6. 特別な出来事



欲望が終わったことによる解脱を説く

チュラタンハーサンカヤスッタ
サーヴァッディーの都に近い東苑で
中部ムーラパンナーサ 12巻470頁439項

 モッガラーナ。私はまだ憶えています。天人の統領である帝釈天がここ東苑に私を訪ねて来て、拝礼して適当な場所に立つと、私に「猊下。かいつまんで言うとどれほどの実践項目で、比丘は欲望が終わって素晴らしい解脱をした人になり、出て行くことができ、最高の実践から生じた最高の安全に到達し、最高の終わりに達した梵行があり、仕事が最高に終って、すべての天人と人間の素晴らしい人になるのですか」と質問しました。

 モッガラーナ。帝釈天がこのように言ったので、私は「天人の統領である方。この宗教の比丘が聞いた考える教えは、当然『すべての物に執着するべきでない』であるべきです。その人はそれを聞くと、当然すべてのダンマを知り極め、知り極めれば知り尽し、知り尽くせば何らかの感覚を感じ、それが幸福でも不幸でも、あるいは苦でも幸福でもなくても、彼は当然、それらすべての感覚(受)が本当に無常に見えます。

 すべての受の無常が見えれば、欲情が緩むのが見え(感じ)、消滅が見え、常に(自分を)返却しているのが見えるので、心はこの世界の何物にも取着しません。執着しなければ驚愕せず、驚愕しなければ、その内部で完全に消滅したと言われます。その人は「生は終わった。梵行をするのは終わった。するべき仕事は成功した。このようになるためにしなければならないことは他にない」と、このようにハッキリと知ります。

 天人の統領である方。かいつまんで言うとこれだけの実践で、比丘は欲望が終わって素晴らしい解脱をした人になり、出て行くことができ、最高の実践から生じた最高の安全に到達し、最高の終わりに達した梵行があり、仕事が最高に終り、すべての天人と人間の素晴らしい人になります」と答えました。

 モッガラーナ。私は当然、天人の統領である帝釈天にかいつまんで話した、欲望が終わることで特別な解脱をする話を、このように憶えています。





ブッダに関してあり難い話を説く

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻468頁1744項

 比丘のみなさん。この大きな四大洲が一つになるほど大きな洪水があったと仮定し、ある男が一つだけ穴を開けたエーカ(竹?:原書のママ)を水の中に捨てると、東風が吹けば西に浮いて行き、西風が吹けば東に浮いて行き、北風が吹けば南へ浮いて行き、南風が吹けば北へ浮いて行きます。

 その水の中に一匹の盲目のカメがいて百年に一度顔を出して来ます。比丘のみなさん。あなたはこれをどう思いますか。百年に一度浮いて来て顔を出す盲目のカメが、首を伸ばして一つしか穴がないエーカの穴に入ることはあり得ますか。

 「それはあり難いです、猊下。百年に一度浮き上がって来る盲目のカメが一つしかないエーカの穴に首を伸ばして入ることは」。

 比丘のみなさん。同じように誰でも人間に生まれて来ることはあり難く、阿羅漢サンマーサンブッダである如行(ブッダの一人称。そのように行った人という意味。漢訳では如来)が世界に浮かれるのはあり難く、如行のダンマヴィナヤが公開され、世界で繁栄するのはあり難いです。比丘のみなさん。しかし今人間であることも得、阿羅漢サンマーサンブッダである如行も世界に生まれ、そして如行が公開したダンマヴィナヤも世界中に繁栄しています。

 比丘のみなさん。だからこの場合はみなさん「これが苦、これが苦の原因、これが苦の消滅、これが苦の消滅に至る道」と真実のままに明らかに知る努力をするべきです。





ブッダの誕生は自然の法則に影響しない

1.三相

増支部ティカニバータ 20巻368頁576項

 比丘のみなさん。如行が生まれても生まれなくても「すべてのサンカーラ(行)は不変ではない」というダンマは当たり前にあり、固定した変らないダンマです。比丘のみなさん。如行は当然最高に知り、当然洞察しました。最高に知り、最高に到達すると「すべてのサンカーラは不変ではない」と教えて知らせ、説明し、規定し、規則を作り、公開し、分類し、裏返された物のようにしました。

 比丘のみなさん。如行が生まれても生まれなくても「すべてのサンカーラは苦である」というダンマは当たり前の固定して変らないダンマです。比丘のみなさん。如行はそれを最高に知り、同時に到達しました。最高に知り、それに到達すると「すべてのサンカーラは苦である」と教えて知らせ、説明し、規定し、規則を作り、公開し、分類し、裏返した物のようにしました。

 比丘のみなさん。如行が生まれても生まれなくても「すべてのサンカーラは無我である」というダンマは、当たり前にあり、固定して変らないダンマです。比丘のみなさん。如行はそれを最高に知り、当時に到達しました。最高に知り、同時に到達すると「すべてのサンカーラは無我である」と教えて知らせ、説明し、規定し、規則を作り、公開し、分類し、裏返した物のようにしました。



2.縁起

 比丘のみなさん。如行が生まれても生まれなくても、当たり前に維持している物は、それは「これがあるからこれがあり、これが生じたからこれが生じる」で、それは当然一定に維持しています。

 比丘のみなさん。如行はそれを最高にに知って同時に到達しました。最高に知り、同時に到達すると、「すべてのサンカーラは不変ではない」と教えて知らせ、説明し、規定し、規則を作り、公開し、分類し、裏返された物のようにし、そして今「比丘のみなさん。生が縁で当然老死があります」と言います。

 比丘のみなさん。このような理由でどのダンマも、この場合は「タタター」つまりそのようであること、「アヴィタタター」つまりそのようでないことはないこと、「アンヤタター」つまり他の物にならないこと、「イダッパッチャヤター」つまりこれがあればこれが縁でこれが生じます。

 比丘のみなさん。このダンマ、つまり依存して生じる自然であるダンマであるダンマを、私は縁起と呼びます。

 (「老死は生が縁である」場合を話された後、「生は無明が縁である」場合を、初めの「老死は生が縁である」場合と同じように話されています)。





内面の捧げ物を紹介する

相応部サガータヴァッガ 15巻244頁665項

 バラモンさん。あなたは純潔を外部の物と理解して、夢中になって木を燃やして供えないでください。賢い人はそのような行動で純潔が得られると言わないので、外部に純潔を望む人になってしまいます。

 バラモンさん。私は木を燃やすのを避けますが、心の中で絶えず火を燃やし、絶えず安定した自分があり、梵行の行動がある阿羅漢です。

 バラモンさん。煩悩であるマーナ(慢)はあなたの供え物のようで、怒りはあなたの煙のようで、虚言はあなたの灰のようです。(私のは)舌が供え物、心が燭台、良く訓練した自分が男の明るさです。

 バラモンさん。ダンマは深い淵のようで、昇り降りする階段である戒があり、すべての善人が称賛するヴェーダに至った人の水浴場である濁っていない水があり、体が濡れなくても渡ることができます。

 バラモンさん。誠とダンマ、慎重さ、純潔、梵天に至ることは中道に依存して得られます。あなたはサティがあり真っ直ぐな人を尊敬なさい。そのような人を、私はダンマサーリー(ダンマに駆けて行く人。法随行者)と言います。





発展の原因を説かれる

マハーパリニッバーナスッタ(大涅槃経)
長部マハーヴァッガ 10巻89頁69項

 バラモンさん。私がヴェーサリー国のサランダダチェディーにいた時、そこでヴァッジーの領主たちに衰退しないダンマ七項目を話しました。バラモンさん。その七つのダンマがヴァッジーの領主たちに維持されていれば、あるいはヴァッジーの領主たちがその七つのダンマで自分を維持すれば、バラモンさん。それは当然発展する一方で、衰退はありません。

(続いて七つのダンマについてアーナンダに話され、ヴァッサカーラバラモンも一緒に聞いていました)。

①アーナンダ。ヴァッジーの領主たちがいつでも集会し、ほとんどの人が集り、

②アーナンダ。ヴァッジーの領主たちが揃って集会し、揃って会合を終え、そしてヴァッジーの領主たちがしなければならない用事を揃ってすれば、

③アーナンダ。ヴァッジーの領主たちが規定されていない項目を規定せず、規定してある項目を削除せず、

④アーナンダ。ヴァッジーの領主たちが、ヴァッジーの領主の長を尊敬し、尊重し、信頼し、崇拝し、その人の命令をしっかり聞けば、

⑤アーナンダ。ヴァッジーの領主たちが姫(息女)、あるいは家の女性を軽く見て軽蔑しなければ、

⑥アーナンダ。ヴァッジーの領主たちが、内部と外のチェディー(塔)と、衰退したダンマのある祭祀を尊敬し、尊重し、信仰し、祭り、放置せず、今まで与えた布施をし、それらのチェディーにしたことのある用事をし、

⑦アーナンダ。ヴァッジーの領主たちが「阿羅漢のみなさん。まだ来ていない方はこの地域に是非お出でになり、お出でになった方は幸福で楽しくなさってください」と、すべての阿羅漢のために迎える品々をすべて準備すれば、

 アーナンダ。これが、ヴァッジーの領主たちは発展する一方で、衰退しないダンマです。





寂滅した後のために拠り所を説く

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻205頁12項

 アーナンダ。現在でも私の亡き後でも、誰でも島である自分、駆けて行く所である自分があり、他に駆けて行く所はない人でいなさい。つまり島であるダンマ、駆けて行くダンマがあり、他に駆けて行く所、いる所はありません。アーナンダ。それらの人は闇より上にいる比丘、勉学を求める人です。

 アーナンダ。「島である自分があり、駆けて行く所である自分がある。他に駆けて行く所、いる所はない。島であるダンマ、駆けて行く所であるダンマがあり、他に駆けて行く所、いる所はない」と言われる比丘はどのようでしょうか。

 アーナンダ。このダンマヴィナヤの比丘は体の中の体が見える人で、努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の貪りと憤りを出してしまえる人です。すべての受の中の受が見える人で、努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の貪りと憤りを出してしまえる人で、心の中の心が見える人で、努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の貪りと憤りを出してしまえる人で、すべてのダンマの中のダンマが見える人で、努力があり、自覚があり、サティがあり、世界の貪りと憤りを出してしまえる人です。

 アーナンダ。こういうのが「島である自分があり、駆けて行く所である自分があり、他に駆けて行く所、いる所はない。島であるダンマ、駆けて行く所であるダンマがあり、他に駆けて行く所、いる所はない」と言われる比丘です。





この苦は誰が作ってくれるのか

竹林精舎で
相応部アビサマサンユッタ ニダーナ 16巻41頁76項

 アーナンダ。私がラージャガハに近いリスの餌場である竹林にいた時、その時、朝チーヴァラをまとって鉢を持ち、托鉢のためにラージャガハの都へ行く途上で、ラージャガハの都で托鉢するにはまだ早すぎると見て、それなら異教の修行者を訪ねようと考え、異教の修行者を訪ねて挨拶をし、適当な場所に座りました。

 アーナンダ。それらの修行者は座った私に「ゴータマさん。サマナ・バラモンの中には、カンマの話を教える時、当然『苦は自分で、自分に作ってやる物』と規定する人たちがいます。また別の人たちはカンマの話を教える時、当然『苦は他人が作る物』と規定します。またある人たちはカンマの話を教える時、当然『苦は自分が作るのもあり、他人が作るのもある』と規定します。

 またある人たちはカンマの話を教える時、当然『苦は自分が作るのでもなく、他人が作るのでもなく、生じられる』と規定します。

 これについて我らの(註)ゴータマさんはどのように教えていますか。そして私たちはどう言えばゴータマさんが言うとおりに話すことになり、事実でない言葉を擦り付けることにならず、正しい発言になりますか。そして追随して言うダンマの同朋も非難されませんか」とこのように言いました。

 アーナンダ。私はそれらの異教の修行者に「みなさん。私は『苦は原因と縁に依存して生じる』と言います。それは何に依存するのでしょうか。縁つまり触に依存します。このように言う人が、私が言っていることと一致するように言うと言われます」とこのように言いました。

註: 異教の修行者がブッダに対して友人として対等に話す時の普通の言い方。





善友についての会話

相応部サガータヴァッガ 15巻127頁382項

 大王。私が帝釈天の領地にあるナガラカという名のサキヤ族の町に滞在していた時のことです。大王。その時アーナンダ比丘が私の居所を訪って、拝礼してふさわしい場所に座りました。

 大王。アーンダ比丘が私に「猊下。善い友がいること、善い朋がいること、善い朋輩がいることは梵行の半分です、猊下」とこのように言いました。

 大王。アーナンダ比丘がこのように言うと、私は彼に「アーナンダ。そのように言ってはいけません。アーンダ。善い友がいること、善い朋がいること、善い朋輩がいることは梵行のすべてです。アーナンダ。すべての梵行は善い友がいる比丘が期待できることです。善い友、善い朋、善い朋輩がいれば、あなたは八正道に励むことができ、八正道をたくさんすることができます」とこのように言いました。





生臭い僧との会話

バラーナシー国に近いイシパタナマルガダーヤヴァナで
増支部ティカニバータ 20巻361頁568項

 比丘のみなさん。今朝私がチーヴァラをまとって鉢を持ち、バラーナシーへ托鉢に行くと、一人の比丘がミサッカの人たちが牛を売買する区域で托鉢しているのを見ました。愛欲に飢えて還俗を考えている様子で、サティが放置されて自覚がなく、心が散漫で歪み、肌は焼けて乾いていました。

 その比丘を見た時私は「比丘! あなたは自分を腐らせて膨張させてはいけません。腐って膨張して生臭い臭いが立ちこめた体に、ハエが止まって吸わないことはあり得ませんよ、比丘」と言いました。

 (世尊がこう言われると、その比丘が「猊下。腐って膨張した物は何ですか。生臭い物は何ですか。ハエは何ですか」と質問したので)、

 比丘! 貪りは腐って膨張した物と言われ、復讐心は生臭い物と言われ、悪で下賎な考えはハエと言われます。腐って膨張して生臭い臭いが立ちこめた体に、ハエが止まって吸わないことはあり得ません。





ダンダパーニサッカの質問に答えられる

マドゥピナディカスッタ
カビラバスツに近いニグロンダーラムで
中部ムーラパンナーサ 12巻221頁244項

 比丘のみなさん。今日、今朝です。私はチーヴァラをまとって鉢を持ち、托鉢するためにカビラバスツへ行き、托鉢が済んだ帰り途、マハーヴァナの森の若いマトゥムの木の根元で昼の休憩をしていました。

 比丘のみなさん。ダンダパーニサッカも散歩してマハーヴァナの森へ入り、私が座っている若いマトゥムの木の下に来て、私に挨拶をして馴染んでから、杖で顎を支え、両手で顎の下にある杖の先を掴んで「サマナ様は普段どういう言葉があり、どんな発言がありますか」とこのように言いました(註)。

 比丘のみなさん。ダンダパーニサッカがこう言ったので、私は「友よ。天人界、悪魔界、梵天界も含めたこの世界と、サマナ・バラモン、天人と人間も含めた動物群の誰とも喧嘩や仲違いしないどんな言葉も、私はいつでもそのような言葉があり、このような物言いがあります。もう一つ、誰にどんな言葉があっても、(昔の話の)記憶がその人の心を追って来ないで、

(今は)罪がなく、愛欲がなく、二度と疑いで、何がどうかと質問する必要がなく、体と心の煩わしさを断ち、どの界にも欲望がない言葉。私は日常そのような言葉、そのような物言いをします。友よ。私は日常このような言葉、そのような物言いをします」と答えました。

 比丘のみなさん。私がこのように答えると、ダンダパーニサッカは頭を下げ舌を出して、三本指で額を触り、眉毛を吊り上げ、杖を引いて去って行きました。

註: この質問は、世尊とプラテーヴァダッタのどちらが問題を引き起こしたのか、推測する質問です。





ニグロンダとの会話

チュラドゥッカンダスッタ
カビラバスツに近いニグロンダーラムで
中部ムーラパンナーサ 12巻144頁219項

 マハーナーマさん。私がラーチャガハの都に近い鷲山にいる時、その時大勢のニグロンダ(ジャイナ教の一つ)たちがイシギリ山の山腹のカーラシラーで、座るのを我慢して立ち続ける修行をし、強い努力で厳しい苦である受を味わっていました。

 マハーナーマさん。時は夕暮れで、私は潜伏場所から出てニグロンダたちが修行をしているイシギリ山の山腹のカーラシラーへ行って、彼らに「みなさん。なぜみなさんは座らないで立つ修行をして、厳しい苦である受を受け取る努力をしているのですか」とこのように言いました。

 マハーナーマさん。そのニグロンダは「旦那。ニガラナ ナータプッタ(ジャイナ教の教祖)さんは歩いていても、立っていても、眠っていても、目覚めていても、『私のニャーナダッサナは当然絶えず現れている』と、例外なくすべての物を知る人で、すべての物が見える人です。ニガラナ ナータプッタさんは『発展したニグロンダよ。以前に作った罪業があるので、みなさんはそのカンマを、厳しい苦行で消滅させ、終わりにしなさい。

更に、今の体、言葉、心に慎重にすれば、当然今後罪であるカンマを作らない。古いカンマを残らず焼き滅ぼし、そして新しいカンマを作らないことで、今後のカンマは絶え、カンマが絶えればカンマが終り、カンマが終われば苦が終り、苦が終われば受が終り、受が終わればすべての苦は干乾びる』とこのようにおっしゃいます」と言いました。

 マハーナーマさん。私は続いてそのニグロンダに「ニグロンダのみなさん。みなさんは過去生にいたことがあるかないか、知っていますか」と訊きました。

 「まったく知りません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんは過去生で罪であるカンマを作ったか否か知っていますか。

 「まったく知りません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんは過去生でこういう罪であるカンマを作ったと知っていますか。

 「まったく知りません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんは(苦行を始めてから)これだけの苦が終わった、そしてこれだけの苦が今後なくなる、あるいは、あとこれだけの苦がなくなれば苦の残りはないと知っていますか。

 「まったく知りません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんは何が悪を捨てることで、何が現生で善を生じさせることか知っていますか。

 「まったく知りません」。

 マハーナーマさん。私は続いてそのニグロンダに「ニグロンダのみなさん。みなさんが過去生があったか否か、過去生で罪であるカンマを作ったか否か・・・何が悪を捨てることで、何が現生で善を生じさせるか知らないと今聞いたように、このように知らなければ、世界の手が血で汚れた残虐な仕事をする猟師である人たちは、人間に生まれた後、当然ニグロンダの修行者になるでしょう」と言いました。





すべての受が過去の結果ではない

デーヴァダハスッタ
中部マッジマバンナーサ 14巻7頁8項

 (デーヴァダハというサッカニガマに滞在しておられる時、ニグロンダの教えについて話され、「すべての苦楽は過去に作ったカンマのせいだ」というディッティがあるニグロンダたちとの会話についてたくさん語られた後、次のように言われました。

 比丘のみなさん。私はそのニグロンダの人たちに「ニグロンダのみなさん。みなさんこれをどう思いますか。みなさんに熾烈な努力があれば、その時みなさんは当然その努力から沁みるように熾烈な苦受を受け取ります。しかしみなさんに熾烈な努力がなければ、その時みなさんは当然当然その努力から、沁みるように熾烈な苦受を受け取りません。そうではないですか」と言いました。

 「ゴータマさん。私たちに熾烈な努力があれば、その時私たちは当然その努力から沁みるように熾烈な苦受を受け取ります。しかし私たちに熾烈な努力がなければ、その時私たちは当然当然その努力から沁みるように熾烈な苦受を受け取りません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんに熾烈な努力があれば、その時みなさんは当然その努力から沁みるように熾烈な苦受を受け取りますが、みなさんに熾烈な努力がなければ、その時みなさんは、当然その努力から沁みるように熾烈な苦受を受け取らないと、このように聞けば、ニグロンダのみなさんが「私たち男子が幸受でも苦受でも不苦不幸受でもどんな受でも味わうのは、すべて過去に作っておいたカンマが原因だ」、

そして「過去のカンマをすべて焼き滅ぼすことで、そして新しいカンマを作らないことで、次のカンマの流れはない。新しいカンマの流れがなければカンマが終わり、カンマが終われば苦が終わり、苦が終われば受が終わり、受が終わればすべての苦が消滅する」と、このようにと言うにふさわしくありません。

 ニグロンダのみなさん。みなさんの努力が熾烈な時はみなさんの苦受は熾烈に維持し、そして熾烈な努力がない時も、その熾烈な努力から生じた熾烈な苦受が維持していると、このようなら、ニグロンダのみなさんが「私たちがどんな受を味わうのも、すべては過去に作っておいたカンマのせいだ」と言うにふさわしいです。

 ニグロンダのみなさん。みなさんの努力が熾烈な時はみなさんの苦受が熾烈ですが、みなさんの努力が熾烈でない時はみなさんの苦受も熾烈ではありません。だからみなさんが自分で熾烈な苦受を味わう時、みなさんはアンニャーナである無明を作り、そして「私たちがどんな受を味わっても、そのすべては過去に作ったカンマが原因で、過去のカンマをすべて焼き滅ぼすことで、そして新しいカンマを作らないことで、次のカンマの流れはない。

新しいカンマの流れがなければカンマが終わり、カンマが終われば苦が終わり、苦が終われば受が終わり、受が終わればすべての苦が消滅する」というサムモーハ(迷妄)になるということです。

 比丘のみなさん。このようなヴァーダ(主張する主義)がある私は、当然ニグロンダの集団に心を引く物、ダンマのある物は何も見えません。







カンマの結果を、ニグロンダの苦行で変えることはできない

中部マッジマバンナーサ 14巻10頁10項

 比丘のみなさん。私は続けてそのニグロンダの人たちに「ニグロンダのみなさん。みなさんはこれをどう思いますか。つまりみなさんはあなたの対策と(苦行である)努力で、みなさんの好きなように、

① 現生で結果を味わわなければならないカンマのどれでも、そのカンマを、来生 で結果を味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

② 来生で結果を味わわなければならないカンマを、どうぞ現生 で味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんこれをどう思いますか。あなたの対策と(苦行である)努力で、みなさんの好きなように、

③ 幸福の結果を味わうべきカンマを、どうぞ苦を味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

④ 苦である結果を味わわなければならないカンマを、どうぞ幸福である結果を味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんこれをどう思いますか。あなたの対策と(苦行である)努力で、みなさんのお好きなように、

⑤ 十分に結果を味わわなければならないカンマを、どうぞ十分でない結果を味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

⑥ 十分でない結果を味わうべきカンマを、どうぞ十分に結果を味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんこれをどう思いますか。あなたの対策と(苦行である)努力で、みなさんの好きなように、

⑦ たくさん結果を味わわなければならないカンマを、どうぞ少しだけ結果を味わうカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

⑧ 少しだけ結果を味わわなければならないカンマを、どうぞたくさん結果を味わうカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

 ニグロンダのみなさん。みなさんこれをどう思いますか。あなたの対策と(苦行である)努力で、みなさんの好きなように、

⑨ 結果を味わわなければならないカンマを、どうぞ結果を味わわないカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

⑩ 結果を味わわなくてよいカンマを、どうぞ結果を味わうべきカンマにしてくださいと、このようにできますか。

 「いいえ、できません」。

 ニグロンダのみなさん。このように「そのようにできません」「そのようにできません」と聞けば、ニグロンダのみなさんの対策と努力は何も結果がありません。

 比丘のみなさん。このような見解のあるニグロンダのみなさん。比丘のみなさん。だからこのようなヴァーダのあるニグロンダのダンマがある大小、十のヴァーダは、非難される立場に至ります。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が過去にした行動であるカンマが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは過去に悪いカンマを作ったに違いありません。今現在、強力で熾烈な苦受を味わう人だからです。

 比丘のみなさん。もしすべての動物がシヴァ神の指図で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは悪いシヴァ神に指をさされたに違いありません。今現在、強力で熾烈な苦受を味わう人だからです。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が社会の状況が原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは悪い社会の人に違いありません。今現在、強力で熾烈な苦受を味わう人だからです。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が生まれが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは悪い生まれの人に違いありません。今現在、強力で熾烈な苦受を味わう人だからです。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が現生の奮闘が原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは悪い現生の奮闘がある人に違いありません。今現在、強力で熾烈な苦受を味わう人だからです。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が過去に行動したカンマが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。もしすべての動物が過去に行動したカンマが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。

 比丘のみなさん。もしすべての動物がシヴァ神の指図が原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければならないに違いありません。もしすべての動物がシヴァ神の指図で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が社会の状況が原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。比丘のみなさん。もしすべての動物が生まれが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が生まれが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。比丘のみなさん。もしすべての動物が生まれが原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。

 比丘のみなさん。もしすべての動物が現生の奮闘が原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。もしすべての動物が現生の奮闘が原因で幸福と苦を味わうなら、すべてのニグロンダは非難されなければなりません。

 比丘のみなさん。このような主義主張のあるニグロンダのみなさん。比丘のみなさん。だからこのような主義主張のあるニグロンダのダンマがある大小、十の主義主張は非難される立場に至ります。





比丘尼の解脱について天人との会話

鷲山で
増支部サッタカニバータ 23巻75頁53項

 比丘のみなさん。昨夜遅く、最高に肌の艶が良い二人の天人が鷲山全体を明るく照らして訪れて来て、私に拝礼して適当な場所に立つと、一人の天人が私に「猊下。これらの比丘尼は解脱した人です」と言い、もう一人の天人が私に「猊下。これらの比丘尼は、残っている種である煩悩がなくなって、解脱した人です」と、このように言いました。

 比丘のみなさん。天人はそう言い終わると私を拝んでタクシナ(表敬の儀礼)をして去って行きました。

註: なぜ二人の天人は、誰が阿羅漢で、誰が阿羅漢でないか知る知識があるのか、そして世尊に対して知っていることを自慢しに来たのか、そしてその結果比丘の群れの中にいたモッガラーナをして「それらの発言はどの部類の天人だろう。これほどすごいとは」と不思議がらせた、三つの観察点があります。





捨てるべきものについて天人との会話

増支部チャッカニバータ 22巻368頁303項

 比丘のみなさん。夕べ夜更けに、非常に輝かしい天人が祇園精舎を明るくして訪ねて来て、拝礼して立つと、次のように言いました。

 「発展した猊下。これら六つのダンマは比丘の衰退になりません。六つとは何でしょうか。六つとは、

①教祖を尊重する、

②ダンマを尊重する、

③僧を尊重する、

④勉学を尊重する、

⑤注意深さを尊重する、

⑥訪問者を尊重することです。

 猊下。この六つのダンマは比丘の衰退になりません」と言いました。

 比丘のみなさん。その天人はそう言うと拝礼してタクシナ(敬意を表す行動)をし、そこから姿を消しました。 

 (この六つについては、別の場所では、
⑤と⑥が慚と愧になり(増支部チャッカニバータ 22巻369頁308項、別の経では、同じ
⑤と⑥が諭しやすい人であることと善友のある人になり(増支部チャッカニバータ 22巻273頁340項)、別の経では、
④の代わりにサマーディを尊重するになり(増支部サッタカニバータ 23巻29頁29項)、別の経では、
⑤⑥の代わりに、サマーディ、慙、愧の三つになり(増支部サッタカニバータ 23巻30頁30項)、別の経では
⑤⑥の代わりに、サマーディを尊重すること、諭しやすい人であること、善い友のある人の三つになっています。(増支部サッタカニバータ 23巻30頁31項)。





世界の終りについての会話

祇園精舎で
増支部チャトゥカニバータ 21巻62頁46項

 比丘のみなさん。昨夜遅く、最高に艶の良い肌をしているローヒタッサという天人が祇園精舎全体を煌々と照らして私を訪ねて来て、拝礼して側に立つと「猊下。動物が生まれず、老いず、死なず、行かず、発生しない世界の終りを、行くことで知り、見、その世界の終りに到達することはできますか」と言いました。

 比丘のみなさん。天人がこう言ったので、私は「ね、あなた。動物が生まれず、老いず、死なず、行かず、発生しない世界の終りを、行くことで知り、見、その世界の終りに到達することは誰もできません」と答えました。

 比丘のみなさん。私がそう言うと、天人は続けて、

 「猊下。本当に不思議です。猊下が言われた言葉は今までありませんでした。私は以前、ローヒタッサという名の仙人で、食べる人で、空に行ける威力のある神通力がありました。私の素早さは、非常に熟練した弓の師匠が射た矢が、一ウサバ(七十米)離れた鹿の毛を射ることができ、非常に軽いその矢で砂糖ヤシの木の影を射る矢のようでした。

 私が歩く(歩幅)は東の海岸から西の海岸まででした。猊下。このような速度と歩幅があったので、何としても行くことで世界の終りに到達したいと思い、私は疲労を軽減するものである食べること、飲むこと、齧ること、嘗めることを止め、排尿排便を止め、眠るのを止め、百歳の命があったので百年旅をしても、まだ世界の終りに至らず、その間に死んでしまいました。

 猊下。不思議です。猊下が『私は、誰でも行くことで世界の終りを知り、世界の終りに至ることはできないと言う』と言われた言葉は今までありませんでした。

 比丘のみなさん。私はその天人に「ね、あなた。動物が生まれず、老いず、死なず、行かず、発生しない世界の終りを、行くことで知り、見、その世界の終りに到達することはできません。ね、あなた。智慧と心がある背丈二メートルばかりのこの体に、私は世界と、世界が生まれる原因と、世界の消滅と、そして世界の消滅に至る道があると規定しました」と、このように言いました。





素晴らしいと仮定されている教義についての会話

パーティカスッタ
長部パーティヴァッカ 11巻30頁13項

 バッガヴァさん。「(誰でも)すべてシヴァ神、梵天が作った」と、自分のアーチャン(先生)が言うとおり素晴らしいと仮定する教義を規定するサマナバラモンの一団がいます。私はそれらのサマナバラモンを訪ねて「みなさんは当然「(誰でも)すべてシヴァ神、梵天が作った」と、先生が言うとおりに素晴らしいと仮定する教義を規定すると聞きました。本当ですか」と言いました。

 このように聞かれると、そのサマナバラモンは本当だと認めました。私はそれらのサマナバラモンに続けて「それではみなさんは当然、どんな理由ですべての人はシヴァ神、梵天が作ったと規定するのですか」と言いました。このように質問されると、それらのサマナバラモンは説明できず、説明できないので反対に私に質問しました。質問された私は託宣しました。

註: ブッダは他にもキッダーパドーシカ(戯耽)論とアディッチャサムッパンナ(無因論)を規定したサマナバラモンたちを訪ねて行かれ、同様の会話をされました。ブッタの託宣の言葉は、要旨としては動物が前後して生まれて来ることについて、その時によって後先が違うので、創造者などがいると誤解させます。これについての詳細はパーティカスッタ、長部パーティヴァッカ 11巻30頁13項を読んでください。





四大種はどこにもない

ナーランダー国パーヴァーリカヴァナで
長部シーラカンダヴァッガ 9巻277頁343項

 ケヴァッタさん。以前にあった話です。この集団のある比丘が内心で「四大種、つまり土・水・火・風は、当然どこで残らず絶滅するのだろう」という疑問を抱きました。

 (その比丘が天人界に導くことができるサマーディに入り、自分のその疑問を四天王である天人に質問すると、誰も答えられる人がいないのでトウ利天レベルの天人に質問し、そのレベルの天人は帝釈天に訊くように言い、ダオスヤーマ、ダオサントゥシタ、ダオスニッミタ、ダオパラニマニタヴァサッティ、大梵天はかわす努力をしてしばらく黙し、

それから大梵天が「すべてを知っていると考えていたが、事実は四大種がどこで消滅するのかという問題は知らない」と白状しました。それは、世尊に質問しないその比丘の誤りなので、結局世尊に拝謁して質問しなければなりませんでした)。

 ケヴァッタさん。その比丘が私に拝礼してふさわしい場所に座り、そして私に「猊下。四大種、つまり土・水・火・風は当然どこで消滅するのですか」と訊きました。

 ケヴァッタさん。彼がこう訊いたので、私は「ね、比丘。海の商人は船上で岸を探すために鳥を連れて行き、船が航路に迷って岸が見えない時は、彼らは岸を探すためにその鳥を放したという古い話があります。鳥は東へ飛び、南へ飛び、西へ飛び、北へ飛び、上へ飛び、ちょっと下方向へ飛び、どの方向に岸が見えても、その方向へ真っ直ぐに飛んで行き、見えなければ船に戻って来ます。

 比丘。あなたは『四大種はどこで絶滅するか』と質問するべきではありません。本当は『どこには四大種がないですか。長さ、短さ、太さ、大きさ、美しさ、醜さはどこにないですか。名形は当然どこで絶滅しますか』と訊くべきです。

 比丘。その問題の答えは次のようです。人が明らかに知るべき一つの「もの」は現象がなく、終わりがなく、しかし完璧に到達する道があるもので、それはあります。それには土・水・火・風、そして長さ、短さ、太さ、大きさ、美しさ、醜さがなく、その中で名形は消滅します。識が消滅することで名形が絶滅します」とこのようです。





ターヤナ天人の来訪

祇園精舎で
相応部サガータヴァッガ 15巻68頁240項

 比丘のみなさん。昨夜遅く、前生で教祖だったターヤナという名の天人が最高の艶の肌をして、祇園精舎全体を煌々と照らして私を訪ねて来ると、拝礼して私の近くの適当な場所に座り、この詩に綴った言葉を述べました。

  流れを断ち、苦難を超えて高い徳へ行き、

  愛欲を減らしなさい、バラモン。

  愛欲を捨てないムニーは当然世界を欺く人になる。


  行動するなら本気でし、それが安定するまで奮闘なさい。

  緩く守っている出家は罪、つまり埃を厚く撒き散らす。


  悪をしない方が良い。悪は当然後で焼き炙る。

  善をする方が良い。すれば(悪を)焼き滅ぼす類の善を。


  良く掴まないで抜いた萱は、当然掴んだ人の手を傷つけるように、

  誰でも低劣に撫で回した「サマナであること」は、

  当然その人を地獄等へ掻っ攫って行く。


  衰退した仕事、憂鬱な仕事、思い出すと自分を嫌いになる梵行、

  それらに結果は少ない。


 比丘のみなさん。ターヤナ天人はこのように言うと私に拝礼し、タクシナをして去って行きました。比丘のみなさん。みなさんターヤナの詩を受け入れ、勉強し、維持しなさい。比丘のみなさん。ターヤナガーター(註)には利益があり、梵行の初めです。

註: このターヤナガーターが、他では直接ブッダの言葉である物もあります。





アナータピンディカ天人の来訪

祇園精舎にて
中部ウパリパンナーサ 14巻472頁739項

 比丘のみなさん。昨夜の真夜中に、極めて肌艶の良い一人の天人がジェッタヴァン(祇園精舎)全体を煌々と照らして私の住まいに訪ねて来て、拝礼して適当な場所に座り、私に詩で綴った言葉を述べました。

  この祇園精舎は利益がある

  高い徳を説く方々が住まわれる場所

  ダンマラージャ(法王)である世尊が居られ

  それは私に喜悦を生じさせる。


  善業、知識、ダンマ、そして戒

  これらは人生で最も高いもの

  動物は当然そのダンマで純潔になり

  家名や財産で純潔になるのではない


  だから博学者が自分の利益を探求するなら、

  理に適ったダンマを選びなさい

  そうすれば当然そのダンマで純潔になれる


  サーリプッタさんは智慧、戒、そして鎮まった優れた方

  岸、つまり涅槃に到達した比丘は

  最高に素晴らしいサーリプッタさんだけ


 比丘のみなさん。その天人はそう言うと「教祖は私に満足された」と心で規定し、私を拝んでタクシナをして去って行きました。

 「猊下。その天人はアナータピンディカ天人に違いありません。猊下。アナータピンディカ天人はサーリプッタさんを非常に尊敬しています」とプラアーナンダが申し上げました。

 そうです、アーナンダ。そうです。あなたは正しくあるべきことを正しく言い当てました。その天人は他の誰でもないアナータピンディカ天人です。





四人の大王の訪問

鷲山にて
長部パーティヴァッガ 11巻219頁219項

 比丘のみなさん。昨夜、最高に輝きのある肌をした四人もの大王が鬼隊、軍楽隊、夜叉隊、龍隊の大軍に四方から護衛されて、祇園精舎全体を煌々と照らして私の住まいを訪ねて来ました。夜遅くやって来ると拝礼して適当な場所に座りました。

 比丘のみなさん。それらの鬼(つまり兵士)の中には私に合掌する人、喜ばしい言葉で挨拶する人、合掌して拝む人、私の姓と名を叫ぶ人、すまし顔の人もいて、全員側の適当な場所に座りました。

 比丘のみなさん。ヴェッサヴァンという大王はふさわしい場所に座ると、私に「猊下。位の高い鬼には世尊に帰依している人も帰依していない人もい、中位の鬼にも世尊に帰依しているのも帰依していないのもい、下位の鬼にも世尊に帰依しているのも帰依していないものいます。しかしほとんどの鬼は世尊に帰依していません。

 猊下。なぜでしょうか。世尊は当然殺生、盗み、邪淫、虚言、飲酒を避けるダンマを説かれますが、ほとんどの鬼は殺生を避けず、盗みを避けず、邪淫、虚言、飲酒を避けないので、世尊のダンマは鬼たちが愛し満足する物ではありません。

 世尊の弟子の方々は静かで騒音が少なく、人声がなく、人間が隠遁するにふさわしい遠離に適した森の中の静寂な住まいに住まわれています。

 そこには位の高い鬼も住んでいます。世尊のダンマヴィナヤに帰依しない者たちを帰依させるために、猊下。比丘、比丘尼、清信士、清信女のみなさんを虐めないよう管理し、平安に暮らすために、どうかアーダーナーディヤタッカ呪文をお受け取り下さい」と言いました。

 比丘のみなさん。私は黙って大王の願いを受け入れました。その時ヴェッサヴァンという大王は私が受け入れたこと知って、アーダーナーディヤタッカ呪文を述べました。

 目があり吉祥があるヴィパッシーブッダに拝伏させていただきます。

 すべての動物を可愛がるシキーブッダに拝伏させていただきます。

 苦行がある方、罪が終わったヴェッサブーブッダに拝伏させていただきます。

 悪魔と軍を踏み潰したカクサンダブッダに拝伏させていただきます。

 梵行が終わった素晴らしいゴーナガマナブッダに拝伏させえてください。

 すべての煩悩から解脱したカッサヴァブッダに拝伏させていただきます。

 すべての苦を軽減する道具であるダンマを説く吉祥があるサキヤプッタであるギーラサブッダ(今上ブッダ。つまり現在のブッダ)に拝伏させていただきます。(註)

 最後の大王が私に「私たちはお暇します。今私たちは用事が多いです」とこのように言いました。私は「みなさん方は当然どんな用事も、時を良く知っています」と答えました。

 比丘のみなさん。その時四人の大王は座から立ち上がって私に拝礼してタクシナ(敬意を表す作法)をし、消えて行きました。

 鬼たちが座から立ち上がると、拝礼してタクシナをする鬼、心を楽しませる挨拶をする鬼、合掌する鬼、私の名と姓を叫ぶ鬼、すましている鬼も、みなそこから消えて行きました。

註: 呪文はこの後もたくさんありますが、本物のブッダの言葉かどうか確信がないこと、そしてすべてを引用する利益がない恐れがあるので、全部は引用しません。読みたい人はアーダーナーディヤスッタを見てください。





神通力に陶酔するリッチャヴィープッタを脅す

パーディカスッタ・バッガヴァの住まいで
長部パーティヴァッガ 11巻9頁5項

 バッガヴァさん。ヴェーサリー国に近いマハーヴァンの森の、塔の形の東屋にいた時、その時、カラーラマッチャナカという裸行者がヴェーサリーに住んでいて、ヴァッチーガーマで溢れるほどの供物と栄誉に至りました。その出家が七つの勤めを精一杯遵守していたからです。つまり、

1.私は生涯裸の人で布をまとわない。

2.私は純潔を守る人で生涯性交をしない。

3.私は酒と肉で生き、生涯飯と生菓子を食べない。

4.私はヴェーサリー国の東にあるウデーナチェディーを冒涜しない。

5.私はヴェーサリー国の南にあるゴータマカチェディーを冒涜しない。

6.私はヴェーサリー国の西にあるサッタマバチェディーを冒涜しない。

7.私はヴェーサリー国の北にあるパフプタカチェディーを冒涜しない。

 バッガヴァさん。その時スナッカッタ リッチャヴィープッタは「私は善高な阿羅漢であるサマナの邪魔をした。永遠に苦や無支援になってはいけない」と考えて私を訪ねて来て、拝礼して適当な場所に座りました。

 私はスナッカッタ リッチャヴィープッタに「無益の人! あなたはサキヤプッタサマナなのだから、自分で考えなさい」とこのように言いました。

 「猊下。なぜ猊下はそのようにおっしゃるのですか」とスナッカッタ リッチャヴィープッタが問い返しました。

 スナッカッタさん。あなたはアチェーラ・カラーラマッチャカに質問しに行き、アチェーラ・カラーラマッチャカが答えられないので怒りと不満を露わにしました。その上あなたは「私は善美な阿羅漢であるサマナを妨害した。永遠に苦や無支援にならないでほしい」と考えているのではないですか。

 「本当にそうです、猊下。しかしなぜ世尊は阿羅漢を妨害なさるのですか」。

 無益の人! 私は阿羅漢の徳を妨害しません。しかしあなたには下賎なディッティ(見解)があるので、それを捨ててしまいなさい。苦になり、永遠にあなたの助けにならないようにしてはいけません。スナッカッタさん。あなたはカラーラマッチャカを善美な阿羅漢と思っていますが、カラーラマッチャカは間もなく布をまとって妻を従えて歩き回り、飯と生菓子を食べ、ヴェーサリー国にあるチェディーを冒涜し、財産と栄誉が落ちぶれて亡くなります。

 バッカヴァさん。(私が託宣したようになって)間もなくスナッカッタ リッチャヴィープッタは(それを知って)私を住まいに訪ねて来て、拝礼して適当な場所に座りました。バッガヴァさん。私はスナッカッタに「私が託宣したことは、その通りになりましたか。それとも違いましたか」と訊きました。

 「猊下。託宣に違わず、その通りになりました」。

 それなら私は超人法神通をしたことになりますか。

 「猊下。なさったことになります」。

 無益の人! あなたは自分の誤りを見るべきです。

 バッガヴァさん。私がそう言うと、スナッカッタ リッチャヴィープッタは発展を求めることができない地獄の動物のように、このダンマヴィナヤから離れて行きました。





マンディカとチャーリヤという修行者との会話

マハーリスッタ
長部シーラカンダヴァッガ 9巻200頁255項

 マハーリさん。私がコーサンピーの郊外のゴシターラーマにいる時、その時マンディカとチャーリヤという修行者が訪ねて来ました。来ると心を和ませる会話をして、適当な場所に立っていました。二人は片側に立って私に「ゴータマ先輩。命と体は同じですか。それとも命と体は別ですか」と、このように言いました。私は二人の出家に次のように言いました。

 先輩。それならしっかりお聞きなさい。話します。先輩。如行は自分で正しく悟った阿羅漢であり、知識と品行が完璧で、良く行き、世界を明らかに知り、訓練すべき人誰よりも良く訓練する御者であり、天人と人間に教える先生であり、目覚めた人、明るい人であり、ダンマを分類して動物に教える人です。

 如行は最高の智慧で明らかにし、天人界と悪魔界と梵天界を含めたこの世界の、サマナ・バラモンと人間と天人を含めた動物群に公開して他の人に教えました。如行は初めも美しく、真ん中も美しく、終わりも美しいダンマを説き、意味も細部も純潔で完璧な梵行を公開しました。

 長者、あるいは長者の子息、あるいは後にいずれかの家系に生まれて来る人は当然そのダンマを聞き、その人が如行のサッダンマ(正法)を聞けば如行への信仰が完璧になり、当然「在家は窮屈で埃の生じる所。出家は空になるチャンス。所帯を持って良く磨いた僧のように純潔な梵行だけを行うのは簡単ではない。それなら髪と髭を剃って渋染めの衣をまとい、家を出て出家して家のない人になろう」と、このように熟慮して見ます。

 このように出家した比丘が、パーティモッガ(二二七戒)を遵守して慎めば、礼儀とゴーチャラ(いつも行く場所)が完璧になり、平素から小さなものでも罪の危険が見え、すべての教条を遵守し、身業・口業・意業が完璧になり、純粋な生業があり、戒が完璧になり、すべての根を管理している門があり、常自覚があり、知足があります。

 先輩。戒で完璧な比丘はどのようでしょうか。このダンマヴィナヤの比丘は命のある動物の命を落とすことを捨て、殺生を避ける人で、棒と武器を置いてしまい、(以下は本書の、「ブッダを知る凡夫は非常に少なすぎる」の内容と同じです。http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/4-6.html

 それから根を管理する話、常自覚がある話、知足、静かな住まいの話、蓋を捨てる話をされました。詳しくは本書の「段階的に訓練する教えがある」を見てください)。http://buddhadasa.hahaue.com/butuden/4-1.html

 先輩。その比丘がこのように戒のある人になると、愛欲とすべての悪が静まった心になり、ヴィタッカとヴィチャーラ(思惟と考察)、ヴィヴェカ(遠離)から生じたピーティ(喜悦)とスッカ(幸福)がある初禅に到達し、そしてその感覚の中にいます。先輩。その比丘がこのように知りこのように見れば、その比丘が「命と体は同じ」、あるいは「命と体は違う」とこのように言うのは、ふさわしいでしょうか。

 「ゴータマ先輩。このように知りこのように見えている比丘は誰でも、当然その比丘が『命と体は同じ』あるいは『命と体は違う』と言うのはふさわしくありません」。

 先輩。如行も今、このように知りこのように見え、そして当然「命と体は同じ」、あるいは「命と体は違う」と揺れません。

 (この後、その比丘が二禅、三禅、四禅、空無辺処まで、ニャーナダッサナに到達することについて話され、修行者が答えるよう質問し、すべて同じ質問、同じ答えです。強情に言い張っていたマハーリッチャヴィーは、この言葉に感謝して聞き惚れました)。





聖人が愉しむものについての会話

相応部マハーヴァーラヴァッガ 19巻105頁394項

 クンダリヤ修行者が世尊に拝謁して、「発展したゴータマ様。私はいろんなお寺の中の教団員を訪ねるのが好きです。ゴータマ様。朝食べる用事ために出かけ、食べる用事が終わった後の私の日課は、あちらのお寺こちらのお寺を回ります。そこで私は、こういうのは愉しませる物だと言う裸でいる主義のサマナバラモンたちを見ました。

 その説明を述べた時反論し合うのが愉しむ物だと言う人たちもいました。プラゴータマサマナは、どんな愉しむ物がありますか」と言いました。

 クンダリヤさん。如行は明と解脱の結果が愉しむ物です。

 「発展したゴータマ様。発展した人がたくさんすると、明と解脱を完璧にする物は何ですか」。

 (この後、明と解脱を完璧にするダンマを、縁起の要旨で互いに支援し合って生じる状態で話されました。つまり七覚支、四念処、三善行、根律儀です。詳細、または関心のある人は、「ブッダの言葉による縁起」の「明と解脱の縁起」を読んでください。 http://buddhadasa.hahaue.com/engi/10-5.html





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