「ブッダダンマの道の山」の解説

 

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 ブッダ協会員ならびに善人のみなさん、またここでタンマのお話ができることを嬉しく思います。今日の講義は特別です。つまり幾つかの文節について、まだ共通の理解になっていないことが分かったので、前回お話しした内容をもう一度説明します。この話をする目的は、反対側のもの、あるいはローグッタラの側を理解するためです。それは世俗のものと正反対で、ヴィサンカーラと呼ぶこともあります。つまり向こう側で、こっち側のサンカーラと正反対です。いろんな呼び名は、正反対の対ばかりです。

 しかし、向こう側の正反対の状態を説明する前に、なぜ人間は向こう側、つまりローグッタラを知る必要があるのか、私たちはこの世界にいるのに、なぜ世界を脱した側、ローグッタラを知らなければならないのか、という項目を判断してしまいます。これが最初に理解しなければならない項目です。

 次にタンマの原則と理屈で説明する前に、人間に関した譬え話を一つさせていただきます。人間がこの世界にぎゅうぎゅうに増えたある日、世界中の先生や教祖を招いて、ある大きな部屋で会議を開きました。所定の時刻になると、いろんな先生や教義の教祖が何百人も集まりました。全部揃った所で、人間たちが、「みなさんの中で、自分の教えには自分の至らなさによる欠点がないと主張できる方、つまり自分の教えはすべて正しいと主張できる方はこの部屋にいてください。自分の教えはすべて正しい、自分の至らなさによる瑕疵はないと主張できない方は、この部屋を出てください」とお願いしました。

そう言い終わると、大勢の教祖が不愉快そうに立ち上がって、バタバタと扉を閉めて部屋を出て行き、残りは百人くらいになりました。残った百人ほどの人たちに、人間が「自分は教えるだけでなく、その教えどおりに実践できると、名誉にかけて主張できる方は部屋に残り、教えどおりに実践できると主張できない方は、部屋を出てください」とお願いしました。そう言うとまた、またバタバタと部屋を出て行く教祖がいて、残りは五十人になりました。

また人間が「自分は世間の生き物に対して慈悲があり、人生を捧げていると主張できる方はこの部屋に残り、そう主張できない方、つまり世界の生き物に奉仕できない方は部屋を出てください」とお願いしました。そう言い終わると、荒々しくはなく、疲れたようにぞろぞろと部屋を出て、残りは十人になりました。

残った十人に人間が、「世間の人が危険から脱すのを助けるために、命を犠牲にしたことが十回ある方は部屋に残り、そう主張できない方は部屋を出てください」とお願いすると、何人かの教祖が部屋を出て、残りは五人になりました。

まだ五人残っているので、「みなさんの教えの中で、変化する威力から人間を抜き出す、あるいは二度と人間を変化させないように、作り出す威力を木っ端微塵に破壊できる教えの方、教えを実践した人は誰でもそのような結果になる、と主張できる方はここにいてください。自分の教えを実践した人は、変化する威力から解脱できると主張できない方は部屋を出てください」と最後のお願いをしました。

言い終わると、一人を残して、全員が部屋を出て行きました。人間は、どうしてその方が残っていられるのか不思議に思い、なぜ出て行かないのか質問しました。その教祖は、「私にはあなたが求めているものがあります。私の教えは、教えで行動した人を、変化させる威力、あるいはいろんな成り行きにする威力から解脱させることができると、敢えて宣言できます」と答えました。

人間は一斉に歓声を挙げ、あなたは誰なのですかと訊きました。「あなたは人ですか。それとも天人ですか。だからそのように、つまりあなたの教えには、あなたの至らなさによる僅かな欠点も混じっていないと主張でき、そしてあなた自身も教えのすべてを実行できると主張なさり、そして世界の生き物に対して慈悲があり、世界の生き物のために十回勇敢に命を犠牲にしたことがあると主張でき、そして最後には、世界の生き物があなたの教えで行動すれば、世間の生き物は作り出すことの威力から脱出し、生老病死や苦に経過させる威力を越えると主張できるのですか。

私たち全員は一斉に、「あなたの宣言に、敬意と非常な満足を表明させていただきます。そしてあなたがどなたなのか、つまり神か人間かお聞かせください」と言いました。その教祖は、「行動する人の体と言葉による行動、あるいは心の感覚などの心によって、人間や天人や悪魔、あるいは梵天、あるいは神様などと呼ばれるものは私にはありません。つまり体と言葉と心の行動、あるいは人が人間、天人、悪魔、梵天、あるいは神様などと呼ぶ理由である、煩悩による体と言葉と心の行動がありません。そう呼ばれる原因である煩悩がありません。みなさん私の名はブッダ。ブッダと憶えてください」と答えました。

 私の仮定の話はこれで終わりです。つまり人間が、自分をブッダと名乗り、その教えの行動をした人は、作っていろんな変化をさせる威力から脱出できる、と主張する人の教えを実践することを喜び、満足するだけで終わりです。

 この話は、人間が心の面の進化をすれば、必ず何が苦で何が幸福か、そのレベルの苦から脱すにはどうするかを次々と知り、最後には苦がまったくないこと、つまり苦であるこちら岸から、苦のない向こう岸への脱出を望むので、何もでっち上げるものがない状態を望む、ということを説明するためです。

捏造変化調整する状況が人間を輪廻の渦につき落とすからです。そしてその輪廻には、生老病死、あるいは輪廻の中に溢れている波のように、上昇と下降があります。輪廻の渦に投げ込まれると、この世、あるいはこの輪廻に落ちた人は誰でもこれらの波風に遭遇しなければならないと言われるように、当然この波の衝撃から逃れることはできません。

自分だけのカンマを作って自分だけのカンマの結果を受け取っても、あるいは他人と集団で作ったカンマの結果を受け取っても、あるいは何も特別のカンマを作らなくても、その人は自分の無明が原因で輪廻に落ち、様々な出来事に遭遇して苦になり、様々な不測の事態に遭遇します。これを「避けることはできない」と言います。輪廻の渦に落ちてしまったら、絶えず苦であたふたしなければなりません。他に道がありません。だから人間は、輪廻につき落とすでっち上げる力から離れ越えたいと望み、あるいは輪廻の威力の上にいたいと望みます。

註1: この自分を背負うことは、見えなければ知らないので、背負っていると感じません。そして世界全体を背負っていても、重いと感じません。見えればいつでも、ヒマラヤ山を含めた世界を背負っているより重いと感じます。しかしその間中、間違っている間中、当然苦しみます。しかしある人たちはなぜ重いかを知り、ある人たちは知らないのは、本当の普通では、人間は早晩このように望むことを表しています。

 

つまり自分の思い通りの楽しさや陶酔、自分が苦労して求めた類の五欲面の満足が溢れていなければ、それをマヌッサヤサマパッティ(人成就)と呼びますが、すぐに飽きて煩わしくなります。そしてその五欲を遊びのように簡単に、少しも苦労をせずに得られて、それをサワンガサンパッティと呼びますが、天人たちは間もなく興ざめして飽き、他のものになりたいと望みます。あるいはそのような境地に到達した人間、そのように天人と同じようになった人も、それらの五欲に興味が薄れます。

 

なぜならそのような自分があれば、禅定による梵天界のような幸福を得ても、すぐに死ななければならない、つまりそうであることが終わらなければならないからです。まだ死なないうちは、自分があるという感覚に抑えつけられているので重いです(註)。これが、なぜ世界の人が世界の外のこと、あるいはローグッタラと呼ぶものに興味を持たなければならないのかという問いの答えです。

(この譬え話は、自然の規定は、人間は最後まで行かなければならず、そうすれば自分で気付いている足掻きも、気づかない足掻きも、すべての足掻きが止まるということを説明するためです。人間が望むべき「頂点」は、「自分があること」の外にあります。そしてその「自分」は、妨害している山と同じで、どっちを向いてもこの種の山しか見えません。自然が強いる望みは強烈で、それはすごく当たり前の法則です。

その人が、自然の望みと知っても知らなくても、山の包囲を切り拓くまで、ここに到達していなければいない分だけ、人間は悪戦苦闘しなければなりません。だから「山の包囲の外」の話を熟慮することは、人間の「自然の義務」です。どうかみなさん、熟慮するようお願いします)。

  世俗の側は抑圧と重荷を背負うだけと見えれば、順に考える人は、山を越えること、あるいはこれらの妨害から完全に抜け出し、ローグッタラと呼ばれる向こう側(脱世俗)へ行きたいと望みます。しかし心が順に進歩して、さっきの譬え話の最後の人のようになる場合以外は、つまり自分を背負っていることは重荷と見え、そローグッタラの話を考える人以外のこちら側にいる人にとっては、ローグッタラの状態は非常に理解が難しいです。人間は幸福を求める自然があり、心の高さがどう生じるかによって、つまり自分の智慧に応じて高くなります

 世界(世俗)に沈んでいる普通の人は、まだ理解もできません。ローギヤ(世俗)の魅力的なもの、つまり世俗の感情(心の概念)に包まれているからです。(時には)現世の五欲に魅了されなくても、来世の、つまり極楽の五欲に魅了されます。そうなるために徳を望む人、欲しいものが増えるばかりの人で、いろんな物を手に入れることができると信じる徳を積み、結局その徳に埋もれて、輪廻に沈んでいます。

なぜなら徳は世俗側だけで、ローグッタラ側にはないからです。徳という言葉を明らかに理解するために、この言葉を熟慮しなければなりません。(これから徳という言葉をあらゆる角度から詳しく熟慮するのは、徳を望む人のブッダ・プラタム・僧、戒・サマーディ・智慧が限界を越えて、どのようにその人自身を阻む山になるか、「ブッダダンマの道を塞いでいる山」が見えるように説明するためです)。

 

 徳と善

観察して見た限りでは、私たちはこのことに関して大きな間違いをしているように感じます。つまり徳と善という言葉を一緒にしたので、訳が分からなく、堂々巡りになります。(パーリ語の)徳は風船のように膨れる、膨張するという意味です。(次からは略して風船と呼びます)。しかし(パーリ語の)善は、草を刈って地面を平らに均すように、平らに刈るという意味です。

考えてみてください。膨れて増やす方を「徳」と言い、平らに掻き均すことを「善」と言います。このように反対のものを一緒にすれば、平らにするために、つまり善のために実践できる道がありません。善があっても寝ごとであり、本当の善ではなく、本当には徳でしかありません。

註:ここで言う徳とは、もう一度生まれるための、特に自分を忘れるほど陶酔する、極楽に生まれるための徳を意味します。目が覚めないのは、徳の結果である好所縁(満足すべき物やこと)だけを狙っているからです。つまり輪廻にしかならない過剰なまでの五欲(欲情)です。もう一つの善は、涅槃のため、倦怠して興味をなくすために智慧ですることを意味します。一般原則を捉えれば、パーリ(ブッダの言葉である経)でブッダは、この二つの言葉を同じ意味で使っているのもあります。

 

しかしこのような「徳」は、今みなさんが酔っているもの、そして山が生じるほど間違った執着で積んでいるものではありません。要するに、徳はローギヤの、輪廻の成り行きになる煩悩であり、初めから欲望と邪見で撫でまわされています。一方の善はローグッタラ、涅槃になり、初めから欲望と邪見で撫でまわされていません。しかしタイ語ではこの二つの言葉をまとめて、同じものにしてしまいました。この二つの違いが見える人は、詳しい教えで熟慮して見てください

 布施と言うものも、与えたより多くのお返しが戻ってくるとか、あるいは好かれるとか、たくさんの人から「太っ腹」と褒められるとか、あるいは来世は極楽に生まれるとか考え、このような意図でする布施を「徳」と言います。つまり、たとえば一バーツ投資して、何百万の価値のある極楽が買えるなど、自分の投資以上に何かを得る期待で、心を膨らませます。このように心が膨らみ、風船になります。こういうのを「風船を手に入れる。」と言います。刀ではありません。

同じ布施でも、強い吝嗇(ケチ)や貪欲を切る、あるいは削って平らに均す純潔な心ですれば、あるいは仏教の美徳を崇拝し、仏教を振興させて世界の生き物の菩提樹として永遠に維持するためにすれば、このように智慧で見て布施をすれば、直接愚かさや煩悩を削る布施です。あるいは世界の生き物の拠り所であるために仏教を支えるのは、愚かさや煩悩を削る行為です。こういうのは、風船のように膨らむほど心を迷わせないで、いろんな煩悩を掃いて地面を均します。だから、刀つまり善(次からは略して刀と言います)を手に入れます。布施の仕方次第で、布施をして風船を得ることも刀を得ることもできます。

 持戒も同じです。誰でも私が持戒をしているのを知っているから、私は他の人よりも善いとか、自分は厳格に戒を守れるとか、あるいは戒は、普通の人間と違う特別な威力のある卓絶した人にするとか、あるいは戒の威力で極楽に永住できる、五戒を守るためにちょっと忍耐するだけで、自分が欲しいものがいっぱいある極楽で寝起きができると考えて戒を守るなら、こうすることに利益があり、自分にとって非常に儲けがあると喜んでいるなら、こういうのは、戒を守って風船を手に入れると言います。つまり徳を得ます。

しかし体と言葉の濁りを残らず拭って、清潔な人間として暮らすため、あるいは戒は、後で智慧で洞察するサマーディへの階段と考えて戒を守れば、そういう持戒は刀を手に得ると言います。持戒をして風船を得るか刀を得るかは、戒を守る人次第です。

 サマーディに励むもの同じです。他人が自分を、高い修行をしている人、瞑想ができると見て一斉に褒めちぎると考え、あるいは瞑想をすると特別な人になる、地獄や極楽や来世が見える特別の眼鏡が手に入る、いろんな霊験のある人になれると考え、あるいは何らかのレベルの梵天になることを目指してサマーディをするのも、そういうサマーディは風船を得る、あるいは徳を得ると言います。得るのは刀でも善でもありません。

五種類の悪(五蓋)が心の周辺に溜まらないようにし、人間の心の周辺に生じ易い悪がなく、穏やかな幸福のある心に満足するなら、あるいは明るく智慧を増やすことに満足するなら、こういうのは善を得る、あるいは刀を得ると言います。ここで言うサマーディとは、悪や低い方へ傾く気持ちを掃き出すことができる、心の行動を意味します。

一番の悪は、五欲の考えに落ちる機会をうかがっている気持ちです。タンマの振る舞い、あるいはちょっと本を読んでも、映画を見たくなったり、芝居を見に行きたくなったりします。もっと凄いのは、直接何らかの五欲に落ちたくなります。この最初の悪をチャンダ(貪欲)と言います。二番目の悪は、他人を虐め、怒り、恨み、妬む方向に傾く心のイライラです。このような悪をパヤパータ(瞋恚)と言います。三番目の悪は委縮、心の寂しさ、ぼんやりすること、眠気など、怠惰や倦怠等です。これをティーナミダ(沈鬱眠気)と言います。

四番目の悪は、情緒不安定で静かにしていられないことで、ウッダッチャ クックチャ(掉挙悪作)と言います。そして五番目の悪は確信が無く、何でもためらうばかりで、「自分がする徳や善が得なのか。こうしていること、こうすることで、危機を脱すことができるのか」と躊躇います。ブッダは本当に正しく悟ったのか。彼らが教えるプラタム(仏法)は、本当に苦からの脱出へ導くのか。善いことをして良い結果が受け取れるのか。悪いことをすると本当に悪い結果があるのか。あるいは、戒を守ってサマーディに励んで本当に危機を脱せるのかを見ても、何もかもぼんやりしていて、自分を騙す躊躇いばかりです。

時にはまだ躊躇いがあっても、無理してすることもあります。この五番目の悪をヴィチキッチャー(疑蓋)と言います。五匹の虫のように、代わる代わる心の周辺を群れになって飛び回り、絶えずイライラさせ、煩わせます。これは普通の人の普通の状態です。普通の人で、この五匹の虫のどれかが、心の周りを飛び回っていない人がいるか、考えてみてください。時には五匹全部と感じることもあります。そんなことで、どうしてすべてのものの真実に到達する澄み切った心になれるでしょうか。

このような理由で、善になる、あるいは善になったサマーディは、心の周辺からこの虫を追い払い、昼も夜も、自分の心に止まって煩わせること、あるいはイライラさせることができない種類でなければなりません。このようでないサマーディは、他のものになる望みがあり、そしてそのサマーディは風船であり、まだ刀ではありません。

 みなさん、布施をすることは風船にも刀にもなり、持戒も風船にも刀にもなり、サマーディをすることも風船にも刀にもなると見えると思います。しかし最後の智慧は一つです。物質面を望む愚かさ、騙され易さが資本でないので、風船にはなりません。智慧と呼ぶものは、正しくて明晰な知識でなければなりません。盲信なら智慧と呼びません。そして智慧は風船になる余地のない、常に待ち受けていて切る道具です。智慧は、布施より戒よりサマーディより安全と見なします。そして布施・戒・サマーディを生じさせ、そして正しく歩けるよう誘導します。

註: 間違った知識は智慧と言いません。しかし正しく知れば、最初のレベルでも智慧と呼びます。そして私は刀と呼びます。間違って切っても正しく切っても、少し切ってもたくさん切っても、全部刀です。知識や、山の講義でお話したような「真実を隠す光」の類の智慧も、間違って切ったり正しく切ったりする刀で、どんな種類の刀も風船にはなりません。

 妄信、あるいは布施・戒・サマーディ・智慧が何のためかを本当に知らないことは、包むものであり、人間を風船の下に、あるいは割れた風船などのゴミの下に埋めて隠すものです。少しずつ傲慢になり、少しずつ思い上がり、言葉には出さずに内心で自惚れ、他人をけなすことで心を膨れさせるからです。つまり徳で膨れ、自分の徳は他人と同じくらい多い、他人よりも多いと信じる自分がいます。

徳に満足することは、徳に夢中にさせる以上のものはありません。徳への熱中は五欲の世界、特に極楽、一般にはへ輪廻へ回転させる以上のものはありません。そしてほとんどは循環して行きます。だから簡単にゴミ、つまりこれらの風船の下に落ちて沈んでいます。風船は間もなく割れて、その人を埋めて覆い隠し、この世界に沈めます。世界のものに沈んでいるというのは、ローギヤの側と呼ぶ五欲の幸福の世界のことです。

カーマヴァチャラ(欲界)、つまり普通の人間と欲情を味わっている天人のレベルにいるものから、ルーパヴァチャラ(形界)つまり形のある梵天と、アルーパヴァチャラ(無形界)つまり形の無い(あるいは形に関わらない)梵天まで、すべて風船のように膨らむ威力で、輪廻の渦の中にいることに夢中になっています。自分の罪、つまり愚かさのカンマの結果で、避けられずに輪廻の輪の中にいる時は、輪廻に満足しているので、輪廻で流れていきます。それで、輪廻のいろんな波風を受けないでいることはできません。

たとえば車に轢かれて死ぬとか、あるいは何のカンマの結果か、意味があまりない被害で死ぬなどのいろんな事故も、なぜ、それは輪廻したがるほど愚かでいたいカンマの報い、と考えないのでしょうか。輪廻とはこういうものです。(それ自体にそのような偶発性が潜んでいる輪廻に、満足している「愚かさがカンマ」なので、それ以外のカンマを持ち出す必要はありません)。輪廻には、当然楽しく見せて目を騙す針が隠してある餌のような搾取や、直接又は間接的な痛めつけがあります。

輪廻はこのようで、自分の徳、つまり自分の望み通りになった輪廻に満足している時はいつでも、確実に輪廻の波風に遭遇しなければなりません。たとえば最高のレベルの梵天界の無形梵天でも、重荷に遭遇します。重いのは自分を背負っているから、生老病死する自分を背負っているからです。このような状態を「こちら側のもの」と言い、世俗の側です。反対の側は初めからすべて反対で、つまり宗教の実践からいろんな原則まで正反対です。

こちら側(輪廻を嫌う側)の人の布施は、自分を厚く塗り重ねるためでなく、削って薄くするためです。つまり執着やケチなどの身勝手を削るため、あるいは宗教を支えるため、愚かさが厚い世俗の生き物の、愚かさや迷いを削って薄くする道具であるプラタムを維持するためです。初めから塗り重ねて、風船のように膨れないで、削り始めます。戒も削るためで、害がいっぱいの体と言葉を削ります。削ることであって増やすことはありません。

サマーディの部分も、五匹の虫を払い落して、心の周辺に群がらないようにするので、切る道具である智慧が、完璧に切れるダイヤモンドの刀のように完璧に生じます。つまり完璧に正反対です。風船の方はサンカーラのため、ローギヤに回転し、刀の方は、ローグッタラへ行く、あるいはアサンカタ(無為)へ出て行く、つまり何も作れない、つまり風船の無いヴィサンカーラになります。反対は、煩悩の威力が際限なく欲しがらせ、望ませ、満足させ、そして輪廻へ押しやることで風船になります。

ヴィサンカーラ(非行)、あるいはアサンカタ(無為)の方は、そのように変化させるものがありません。あるのは、変化させるものである無明、あるいは創造主である神様が無くなるまで削ることだけです。だからその心は、この世界と反対の状態、つまり作ること、変化させることが皆無の状態に到達します。作ることが無ければ、生老病死の輪廻に回転せず、煩悩の威力による憂鬱もありません。だから煩悩の無い純潔なもので、それ自体が明るく輝いています。

愚かさや信じ易さがなく、そして誰も束縛しない状態があるので、滅尽・解脱です。そして誰も奴隷にしない状態、つまり誰かの鼻先を紐でつないで、欲情や他の執着の巣である感情を求めないので、完璧な自由です。だからこの世俗と反対の状態を全部知りたい、理解したければ、述べたような正反対の意味を順に比較すれば、よく理解できます。

(これから向こう側を説明します。それはアサンカタ(無為)、ヴィサンカーラ(無行)、あるいはローグッタラ(脱世間)であり、言葉で呼ぶことの域を超えているので、呼ぶことができず、呼べる名前がありません。しかしこちらの言葉を借りて、何とか近い感覚を生じさせるために仮定で呼びます)。

もう一つ理解しておくべきは、反対の状態のローグッタラは世界ではないので、そこには誰も住んでいないことです。人が住む所ではありません。名前を付けて呼ぶことはできません。人が住んでいて、そしてあれこれと呼ぶことができるこの世界とは違います。ローグッタラの側は本当のタンマであり、そこを言葉で規定できる人は誰もいません。知った人見た人は、この世界の言葉を借りてその状態を呼ばなければなりません。本当は一つの、唯一の状態であり、分けられませんが、名前がありません。

教祖でさえ、その状態を何と呼んだらよいか、(仮定で呼ばなければ)呼びようがありませんでした。だから「もの」あるいは「そのもの」と呼びました。『比丘のみなさん。それはあります。それは土ではなく、水ではなく、火ではなく、空気ではなく、行き来のような行動でもなく、ジッと静かにしていることでもありません』と続きます。何でもすべて否定するばかりですが、しかし「そのもの」はあるとだけ繰り返します。教祖も、それを何と呼ぶか言葉に窮しています。正しく呼べれば、究極の真実です(仮定と規定を剥ぎ取ってしまいます)。

それを呼ぶ言葉に窮した時、それまで名前がなかったものなので(仮定である名が付けられないので)、そしてそれに対して誰も何もできず、このように名前さえつけられないので、それをどう呼べるか(聞いて意味が分かるか)、仮定で呼ばせていただかなければならないので、この世界の側の言葉を借りて、そのものを「純潔」あるいは「清浄」と呼びました。こういうのはハッキリした仮定です。それ(つまり涅槃)、あるいはすべてにおいてローギヤと反対の状態は、何らかの所有や存在にはなれません。

なぜならそれは有あるいは存在ではないからです。「あれ」「これ」と呼ぶのも正しくありませんが、しかしそう呼ばなくてはなりません(それについて話さなければならないので)。「純潔」あるいは「解脱」、時には「本来の状態」と仮定して呼ぶのは、すべて仮定です。仏教教団のある宗派は「本来の心」と呼ぶこともあります。こういうのも仮定でしかありません。「涅槃」つまり「苦の滅尽」と呼ぶのも、同じ仮定です。(滅亡は一つの様相であり、涅槃は何らかの様相ではありません)。

ローグッタラは様相ではないので、滅亡、あるいは滅亡の様相はありません。涅槃という言葉は抽象名詞、つまり「動き」あるいは「何らかの行動」で、ここでは絶滅です。私たちは無理に行動でないもの、あるいは行動の無いものを呼びます。だから「涅槃」という言葉にしても、「滅尽」にしても「解脱」にしても「清浄」にしても、涅槃も、あるいは向こうの状況を話すのに使うどんな言葉も、作る物がないヴィサンカーラ(無行)であるものは、すべて仮定した言葉ばかりです。

ヴィサンカーラという言葉も、良く熟慮して見ると仮定の部分があるのが見えます。それというのは、向こう側は呼ぶことから脱した自然だからです。あるいはこちら側の話は、仮定で呼ぶ以外に、「そのもの」を「何だ」と正しく呼ぶ力がないからです。(しかし多少賢い人は、近い感覚を生じさせるこちら側の何らかの言葉で、何とか理解できるよう特別に定義して、新しいものを呼ぶために、可能な限り良い新しい意味を持たせます)。

 私たちはこちら側とあちら側の違いを、「これほどまでに完璧に違う」、あるいは「正反対」と理解しなければなりません。人間のすべての語彙、あるいは一つの言語体系に、物質ではない、理解できない、何らかの状態がない「そのもの」に使える言葉はありません。名詞・形容詞・動詞は形があり、状態があり、存在があるもの、あるいは何らかの状況があるものに使うことができます。呼ぶ名前がないので、たとえば当時のインドでは、火のように熱いものが少しずつ冷える意味の抽象名詞だった「ニッバーナ(涅槃)」などの普通の言葉にするしかありませんでした。

あるいは、釜からよそったばかりのご飯を冷ます時、それが冷めることも一般に涅槃と言っていました。釜からよそったばかりのご飯など、熱いものが冷えることを意味したパーリ語の涅槃という言葉を、ローグッタラである向こう側のものを呼ぶのに使いました。熱い側の世界と反対の、涼しい(冷えた)と仮定した側です。だから仮定によるものばかりと分かります。(本当の涅槃は、「涼しさ」と呼ぶことからも脱しています)。このようなので、向こう側を呼ぶ名前がないこと、あるいは簡単に向こう側の状態を説明できないことを責めることはできません。

道は一つしかありません。つまり急いで(膨れて、ふわふわ揺れて、最後には割れて散るだけの)風船にならないように行動する努力をします。急いで刀になる行動をし、包んで隠しているもの、つまり無明あるいは愚かさが全部消えてしまうまで切って、削れば、そうすればローグッタラ、あるいは向こう側と呼ぶ、世界と反対のものに出合います。そして「そのもの」がどんなか、どう呼ぶべきか、自分で分かります。

(つづく)


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