9.道徳面の復興と振興





1974年8月31日

 アリヤシーラダンマの話の土曜講義の第九回目である今日は、「道徳の復興と調整、振興」という小さな題でお話しします。そして概要で大きな題の半分を述べて一度終わらせ、それから詳しく述べます。

 他の問題が山積しているので、解決できない道徳面の問題について述べた、前回の講義を思い出さなければなりません。直接山積している問題は世界が間違って実施している教育です。貪欲にし、身勝手にし、その上危険な教育で、あるいは道徳を消滅させるからです。これを「間違って実施している世界の教育は、直接道徳面の問題が山積している」と言います。

 間接的な問題は、間違って実施する教育から生じる問題で、見本として示すのは、政治経済の問題です。そして他の問題から小さな問題が幾重にも複雑に生じます。例えば国や宗教に本当の忠誠がなく、口だけの問題です。そしてヤクザな人たちの犯罪行為が増えている問題、性犯罪、怒りによる犯罪、自分の利益である結果だけを狙う犯罪。これらの常軌を逸した心がたくさんの問題を生じさせ、道徳面の問題を山積させます。

 これらの細々した問題は、時間を無駄にし、司法の制度も腐敗します。国の清潔・秩序も失われ、節約も失われ、あるのは妬みと怠惰と、世界のいろんな資源を浪費させるだけです。その結果は、生活に関わる複雑な問題です。これらの問題は非常に妨害なので、教育を正しくする問題に関心がなく、道徳の問題にはもっと関心がありません。重要でないと誤解しているからです。

 彼らは口の話、腹の話の方が重要と見、そしてまだ腹と口の話の問題はありません。私たちの腹と口の問題は周り中に道徳がないことから生じると述べたのはこのよう、と熟慮して見てください。間違って実施している教育を解決できなければ、道徳を持つ術はありません。他の細かな問題は、間違って実施している教育の問題と同時に解決しなければなりません。これが今、タイも含めた世界の人間を支配し、強制する問題です。


 今日は道徳と呼ぶ物を復興させ、調整し、振興させることについて話します。

 中には「復興、あるいは調整させなければならない道徳面の話はない」と見て、受け入れない人、聞こうとしない人がいます。つまり道徳が衰退していると認めません。目を瞑って「教育は発展し、道徳は発展し、何でも発展している」と言います。今私は「それは別の物。それは非常に衰退した状態にあり、世界を破滅させる危険があるほど」と、理由を説明して見せます。

 現代の道徳の状態は、このようですが、誰も衰退していると感じる人はいません。誰も衰退していると見なさず、あるいは認めないので、話になりません。話せるのは、道徳は衰退している状態にあると、熟慮して見る人とだけです。

 道徳が衰退している問題があると見ない人を、あまり責めることはできません。この話は密かにやって来て巧みに目を騙し、少しずつ現れるので、人は次々に慣れるからです。何時も「善い」と見える状態で、そして少しずつ道徳がない状態に慣れるので、道徳がないと感じません。わずかな人だけが観察して見えます。

 観察して見る人も、まだ小さな問題と見てしまいます。物質面の利益だけに注目し、お金、あるいはお金で買える物を基準にし、道徳面を見ないからです。見るのは財産など利益である物だけで、これは良く発展していると言い、そしてそれ以上考える必要はありません。物質が発展すれば心も自然に発展するという原則で、道徳は善いに違いないと見なします。こういうのは全部勝手に言っています。

 今物質が発展し、心は衰退してほとんど残っていません。今世界を覆っている資本家主義(ブルジョワ主義)と呼ぶものは、お金があり、名誉があり、名声があることだけを好むからです。彼らは貧しい紳士より資本家を崇拝し、紳士という言葉は世界から消えて何年にもなるほどです。私が幼い頃は、まだ十分に聞きました。教育は目標である紳士らしさを好み、多くの大学は紳士を輩出することを目指しました。今はもうありません。

 彼らは知識とテクノロジーを作って人を達人にし、早く金持ちにすること、こういうのばかり目指します。タンマがある紳士を崇拝しないで、資本家を崇拝すると言います。そしてアパーヤムッカ(衰退の原因)がいっぱいの貧しい労働者を、貶すべき貧民と見ないで受け入れ、貧しい人と金持ちが消滅させ合うのを、道徳の形は違っても、どちらも同じように道徳がないと見ません。

 貧しい人は、今貧しい人たちの集団にある「酔う水を飲む。夜遊びをする。芝居等を観る。賭け事をする。悪人と友達として付き合う。仕事を怠ける」と項目を挙げた、すべてのアパーヤムッカから後退しようと考えません。一方お金持ちが知っているのは、独占すること、あるいはどっさり掻き寄せること、あるいは手っ取り早く金持ちになることだけです。

 だからこの世界は、遠くに捨ててある二つの物がいっぱいで、「話にならないこと」が、世界に難しい問題を作ります。道徳がないからこれが生じると見る人は誰もいません。資本家が生じるのは道徳がないからで、貧乏人が生まれるのも道徳がないからで、道徳があれば、どちらの問題もなくなります。

 これを現代の道徳の問題は見過ごされているので、見ないのと同じと言います。最高に良くても真実を見ないで間違って見る結果があります。だから現代の道徳の状態は、人間にとって危険なくらい衰退していると捉えなければなりません。道徳を満足できる状態に復興、調整、振興させるために、取り上げて熟慮しなければなりません。

 次に私たちは、もう一度「道徳」という言葉を見なければなりません。繰り返し話して、煩わしく感じる人がいるかも知れません。

 私たちが話している道徳という言葉は、目を瞑って話しているように、、本当の道徳とは何かを知らず、無くても良い小さな話、無くても国を破滅させないと理解してしまっています。このように誤解していれば、道徳を良く復興、振興させる術はありません。

 道徳という言葉は「正常にさせる物」という意味でなければならないことを忘れないでください。シーラは正常、ダンマは物、シーラダンマは正常にする物という意味です。本当のパーリ語ではこのように訳さなければなりません。他の意味にしないでください。道徳は正常にする物です。

 何の正常かは、世界にあるすべての物が正常です。大騒ぎをせず、混乱せず、四分五裂せず、苦でない。それを正常と言います。正常を生じさせる物があれば、それを道徳、正常を生じさせる物と呼びます。言語としてはこのようです。意味で言えばもう少し説明し、「社会を正常な幸福にし、正常な幸福があるようにし、世界に正常な幸福があるようにする」、それが道徳です。

 今私たちは、このような道徳の意味まで深く見ないで、些細な物と見、口先で冗談を言います。学校では生徒にノートを取らせ、ノートを閉じれば、生徒に道徳はありません。だから道徳が衰退した、あるいは危険なほど劣悪になったと知りません。

 「道徳」という言葉は、短く「正常にする物」という意味だけですが、意味は幾重もあります。一人の人物の正常もあります。正常な身体、正常な心があれば健康です。一人の人に道徳があるからです。町や社会の正常なら町は正常という意味で、困窮する話、加害し合う話、四分五裂する話はありません。国全体の正常なら正常な幸福がありますが、低いレベルばかりです。

 高いレベルは心の面の正常で、知性面の正常があるのは正しい見方、正しい考え、煩悩が生じられない正しい信仰があります。煩悩が生じないのは最高に高い正常です。本当に厳格な正常は、仏教の涅槃に到達することです。だから正常という言葉は些細な話から、最高に大きな話である涅槃まで意味します。

 今は国、あるいは世界の正常の話だけをしています。現代は国について話せば世界全体を意味し、現代のように関連し合わずに別々に暮らしていた時代と違うからです。見本として見ると、彼らが他国と戦い、他国を裏切り、消滅させ、妬み、有利になろうとすれば、その影響は、その国に何もしない私たちの国にも及びます。

 例えば石油の高騰、不足は他人が作ったことですが、まったく関係のない国も困窮させます。現代の世界はすごく小さな世界で、全部関わり合っているので、数分、数時間で世界を知ることができ、いろんな反応が世界のどの角度に生じても、何分もしないうちに他の世界に伝播して関わるからです。だからこの世界は掌くらいの大きさしかないと見なさなければなりません。

 私が国の道徳について話すのは、世界全体の道徳と関わることから脱せません。だから私が道徳と言うのは世界の道徳を意味します。それが変化し、悪化して、あるのは身勝手だけになり、どこでも混乱させ困難にさせます。これを現代の道徳の状態はこのようと言います。

 他の詳細は、前の講義でたくさん述べました。今日は、現代の世界の道徳の衰退の状態だけをハッキリ見れば、どのように復興、調整、解決、あるいは振興させるべきかという考えが生まれるとまとめます。二つの時代の道徳を取り上げて熟慮すべき、比較するべき物はもう少しあり、見ればびっくりします。びっくりすれば冒頭で述べたように衰退と感じないので、比較対照するようお誘いさせていただきます。


 最高にざっと、各自がばらばらに暮らしていた時代の道徳と比較します。

 百年、二百年、三百年ばかり前でも、石器時代、原始人の時代の人までバラバラに暮らしていました。そしてピンポン時代と呼ぶ、まだつい最近の時代はどのような道徳があるでしょうか。そして人がバラバラに暮らしていた時代の道徳は、ピンポン時代のように騙し、有利になる、あるいは加害する道はありません。別々に暮らしていたので利益も絡み合わず、加害しなければならないと考える必要がありませんでした。

 その時代はどのように道徳がないか、誰でも自分自身の目で、「騙し合い、妬み合い、一秒ごとに殺し合う時代と比較にならないような違いでなければならない」と見ることができます。

 子供に聞かせるために比較するなら、百年前と今ではどのように違うか比較しなければなりません。歴史、いろんな記録、あるいは現在まで残っている絵で見ることができ、百年ばかり前なら、西洋の婦人は手首まであるシャツや上着を着、踝まであるスカートを穿き、タイ人もいつものように彼らの尻を追いました。だから私たちは昔の貴婦人が手首まであるシャツと、踝まであるスカートを穿いている絵を見ます。現代の西洋の婦人は何もまとっていません。だから道徳はどのように違うでしょうか。

 あるいはここ百年間、中央アジアからインドまで、婦人は顔を覆って顔を見せず、スカートも踝まで覆います。今は西洋の尻を追って布をまといません。どのように道徳が違うか、考えて見てください。タイでも、先祖の時代はまだチョンクラベーン(一枚布をズボン状に巻いた物)とサバイチエン(女性が上半身に巻く布)で、男子はシャツを着る必要はありませんでした。これは西洋の尻を追って、布もあまり纏わない現代とどのように違うでしょか。

 これは簡単に見えると言います。六、七十歳以上の人ならまだ見えます。あるいは写真やいろんな記録で見ることができ、道徳がどのように変わったか、比較できます。

 五十年前、女性は僧の影を踏みませんでした。私も、女性が距離を取って影を踏もうとしないのに遭遇したことがあります。もう一つ奇妙なのは、日差しも影もないのに、日差しがあれば影ができる場所を、彼女らは踏みませんでした。女性とすれ違う時、彼女らは影を踏む心配のない、光源に近い方に回避しました。今は見られません。体験できません。しかし見られなくなってまだ何年でもありません。

 (第六回)結集に参加するためにビルマに行った時、旅行者がたくさんいる宿舎の近くの公園を散歩しました。僧も下りて行って歩きました。後ろの方から、女性がヘビにでも噛まれたようにキャーキャー叫ぶ声がしました。視線を投げて見ると、彼女は気づくのが間に合わず、僧の影を踏んだだけと分かりました。これを「ビルマはまだタイより遅れている。まだ影を踏むと、ヘビに噛まれたようにびっくりする」と言います。それなら道徳はどうでしょうか。

 現代になると、女性は僧にぶつかって、もんどりうって倒れます。気を付けてください。僧の影を踏もうとしなかった時代は、他にも何種類も計れる物がありました。寺から出る時は足を振り叩き、寺の砂を家に持ち帰ってはなりませんでした。あるいは寺の中の埃やゴミを寺の塀の外に捨てません。そして濠の中の砂を、できるだけお寺に持って来ました。そして仏像の行列を楽しみ、砂の塔を作って楽しみました。

 今時、仏像行列や砂の塔を作って楽しい人は誰もいません。彼らはバカみたいな話と見るので、あり得ません。そして砂の塔を作るのが好きだった時代と、バカみたいと見る時代の心はどのように違うか、考えて見てください。彼らはむしろ、着飾って誘惑しに行きたがります。ね、そのような時代とこのような時代です。

 現代は不道徳と呼ぶような身形で隠すべき所を隠しませんが、不道徳と見る人は誰もいません。隠すべき所を隠さなくても、誰も不道徳と見ず、見事と見なすからです。短いスカートを穿く女性を見ると、立ったり座ったりする時、いろんな儀式をする時見苦しく、不道徳です。しかし彼らは不道徳と見なしません。目を瞑って西洋文化の尻を追うので、正反対と言うように非常に変化したからです。

 今忠告するための慚愧という言葉がなく、忠告しても聞こうとしません。隠すべき所を隠さない身形は厚顔無恥で慚愧がありませんが、誰も叱る人はいません。誰が誰を叱っても、言うことを聞く人はいません。

 心がこのように劣れば、他の道徳も消滅します。今は「鳥が喰えば徳になり、人が食えば布施になる」と言うような文化はありません。地面に何かを蒔く時、昔は「鳥が喰えば徳になり、人が食えば布施になる」と、盗人の分も予測して作りました。今はあり得ません。「すべての動物は生老病死の友」という言葉は、文字として残っているだけで、朝晩読経する時につぶやく人の口の端にはありません。彼らは読経をしないからです。

 次に、それはどんどん蔓延して、お寺の物、公共の物を盗むまで、政府の校舎、公共の、庶民の校舎を燃やすまでになりました。これはつい先日の新聞に載っていました。

 今彼らに親はなく、先生もなく、いるのはてんでに利益を求める人だけです。現代の子供たちは母乳を飲まないで動物の乳を飲むので、両親がいるという感覚がありません。子供が母の胸の中で母乳を飲めば、どう感じるでしょうか。そして自分で持って、あるいは養育する人が機械のように与えるのでも、哺乳瓶のミルクを飲む子供たちは、親に対してどのような感覚、習性、本性になるでしょうか。それです。考えて見てください。

 誰もが自分の快適さしか考えなければ身勝手を作り、自分と他人があり、最高に簡単に他の宗教、他の人たちを見下します。肌を見下し、肌を嫌い、他人を消滅させる計画をし、遠回しに戒の第三項を止めてしまいます。つまり取り上げて話さず、それを正しいと認めます。これは「道徳は必要で学ばなければならない」と見なさず、関心がなく、教育から切り離してしまうことです。

 まとめると、現代世界の人間の道徳の状態にとって、掌と手の甲と言います。このような時、復興、調整、解決、振興させて元のようにすべきと言わず、何と言うでしょうか。


 次に「私たちは場合にふさわしく復興させ、調整し、解決し、振興させ、維持しなければならない」と言ったように、概略で話します。本当はこれらの言葉は同じでないので、一緒にしないで一つ一つを分ければハッキリ見え、十分復興、調整、解決、振興させ、維持することができます。、

 次に復興という言葉について話します。ざっと見ません。私たちは何を復興させるでしょうか。復興は後退して運河に入るようなものです。私が後退して運河に入ると言うと、首を振る人がいます。しかし本当に「後退して運河に入」らなければなりません。例えば今、あまり布をまといたがらないので、布をまとうのを好むように後退しなければなりません。
 そして隠すべき所を隠さない短い布は、後退して運河に入り、手首から踝まで、隠すべき所を全部ピッタリ隠す服装にならなければなりません。これを「後退して運河に入る」と言います。あるいは恥知らず、つまり感じない頑固さを止めます。

 今は気づかない頑固で、恥ずべきと感じずに恥知らずなことをしています。だから恥の感覚へ後退し、恥があり、精霊に恥じることまで後退しなければなりません。子供の頃「俺は精霊に恥ずかしい」と言うのを聞きました。今は言いません。子供なら最高に「精霊に恥ずかしい」と言うのを知りません。

 年寄りの時代は、精霊に恥ずかしいと言うのを知っていました。「精霊に恥ずかしい。誰も見ていなくても俺にはできない」と言った時代に後退しなければなりません。後退して運河に入り、もう一度この標準を復興させると言います。

 例えば教育、実践、そして実践の結果など、復興すべき物は何でも復興させます。宗教面も正しい実践を復興させて正しい実践にし、そして正しい結果を期待します。今利益のため、満足できるお金を探すために教典を学びます。これはブッダの目標では正しくありません。実践すれば利益を追求するために自慢し、実践の結果が欲しければ、供物や思わぬ幸運、名声、称賛、名誉を欲しがります。これらは正しくありません。本当ではありません。

 教育、実践、そして実践の結果を復興させて、正しさ、あるいは本当に戻し、後戻りして運河に入ると言わなければなりません。運河に沿って進まなければ、舟が浅瀬に乗り上げて壊れるのと同じです。だから後退して運河に入り、それから進まなければなりません。車を運転して道路から落ちたら、後退してもう一度道に戻らなければなりません。あるいは運転していて車が渕に落ちたら、後退して正しい道に戻らなければなりません。

 下賤な心を追放する伝統習慣を復興させ、精霊に対して恥じを生じさせる伝統習慣を戻さなければなりません。それは、下賤な心を追放するためです。これらの習慣は維持しなければなりません。今は迷信のように見ますが、それは愚かな人、見方を知らない人です。今の人が迷信と見る幾つかの伝統習慣は、人間を恥知らずにしないよう、下賤な心がないよう護ります。

 次に、タイらしい状態があって国を失わない、タイ独自の文化に後退しなければなりません。タイ文化はいつでもタイらしくしなければなりません。私たちが西洋文化になってしまうだけで国は失われ、心の面のタイは消滅します。それが多すぎ、煩悩欲望を好めば、人間らしい国を失います。

 人間の国でなく、何の国かは呼び方次第で、畜生の国より下賤です。物質主義を受け入れ、煩悩だけを考え、肉体だけを考えすぎれば、人間らしい国は消滅し、タイである、つまり煩悩から自由であること、他の人たちから自由であることを失います(タイとは自由独立という意味)。

 私たちがタイ文化を持てばタイであり、自由がありますが、西洋の肉体文化があれば、タイらしさを失い、文化面のタイを失うと言います。このようなら、間もなく政治面のタイもなくなり、本当に彼らの奴隷になります。心の面、精神面の国を失わないよう注意してください。そうすれば、政治面の国も失いません。しかし今、心の面の国を失い、そしてどんどん政治面の奴隷になるので、彼らの犬と呼ぶこともできます。このような状態で国を失います。

 どんな国も失わせないタイの文化に戻らなければなりません。復興させて何十年も前の時代から口癖になっている言葉を、もう一度戻さなければなりません。「罪・徳・功罪」などは、口癖にするべき最高に素晴らしい言葉です。彼らはもう話しません。話すのは「手に入れる・手に入れない」「少し手に入れる・たくさん手に入れる」だけです。彼らはこのように話すだけです。

 昔の人は、「それはどんな善悪功罪があるか、このようにそのように良く見なさい」と言いました。あるいはお寺と言いました。今はお寺という言葉を使いたい人は誰もいません。何に使うか知らないからです。ね、昔の人は心がお寺にありました。それは彼らが静かさを欲しがり、心の面の高い話を欲しがっていたことを意味します。だからいつでもお寺という言葉を話しました。

 「神様、僧様」という言葉を、今聞きますか。聞いたことはありますか。神様、僧様という言葉は新聞紙上で叱責する時だけで、神様僧様と言いません。昔話した「神様僧様」という言葉は少しずつ消えました。

 地獄天国という言葉はもうありません。地獄は地下にあり、天国は空にあると誤訳し、誤解をしたからです。本当は、地獄は心の中が焦燥すること、天国は心の中が静かなことです。「天国は胸にあり、地獄は心にある」。昔の人は正しく解釈したので、いつもそう話していました。今の子は愚かで違う勉強をしたので、地獄天国という言葉の意味を受け入れず、最後には親の恩を知りません。今の子は「親の恩」と言うと嘲笑します。心の中で嘲笑しているのを観察したこともあります。

 これらの述べたことは、戻さなければなりません。戻して、復興させれば、道徳も戻ります。

 最後に物質と反対である、心や精神の面の深遠な意味を理解させます。お金など、物質である財産があれば物質の財産があると言いますが、財産である善やタンマがあれば、彼らは聖なる財産と言います。「聖なる財産」と言うと、今の子供はバカにして笑います。

 これらは戻さなければなりません。それ以上に「精神面」という言葉の意味を全部知らなければなりません。例えばブッダは、人なら物質と言いますが、タンマであるブッダなら、精神面で話すと言います。ブッダは「ダンマが見える人は私が見える。私が見える人は、ダンマが見える」と言われました。これは精神面のブッダです。

 次に子供たちの多くは仏像しか知りません。昔生きていて、インドの中を歩いていたブッダを思いません。それで最高に「ダンマが見える人は私が見える。私が見える人はダンマが見える」と言われたブッダであるダンマを知ることができるでしょうか。

 あるいは四アパーヤ(悪趣)の話は、物質の話なら、地獄は捕まえられて地獄に入れるという意味で、畜生は野田の動物で、餓鬼は彼らが菩薩堂の壁画に描くような餓鬼で、阿修羅はどんな種類の妖怪か知らず、実体がありません。こういうのを物質面と言います。しかし精神面なら別の意味があり、

 地獄は焦燥で、どんな理由でも、焦燥する度に心の中で燻ぶっている焦燥が地獄です。

 畜生は心に時々生じる愚かさで、それが心の中にいる畜生らしさです。

 餓鬼は心の中にある理由のない渇きです。

 阿修羅はするべきことを勇敢にできない、理由のない恐れ、恐怖。このように普通以上の臆病で、これが心の中にいる阿修羅です。

 精神面での四悪趣は心の中にあります。しかし物質面なら、どこにいるのか知りません。「地獄は地下にあり、畜生は野田にいる」は物質の言葉で、それだけ知っているのは何も利益がありません。現代になると人は信じようとしないで、全部捨ててしまいました。

 四悪趣という言葉を、現代の子は嘲笑します。本当はそれがどこにいるか知らないからです。復興させ、地獄があり、天国があり、ブッダがいるように正しく理解させてしまい、何でも本当にいる種類にしなければなりません。これを道徳面の復興と言います。

 次に調整という言葉になりました。復興したら、それを調整しなければなりません。今は正しさが少ないので、調整して正しさを多くしなければなりません。

 この調整は、物質面で進歩した世界にふさわしく、物質の奴隷にならないで、物質の主人になるよう調整しなければなりません。物質と、物質の発展が道徳を振興して、弥勒の宗教が生まれさせます。つまり物質面も発展し、心の面も発展し、宗教道徳を、経済政治の様式と調和した進歩をさせる種類の進歩をさせます。こういうのが調整です。

 今は調整がなく、反目、妨害し合うので、人間でない人間であり、道徳がなく、人間らしいダンマがありません。これだけで、つまり調整という項目だけにさせていただきます。

 今は、道徳がない訳ではありません。まだ一パーセントか二パーセント残っていて、知らない状態なので、調整して知らせ、有益に使わせれば、道徳の衰退という今の問題を解決できます。

 今は自然に恵まれません。雨が落ちて来たので、これだけで講義を止めなければなりません。




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