ブッダダンマの道の山

194765

ブッダ協会にて

ブッダ協会員、並びに善人のみなさん、ここでまたお話しできることを嬉しく思います。嬉しく感じるのは、私が今興味のあることに関心のある人や、仏教教団員の友に会う機会があることです。今日のタンマの講義は、「ブッダダンマに到達する道」から、今までここでお話ししてきた四五回の講義と連続しているということを、まず理解していただかなければなりません。だから前の講義で話した内容を、もう一度話す必要はありません。そして一回一回違うので、話す範囲ではありません。

しかしそれでも、今日話すことの幾つかは、前の内容と関連があると理解しなければなりません。だから思い出して復習しなければなりません。今日の講義の要旨を言えば、「ブッダダンマの道の山」で、ブッダダンマの理解を妨げているものについて話す、という意味です。だから「ここブッダ協会でブッダダンマと呼ぶものについて様々な角度から講義する」と初めに決意した意図にふさわしく、ブッダダンマに関わることと見ることができます。

 この講義で、みなさんの興味を一つの重要な真実に引き寄せたいと思います。それは、一つの言葉には幾重もの意味があり、人によって捉えている意味が違うという真実です。智慧のレベル、あるいはその人の教育次第です。すべては主題の内容をみなさんに簡単に明らかに理解していただくためです。

 あまり理解が一致しない、そしてこれから話すことに関して重要な言葉は、意味が複雑に入り混じっている言葉です。たとえば「真実」などは、何が真実かと聞けば、ほとんどの人がすぐに、自分が信じている教祖、あるいは何らかの教えを教える人が「これは真実だ」と規定したものを連想します。

 それは智慧の真実ではなく、信仰の真実であり、時々その人自身も自己欺瞞と感じることがあります。今述べただけでも、「真実」という言葉にふさわしくないと感じます。つまり教祖によって違いがあり、そして聞く人、あるいは信じる人も、正しい意味を理解してなく、教祖が理解させたいと望んだ通りではありません。

教祖が教えたことを間違って聞いて信じても、その人はそれを真実だと信じています。そのような教えを捉えている人は、真実に到達できません。その人の真実は、その人の学習に応じて変化しますが、絶えず変化しているにも関わらず、いつでもすべて真実と信じます。そうでなければ、その人は自分自身を騙していると、そして真実がないと感じます。だから今日は、「ブッダダンマの道の山」を理解していただくにふさわしく、この言葉の意味を定義したいと思います。

真実と呼ぶものは、原因と結果の部分も含めて、自分が知っているだけ、あるいは触れられるだけの心に現れているものです。自分が知ることができないもの、あるいは最後まで触れることができないものは、心や精神のない物質まで、至る所にたくさんあります。それらの真実は一体何なのか、まだ真実を理解できない人に教える方法はありません。だから一般的な、あるいは私たちに本当にある「真実」は、その人の感覚の中に現れたもので、その時だけ、その人だけのものです。

 仏教は真実を説いていると見なされている宗教です。問題は何の真実を説明しているか、何もかもすべてか、あるいは何かだけか、という点にあります。次に、ブッダは聖諦、つまり「素晴らしい真実」、あるいは「聖人の真実」である教えを説いたと見なさなければなりません。どちらの意味も、順に熟慮して見るべきです。

 ここでの素晴らしい真実とは、「苦から脱すために必要な」という意味です。必要を越えた部分は、ここでは数に入れません。人々は、ブッダの「一切智」は何もかも知っていると理解しがちです。つまりすべての言語すべての出来事を知っていて、現代に現れたら何も勉強しなくても車の運転ができると、ここまで言う人もいます。このような一切智は、仏教の教えで正しい意味ではありません。無理にこのような意味に捉えれば、仏像の製造と間違った信仰を生むばかりです。何でも知っているという意味の一切智は、知るべきことをすべて知っているという意味です。

苦から完璧に脱出することについて知るべきことは何でも、当然正しく、一つ洩らさず知っています。だから一切智と言います。ブッダは悟ったから、勉強しなくても中国語もイスラム語も何でも知っていると見なすのは、能力を越え過ぎています。あらゆる方法で、自分や人間同朋に信仰させるために、そしてこの層にこうするのは多ければ多いほど良いと信じて、限界を越えるとどうなるか思慮に欠けた、ある時代の人の愛と信仰による創作です。

このようなら、ブッダが知って教えた真実は、知る必要がある真実、つまり完璧に苦から脱出することに関してだけと言うことができます。だから「素晴らしい真実」と呼びます。

 「聖人の真実」と呼ぶもう一つの意味は、もっとハッキリ分かります。これは、「聖人に見える」という意味です。普通の人には見えないので、普通の人の真実とは言いません。見えれば、その時は聖人です。だから聖諦という名前の真実は、一つの真実、あるいは一つの特別の状態、聖人になった時だけ見える真実です。この項目は、真実と呼ぶものはまだまだたくさんあり、そして必要以上のものもあると見せています。知る必要のある範囲だけでも、一切智である人の智慧を使わなければならないほどたくさんあります。

普通の人が滅苦のレベルの真実を知るには、資質や性質が違う他人のためのものまで広くなく、そして自分の心に現れただけの、自分に必要な、限られた範囲だけを知ります。学問や教義の教えは、好きなように真実を規定でき、そして学んで暗記できますが、心の中の真実、あるいは本当の行動になると、真実は規定したものではありません。しかしその人が今見ているもの次第、その人の智慧で見ているもの次第、そして人によって違います。規定された真実は、理由と周囲の出来事の威力下にある気持ちで調整されます。

同じ言葉や同じ教義でも、それぞれ違う形に捉える人の心に入ると、知識のレベル、あるいはその人の心の状態によって違います。たとえば「幸福」という言葉は、本当は自分だけの状態の一つの真実ですが、最終的に幸福という言葉の意味は、すべて違う幾つもの意味になり、誰もみな、自分のものが真実と信じています。そして一人の例外もなく、本当に信じています。このような場合、他人を信じるように強制することは、内面では当然できません。神聖なものや信仰で強制すれば、とりあえず信じるだけです。

たくさんの人が「涅槃は幸福」と信じているのも、自己欺瞞に陥っていると、敢えて言うことができます。つまりどう幸福か見えないのに、自分は仏教教団員だからという理由で、あるいはブッダヴァチャナ(ブッダの言葉)への信仰で信じます。そしてその心情に逆らう感覚を忘れてしまっているなど、このようです。それでもその人は、自分自身の真実があると感じます。人間は誰でも、その人の真実があります。以上の理由で、真実や幸福は、その人の心に現れているものの一つにすぎません。その人は、その人の心に現れている形で、その人自身の真実や幸福を知っています。

その人はまだ本当の幸福、あるいは終焉はどうかと規定できる真実を知らないのに、彼らは常に規定していると言わなければなりません。教祖も規定し、自分の真実が生じて教祖の言葉に満足できなければ、弟子も規定します。だから何が真実で何が幸福かというさまざまな結論、あるいは教義が生まれます。何が涅槃かという問題と同じ問題です。自由な考えの人が生まれると、智慧に現れているもの、あるいは自分の信じるものと一致するものを規定します。

時代と場所次第で、物質的な楽しみや旨味、あるいは欲情まで幸福と、あるいは命が望むものと規定されたこともあります。もっと高いのは、欲情には関わらない心の静かさ、つまりいろんなサマーディを幸福、最高の幸福、あるいは涅槃と規定しました。これは、いずれにしても自分で感じるように、心で見え、信じて満足するだけの真実を規定できるという、不動の原則に根源があります。

 ブッダが大悟する前は、違う形、違う状態の涅槃が幸福の目的だったことが分かっています。人は自分が感じられるだけの幸福しか規定できず、更に高いものは規定できないからです。仏教教団員自身を引き合いにすれば、心や感覚では、涅槃の幸福と感じないし、真実が沁み渡ってもいないのに、サンマーサンブッダを教祖と崇め、あっという間に飛び越して、幸福と信じ、あるいは仏教の教えで(信じているように)本当の涅槃と信じます。だから真実や幸福や涅槃に関して論争になれば混乱します。

だからここで真実、あるいは真実と呼ぶものは、経典の規定ではなく、自分の心の中で本当にあるものだけ、つまり今自分で知り、信じているものだけと理解してしまいましょう。それ以外は「その人の真実」とすることができない「経典の真実」です。最高でも、私たちには手が出せない本当の真実です。私たちは自分の真実、あるいは自分の中にある真実から手をつけなければなりません。そうすればブッダダンマの道を妨害する山になりません。実験で現れた確定した根拠だけを真実と見なす物質面の科学の原則と同じで、それ以外は根拠のない、あるいは根拠がまだ発見されていない真実です。

そして根拠が見つかれば、前の真実はより確かな真実になります。でなければ新しい真実が発見されたことで、偽りになります。実践面に運用できるのは、信じている真実でなく、今本当にある真実を基準にしなければなりません。でなければ運用できません。それに密林になり、行く手を遮る山になります。このような状態は、ブッダダンマ、あるいは涅槃に関心のある人の集団に混乱を生じさせる原因になります。自分のものではない真実を真実だと、無理に自分自身に押しつけるだけだからです。

私たちを支配している本当の自然は、「人がこれは真実だと感じるのは、その人がその時真実だと信じているものだけ」とだけ認め、それ以外は、真実であろうと偽りであろうと、その人のその時の心に真実である価値はありません。その人は執着に突進して破壊し、自分の智慧を進歩させなければなりません。そうすればその人の真実も移動して来ます。今はその人自身が真実で、そしてその人の真実とは、その人の執着だけです。

真実に関する原則を、その人の心に本当にあるものを原則にすると、真実と呼ぶものは、当然その人の気持や執着によって、人やレベルの違いがあり、その時その時はこのようです。だからどうすれば真実について正しく話し、そしていつ全部が一致するか分かるように、これからお話しする言葉を定義させていただきます。それは、ブッダダンマの道の山を通り過ぎた後でなければならないという、短い要旨があります。

そして「ブッダダンマの道の山」と題した今日の講義は、ブッダダンマに対して、あるいは自分の宗教に対していつでも十分忠実であるにも関わらず、みなさんをブッダダンマに到達させない前方の巨大な壁である障害物について熟慮して見ます。もしかしたら私が話すことは耳なれない言葉かもしれませんが、どうぞみなさん、公正に熟慮なさってください。「ほとんど誰でも」と言えるくらい至る所で観察できるように、到達したいと望んでいるブッダダンマである涅槃を隠しているものは何かと問えば、涅槃を隠す偉大な山はブッダであるという答えを発見します。

このような状態は、仏教教団員全般の心にあります。率直に言えば、みなさんがブッダダンマに到達しないのは、「皆さんの考えによるブッダ」がみなさんの前を塞いでいるからです。みなさん。この言葉を、わざと変な言い方をしていると見ないでください。普通仏教教団員は、それぞれ自分が信じるブッダがいます。その人がブッダを正しく知らなければ、当然勝手に何かをブッダと解釈するので、寂しく感じません。その人が知っていることだけがその人の真実、と冒頭で述べたように、その人には、何かしらその人のブッダであるものが必要です。

だからその人が何かを「これがブッダだ」と理解すれば、それは「その人のブッダ」になるので、ブッダと呼ばれるものには、いろんな状態やいろんなレベルがあります。いろんなレベルの人の捉え方次第です。小さな子供に何がブッダかと訊けば、菩薩堂の仏像のような物質が「ブッダだ」という気持ちがあります。レンガや石膏や銅や金でできた人形の一種であることもあります。小さな子供の「これがブッダだ」という考えは、変えることはできません。しかし子供は許します。

次は説法を聞き、戒を受ける度に「プッタン サラナン ガッチャーミ」云々と、死ぬまでには何百、何千回も言っている大人から老人まで、何がその人のブッダかという問題で、敢えて、全員が違うと言うことができます。人により、あるいはグループにより、何らかの自分のブッダがあります。物質面だけでブッダを理解する人は心の面ほど高くないので、「二千年以上昔、インド国内を遊説して歩いていた一固まりの血肉が本当のブッダだ」という自分の感覚があります。これは、銅や金で作った仏像より多少良いだけです。

物質的な真実で言えば、一固まりの血肉は、金や銅の固まり以上にはなれません。そればかりか、ブッダも「それは私ではない」と否定しています。「たとえ私の衣を掴んで、日夜どこかへ一緒に出かけても、タンマが見えなければ私を見たとは言わない」と、このように否定されました。だから「ブッダを間違って掴む」と言うことができます。そして先ほど話した子供のように、許されるべきです。

 物質、あるいはブッダ自身の体と仏像であるブッダを否定すれば、残るのは心の面、あるいは広義の名(抽象)の面だけです。それは探し出すのが更に難しいので、失敗する機会も増えます。そして想像もできない奇妙な形のブッダを掴む機会になります。だから自分の知識や学習や執着による信仰が生まれます。ああいうブッダ、こういうブッダ、星が浮いて輝くものもあり、線もあり、いろんな色もあり、浮かび上がらせてここそこへお出でいただくこともできます。ある種の用事をするようにお願いすることも、あるいは彼方此方へ連れて行ってもらうこともできます。

彼らが招いたブッダに料理やお菓子の膳を供えるなど、非常に多くて、全部書き切れません。要するに彼らはそれを、自分のブッダと信じています。もう少し高いのは、ブッダは純潔で生まれず死なない自我で、どこにでも存在し、いつでも現れる用意があると信じています。その人のブッダダンマへの道は、それだけで終わると言えるかもしれません。もっと上の、まだ阿羅漢でない低いレベルの聖人(たとえばブッダ在世時代のプラアナンダなど)である人のブッダへの愛も、せっかく正しいブッダダンマへの道を知っているのに、その人のブッダダンマの道の、山つまりその人の愛で信じているブッダによる妨害は終わりません。

だから、恍惚とするほどの愛の対象である星や光であるブッダについては言うまでもありません。そして最後の段階は、まだ「あれだ」「これだ」という執着、たとえばブッダに実体があると執着していれば、その人のブッダダンマの道は、その執着の山にぶつかるので、そこまでしか行けないと言うことができます。その人のブッダが、すべてのものと同じように実体のないものになれば、その巨大な山は自然に四方へ崩壊します。

いま述べたすべての要旨で、最高に普通の凡人から阿羅漢以下の聖人に至るまで、それぞれの人のブッダダンマへの道には、妨害している山があると見ることができます。自分という執着、そして自分以外の、自分の拠り所と信じるものへの執着以上の執着はありません。仏教団員にも「その人の見方によるブッダ」以上のものはありません。その人に「自分の見方によるブッダ」があればある分だけ、執着があるということです。

次にブッダ以外のもう一つの流れで見ると、その人のプラタム(仏法)も、その人のブッダダンマへの道の山になっていると、間違いなく言うことができます。同じように執着に依存しているので、先ほど述べた「その人が真実と言うものは、その人が知っていること」という原則を忘れることはできません。そして私たちがタンマ、あるいはプラタムと呼んでいるものは、いろんな形で知られ、そして最高に強い執着で捉えられていると気づきます。違う形で執着すれば、これがプラタムだ、それがプラタムだと、執着する人の見方によって論争になります。

ブッダをお招きするように、プラタムを星や光にして空中に浮かべ、どこへでも招くことができるようにする人たちもいます。最高に低いのは、書籍や経の束をプラタムとするのもあります。幼い子どもが仏像をブッダと捉えるのと同じ、物質すぎる捉え方です。経典を神聖なものとして、呪いや祈願やいろんな占いの儀式の主役に使うのは、プラタムを何としても魂や実体のあるものにしたいと望むからで、ブッダを掴み間違える人たちと同じ間違いです。

涅槃またはブッダダンマをものすごく幸福な国や世界として、そこに生まれるためにサマーディの修行をするのは、物質面の強烈な執着の威力によります。ブッダダンマに到達する実践法であるタンマ、つまり「戒・サマーディ・智慧」で熟慮して見ると、同じように執着で自分の道を妨害している山になっていると気付きます。自分の戒に執着して他人を軽侮し、戒の問題で騒動を起こし仲違いをする人もいます。誤解で戒に執着し、機械のように遵守するからです。

盲信のように一字一句にこだわり、死ぬまで戒を守っても純潔な戒の結果が現れず、悲しみの中で死んで行きます。違うグループの人たちが、「安定した心の人なら、普段から戒があるので、戒の順守、あるいは持戒は必要ない」と言えば、戒に執着している人たちは、固い声で反論し、邪見だと非難し、ケンカになります。だから「初歩の段階の実践のタンマ、つまり戒はこうでなければならない。このように神聖だ」と執着する人がいれば、いつでもブッダダンマへの道を妨害する山になります。それはその人の真実であり、他の見方はできないので、戒が自分の道を妨害する山になります。

そしてまだ結果を生じさせます。つまり遅延です。この山を越えるまで非常に長く、あるいは先に死んでしまうことも多いです。サマーディの段階の実践も、同じように自分の道を妨害する山になります。このレベルの実践は高く、普通の人のレベルを越えているので、あるいはウタリマヌッサヤダンマ(人間として非常に高い徳。上人法)と呼ばれるので、戒の段階より、実践者の執着と自慢の基盤になります。自分が実践できたサマーディの陶酔や満足は、うっかり誇らしく思い、あるいは溺れて執着するほどです。間違った方法で実践する人も、正しい方法で実践する人も、同じだけ執着する機会があります。

サマーディから生じる静かさの冷静な味を味わえるくらいサマーディをした人でも、ブッダの時代やブッダ以前の時代の幾つかの教義が、四禅を涅槃と規定したように、それが最後のレベルのブッダダンマだとし、自分はそれに到達したと執着してしまいます。これも、その人が破壊する義務のある、妨害の一種である山です。しかし実際の在りようは、幾つかの瞑想家のグループは、「その人の真実は、その人が知っていて、満足して執着しているもの」という自然の法則で、サマーディではないものをサマーディと迷って捉えるレベルにいます。

だから往々にして色や星や奇妙に現れてくる像を重んじ、神聖な霊魂を招き、いろんな出来事の運勢を占う道具に使う類のサマーディが生まれます。それは、仏教のタンマの実践の本来の目的であるブッダダンマ、あるいは涅槃に到達するための心の訓練ではなく、物質的利益の追求です。もっと凄いのは、それぞれの集団の様式のサマーディを始める前のいろんな儀式を、「これがサマーディだ」と、歪んで執着する人もいます。あるいは、本当のサマーディの意味は何か理解しようとせず、その方式の行動がサマーディだと、盲信のように執着します。

自分のサマーディは絶対に本物だと頑固に信じているので、「心が安定すれば儀式をしなくても自然にサマーディになる」と言う人がいれば、一斉に反論して信じようとしません。この執着はすべて、「誰の真実も、その人の真実」という自然の法則が関わっているので、素直に信じることは困難です。まだ執着に迷っていれば、ブッダダンマの道の山はそれだけ高くそびえて前を塞いでいます。

 智慧の段階のタンマの実践が、名前の通り本当の智慧なら善いですが、信仰や推測、あるいは「理由で推測する基盤の上にある自分」を知らない智慧なら、それもブッダダンマの道を塞ぐ山になります。もう一つ最も重要なことは、自分の智慧がどこかで終わると、その人の純潔な気持ちで、それを真実とします。そして世界中にいろんな宗教教義や哲学が生まれ、ひしめき合っていることから分かるように、それを執着します。中には智慧の鋭い教義もありますが、涅槃への道を塞ぐ山になることは避けられません。仏教界にも問題があります。

症状や周囲の出来事を熟慮しながら、知らないうちに自分をどこか一か所に閉じ込めている人たちは、固い声で「正しい道だ」と言って一歩も引きません。そしてその山の周りに張り付いて、離れることができません。それは、冒頭で話した人たちと同じ原因、「その人の真実は、その人が知って満足しているだけ」という自然の法則があるからです。復習していただくために、常に繰り返したいと思います。智慧は光なのに、なぜ光が(真実を)隠すものになってしまうのか、それをここでハッキリと理解しなければなりません。

 本来の智慧、あるいは前からある光に譬えられるその人の知識が、何らかの出来事、あるいは状況を照らせば、その人は智慧や光が与える分だけ、その出来事の理解や考えが得られます。そしてその人は、それを真実と信じます。別の時代になると、その人の元からの智慧あるいは知識は変化あるいは進歩して、同じ出来事を見ても、その人が前に見たのとは違って見えます。それでもその人は、それを真実と信じます。

その人が真実と言うものは、時によって変化します。ハッキリ言えば、光あるいはその人の智慧によって変化します。それを照らす光、あるいは智慧次第です。しかし本当の真実はどこにあるのか知りません。いつの時も、全部(その人のその時の)真実だからです。だからその光が、心の面でも物質面でも、真実を隠すものと分かります。

 物質面では、その光について熟慮すれば、簡単に見ることができます。この世界にあるどんな物質や物体も、光に依存して見える形や色を真実と見なします。本当は他の形、他の色ということもあり得ますが、私たちは違う見方はできません。今見えるように見せる威力のある光があるからです。私たちには七色に見えるスペクトルの、太陽光以外の光はありません。

 もし百色に見えるスペクトルの光があれば、色に関わる物質の真実は違うものなります。人間は制限された世界にいるので、何を見るにも太陽の光を受け取り、あるいは太陽だけに関わっているので、私たちが使う光の力は、それだけに限られています。

別の太陽が現れれば、別のいろんな色が見えます。その物質には、七色の他にも、私たちに見えない色があると見なさなければなりません。それは太陽の光が、色はこれだけしかないと私たちを騙しているからです。太陽の光は私たちをこのように理解させ、色に関した真実を隠していると言います。

もっとスペクトルの多い光が得られれば、その時色に関した別の真実を発見します。しかし七色のスペクトルである太陽光に依存しない世界、あるいは他の場所でなければなりません。今の真実がどこにあるかは、たった七色だけでしょう。しかし本当は幾つあるか、この世界の科学者で知っている人はいません。彼らには太陽しかないからです。

しかし太陽しかない世界でも、光は真実を隠すものと気づくことはできます。たとえば夜、それまでどんな色か知らない物を見る時、太陽の光のようにたくさんのスペクトルがないランプの光で見ると、それがどんな色か良く分からないので、昼まで待って見なければ、確実になりません。ランプの光にはそれだけの力しかないからです。そして真実を隠して、違う理解をさせます。まだ見ていない真実を見せる光がないからです。一種類の光は、そう見せる真実を与えます。それ以外は、別のものに理解させて隠す光です。光は真実を隠します。

 タンマの面、あるいは心の面も同じです。知識、あるいは元々の智慧が、世界や人生や生老病死を照らして見るその人の光です。そして自分の光と妥協することで、その人は何らかの自分の真実を掴みます。その人がまだ見ていないもう少し真実に近い真実、あるいはそれ以上の真実は、その人のそれだけの智慧が隠している部分です。ここで「隠す」と言うのは、その人の可能な限りすべてを見ても、何も隠れていないと感じるからです。彼は本当にそう感じるので、見えているものを完璧な真実と信じます。

 このような自分への執着の威力による間違った理解を、私は「その人のブッダダンマの道の山」と言います。そしてそれまでと違う段階になります。つまり、光が「隠して」いるので、上手く行きそうになります。学習家である仏教教団員の世界、そして智慧の話でも、同じように隠すものに支配される領域に陥っています。個々の学習家は、当然自分の知識と智慧で聞き、勉強するので、ブッダヴァチャナの同じ一文を解釈しなければならない時、光あるいは自分の智慧の違いによる解釈の違いが生じがちです。

無我などの難しい話を熟考しなければならない時、まだ最高に達していなければ、多少違った考え方をします。自分の明らかな考えを信じる威力で「自分の完璧な真実」と考える部分を信じます。この執着は、その学習者のブッダダンマへの道を妨害する山です。それは、これから破壊する努力をしなければならない、避けることができない義務です。彼が気づかないうち、あるいは破壊できないうちは、しっかり埋め込まれた「輪廻の柱」です。

これらのすべては、プラタムの名の中にも、星や光や国と信じ、子供っぽい物質面で、経典の束をプラタムと信じるなど、プラタムから突出してきた山があると、あるいはプラタムに到達させる実践法や、戒・サマーディ・智慧の各種への執着であるプラタムへの執着から伸びてきた山と見ることができます。それらのタンマの実践を舟やイカダなど、苦からの完璧に脱出する乗り物と見ないで、反対に神聖なものと執着します。せっかく自分で努力し、そして精一杯犠牲にしても、まだこれらの巨大で厚い障害物によって、停滞させられています。

 次は僧です。詳細に熟慮して見れば、誤解や執着が生じれば、「僧であるその人物」も、その人の道を妨害するブッダやプラタムに劣らない山になる、と見ることができます。僧を尊敬する人の心は、黄衣を信仰するのもあり、出家の方式もあり、厳格な態度にもあり、出家した人の生まれや家柄などに執着するのまであります。珍しいのは、自分が布施をする僧を選ぶのもあります。どんな形でどれだけ知っているかで、それだけその僧を信仰します。それで、僧の知り合いがいない人をバカにする人もいます。

ある地域では、精霊を操って不吉や悪運を追い払うために、あるいは神聖なことの指導者であるアーチャンとして、特別に僧を信仰します。もう一つは、来世、あるいは極楽の仲介人として、あるいはしばらくの間でも出家しなければ、仏教の親戚ではないと信じるなど、このようです。どれも停滞させ、本当の僧を知る、つまり人を僧にし、僧の心にするプラタムを明らかに見る明晰な考えがありません。自分に僧の知り合いがいることに執着し、そしてそのような形で僧に執着するのは、当然最高のタンマへの旅の、前方を塞ぐ山のように妨害します。

私たち仏教教団に実際にあるように、今言ったすべての状態は、私たちタイの仏教教団だけでも、全部あると誰でも認めなければなりません。外国の仏教教団について言う必要はありません。それに、教育が少ない階層から教育が高い階層まで、あるいは初等の聖人でも、そのとき断つことができない取(執着)があります。この項目は、我執あるいは自分という考えによる執着が、山のように隠すものの根源と結論します。

「自分はああだ」、「自分はこうだ」という執着は、何より厚く遮蔽します。物質に例えれば、ヒマラヤ山のようです。それは、インドの人たちに、山の向こう側にも人が住んでいると知らせない、あるいはこの大地はあの高い山で終わり、その先は天国になっていると思わせるほど遮蔽する巨大な壁です。「自分はある」「実体がある自分」、そしてああだこうだと、幾つにも派生します。すべて休みなく自分があるよう、実態があるようにする理屈だけに囲まれ護られるので、自分がないことは完璧に遮蔽され、あるいは包み隠されます。

「自分がないこと(無我)はない」と見なしてしまえば、当然続いて、無我に到達する人もいないと見なします。ブッダ、あるいは阿羅漢という言葉は、本当は無我に到達した人という意味ですが、当然別の角度で見ます。彼らがどれほどブッダを愛し尊敬しても、ブッダを無我に到達した人と見る訳ではありません。ブッダも僧も、この種の人の見方では、無我に到達した人の見方と違う理由です。そして人をブッダにする、あるいは僧にする最高レベルのプラタムは、無我の状態ではありません。強い執着が根源にあるからです。

熟慮して、「いろんな信仰は山のような障害物」と何とか理解できたら、それから自分について、あるいは妨害されている人について見ていきます。今みなさんは、誰でもブッダ・プラタム・僧を信仰しているので、信仰する人である自分がいます。そして信仰も自分の利益のためです。自分が涅槃に到達するために、ブッダ・プラタム・僧に頼りたいと思います。このようでは話になりません。みなさんの見方による「ブッダ・プラタム・僧」と「自分」は、すべて涅槃を隠す壁になってしまいます。

このように言う言葉を、同じブッダの子である仲間内の言葉と見るなら、同情が生じ、そして当てこすりの言葉と取らないで、苦衷を訴える言葉と見なさなければなりません。私が苦衷を訴えなければならないのは、自分を、涅槃の道を均す者と標榜していること、そしてこの上ない哀れむべき厚い障害物に遮られている点にあります。私たちは心を一つにして、完璧で明らかな理解をしなければなりません。死が近づいているので残りの時間が少ないと見れば、凶悪な危険を掃き出す役に立つ方法を探して、急いで排除しなければなりません。

みなさんは、「プッダン サラナン ガッチャーミ。タンマン サラナン ガッチャーミ。サンガン サラナン ガッチャーミ」と言うだけしか実践していないからです。このように何も深い意味がないものは、その度に妨害の壁を厚くするだけです。一生続ければ、続けた年齢だけ厚くなり、何世もすれば、しただけ厚くなります。いつか薄くなるまで、今はまだ光が見えません。

 このような理由で、強く引っ張り返し過ぎたなら、急いで間に合わせる、教えや教義の要求に迫られていると見なさなければなりません。それは仏教教団員の賢さです。三蔵の勉強が終わってから、あるいは教えられているように、戒を守ってサマーディを完成させ、智慧を発展させるまで待つなら、こういうのは一生かかっても、あるいは十回生まれ変わってもできません。だから急いで脱出するために、苦から脱出できれば、私たちが望むものに到達するという教えを使って、必要な目前の問題に焦点を当てる方が賢いです。

それは、戒・サマーディ・智慧の目的、あるいはブッダ・プラタム・僧を敬う目的、あるいはブッダ・プラタム・僧と呼ぶものと言うこともできます。この問題の重要点は、完璧に苦から脱すこと、あるいは滅苦に到ることにあります。三蔵の勉強を終えること、あるいは(神通力など)珍しいことがたくさんできることではありません。私たちの目標は苦から完璧に脱すことだけです。どんな形でしても同じ結果があると言います。滅苦、あるいは涅槃以上の部分は要りません。

つまり必要を越えれば遅くなります。私たちは必要なだけ、そしてブッダが私たちのために望まれた物と一致するものだけをします。ブッダダンマに到達するため、あるいは完璧な滅苦のために実践する教えがどんなかは、どうぞ、ここブッダ協会での、前の四五回の講義を思い出してください。今日は、妨害するものについてだけお話します。私たちは隠された障害物に対処します。つまり自分が自分をどう遮蔽しているかは、ある人、つまり正しい意味のブッダを手本にしなければなりません。

 (その人の見方による)ブッダが涅槃を隠すものと言う場合、どう隠しているか良く考えてみると、私たちは自分を正しく知らないためにブッダを求め、自分の欲望で、自分の見方でブッダを作り上げ、自分を包み隠し、その結果どっちを見てもそれしか見えなくなり、掃き出すことができない過去の想になると分かります。自分を正しく知れば、つまり自分がないと知れば、その時どんなブッダもなく、隠す人も隠される人もなく、望まないので、探すこともありません。

自分が無くなれば、ブッダもいなくなります。自分を探せば、自分が知っているブッダを見つけるまで探します。自分がないことを探せば、ブッダにも実体がないことを発見します。そして望む人である自分も、あるいは欲しいものもありません。拠り所と拠り所になる人を探す人もいません。しかし自分を探して、それが何か気づかないうちは、信仰しなければならず、駆け回ってあれに飛びつき、これを掴んで信仰するのは当たり前です。そしてブッダダンマにも出合えません。

(つづく)


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