(これから、信仰して手放そうとしない、自分を閉じ込めている輪を叩くために、ブッダ・プラタム・僧と戒・サマーディ・智慧に関した誤解で夢中になって山を作る危険について説明します)。

 今みなさんは、自分が好きないろんな物への信仰(執着)で、風船の下、あるいは割れた風船のゴミの下に埋まっている人になっている所まで来ました。ブッダが好きで(自分の見方で)、風船のような信仰が生じるほど執着します。

 プラタム(教え)が好きでもプラタムとは何かを知らず、人が称賛する声に釣られて好み、つまり自分は他の人と同じ仏教教団員なので、プラタムを好きでなければならないとしてプラタムを好みます。

 こういうのは風船の類の信仰を生む惑溺です。僧に関しても同じです。ブッダ・プラタム・僧が私たちにとって風船になるのは、ブッダ・プラタム・僧とは何かを理解できないからです。冒頭で述べたように、子供の気持ちのように仏像とブッダを同一視する人もいます。

註: これらの人たちは、仏像はブッダの死後何百年も経てからこの世に現れたと知りません。三蔵の中には、仏像という言葉はありません。三蔵の中の、ブッダの死後百年も後の第二回結集について書かれた文章にも、その集会に仏像を祭ったと言及されていません。

 清浄道論の著者である、ブッダの死後千年のブッダコーサ師でも、ブッダの博学に関した文章で、戦慄するような描写でこの世界の状態を大胆に綴りながら、仏像について話すのは不服そうに見えます。


 考古学者が言うことが本当なら、ギリシャ人仏教徒がインドの北西に侵入して来て仏像を創って拝ませたのが始まりで、それから伝播しました。その後サマーディのニミッタに使われるものあり、呪術の面で不死身呪文の神聖なものに使われるのもあります。しかしこのようにすることがブッダの望みと一致するかどうか、過剰か過剰でないか、疑問が消えません。

 大人でも、ブッダは二千年前にインド国内を歩いて旅をした人とだけ知っている人がいます。こういうのはその人を誤解させ、そして(夢の中の像でも)自分はそれを見た、あるいはそれを持っていると考えれば、それに夢中にさせます。それは徳になり、善には至りません。風船を切ってくれる刀がなければ、自分が埋もれるほど多くなります。

 つまり自分はブッダ・プラタム・僧に到達した、あるいは仏像、あるいは二千年前にインドの国を歩き回っていたブッダに至った、あるいは本箱、三蔵の本箱、あるいは黄衣、黄衣の端などであるブッダに至ったと信じる威力で、傲慢尊大になります。

 このようなのは、この種の人のブッダ・プラタム・僧であり、理解のある人のブッダ・プラタム・僧ではありません。これだけで、その人の道を妨害する山になります。その人がブッダと呼ぶもの、あるいはプラタムと呼ぶもの、あるいは僧への信仰は、非常に強い執着で、妨害する山のように心を覆って光を生じさせず、自分は仏教教団員、清信士・清信女と宣言しても、ブッダダンマの道を歩かせません。

 このような理由で、この山を通り抜けて行く人は、ブッダは信仰するものではない、あるいはそのように塗り重ねるものではないと、正しく理解しなければなりません。

 この誤解が私たちの仏教を繁栄させているので、利益にならず、却って害になります。平坦な道にならないで、却って荒れた道になり、自分を見失うほど徳を欲しがる人の徳への惑溺で、歩けない荒れた道にします。その結果何が何だか分からなくなり、風船を作って仏教を埋めるだけです。だから仏教は風船に埋もれていて、浮かび上がって私たちの拠り所になりません。

 ブッダの時代には、心を風船にする類の実践はありませんでした。たとえば三十万(バーツ)で菩薩堂を建てるなどは、三十万の風船です。そしてそれらの建造競争をします。どんどん激しくなり、自分を見失い、競争に夢中になり、その結果仏教を散らかし、押し潰し、どうすれば苦から脱せるかという真実が現れません。

 風船を背負い、頭上に押し上げ、担ぐことに夢中になり、それらが多くなって(ローグッタラに向かって)行くことができず、風船の固まりの中に沈んで寝ているからです。つまり「少しの投資で見返りが大きい。何百、何千でもない金額で天国が買える」と、自分が信じる徳に酔います。

 ほとんどすべての人がこうしたがります。(誰かに騙され、あるいはそうでなくても)このようにして自分を徳の山の下に埋めているので、その先へ進めません。それで誰を責められるでしょうか。だから誤解を抜き取るために、それらの風船を全部叩き割ってしまわなければなりません。その方が良いです。

 仏教を育てると考えて反対に仏教を埋め、風船である自分の徳に陶酔することの下に沈め、それで「どうして現代は預流などの聖人がいないの」と夢中になって非難します。自分自身で、誤解が作った風船で埋めていながら、自分でも「いない」と信じています。

 そして子や孫にも、休まずそうし続けるよう誘います。かつて埋められたことがない教祖の仏教は、後世の、現代人の風船の要求に埋められ、それで預流など聖人がいるでしょうか。ブッダは「八正道の実践があれば、世界には聖人は欠けない」と言われています。

 ブッダが断言された言葉です。それで、そういう関心のある人はいるでしょうか。非常に少ないです。しかし手分けして風船を作る人はたくさんいます。それで阿羅漢を見ないと愚痴を言います。(上の文章は風船、あるいは山の説明です)。

(これから、このような状態はどんな解決をされるべきか説明します)。

1.行く人にとって耐えがたい状態( unendurable )

2.まだ居たい人にとっては何とか耐えられる状態( endurable )

3.良く分からない人にとっては、すごく楽しい状態( pleasurable )

 厳格なブッダヴァチャナ(ブッダの言葉。仏言)を根拠にすれば、刀である八正道のすべての部分、すべての項目に専念するべきです。八正道には正しい見解が先導としてあるからです。みなさんは八正道に何があるか、聞いていると思います。そして第一項を「正しい見解」と言うと知っています。

 つまり正しい智慧で、何が善で何が悪か、何が間違いで何が正しいか、何が束縛で何が手放すことか、何が純潔で何が憂鬱か、何が苦に沈むことで何が脱出させるか、何が輪廻に沈ませる道か、何が輪廻の輪を断ってしまえる方法かを見ます。初めにこのような八正道の正しい見解があれば風船にならず、なるのは刀だけです。どんどん切っていけば、最後には聖人になり、最低でも預流になります。

(次は本当のブッダ・プラタム・僧に到達することで聖人になるのはどうするか、山あるいは風船の類とどう違うか、どうやって山にならないように防ぐか説明します)。

 本当のことを言えば、聖人は、注意深さで高い方へ進化して行く人間の自然で、然に流れ、善い状態で進化します。つまり周到に考え、いつでも高い物を望みます(道草を摘む迷い人のように、停滞するほど没頭しません)。

 財産やお金が十分あり、名声名誉が十分あり、社交的も完璧で、善い友達がたくさんいる人間が更に高くへ行きたいと望めば、八正道を行く以外に(世俗の範囲では)どこにも行く所がないので、この教祖の何らかのレベルの聖人になるだけです。(そうでなければ道は一つ、低い方へ戻るだけです)。

 だからブッダは、私たちが理解できる聖人の境地について、「凡人の段階を最高に良く満たした後で」と言われています。つまり凡人として最高に賢い凡人なら、聖人の道以外に行く道はありません。「理解があり、理解することで信じ、ブッダ・プラタム・僧にグラグラゆらゆらしない、そして完璧に純潔な戒があれば、その人はソターパッティ(預流)の世界へ行く準備が整っていると言われる」と明言しています。

 つまりソターパッティ(預流者)になります。

 この項目は、ブッダ・プラタム・僧のしっかりした理解と信頼があり、変化しなければ、当然真実のままに正しくブッダ・プラタム・僧を理解していることを意味します。仏像しか理解できない人、あるいは二千年余り前に歩き回っていた人物しか理解できない人にはできません。

 ブッダは『タンマが見える人は如行が見える。たとえその人が黄衣の裾を掴んで放そうとせず、昼も夜も、どこへでも一緒に行っても、その人にタンマが見えなければ、如行が見えるとは言われない』と言ってしまわれているからです。この項目は、みなさんがうっかり忘れないように、何度も繰り返し強調したい項目です。

 「私たちが誰かを知る、あるいは理解するなら、心を理解しなければならない」と、簡単に思い出してください。そうすれば知っている、あるいは理解していると言います。子でも妻でも、あるいは友達でも、理解する、あるいは知るには、その人の心がどうかを知ります。ブッダを知ることも、ブッダの心がどうかを知ることです。

 このようなら「タンマを見るとは、何をどう見るのか」という所が大きな問題です。ここで言うタンマを見るとは、すべての物の真実を見ること、特に
(この世界と、他の世界も含めて)世界と反対の状態を見ることです。それは純潔で冷静で明るく、憂鬱がない状態で、明るさ、手放すこと、関わらないことであり、何も変化させる物がない状態です。それを「元々の状態」と呼びます(註:1)。

註1:私は、無為は過去・未来・現在の範囲外にあると捉え、述べます。過去は元々の状態ではありません。加工することの範囲内にあり、時間の範囲内にあるからです。無為は加工する(作る)ことろ元始から永遠にある時間の範囲内にあるので、涅槃などの一つの呼び名として「本来の状態」と呼ぶにふさわしいです。どのように見るかによって簡単に見え易くします。そして「原石の中のダイヤ」あるいは「最初のブッダ」、あるいはそのように呼ぶ方が、むしろ危うく見えます。

 何か作る物がある状態は、まだ新しい物です。元々の状態とは、作る物がないという意味で、作ることより前からあります。それをここでは「元々の状態」と呼びます。教祖が「それはある」(註2)と言われた物が見えた時、本当に最高に正しくタンマが見えたと言われます。苦が見え、苦の滅尽が見えたという意味です。

註2: ブッダの心を知るとは、タンマを知ることです。タンマこそが、仮定で言うブッダの心だからです。あるいはブッダが『タンマを見ることは私を見ること、私を見ることはタンマを見ること』と言われたように、ブッダだからです。

 それです。そうすれば本当に正しく、最高にタンマを見ると言われ、苦を見る、そして苦が残らず消滅するのと見るという意味です。  苦を見るとは、この世界、あるいはすべての世俗の物を正しく見ることで、苦の絶滅する所が見えるとは、向こう側、ローグッタラの側、あるいはヴィサンカーラの側(註)を見ることです。こちら側と反対で、作る物がありません。世界を見、世界の滅亡を見、苦を見、苦の滅尽を見ることを、すべてを見ると言います。

註: 涅槃の段階のローグッタラは本当のヴィサンカーラ(無行。無為)です。聖向聖果の段階のローグッタラは、ローグッタラの仲間でローグッタラの側に入れられます。だからヴィサンカーラの側にも入ります。つまりまだ完璧なヴィサンカーラではなくても、ヴィサンカーラになります。


 本当のタンマを見るとは、この世界と反対の状態を見ることです。仮定で清浄とか、解脱とか、滅尽とか涅槃とか、無為と呼びます。しかしそれぞれそう呼ぶ理由があります。ここで言う「見る」とは、(心に降り注いで心が変化する、あるいは心に新しい変化が生じるので)この世界の様々な苦と反対の状態、空っぽに見えます。

 何がないのかは、すべての苦など、こちら側の有為の群の回転から、人間が非常に満足している何らかの経過まで、この世界にあるこちら側の有為の群のいろんな循環がありません。

 本当はそれも苦ですが、砂糖をまぶした苦です。群れて循環しないことが見えれば静かで、止まることができ、休むことができ、座ることができ、純潔で、明るく、冷たく澄み渡ります。こういうのをタンマが見えると言います。同時に憂鬱や包んでいる物を全部刈ること、掘ることである、それに関わる実践法も見え、その結果、そのような状況を自分で理解できます。

  こういうのを、昔(ブッダの時代)から人をブッダにするタンマ、シッダッタ王子をブッダにしたタンマ、ブッダの心の中にあるタンマが見えると言います。ブッダの心に完璧にある純潔、明るさ、冷静、作る物が何もない状態が見えます。この種のタンマがこのように見えるので、如行(ブッダの一人称)がハッキリ見え、そして如行を理解したと言われます。

 このようにタンマが見えなければ、仏像(註:彼らが「サマーディに入る」と言う方法で、心が半分の感覚( subconscious )の時に夢想する「仏像」という意味)しか、あるいは二千年前のインドを歩いて移動したブッダの外皮しか見えません。

 それで「私はブッダに到達した」と心が膨らみます。真面目な探求に至らず、時が経てば経つほど、年を取れば取るほど徳が増えると考えるだけです。そして誰の意見も聞かないほどになり、自分を持ち上げ他人を貶すばかりです。だから、ブッダダンマの道の山になって妨害している物を、「その人のブッダ」と言います。このような有様で誰を責めることができるでしょう。

 僧も同じです。僧は外側のチーヴァラ(衣)、あるいは「黄衣の男」と呼ぶもの、あるいは剃髪や午後の食事を控える習慣など、それらで僧になるのではありません。黄衣を僧と見なすなら、中国人の店に山積みです。剃髪などの習慣で僧と見なすなら、坊主頭の人は全員僧になります。僧の体も、普通の人の体と同じ外皮にすぎません。

 僧とはタンマです。ブッダの中にあり僧にもあるものであるタンマです。その人物にあるプラタム(教え)が、AさんBさんという人を「僧」と呼ばせます。僧と呼ばれ、僧と見るのは、ブッダにあるのと同じタンマが僧にもあるので、そのタンマを見ることです。黄衣の男を見て、風船になるほどすごく信仰するのではありません。

 黄衣をたくさん作ったから、涅槃への道がいっぱいあると考えるのは、むしろ自分を埋める風船です。自分の心が膨らむことは、そこに沈ませるからです。だから「僧とは、人を普通の在家でいた時と違う心にさせるタンマ」と正しく理解するべきです。こういうのが僧です。

 簡単にまとめると、ブッダからタンマである「向こう側への到達」を取り出してしまえば、すべての人と同じ外皮しか残りません。(つまり無常である腐った蘊と根にすぎません)。僧も同じです。タンマであるこのような意味を取り出してしまえば、誰でも外皮しか残りません。ブッダから全部搾り出したタンマ、あるいは僧から全部搾り出したタンマは、プラタム(仏法)と同じタンマです。

 だからブッダは、ブッダ・プラタム・僧は、本当は一つで分けることはできないと言われています。

 しかし私たちは外面の様子で区別します。つまり自分でタンマを知る人の行動と言うのは、「ブッダの先生の名前は探求」と見なすことに満足する類、つまり道理で探求し、明らかに検証する、自分で探究する所が他の人と違います。ブッダの弟子である私たちも、「探求」という名の先生につくべきです。ブッダは自分で探求し、私たちはブッダの教えで探求します。

 ブッダは自分で発見したので、ブッダ(サンマーサンブッダという意味)と呼ばれます。僧は自分で探求して発見することはできないので、聞かなければなりません。それから実践行動をして、ブッダが発見したのと同じタンマを受け取ります。このような外面の違いで(三宝の)三つに分けるのは、その様子だけを仮定してです。

 三宝を見る時は、タンマはブッダの中にある、ブッダが発見した純潔で明るく澄み切って冷静な状態であり、プラタムは、ブッダが生まれる前から、僧が生まれる前から、あるいは誰が生まれるより前からある、そのような状態と、このように明らかにブッダを見てください。

 つまりすべてのサンカーラ(行)がこの世界にいっぱい作られる前の、(もっとハッキリさせれば、輪廻になる前の)元々の状態です。その状態をタンマ、あるいはブッダダンマと呼びます。生老病死や憂鬱や縛りつけや、世界のすべてのあり様から解放された純潔、つまり元々あるタンマ、本当の元来の状態です。

 (どうぞ山を突き抜けて、時々これに到達してください)。僧とは「自分が味わっている自分の内面の状態が見える、智慧のある人」を僧と言います。違いはこのようです。明らかにこのようなブッダ・プラタム・僧の要旨に到達した人は、その状態が素晴らしいと、この上なく素晴らしいと本当に見えない場合以外には、グラグラ揺らぐ信仰はありません。あるいは信じません。

 それ(信仰)は仏像をブッダと、人物をブッタと、あるいはニッパヤシ(に書かれた経典)の書棚をプラタムと、あるいは黄衣をまとった人を僧と、あるいは坊主頭の人を僧と見るような空しい見方です。それが仏像の鋳造産業やニッパヤシの産業、国中で黄衣を縫製し、クルンテープ(バンコクのこと)のハン橋の辺りで、たくさんの仏像をお盆に入れて売るような産業を興す結果になるだけです。

 いつかこの世界と反対の、苦と反対の、輪廻の輪を作ることと反対の状態が明らかに見えた時、タンマが見えたと言われます。そしてブッダ・プラタム・僧に揺らぎのない人です。つまり初めの三つを完璧に得たということです。まだ残っている四番目のアリヤカンタシーラ(聖人が愛す戒)、あるいは汚点のない、卓絶した、聖人が満足できる戒があります。

 みなさん。ブッダ・プラタム・僧が明らかに見える人、つまり述べたような状態でタンマが見えれば、戒を犯すことができるかどうか、その人の戒が純潔でないことがあり得るかどうか、考えてみてください。

 その人が、ブッダ・プラタム・僧をそれくらい理解すれば、戒もアリヤカンタシーラという聖人が見て満足する類の純潔であり、耳目のある智者たちがその人を調べても、曇りや破戒の罪はありません。天の眼や天の耳、何でも人間の能力を越えている天人たちが探しても、その人の戒の曇りを見つけることはできません。

 その人にこの種の戒があるのは、心がブッダ・プラタム・僧に到達し、そのように集中しているからです。だから四番目の戒と見なす、その種の戒があります。ブッダはその人をソターパッティ(預流)と呼びました。つまりブッダ・プラタム・僧に揺らがない人で、四番目のアリヤカンタシーラ(聖人が喜ぶ戒)がある人です。

 (次は三つのサンヨージャナ(結)を捨てる教えと八正道を歩くことで、ソターパッティ(預流)であることの比較です。それは、自分を風船から遠ざければ遠ざけるほどになり、そしてブッダ・プラタム・僧で風船を作らなければ作らないほど、あるいは今のように迷って山を作らなければ、作らないほどなると指摘します)。

 まだ疑問があるなら、ソターパティ(預流)の規準はサッカヤディティ(有身見)とヴィチキッチャー(疑)シーラッバタパマーサ(戒禁取)を捨てることができるか否かという規準で比較すれば、誰に教えられなくても、世界、あるいは苦と反対のタンマの状態はこうであると見える人は、「この体は自分であるはずがない。当然消滅する」と、(欺瞞である体と反対の「向こう側」が)見えるので、当然この身体は自分の物と信じるサッカーヤディティ(有身見)は、そのような人から消えます。

 そしてヴィチッチャー(疑)、つまりブッダ・プラタム・僧は本当に善いか、あるいは戒・サマーディ・智慧は知るべき正法で、動物を苦の固まりから脱出させるか、あるいは自分の行動は正しいか、何か間違っていないかなど、このような躊躇いはあるべきではありません。このようなヴィチキッチャーである躊躇いは、述べた主旨の、本当のブッダ・プラタム・僧に到達した人にはないので、ヴィチキッチャーも無くなります。

 シーラッパタパマーサ(戒禁取)は、「煩悩を削り落すために戒を守る」と見ないで、あれこれ卓絶した人になるために戒を守るとか、仏教で規定している何らかの勤めをする時、煩悩を削り落して涅槃に到達するためでなく、いろんな卓絶した人になると信じてするとか、あるいはカンマを信じないで、外部の原因や縁に何かを可能にする威力があると信じるなど、理由のない外部の縁への信仰です。

 理由に欠ける信仰や、このように外部の縁を重要と見なすことは、本当のブッダ・プラタム・僧とは何かが見える高い心の人にはありません。タンマ、あるいはプラタムが、「苦はこうで、反対の苦の滅亡はこうで、他になりようがない」と内面の理由で経過するのを明瞭に見せるからです。

 自分で明らかに見えれば、再び外部の縁を掴むことはありません。あるいは苦と愚かさを削るために実践する理由を、理解できないこともありません。この項目はシーラッパパマーサ(戒禁取)である、理由の威力の中にない誤解と外部の物への信仰を完全に断ち切ることであり、それができればソターパッティ(預流)です。

 あるいはもう一つの基準である八正道と照合することもできます。何がソター(流れ、あるいは渦という意味)かと問うなら、ブッダも、どの仏弟子の方も、流れとは「八正道」と答えます。ソターパッティ(預流)とはどんな人かと問われれば、「八正道に沿って正しく歩き始めた人、つまり流れに到達した人をソターパッティ(預流)と言う」と答えます。

註: ここで言う流れとは、預流から一来、不還、阿羅漢までを意味します。阿羅漢は流れの終点、つまり涅槃にたどり着いたと言われ、その他はまだ途中を歩いています。凡人(凡夫)はまだ流れに達していません。納得して流れの方へ行くよう後押しするために実践をしていて、まだ流れに到着するまで、つまりソターパティ(預流)になってしまうまでは、「流れに沿って歩いている」とは言われません。


 ここで言う流れとは、「川が海へ傾いているように、八正道は涅槃へ傾いているので、この道を歩く生き物が、涅槃以外へ行くことはない」とブッダが言っているように、涅槃に直結している道を意味します。だから川に降り注いだ雨粒のすべては、一つ残らず海へ流れて行きます。他へは行きません。八正道、あるいは涅槃への流れは涅槃へ傾いています。だからそこを歩いている人が流れて移動するのは難しくありません。

 お願いするのは、風船や徳を、妨害している物を切る道具にしないで、刀である善で風船を切って愚かさを削り、自分を押しすることです。初めの段階は多少難しくても、凡人の最高点まで自分を後押しすれば、脚力で自転車を漕いでいる人は、丸い橋の頂上までは汗を流しますが、頂上まで登ってしまえば、その後は向こう岸まで傾斜して行くだけなので、その後は坂を下りるように簡単なように、八正道の流れで簡単に流れていきます。

 だから努力するのも、眼の中の厚いかさぶた、あるいは煩悩の厚さを、戒・サマーディ・智慧の行動、あるいは八正道で削る初めの段階だけ、初歩の低い段階だけです。

 初めの段階は休まず少しずつ自分を押して、凡人の最高点まで行ったら、後は聖人の世界に流れ込みます。少なくとも確実にソターパッティ(預流)です。初めに言ったような意味で、お話したブッダと僧を明らかに理解し、見、信じ(あなたのヒマラヤでない類と主張させてください)、タンマを理解する時間と労力を惜しみません。

 つまり世界と反対の物の状態からタンマまで、どのように初めからあるのか、どのようにすべてのサンカーラのように生じたばかりでないのか、そしてブッダの心の中にどのようにあるのか、そしてすべての僧の心にどのようにあるのかが見えるので、完璧に見えるまで理解する時間と労力を惜しみません。その人が自分を押して橋の一番高い所まで登ったと規定できるのは、このようです。

 残っているのは、聖人レベルの聖向で、ソターパッティ(預流)から順に八正道の流れに身を委ねて休まず流れるだけで、阿羅漢に至ります。

 ブッダは「ソターパッティは、確実に涅槃に行く」と保証されています。他になりようがありません。落ちないのは当たり前です。

 悪の門はありますが、悪の門は聖人の後ろで閉じられます。だから私たちの義務は、ソターパティ(預流)まで押して登ることだけで、その後は快適に流れて下ります。努力しなくても他へは行かないので、必ず終点まで行きます。ちょっと努力をしなければならないのは、橋の頂上まで押して登るだけ、最高に善い凡人になるまで高くする初めの部分だけです。

 努力して勉強し、努力してブッダ・プラタム・僧が自分の心に現れるようにし、徳であるたくさんの風船を、自分の心に現れるブッダ・プラタム・僧に被せないでください。あれこれ風船を掴んでブッダ・プラタム・僧にすれば、ブッダ・プラタム・僧に出会う機会はありません。だから大変と考えないで、努力しなければなりません。そして風船を全部粉々に潰し(註)、本当のブッダ・プラタム・僧を正しく理解する勇気が必要です。そうすれば仏教教団員の意味があります。

註: この風船を潰す勇気には、それ以後は輪廻を循環しない段階へ移動することを目指して、天国など物質的幸福を求める段階から、勇敢に自分を移動させる決断をするという意味があります。


 (次は非常に必要なもの、風船を担いで山の周辺を回転する時、勇敢に風船を潰すこと、あるいは自分の執着の山を壊して、正しい仏教教団員にならなければならない「ものすごく長持ちする状態」である必要があると見えるよう説明します)。

 仏教教団員という言葉を直訳すれば、「ブッダを囲んで座る」という意味です。ブッダマーマカとは、「ブッダは私の物と叫ぶ勇気のある人」という意味で、清信士(ウバソク)清信女(ウバシカ)は「ブッダの近くに座る人」という意味です。みなさん考えてみてください。風船をぎっしり積み上げている人が、ブッダを囲んで座れるでしょうか。

 体が見えないほどびっしり風船を担いでいれば「ブッダは私のもの」と叫ぶ正当性がどこにあるでしょうか。そして本当のブッダとは何か、どこにいるかを知らないで、風船を掴んでブッダ・プラタム・僧にしていれば、ブッダの近くに座る清信士・清信女の意味はありません。だからこれらを削り捨てて、犠牲にしなければならないことに多少の痛みがあっても、我慢して風船を叩き割る努力をする必要があります。

 (つまり風船への未練、あるいは風船の御利益への未練を完全に断ち切ります)。風船を手に入れることは、心を満足させるだけです。それ以上の物にしないでください。行かなければならない段階、風船に埋もれている段階でなくなったら、壊してしまわなければなりません。(それぞれの段階の山になって行く手を塞いでいる限り)これらはすべてただの道具だからです。

 実践項目、つまり本当に正しい戒・サマーディ・智慧も、ブッダは「それは舟やイカダにすぎないので、岸に着いたら陸へ上がりなさい。舟やイカダの心配をしてはいけません。水に沈むこと、あるいは舟やイカダを担いで行くことはできません」と言われています。実践項目である戒・サマーディ・智慧を、舟やイカダと見ればできます。

 徳に関わっている人も同じです。ただ便宜を図るものだけと、この世に生きているのは勉強するため、解脱に到達するためだけと考えれば、風船はみなさんに大したことはできません。

 しかし拠り所として信仰すれば自分を埋もれさせ、仏教を風船の海に沈め、その結果聖向聖果に到達し、ソターパティになる人は誰もいません。そしてあの人この人を責め、僧を責め、政府を責めます。本当は自分の過ちなのに、迷って他人のせいにします。当然非常に公正ではありません。

 述べただけで、私たちが仮定して純潔、解脱、滅尽、涅槃、ヴィサンカーラ、無為、あるいは他のいろんな名前で呼ぶ「反対の状態」は、本当は「タンマ」と説明するには十分です。タンマを理解すれば、明るく澄んだ智慧で比較することで初めの段階を見ると、知ってほしい、洞察して欲しいタンマです。「信仰の山の周辺に限定した智慧」ではなく、明るく澄んだ本当の智慧で、すべての方法で、反対の状態と比較して見ます。

 そして世界と反対の世界の終わりを比較します。だから良く世界を見、本当に世界を理解し、苦の終わり、あるいは苦がないことを、苦から出て見ることで比較して見なければなりません。

 簡単に見えるのは、サンカーラ(行)である、作り出して循環しているすべての物と反対の意味のヴィサンカーラ(無行)を、体はすべてサンカーラであり、どう作られ、休まず循環変化して終わりがないのか、そして心と心の考えや感覚もサンカーラであり、作られて、終わることなく休まず循環させられていると比較して見ます。そしてその循環が生老病死です。

 生老病死は、それ自体が苦です。このような輪廻の中の循環では、確実に波風に衝突して傷だらけになります。

 煩悩の威力下にいることと反対の意味の解脱を比較すると、恐ろしい状態に胸が詰ります。罪がある欲望と反対の、欲望の終わりを比較すると、つまり欲望が私たちの鼻先を繋いでいろんな感情に引っ張って行き、この世界で終わらず、それに満足せず、まだ他の世界の他の物を欲しがり、天人の天国を欲しがり、梵天界を欲しがり、キリもなく循環します。

 それは捨てにくく、削りにくく、切断し難いのは確実です。だからサンマーサンンブッダの弟子として身を捧げて、最高に努力しなければなりません。そして自分を智慧で明るくし、本来の状態、あるいはローグッタラと呼ぶ煩悩と反対のすべての状態を洞察します。これ以上の方法をしても、当然できません。ブッダが「如行は道を指すだけ」と言われているように、信じるか否かは、当然その人の義務です。ほとんどは見えず、そして信じません。

 しかし世界の一番高い段階まで到達した人は、当然一つだけの道であり、ソターパティ(預流)、サカダーガミー(一来)、アナーガミー(不還)を通って、最後に阿羅漢に至る、八正道と呼ぶ、解脱に直行する唯一の道以の外に、どこにも行く道はありません。

 以上の理由で、今日の講義は「ブッダダンマ、あるいはヴィサンカーラ(無行)、アサンカタ(無為)、あるいはサンカーラ(行)より前からある本来の状態と呼ぶ世界と反対の状態を、智慧で洞察する練習をする努力をしなければならない。風船ではなく、刀を使った教えで実践を始めなければならない」とまとめます。

 今まで風船しかなかった人は、刀に替える努力をすれば、戒・サマーディ・智慧をする時、初めの段階で風船だった物を刀に替えることができ、いろんな山は崩壊します。

 パッチャッタンであること、つまり反対の状態を自分で洞察することは、他人を信じなくても、自然にそうなります。「原因がなく存在する物」に到達するには、自分の心を、間違う余地のない本当に正しい心にし、あるいはどんな愚かさ、信じ易さもなくします。みなさん、述べたいろんな項目を、何年も前の「ブッダダンマの道の山」から、以前にここでお話した講義と関連させて理解してください。

 今はどこででも見つけて読むことができます。(十回以上印刷して配った人がいます)。今日の内容を良く理解する方法がその中にあります。

 だからその本をお持ちのみなさんは、「ブッダダンマ、あるいは本来の状態、あるいは純潔など、すべて世界と正反対の物は、そのように存在する、このような理由で到達できると明らかに理解できるまで、あなたの見方によるブッダや、あなたが満足するブッダは、あなたの涅槃を隠す山」と見えるまで、読んでください。

 ブッダ協会員、そして善人のみなさん、三宝であるブッダ・プラタム・僧の本当の意味をしっかり理解し、そしてそれに満足する威力で成功させてください。



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