この項目に関しての明らかさを、聞いたことがあるヴェーダの話で検証したいと思います。有名な国王だったチャノック王が出家してヨギーになり、長い間ヨーガの修行をして、自分はヨーガの最高レベルのヤーナに到達したと理解しました。つまりヴェーダの言葉で言うアートマンが見えました。仏教の側に例えれば、無為の物、あるいは涅槃に見えます。

 国中が、チャノック王は成就者で、世界に勝利し、すべての感情に勝利したという噂で持ち切りになりました。ある女性の出家はこの話を信じないで、つまりチャノック王は本当の成就者でないと見て、自分で試すために、ある日全裸になって、静かな心で座っているチャノック王を訪ねました。成就者と呼ばれるヨギーは、何も取り乱した様子は見せず、少し顔を背け、そしてそれまでどおり静かに座っていました。

 その途端、女修行者は手を叩いて嘲笑し、「成就者がこれか!」と叫びました。これは、アートマンを見ている人は、形あるいはその物質に現れている性などのローギヤダンマ(世界の物)は見えないということを表しています。つまり男・女という性別より高い気持ちがあるので、男も女もなく、感覚の中に、男・女という区別はありません。私たちが椅子や机に性を感じないのと同じ感覚です。

 私たちが机や椅子に男性女性を感じないように、成就者に男女の感覚はなく、その方にとってすべて同じです。すべてを成就した人の感覚である、アートマンが見えるチャノック王が、どうして性を見るでしょうか。あるいは体に依存している状態にすぎない性の感覚があるでしょうか。わずかでも顔を背けたのは、性を見た、あるいは性を感じた証拠です。

 この譬え話は、無為、あるいはブッダが発見した物であるブッダダンマが見えれば、普通の人が見ているような世界は見えず、普通の人が見ているように世界が見えれば、無為の物、あるいはブッダダンマは見えないことを説明しています。

 簡単に言えば、私たちは世界にブッダダンマを見なければならなくても、世界が見えればブッダダンマが見えず、世界にブッダダンマが見えれば世界は見えません。無為あるいは世界を脱した物を見るには、外部の目は使いません。外部の目では見えません。あるいは何を見ても、内面のローグッタラを見ることに何の変化も影響も生じさせないので、何も見ないのと同じです。

 内面を見ること、つまりローグッタラダンマ、あるいは無為を見ることは、非常に不思議です。

 長々と例を挙げて説明してきたのは、まだ理解できない物も油断するべきではないと説明するためです。更に、まだ理解できないことは、理解不可能ではありません。私たちの能力を越えていると考えていることも、誰でも理解する希望はあります。誰にもブッダダンマを理解する希望があると、確信して言う理由があります。どのように理解するか、これからその方法について熟慮してみます。

 至る所にブッダダンマはあるのに出合えないのは、卵の殻などのような、何か妨害している物があるからと、冒頭で述べたように、ブッダダンマを理解する最初の段階は、覆っている皮を詳しく調べて見ることです。一番外側の皮は、世界の幻影である形・声・香・味・触、あるいは普通の人の内面に現れた世界です。形・声・香・味・触・考えの感覚は、通常人はどっちを見ても、これらに出合うだけです。

 そしてそれらを求めて駆け出そうと待ち構えてばかりいるので、日常の感覚や本能になります。形を求めて駆け出そうと待ち構えている目があり、声を求めている耳があり、匂いを嗅ぐのを待ち構えている鼻があり、味の虜になるのを待っている舌があり、心を高ぶらせる時めきの基盤である、柔らかな感触に酔うのを待ち構えている体があり、そして欲望で探し求める類の心があります。

 つまり橋渡しをする目・耳・鼻・舌・体に依存して、自分が好きな物に直行します。満足する物への陶酔と、不満な物に対する憂鬱な気持ちと、当然中間の物への無気力も生じます。そして、私たちの感覚は、それらの欺瞞を見破るほど鋭くないので常に生じています。

 世界、つまり形・声・香・味・触は、私たちを覆っている皮と同じです。それは一番外側の皮であり、私たちを覆っている椰子殻であり、閉じ込める篭です。しかし囚われている人は、それは豊富な財産と、あるいはそれらがたくさんあって幸運と考えています。私たちは今「自分はそれより上だ。自分が主人だ」と思い込んでいる物の奴隷です。ブッダダンマを理解した時、正しく感じることができ、それらは私たちの奴隷になります。

 本当にブッダダンマを理解した人は、当然世界に勝利し、すべての感情に勝利します。ブッダダンマに到達するには、外皮である形・声・香・味・触に溺れている本能を剥ぎ取らなければなりません。

 つまり根に集中することから始め、最後には智慧の力で、それらのどうしようもなさを熟慮して見ます。この段階で、目・耳・鼻・舌・体の面の世界の美味しさや美しさに縛られなければ、考えの流れがどれほど自由か、絶妙に熟慮してください。続いてみなさんは、自分は本当に一つの篭から出られたと感じます。

 篭、あるいは外皮である世界のマヤカシの状態の虜になる本能がこのように消滅すれば、次は中間の皮、あるいは篭である信仰や考え、あるいは誰でも普通は、常に何らかの物を信じている教義などへの信仰の番です。信じることは誰にでもあり、避けることはできません。


 みなさんは当然、先生を信じています。「先生以外には誰も、正しく話す人、正しい行動をする人はいない」と強く信じています。今論争している自我についての教えなど、みなさんは、自分が信じている教え以外に正しいものはないと、自分の哲学や教義を信じています。どこの会員、あるいはどの宗派の出家も、他の宗派は使い物にならない、正しくないと言います。自分の協会の教えや手法を信じています。

 政治面でも、他の面でも、宗教面でも、自分の派閥や部派の原則以外は利益がなく、力を注ぐ価値もないと言います。これは、みなさんの考えと智慧を限定された世界に閉じ込め、自由を奪う篭の類の信仰です。このような信仰である皮は、ますます厚くなるばかりで、死ぬまで厚くなります。そして皮、あるいは卵の殻から抜け出すことなく死んで行きます。

 ここにいるみなさんがこの協会だけの会員なら、その方は間違いなくブッダダンマ、あるいは涅槃に到達できます。梯子や助ける道具でなく、引き止めて沈ませる道具なら、涅槃を理解する日は来ないと保証します。

 涅槃は何にも貼りつかないという理由により、ブッダダンマは、信仰で染めつけるような、夢中になる物が何もない自由な心だけに現れます。この段階で包んでいる皮を壊すことには、心を自由にし、智慧を周囲に広げて制限や妨害がないようにし、何かを信仰する自分でなく、自分自身の自分にしなければならない理想があります。何にも誰にも貼りつかない自分がある最良の手本は、世尊です。

 ブッダが大悟されたばかりの頃、他の宗派の出家がブッダに、「まあ、あなたの根は純潔で、非常に幸福に見えます。あなたは誰のタンマに達成なさったのですか。あなたは出家してどの教祖を選ばれたのですか」と訊ねました。世尊は「私が大自在天です」と答えられました。つまりブッダは、何もかも自分で完結し、自分自身のものである「もの」があるので、誰か教祖を選ぶ必要はありませんと答えられました。

 その出家は、ブッダの言われたことはあり得るかもしれないと首をかしげてばかりいましたが、結局理解できないで去って行きました。これは、信じる威力による執着のせいです。人間集団では当たり前で、強すぎて、執着しないのを見るのは難しいほどです。考える本能に執着しないのを見ることは、簡単ではなくなってしまいました。考える本能が、自分を頼る前に他人を頼るのは、どんな例より強い執着です。

 どこの宗派のどの教祖の弟子も、自分の教祖に強く執着すれば、他の物をどれほどたくさん捨てることができても、自分の教祖に執着するばかりで、その教祖が教え、そして自分の弟子がその状態に到達するよう切望している「脱出点」に到達できません。

 教祖は、自分だけに執着させたい訳ではありません。それは最高に哀れむべき外皮への執着です。教祖やアーチャンへの執着は、道徳や Moral の利益しかありません。哲学レベルでは、心が解脱してすべての物から自由になるのを妨害します。この部分は「自分の智慧を、何物にも執着しない自由にする必要がある。そうすればブッダダンマの光は、私たちを照らすことができる」というところが重要さあります。

 これはもう一段階皮を剥くことです。何らかの宗派内で自分を熟させて来た人にとっては、非常に粘り強い皮です。特に年寄りになるまで信じてきた人には。ブッダダンマと呼ぶものが、どれだけ神秘的に見えても、本当は他のすべての物と同じように「当たり前(タンマダー)の物」と見なせる物にすぎません。

 私たちが「当たり前」という物には二種類あります。循環する物、つまり「世界」と「循環しない物」、つまり「世界を脱した物」です。涅槃を意味するブッダダンマは、世界を脱した種類の当たり前の物で、循環せず、作る物、あるいは変化させる物を必要とせず、それ自体が非常に自由です。有為の物のように生じさせる物、消滅させる物がないからです。

 これは時間や空間の規則の下にありません。一方の世界、あるいは目・耳・鼻・舌・体・心で普通に感じることができる物は、時間と空間の法則がなければ現れることはありません。言い換えれば世界はありません。しかしブッダが発見なさった神秘的な物は、時間と空間の法則を越えていて、その法則に依存する必要がなく、ヤーナチャクス(特別な目。天目)で知り、触れることができます。それ自体が自由なので、それに到達する人は自由な心の人でなければなりません。

 同じように、心が世界の毒餌に溺れることから自由であり、智慧を狭める限られた世界への執着からも自由です。今述べたような自由がなれば、ブッダダンマに到達することはできません。自由な物は自由な物同士で出合うからです。

 仏教教団員のみなさんは、当然世尊がアングッタラニカーヤ(増支部)、ティガニバータ、カーラーマ経で言っている教えを聞いたり読んだことがあります。その経で、信じることと考えの自由について教えています。つまり仏教教団員にこの段階の皮を剥ぐことを教えています。

 「代々言い伝えて来たからと言って受け入れ信じてはいけない。自分で聞いたからと考えて信じてはいけない。推測して信じてはいけない。言った人がアーチャンや先生だからと見て信じてはいけない。自分の先生だからと言って信じてはいけない。その項目が三蔵にあるからと言って信じてはいけない」等、このように教えられています。このような話を、他の人から聞いたことはありますか。世尊は、最高に自由である、智慧を包んでいる皮を剥くことに勇敢になりなさいと教えています。

 世尊の教えを聞く弟子であるにも関わらず「私は自分を信じる。世尊を信じない」と言ったサーリーブッダを、ブッダが褒められているように、みなさんも世尊の言葉でも信じる必要はありません。と言うのは、世尊は、誰でも自分自身を信じなさいと教えた教祖だからです。

 つまり自分で自由に真実を見させ、そして外部の要因で信じないで、自分自身を信じさせます。他人を信じれば自分を信じる機会はありません。「自分を信じる」とは、夢中になって自分の自由な考えを包む外部の信仰から、自分を自由にすることを意味します。私は、自分を抜き出してしまうくらい自由な考えを望みます。信じる段階で自由な考えがなければ、高いレベルの自由な考えは生じません。

 みなさんの中には、内心で「もしそうなら、なぜ『ブッダン サラナン ガッチャーミ』と大声でブッダに帰依するのだ。ブッダ・プラタム・僧を拠り所にするのは、同じ意味で、私たちがブッダダンマを理解するのを妨害するのではないのか」と反論なさる方がいるかもしれません。

 信仰があればいつでも、ブッダダンマの理解を妨害すると、私は真実を主張させていただきます。拠り所を掴むことは、道徳面だけ、あるいは善や美を行ない、天国の世界などより高い世界で循環しなければならない段階にしかありません。当然拠り所の信仰は、解脱する段階にはありません。既に解脱したあなたの解脱は当然同じなので、他人の拠り所になれる人は誰もいません。

 そして、拠り所を信じることから解脱して完璧に自由になることは、どんな束縛からも脱した時にだけあります。第一義諦の言葉では弟子も先生もなく、互いに善友であるだけです。世尊は、他人を拠り所として信仰するべきではないと教えました。ブッダは「アッターティーパー(自燈明)、アッターサラナ(自帰依)」という言葉で、自分を拠り所にするよう教えられました。

 ブッダは「脱出する努力は、自分でしなければなりません。如行はただ道を指差すだけです」と言われました。拠り所としてブッダを信仰するのは低すぎて「自分を拠り所にする」ということが理解できない人の、初歩の段階だけ意味があります。そして最後には、すべての拠り所の信仰を止めます。タンマは舟やイカダと同じで、タンマの行動は舟やイカダを漕いで、向こう岸へ渡ることと同じです。

 舟を頼らなければならない人は、脱出先である岸にまだ着いていない人で、舟に依存している分だけ、脱出していないことを意味します。私たちを包んでいるローギヤタムからの解脱も同じです。拠り所を信じる、あるいは拠り所にする人を信じることは、まだ輪廻して、こちら側の何かを望んでいる段階だけです。ブッダがすべての弟子に教えられたのは、ブッダも含めて、自分自身も含めて、本当にすべての束縛からの完璧な解脱です。

 ここで、この段階で包んでいる皮を剥くことは、夢中になっている外部の物への信仰を、一枚完全に脱ぎ捨てること、と短く結論できます。残るのは外部の物に夢中になることから自由になった自分だけ、自分と捉えること、あるいは最後の最高に微妙な段階で脱ぎ捨てなければならない皮である「内面の自分」である、自分に夢中になることだけです。

 だからこの最後の皮を剥く段階は、自分を脱ぎ捨てることです。初めの段階で、形・声・臭・味への執着を剥ぎ取ることと言いました。二段階目は信仰、あるいは拠り所である外部の物への熱中を剥ぎ取ります。最後の段階はかなり理解が難しいですが、自分から自分を剥ぎ取ってしまいます。

 これから述べるのは、理解を多少早くする助けになります。五欲あるいは世俗の餌は、包んでいる一番粗い皮で、外部の物への信じることは中間の皮で、自分を愛すことは滑らかな皮で、このように、順に剥がなければならない皮です。最後の段階では、ブッダは自分に頼るように教えられているのに、どうしてこの段階で自分を脱ぎ捨てさせるのか、という疑問が生まれるかもしれません。

 これを良く理解するには、私たちが「自分」と呼ぶものを詳しく熟慮して見る必要があります。「自分」と呼ぶもの、あるいは日常的に本性で感じているものは、まだ無明のある動物の本能で普通に生じます。本能の状態では、常に必ず「自分の実体」があると感じます。だから自分を愛し、命を愛し、そして危険を避ける気持ちになります。そして命を維持できるのは、その気持ちが命を守る根源だからです。

 動物の本性に無明がある間はいつでも、自分とは何かという真実を正しく知らないので、無明が教えるように、つまり「自分の物である自分」がいるという知識と、身勝手を知ります。

 その間は「自分、あるいは自分と呼ぶ物はない。あるのはすべて自然の法則で循環している自然の部分だけ」と知ることができません。通常人は、自分の実体を説明して見せることはできません。本当には無いからです。しかしほとんどは、あれこれ所有している主体(本人)と感じ、考える神(シン。体に密着した心の部分。神経という言葉の神)または心を指します。

 怪我ををすれば、私の指が痛い、あるいは私の足が痛いと言う代わりに、私は痛いと言います。

 本当には愛は、今心を支配している一種の愚かさでしかないのに、愛した時「私は愛している」と言います。目が形を見た時、あるいは耳が声を聞いた時、「自分は見る人」と理解します。しかし本当は、視神経が仲介して視識(視覚)と外部の形が出合い、そして名の物である心の自然の法則で、内面に別の感覚である反応を生じさせるだけです。

 まだ無明がある間は、いつでも自分があると感じ、無明が薄くなれば、当然、「自分」は仮定の言葉で、そして必要な言葉の一つと感じることができます。まだ無明が厚い動物にとって、この言葉は必要な仮定の言葉です。低い段階であるこの段階では、本能で自然に感じるからです。無明が薄い人や無い人にとって「自分」という言葉は、世俗の言い回しで話すために必要です。

 世俗の人がまだ普通の人で、そして私たちが普通の世間の人と話したり連絡をしたりしなければならない時は、この言葉を使って話さなければなりません。少しだけ無明があって皆無でない人は、少し自分が必要で、時には正しくて良いと感じ、時には忘れ、迷います。それでも「自分」という言葉は仮定した言葉であり、まだ完全に無明を捨てられない人が「自分がある」と信じている間は必要な言葉という感覚があります。

 今「自分」と理解している物がなければ、なぜみなさんは私の話を聞きに来られたのか、考えてみてください。みなさんは、誰のために滅苦の方法を探求するのでしょう。あるいは誰が探求しているのでしょう。今日ここでのタンマの講義は、苦から脱した人たちの会話と広報していません。

 誰でもブッダダンマに到達する方法がある。あるいは、どうしたら苦から脱せるかについて話すとお知らせしただけです。意見交換をするだけです。来た人は当然、聞いて何か自分の利益になることが得られると期待して来ました。

 そうでなければ、たぶん来ないはずです。これでみなさんにも、自分という感覚、あるいは自分の掌握は、まだ苦から脱していない命にとってそれ程必要と分かります。しかし本当の脱出、あるいは完璧な苦からの脱出は、同じ人の心に「自分、あるいは自分がある」という感覚と同時にはあり得ません。完璧な苦からの解脱がある所に苦からの解脱を望む自分はなく、苦からの脱出を望む自分がいる所には、完璧な苦からの脱出はないからです。

 だからみなさんはすぐに、「完璧な苦からの脱出は、苦からの脱出を望んでいる自分を無くしてしまうこと」と分かります。いろんなことを望んで努力させる「自分がある」という感覚が心にある分だけ、苦からの脱出を望んでいます。だから自分があることは、それが苦と簡単にバレないように心を包んで、最高に上品なレベルの苦にしている皮と同じです。

 自分があるという理解は無明の一つの症状で、無明が支配するから自分が生まれます。自分がある時は、「自分何々だ」という理解で自分に憑りつかれ、あるいは自分を背負っています。まだ無明が支配している間は、ブッダダンマの光が照らすことができません。

 だから自分という信仰の基盤である繊細なレベルの無明は、包んでいると見せないで包んでいる隠れた皮と同じで、騙して、間違った望みに最高にピッタリの自分があると感じるように、良い物、快適な物に見せます。外側を覆っている皮二枚、つまり世俗の餌の段階と、信仰している教義に執着する考えの段階の皮を剥ぐことができても、まだ苦は完璧に消滅しないでの、最後にもう一枚皮を剥く必要があります。

 最初のヒヨコである世尊がなさったように、卵の殻を内から割ることは、ブッダダンマの理解を望むみなさんの義務です。苦から脱したいと望むみなさんは、誰でも殻の中で丸くなって眠っているヒヨコと同じです。つまり自分の実体があると感じさせる根源である無明と関わっています。なぜ私は「孵化する卵の殻の中で丸まって眠っている」という言葉を使うのでしょうか。

 それは自分があることに溺れている人の心は、当然限られた世界、つまり考えの中で体を丸めていて、何を言うにも、自分の実体が無ければならないからです。外側の皮である世界の餌と、いろんな教義や信仰への熱中である皮を二枚剥くことができても、それでもまだ、自分があると理解する気持ちと、自分の受(感覚)など、いろんな「自分の物」から自由になれません。生・老・病・死などはまだ自分の物です。

 涅槃は生まれず老いず病まず死なないと聞くと、「涅槃は生老病死のない自分」と執着して、自分が涅槃したい、あるいは涅槃を自分の実体にしたいと思います。「自分を無くしてしまえば、自然に生老病死も終わる。残るのは、以前はそれらを生老病死と仮定していた、土・火などの自然の自然な循環だけ」と理解しません。

 涅槃の自分、つまり生老病死のない自分になりたがることは、欲望の一種、有欲です。そしてこのような涅槃の理解は、当然同種の願望を次々と生じさせます。間違った形の理解で、まだ無明なので、孵化の卵、つまり無明から出ていないので、まだいつでも哀れなヒヨコの状態に陥っています。物質あるいは形のどの部分にも、それ自体である部分はありません。識、あるいは名のどの部分にも、自分である部分はありません。

 しかしまだ無明があり無明に包まれている動物の本能で常に何らかの部分を自分と理解しなければなりません。まだ苦から脱していない間は、その動物の感覚の高さ次第で、自分の実体があるという感覚が常にあります。まだ「自分がいる」「自分である」という理解を捨てることができない間はいつでも、このような誤解に包まれている分だけ、「卵の殻の中で丸まって眠っている」と言われます。

 「その人の自分」と仮定した主人である「その人の心」は、まだ世界を通過できません。包囲しているローギヤダンマ(世界の物)から自由になることができず、欲望の網から出ることができず、頸木、あるいは重荷である、自分として背負っている五蘊を振り捨てることができません。

 世俗の学問は非常に広範囲な発展を遂げても、まだ欲望の網から脱出できず、まだ自分がいると理解させる無明の威力を越えていません。だから人間は、無明と粘っこい欲望の卵の殻を割って、外へ出ることができません。無明、あるいは欲望だけでも、世界全部を包むことができます。

 だから世界全体が卵の殻である無明の中で丸まっているように、心を包んでいる卵の殻を、心は「自分」と理解してしまっています。だから自分を包んでいる卵の殻を割ることを知りません。そして自分に、卵の殻、つまり自分の実体と理解してしまっている物を割る義務があると考えません。

 だからその意味で、卵の孵化のように無明を消滅させる段階の皮を剥くことは、本当のブッダダンマに到達させる最後の段階であり、それだけ緻密です。私たちを包んでいる三枚の皮を剥くことについて話せば、このような熟慮の方針になります。

 次に内側の皮だけを剥く人の状態を、特に考える系統として熟慮します。卵の殻、つまり無明を破壊しようとする人は、自分でしなければなりません。まだ苦から脱していない、「苦からの解脱を望んでいる自分」と信じている物は、自分のために苦から脱しなければなりません。分かりやすく大きく分類すれば、自分を抜き出すことができる人を二種類に分けることができます。

 チェトーヴィムッタと呼ぶ、心を集中させる威力で抜け出す人たちと、パンニャーヴィムッタと呼ぶ、智慧の力を集中させて抜け出す人たちです。前者、あるいはチェトーヴィムッタは、精神力を強く鋭くするために、志願して全精力と努力でする人たちで、大抵は世間を捨て、非常に静かな場所で努力するにふさわしい生活をし、その手法の偉大なサマーディの力で、捕縛している物を洞察する力をつけるために、ほとんどサマーディに励む努力をします。

 後者のパンヤーヴィムッタは、そのような能力はありません。心の力が弱いなど、仏教の言葉の根と言うものが弱く、この人たちがするのは、智慧の方に重きをおく修行で、普通にある思いや考えで、人生や環境について熟慮するだけです。

 油断せず、弛まず、その上、的を射た物にすることで、時が来ればブッダダンマに到達し、結果である同じ冷静沈着な幸福を受け取ります。違うのは、幾つかの能力だけです。チェトーヴィムッタの人たちは、最高のタンマに到達すれば華麗な方法でタンマを教えることができ、奇跡を見せることができ、そしてその他、後者にはできない特別なことをすることができます。

 これは、大富豪になることに例えられるかもしれません。手足や肉体の努力と、高い教育を受けた勇敢な思考力でそうなれる人もいます。しかしそうでない人もいます。たとえば何かの幸運で一気に富豪になることもあります。能力を見ると、後者は前者より少ないですが、比較できる物質面の話だけで、すべてに該当する訳ではありません。

 内面のタンマ、特に涅槃への到達は、強靭な心の力を集中させて到達した人たちも、智慧の力で自分の能力にふさわしいだけ熟慮して、自然に成熟して到達した人たちも、到達すれば同じ阿羅漢と呼びます。

 能力の違いでチャラビンニョー阿羅漢、あるいはスッカヴィパッサコー阿羅漢(ヴィパッサナーをして解脱した人)と分類しても、重要な特徴である、苦からの脱出、あるいはヴィムッティスッガ(解脱の幸福)は、何も違いはありません。世尊は前者であり、それ以上に自分自身が発見者でもあります。他の阿羅漢はブッダから聞いたので、一段下で、つまり教祖でなく弟子です。

 ブッダダンマに到達する道を歩いている人たちには、このように大きな違いがあるので、二種類に分けると説明する時、みなさんは、私の考えに賛同なさると思います。つまりチェトーヴィムッタ(主にサマーディの力による解脱。心解脱)について見るには、非常に長い話になるので、隈なく説明するには今日のような短い時間はふさわしくありません。

 今日するべきは、一般の人に便利でふさわしいように、後者である少しずつ智慧を集めて育て、毎日どんどん成長させるパンニャーヴィムッティ(智慧による解脱。智慧解脱)について熟慮します。多少時間は掛かっても、早晩世尊のタンマに到達することができ、そして危険もありません。

 普通私たちが油断のない人になるには、初めに人生、あるいは人間であることの理想は何かという問題を片づける努力をします。そうすればそれが、早く確実にブッダダンマを理解させる縁になります。「人間は何のために生まれたか」などの、どこにでもある人間であることの問題は、「命の理想とは何か」という問題と同じです。

 この命をどう使えば価値に見合うかという意味です。命、つまり人である一生涯は、自分に利益をもたらして学習させる目・耳・鼻・舌・体・心があります。

 次に考えなければならない問題は、「何を学習するか」です。私が見る限りでは、人は学びたい物を学ぶために、この命の学習道具を使います。ほとんどは財産を手に入れるため、名誉や地位を手に入れるため、その他の世界の物と、交友を手に入れるためです。自分は命の道具を使ってブッダダンマ、あるいは低い内面の世界に到達するために学習していると宣言できる人が何人いるでしょうか。

 初めの原因、あるいは基礎がこのような場合、ブッダダンマに早く到達するよう自分の習性を訓練する類の勉強も影響を受け、「ブッダダンマに到達するのは難しすぎて、現代人には不可能だ」と見ます。そして自分を世間に流されるままにするので、流されれば流されるほど複雑で真っ暗闇で、重くなります。それでやっと「なぜ生まれたのか。世界はどこへ向かうか。人生の理想は何か」などという問題への関心が生じます。

 その人の命の目標であるブッダダンマへの信仰が少なすぎれば、人間であることのすべてがまだ曇っているので、結局その人は、問題で大混乱した状況の中で死んで行かなければなりません。それらに包まれている人間である問題は、卵の殻の中で死んで腐っているヒヨコのように、殻の中で命を終わることです。

 もう一方の「ブッダは私の物」と宣言する仏教教団員であるみなさんは、栄誉と宣言を尊重するため、本当に最高の結果を出すために人生を使うべきです。人生の理想が物質面だけなら、快適さや地位をもたらす財産と、便利さをもたらす階級と、そして心を楽しませる友情の発展を意味しますが、まだ、人生の最高の作品と呼ぶことはできません。命と呼ぶものは外部、あるいは物質面だけでなく、内面、あるいは精神面と呼ぶものがあるからです。

 外部の問題を上手く片づけることができても、内面が火のように熱ければ、本当に人間であるのは半面だけです。良くする方法は、両面を満たさなければなりません。心の面、あるいは精神面の幸福という言葉は、いろんな理解をしている人がいるかもしれません。財産と名誉と友情が豊かな時は、当然心の面も幸福で、それ以上どんな幸福になる余地もないと理解する人もいます。

 ここでいう心、あるいは精神的幸福とは、身体的幸福、あるいは述べたような外面の幸福より上にある、心が自由であることを意味すると理解してください。財産や名誉がある人も、貧乏人と同じように、財産や名誉の奴隷に陥っていることがあるからです。

 つまり愛や心配事や妬み、そしていろんな貪りと怒りと惑溺の火で熱くならなければなりません。そしてまだ、将来のことで神様の慈悲を願わなければなりません。それは、自分は最高に善を行なって来たと信じる人の精神的重荷、あるいは心配で、十分善行をしたと信じていても、神様、あるいは自分のカンマから受け取る結果を渇望して心配が尽きません。

 この種の人の精神の状態は、「現世でも来世でも欠けている」と言われます。どんな状態でも際限なく欲しい物があるので、心の満足は得られません。だからいま言った結果は、非常に心と関わりがあっても、まだ物質に関わる結果であり、物質側と言わなければなりません。まだ目・耳・鼻・舌・体を道具にして味わう結果は、本当の精神面の人生の理想ではありません。

 心に関わる内面の理想は、何一つ物質に依存しません。騙す餌を欲しがらず、餌を食べないので心は非常に幸福です。物質面では欲望が、あるいは欲望は餌を食べ、味わう主役がいなければなりません。しかし本当の心の面は、必ず欲望がなく、食べることもなく、美味しさもあってはなりません。食べることで疲れなくても良いので休息でき、それらの妨害から自由になり、座っていることができ、静かさを維持でき、そしてすべてがスッキリしています。それは簡単に理解できる物質面だけを狙う人が理解しているより繊細で緻密です。

 だから世界、あるいは神様の世界で、心を温める物である善行をどんなにたくさんして善を積んでも、目的が何らかの美味さの基盤である物質なら、仏教の考えでは「心や精神面の幸福と見なさない」と言います。この面の仏教では、本当に厳格に世界の餌がない幸福を意味するからです。命の外面も内面も満たす行動は、非常に慎重に判断するべきで、外部の高い部分を内面とするような勘違いをしてはいけません。

 本当は、命が心の面の最高レベルのタンマに到達した時、それまで騙す餌だったいろんな物は、ただ便宜のための物、あるいは乗り物になります。だからその人は、体と心の両面の安楽を同時に受け取ることができます。まだ凡人(凡夫)である人間は、どんなに完璧でも、述べた理由で半分だけ人間と見なします。初等の聖人は両側をほとんど満たした人で、最後の聖人である阿羅漢は、両側を満たした人です。

 だから一般的な宗教の言い回しでも、阿羅漢になった人を完璧な人と言います。内面も外面も、凡人の目に見える面も、本当に完璧に満たされている人という意味です。形の側も名の側も純潔で、体も心も本当に幸福です。すべての動物を、今の人間まで進化させた自然の目的は、この完璧な人間に到達させるためです。

 私たちは誰も自然の法則の威力下にいるので、どの心身にも、最高の状態までよじ登って行く隠れた真実があります。この真実は「どれほどバカな人でも、最高に善い人、最高に高い人になることを夢見ている」と観察できる理由があります。違うのは知識だけ、あるいは後の環境によって生じた理解の違いが、「最高に善い」「最高に高い」と言う物に関して、間違った理解をさせただけです。

 出家である仏教教団員は、当然命、あるいは人間であることの完成に早く到達するために、世界から離れて努力する人という意味です。在家、あるいはまだ家を離れていない人は用事がたくさんあり、問題が多く、取り囲んでいる物が山積みなので、出家より重く低い生活に陥っています。出来事は、一般在家が、心の面に到達することに励む前例として依存する出家と、在家があることにふさわしい成り行きになります。

 出家がこの義務について思えば、当然「すべての世界の利益になる人」と呼ばれます。その人がこの真実に到達すれば、当然世界を簡単に真実に到達させる助けができるからです。

 このような生き方は、内面の世界を見なければならない教えがあっても、つまりすべての物を同じに見ても、そうすることでバカになりはしないか、あるいは心が何らかの点で欠けている人になりはしないかと心配する必要はありません。内面のヤーナで内面の世界を見ることは特別なもので、その義務に熟練しているからです。

 少し訓練すれば見る準備が整い、望ましい結果を受け取る準備も整います。少なくとも世界に熱狂しなくなり、心の訓練の時、ブッダダンマに到達するのに便利なように訓練していれば、いつも心を乱しに来る物を嘲笑できます。(つづく)




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