こういうことは、ブッダにもありました。経典の一部によれば、ブッダが真実を発見した時、つまり大悟した時、言い換えれば、今言っている意味の正しい自分を探し出す前のブッダは、数え切れないほどたくさんのものを引っ掴んでは、信仰するものにしました。素晴らしい光が生じた時、つまりブッダがブッダダンマを悟った時、意図せずに穏やかな幸福と、スッキリした気持ちがありました。

パーリ語のこの部分の文は、至る所で聞いたことがある、「アネーガチャーティサム ラーラン サンターヴィサン アニッピサン ガハカーラン ガヴェサントー トゥッカーチャーティ プンップナン」と言います。ここにいる何十人もの方が唱えられると思います。要旨をタイ語にすれば、『私は、自分が求める作り手を探し回ることに夢中になってばかりいた。そしてまだ、何が何か明らかに現れないときは、数え切れないほどの世である輪廻を回遊しなければならなかった。掴んだのはどれも、つまりどの世も等しく苦であった』という意味です。

この要旨を要約すれば、「何が何か知らなかったので、掴み間違いをしたことがある」です。その後、以前の失敗したのはどうだったと真実を発見した時、手放すことができたので、喜び感嘆して、先ほどのような言葉を述べられました。次の行には、『今は建築者である彼を見つけた。私が欲しがっているものを造ってくれると考えていた建築者を、私は知ってしまった。彼が何なのか知ってしまったので、今後私は彼に家を造ってもらうことはできない』とあります。『家を造る材料を、私は棟木まですべて折ってしまった。私はそれを二度と使い物にならないようにした』。

これは、最高に正しく自分を探し出したと見せています。そして最後の行には、『心は、何も回転しない』、つまり作り出せない、『二度と変化できない状態に到達した。欲望が絶滅した状態に到達した。だからそれは、転がされて何かになることは二度とない』とあります。

全部の要旨は重要ではありません。重要なのは、その時のブッダの心はどうだったかという点です。その時のブッダの心は、欲望と執着の壁を、完璧に通り抜けた人の気持ちです。自分は、かつて自分と信じていた自分、そしていろんなことを望んでいた自分ではありません。初めの段階ではいろんなことを望み、そして自分を満足させる人や物を探して駆け回り、それが輪廻を生じさせました。今、「駆け回って探している人は自分ではない」と、このように気づいたので、自分がないレベルまで高くなった心には、どんな望みもありません。

望む人がいないと知れば、望みの終焉が、望む人を生じさせたくない心に生じます。それは、自分と捉える山を通り抜けたからです。だから自分という信仰があって、私や彼、「私の」や「彼の」でも、それらがあれば、いつでも心を掴んで貼りつき、そして妨害します。厚いか薄いか、上等か下等かは、信仰や執着しているもの次第です。冒頭で話したような自分の見方によるブッダ・プラタム・僧の信仰には、自分があるという信仰が根源にあるように、自分があると信じることが根底にあります。

だから自分に実体がないと見ることができないように、ブッダ・プラタム・僧に実体がないと見ることができません。このような自分の取着に包まれていれば、それだけ正しい自分を発見できないので、まだ希望があり、走って輪を巡ること、つまり輪廻があります。それには苦と重さと、暗さと囚われと、束縛その他がぎっしり詰まっています。その山を越えることができれば、その場合だけ輪廻が切断されます。死ぬまで待たなくても、ブッダがつぶやかれた類の静かさに遭遇します。

ブッダが独り言を言われるほど、この感覚は非常に強烈です。「取」、あるいは自分に関した執着の手から一人だけ逃れた味わいは、経典によれば、「ブッダのこの感嘆の言葉は、このタンマの味を味わわれたブッダが、後の弟子に何日も話された」とあります。いま述べたブッダの例から、何かを「自分」と掴むことは、その時のその人の正しさ、あるいは真実になってしまう、ということが分かります。

そして休まずそうなので、それは山くらいの遮蔽物になります。この自分という見方を抜き取ってしまうことができれば、その時山もガタガタと崩れます。これらの妨害しているものは、大きいのや小さいのが繋がっていても、すべて「自分」という考えの上に立っているからです。しかしこの問題の難しさは、山を崩すテクニックにはありません。反対に、私たちが山を愛し、山に執着している点に難しさがあります。

だから方向を変えて大々的に苦衷を訴える方が良いです。私たちはお互いに誠実で、苦労を共にする仏教教団員同士と見るので、忠告し改革するために遠慮し合う必要はありません。私は、私たち全員の心は、自分が「ブッダ・プラタム・僧」と捉えているものと、ぴったり重なっていると見ています。勉強も実践も、ブッダ・プラタム・僧に捧げると言いますが、結局、本当のブッダ・プラタム・僧が何か、どこにあるか知りません。あるいは出合えません。その「捧げること」に身勝手があるか、あるいは初めから自分の利益が重要だからです。

これがなければたぶん誰も、何もブッダ・プラタム・僧に捧げないと信じます。みなさんがブッダ・プラタム・僧の状態に到達できなければ、儲けでしょうか損失でしょうか。それとも両方でしょうか。これは詳しく考えてみなければなりません。仏教教団員の、三蔵の学習やお寺の仕事の労力の投資は、現代は一年で百万にもなります。人をブッダダンマの真実に到達させることができれば、解脱である見合う結果があると見なします。しかしまだ虚偽や暗さに夢中になっている状態を見ると、覆い被さっている苦から脱出すことができない、非常に哀れで可哀想で、もったいない奉仕と見なします。

自分はブッダ・プラタム・僧に到達し、そして強く寄り添っていると感じでも、誰かに問い詰められれば負けます。最高に良くて自分の見解によるブッダ・プラタム・僧があるだけです。だからその奉仕はブッダの銅像、あるいは二千年前インド国内を遊説していたブッダの体、あるいは自分が招いて浮かべることができる緑色や赤色の星などへの奉仕です。それらは、本当はブッダダンマの道の山です。このような状態のブッダ・プラタム・僧について、あと十回、百回話してもたぶん利益はありません。山を越えられないからです。私たちが今ブッダダンマに到達できないのは、それらの山のせいです。

話題を変えてその山に穴を開けることについて熟慮する方が、みなさんの犠牲にとって安全です。執着しかない人の見方によるブッダ・プラタム・僧と、信仰の固まりである自分も含めて、すべてはこの山の遮蔽物であると認めた時、仏教教団員のみなさんに、自分の実体と呼ぶものを見ることも含めて、「自分だけの真実しか信じない信仰でいっぱいの人の見解によるブッダ・プラタム・僧」にしてしまうよう、伏してお願いします。

「自分がいなかったら、徳は誰のものになるのだ。山のような投資は誰のためなのか。それともどこかに捨ててしまうのか。徳の部分を受け取る人がいないなら、私は損をする」と言うほど愚かな人がいます。このようでは信仰の自分を捨てることはできません。せっかくブッダ・プラタム・僧を信仰していると考えていても、それが液体を掴むようなことになります。その人の考えがこのように不毛なのは、滑稽な話ではないでしょうか。このようなら、自分の考えで信仰しているブッダ・プラタム・僧を抜き取ることは困難です。

しかし逆らって信仰し続けても、後でブッダダンマに到達できないので、必ず後悔しなければなりません。だから切り捨てることに勇敢でなければなりません。誰に非難されるのも恐れず、どうぞブッダ・プラタム・僧を思うより多く、解脱を思ってください、と言いたいと思います。誰かに「ブッダ・プラタム・僧を捨てるように教える邪見だ」と謗られるのも恐れません。自我の見解がいっぱいの人の見解による「ブッダ・プラタム・僧」が多すぎると見るからです。投げ捨ててしまいましょう。

私たちがいろんなものに閉じ込められていることについて熟慮し、何とか理解したものになったら、これから、閉じ込めているものの破壊法について熟慮します。この部分は、ブッダ・プラタム・僧を否定、あるいは捨てるようお願いしていると思わないでください。自分の見方によるブッダ・プラタム・僧への限界を越えた信仰は、前方を遮るヒマラヤ山になり、それは本当にあると理解してください。そして完璧に解脱する段階まで進歩するには、すべての信仰を順に手放す必要があります。最終的にはブッダ・プラタム・僧への正しい信仰も捨てなければなりません。

初めの段階で信じるべき信仰も、自我の類の信仰であるべきではありません。道具あるいは道標として信仰するべきで、それだけでも十分多いです。ブッダの話で仲違いさせるようなブッダを信仰してはいけません。純潔・解脱・手放すことの代わりに仮定したプラタムを信仰して、いろんな形の実体にし、その結果プラタムが原因で仲違いをしないでください。解脱した人、あるいは解脱するために努力している人の名前にすぎない僧の教えのことで、どちらも信仰に神経質になって、ルールのない差別や仲違いが生じるほど信仰しないでください。考える力のすべてを、覆われて苦しめられている心の解脱に集中なさい。

自分がないこと(無我)の心配、つまり損しなければならない、犠牲を受け入れなければならないという心配はいりません。何かになり、何かを手に入れる自分は必要ありません。今本当にある自分だけでも我慢できないと、切り捨てます。それだけでも背負いきれません。本当に見ると、何かに包まれ苦が生じるよう虐められている心しか見えないと、真実が見えるまで探求してください。心を包んでいるものを取ってしまえれば、自然に自由になり、その後苦の症状はありません。どこにも何にも自分を必要としない、完璧な滅苦があります。ブッダ・プラタム・僧も、同じように正しく完璧です。

熟慮しなければならない問題はまだありますが、自分の心を空っぽにし、包むものが何もないようにするにはどうするかだけです。自分はない、あるいは自分のブッダ・プラタム・僧はないと考える必要はありません。それは風習やぶりで話に合いません。

こうすれば非常に早いです。十年、二十年、三十年の間にはみなさん死ななければなりませんが、その前に間に合うかも知れません。手っ取り早い方法は、見本である自分の見解によるブッダ・プラタム・僧などのように信仰するものを増やさないで、心を、どんな信仰もない純潔な状態にすることです。

このようにすれば心を包んでいるものを本当に除去できます。そして本物のブッダ・プラタム・僧は、その心の純潔な状態を意味します。望みは、包んで捕縛するものすべてから離れることだけなので、確かな基礎のある望みです。そしてブッダ・プラタム・僧のない道徳のレベルでも、ブッダ・プラタム・僧のある道徳のレベルでも、すべての観点で、ブッダ・プラタム・僧に粘りついている望みより純潔です。道徳のあるレベルは、ブッダ・プラタム・僧はなく、道徳のないレベルはブッダ・プラタム・僧があります。

そして最後の、すべてのしがらみから解脱するレベルにも、ブッダ・プラタム・僧はありませんが、道徳のあるレベルとは違います。仏教の目的は、人間に世俗を越えるレベルの、あるいはすべてのしがらみから脱すレベルの高い心を持つように教えています。それが仏教を、道徳レベルしかない他の宗教より高い宗教にしている理由です。だからすべてのしがらみから脱す望みは、仏教の教えの純潔な望みです。

一般の人はもしかしたら、ブッダ・プラタム・僧、そして善やその他の美しいことへの関心を捨てて、すべての執着から純潔な状態になることに関心を寄せるのが怖いのかもしれません。しかし要点を正しく熟慮すれば、つまり始終心を包囲して抑えつけて苦しめているすべての苦は、執着が原因だと気づくまで熟慮すれば、心が脱出することだけを目指す信念、あるいは勇気が湧いてきます。ああしなさい、こうしなさいと教えている経典を信じる必要がなく、すべては自分の信念と見解によっているので、本当に正しい勇気、それに本当に純粋な望みが生まれます。

いろんなことがこのように真実と一致すると、手放すことがあります。あるいはぐずぐずしていないで少しずつ手放します。より明らかな感覚になるので、絡まれる、あるいは解脱する主人公である心を「自分」にしません。最高でも絡まれて苦を感じるか、あるいは手放して幸福を感じるだけで、自分ではありません。無秩序なものの中に明らかな現象として現れるのは、心と苦だけ、つまり火で炙られて苦しめられている心、つまり自分が好きで欲しがっているもの、あるいは自分が望む状態、なりたい状態、あるいは自分がなりたくない、逃れたい状態のものにある執着だけだからです。

その心は「自分である」と言える自由がないので、実体のある心ではなく、何らかの結果、あるいは報いでしかありません。それはサンカーラ(行)のものである、ぞろぞろ繋がっている何かの結果、つまり互いに原因となり結果となって休まず押し出されてくるものであり、実体であるものはありません。だから心を自分の実体と見なすことはできません。あるのは、執着に包れている心だけで、どこにも第ニ者はないからです。それはサンカーラ(行)のものにすぎないので、心を自分と捉えることは出来ません。

真実はそれしかないと見て(自分という)執着を取り除いてしまえば、残るのは執着のない心だけと推測できます。それを仮に「本来の心」あるいは「純潔な心」と呼ばせていただきます。そして反対の状態、つまり静かさ、あるいはこの種の心は何かの所有者になる自分がいないので、駆け回って何かを手に入れ自分のものにしないので、苦からの脱出が生じます。ブッダ・プラタム・僧も欲しがりません。それ自体が純潔な状態、つまり正しい意味の本当のブッダ・プラタム・僧があるからです。

信仰あるいはこれらの巨大な山を、心から取り出してしまうだけで正しいブッダ・プラタム・僧に出合います。そして本当は同じものであるブッダ・プラタム・僧は、誰にでも初めからあると見なします。信仰の威力で自分と迷っている時は、その信仰が、何も望まない本来の状態を包み隠し、いろんな望みを生じさせ、あれになるため、これになるために足掻き始めます。それで誰よりも美しいブッダ・プラタム・僧が欲しくなり、自分の考えで新しい物を造ります。これは見本です。

急いでこのように心に信仰のない状態にすれば、当然、大々的形式的に戒・サマーディ・智慧から追っていくより、簡単に早く真実を発見します。儀式的なのは何百、何千通りにも解釈できるので、一生勉強しても終わったことがなく、自我の見解がぎっしり詰まった自分の見解によるブッダ・プラタム・僧に貼り付いています。少し熟慮すれば「苦の問題が生じるのは、心の執着の威力によってだけ」と見えます。

何万、何十万、何百万人の先生や教祖レベルの智慧のある人が、みな違う教え方をして、理解し合えない幾つもの系統の見解があり、あるいは考え方の違いで仲違いをし、歴史の内外でも、私たちの興味の範囲を越えています。私たちの仏教界でも、新しい仏教が増えた結果、何かちょっとでもブッダーヌバーヴェナ、ちょっとでもタンマーヌバーヴェナ、サンガーヌバーヴェナで、望みどおりに成功させます。

そういうのは、サンマーサンブッダの時代、あるいは心を包んでいるものを排除することが重要とだけ教えた大昔の仏教にはありません。これは世界の他の宗教と違う、仏教の特徴です。だから自分という執着を無くす方法を発見すれば、それが最短の方法です。「執着、あるいは心を包んで関わらせるもののない状態が平常の感情になるまで、あるいは身に着けた拠り所になるまで、段階的に真実の洞察を生じさせるようにしてください」と言うのは、有利な言い方です。

このように言うのは、聞き手より優位です。しかしもっと良い話し方を知りません。最高に良い方法は、試してみる努力をお願いするだけです。つまりいつでもヴィサンカーラガタン チッタン(考えさせ、思わせ、信仰させ、望ませる物が、その後は何もない状態に到達した心)の、心を包むものが何もない、心の純潔な状態を考える努力をし、いつでもその原因を熟慮し、いつでもその満足や信念を打ち立てます。そして自分の見解によるブッダ・プラタム・僧も、どの見方による仏法僧も忘れるまで、それを宗教として拠り所にします。

そうすれば、信仰(執着)に倦怠することに関した話の流れが本性に根を張ることで、儀式をしなくても、ある時、自然に明るい光が灯ります。その後は完全に絶滅するまで、たえず手放す方向になるだけです。このように信仰のない状態を拠り所にすれば、安全になる機会があります。つまり自分の考えのブッダ・プラタム・僧を迷って信仰し、その粘っこい鳥モチにくっ付いて出られない餌に掛かりません。

 常にブッダ・プラタム・僧に関した心配があっても、どうぞ執着のない状態に出合ってください。そうすればブッダ・プラタム・僧は自然に戻ってくると、それに正しい本物のブッダ・プラタム・僧だと確信してください。後のブッダ・プラタム・僧は、それまでのような信仰の産物ではなく、信仰を壊滅したことから生じるからです。このような「自分がないこと」に出合えば、その時自分の中に確実な悟りが、あるいはすべての苦からの解脱の印であるブッダが、常にいることに気づきます。

別の仮定で言えば、「新しい自分、正しい自分に出合う」と言います。信仰のない自分、信仰で執着しない自分です。それまでは、信仰して貼りついている自分に出合うばかりで、すぐに生き物になり、すぐに人になり、すぐに人間になり、すぐに天人になり、すぐに梵天になり、すぐにここでタンマの講義を聞く自分になり、際限なく他のものになります。

それが際限のない望みを生じさせ、すぐ阿羅漢になりたがり、すぐ天人になりたがり、すぐ人間になりたがり、すぐ酒を飲みたがります。ブッダが「家の建築主が見えた」と言われたように、正しい自分を見つけるまで、このように輪廻を循環しています。燃料が尽きた火が消えるように、原因と縁が無くなれば消えるとお話したように、執着のない心や心の本来の状態は、一瞬も智慧の周辺に現れたことはありません。

だから執着のない心の状態だけを目指すのは、不可能なほど高い課題ではないはずです。試しに努力すれば、その後確信が生じます。私は、心の本来の状態には執着は無く、何も欲しがらず、どんな足掻きもないと規定します。だから心の中に何らかの考えが生まれたら、本来の本当の状態ではないと理解してください。善い望みも悪い望みも、心の本来の状態、あるいは純潔な状態ではありません。ブッダ・プラタム・僧を求める心も、生じたばかりで、自分の求めに応えて何かをしてくれるブッダ・プラタム・僧を欲しがる自分が生まれて、心を包んでいると理解してください。

心に生じた考えを取り上げて、それは本当の状態かどうか判断します。立っていても歩いていても座っていても寝ていても、どんな立ち居振る舞いの中にあっても、いつでもこのようにし、本来の状態でない時は関心を持つのを止めます。空腹や喉の渇きなど、しなければならない当面の必要があるなら、本来の状態ではないとハッキリ知った後、身についている智慧で、必要なだけ義務で対処します。喜びや不満を生じさせる必要はありません。怒りや、その他の感情を生じさせる必要もありません。

本来の状態でなければ、自分でも、自分のものでも、あるいは誰のでもないからです。絶えず注目しているのは本来の状態だけなので、いつ見つけても、心の本来の状態ではないと感じたら、いつでも捨てます。継続して、本当にこのようになるよう注意する理性があれば、間もなくその人は、それまでと反対の新しい自分になったと気付きます。みなさんがどんな新しい人になるか、ここでお見せすることはできません。まだ試していないからです。

 みなさんが厳格に試せば、自分自身の中で少しずつ変化し始めているものばかりだと感じます。そして純潔な心の状態が少しずつ姿を見せ始めているのを感じます。みなさん、あまり考えないで、ハエを追い払うように、座って払ってください。心配はいりません。みなさんが欲しい虫は来ないに違いないからです。私たちが求めて殺そうとしている虫を、ちゃんと払えるかどうか恐れないでください。いつでも機会を逃さず、いらない自分を払い捨てましょう。

常自覚のあるカンマダーナ(業処。念処)バーヴァナーは、心に生じる感情を待ち伏せて、「本来の状態ではない」、あるいは「心の純潔な状態ではない」と払います。これは簡単で、子供でもできます。そして更に心に感情が無くなり、理性が完璧になる度に、サマーディが敏捷になる度に、喜んだり悲しんだりさせる煩悩が強く引き戻される度に、順に高くしていくことができます。こういうのが習性になれば、これらは正常に完璧になり、心の執着は、水を断たれた植物のように枯れて死にます。これは文字を知らない人や教育の少ない人もでき、知識者も上手にできます。あまり投資しなくて良いからです。

しかし初めに、冒頭で述べたようないろんな事実を復習し、明らかにしなければなりません。ここで多少遅れても構いません。復習しながら実践もできます。簡単すぎるように聞こえますが、実際に始めて見ると、その都度間に合うように「これは本来の状態ではない」と感じるところが難しいです。通り過ぎたと気付いた後では、後の祭りです。時には十くらいの考えが入ってきて、それで「これは本来の状態ではない」と気づくこともあります。執着した結果喜んだり悲しんだりし、殴り合って仲違いして、それでやっと本来の状態ではないと知るなど、このようです。

この常自覚を満たし、智慧の段階まで発展させます。本来の状態か、あるいは自分の意のままにしようと強引になっているかで煩悩の抵抗が生じたら、この段階では智慧で熟慮し、非常に闘わなければなりません。しかし本来の状態の原則は捨てません。たとえば一時心に恐怖が生じたら、「このような感覚は心の本来の状態ではない。たった今自分の考えに触れ来て、このように恐がらせるただのサンカーラ(行)だ」と振り払います。

時には恐怖が頑固に心を支配するので、サンカーラの虐めの一種だと明らに見える最後まで、その恐怖の根が掘り上げられて倒れるまで、智慧を使って最後まで頑張らなければなりません。あるいは非常に魅力のある物、満足する物質を探している時、あるいは撫で回している時は、当然それだけ激しい闘いがあるので、本来の状態ではないと、完全に払うことができます。

それでも本来の状態を深く見れば見るほど、そのような闘いがあります。要するに、すべての出来事が心に生じるのに間に合うように、本来の状態ではないと感じる常自覚があります。そしていろんな問題が生じた時に、本来の状態を重視する原則で闘う智慧があります。そしてこの実践に習熟し、普通になるまで、習性になるまで管理します。残りは、いつかふさわしい時、つまり本性が何かを掴んで自分のものにしないで、十分長い時間熟した時、戻ることがない輝きである完璧な洞察を生じさせるのは、自然の役目です。

唱える言葉は「これはそれじゃない!」だけです。「これ」とは心に生じる感情を意味します。「それ」とは本来の状態を意味します。すべてが、前方を塞ぐ山を避ける一つの方法と見なします。山にトンネルを開けるかどうかは、「これは本来の状態ではなく、新しいサンカーラの一つだ」と熟慮する人の能力次第です。常に流れのあるサンカーラの当たり前のこととして生じるので、それらのサンカーラの複雑さに迷って躊躇わないようにしなければなりません。

「サンカーラ」という言葉は、訳語は一種類しかないのに、意味は二つあります。サンカーラとは作るものです。しかし実践あるいは実際には、何かを作ると同時に、それ自体が何かに作られています。これを簡単に理解するために、壁のレンガ積み工事を見ると、一つのレンガは、二つの役割をしています。つまり上の物を支え、そして下の物に支えられています。どれかの上にあれば支えられていると言い、どれかの下にあれば支えていると言い、どのレンガも、一つのレンガが重ねる物であり、重ねられる物でもあります。

サンカーラも同じと言います。サンカーラと名がつけば必ず作り、それが作ったものもまたサンカーラなので、次々に作り、結果であったものが原因になり、原因は結果を生じさせ、そしてその結果はまた原因になり、このように際限なく続きます。名の側のサンカーラ、つまり心も同じです。一つの考えがまた別の考えを生み、そしてその新しい考えが原因になって、行動になるまでキリもなくまた別の考えを生みます。そして行動から生じた結果に関した考えを生み、サンカーラと呼ぶものが、すべてのサンカーラが消滅する所に到達するまで際限なく続きます。

だからどんなレベルのどんなサンカーラも、迷って掴んで、本来の状態と見なすべきではありません。生じて来るものが、ただのサンカーラの状態に見えるまで、智慧で熟慮して仕分けし、そして捨ててしまいます。あるいはふさわしい対処をします。しかし喜びや悲しみをもたらし、キリもなく大きな煩悩を作り出す、自分という執着であってはいけません。心に智慧があるように訓練し、いつでもこのようにサンカーラの悪巧みを知れば、心はいろんな物への執着から徳や善まで手放すことができ、その度に心が緻密で高くなります。

本当は善や徳は新しいもので、勉強するため、すべての物から解脱するために命を維持するものです。繋がったものからの脱出は値段がつけられないほどの価値があると見えれば、善や徳はまだ値段が付けられる範囲にあります。だからすべての徳と善の固まりを海岸に集めて、乾いている陸に心を集中させれば、それが作る威力から脱した状態です。真実はサンカーラの一つでしかない善に意味があるのは、まだ執着に関わっている社会、あるいは、いろんな望みがあるレベルだけです。

手放す段階、あるいは抜け出す段階では、これらの善には何の意味もありません。他のサンカーラのように、無常であり苦であり無我である普通のサンカーラになります。だから善より更に不安定な名声名誉やその類のものは、言うまでもありません。戒・サマーディ・智慧、ブッダ・プラタム・僧も、それ以後は執着する必要がないものになります。このようなら「何も作ることができない状態に到達した心は、望むことがない」とブッダが独白されたように、すべてのサンカーラ(行)を手放す段階の心の高さ、ヴィサンカーラ(非行)と呼ばれる状況に到達します。

その後すべてのサンカーラが、この種の心を変えることはできません。心が自分を自分と感じないのは、心にそういう感覚を生じさせるサンカーラがないからです。ヴィサンカーラでできている心は、すべてのサンカーラが消滅したのと同じです。だから消滅と静かさと純潔と、時に関わらない永遠の輝きがあります。人間の本当の脱出を望む人であるブッダダンマに関わっている私たちの一つの重要な問題である、タンマの道を妨害している山の破壊法の、一つの近道と見なします。

 私たちはこの世だけ、タイでだけ、あるいはここにいるみなさんだけがブッダ・プラタム・僧、あるいは戒・サマーディ・智慧・善に執着していると考えるべきではありません。何劫も、あるいは幾つものブッダの空白期間も、繰り返しこれらを強く執着していたと、広く見るべきです。長い輪廻の中でどの人がどの人か指摘することはできなくても、私たち、あるいは人間であることには違いないと言うことができます。サンマーサンブッダの宗教が人間を脱出させる宗教なら、仏教の目的を不毛にしないため、そして私たちが脱出できるように、一部の人間は脱出するべきです。

だから述べたように、心が脱出することだけを目指して、何劫も、幾つものブッダの空白期間も執着してきたものを手放してしまうことは、震えるほど怖いものではないと、あるいは何も危険を冒すことではないと分かります。二三十年間に積んできた善や徳は、何劫も執着してきたことに比べたら、少しも多くはありません。そして私たちを執着に閉じ込める篭である以外に、何も良い結果はありません。ブッダは私たちが篭に夢中になるより、閉じ込めている篭から出ることを望まれています。

だからブッダの信仰も含めて、何物も執着するべきではないと、厳しく言われています。ブッダは、人が歩いていくために『自分は道を指さす人にすぎない』と表明しています。私たちがブッダに執着していれば、その間は歩かないだけです。すべてのタンマは無我なので、執着するべきではありません。これは仏教の不動の教えです。戒・サマーディ・智慧、あるいは三学と呼ぶものは、旅をするとき依存する乗り物にすぎず、執着するもの、愛着で担いで行くものではありません。

三宝は、旅をする人が確信できるようにする解脱の印にすぎず、執着する実体はありません。無理に執着すれば変形、あるいは偽物になります。手放すことを知らなければ、道を妨害する山になるだけです。心から執着を無くすだけで、そのとたんにすべての義務は終わります。「自分には絶対に実体がある」と信じなくなった心の外に、涅槃に到達する「人」は必要ありません。だからブッダは「涅槃への到達には、到達する人は必要ない」と言って教えにしました。

苦の終りに到る旅に、旅をする人は要らないというのは、聞いて、ちょっと理解が難しいです。しかし良く熟慮すれば、それまでいつでも主役だった「自分」に実体があると信じる誤解がない心だけしかないと、明らかに見えます。みなさんはこの種の心を望む勇気がなければなりません。自分を抜き取ってしまい、そのような心だけ残せば、どのように山が崩壊するか、自然に分かります。

 今「本来の状態」と呼ぶ「執着のない状態」が、常に心の周辺で輝いているように大切にするだけで、妨害している山は、水に浸食されて少しずつ崩れ、最後に、ふさわしい時崩壊します。つまり自分という執着をすっかり抜き取り、拠り所としてブッダ・プラタム・僧を求める自分、あるいは戒・サマーディ・智慧を舟やイカダにする自分が残っていなくなった時です。教祖の本当の望みは、このようになることだけです。気付かせて、脱出を思い出させるもの以上に、ブッダの名前に貼りつくことを望まれません。

ブッダが生き物に教えを説く奉仕をなさったのは、小鳥やカラスを空へ放すように、どんどん人を逃がすため、あるいは脱出させるためです。光が遮られていない鳥は、扉をすり抜けて飛んで行くことができますが、光が遮られている鳥は、広く開かれている扉が見えないので、この劫の間中、次の劫になっても篭に貼りついて(執着して)いるでしょう。だからブッダの望みを正しく明らかに忖度できる人は、千五百マイルのヒマラヤ山を、二三分で、あるいは一瞬で壊すことができます。そしてその人のブッダダンマの道は広々と開け、障害物は何もありません。

 時間になりましたので、今日の講義は終わらせていただきます。生老病死を共にする同朋のみなさん、ここでも、他の場所でも、この先何年も残っていない時間を使うことに、幸運があるよう、この問題を片付けるよう望みます。来世、あるいはもっと先に先送りしないでください。

何劫もの間、このように先送りをしてきたと信じます。脱出への忠実さで、ブッダ・プラタム・僧を信奉する目的である、みなさん全員の望みが叶いますよう。そして私たちに、測り知れないほどの憐れみを注ぐブッダの望みと一致する成功をするよう、一生懸命努力してください。後で大変になると知らない無知で、ブッダの望みを消滅させる努力をしないでください。

 


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