そして道理を愛す一般の学習者が広く全般を理解するには、本性の中に種として眠っている微妙なレベルの煩悩から生じる害を、振り返って熟慮するべきと、私は見ます。そして、その害がすっかり静まればどれほど静かかを推測して見ます。その害を熟慮することは、アヌサヤ(眠っている煩悩という意味。隋眠)と呼ぶ十種類の煩悩の種を熟慮することと同じです。聖果に到達する教えで言えば、これらの種を完全に根絶できるのは、阿羅漢だけです。それらの煩悩の種とは、次の十種類です。

1.サッカーヤディティ(有身見) 

「この体は不変であり自分の物だ」という考えが、どのように静かでないことを生じさせるかを、みなさんが見るのはそれほど難しくありません。泣くこと、愛、憎しみ、心配、怒りなどは、ほとんど「この体は自分のもの」という見方が根源です。それがもう一段階、自分の体に関わる物を集めて、「自分のもの」にします。この誤解が無ければ、どれほど苦が軽くなるでしょうか。あるいはどれほど静かさを得るでしょうか。この体は、絶えず変化しているいろんな物質・要素でできていて、心、あるいは重要な部分は何もありません。しかし所有者の感覚ではそうではありません。

たとえば蛇に足の指を噛まれると、「蛇が噛んだのは足の指だけ」と感じないで、蛇が「私」を噛んだ、そして「私は死ぬ」と感じるように、「この体は自分だ」という考えになってしまいます。この理由でブッダは、何から何まで自分にしてしまう中で、体を自分と見ることを初めの項目にしました。心を掴むより先に、あるいはタンマを自分にするよりも先に引っ掴んで迷うので、ブッダが緻密な煩悩の最初の項目に挙げるのはふさわしいからです。この煩悩・アヌサヤ(隋眠)が消滅したら、どれほどの静かさが生じ、どれほど幸福か、もう一度熟慮して見たらどうでしょうか。

2.ヴィチキッチャー(疑)

 何がどうか判断できない心のためらいです。人生とは何か。自分は人生から何をどう、どれくらい得られるのか、ブッダやタンマや僧は本当に善いのか、自分がしている仕事、あるいはことは確実に善いのか、成功するのか、死は生より幸福なのか。これらの問題が暗く曇っているばかりで、ある時の考えと、別の時の考えが違います。この「静かでないこと」がどれほど心を焼き炙るか、推測して見てください。その人は、善は確かに善いのか、悪は本当に悪いのか疑うこともでき、カンマを作り、カンマの結果を受け取ることまで、このように際限なく疑い、妨害する問題ばかりです。

そのためらいが環境で強められれば、快食快眠できない、幸運や他の物を十分に得られない、あるいはまったく得られなくする混乱です。この害のせいで得られるはずの結果が得られないので、人間であることの利益がありません。だから躊躇いをなくすことができれば、すべての点で、それらの害と反対の良い結果が生じます。それはどれくらい心を冷静にするか、考えて見てください。特に今、この種の考えに関して心の中の混乱に遭遇している方は、「その静かさは、どんな芳香剤より心を爽やかにする芳香剤だ」と誰より良く分かります。

3.シーラッバトゥパーダーナ(戒禁取)

 戒と勤めを撫で回して、本来の意味と違ったものにすることです。これは、ある目的のものを、下劣で汚れたものになるほど、本来の目的と違う意味の誤解することを意味します。それは、公にされている理解できるものより、深遠で不可思議で理解できない物に憧れることが原因です。たとえば仏教のいろんな戒や勤めは、本当は愚かさや煩悩を削いで静かな幸福を求めるためにありますが、反対に、その人を何らかの魔力や法力のある卓絶した人にする道具だと言って、溺れるほど信仰します。まだ結果を生じさせ、つまり気が触れることもあります。戒を撫で回して汚いものにした結果です。

たとえば仏像などを作って祭る本来の意味は、記念するもの、ブッダを思い出して帰依するために注意するものでした。その後、不可思議な物を好む人の生来の財産である迷いが、自分の望みに応じて祈願する神聖なものにしました。仏像にこういう偉大さがあるという仮定で、霊験などのあるものになります。この惑溺は、自分で気づかないうちに大きな被害をもたらします。つまり純潔な物を撫で回して汚れたものにする以外に、それだけ人間を道理の威力下にいる動物であることから遠ざからせます。

自分の臆病が原因で、何かを神聖なものと信仰することは、原人の時代からブッダの時代までありました。ブッダはこの低い感覚を、すべての初歩の愚かさの一つと規定しました。つまり一番初等の聖人ソターパッティ(預流)は、捨てなければなりません。ブッダは、行為者の徳や善を、心を温め慰めて勇敢にするお守りと見なすよう教えました。それは最高のお守りで、本物です。霊験のある物に助けてもらわなくても、本当にお守りの役目をします。

タンマは何よりも神聖なお守りです。つまり自分を信じること、自分を尊敬すること、善が身についていること、義務を行なうこと、国を愛す義務に率直なことなどは、タンマ、あるいは本当のお守りであるブッダの教えです。適度に心の高い人は、どこでも見ることができます。非常に不安定な物である何らかの物質に、入魂して信仰する必要はありません。本物をお守りにできなければできない分だけ、聖人と呼ぶことはできません。あるいは聖人ではありません。道理や、心を高く導く道に対して暗く、苦の流れの源流を知らないので、まだ真実がなく、静かさがありません。少なくとも社会の危険になるくらい道理の分からない人です。

つまり自分を哀れなこと、自分では気づかない類の静かでないことに誘います。最も初等の聖人つまりソターパティ(預流)でも、神聖な樹木、神聖な山、神聖なお守りなど、この種のものを愛撫することは完全に捨て、タンマ以外の偽物の拠り所を信仰しません。高いレベルの聖人つまり阿羅漢は、その方が到達した不死の力で死を脱しているので、信仰や愛撫に関わる厄介な問題はまったくないということです。見えないことから生じる混乱を熟慮して見ると、当然シラッバトゥパーダーナ(戒禁取)を捨てられればどれほど静かか、そして普通の人はそれまで経験したことのない種類の明るく澄みきった静かさだと分かります。

アヌサヤ(隋眠)、つまり本性にある濁った沈殿物であるこの三種類は、ソターパッティ(預流)に到達する時に完全に捨てなければなりません。そうすればその方は涅槃の夜明けに出合います。確実に涅槃に至ることを示す夜明けで、四種類ある聖人の一番初めの部類です。つまりボロマサンティ、あるいは平和の極み、あるいは私が宇宙の大きな自我と仮定する静かさの極みへ至る流れに足を踏み入れたばかりです。この三種類のアヌサヤ(眠っている煩悩。隋眠)を捨てることができ、更に貪りと怒りと愚かさの一部が軽くなれば、サカダーガミー(一来)、つまり二番目の聖人です。

4.カーマラーガ(欲貪)

この項目は、断ち切れずにまだ残っている、そして捨てるのが難しい種である愛欲への未練だけを意味します。最初の聖人、二番目の聖人はまだ断ち切れません。捨てることができるのは、多分かなり粗い部分です。微細な部分、あるいは種を捨てるのは、三番目の聖人の義務です。カーマという言葉は、心の欲と一致する感情の味を望むこと、あるいは喜ぶことを意味します。愛欲の望みとは、欲情するという意味だけではありません。たとえば性殖本能など、植物にもある自然の望みも含めます。

人間は、溺れる愛欲は初めの聖人でも捨てることができます。しかしブッダは、自然の欲は三番目の聖人、つまりアナーガミーが捨てなければならないものと規定しました。カーマラーガ(欲貪)がくすぶり始めると、自分と他人をどれほど静かでなくさせるか、誰でも良く知っています。だから抑えがたいこの熾烈な感覚を、無理も我慢もしないで抑え、完璧に消滅させたら、どれほど静かで休息になるか、当然知ることができます。

5.パティガ(瞋恚。イライラ)

 怒りの部類の感覚、あるいはまだ残っていて息苦しくさせる不満を意味します。トーサ(瞋)と呼ぶ熾烈な類は、最初の段階で捨ててしまっていて、残っているのはくすぶる種だけです。この段階で捨てなければならず、そして非常に捨てるのが難しいものでもあります。パティガは知らない内部にあるので、残っているこの煩わしさは何だろうと、自分で知らないこともあります。

すっかり無くなってしまえば、心はどれほど純潔で輝いているか、何とか推測することができます。四番目と五番目の二つのアヌサヤ(隋眠)は、このように三番目の聖人、アナーガミーになる時に捨てることができます。初等の聖人の時より、捨てるものが増えます。

6.ルーパラーガ(形貪)

 基盤として何らかの形がある静かさを喜び、満足することです。これは、普通の人には理解し難いです。しかし理解する方法はあります。高い心の聖人が二度と愛欲を望まず、喜ばないのは、その方を満足させる別のもの、愛欲より高いものがあるからです。つまりいろんな定から生じる幸福の味です。愛欲が鎮まった味、愛欲が干乾びた味に、高い心の聖人の方々は魅了されます。つまり普通の人が愛欲に魅了されるように、形禅定の味を喜び、夢中になります。

今見ている高い心は、高い美徳の終点ではなく、まだ進歩しなければなりません。サマーティの味は無常で、変化するのは当たり前なので、夢中になれば前進できないので、捨てなければなりません。しかし私たちは、愛欲が静まるだけでも「極めて静か」と言うのに、今その方は、それはまだ粗い段階で、必ず混乱になるので前進しなければならないと、このように見ます。もう一段階捨てられれば、どんなにか緻密な静かさか、考えてみてください。

7.アルーパラーガ(無形貪)

 基盤として無形がある静かさを喜び、満足することです。これは前の段階よりも高くなりますが、非常に良く似ています。つまり無形禅定への熱中を捨てると、更に緻密で繊細な無形禅定に夢中になるので、同じように捨てなければなりません。それを捨てられれば、どれほど静かでしょうか。ブッダはこのような禅定の味に、ラーガという言葉を使っているので、一般に話されているラーガである「愛欲」と誤解する人がいるかもしれません。ここで言うラーガは、気に入る、あるいは心が定の味に染まるという意味です。

8.マーナ(慢)

 自分や他人を、ああだ、こうだと理解し、その結果「劣る。同等。良い」という比較が生じ、それからまた別の感覚が生まれることをマーナ(慢)と言います。このような意味は、意地(タイ語ではこの意味)という意味より広いです。意地は、私はあの人より劣る、あの人と同じ、あの人より良いという気持ちの、いずれか一つから生まれるマーナ(慢)の一つです。

マーナは意地や後悔、その他いろんな形がありますが、どれも自分と他人を混乱させます。最高に微細で、外部に表出して他人に知られることがなくても、それでも自分にとっては重く、「自分はこうだ」という感覚を背負って、それで誇らしくなったり悔しくなったりします。少なくとも、自分の在りように関した心配があります。これを捨てることができれば、どんなにか静かで涼しいか考えてみてください。

9.ウッダッチャ(挙。ジョウコ

 興味や興奮を生じさせる、あるいは興奮させ、心を乱す話や状況を楽しむ感覚です。仕事や自分がした善の結果や、その他の興奮させることに興奮し、あるいは心を乱すのは、当然禁じ難いことです。自分は考えたくなくても、考えを止めることができず、寝て夢で見るのを止められないこともあります。このようなら混乱するのは当たり前です。どんなわずかな混乱もあるべきではありません。まだあれば本当の静かさではないので、捨てなければなりません。

10.アヴィチャー(無明)

 本性に眠っている種である愚かさで、知るべきことを知らない原因です。あるいは知るべき状態と反対に知るので、「髪の毛が山を隠す」というような症状が生じ、見るべきものが見えません。特に「苦」と「完璧な滅苦」を知らないという意味です。そして最も重要なのは、この無知一つが、述べたような間違った見方を生じさせる根源なので、他のすべての煩悩の根と同じで、無明を根絶することができれば、他の煩悩も、当然同時に根絶されたと言います。

しかし反対に、他の煩悩が根絶しても、無明はまだ根絶していない場合もあります。木を根絶させる時、枝や葉を切っただけでは根が根絶されていないので、まだ死んでいないのと同じです。根が破壊されれば、枝葉を破壊しなくても同時に全部死にます。だから無明を徹底的に根絶させれば、どれくらい煩悩が根絶するか、そして最高の静かさを生じさせるかが分かります。それ以上に高い静かさは何もありません。

みなさんが十種類のアヌサヤについて、述べたように熟慮すれば、智慧を鍛えて強くし、このように断つことができれば、智慧は武器と分かります。智慧の下はサマーディで、サマーディの下は戒です。戒は隠蔽する道具で、サマーディは抑えつける道具で、智慧は根こそぎ断つ道具です。

たとえば伸び放題で周辺の害になるチガヤなどを退治するには、簡単なのから本格的なのまでいろんな退治法があります。最高に簡単な方法は草を抜くことで、一時平らになりますが、常時抜き続けなければ、地下に残っている根はすぐにまた伸びます。これは戒の結果である静かさに例えられます。

二番目の方法は、石や板を載せる方法です。石や板がある間は平らにキレイに見えますが、載せてある物を除けてしまえばすぐに伸びるので、また載せなければなりません。これはサマーディの段階の静かさに譬えられます。最後の方法は、根を掘り上げて燃やして灰にしてしまえば、完璧にきれいになり、本当に終わります。これは智慧のレベルの退治と、それから受け取る静かさに譬えられます。

以上の理由と、いま述べたすべての譬えから、生じた静かさが高いレベルの静かさなら、幸福、あるいは満足も高いレベルになるという要旨を掴むことができます。普通の人の満足とはレベルが違います。あるいは普通の人は満足できません。しかし心のレベルにふさわしい低い静かさもあります。あるいは偽物のレベルまで低くなります。つまり望みに応えるものを探してあてがわなければならない類の静かさです。しかしそれでも、「静かさ以外から生じる幸福や満足はない」という、不思議な要旨に出合います。非常に学ぶ価値がある、熟慮しなければならないことです。

しかし仏教哲学の意味では、学習の滋味である深遠な内容と、そして更に明らかになっていく知識があります。つまり私たちが幸福と呼ぶものは、本当の幸福であろうと、偽物の幸福であろうと、つまり世俗のものから生じる幸福であろうと、タンマから生じる幸福であろうと、それとしての実体のない仮定した言葉で、本当は真っ赤に燃えている「苦」と、その「苦が鎮まること」しかありません。

だからブッダは、苦と苦の消滅だけを説いて世界に広めました。聖諦の形で説明した四項は、「苦」と、「苦の原因」と、「滅苦」と、「滅苦の道」しかありません。庶民の言い回しで世俗について説かれたもの以外に、幸福について言及したものはありません。庶民が聞いて分かり易いように、あるいは普通の話し方で話す時、「涅槃は幸福の極み」というようなものだけです。だから良く知られている言葉、苦と反対の言葉、自分の好きなものを「幸福」と呼ぶ人間の言葉があります。

ブッダが唯一の真実、つまりすべての苦は必ずそこで消滅するという意味の、苦の終りを悟った時、ブッダは二つの言い回しを使い分けなければなりませんでした。つまり世俗の言い回しでは、苦の終わりを、一般に言われているように幸福と言い、そしてローグッタラ(世俗を脱す)の言い回し、たとえば四聖諦や縁起の説明で、幸福に言及することはありません。苦の厳密な終焉について話せば、それで終わりです。

それは哲学的、科学的な言い方です。この項目を良く理解すれば、私たちが迷って幸福と呼んでいるものが、更に良く分かります。そしてブッダが何を発見したか、あるいは悟ったか、明白に分かります。そしてもう一つ、幸と不幸、善と悪などの対のものは、世俗の言い回しにしかないと、つまり世間の言葉だけで、ローグッタラの言い回しにはないと知ることができます。縁起の説明などは、苦だけを説明し、苦がどう生じ、そして増えるか、そして苦が減って、どのように苦は終わるかを説いていることが分かります。

そしてこの宗教の梵行をするように誘う時、ブッダは「苦を終わりにするために梵行をしませんか」と、このように言われ、仮定のものである幸福には触れていません。幸福という言葉は、人間社会で最も知られていても、仮定のものです。そしてどんな言葉よりたくさん、どのように話されているか、これから詳しく見ていきます。

 「幸福」は仮定のものです。幸福という言葉は、仏教の観点から見れば、何も実体がないものを仮定した言葉です。この初めの段階で、科学の視点、あるいは一般の論理でも、幸福とは仮定のものです。理解するために最も簡単な例は、科学の観点に見ることができます。たとえば科学では「これだけ熱い」と言いますが、これだけ涼しいという言い方はしません。

 百度(センチグレード)の熱と言えば我慢できないほど熱く、そして火傷をし、十度と言えば、我慢できないくらい涼しいことを意味し、零度と言えば、涼しいのを越えています。本当は、熱が多いか少ないかだけです。たとえば十度の熱は、人間はほとんど死ぬほどの寒さです。十度の熱があっても涼しいと言います。しかし涼しいと見ない動物もいるかもしれません。人間の感覚を基準にしているからです。だから熱さ涼しさは、本当は一種類だけで、熱が多いか少ないかだけです。そうすれば真実のまま正しい、あるいは固定した言葉になり、時間や場所や他の何も限定しないで、どこでも使うことができます。

涼しいという言葉は二十度(まだ熱いという人がいるかもしれません)以下の温度を仮定したと、明らかに見ることができます。十度から十五度になると、ほとんど我慢できないくらい、本当に涼しいと感じます。熱いという言葉を百度の熱、つまり燃えるほどの熱さと仮定し、千度を最高の熱さと仮定します。しかし太陽の温度である百万度になれば、人間はそれを表現する言葉に窮すに違いありません。その仮定は確かではないと言うことがわかるので、もっと確かな事実を規定するべきです。(規定も仮定であることに変わりはありませんが、規定する方がハッキリします)。

このような理由で科学では、零度以下でも「これだけの熱がある」と、特別の言い方をし、これだけ涼しいと言いません。仏教哲学の面では、更に深い意味があり、つまり本当には「幸福」はありません。まだ動物でありサンカーラなので、苦があり、いくら軽減してもまだ、「これだけ苦」、「それだけ苦」と言うと見なすからです。苦が無くなれば「苦の終焉」と言って、その後は何もありません。幸福は初めの部分、あるいはどの部分でも、その状態をその人が満足する分量で仮定した言葉です。

そしてある人の幸福ともう一人の幸福には、天と地ほどの違いがあります。たとえば一人が煮えたぎっている、あるいは名誉を背負う、あるいは名誉を守る何かをしなければならない苦に見えても、もう一人は、幸福に見えることもあります。だから率直に言えば、第一義諦の言い方では、ブッダは苦と規定し、そして苦の終焉まで段階的な苦の減少を規定しました。その間にある様々な様相を、幸福とか何とか仮定するのは、その人の満足次第です。

だから当然、私たちが幸福と呼ぶものは、何らかの苦が静まったことを意味すると見ることができます。その静かさは本物のこともあり、偽物のこともあります。苦がなくなれば、苦より上、すべてのものより上にいるという意味です。「何はどうだ」と信じるのは、まだ重いもので、まだ苦の終わりではなく、どんなに見るのが難しくても苦の一種です。

 もう一つ幸福と呼ぶものを熟慮して見ると、それは苦の一部が静まることだと気づくだけでなく、幸福が生じるには、たとえば何かを欲しがるなど、くすぶって静かでなくなる「苦」が基本になければならない、ということに気付きます。そしてくすぶっているものが完全に、あるいは完全でなくても静まった時、私たちが幸福と仮定する状態が生じます。

たとえば魅惑して愛や欲を生じさせるものがなければ、思いが叶うこともなく、それによる幸福もあり得ません。思い切り欺瞞するものに見えるもの、あるいは私たちが幸福と呼ぶものは、本当は苦とのバランスを取る重りです。あるいは欠陥を作る、あるいは自分は幸福だと騙すためにどちらか一方へ傾く陶酔です。それを手に入れて自分の欲望のブレーキにした時、その幸福が自己欺瞞に見えるだけです。 

 幸福を求める人は、基礎として必ず苦がなければならないという項目、あるいは苦の上で幸福を育てることは、至る所で見られます。クリスチャンの考え方にも、いつからあるか、どうしてあるか調べることができない人間の原罪があり、現れて人間は目いっぱい罪があると見なします。そして善を行なって罪を抜き取り、神の教えに従って幸福を求めます。私たち仏教も、生・老・死、あるいはすべての苦は無明から生まれ、その無明は無明によって在ると見なします。

これは、作るものである無明がなければ、世界の生き物は存在しないと見なすことで、すべての命には元から罪があると認めることです。生まれた時には、罪がついて来ます。つまり必ず生老病死とその他の苦があり、同時に自分を焼き炙るものである、貪りと怒りと愚かさがあり、煩悩の威力の成り行きになり、結果は苦を受け取る以外にありません。そして必要に迫られ、考えられるだけの治療法を探し、苦を軽減できた分だけ幸福が生じたと見なします。しかし本当は、ほとんど減少した苦にすぎません。

たとえば温度が百度から十度に下がると、私たちはこれだけ涼しい、それだけ涼しいと言いますが、何と言うことはない、暑さが減っただけです。「前からあった苦が静まる」というのは、罪が減っただけで、褒美ではなく、それ自体は幸福ではありません。ただ世間の言い回しによる幸福でしかありません。そして愚かさ、つまり迷いの威力下に陥っています。タンマの方では、欲情する感情を喜び、イライラしている自分を認めることを苦と見ますが、まだ煩悩を知らない世俗の生き物の感覚では、当然、満足して幸福と見ます。だから世間には幸福があり、それを呼ぶ名詞が、苦よりもはるかにたくさんあります。

苦は本当にあるものですが、あまり求める人や話す人はいません。きっと求めるのは、本当にはない幸福だけです。幸福は、その人の考えの高さや、どれくらい煩悩の威力下に落ちているかによって、現れては消える幻です。そして幸福は、生き物の心より威力のある言葉で、苦という言葉よりはるかに強いという理由で、タンマの実践項目を教えるために庶民と話す時は、苦の減少という言葉の代わりに、幸福という言葉を使わなければなりません。その生き物は、自分自身の中に、基本として取り除くための苦があると考えたことがないからです。その上、心はその時少なくなっている苦を見ているのに、それを幸福と理解しています。

同じものを違う名前で呼ぶのは、まったく別の角度で知っているからです。私たちが迷って幸福と呼ぶものが隠ぺいでしかなければ、あるいは最高に良くても罪を購うものなら、当然その幸福は、本当にはなく、そしてあると見えているものは幻にすぎません。つまり必ず基本として、あるいは元手として凶悪な苦があるので、少しずつそれを脱ぎ捨てて、脱ぎ捨てることができた部分を褒美、あるいは自分が受け取った幸福と呼びます。それが生き物の儲けです。良く考えると自分で自分が非常に哀れに感じます。傷の手当てをするために、自分の脚を切断しなければならないような話で、それで怪我が治って運が良いと喜んで幸せです。

音楽や美術の美しさへの要求は、その音楽や美術がどのように美しいか、投資して学習することから生じる、願望の傷がない普通の人の心にはありません。この傷がない農民は、まだ発展していない野蛮人と悪口を言われますが、本当は、自分で切りつけた傷を治療する必要のない人なだけです。だから幸福な時は、迷って自分を傷つけ、そして自分で治療をした褒美で、そしてその褒美とは、元のように治ることです。

このようで、その幸福は仮定だと、あるいはまだ欲望執着のある世俗の人の言葉でしかないと、見ることなどできるはずがありません。そして俗世の人と話す時や世俗の言葉で話す時は、仮定を脱した人もこの言葉を使わなければならないほど、固定した世俗の言い方です。俗世の人の言葉には、世俗にないもの、あるいは世俗を脱したものを呼ぶ言葉がないからです。

 仏教の教えにはハッキリと、「苦だけが生じ、苦だけが存在し、苦だけが消滅する。(この世では)苦の他に何も生じず、そして何も消滅もしない」とあります。このようなローグッタラの言い回しは、自分で気づかずに切り傷を作って、自分で治療することに夢中になっている人は、聞いて理解できません。気づかないで自分を傷つけている時は、たとえば「これが高級な芸術の美しさだ」と、風変わりに執着し、あるいは自分が愛すものに強く執着して、自分が惚れて愛すのを放置します。

しかしこの項目は、無明から生じた人間本来の罪業とする以外には、誰も責められません。その人の間違いと非難することはできません。発生源として無明があるので、自分に切りつけて怪我をさせても、その都度気づきません。怪我の治療をする道具である戒・サマーディ・智慧を使わなければならないほど重大なことでも同じです。つまり、自分を生んだ人が自分の敵だと、そして(自分を生んだ人である)無明を無くしてしまおうとその人が考えるほど、様々な苦や害を生じさせるのは、その人自身の無明です。

ブッダは心に沁みる深遠な言葉で『自分の親を殺してしまいなさい』と言われました。私はここで、「自分に切りつけて怪我をさせる手を引っ込めなさい」と言います。自分に切りつけて怪我をさせる手を引っ込めてしまえれば、その後混乱は何も生じません。そしてそれだけ苦の終わりに到達します。手を引っ込めることは、苦を生じさせる物すべての根源である、無明の消滅だからです。いまお話しただけで、その幸福は、誤解で迷って仮定したものと見ることができます。

名を挙げれば無明の威力によってであり、その時無明は作った人であり、そしてそれを知らないで、まだ破壊できないうちは常に支配しています。不思議な項目と見なします。そして更に不思議な項目が一つあります。それは、幸福は仮定しただけのものですが、仮定するべき所を誤った仮定でもあります。たとえば期待通りに手に入れたことから生じる幸福は、望みどおりに手に入れたことを幸福と呼ぶべきですが、反対に手に入れたものを幸福と呼びます。

これから、場所を間違えて仮定している幸福の仮定を熟慮して見ます。明らかに仮定が間違っていると見えるのは、たとえば「涅槃は幸福の極み」と言えば、当然誰でも、涅槃は幸福より、あるいは苦より上にあると見ることができます。幸福を受け取ったのは、涅槃に出合った心です。涅槃に出合った時心にある感覚が、心の幸福を得たことです。涅槃に出合ったことから得られる感覚や味が幸福であり、涅槃が幸福ではありません。これを簡単に理解するために、一般によく使われる言い回しを例にするべきです。

たとえば「クルンテープ(バンコク)は楽しい」という言葉は、楽しいと仮定するものを間違っていると分かります。本当は、クルンテープに満足している心が「楽しい」と感じます。満足している心の感覚が楽しいのであって、クルンテープは、満足する人の心に楽しさを生じさせる所でしかありません。他の人にとってクルンテープは苦かもしれないし、汚いものを詰め込んだ場所かも知れません。本当に正しくすれば、クルンテープは楽しいとか、楽しくないとか言うことはできません。楽しさは、満足する人の心にあります。

しかし世俗の人の言い方には一貫性がありません。すべてのものが真実のままに見えないほど陶酔する威力で、世俗の言い回しに場所を間違えた仮定が生まれ、そしてそれが当たり前になりました。絶妙な熟慮でなければ重要ではありませんが、苦から抜け出すため、あるいは静かになるためには、多少絶妙な熟慮に依存しなければなりません。だから詳しく熟慮する練習をしておくべきです。「クルンテープは楽しい」という譬えが仮定する場所を間違っているように、「涅槃は幸福」というのも場所を間違った仮定だと分かります。幸福は本当にはなく、あるのは苦の静まりを段階的に仮定しただけだからです。

 どれも仮定のもので本物がなければ、場所を間違った仮定は、仮定したすべてものの普通になります。この真実が明らかに見えれば、執着はありません。「戒は幸福」と捉える代わりに、戒は体と言葉の害のない静かさを生じさせるものという真実が見えます。そしてその静かさの味を幸福と呼びます。それは苦の減少、つまり部分的な苦の消滅の仮定です。「サマーディは幸福」と捉える代わりに、サマーディは心の面の静かさを生じさせる道具にすぎないと、真実のままに見て、そしてその静かさから受け取る味を幸福と呼びます。

それはまた別の部分の苦の減少を仮定した言葉です。智慧、あるいはヴィパッサナーを幸福と信じる代わりに、本性の中に眠っている煩悩の種の根を切断し、二度と成長しないようにする道具という真実を見て、そして完璧な静かさを受け取ります。そしてこの静かさの味を、幸福の極みと呼びます。それは苦の終焉を仮定した言葉です。すべて本物の静かさ、あるいは仮定で言えば本当の幸福の側になります。

 ニセの静かさ、あるいは偽の幸福の側も同じようになります。幸運、昇級、称賛などを幸福と捉えなければ、「その望みを一時静めるために、欲しがる人の望みに応えるもの」という真実が見えます。そして一時的な満足を受け取って欲望の足掻きがないことを、幸福と呼びます。それはニセ物の静かさなので、しばらくすると再び悪化します。トラに餌をやってワルサするのを止めさせるように、効果があるのは一時だけです。だからニセの幸福です。二重の偽り、つまり仮定である上に一時的です。五欲に夢中になっている生き物の五欲への惑溺や満足は、幸運や階級などと同じです。

つまり手に入れたた五欲は、欲望の足掻きを一時的に止めるものでしかありません。欲望に応えて満足させ、別の形の、あるいは次の足掻きに変わるまで隠しておくものがあるので、どんなに少しでも、あるいは間接的にでも、再びくすぶって焼き炙れば、本当の静かさ、そして完璧に苦が滅したと呼ぶことはできません。静かさのレベルは、ニセ物も本物も段階的になっています。ニセの静かさ、あるいは本当の静かさになるまで順に高くなっていく部分にすぎない静かさは、次のように観察できます。

 自分が望む目・耳・鼻・舌・皮膚を通じた感情のすべてを自分の思い通りに(Self-Indulgence)得ることは、何かで願望を隠蔽すること、あるいはイライラしない程度に望みを抑えることは事実ですが、結局消えて最高にニセの幸福になるので、静かではありません。どこにあっても、自分の思い通りに手に入れただけと知るべきです。

贅沢(luxury)とは、適度を越えた美しさや快適便利すぎるものがあることで、まだ経験したことがなければ、この世の極楽のように満足します。まだ飽きないうちは、一時的に心の足掻きが止まり、何も望みが無いのと同じようになります。しかし結局は邪魔になり、煩わしくなり、脱出したくなります。これはシッタッタ王子も経験があります。これも静かさではありません。どこにあっても、ニセの静かさしか得られないただの贅沢と知るべきです。

 楽しさ(Pleasure)とは、気分に合った何らかの味への強い満足です。一種類だけでも欲望を煽り、愛欲のサマーディである方向へ強く巻き込みます。これも本当の静かさではありません。このようになる度に、それはただ楽しいだけと知るべきです。

快適(Ease)とは、あまり限度を越えない望みにふさわしい何かを手に入れることです。たとえば生活や社交や、あるいは非常に満足させる自分にふさわしい環境を得ることで、これもまだ本当の静かさではありません。更に高い静かさを探す道具として使える快適さだけです。それがある時は、ただ快適なだけと知るべきです。

 幸福(Happiness)とは、いろんな善を行ない、目的どおりにしっかり家族を護れた自分の手腕を誇りに感じ満足することを意味します。これらは高い静かさを簡単に探求するために、心の勉強をする道具になります。しかしまだタンマの意味の静かさではありません。静かさになるのは、世俗の面だけ、そしてそれだけです。

 次にローグッタラの静かさに進むに十分と感じるので、本物でない静かさはこれで終わりにしたいと思います。本当の静かさ、あるいは本当の側とは、

1.戒 何か一つの体系で実践するので、体と言葉の害を静めることができます。これが心を静かにする原因です。しかし戒はまだ一部分だけの静かさであり、最高に本当の静かさではありません。

2.サマーディ 何らかの体系的手法によるサマーディで、罪や心を包囲する悪い考えを静めることができます。これは本性の中に眠っている煩悩の種を静める智慧を生じさせる原因になります。サマーディはその時だけの静かさで、まだ最高に本当の静かさではありません。

3.智慧 明らかな知識、あるいは、沈殿している煩悩の種の愚かさをすべて削り取るために、すべてのものを真実のままに見る知識を生じさせ、本性の奥深くまで照らす光です。愚かさは、このレベルでも静まるには静まりますが、まだ完璧でなければ、この静かさは本物ではなく、静かさの完成に近い、あるいはこれから詳しく熟慮する段階的な進歩で成功が期待できる、静かさの一つの道具です。

4.倦怠(ニッピダー) 智慧の力ですべてのものを真実のままに見れば、当然、世界のすべてのものは幻にすぎず、無常であり苦であり無我であるという意味です。倦怠を生じさせ、欲しがらず、二度と何かを手に入れる野望を持ちません。しかしただの倦怠で、まだ完璧な静かさではありません。

5.心を染めているものを吐き出す(ヴィラーガ)。世俗の感情に厭きた時、布を染めている染料のように世俗に染みこんでいたものが、溶けて吐き出されます。しかしこれも、心を染めていたものを吐き出したにすぎず、まだ完璧な静かさではありません。そうなったら、ヴィラーガ(離欲)にすぎないと知ります。

6.解脱(ヴィムッティ) 染まらなければ世俗、つまり欲界・形界・無形界から脱出でき、その後は世界と一緒に、あるいはいろんな界を循環する必要はありません。しかしまだ、脱出したばかりです。

7.純潔(スッティ) 脱出できれば、乗りかぶさるもの、捕縛するもの、縫い付けるもの、原因であり結果であるもの、益も害も、善も悪も、徳も罪も、焼き炙るものも、すべてから自由になり、それ以後は本当の静かさです。

8.静かさ(サンティ。寂滅) いま述べたように、かつて夢中になっていた憂鬱なものから純潔になるので、すべての苦が静まり、煩悩と煩悩の種も静まり、輪廻の循環もなく、古いカンマは帳消しにされ、新たなカンマはありません。新たに生まれることもなく、その後しなければならない何らかの義務もありません。欲しがることもありません。

9.何かになりたい、知りたい、ということもなく、疑念や、明らかに知ることへの渇望は何もありません。拘束条項や、これからはこうでなければならないという強制もありません。誰かを愛すことも嫌うこともできず、誰かが見つけることができる跡を残しません。そして行動も、行動されることも、あるいは留まっていることもない静かさです。これらは、ここで言っている意味の完璧な静かさです。

10.ボロマサンティ(涅槃) 静かさの静かさである状態を意味します。これは私が冒頭で「宇宙の偉大な自我」と仮定したものです。つまり宇宙を原因と縁を一緒に、創造主である神と神が創造しなければならなかった原因と一緒に、これらすべてを掃いて捨ててしまえば、形も名も(体の元素も心の元素も)、残るものは何もありません。そしてまだ残っているものは、「すべてのサンカーラの墓」であり、すべてのサンカーラが静かになった場所です。作るものがなくても、それ自体で存在することができます。

助けるもの、あるいは作るものを必要とせず、生まれることも、消滅または死もない、不死のものです。しかし維持しなくても、あるいはすべてのサンカーラがしているように自分の存在を背負わなくても、それ自体で存在することができるので、窮屈な混乱のない完璧な静かさです。心が到達すれば、当然それまで出合ったことのない、そしてそれだけ完璧で最高の幸福を感じます。

唯一のものを知ったことで、世俗、あるいはすべてのものから脱したと言うことができます。すべてのものの無常と苦は、その後、その人の心を支配することはできません。だからその人は終着点、あるいは苦の終焉に到達したと言うことができます。そして本当のブッダダンマに到達した人と呼びます。

この講義をまとめると、静かさ以外に幸福はありません。ニセの静かさなら幸福も偽物で、本当の静かさなら幸福も本物です。静かさが多ければ幸福も多く、静かさが少なければ幸福も少ないです。そしてこれは、形も名も含めたすべての自然の不動の法則です。ちょうど時間になりましたので、これでお話を終わらせていただきます。どうぞタンマの祝福がありますよう。どうぞみなさん、安楽だけがありますよう。

 


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