次の問題は、通常私たちは、自分の心をあまり支配できません。あるいは当然できない人もいます。もしそうなら、いつでも内面の世界を見て、休まず見えるようにするのは困難です。この障害を除くために、どこにもある障害を解決するために、そして自分を援ける物として知っておくべき範囲の、一般人にふさわしい簡単な心の支配の仕方を知らなければなりません。この段階を学ぶ人の希望にふさわしく、これからおまけとして特別に講義します。

 心の訓練、あるいは心を支配下に置くことは、ごく当たり前のことのように、最高に重要ですが、関心のある人が少ないので、難しいこと、あるいは不可能なことに見えます。それは、本当は物質主義に傾きすぎた世界の感覚でしかありません。「当たり前のこと」と言うのは、本気で練習すれば、外部のこと、あるいは体のことと同じように、段階的に達成できるからです。

たとえば体育のような体の訓練は、正しい技法で練習すれば、珍しい技ができます。どんなに珍しくても、良く見れば、当然最高に当たり前と見なします。人間に具わっているべき体力のある人は、当然練習できます。しかし私たち全員がスポーツ選手でないのは、好きでない人も、必要のない人もいるからです。いつも練習すれば、珍しく、そして華麗な技ができるようになります。正しい方法ですれば、練習の初めに満足があり、中間では努力があり、休まずすれば、最後には成功に巡り合います。

だから、心の訓練も体の訓練と同じように、当たり前のものと言います。つまりたくさん練習すれば、そして正しい方法なら、同じ確率で結果が生じます。最も重要なことと言うのは、そのようにすることは、私たちを幸福、あるいは非常に満足させる安楽に到達させる、人間であることの極致に到達させるからです。

心を支配する訓練の要旨を、ごく普通に言えば、あるクルクル変わり易いものを注意深く維持するだけです。理解しやすいように、ごく普通の話を例に説明したいと思います。ある人が、猿に芝居をさせてお金を稼ぎたいと思えば、当然その人は猿を捕まえて来て訓練しなければなりません。猿は落ち着きがなく、人を欺き、凶暴な動物だということは良く知られています。猿を訓練、あるいは支配して、その時不安定な動物に見える猿を、完璧に命令に従う動物にするのは、当然難しく、そして滑稽です。しかし難しいからこそ人は見たがり、だからこそ簡単にお金になります。

訓練の大原則は、猿を捕まえた段階では征服して支配すること、あるいは、望まない行動を絶対に止めさせることです。征服して支配することができれば一段階目です。次の段階では、させようと思ういろんな珍しい芸をさせる訓練です。望みどおり行動できれば、結果は見せ物の料金の獲得が確実に期待できます。同じように、心は変わり易く軽く、極めて素早いです。みなさんも聞いたことがあるように、ブッダも猿に譬えています。心は非常に軽く、非常に速く、非常に変わり易いからです。

おまけにその変わり易さは、低い方へ転げて行く類の変わり易さで、高い方へ登ろうとしません。魚や一般の水棲動物を捕まえて岸に投げ出すと、非常に暴れます。それに水に戻るために暴れ、陸へ上がろうとしません。心も同じです。普通は変わり易く、そして低い方へ転げて、水つまり形・声・香・味・触、あるいは世界と呼ぶものに落ちます。だから初めの段階で、支配下に置く訓練をします。つまり水のような低い感情を捨てて、自分で決めた何らかの高い方の感情の中で静かにさせます。

このようなサマタバーヴァナー(心を鎮めること)のレベルの練習をすれば、脅して恐れさせる訓練をして、一段階支配できた猿と同じです。それから二段階目の訓練、つまり、ヴィパッサナーの段階に例えることができる、他の華麗な芸をさせます。それから、見物客からお金を集めることに譬えられる、決意した聖果の段階です。猿を征服する調教法は、まず信頼できるしっかりした杭を打ちこんで、猿を紐で杭に繋ぎます。心の訓練にも、同じ様に杭が必要です。

一般に知られている、そしてブッダが推奨しているのはアーナーパーナサティカンマダーナで、非常に普及しているカンマダーナ(業処)です。このカンマダーナは呼吸を杭にします。だから快適便利で、いつでも、どこででも練習できるカンマダーナです。私たちは、普段いつでも呼吸をしているからです。入って来て出て行く呼吸経路が「猿を繋ぐ杭」です。紐つまりサティで、猿つまり心を繋ぎ、棒つまり理性で、猿を鞭打ちます。サティは呼吸を意識する道具で、ぼんやりしない分だけ猿を繋いでいる紐は切れません。だから猿が杭から外れて、森つまり世俗に戻れないのは当たり前です。

もう一つ、森で捕まえて来たばかりの野生動物、たとえば象などは、調教し始めたばかりの時は非常に抵抗すると知らなければなりません。みなさんも見ているように、鎖が足や首の肉に食い込んで、骨に届くほど抵抗します。普通に森の中にいる時は暴れません。調教される時に見せるような状態はありません。そして調教が終われば抵抗を止め、飼い主の役に立って恩返しをする準備のある、大人しい象になります。

心も同じです。世俗の感情と混じっている時は、少しも凶暴に見えませんが、捕まえて訓練する杭に縛りつけると、恐ろしく、そして奇妙な様相で暴れます。自分はサマーディの練習をする資質が無いのではないかという考えを生じさせ、その人の決意と努力を挫くような暴れ方をします。縛られ、鞭打たれた時の心の暴れ様は、明らかに恐怖や弱気、あるいは動揺を生じさせる状況で、紐つまりサティが強くなければ、その時挫折することもあります。

だから紐あるいはサティをしっかり使って、興奮させ、驚かせて恐れさせる、生じてくる症状に動じないようにしなければなりません。初めから心に銘じておき、そして捕まえたばかりの象のように当たり前、と見なければなりません。森で本能で暮している象は、調教している時のように暴れません。しかし何の役にも立たない象なので、一時の抵抗や大暴れを投資して、森の象を村の象にすれば、後は快適です。

よく訓練された心も、当然反対の状態があり、つまり支配でき、そして静かさにする一方なので、くるくる変わる心ではなく、純粋で、純白で、柔軟で、しとやかで、心の仕事をするのにふさわしくなります。演奏したり踊ったりする準備のある猿と同じです。命令を聞くように訓練する段階を、タンマの言葉でサマーディ(三昧)、あるいはサマタカンマダーナ(止業処)と言います。

この段階の結果は静かさで、見て快く、従順で、そして次の段階の練習に慣れていることです。その後は、素晴らしい智慧を生じさせてすべてを洞察するために、訓練された心をすべてのタンマを熟慮することに傾けます。何も掌握、あるいは執着しないことは、智慧、あるいはヴィパッサナーカンマダーナ(観業処)のレベルとされます。成功して聖向聖果になり、ローグッタラの幸福に到達するまで、再び低劣や欠陥に戻ることはありません。

呼吸を感情、あるいは基準にして練習するサマーディの形は、簡略な方式があります。つまり最初にサティを呼吸に固定します。人が何かを何かに繋ぐことを「ヴィダカ」と言います。ここで言うヴィダカは、思案するという意味ではありません。意味のない(あるいは理屈を探す熟慮という意味のない)何らかの感情の中で、サティがしっかりと意識している状態を意味します。心が自覚の力で、感情つまり呼吸と関わり続けなければならないことを「ヴィチャーラ」と言います。

ここでヴィチャーラと呼ぶ状態は、熟慮して理由を探すという意味、あるいは智慧で考える意味ではなく、心が感情(心の概念。心が捕えているもの)から離れずに親しんでいる状態です。猿を繋ぐことに譬えれば、ヴィダカは杭に繋がれていることであり、ヴィチャーラは、猿が飛んだり跳ねたり、いずれにしても杭と関わっていることです。まだヴィダカとヴィチャーラだけの段階も、ボリカンマと呼びます。ボリカンマが上々の成り行きになり、そして心の自然の法則が、続いて生じるべき理由を生じさせれば、心は支配されているという感覚が生じます。

そして「ピーティ(歓喜)」と呼ぶ一種の満足が沁み渡ります。体が隅々まで快適で、支障や気づまりがないと感じた時に沁み渡る満足です。体の熱は静まり、まったくないように感じるほどです。呼吸は次第に滑らかになり、呼吸していないようになります。神経の興奮は微塵もありません。タンマの言葉で「ピーティ」と呼ぶ心地良さ以外はありません。当然内面に沁み渡る穏やかさという意味だけで、心が舞い上がる意味や欣喜雀躍する意味はありません。

そしてこのピーティに、幸福あるいは心がスッキリする感覚が重なっています。この感覚をスッガ(幸福)と呼びます。それからは、この感覚が良い状態で安定するよう管理するのが義務です。なぜなら猿が踊るのを止めれば、二度と紐あるいはサティが引き寄せられることはないからです。だから同じ状態を維持するだけです。本当は、最初から融合し始めているのを、心は本当に終始一貫一つの感情の中にあるとハッキリ現われるまで、明らかにします。

そうすればそのサマーディは、一つのレベルの十分な成功に達したということです。そしてこの安定を「エカッガター」と言います。そしてここで、ヴィダカ・ヴィチャーラ・ピーティ・スッガ、そしてエカッガターが一つに調和した結果、サマーディの中で安定している間は、その人がサマーディから出るまで何も介入するものはないと知るべきです。

次の練習は、早くサマーディに入り、居たいだけ長い時間いて、好きな時にサマーディから出る練習です。大きな幸運を得た人は、どこで何をしていても喜びが沁み渡っているように、普通の時でも、どこへ行こうとどこにいようと、すべての立ち居振る舞いの中に常にピーティと内的幸福に浴していると感じるまで慣れ、あるいは癖になるくらい習熟します。この段階になれば、心の訓練は初禅と呼ぶレベルに完璧に到達したと言うことができます。

これだけでも、その後で智慧、あるいはヴィパッサナーで熟慮をする基礎にすることができます。もし二禅、三禅、四禅の努力をしなければ、それでもいつかローグッタラスッガに到達できます。たったこれだけでも不可能でしょうか。人間の勇気を正しく使えば、難しすぎはしません。実際に初禅のレベルは、それほど緻密ではなく、まだ粗い段階なので、高い根や精神力のある人なら、当然四禅に到達でき、あるいは心の訓練で最高レベルと見なされている無形禅定まで練習できるので、当然、普通の人にできる範囲のことです。

智慧の訓練には、ここまで高い心の訓練は必要ありません。ブッダダンマに到達するには、一般の人について言えば、むしろ智慧の面の訓練に依存するからです。これは、「心の訓練は初禅だけでも聖向聖果に到達できる。そして、禅定のレベルまで訓練していない人もいる」と歴史にある一般の阿羅漢で明らかに分かります。

一般の人にふさわしく、それにいろんな経典で細かく説明されている技巧的すぎるものより簡単なアーナーパーナサティの概要は次のようです。通常私たちは普通に呼吸をしています。サティで呼吸を意識する時は、どれだけ入って戻るか、どれだけ戻ったらどこで吸う息になるか、呼吸の出入りを発見します。これが初めに意識しなければならないことです。そしてすべては自分で感じ、あるいは自分で観察します。探す必要もなく、細かすぎる観察も必要ありません。

意識すると、体が静まることで呼吸がだんだん軽く、あるいは滑らかになるのが分かります。意識できないほど軽くなったら、呼吸が安定し、出入りする呼吸を追うサティを意識できるようになるまで、もう一度意識し直します。そして良い状態で安定したと感じたら、それからはサティで中間点だけを意識します。たとえば鼻先に傷があるように感じると、呼吸の出入りを感じ易くなります。初めのように、呼吸の出入りをサティで追う必要はありません。

分かり易く門番をしている守衛に譬えます。通常守衛は門の所だけを見張る義務しかありません。入った人がどこへ行って何をするか、あるいは出てから何をするかは、守衛の義務ではありません。この段階のサティも同じです。呼吸が定期的に鼻を通過する時、鼻の穴を意識するだけです。これは追いかける負担をなくすためで、言い換えれば、更に静かに滑らかにするためです。

別の譬えでは、赤ん坊を寝かしつける子守と同じです。まだ赤ん坊が眠らないうちは、立ち上がって動くことがあり、時には揺れている篭から落ちることもあるので、子守は注意深く揺りかごを見守っていなければなりません。揺りかごが向こうの端へ行っても、こちらの端へ来ても、常に目を離すことはできません。しばらくして赤ん坊が静かになり、あるいは眠ってしまえば、子守は、初めのようにずっと見守っている必要はありません。揺りかごが目の前を行ったり来たりする時に見るだけで十分です。

初めよりも静かで滑らかです。赤ん坊がぐっすり眠ってしまえば、子守は休憩できます。子守に譬えられるサティも同じです。つまり初めは心がまだ粗いので、サティがボリカンマの時のニミッタから逃げ出す隙を与えないために、サティを総動員して、休まず息の動きを追わなければなりません。言うことを聞くようになったら、あるいは心身が静まったら、決まった時間に前を通る時だけ管理します。いま言った意味の、この二つの中間で意識されている呼吸を、ボリカンマニミッタ、あるいはボリカンマニミッタの時のニミッタと言います。

ボリカンマとは行動を始めることで、ボリカンマ時のニミッタは呼吸です。それは、あと少しで的確に意識しなければならないウッガハニミッタと言う、サマーディになる時のニミッタと違って、普通に外部にあるものです。ウッガハニミッタは、古いニミッタを新しくイメージすることで、心の中、あるいは感覚に見るニミッタです。しかしここでは、実践者の意図というよりは、むしろ意図しないでそうなります。

次は、門番、あるいは子どもが眠っている揺りかごを揺する子守のように意識するサティがある時、つまり正常な呼吸を意識している時は、サティの負担が少なく、管理する意図がなくても管理でき、そして心も大人しく、管理しようと決意した時と同じように言うことを聞きます。ここで、サティは外部のニミッタである呼吸を捨てます。あるいは外部のニミッタである呼吸から解放され、同じ所に同じ形の新しいニミッタをイメージして重ねます。

特にここでは、鼻先の感覚は同じですが、この感覚は初めの頃の、熱中する意図のある感覚ではなく、半分くらいの感覚になります。この感覚は、うっかりしているのでも管理しないのでもなく、体に馴染んでいる、あるいは慣れているサティです。だからここでサティが意識しているものは、ウッガハニミッタが出たり入ったりする前の粗い呼吸ではなく、イメージの呼吸です。あるいは初めのウバチャラサマーディの普通の呼吸を真似て、そこでサティが管理しているイメージの状態です。そしてこの新しいニミッタを、ウッガハニミッタ、あるいは目に焼き付いているニミッタと呼びます。

心がウバチャラサマーディの時のニミッタで、つまり本当のサマーディに近いです。海や、あるいはどこかへ旅行した時に目に焼きついている景色など、心や目に焼きついたニミッタは、しっかり心して長い時間見つめていたので心に焼き付いているニミッタで、見たい時はいつでも、思い出して見ることができます。そして感情を「半分の感覚」という類にすると、その像がハッキリして、意図しなくても心の中で静止することができます。鼻先の感覚も同じで、心や内面の目に焼き付いているウッガハニミッタのようになります。

そしてその時サティが意識しているものは、慣れていることと、心が十分長い間、同じ状態で注視するよう強制されることで、意図せずに自然に作られる「感覚的像」にすぎません。だから二段階目のニミッタ、あるいはウッガハニミッタは、ボリカンマの時のニミッタではありません。共通点は、同じ形、あるいは状態がある点だけです。特にこのアーナーパーナサティをする時、鼻先で意識しようと決めた感覚と、感覚の中の像がサティで意識している所に現れるイメージは同じす。

しかしイメージの段階のニミッタは、一つの特徴があります。それは敏捷であること、あるいは最高にアクティブと言われるように、常に形を変えることができます。次の段階は、意図が非常に少なく、考えを傾ける意図がほとんどなくても、考えが傾き、すぐに途端に変えることができます。

次の段階で、ウッガハニミッタが意識され、そして安定して順調になると、そのニミッタは適当な時間静まり、心も静まり、星や輪、あるいは美しい形の輪などの形に姿を変えます。そしてそこにあるみたいになります。それは人によって違います。たとえば意図しなくても、目の前に星の集りがあるような像が内面でハッキリと見える人もいます。あるいは大きな月が、空あるいは木のてっぺん、あるいは鼻先にあるように見える人もいます。人それぞれです。

ほとんどの人は自然に変化する心の小さな傾きに依存し、時には非常に奇妙な成り行きになることもあります。新しいニミッタが大きく、あるいは小さく変化した時、あるいは出現した当初は行ったり来たりすることもありますが、間もなく時間、あるいは心の環境的要因にふさわしい状態で安定します。そしてその後、最後の段階は変化しなくなります。心あるいは猿が静まって快適になり、二度と変化しないのと同じです。

五つ、つまりヴィダカ、ヴィチャーラ、ピーティ、スッガ、そしてエカッガターと観察できる感覚が沁み込み、いま言ったような状態に溶けあい、心は、次の最高に高いレベルのヴィパッサナーに傾きます。この段階のニミッタをパティバーガニミッタと言います。この時心には、蓋と呼ぶ悪い感情は何もありません。心がこのような状態の時、あるいは心にこのサマーディの味が沁みている時は、悪い感情は生じることができません。

その人がどんな行動の中いても、サマーディの味が沁み渡っていることが、心に悪い感情が現れないように防ぐ十分な力です。それがその人を「私は最高に幸福者だ」とほくそ笑ませます。だからサマーディ、あるいは心の訓練の結果は、ハッキリと二つの結果に分かれます。初めの結果は一種の幸福で、私たちがそれまで出合ったことの無い種類の新しい幸福、心を支配したことがない人が、今見られるように深遠な威力で支配できるようにした価値であり、心を惑わす熱いものである形・声・臭・味・触に依存する必要のない幸福です。

サマーディの幸福は涼しく、非常に涼しいです。水を撒かなくても自然に涼しくなります。涅槃に到達する前の味見、すべての煩悩から解放された味の味見と言うことができます。まだ涅槃が現れていなくても、その人が到達していないのは事実でも、想像を越えた不思議な味を、更に勇敢に探求させる原因や縁になる分だけ、前もって味わわせます。そして「涅槃の味はこの系統で到達できる。これより緻密で非常に高いだけだ」と推測することができます。

練習をしたことがない、あるいはサマーディの味を味わったことが無い一般の人が、前もってサマーディの味を知りたければ、自分に最高に「穏やかな感情」がある時の幸福の味を思い出して、それと比較すれば、前もって推測することができます。どれくらいの味か、緻密さと高さを何倍も増やせば、サマーディの味を推測することができます。同じように、何とかサマーディと涅槃に到達する味を譬えることができます。すべてが一致しなくても、高い部分の知識あるいは真実に、より簡単に近づく道です。

これがサマーディの初めの結果です。仏教の言い回しで一種の「現世での幸福を味わう」と言います。この段階で自分の努力が終わっても、自分の行動は、それほど無駄になりません。

 二番目の結果は、心が良いサマーディになり、ヴィパッサナーヤーナが良くなり、すべての物の真実を明らかに見ることができることです。サマーディは刀の刃を研ぐのと、あるいは鏡を拭いて透明にするのと同じだからです。研いだ刀は良く切れ、拭いた鏡は映して見ることができ、望んだ結果が得られます。心のサマーディとは、静かで、安定して、純潔で明るい心です。そして重要な特徴は、働くにふさわしいことです。あるいはカンマニヨーと言うものは、集中して考えるなど、心の側の仕事をするのにふさわしいです。

普通の人の心はカンマニヤでなく、あるいは仕事、つまりヴィパッサナーをするにふさわしくありません。いろんな感情に陥るのが好きで、可愛い、欲しいという感情に陥りがちです。だから多少は心を訓練する必要があります。良く訓練された心は、最高に良く調教された猿や象のように大人しく、有益に使うことができます。テキパキしていて、忍耐強く、滅多に変化しません。愛は支配し難く、怒りも支配し難く、嫌悪も妬みその他も、すべて心を支配し難く、あるいは心に生じ難いです。

このような感覚になると、心は(愛や怒りなどの感情に対して)嘲笑のようなものを感じます。だから心に、どんな混乱も生じません。悪い感情が束になってきても、そのサマーディに浴している人の心に、混乱を生じさせることはできなので、心は仕事をするのにふさわしく、このように見える状態があり、一般のすべてのものの真実を見る効率が上がります。だからこの種の心を、簡単にすべての行を熟慮することに傾けることができます。みなさんが自分でやって見れば、明らかに知ることができます。

二つの状態に心を調整できれば、つまり生きているうちの幸福があり、そして述べた意味のサマーディの力で、ヴィパッサナーの段階のタンマを知るにふさわしければ、あなたの心は内面を見ることができるということです。あなたは机、椅子、電灯、本、あるいはいろんなものを見ても、同じ状態に見えます。あるいはどっちの方向を見ても、あなたの心は、常に誇らしい爽やかさで微笑しています。なぜなら普通の人は見たことがない内面の世界が見えるからです。

どんな形所縁を見ても、すべて新しく発見した類の発見で、その時、新しい発見をした科学者のような幸福に浴しているのを感じ、そして偉大な真実が、その時突然特別な結果を生じさせます。その後世界の何物も、あなたを嫌いにし、怒らせ、煩がらせる点で目に突き刺さり、耳に突き刺さり、舌に突き刺さり、体に突き刺さるものはありません。あなたを唆して愛させ、心の自由を失わせるもの、心が夢中にさせる点で目を引きつけ、耳を引きつけ、鼻を引きつけ、舌を引きつけ、体を引きつけるものは何もありません。

すべての世俗の所縁は、嘲笑すべきものになります。世界全体は一掴みのようで、そしてあなたの掌中にあります。内面のヤーナで見れば、このように見えます。このように心を維持することができ、そしてすべてを更に強く育てることができれば、立っていても座っていても歩いていても寝ていても、あるいはどこに行こうと、このヤーナが心から消えることはありません。だから最上の心の安定があると見なします。しかしまだ熟練が足りなければ、あなたのヤーナはまだ新しくて弱く、衰えたり消えたりしやすいので、可能な限り注意深く護らなければなりません。

この注意深さについて経典では、生まれたら大皇帝のような権力があると信じている子を身ごもっている妊婦が、偉大な人物である我が子が胎内で死ぬことがないように、精一杯自分のお腹を大切に注意することに譬えています。心を支配し始めたばかりの人は、その時のように非常に大切にしなければなりません。まだ弱いヤーナ、あるいはヴィパッサナーの心は、内面の世界を見始めたばかりなので、この段階では非常に注意をしなければなりません。それがしっかり安定するまでは、どんなに他のものを犠牲にすることも、受け入れなければなりません。

たとえばこれを維持するためには、ある人たちとの交際を犠牲にし、ある場所へ行くことを控えなければなりません。収入、あるいは幾つかの権利も犠牲にできなければなりません。もうすぐ死ぬ重病なら、それらのものを犠牲にしなければならないのと同じです。そして反対に付き合う人を選び、行く場所、嗜むもの、つまり場所と人と、そしてどんな物も選ばなければなりません。そして付き合うなら、気力が増してサマーディを安定させることができる人と交際し、病人が障りになる物を避けるように、特に敵である人や場所を避けます。

 もう一つ知っておくべきは、注意深く心を維持し、心を意識する行動が、あなたを異常な心の人、信頼できない人、一般の人に嫌われる人にすることはありません。あるいは立ち居振る舞いが奇妙で、気づまりで妨害になることもありません。それに、どこかに座って目を閉じでサマーディをしなければならない大変さもありません。というのは適度に熟達すると、心がそのサマーディの形と味である感覚を浴びて、瑞々しくなるからです。初めて行動できた時でも、実践者の不注意で薄れて消えるまで、何日もの間心に沁みています。

普通のことに譬えると、たとえば幸運に巡り合い、何かに成功して高い栄誉を受けるような、何か強烈な喜びがあると、その喜びは絶えず、あるいはどんな行動をしていても心に沁み渡っています。眠る時にもまだ嬉しく、道路へ出ても、あるいは人込みに行っても、だんだん薄くなる原因と縁の力で次第に薄れるまで、心に沁み渡っています。サマーディの味であるピーティやスッガは、よく訓練すれば益々満足するばかりで、そしてその後本性に、あるいは本性に常にあるものになります。

ただの記憶、あるいは記憶の一種になるので、一瞬心で呼び出すだけで、思い出すだけで沁み渡った味が広がって降り注ぎ、そしてすぐに、強いサマーディに入ることができます。だからその後は、簡単に非常にたくさん、そして前よりも早く幸福にできる特別な道具を手に入れたようなものです。欲情や恋愛感情や怒り、嫌悪、嫉妬や妬み等の悪い感情が、その人を支配することはできません。あるいは簡単にはできません。政治家なら、反対政党、あるいは揶揄する政党の悪意の反論を受け入れるにふさわしく、宗教を教える人なら、帰依しない人や揶揄する人たちの悪意の反論を受け入れるにふさわしいです。

あるいはどんな種類の仕事をしていても、いつでも「自分は自分の拠り所」の類の状態を維持することができます。どの協会、あるいはどんな場所へ行っても、自分のサティ、あるいはEquilibriumと呼ぶものを十分に維持する力があります。述べただけで、サマーディである心、あるいはカンマニヨーの心は、世俗の側もタンマの側も、義務である仕事をするのにどれほどふさわしい心かを見ることができます。

 最後にまとめさせていただきます。安定するまで、今見ている非常に良い訓練を受けた心は、生きているうちにみなさんを幸福にできます。あるいはそうすることに長けています。そしてあなたを高度な道徳のすべてに到達するにふさわしい人にします。すべてを明らかに見ること、あるいは内面の世界を見ることでブッダダンマを深く理解するには、基本としてこのサマーディに依存しなければなりません。サマーディが深くなればなるほど簡単に、それだけ早くブッダダンマに到達できます。このパティパダー(道)を一年中、寿命が終わるまで生きる道具にすれば、その時最高レベルのタンマに到達できなくても、すぐ到達できるよう援ける道具になります。これがサマーディの概要です。

 この講義を終わる前に、もう一度繰り返させていただきます。パンニャーヴィムッティ(智慧による解脱)の人たちの道は、大部分は熟慮に依存します。言い換えれば、サマーディより智慧に依存します。あるいはサマーディより智慧のことをたくさんします。だからサマーディのことを知り、そして心を支配することを良く知ったら、重要なことは、智慧の系統を掴み、あるいは冒頭で話した意味の熟慮をしなければなりません。前へ移動して新しい流れを掴む努力をしなければなりません。

つまり心を自由に維持し、激しく反論し合う類の、それまで信仰してきた教義や哲学に夢中になって根を下ろしません。本当のブッダダンマへの到達は、宗派に分けられないので、外部の商標でしかない宗派を信仰しません。真実に対して正しい行動をする人が素晴らしいタンマを深く理解するだけです。それに市場で売っている生活用品のように、本当の品質と一致する商標や宗派の名前を貼ることはできません。個人の内面の話だからです。教義や宗派への信仰は、更に暗くする蓋なので、信仰と誤解から解放されません。

他人から「真人でない。前にはこう言ったのに、今は違うことを言う」と中傷されるのを恐れて、無理に、自分がそれまで信じていた宗派や哲学原理の項目を背負わないでください。頑固な真人は、以前にどんなことを言っても、間違っていても発言を変えようとしないので、反対に無益な偽りを死ぬまで背負います。真人ではありません。ブッダダンマを理解するには、純粋な真人、つまり自由な心の人が求められます。正しさと善を宗派とし、聖向聖果への到達を商標にし、いろんな行動の手本や、いろんな捏造を宗派のマークにしません。

だから初めの段階で、このようなディッティマーナ(邪見)の威力による信仰を、一つのレベル全部を捨てなければなりません。勇敢に犠牲を受け入れ、自分がかつて主張していた見解や意見を、今捨てることを恐れず、恥ません。それは、信仰に迷う汚れを拭いて清潔にした結果を望むからです。心は簡単に、あるいはこれらの不潔な瘡蓋が取れると同時に、サマーディになります。簡単に心のサマーディの状態を維持でき、本当に明るく清潔な進行をし、自分が通過した汚れた見解を振り返って見た時、爽やかな微笑が漏れるに違いありません。

その教義や宗派への強い信仰を抜き取ることは、人物や外部の物への信仰がないことも意味します。外部の人物への信仰は、たとえば「このアーチャンは阿羅漢だ」、あるいは「私のアーチャンはこのレベルの聖向聖果に到達した」というようなのは、信仰させるため、そして独占するためで、非常に危険です。このような信仰は、信仰する人の心を閉じ込める篭になり、弱い小鳥にします。アーチャンに夢中になりすぎる人は、恥知らずな、あるいは世間を騙すアーチャンに騙される機会になります。自分が信仰しているアーチャンが本当に阿羅漢だとしても、信仰することには何の利益もありません。

自分が阿羅漢になる以外に、阿羅漢を知ることはできないからです。だから阿羅漢を、自分のものと信仰することはできません。あるいは最高に良くても阿羅漢の外皮である体を掴むだけです。利益があるとすれば、道徳のレベルだけです。しかし心の解脱にとっては、闇のものです。だからあの人この人を阿羅漢だと言って信仰しないで、タンマ、あるいは本当の阿羅漢が見えるように努力しなければなりません。比丘を拝むのは、その人を信仰するからではなく、ブッダの代わりに印である仏像を拝むように、阿羅漢の印、あるいは旗を拝みます。

ごく普通に言えば、国民全員が三色旗(国旗)を拝むのは、国の印として拝むように、他の善が明らかに見れば、知っているだけの善を拝みます。その方(比丘)がしているようにすれば、世俗や苦から抜け出せるか、自分で熟慮し、そしてその方を真似て良いのは、それをすれば、どれだけ煩悩を捨てられるかが見え、そして本当に捨てることができる項目だけです。だから一般に拝むべきものを拝んでも構いません。心を閉じ込める篭である信仰でなく、するべきことを知る智慧で拝みます。

仏像、あるいは記念建造物であるレンガと石膏を拝むのは、知識のない人、あるいは愚かな人の行動と見なします。本当は、記念碑にした人の美徳を拝むように望んでいるだけです。その人が生きている時は、その人やその人の体が、その人の美徳の代わりに拝まれ、亡くなるとその人の体の代わりに、他の人が拝むものとして記念碑を作ります。だから重要点は、石膏やレンガを拝むのではなく、信仰する必要のない行動で、彼らの美徳を拝むという点にあります。なぜなら他人の美徳を信仰することはできないからです。

できるのは公正な気持ちで、あるいはその明らかになっている美徳のある、手本の人物として崇拝するだけです。しかし良く観察して見ると、ほとんどの人はこの真実を無視しています。そして、益々強くなる信仰に支配されるままになっています。仏教教団員でも信仰でする人は少なくありません。そして石や石膏の仏像に対して、生きている人、しかも欲深い人に対するように接します。金銀で飾るヒンドゥー教の神のように、いろんな色の布で仏像を飾り、季節ごとに取り変え、精霊にお供えするように仏像に食膳を供え、香水を振り、その他にもたくさんあって書き切れません。

すべてを熟慮して見ると、理由は間違った信仰以外の何物でもありません。そして美しい道徳の行動は消え入りそうです。最悪なのは、心を閉じ込めるので、弟子が到達するようブッダが望まれた、ブッダダンマに到達させません。ブッダ在世中は、仏像を作って祭ることはありませんでした。あったのは追悼の地(聖地)と呼ぶ、見た人が追悼するよう、そして追悼した人にとって善になる、教祖レベルの人を記念するために建てた塔だけです。。

しかし現代は至る所に仏像を作り、崇拝する像のように祭り、子供の人形遊びか、精霊にお供えをするような待遇をしています。もしブッダが現代まで生きておられて、そしてこれほど変わってしまった状況をご覧になったら、間違った信仰はブッダダンマに到達する道から逸れるので、偶像崇拝を禁止したイスラム教の教祖モハメッドに同調なさるでしょう。そしてきっと、本来の目的から逸れてしまうほど、このように理由もなく信仰に流れるのを、禁止なさるでしょう。

私たちは、ブッダに歓びと明るさのある心の威力でブッダを拝みます。深遠なもの、あるいはブッダダンマを発見されたからです。みなさんはブッダが公開されたタンマを、初めも中間も終わりも美しい言葉と、深い意味と、完璧な道理と一緒に聞くことができます。ブッダを信じなくても、本当にこのようにすれば苦は絶滅すると自分自身を信じる気持ちが生まれます。この段階で、ブッダは道を照らしてくれる灯火以上の「何だ」と信じることなく、ブッダを拝みます。

そしてその灯火の光は、私たちにハッキリ見えています。この意味で、ブッダを歪曲し、供え物をして拝む人が望むいろんな物を恵んでくれる精霊にしてしまう類の信仰はありません。「ブッダが助けてくれる」とか、「私たちを導いてくれる」と信じるだけでも、その必要はありません。ブッダは、「自分で歩いて行かなければならない。私はあなた方のために灯で照らす」と言っているからです。「ブッダダンマに到達するように照らしている灯がブッダだ」と信じるなら、自分自身がブッダという意味なので、外部のものを信じる理由、あるいはブッダがそう行動するよう教えたと理解する理由がありません。

この話を、このように長く話すのは、地域社会のすべての仏教教団員のブッダダンマの理解が、憐れな状況で引き伸ばされているからです。そのように見えることが少なくありません。伝染病のような蔓延力が、更に解決の難しい差し迫った状況にしています。

もう一つ、この実例を挙げたのは、智慧を力として使う類の、あるいはパンニャーヴィムッティ(智慧解脱)の類のブッダダンマへの到達は、自分のヤーナが多少でも滞らないように、信仰を脱ぎ捨てなければなりません。智慧の力で経過する心と、チェトーサマーディの力で経過する心は、当然頼る力が違うと、明らかに分かります。いま私たちが目指すのは智慧の力に依存する部類だけなので、智慧を最高点まで高くし、すべての出来事を全部見えるようにする、あらゆる絶妙な行動をしなければなりません。パンニャーヴィムッティ(智慧解脱)の形でブッダダンマに到達するには、長い時間を掛けなければなりません。

あるいは絶えず智慧を成熟させなければなりません。心の力でもぎ取るチェトーヴィムッティ(心解脱)の人たちとは違います。だからこの人たちにとって、日常の生活の仕方は非常に重要です。この問題を正しく処理できれば、当然犠牲に見合う利益があります。すべての仏教教団員は、ブッダダンマのために犠牲にする人です。出家のみなさんは、家庭と世俗のすべてのものを犠牲にしました。それは何のためでしょうか。楽しさのためですか。物質的な儲けのためですか。名声のためですか。長い学習のためですか。経典から文学的、語学的、そして歴史的な楽しみを得るためですか。

熟慮して見ると、そうではありません。それらが欲しいなら、もっと簡単で、もっと自尊心を満足させられる別の方法があります。本当は、本来の望みである犠牲、あるいは本当の目的は、ブッダダンマに到達するため、瑞々しく枯れることを知らない命のため、特にヤーナ(智)とサンティ(寂滅)のためです。自然が完璧に規定した命の理想は、ブッダダンマのレベル、あるいは「衰えることを知らない瑞々しい命」と仮定したもの、生老病死のない「神様と一体になる永遠の命」、向こう岸にある命に到達するまで、順々に高くすることです。自然が規定したものは、当然すべて「当たり前のもの」です。

だからブッダダンマに到達することも、当たり前のものの一つです。違うのは心の側、人間が列をなして物質側に行く時代に見過ごされている、そして見捨てられて難しいことになり、あるいは神秘的で人間に不可能なことになっている、精神の側のことという点だけです。「現代は、誰もブッダダンマに心を注ぐ時代ではない。逆らって関わる人は、世界の妨害になる」という大きな誤解も生れます。人がどんな理解をしようと、自然の法則が真実を歪め、人の望みどおりに回転することは決してありません。だから人は心の面の困難に遭遇し、あるいは人間であることの結果を十分受け取れません。

 もう一つ熟慮すべき、ブッダダンマに到達するための重要な道具があります。それは人の利益になることです。特にブッダダンマに到達する場合に、他人を支援する、あるいは他人に教えるという意味です。みなさんが心の訓練をすれば、あるいは、良くなるよう適度に自分を律すことができれば、知識や熟練がある分だけ、当然他人にアドバイスできます。

ブッダは、自分にできないことを教えることを非難していますが、自分が本当にできることを人に教えるのは認めています。そしてブッダ自身教えた人であり、他人の利益になりました。「他人に教えることは、ブッダダンマに到達させる道具」と言うのは、そうすることで、教える人自身の慈しみと智慧を喚起するからです。ブッダ自身も、一つの手本として歩まれた道です。

ブッダの奉仕は、二つに分類できます。ブッダは、まだ弱い動物は「囲いに」入れておき、一方勇敢な生き物には、飛んで行く方向を指し示しました。「囲いに入れておく」とは、道徳の枠内にいさせることで、囲いから出なければ猛獣、つまり悪の餌食になりません。それでもブッダは、信仰しないよう、あるいはその道徳に夢中にならない行動をするよう教えました。タンマは舟やイカダと同じで、海を渡らなければならない時だけ依存し、岸に着いたら、その舟やイカダを担いで陸に上がる必要はない、と言うほどでした。つまり信仰は陸に上がれなくします。

「道を示して飛んで行かせる」とは、内面をあるがままに見て信仰しないで、この世界を手から下ろし、世界に熱中しないで、タンマに熱中しないで、あらゆる複雑で厄介なことの基盤である有がなくても維持できる、ローグッタラの状態に飛んで行くよう教えました。道徳の中に浸かっているよう教えるのは、信じて保護された道を歩くよう信仰させるためでも、がっちりした囲いの中にいさせるためでもありません。そこにいる間に自分の力を養い、飼い主に従う必要のないアヒルになるためです。あるいはアヒルの子のように飼い主に依存しますが、極楽のアヒル、極楽の鶏、あるいは自由に空へ飛んで行ける小鳥になります。

だから抜け出せた人はその分だけ、他の生き物を可愛がり、支援してください。その慈しみが、サマーディの力や心の力を、更に純潔で勇敢にします。智慧の力をつける面は、質問攻めに遭えば、当然そのタンマの意味を、たくさん、詳しく熟慮しなければなりません。これが自分に戻ってきて、更に自分を進歩させる反応(reaction)があります。パーリ経典のヴィムッタターヤタナスッタに、他人の問題に答えようと努力している時に、最高に高い聖向聖果に到達する人もいるという記述があります。中には、変わった所のある人がいて、他の時には考えやピーティ・パモッダナ(喜悦や歓喜)が生じにくいのに、他人に教えるために考えなければならない時に生じ易い人です。

そのような場合、その人は考えが自然に生まれ、自然に知り、そして話し、その間中ピーティパモダナ(喜悦・歓喜)を浴びて、絶えず緻密なレベルの深いタンマの味に染められています。だから質問攻めにあった時、他人に教えるために考える努力をすることは、同じ人間同朋の精神を高める助けになるばかりでなく、自分も簡単にブッダダンマに到達するので、努力するべきです。ブッダダンマに到達するには、その後もつづけて、いま述べた系統で実践することが重要であり、他人の利益を増進させる道具でもある、と明らかに見えます。

 この話の終わりに、まとめさせていただきます。脱出、あるいはブッダダンマへの到達法は、自分が信仰(執着)していた物を下ろすこと、あるいは緩めることにあります。世俗の物、宗派の教義、あるいは自分自身への信仰でも、信仰した時から厄介なだけです。それは無知、あるいは無明から生じます。信仰は考えることができる動物の本能で、考えられれば考えられるほど、それだけ巧妙に強く信仰します。考えることを知っていれば、いろんな感情の珍しい味をたくさん受け取ることができるので、その味に夢中になると、それだけ執着が強くなります。

動物は、形・声・臭・味・触のすべてに関して、人間より非常に少ししか執着しません。動物の考えは少しなので、その感情の味を受け取るのも、短い時間で少しです。それに自然が按配するだけ、あるいは強制するだけで、人間のように、溺れるほど魅力的なものを発明しないからです。ここでは動物を真似るのではなく、たくさん考えられる価値にふさわしい高い面に使うことを目指します。そうすればその分だけ、陶酔しない方向に賢くなります。発明した物に使われるのではなく、それらを奴隷代わりに使います。

つまり考えた物を、陶酔するもの、あるいは苦や悲しみや混乱の基盤にしないで、自分の便利な道具に使います。人間は動物よりたくさん考えられるので、優れていなければなりません。そして、「知りすぎれば困難が長い」と言われるように、知れば知るほど困難になるのではなく、その考えを正しい方向に使います。執着は、美しい形や響き等、人間社会に明らかに見られます。美の感覚は少しずつ生じる執着によって生まれます。そのようにしつけられていない人は、それを美しいと見ません。

たとえば芸術的な教育を受けていない田舎の年寄りは、現代の都会の若い男女の服装や音楽を美しいと感じません。「どこが美しいのか」と思います。時には見苦しいとか、喧しいと感じます。しかし昔風の装いや読経の声は、美しい、響きが良いと見るかもしれません。これは執着の違いだけです。すべての感情は執着次第でどうにでもなります。そしてそれは、自分が子供の頃からの長期に渡る、環境によるしつけ次第です。そういうのを「美しい。良い響きだ」と、陶酔して強く執着するよう塗り重ねる十分な長さです。

内面を熟慮すると、美しいという感覚は、たくさん塗り重ねられた陶酔と一致する類の、選んだ色でできているのが分かります。本性に塗り重ねられているものと一致しなければ、どうしても美しいと見ることはできません。美しい音も、真実はいろんな波長の光を反射する物質でしかない、人間に現れるいろんな色と同じで、冒頭でお話ししたように真実のないマヤカシです。

しかしこれらのマヤカシものも、「美しい」「きれいだ」と、人間が本性の中に塗り重ねて来た陶酔と一致すると選別されれば、その美しい感覚は途端に心を支配します。人間はこれらの色を、分析して真実を探す視点で見ないで、反対に真実が見えない偽りの面、仮定、あるいはそれを規定した執着を見ます。細部であるいろんな色も、全体である色の調和も、自分の執着次第ですべて美しいと、あるいはすべて美しくないと見ます。

美しい音楽は、周波数の違う音の組み合わせです。美しい響きと仮定されているそれぞれの音を、更に美しいと仮定されている手法で組み合わせるので、仮定した分だけ、更に美しく感じます。それらの音の組合せを聞いて楽しい気持ちや悲しい気持ちになるのは、本当は執着の結果です。犬にその音楽を聞かせて、悲しませることはできないからです。しかし人間は、期待どおりの結果を受け取ります。人間は無明や迷いで自分が「教育」や「芸術」と呼ぶものをでっち上げ、そしてでっち上げるだけで執着しない賢さがないからです。

人間は、トラの絵を描いて自分で怖がります。可愛い絵を描いて愛し、憎たらしい絵を描いて憎みます。自分で描いておきながら、それらは怖い物でも、可愛い物でも、憎たらしいものでもないと知りません。すべては、休むことなく無明に支配されているからです。

執着を抜き取るには、無明を吐き出すと同時に明を作ります。執着がなくなれば、同じ形や音でも正反対の結果になります。つまり偽りでなく真実が姿を見せます。そしてそれに対して愛や悲しみを生じさせないで、本当に正しい行動ができます。そして肉体面の快適と安楽、そして心の面の冷静さをもたらす本当の勉強になります。だから今述べた理由で、ブッダダンマに到達する主たる手法、あるいは一般的な手法は、覆っている皮、つまり執着を剥ぐことです。剥ぐことができきれば、ブッダダンマの光が自分を照らしていると、自分で感じることができます。

ブッダが到達し、そして自分の「人間であること」を完成させるために、ブッダが教えたすべての人が行動すべきものに到達します。それがブラフマチャリヤ(梵行)の最終段階です。つまり人間であることの素晴らしい課題で、本当に必要な本当の課題です。その後は、世界全部が自分の管理下になります。

出家もなく、在家もなく、女もなく、男もなく、子供もなく、大人もなく、形・声・臭・味・触もないというように、みなさんにとって厄介な問題はありません。この世も、あるいはどの世もなく、静かでないと感じさせるものは何一つありません。明らかに現れているのは、変化をしない、生老病死のない「もの」だけでしょう。あるのは衰退を知らない爽やかな微笑みだけです。微笑む人はいませんが、ブッダの教えで行動する人が常に望む目的である、完璧に満たされた「命」です。

 時間になりましたので、これで講義を終わらせていただきます。そして最初から最後まで熱心にお聞きいただいたことに、感謝申し上げます。


ホームページへ                   法話目次へ                      次へ