「ブッダダンマの道の山」の解説






1948年6月23日
バンコクブッダ協会にて

 ブッダ協会員ならびに善人のみなさん、またここでタンマの話ができることを嬉しく思います。今日の講義は特別で、幾つかの文節について、まだ共通の理解になっていないことが明らかになったので、前回お話しした内容をもう一度説明します。

 この話をする目的は、反対側のもの、あるいはローグッタラの側を理解するためです。それは世界の物と正反対で、ヴィサンカーラと呼ぶこともあります。つまり向こう側で、こっち側のサンカーラと正反対です。いろんな呼び名は、正反対の対ばかりです。

 しかし、向こう側の正反対の状態を説明する前に、なぜ人間は向こう側であるローグッタラを知る必要があるのか、私たちはこの世界にいるのに、なぜ世界を脱した側、ローグッタラを知らなければならないのか、という項目を判断してしまいます。これが最初に理解しなければならない項目です。

 次に道理とタンマの教えで説明する前に、人間に関わる譬え話を一つさせていただきます。人間がこの世界にぎゅうぎゅうに増えたある日、世界中の先生や教祖を招いて、ある大きな部屋で会議を開きました。所定の時刻になると、いろんな先生や教義の教祖が何百人も集まりました。

 全部揃った所で、人間たちが「みなさんの中で、自分の教えには自分の至らなさによる欠点がないと主張できる方、つまり自分の教えはすべて正しいと主張できる方はこの部屋に残ってください。自分の教えはすべて正しい、自分の至らなさによる瑕疵はないと主張できない方は、この部屋を出てください」とお願いしました。

 そう言い終わると、大勢の教祖が不愉快そうに立ち上がって、バタバタと扉を閉めて部屋を出て行き、残りは百人くらいになりました。残った百人ほどの人たちに、人間が「自分は教えるだけでなく、その教えどおりに実践できると、名誉にかけて主張できる方は部屋に残り、教えどおりに実践できると主張できない方は、部屋を出てください」とお願いしました。

 そう言うとまた、またバタバタと部屋を出て行く教祖がいて、残りは五十人になりました。また人間が「自分は世界の動物に対して慈悲があり、人生を捧げていると主張できる方はこの部屋に残り、そう主張できない方、つまり世界の動物に奉仕できない方は部屋を出てください」とお願いしました。そう言い終わると、荒々しくはなく、疲れたようにぞろぞろと部屋を出て、残りは十人になりました。

 残った十人に人間が、「世間の人が危険から脱すのを助けるために、命を犠牲にしたことが十回ある方は部屋に残り、そう主張できない方は部屋を出てください」とお願いすると、何人かの教祖が部屋を出て、残りは五人になりました。

 まだ五人残っているので、「みなさんの教えの中で、変化する威力から人間を抜き出す、あるいは二度と人間を変化させないように作り出す威力を、木っ端微塵に破壊できる教えの方、教えを実践した人は誰でもそのような結果になると主張できる方はここに残ってください。自分の教えを実践した人は、変化する威力から解脱できると主張できない方は部屋を出てください」と最後のお願いをしました。

 言い終わると、一人を残して、全員が部屋を出て行きました。人間は、どうしてその方が残っていられるのか不思議に思い、なぜ出て行かないのか質問しました。その教祖は「私にはあなたが求めている物があります。私の教えは、教えで行動した人を変化させる威力、あるいはいろんな成り行きにする威力から解脱させることができると、敢えて宣言できます」と答えました。

 人間は一斉に歓声を挙げ、あなたは誰なのですかと訊きました。

 「あなたは人ですか。それとも天人ですか。だからそのように、つまりあなたの教えには、あなたの至らなさによる僅かな欠点も混じっていないと主張でき、そしてあなた自身も教えのすべてを実行できると主張なさり、そして世界の生き物に対して慈悲があり、世界の生き物のために十回勇敢に命を犠牲にしたことがあると主張でき、そして最後には、世界の動物があなたの教えで行動すれば、世間の動物は作り出すことの威力から脱出し、生老病死や苦に経過させる威力を越えると主張できるのですか」。

 人間は一斉に「あなたの宣言に、敬意と非常な満足を表明させていただきます。そしてあなたがどなたなのか、つまり神か人間かお聞かせください」と言いました。

 その教祖は「行動する人の体と言葉による行動、あるいは心の感覚などの心によって、人間や天人や悪魔、あるいは梵天、あるいは神様などと呼ばれるものは私にはありません。つまり体と言葉と心の行動、あるいは人が人間、天人、悪魔、梵天、あるいは神様などと呼ぶ理由である、煩悩による体と言葉と心の行動がありません。そう呼ばれる原因である煩悩がありません。みなさん私の名はブッダ。ブッダと憶えてください」と答えました。

 私の架空の話はこれで終わりです。つまり人間がブッダと自称し、「教えの行動をした人は、作っていろんな変化をさせる威力から脱出できる」と主張する人の教えを実践することを喜び、満足するだけで終わりです。

 この話は、人間が心の面で段階的に進化すると、何が苦で何が幸福か、そのレベルの苦から脱すにはどうするかを次々と知らなければならず、最後は苦がまったくないこと、つまり苦であるこちら岸から、苦のない向こう岸への脱出を望むので、何もでっち上げるものがない状態を望むと指摘して見せるためです。

 捏造・変化・調整する状態が人間を輪廻の渦につき落とし、そしてその輪廻には、生老病死、あるいは輪廻に満ちている波のように、上昇と下降があります。輪廻の渦に投げ込まれると、この世界、あるいはこの輪廻に落ちた人は誰でも、これらの波風に遭遇しなければならないと言われるように、当然この波の衝撃から逃れることはできません。

 自分だけのカンマを作って自分だけのカンマの結果を受け取っても、あるいは他人と集団で作ったカンマの結果を受け取っても、あるいは何も特別のカンマを作らなくても、その人は自分の無明が原因で輪廻に落ち、様々な出来事に遭遇して苦になり、様々な不測の事態に遭遇します。これを「避けることはできない」と言います。

 輪廻の渦に落ちてしまったら、休まず苦で混乱しなければならず、他に道がありません。だから人間は、輪廻につき落とすでっち上げる力から離れ越えたいと望み、あるいは輪廻の威力の上にいたがります。

1: この自分を背負うことは、見えなければ知らないので、背負っていると感じません。そして世界全体を背負っていても、重いと見ません。見えればいつでも、ヒマラヤ山を含めた世界を背負っているより重いと感じます。しかしその間中、間違っている間中、当然苦しみます。しかしある人たちだけがなぜ重いかを知り、ある人たちは知りません。本当に普通は、人間は早晩このように望むことを表しています。


 つまり自分の思い通りの楽しさや陶酔、自分が苦労して求めた類の五欲面の満足が溢れていなければ、それをマヌッササマパッティ(人成就)と呼びますが、すぐに飽きて煩わしくなります。そしてその五欲を遊びのように簡単に、少しも苦労をせずに得られれば、それをサワンガサンパッティと呼びます。しかし天人たちは間もなく興ざめして飽き、他の物になりたいと望みます。

 あるいはそのように天人と同じようになった人も、それらの五欲に興味が薄れます。もう一段高くなっても、禅定による梵天界のような幸福を得ても、愛欲に関わらないのは事実ですが、その味を味わう人である自分があると感じ、長くなれば飽き、淡白になり、自分を背負わなければならないことを重く感じます。だから自分から出たいと望みます。 そのような自分があれば、禅定による梵天界のような幸福を得ても、間もなく死ななければならないからです。つまりそうであることが終わらなければなりません。まだ死なない時は、自分があるという感覚に抑えつけられているので重いです。これが、なぜ世界の人が世界の外のこと、あるいはローグッタラと呼ぶものに興味を持たなければならないのかという問いの答えです。(註)。

 (この譬え話は、自然の規定は、人間は最後まで行かなければならず、そうすれば自分で気付いている足掻きも、気づかない足掻きも、すべての足掻きが止まると説明するためです。人間が望むべき「頂点」は「自分があること」の外にあります。

 そしてその「自分」は妨害している山と同じで、どっちを向いてもこの種の山しか見えません。自然が強いる望みは強烈で、それはすごく当たり前の法則です。その人が、自然の望みと知っても知らなくても、山の包囲を切り拓くまで、ここに到達していなければいない分だけ、人間は悪戦苦闘しなければなりません。だから「山の包囲の外」の話を熟慮することは、人間の「自然の義務」です。どうかみなさん、熟慮するようお願いします)。

 世界の側は抑圧と重荷を背負うだけと見えれば、順に考える人は、山を越えること、あるいはこれらの妨害から完全に抜け出し、ローグッタラと呼ばれる向こう側(脱世俗)へ行きたいと望みます。

 しかし心が順に進歩して、さっきの譬え話の最後の人のようになる場合以外は、つまり自分を背負っていることが重荷と見え、そローグッタラの話を考える人以外のこちら側にいる人は、ローグッタラの状態は非常に理解が難しいです。人間は幸福を求める自然があり、心の高さがどう生じるかによって、つまり自分の智慧に応じて高くなります

 世界(世俗)に沈んでいる普通の人は、まだ理解もできません。ローギヤ(世俗)の魅力的な物である世俗の感情(心の概念)に包まれているからです。(時には)現世の五欲に魅了されなくても、来世の、つまり天国の五欲に魅了されます。そうなるために徳を望む人は、欲しい物が増えるばかりの人で、いろんな物を手に入れることができると信じる徳を積み、結局その徳に埋もれて、輪廻に沈んでいます。

 徳は世界の側だけにあり、ローグッタラ側にはないからです。徳という言葉を明らかに理解するために、この言葉を熟慮しなければなりません。(これから徳という言葉をあらゆる角度から詳しく熟慮するのは、徳を望む人のブッダ・プラタム・僧、戒・サマーディ・智慧が限度を越えて、どのようにその人自身を阻む山になるか、「ブッダダンマの道を塞いでいる山」が見えるように説明するためです)。


徳と善

 観察して見た限りでは、私たちはこのことに関して大きな間違いをしているように感じます。つまり徳と善という言葉を一緒にしたので、訳が分からなくなり、堂々巡りになります。(パーリ語の)徳は風船のように膨れる、膨張するという意味です。(次からは略して風船と呼びます)。しかし(パーリ語の)善は、草を刈って地面を平らに均すように、平らに刈るという意味です。

 考えてみてください。膨れて増やす方を「徳」と言い、平らに掻き均すことを「善」と言います。このように反対のものを一緒にすれば、平らにするために、つまり善のために実践できる道がありません。善があっても寝ごとであり、本当の善ではなく、本当は徳でしかありません。

註:ここで言う徳とは、もう一度生まれるための、特に自分を忘れるほど陶酔する、天国に生まれるための徳を意味します。目が覚めないのは、徳の結果である好所縁(満足すべき物やこと)だけを狙っているからです。つまり輪廻にしかならない過剰なまでの五欲(欲情)です。もう一つの善は、涅槃のため、倦怠して興味をなくすために智慧でするという意味です。一般原則を捉えれば、パーリ(ブッダの言葉である経)でブッダは、この二つの言葉を同じ意味で使っているのもあります。


 しかしこのような「徳」は、今みなさんが酔っているもの、そして山が生じるほど間違った執着で積んでいる物ではありません。要するに、徳はローギヤの、輪廻の成り行きになる煩悩であり、初めから欲望と邪見で撫でまわされています。一方の善はローグッタラ、涅槃になり、初めから欲望と邪見で撫でまわされていません。

 しかしタイ語ではこの二つの言葉をまとめて、同じものにしてしまいました。この二つの違いが見える人は、詳しい教えで熟慮して見てください。(ここまでが註)


 布施と言うようなのは、与えたより多くのお返しが戻ってくるとか、あるいは好かれるとか、たくさんの人から「太っ腹」と褒められるとか、あるいは来世は天国に生まれると考え、このような意図でする布施を「徳」と言います。つまり、たとえば一バーツ投資して、何百万の価値のある天国が買えるなど、自分の投資以上に何かを得る期待で心を膨らませます。

 このように心が膨らみ、風船になります。こういうのを「風船を手に入れる。」と言います。刀ではありません。

 同じ布施でも、強い吝嗇(ケチ)や貪欲を切る、あるいは削って平らに均す純潔な心ですれば、あるいは仏教の恩を崇拝し、仏教を振興させて世界の動物の菩提樹として永遠に維持するためにすれば、このように智慧で見て布施をすれば、直接愚かさや煩悩を削る布施です。あるいは世界の動物の拠り所であるために仏教を支えるのは、愚かさや煩悩を削る行為です。

 こういうのは、風船のように膨らむほど心を迷わせず、いろんな煩悩を掃いて地面を均します。だから、刀である善(次からは略して刀と言います)を手に入れます。布施の仕方次第で、布施をして風船を得ることも、刀を得ることもできます。

 持戒も同じです。「誰でも私が持戒をしているのを知っているから、私は他の人よりも善い]とか、「自分は厳格に戒を守れる」とか、あるいは「戒は、普通の人間と違う特別な威力のある卓絶した人にする」とか、あるいは「戒の威力で天国に永住できる。五戒を守るためにちょっと忍耐するだけで、自分が欲しい物がいっぱいある天国で寝起きができる」と考えて戒を守るならこうすることに利益があり、自分にとって非常に儲けがあると喜んでいるなら、こういうのは、戒を守って風船を手に入れると言います。つまり徳を得ます。

 しかし体と言葉の濁りを残らず拭って、清潔な人間として暮らすため、あるいは戒は、後で智慧で洞察するサマーディへの階段と考えて戒を守れば、そういう持戒は刀を手に得ると言います。持戒をして風船を得るか刀を得るかは、戒を守る人次第です。

 サマーディに励むもの同じです。他人が自分を「高い修行をしている人。瞑想ができる」と見て一斉に褒めちぎると考え、あるいは「瞑想をすると特別な人になる、地獄や天国や来世が見える特別の眼鏡が手に入る、いろんな霊験のある人になれる」と考え、あるいは何らかのレベルの梵天になることを目指してサマーディをするのも、そういうサマーディは風船を得る、あるいは徳を得ると言い、得るのは刀でも善でもありません。

 五種類の悪(五蓋)が心の周辺に溜まらない状態のサマーディをすれば、、人間の心の周辺に生じ易い悪がなく、穏やかな幸福のある心に満足するなら、あるいは明るさがあり、智慧を増やすことに満足するなら、こういうのは善を得る、あるいは刀を得ると言います。ここで言うサマーディとは、悪や低い方へ傾く気持ちを掃き出すことができる心の行動を意味します。

 一番の悪は、五欲の考えに落ちる機会をうかがっている気持ちで、タンマの行動をしても、あるいはちょっと本を読んでも、映画を見たくなったり、芝居を見に行きたくなったりします。もっと凄いのは、直接何らかの五欲に落ちたくなります。この最初の悪をチャンダ(貪欲)と言います。

 二番目の悪は、他人を虐め、怒り、恨み、妬む方向に傾く心の焦燥です。このような悪をパヤパータ(瞋恚)と言います。

 三番目の悪は委縮、心の寂しさ、ぼんやりすること、眠気など、怠惰や倦怠等です。これをティーナミダ(沈鬱眠気)と言います。

 四番目の悪は、情緒不安定で静かにしていられないことで、ウッダッチャ クックチャ(掉挙悪作)と言います。

 そして五番目の悪は自信が無く、何でもためらうばかりで、「自分がする徳や善は得か否か。こうしていること、こうすることで、危機を脱すことができるのか」と躊躇います。

 ブッダは本当に正しく悟ったのか。彼らが教えるプラタム(仏法)は、本当に苦からの脱出へ導くのか。善いことをして良い結果が受け取れるのか。悪いことをすると本当に悪い結果があるのか。あるいは、戒を守ってサマーディに励んで本当に危機を脱せるかを見ても、何もかもぼんやりしていて、自分を騙す躊躇いばかりです。まだ躊躇いがあっても、無理してすることもあります。

 この五番目の悪をヴィチキッチャー(疑蓋)と言います。五匹の虫のように、代わる代わる心の周辺を群れになって飛び回り、絶えず焦燥させ、煩わせます。これは普通の人の普通の状態です。普通の人で、この五匹の虫のいずれかが心の周りを飛び回っていない人がいるか、考えて見てください。時には五匹全部と感じることもあります。そんなことで、どうしてすべての物の真実に到達する澄み切った心があるでしょうか。

 このような理由で、善になる、あるいは善になったサマーディは、心の周辺からこの虫を追い払い、昼も夜も、自分の心に止まって煩わせること、あるいはイライラさせることができない種類でなければなりません。このようでないサマーディは、他の物になる望みがあります。そしてそのサマーディは風船であり、まだ刀ではありません。

 みなさん、布施をすることは風船にも刀にもなり、持戒も風船にも刀にもなり、サマーディをすることも風船にも刀にもなると見えると思います。しかし最後の智慧は一つです。物質面を望む愚かさ、騙され易さが資本でないので、風船にはなりません。智慧と呼ぶものは、正しくて明晰な知識でなければならず、盲信なら智慧と呼びません。

 そして智慧は風船になる余地のない、常に待ち受けていて切る道具です。智慧は、布施より戒よりサマーディより安全と見なし、そして布施・戒・サマーディを生じさせ、そして正しく歩けるよう誘導します。

註: 間違った知識は智慧と言いません。しかし正しく知れば、初等の段階でも智慧と呼びます。そして私は刀と呼びます。間違って切っても正しく切っても、少し切ってもたくさん切っても、全部刀です。知識や、山の講義でお話したような「真実を隠す光」の類の智慧も、間違って切ったり正しく切ったりする刀で、どんな種類の刀も風船にはなりません。


 妄信、あるいは布施・戒・サマーディ・智慧が何のためかを本当に知らないことは、包む物であり、人間を風船の下に、あるいは割れた風船などのゴミの下に埋めて隠す物です。少しずつ傲慢になり、少しずつ思い上がり、言葉には出さずに内心で自惚れ、他人をけなすことで心を膨れさせるからです。つまり徳で膨れ、自分の徳は他人と同じくらい多い、他人よりも多いと信じる自分がいます。

 徳に満足することは、徳に夢中にさせる以上の物はありません。徳への熱中は五欲の世界、特に天国、一般にはへ輪廻へ回転させる以上の物はありません。そしてほとんどは輪廻します。だから簡単にゴミの下に落ち、つまりこれらの風船の下に落ちて沈んでいます。風船は間もなく割れて、その人を埋めて覆い隠し、この世界に沈めます。世界の物に沈んでいるというのは、ローギヤの側と呼ぶ五欲の幸福の世界のことです。

 カーマヴァチャラ(欲界)である、普通の人間と欲情を味わっている天人の段階にいるものから、ルーパヴァチャラ(形界)である形のある梵天と、アルーパヴァチャラ(無形界)である形の無い(あるいは形に関わらない)梵天まで、すべて風船のように膨らむ威力で、輪廻の渦に夢中になっています。

 自分の罪であるカンマの結果で、避けられずに輪廻の輪の中にいる時は、輪廻に満足するほど愚かなので、輪廻で流れて行かねばなりません。それで、輪廻のいろんな波風を受けないでいることはできません。

 たとえば車に轢かれて死ぬとか、あるいは何のカンマの結果か、意味があまりない被害で死ぬなどのいろんな事故も、それは輪廻したがるほど愚かでいたいカンマの報いと、なぜ考えないのでしょうか。輪廻はこういうものです。(それ自体にそのような偶発性が潜んでいる輪廻に満足している「愚かさがカンマ」なので、それ以外のカンマを持ち出す必要はありません)。

 輪廻には、当然、楽しく見せて目を騙す針が隠してある餌のような搾取や、直接又は間接的な痛めつけがあります。輪廻の中はこのようです。自分の徳である、自分の望み通りになった満足から生じた自分の徳の威力で、輪廻に満足している時はいつでも、こういうのは、確実に輪廻の波風に遭遇しなければなりません。最高レベルの梵天界の無形梵天でも、重荷に遭遇します。

 重いのは自分を背負っているから、生老病死する自分を背負っているからです。このような状態を「こちら側のもの」と言い、世界の側です。反対の側は初めからすべて反対で、宗教の実践からいろんな原則まで正反対です。

 こちら側(輪廻を嫌う側)の人の布施は、自分を厚く塗り重ねるためでなく、削って薄くするためです。つまり執着やケチなどの身勝手を削るため、あるいは宗教を支えるため、愚かさが厚い界の動物の、愚かさや迷いを削って薄くする道具であるプラタムを維持するためです。

 初めから塗り重ねて、風船のように膨れないで、削り始めます。戒も削るためにし、害がいっぱいの体と言葉を削ります。削ることであって増やすことはありません。

 サマーディの部分も、五匹の虫(五蓋)を払い落して、心の周辺に群がらないようにします。だから切る道具である智慧が、完璧に切れるダイヤモンドの刀のように完璧に生じます。つまり完璧に正反対です。風船の方はサンカーラのため、ローギヤに回転するため、刀の方は、ローグッタラへ行く、あるいはアサンカタ(無為)である、何も作れない物、つまり風船のないヴィサンカーラへ出て行きます。

 煩悩の威力が際限なく欲しがらせ、望ませ、満足させ、そして輪廻へ押しやることで風船になります。ヴィサンカーラ(非行)、あるいはアサンカタ(無為)の方は、そのように変化させる物がありません。あるのは、変化させるものである無明、あるいは創造主である神様が無くなるまで削ることだけです。

 だからその心は、この世界と反対の状態、つまり作ること、変化させることが皆無の状態に到達します。作ることが無ければ、生老病死の輪廻に回転せず、煩悩の威力による憂鬱もありません。だから煩悩の無い純潔な物で、それ自体が明るく輝いています。

 愚かさや信じ易さがなく、そして誰も束縛しない状態があるので、滅尽・解脱です。そして誰も奴隷にしない状態で、誰かの鼻先を紐でつないで、欲情や他の執着の基盤である感情を求めないので、完璧な自由です。だからこの世界と反対の状態を全部知りたい、理解したければ、述べたような正反対の意味を順に比較すれば、よく理解できます。

 (これから向こう側の説明をします。それはアサンカタ(無為)、ヴィサンカーラ(無行)、あるいはローグッタラ(脱世間)であり、言葉で呼ぶ範囲を超えているので、呼ぶことができず、呼べる名前がありません。しかしこちらの言葉を借りて、何とか近い感覚を生じさせるために仮定で呼びます)。

 もう一つ理解しておくべきは、反対の状態のローグッタラは世界ではないので、そこには誰も住んでいないことです。人が住む所ではありません。名前を付けて呼ぶことはできません。人が住んでいて、そしてあれこれと呼ぶことができるこの世界と違います。ローグッタラの側は本当のタンマであり、そこを言葉で規定できる人は誰もいません。

 知った人、見た人は、この世界の言葉を借りてその状態を呼ばなければなりません。本当は一つの、唯一の状態であり、分けられませんが、名前がありません。教祖もその状態を何と呼んだらよいか、(仮定で呼ばなければ)呼びようがありませんでした。

 だから『比丘のみなさん。それはあります。それは土でなく、水でなく、火でなく、空気でなく、行き来のような行動でもなく、ジッと静かにしていることでもありません』と言われた中で、「もの」あるいは「そのもの」と呼ばれました。何でもすべて否定ばかりですが、しかし「そのもの」はあるとだけ主張なさいます。教祖も、それを何と呼ぶか言葉に窮され、正しく呼べれば、(仮定も規定も剥ぎ取ってしまう)究極の真実です。

 それを呼ぶ言葉に窮した時、それまで名前がなかった物なので(仮定である名が付けられないので)、そしてそれに対して誰も何もできず、このように名前さえつけられないので、それをどう呼べるか(聞いて意味が分かるか)、仮定で呼ばせていただかなければならないので、この世界の側の言葉を借りて、そのものを「純潔」あるいは「清浄」と呼びました。

 こういうのはハッキリした仮定です。それ(つまり涅槃)、あるいはすべてにおいてローギヤと反対の状態は、何らかの所有や存在にはなれないからです。

 それは有あるいは存在でなく、「あれ」「これ」と呼ぶのも正しくありませんが、しかしそう呼ばなくてはならないからです。(それについて話さなければならないので)。「純潔」あるいは「解脱」、時には「元々の状態」と仮定して呼ぶのは、すべて仮定です。仏教教団のある宗派は「本来の心」と呼ぶこともあります。こういうのも仮定でしかありません。

 「涅槃」と呼ぶものである「苦の滅尽」は同じだけ仮定です。(滅亡は一つの様相であり、涅槃は何らかの様相ではありません)ローグッタラは様相ではなく、滅亡、あるいは滅亡の様相はありません。涅槃という言葉は抽象名詞である「動き」、あるいは「何らかの行動」で、ここでは絶滅です。私たちは行動でないもの、あるいは行動の無いものを無理して呼びます。

 だから「涅槃」という言葉も、「滅尽」も「解脱」も「清浄」も、涅槃、あるいは向こうの状況を話すのに使うどんな言葉も、作る物がないヴィサンカーラ(無行)である物は、すべて仮定の言葉ばかりです。

 ヴィサンカーラという言葉も、良く熟慮して見ると仮定の部分があると見えます。それは、向こう側は呼ぶことから脱した自然だからです。あるいはこちら側の話は仮定で呼ぶ以外に、「そのもの」を「何だ」と正しく呼ぶ力がないからです。

 (しかし多少賢い人は、近い感覚を生じさせるこちら側の何らかの言葉で、何とか理解できるよう特別に定義して、新しいものを呼ぶために、可能な限り良い新しい意味を持たせます)。

 私たちはこちら側とあちら側の違いを、「これほどまでに完璧に違う」、あるいは「正反対」と理解しなければなりません。人間のすべての語彙、あるいは一つの言語体系に、物質ではない、理解できない、何らかの状態がない「そのもの」に使える言葉はありません。名詞・形容詞・動詞は形があり、状態があり、存在がある物、あるいは何らかの状況がある物に使うことができます。

 呼ぶ名前がないので、当時のインドでは火のように熱い物が少しずつ冷える意味の抽象名詞だった「ニッバーナ(涅槃)」などの普通の言葉にするしかありませんでした。

 あるいは、釜からよそったばかりのご飯を冷ます時、それが冷めることも、一般に涅槃と言っていました。釜からよそったばかりのご飯など、熱い物が冷えることを意味するパーリ語の涅槃という言葉を、ローグッタラである向こう側の物を呼ぶのに使いました。

 熱い側の世界と反対の、涼しい(冷えた)と仮定した側です。だから仮定による物ばかりと見えます。(本当の涅槃は「涼しさ」と呼ぶことからも脱しています)。このようなので、向こう側を呼ぶ名前がないこと、あるいは簡単に向こう側の状態を説明できないことを責めることはできません。

 道は一つしかありません。急いで(膨れて、ふわふわ揺れて、最後には割れて散るだけの)風船にならないように行動する努力をします。

 急いで刀になる行動をし、包んで隠している物である無明、あるいは愚かさが全部消えてしまうまで切って削れば、そうすればローグッタラ、あるいは向こう側と呼ぶ、世界と反対の物に出合います。そして「そのもの」がどのようか、どう呼ぶべきか、自分で知ることができます。

(つづく)



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