が当然正しく見えるよう、納得するよう、勇敢になり、ダンマの説明で明るくなるよう説明なさいます。それらの学者たちは話された言葉を打倒できる問題を質問しないで、当然揃って本当にの弟子になってしまいます。

 そして(中には)家から出て出家し、家からの支援や利益を期待しない人になることを願い、世尊も出家させ、それらの学者たちは出家者になって群れから離れ、不注意でなく、努力があり、サマーディバーヴァナーに自分を追い遣り、家を出て出家し、家からの利益を期待しない良家の子息が望む物である、それ以上の物がない梵行の終りを最高の智慧で明らかにし、そしてその感覚の中にいる人もいます。

 それらの方々は「私は自分の心を二度と破壊しない。私は昔、サマナではないのにサマナだと宣言し、バラモンではないのにバラモンだと宣言し、阿羅漢ではないのに阿羅漢だと宣言したが、今私は本当のサマナになりバラモンになり阿羅漢になった」とこのように述べます。

 猊下。これも私が世尊を観察した、観察事項の一つです。





大王も討伐できない盗賊を討伐できる

祇園精舎で
中部マッジマバンナーサ 13巻484頁529項

 「猊下。掌が血で汚れた野蛮な人で、すべての動物を殺すことだけを考えているアングリマーラという名の盗賊が私の領地内に生まれれば、ピンピサラ王、リッチャヴィー王、あるいはそれらの敵である王も私を怒らせることはできません。その盗賊であるアングリマーラは集落を集落でなくし、町を町でなくし、田舎を田舎でなくし、人の群れを殺し続けて、手の指で首輪を作って首に掛けています。私は曽奴を討伐してしまいます」。

 大王。アングリマーラが髪と髭を下ろして渋染めの衣をまとい、家を出て出家し、殺害、窃盗、虚言を止め、一日に一食だけ食べて梵行をし、戒を持して善いダンマがあるのをご覧になったら、大王はどうなさいますか。

 「猊下。私も拝礼し、立って迎え、衣と食べ物と座る場所、八物で招待し、あるいはダンマで守護します。猊下。しかし悪い戒があり下劣なダンマがある人が、そのように戒で慎む人になるなどあり得ません。猊下」。

 大王。ほら、アングリマーラはそこにいます。(パセンディ王は、恐怖で毛が立っていると知られ)大王。恐れなさるな。大王。恐れなさるな。大王にアングリマーラの危害はありません。

 (その時パセンディコーサラ王は恐怖を抑え、アングリマーラ比丘に挨拶をして馴染み、四依の寄進を申し出ましたが、長老は頭陀をする人なので辞退しました。パセンディコーサラ王は世尊の所へ戻って来て、言いました)。

 「猊下。これは不思議です。猊下。今までにありません。誰も懲らしめることができない人を世尊は懲らしめ、誰も鎮めることができなかった人を世尊は鎮め、誰も大人しくさせられなかった人を、世尊は大人しくさせました。私が刑罰や武器で懲らしめることができない人を世尊は刑罰も武器も使わずに懲らしめられました。猊下。私はお暇します。今私は仕事が多く、用事が多いです。猊下」。





タンマで人の心に勝つ

中部マッジマバンナーサ 13巻514頁568項

 まだあります、猊下。イシダナタとプラーナという二人の大工がおり、二人は私のご飯を食べ、私の乗り物を使い、私が生活費を与え身分も与えましたが、彼らは私を世尊のように尊重しません。

 以前のことですが、私が兵を挙げて敵を倒しに行った時、この二人の大工を試すために(近くで見るために)狭い場所に泊まりました。二人はほとんど明るくなるまでダンマの会話をして時間を潰し、それから世尊が滞在しておられると聞いている方向へ頭を向け、私の方に足を向けて寝ました。猊下。私は本当に不思議だと思います。

 二人の大工は私のご飯を食べ、私の乗り物を使い、私は生活費を与え、身分も与えましたが、彼は私を、世尊のように尊重しません。もしかしたらこの二人は、世尊の宗教の偉大な功徳をもっと知るに違いありません。

 猊下。これも私が世尊を観察した、観察事項の一つです。



コーサラ王と年齢が同じ

 まだあります、猊下。世尊も王で、私も王です。世尊はコーサラ(註)の人で、私もコーサラの人です。世尊は八十歳で、私も八十歳です。だから私は世尊を非常に尊敬するべきで、親しみを表すべきです。

註: 第一章で述べられているように、サキヤ地域はコーサラの属国。





どういう人と付き合うか

ガナカモッガラーナバラモンの言葉
中部ウパリパンナーサ 14巻87頁104項

 ゴータマ様。信仰がなく、家を出て出家し、家のない人になって生きることを望んで出家になり、自慢し、欺瞞があり、策略家で、散漫で、尊大で、心がくるくる変り易い人で、歯に衣を着せぬ人で、切りつける物言いをし、すべての根に注意しない門があり、食べ物の適度を知らず、

 目覚めた人の努力がなく、サマナの徳を目指さず、学習を尊重せず、欲深くなる振る舞いがあり、ぎくしゃくした状況になる振る舞いがあり、のろまの筆頭で、ヴィヴェカ(遠離)の仕事を放り出し、怠け者で劣った努力があり、忘れて気づかないサティがあり、落ち着きのない人で、堂々巡りの心があり、聾唖のように劣った智慧がある人たちは誰でも、ゴータマ様は、当然それらの人々と一緒にいません。

 一方信仰があり、家を出て出家し家のない人になった良家の子息で、自慢せず、欺瞞がなく、策略家でなく、散漫でなく、尊大でなく、心が変り易い人でなく、歯に衣を着せる人でなく、切りつける物言いをせず、すべての根に注意する門があり、食べ物の適度を知っていて、

 目覚めた人の努力があり、サマナの徳を目指し、学習を尊重し、欲深くなる振る舞いをせず、ぎくしゃくした振る舞いをせず、のろまの筆頭でなく、ヴィヴェカ(遠離)の仕事を放り出さず、初めた努力があり、維持しているサティがあり、安定した人で、盤石な心があり、智慧があり、聾唖のように愚かでない人は誰でも、ゴータマ様は当然それらの良家の子息と一緒にいます。





子供がカニの鋏をもぎ取るように威力をもがれる

悪魔の声
相応部サガータヴァッガ 15巻181頁503項

 猊下。村や町から遠くない所にある蓮池にカニがいて、村から大勢の男女児がその池にやって来て、カニを水から引き上げて陸に置くと、カニは鋏を振り上げ、子供たちはカニの鋏を木の棒や小石でもぎ、折り、抜きます。

 猊下。そのように鋏をもがれ、折られ、引き抜かれたカニは、二度と元通りに蓮池に戻ることはできません。同じように棘に覆われたディッティはどれも、何度も揺すられ、世尊にはありません。何もかも世尊は無くし、折り、抜いてしまわれました。

 猊下。今私は二度と攻撃する隙を探しに、世尊に近づくことはできません。


バカなカラスに濃い油と思わせるために石になられる

 その時罪のある悪魔が世尊の住まいで、これらの倦怠の基盤であるガーター(詩)を述べました。

 カラスの群れが、

 上等な物、美味い物にありつけると期待して

 濃い油の色をした石の周りに一斉に止まっている

 美味い物が得られなければ

 カラスの群れは一斉にそこから飛び立つ

 猊下

 私も石に迷ったカラスのように自分が憐れです」

 その時罪のある悪魔は、世尊のお住まいでこの倦怠の基盤であるガーターを述べるとそこから去り、世尊からさほど離れていない地面の上に結跏趺坐し、黙り込んで恥ずかしそうにうな垂れ、しょんぼりとうつ向いて機知もなく棒で地面を擦っていました。





ラーガで連れ去れる人はいない

 (その時タンハー オラディー ラーガーという悪魔の娘が罪のある悪魔を訪ねて、次のガーターを述べました)。

 「お父様。あなたは何を悔やんでいらっしゃるの。誰のせいで悲しまなければならないの。森から象を連れて来るように、私たちがその男をラーガの首輪で縛ってここへ連れて来ます。そうすればその男はお父様の威力の下にいます」。

 娘よ。その人は阿羅漢で、世界から行ってしまった人で、ラーガの首輪で連れて来ることはできないのだよ。その方はそのように悪魔の首輪を踏み越えてしまわれた。だから父は大いに悲しんでいるのだよ」と答えました。


敵は頭を山にぶつけるような結果に遭遇する

 その時タンハー オラディー ラーガーという悪魔の娘が罪のある悪魔を訪ねると、歩いて来る娘を見た悪魔が、次のガーター(詩)を述べました。

 「娘よ。それは蓮の茎で山を叩くような、爪で山を引っ掻くような、歯で鉄を噛むような、大きな岩を頭上に載せて渦の上に立つ場所を探すような、プラゴータマに勝つには、それと同じ結果になる」。



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