静かさはブッダダンマ




ブッダ協会にて
1942年6月28日

 ブッダダンマに到達した結果である静かさは、ブッダダンマそのものです。ブッダダンマに到達すれば静かさ以外に受け取る物は何もありません。しかしその「静かさ」には、いろんなレベルのいろんな意味があります。だから今回は、ブッダダンマに到達した結果である「静かさ」について、すべての角度から詳しくお話します。

 ブッダ協会員ならびに善人のみなさん。勉強家である同朋にお会いしたことを嬉しく感じ、そして再び今日、共にブッダのタンマを勉強する同朋の前に座ることができたことを幸福に思います。今日は、私が人間同朋に対して行なう義務と信じている講義をする機会なので、特に嬉しく感じます。そして一般に理解でき、前回の講義と関連しているタンマの項目にするべきと、考えています。

 今回特別な決意で、努力して『ナッティ サンティパラン スッカン=静かさ以外の幸福はない』というブッダの言葉を選びました。この教えは、理論にも実践にも使うことができ、タンマの実践の最も低い段階から最高の段階まで、在家も出家も使うことができ、世俗的な面にもタンマの面にも使うことができます。このように述べるとみなさんは、何通りかの違う感じ方をなさるかもしれません。

 「低い段階や世俗の段階では、静かさから生じる幸福はない」とか、「世俗の段階の人たちは静かさに興味を持つ必要はなく、高い段階のタンマの実践者になってから関心を持つべきだ」と考える人がいるかもしれません。そういう言葉をよく耳にします。しかし中には、述べたタンマの言葉を、興奮するほど喜ぶ方がいるかもしれません。そうでしたら、とりあえずその気持ちを抑え、興奮を抑えてください。

 そして心を「静かさ以外に幸福はない」と、私がこれから説明する要旨にしてください。静かさと言うものにはいろんな段階があり、それ以上に本物と偽物があります。静かさという言葉を、少なくとも初歩の段階の輪郭程度を理解するためには、簡単にお話した要旨の段階の真偽を探すために道理で熟慮すれば、段階的に静かさを知ることができます。

 静かさの言語的な要旨で述べれば、当然煮えたぎった物が静まるという意味です。煮えたぎるのは苦の側、あるいは私たちが仮定で苦と呼ぶ物で、治まるのは幸福の側、あるいは仮定で幸福と呼びます。

 静かさの抽象的な意味は、薄くなること、あるいは願望が消えることを意味します。人は誰でも望みがあり、その願望が萎んだ静かな状態にするために、望みに応えるものを探したい願望があります。これは世俗の側の意味の静かさです。

 タンマの側の意味は、願望が生じたら、望みに応える物をあてがわないで、その望みの根を断ってしまう方法を探します。これがもう一つの静かさです。つまりタンマの側の静かさが本当の静かさで、ニセの静かさに分類される世俗の静かさと反対です。本当の静かさは、当然本当の幸福にします。同じように、偽の静かさは同じだけ、偽の幸福にします。

 本当の静かさとニセの静かさを理解する簡単な例えは、人が腹痛になると、苦が現れたと捉え、腹部の神経を鎮める薬を飲むと腹痛は治ります。しかしニセの方法はすぐに同じ症状、あるいはもっと悪い症状が現れます。次に腐った物を下す薬、あるいは腹痛の根源を完全に断つ薬を使えば、腹痛に対する処置として本物です。しかしこれは物質的な例です。

 タンマの面も同じですが、緻密で複雑なだけです。要するに、静かさには本物と偽物があります。世界の側には静かさはない、あるいは静かさから生じる幸福はないと理解している人は、世界の静かさ、あるいは偽物の静かさを見過しているからで、本当は同じ静かさです。世界の物も、最低の世界の物も、幸福は静かさから生じると言うことができます。

 たとえばある残虐な旦那が、怒りで自分の下僕を殴れば、満足、あるいは幸福と呼ぶものを得れば、イライラが治まって静かになります。しかしそれは偽物の静かさです。

 だから彼の幸福も、哀れな偽物になります。しかしいずれにしても、満足、あるいは幸福と名がつけばどんな種類も、当然静かさから生じるという要旨を掴むことができます。静かさが本物なら幸福も本物で、偽の静かさなら、その幸福は哀れです。この理由で「静かさ以外に幸福はない」というブッダの言葉を、敢えてもう一度主張し、詳しく熟慮します。

 なぜ静かさの外に幸福はないのでしょうか。それは、他の物は心の望みや願望を埋める、あるいは脅す、あるいは根を断つことができないので、私たちが幸福と仮定する味を生じさせないという真実があるからです。様相を熟慮すると、静かでない物、あるいは赤々と燃えている物は、当然消えるまで燃え続けなければならないと見えます。

 他方の静かな物は反対で、静かな水は流れず、静かな風は吹き荒れず、静かな火は燃え上がらず、静かな土は焼き炙りません。流れる、燃え上がる、あるいは焼き炙るなどの自然の要求は、心が無くても、自然の要求の一種なので止まれません。止められればその分だけ静かです。生き物、特に心のある動物の流れること、燃え上がること、焼き炙ることは、それ自体、当然少しも幸福ではないと見えます。

 もう一つすべての物は、常に静かさに吸い込まれます。反発すれば、つまり静かさになろうとしなければ、惑星のように走り続けなければなりません。中心にある太陽がいろんな惑星を引き寄せ、惑星の抵抗が太陽の周りを走らせています。

 太陽と一つにならないうちは引力に侵害さているので、引き寄せられている間は、回転し続けなければなりません。それは流れであり、混乱であり、静かさがなく、そして錯綜した混乱が生じます。

 名(抽象)の物も同じです。すべての名と形(具象)は、静かさの引力に引き寄せられています。しかしそれに抵抗する力があるうちは、静かになることができません。それでも静かさの引力から解放されないので、苦あるいは混乱があり、静かさと一体になるまで永遠にあります。

 もう一つ、反対に今混乱している物の側から見れば、まだ足掻いているすべての物の自然は、静かになるために足掻いていて、他の理由ではないことを発見します。足掻きの様相や形は違っても、静かになれないうちは際限なく足掻き続けなければなりません。

 政界の人間の足掻きも、国の静かさのためです。私たちがビックリ仰天する、あるいはみんなで撃退しようと考えるほど危険に見える教義も、静かでないことが根源にあります。他の方法、あるいは手本がその時代その土地にふさわしくなければ、世界を静かにするもう一つの方法の提示として世界に現れます。

 戦争は理想的な静かさへの出口を探すため、あるいは必要に迫られた国々の足掻きです。国、あるいは個人の経済は、バランスを求める足掻き、あるいはもう一つの意味では、生活物資面の静かさです。服装は、おしゃれとしても礼儀としても、すべて、動物にもある、美しさを自慢する本能の足掻きです。学習は、見たい知りたい本能の足掻きで、生まれた時からあり、そしてどんどん強くなります。

 食事や睡眠は、発展したい、再生したい本能に明らかに見ることがでる苦闘です。これはすべての動物の重要な意味です。性の営みは、心の一部分の要求を止める物を探す、あるいは性殖本能の求めによる無意識の足掻きです。恨みで人を殴ったり怒鳴ったりするのも、イライラや憤怒を吐き出して静かさを求めるからです。

 動植物の在りようを見ると、同じようにすべての種、あるいはすべての個は、静かさを求めて足掻いていると見えます。食餌を求めることも、成長も、すべて無意識に静かさを求める足掻きだからです。動物も植物も、知っているのは食べ物を探すことと成長だけですが、その成長は、成長が止まるため、育つ必要がなくなるためです。

 私たち人間も、食べる必要をなくすために食べる、食べるのを止めるために食べるとあまり知らないように、それ自身は知りません。ほとんどは満足するために食べると感じます。だからその足掻きは、完全に自分を忘れるくらい重くなります。

 太陽や月など、動物でも植物でもないすべての自然について詳しく見て行くと、すべては自然の足掻きの現れでしかないと気付きます。何らかの足掻きがなければ、私たちの前にいろんな現象となって現れることはできません。

 砂利などの命のない物の足掻きは、無常の法則、あるいはその物の変化の威力下にあります。個々の変化の状態で測れる時間の足掻の威力で、どれだけ時間が足掻いたと言います。時間の足掻きは、時間の外にある「時間の静かさ」を求める足掻きであり、それは無為の物、あるいは涅槃です。

 だから時間の威力、あるいは自然の変化の法則の威力下にある間は、いつでも、足掻く必要のない出口を探すために足掻かなければなりません。気づくか気づかないかは、特に勉強しなければならない問題です。ここでは、あらゆる物は静かさを求めるとだけ結論します。本当の幸福も偽物の幸福も、静かでない分だけ幸福がありません。

 人間や動物や植物、すべての自然の足掻きは、常に何らかの望みを静めるためです。本当は命のない物の望みも、命のある物の望みと同じで、違うのは、命のない物は、望みを感じないだけです。それは、望みは幾重もの他の原因によって生じる結果である、一つの反応にすぎないからです。

 ここを離れたい望みなどは、ここにいて、ここから離れるように押す力である、何らかの刺激を受けた結果です。刺激を受けた物に心があれば感じ、いろんなことを考えます。ここから離れなければならないことをその人の望みと呼びます。その心が非常に劣るレベルの自然、たとえば植物、あるいは半分植物で半分動物の生物の名(心)なら、人間のようにハッキリと感じませんが、それも望みと見ます。

 たとえば植物が日光を遮られると、日陰を避けて日光を求めたいと望みます。命のないすべての自然は、もっと薄い形の望みがあります。その命は、私たちが命と呼ばないくらい低く、まだ眠っている命だからです。しかしそれでも、押される法則の下にあります。

 あるいは、必ず「ああなる。こうなると」いう形になる反応があり、それらに感覚があれば、その物の望みです。だから「すべては一つの法則、つまり変化させる、あるいは押す法則の下にある」という項目について熟慮すれば、命があってもなくても、すべてこの反動を受け取っていると見えます。これも仮定で望みと言い、同じ足掻きです。

 つまり何の違いもない、変化させられることの停止、あるいは押されることが停止するのを求めて足掻きます。それは変化、あるいは押されれば変化し続けなければなりません。言い換えれば、その後足掻きがない状態で停止できる所へ到達するまで、絶えず進化し、それをタンマの言葉で涅槃と言います。つまり変化させる原因と縁のあるすべての物が、静かさに入る地点です。

 これらの物の中で際限なく足掻いて循環していることは、終焉、あるいは静けさ、あるいは本当の静かさである涅槃に向かって旅をするのと同じです。しかし途中では、まだ知識が非常に少ないので、出合うのは、ニセの幸福にする偽物の静かさです。すべては、明らかな知識である自然が、その動物、あるいはそのサンカーラ(行)にどれだけ生じるか次第です。

 考えが少しずつ増えれば、偽物の静かさに出合っても、まったく静かさに合わないより良いです。そして涵養水のような静かさは旅に必要なので、ニセの静かさ、あるいはどんな静かさも必要と見なします。そしてニセ物でもダイヤや宝石や金と呼ぶように、同じ静かさと呼びます。ニセの静かさに出合った人の知性や知識で、自分が信じるようにいろんな物を仮定します。

 ある人の「静かな心」は、小さな子供に囲まれて邪魔をされないという意味だけの人もいます。その人は、それだけの静かさしか知らないからです。それでも、更に高い静かさに出合うまで、その命を足掻き続けさせる潤滑油になるので、良いです。ここで、静かさという言葉を、「怠け」や「じっとしていること」と解釈するほど誤解している人がよくいる、ということも知っておかなければなりません。

 この言葉をハッキリ理解するために、私が冒頭で述べたことを思い出さなければなりません。静かさとは、蒸し暑い望みを消す物があるという意味です。そして、毎日生きているだけで、誰でも、人間として生きる重要な縁である静かさに依存していると分かります。詰まらない用事をするにも、静かさは、義務を行なうのを助けてくれます。怠けさせるのではありません。

 学生が試験に受かりたければ、静かに勉強ができるように自分の望みを静めなければなりません。勤勉な学生の心を詳細に熟慮して見れば、試験に受かりたい努力が、一時激しく生じることに気づきます。それはその人が考える空中楼閣を築く夢を沸騰させます。それでも、何としても試験に受かりたければ、一時はすべてを忘れて勉強に専念しなければなりません。

 試験に合格したいと渇望しても、しばらくはじっとしているよう自制して、静かに勉強しなければなりません。これが静かさの一つの形です。段階的になっていて、どのレベルもその人を満足させ、快眠させます。

 農家は自分の農作物の結果を、静かに待たなければなりません。朝種を撒いて、その日の夕方刈り取りができる訳はありません。自分を育てる生活協同体では、自分が完成するまでは、何百回も静かにならなければなりません。公務員は誰でも給料日まで、あるいは昇進するまで、静かに働かなければなりません。沙弥は世界の心配から離れた静かな心で、出家の用事をしなければなりません。

 いろんな仕事ができるようにしてくれる静かさは、述べたように本当の静かさに傾いた静かさですが、まだ完璧な本物ではありません。まだ抑えつけ、脅さなければならない、そして脅している間だけの一時的な静かさだからです。この種の静かさはタンマの経過になり、望みに応える物をあてがわなければならない世界の静かさと違います。タンマの側の静かさは、望みを破壊する成り行きになります。

 その望みの破壊には二つの段階があります。宗教でサマタバーヴァナーと呼ぶ力で脅しておく段階と、宗教で「無明を破壊する」と言いう、願望を生じさせる根源である誤解を無くすことで根を断ってしまう、ヴィパッサナーバーヴァナーに属す段階です。

 この二種類の静かさは本当の静かさ、あるいは本物に分類される静かさで、どれだけあっても、結果は良いことばかりです。そして初歩では、最高に厳格な静かさに発展する力である、この種の静かさに依存します。だからここで「静かさは日常的に無くてはならない、使わなければ生きてはいられない物」と結論できます。

 仕事が成功してうっとりする、あるいは満足する度に、それは「静かさから生じた」と言うことができます。本物でなければ、偽物の静かさに違いありません。人間の静かさに関した誤解は、ほとんどの人間は、真実でない静かさを知っています。現代「静かさ」と言うと、いろんな楽しく夢中にさせるすべての物から離れさせ、森の修行者にさせると恐れて停止し、そして後退します。彼らは絶対に行きたがりません。大嫌いです。好きなのは、他の人が世間を捨てて静かな場所へ行き、彼らは陶酔の世界に残ることです。

 しかし彼らに聞けば、彼らも静かさは好きだと答え、そして同じように静かさについて話します。この種の人物は、毎日毎日偽物の静かさ、あるいは初等の静かさ、あるいは何らかの陶酔の中にいても、低い静かさから高い静かさに進歩することを知らないので、「人であること」の試験に、繰り返し落第するに違いありません。勉強して高いレベルに移動しないで、初歩のレベルに止まって回転しています。

 これが「静かさ」という言葉の誤解から生じる、静かさを知らないことです。高い静かさ、あるいは本当の静かさについて熟慮すると、もう一つ誤解があります。つまり人間と動物は本能の一つとして、あるいは他の本能と同時に静かさを求め、時には本能の代表であると、一度も理解したことがありません。

 人間にこのような本能があるのに、他の本能のように増進、あるいは解決して、成長させることができません。それ以上に、使われることもありません。あるいは、必要に迫られた時以外は、使うことを知りません。

 人間が静かさを求めるのは、本当に本能か、熟慮して見なければならない事です。時々私たちは、一人で静かに座っていたくて、誰かに介入され、妨害され、煩わされ、人目に触れるのを嫌がるのは何故でしょうか。しかし時には静かに座っているのが嫌で、いろんなことをしたくなります。だから疑うべきは、どちらが本能の望みかです。

 人間のような心の変化や解決や、心がない動物を観察して見ると、本当の自然で、忙しさより静かさを求めているように見えます。走り回るよりは、じっとしていたいと望み、満腹するために食べ、楽しみで食べません。必要に迫られない限り動きません。(ある種のヘビは、動き回る自由があっても、一日中じっとしています。これは、じっとしていたいか怠惰か、それ以上の意味はありません)。

 その結果、他の本能に強制された時、その要求が現れ、静かでいたい本能は、本性に元々あると見ることができます。そうでなければ、休息はあり得ません。この静かになりたい要求は、常に心の根底にあると見ることができます。一つの望みが叶い、その望が薄れるか治まるかすると、本来の基礎、つまり静かさに駆け戻ります。

 クモは、巣の真ん中で寝ている時間の方が、巣の端へ生き物を捕まえに走る時間より長いように、人間の心も思い出した、あるいは考えついた義務をし終われば、本来の基本に戻り、眠る時までずっと、正常に夢想しています。一つの考えからもう一つの考えに変わる時も、一旦基本の夢想になり、それから変わります。

 だから、小さな夢想に落ちている時間をすべてまとめれば、一日のうち、夢想している時間の方が、夢想から覚めている時間よりも長いと言うことができます。

 人間と関わらずに暮す動物なら尚更、静かな、あるいは夢想している時間は、起きて用事をしている時間よりも長いです。このことから、機会がある毎に心が静かになるのは本能の要求である、という考えが生じます。動物たちは、必要な時しか立ち上がって働かないからです。人が動物よりたくさん働くのは、動物より思考を拡大する方法を作ったからです。そして根源は、静かでないことの仲間である欲望です。

 以上の理由で、人には二つの側面の本能があります。つまり直接静かさと、静かでないことを求める本能です。しかしもう一度緻密に熟慮すると、冒頭で述べた静かでない側、あるいはいろんな足掻きを見ると、偽物も本物も、静かさを求めて足掻いていると分かります。だから私は、主である本能、あるいは心の代表格である本能は、直接でなければ間接に静かさを求めると見ます。

 他の色んな状態がある本能は、間接的に静かさを求めるだけです。つまりそれの欲求を静めるために足掻きます。そしてその欲求が静まることで一旦終わります。例えば食べ物を求める本能は空腹にし、性殖本能は恋い焦がれさせますが、得られれば、基礎である元の状態に戻って静かにしています。足掻きの目的はここにあると見ることができます。

 生じる満足が多いか少ないか、永遠か永遠でないかは、当然静かさの種類が、本物か偽物かによります。

 「静かでない状態の本能は、どれも間接的に静かさを求め、先の目的として静かさがある」と明らかに見えれば、静かさが先にあるのか、静かでないことが先かという問題(卵が先か、鶏が先かという問題のように)が生じることはあり得ません。

 その足掻きは、何らかの原因や縁によって一時的に作られたもので、生じたばかりであり、最終的に静かな状態に戻ると見えるからです。あるいは、その後は原因や縁が作ることができない状態、本当に完璧な静かさ、あるいは涅槃に入ります。

 心は愛欲に落ちやすいという教えを考えれば、愛欲は沈んで眠る場所であり、陸に投げ出した魚が足掻いて水に落ちるように、欲情に落ちるのは、ニセの静かさに転げて行くと見ることができます。その望みは愚かさ、あるいは無明から生じるので、賢くなれば、更に本当の静かさに足掻いて行きます。だからすべての大混乱は、本能が静かさを求める症状と理解しなければなりません。

 静かさを恐れる誤解がなくなれば、本能の要求に追随する静かさを理解し、満足するのは難しくありません。だから静かさの話は難しくない話になります。そして勉強し、行動し、そして幸福になるのは不可能ではありません。

 静かさは、なぜ幸福なのでしょうか。静かさが本当の、そして確実な幸福になのは、本能の要求と一致し、心の欲求や焦りを消滅させるからです。言い換えれば自然の要求と一致します。すべての物は、押す物が何もなければじっとしています。愚かさ、願望、執着、あるいはカンマの結果に押されなければ、人は自然にじっとしています。

 動物も同じで、植物も同じですが、もっと低いです。命や心のないすべての自然は、もっと良く見えます。何も妨害する物がなければじっとしています。風が吹かなければ水は波立たず、木は折れることがなく、すべては静かに静まっています。

 もう一つ均衡を維持する面から熟慮して見ると、静かさは均衡があるので、バランスをとらなくても自然に立っていることができると分かります。均衡のない物は循環が無ければならず、あるいは走り、どちらかに傾きます。バランスを取ること、自分が立てるようバランスを取ることは重い負担であり、混乱です。だから静かでない物、あるいは均衡が無い物は苦です。

 均衡がある時は、均衡を保つ負担がなく、あるのは静かさと軽快さだけです。善と真実と公正は均衡があるので、支える物が無くても自分で立っていられます。本当はこの三つは、ある種の静かさだからです。均衡あるいは静かさがなければ、善、真実、公正になれません。仮定されても名前でだけです。

 均衡、あるいは静かさがあることは、それ自体が幸福です。それは、混乱や苦が消滅した状態だからです。ゴミが散らかっていなければ、片付けてキレイにしなくても、清潔でピカピカしているのと同じす。均衡がないこと、あるいは静かでないことは、歩く練習をしている赤ん坊はバランスがないので、必ず傾き、手を離せば倒れてしまうように、支えや重りが必要です。

 低い例は、心に何らかの愛欲の願望があり、まだ得られなければバランスに欠けるので、欠けている方へ傾いて、混乱や苦になります。均衡が得られればしばらく均衡があるので、一時静かになり、一時幸福で満足します。しかしその種の静かさや均衡はまだ偽物なので、すぐに新しい望みが生まれ、そして絶えず繰り返します。

 いずれにしても均衡のある時は静かさがあり、そして本当に幸福であると見ることができます。しかし本物か偽物かは場合によります。望みが減った分だけバランスが増し、静かさも増します。

 もう一面から熟慮すると、静かさは、すべての物の終りということに気付きます。何であれ終点に到着しないうちは、まだ旅を続けなければなりません。あるいはまだ終点が見つからないうちは、繰り返さなければなりません。止まれないことは苦です。止まれることは幸福、あるいは静かさです。人にとって死は、まだ本当の静かさではありません。死は、昼と夜のように、一つの部分が終わっただけだからです。

 そして昼と夜は違いますが、時間が過ぎて行くことに違いはなく、昼と夜は正反対と言うことはできません。昼の時間も夜の時間も、矢のように過ぎて行くからです。だから輪廻の夜に譬えられる死は、まだ静かさ、あるいは停止ではありません。これを良く理解するために、ある物を思い出さなければなりません。それは時間の威力の上にあり、繰り返しの輪の外にあり、死もなく、生まれることもなく、過ぎて行く時間もそこにはありません。

 火葬に行くといつでも「すべてのサンカーラ(行。または心身)は無常であり、生まれれば衰退するのは当たり前。生まれれば必ず消滅する。それらのサンカーラが静かになることが幸福」というタンマの言葉を聞きます。ほとんどの人は、死はサンカーラにとって静かさと理解しています。本当は、その時現れた死は、無常の一コマである消滅にすぎません。

 そのサンカーラは、別の状態でまだ循環するからです。サンカーラの鎮静は、時に関係なく在るので、生きているうちにあるかもしれません。つまり死んでも死ななくても関わりありません。時間の威力下にある物は、まだ終わることができません。

 普通の人の感覚の死は、まだ時間と密接に関わっているので、サンカーラが鎮まる国(涅槃)のサンカーラの鎮静ではありません。ただ墓に入るだけの死で、それは精神の旅の一区間でしかありません。その精神が終点に到達し、そして本当に静かになった時、本当の幸福があり、遊びの静かさなら、死も遊びの幸福で、本物ではありません。

 終点まで行けば捕縛する物から出られます。静かさに到達したサンカーラは、当然一般に「生まれなければならず、死ななければならない」と容認されている捕縛から脱します。静かさは幸福でなければなりません。静かさは終点へ行くこと、捕縛から脱すことと、簡単に証明できるからです。

 静かさは、仏教の一般論理で、学習の部分は、学習施設での学習も、仏教教団員は「体と言葉と心の静かさ」を学習し、学習するすべての項目は、これに集約されます。実践である本当に行動するのも、仏教教団員は、「体と言葉と心の静かさ」のために実践する努力をし、すべての実践方針は、ここに集約されます。

 実践の最終的な結果も、「体と言葉と心の静かさ」である結果を受け取ることを意味します。体の静かさ、言葉の静かさ、心の静けさの三つは、本物の静かさである、望みを削り落すことで、望みに応える物を探してあてがい、しばらく静かにさせるのではありません。これは偽の静かさです。

 言い換えれば、静かさは仏教の characteristic だけに見られる特徴です。どんな行動・発言・考えも静かさのためでなければ、仏教のタンマヴィナヤ(法と律)ではないと知っておくべきです。静かさは、明らかな知識、純潔、そして幸福と関わりがあります。

 だから静かさがある時はいつでも、すべての物を真実のままに明らかな知る知識があり、静かさがある時はいつでも、純潔があります。純潔でなければ静かにならないからです。静かさがある時はいつでも、述べたように混乱がないので、当然幸福を意味します。以上の理由で、自分を苦しめることも、他人を苦しめることも含まれていないという意味で、そしてここで言う幸福は、本物の静かさだけです

 仏教の教えは、四聖諦など色々あると聞いたことがあるのに、なぜここでは静かさなのかと疑問に思われる方がいるかも知れません。それは、名前が違うだけで同じ物です。苦と苦の原因は、根源である無明の威力でギラギラした側です。苦の消滅である滅尽と、八正道と呼ばれる滅苦の仕方、あるいは道は、静かさと静かさへの道です。

 だから静かさという言葉だけが仏教の要旨と言うことができます。あるいは仏教は静かさの話である真実、宇宙を群れで駆けているすべての物の科学の原則話であり、宇宙全体を掌中に収めることができる話です。

 そして本当にその静かさに到達できれば、その後どんな困難もありません。本当の静かさは至る所にありますが、私たちには見えません。静かさはどこででも見つけられる物です。その静かさは、世界の様々な混乱の裏に隠れて世界を守っている、偉大な威力です。世界は時々火のようになりますが、本当は少しも凶悪な出来事ではありません。

 すべての宇宙と比べれば、一つの世界は、一ツマミほどの小さな物だからで、人間が宇宙の「大きな自我」である静かさを知らなければ、世界を巨大な物と見ます。そしてついでに世界の様々な混乱を大きな物と見ますが、本当は、宇宙の静かな部分の一億分の一にもなりません。すべての戦乱の爆音は、人間があまり聞くことがない「静かさの音」ほど大きくありません。

 世界の大きな自我である静かさを捕まえられる人がいれば、静かさの音が聞こえ、これほど大きな音はありません。捕まえられなければ、音があると知りません。ラジオの電波は、受信しなければ聞こえず、至る所に放たれていても、受信しなければ、ラジオ波に音はないと感じてしまうのと同じです。

 私が静かさを「宇宙の大きな自我」と呼ぶのは、自分がある言い方をすれば、世界、あるいは宇宙を支配する偉大な威力であり、どこにでも同じ物が拡散していて、いつでもどこでも、目がある物は何でも見つけることができ、そして混乱の背後にある静かさを指すべきだからです。どんな物の味も、静かさの味、あるいは静かさから生じる味以上に良い味、高い味はありません。

 しかし静かさに出合ったことがないので、味わったことがなく、何よりも素晴らしい味と知りません。深く世界に沈んでいる人が静かさについて話す時は、苦い下剤を飲まなければならないような気持で話し、いつも話していても、静かさの味を前もって味見することができないので、それはどんな味がするか、正しく推測できません。

 世界が最高に良い味と見なしている何らかの形・声・臭・味・触の味は、時々生じるタンマが沁み渡ることから生じる味とは、比較になりません。本当に最高の静かさから生じる味を持ち出すまでもありません。すべての物の偉大な自我と呼ぶべき静かさは、誰の心に現れても、その人は最高に大きな音を聞き、最高に広大な物を見、そして最高の味に出合うと、私は信じます。

 どうぞみなさん、この世界で最大の音(たとえば火山の噴火の音など)も、世界中には聞こえないと考えて見てください。地球の一部分だけですが、静かさの音は、すべての宇宙に響き渡るほど大きく、そして休まず聞こえています。「すべての物は無常であり、苦であり、無我ですよ~」と叫んでいる声です。世界に驚き陶酔している人の、カメやモグラのような愚かさを教え、涅槃あるいは静かさはすべての人のためにどこにもあると、そしてここにもあると知らせています。

 内面の世界の真実を見ることで、自分の目や耳を遮っている世俗の物を剥ぎ取ってしまえば、その時静かさの声(Voice of Silence )が聞こえます。そして世界のどこでも同じ声で、どのように響き渡っているか、すべての味よりもどう素晴らしいか知ります。人間の心が貪りや怒りや愚かさに支配されなければ、生老病死は無意味で、それならば、宇宙の大きな自我である静かさの笑い声より、明るく愉快な物があるでしょうか。

 私たちが内面を見れば、静かさは、いつどこででも何にでも見つけることができます。私たちがすべての物に発見できる静かさは芯材、あるいは世界の物が掴まる骨組み、あるいはすべてのサンカーラ、つまり体と心といろんな感情のようなものです。世界の物、あるいは循環して流れているこれらのサンカーラを全部取り除けば、残るのは静かさだけだからです。

 だからまだ自我や自分の実体が欲しい人は、消滅することがない静かな物をお持ちなさい。何らかの体や心の部分(を自分)にしなければ、静かさに会う、あるいは到達できる望みがあります。少なくとも「宇宙の大きな自我」、つまり本当の静かさの大きな声が簡単に聞こえます。頭や耳やいろんな物の固まりである自分と考えるより良いです。

 静かさに出合うのは、私たちと私たちに関わる物も含めたすべての物の本質に出合うのと同じです。いろんな混乱はただの皮で、真実も確実なものもありません。なぜ私が、静かさは宇宙を支配している威力と言うのかは、そのように偉大な威力の物はないからです。

 すべての物に隠れていて、洪水で流されることも、火事で燃えることも、風で干からびることもありません。時間で変化せず、切断、あるいはどのような変化をすることもありません。誰でも手に入れて、世話にならなければならない物で、無間の宇宙の至る所に響き渡っています。すべての物がどれほど混乱させ、悩ませても、この区域、つまりその偉大な威力の区域に入れば、必ず鎮まります。

 いつかは必ず、宇宙も神様も消滅しなければなりませんが、静かさの威力だけは残ります。それは生まれることも消滅することもないからです。何も作らず、そして何物にも作られないでので、永遠、あるいは不死です。どうぞみなさん、静かさから後退しないでください。あなたの受信機のスイッチを入れて、静かさの声を聞いてください。美しい楽譜であり、至る所に絶えず鳴り響いています。

 みなさん、戒・サマーディ・智慧を、ブッダが下さった受信機として使ってください。戒・サマーディ・智慧は、静かさへの道です。みなさんが当然何十回も聞いたことがある戒・サマーディ、智慧は、最高の静かさに導く道です。同時に、それ自体も低いレベルの静かさです。戒の段階は、煩悩の威力で経過しない、体と言葉の、本来の正常な状態です。

 戒は、本の正常な状態を維持する意図で、姿を表すことができます。決意した人は、戒が身についているよう注意してください。注意しなくても、本当の戒があると言うものに変化しません。戒を犯す、あるいは悪い戒は、煩悩が燃え上がることで、静かさを消滅させ、行動や言葉に出てきます。まだ戒があれば、正常な静かさがあることを意味するので、初歩の一つのレベルとすることができます。注意深くする意図がある間は、あるいは習性になり注意する必要がなくなれば、順調に行きます。

 私たちは後者の戒、つまり習慣になり、本性の普通の状態になっている戒があるよう努力するべきです。そうすれば勉強し始めの子供のように必死で文字を憶える必要はなく、文字を知っている子供や大人のように利益を受け取れます。

 戒のある人も、本性の普通の状態として戒があれば、落ち度はなく、聖人が称賛し満足する戒です。そして初歩の本当の静かさに到達したと言われ、次の段階である簡単なサマーディに進む機会があります。体と言葉が静まり、妨害する害がないので、心は簡単に静まります。

 サマーディは、悪い気持ちが生じて妨害しない、心が正常な状態で、明るくスッキリしていて、いつでも学習と、深遠なタンマの味を熟慮するのにふさわしいです。冷静さは心の安楽であり、生きているうちにする本当の静かさの味の味見です。

 ここでの悪い気持とは、煩悩が燃え上がることを意味しますが、体や言葉に表出するほどではなく、心の中でくすぶり、あるいは混乱しているだけです。特に五欲の混乱した気持ち、恨みの面のくすぶった気持ちで、眠気で麻痺し、散漫と倦怠で揺れ、そしてためらいによる闇で、確かな物は何もありません。

 これらの悪い気持ちは心を妨害して、幸福を台無しにするので、管理する秘訣が無ければなりません。直接強制する方法も、静かさの面で満足するよう大切に維持する方便もあります。正常な状態に静まっていれば、高いレベルのサマーディがあると言います。

 すべての感覚が静まり、呼吸、あるいはすべての循環の流れが止まって、死のように感じるほどのこともあります。心をこのようなサマーディにする要旨の教えは、初めの段階で、心が自分の好き勝手に足掻き回るのを止めさせます。

 それは通常悪い方へ足掻いて行くので、新しい感情であるサマーディに掴まらせます。アーナーパーナサティなどをするのは、呼吸などに掴まっていさせるためです。

 しっかり掴まっていられるようになったら、掴まっている感覚を少しずつ緩め、次第に呼吸や血液の流れなどが軽くなって止まるまで、あるいは止まったようになるまで、自分でできる所までします。まだある感覚は非常に少しで、ほとんど感じないで、死んだように見えます。

 このような行動で中程度の煩悩、つまり行動や言葉になって表出するほどではない心の悪は、完全に抑制されます。しかし微細な煩悩、あるいは煩悩の種はまだ深くに隠れているので、ヴィパッサナー、あるいは別の言い方では智慧、あるいは智(ヤーナ)の力で、もう一枚剥がなければなりません。

 今言った種をすべて完璧に絶滅させれば、最高の静かさに出合い、決定的なレベルの結果を受け取ります。その後、苦はまったくありません。

 智慧、あるいはヴィパッサナーとは、真実を洞察すること、あるいは「静かさの声を聞くこと」です。そして心がサマーディになった時だけ、洞察が生じます。洞察は、強制的に生じさせることはできません。

 できるのは、いつか洞察が生じるまで、すべての物を熟慮する状態で、常に良いサマーディがあるよう大切に維持するだけです。最高レベルの洞察は、無明を消滅させます。つまりすべての煩悩の種である愚かさを絶滅させることができるので、煩悩は、二度と生じることができません。

 それ以後は、戒もあり、サマーディも正常に、そして完璧にあり、洞察は本性の最も深い所、つまり心の最も深い基本部分の、煩悩の種だけが隠れている寝床にある微細な種を絶滅させるために、深奥まで照らす強い光のようです。完璧な洞察の段階で受け取る静けさである結果はどのようかは、当然、筆舌で表せないほど深遠です。 (つづく)




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