10.道徳の復興、調整と振興 Ⅱ





1974年9月7日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマの話の土曜講義の第十回目の今日は、前回と同じ「道徳の復興、調整、振興」という小さな題でお話します。前回は雨が降ってしまって話が終らなかったので、今日終わらせなければならないからです。この題は復興して調整し、そして振興し、最後に維持します。これが、私が道徳と呼ぶ物に対して、毎日しなければならない義務です。

 復興という言葉は、前回の講義で説明しました。残っているのは調整と、振興、そして維持だけです。前に調整という言葉を適度に話しましたが、雨が降ってしまい、まだ明らかでないので、終わらないので、適度に復習しなければなりません。

 ほとんどは広い意味がある内容、講義のすべての題の内容を復習しなければなりません。これはいつでも明らかに思うよう、みなさんに忠告、あるいは強調させていただきます。これから話す内容を聞けば簡単になるので、この話の題であるアリヤシーラダンマという言葉も、心の中で常に復習しなければなりません。

 中にはアリヤという言葉を付け加えることについて、道徳という言葉だけで十分なのに、まだ「アリヤ」という言葉を付けて、アリヤである、あるいは聖人の、あるいは素晴らしい段階の道徳としなければならないのかと、奇妙に感じる人がいると思います。

 アリヤという言葉を加えたのは、完璧にするためが一つ、そして道徳という言葉と、あるいは庶民の善い道徳など、いろんな言葉と組み合わせなければならない、奇妙な、一般に使われている道徳という言葉の意味と区別するためです。それは、庶民の下賤な道徳もあるという誤解を誘います。

 次に、裏返らないハッキリした意味にしたいので、私の場合はアリヤという言葉を加えます。一般に道徳という言葉は狭い意味で、社会のいろんな実践行動の話だけに使います。それは一般に保証されている道徳で、アリヤシーラダンマという言葉を使うならそれ以上でなければなりません。だから道徳という言葉の綴りで深く、あるいは人々が捉えているより、普通より多く捉えなければなりません。

 みなさんに、特別な道徳と呼ぶ物、つまり少なくても特別なレベルの意味について述べると忠告させていただきます。しかし最高に文字どおりにし、特別でも、その言葉の文字の意味から離れる訳ではありません。これも主張させていただかなければなりません。あるいは道徳という言葉の意味を文字で最高に深く捉えると、忠告させていただきます。

 アリヤは素晴らしいという意味で、除けておいても構いませんが、シーラとダンマは、直接重要な要旨です。シーラは正常という意味で、文字では正常で、他の訳し方はしません。ここでのダンマは、一般の意味なら物を意味し、宗教の話なら実践を意味します。

 「正常」という言葉は、なぜ? それはどこまで意味するの? と疑う人がいます。それは自然の感覚で捉えましょう。正常でなければ戒(シーラ)に反すと言います。あるいは五戒、八戒などを遵守するのは体と言葉と心まで正常にするためですが、シーラはあまり正常を狙わないので、誤解もあり得ます。

 しかし知れば、戒を持すことも正常であることに繋がっていると理解できます。要旨を全部述べれば全部正常で、正常でない物は戒である部分が失われたと言います。

 正常であることは、体・言葉・心にあり、物質面まであります。しかし物質の話はあまりしません。話すなら人物に関わっている物質について話さなければなりません。家の中にごちゃごちゃ置いてある物は正常でなく、その家は道徳がないと言い、主人に道徳がないことを表すこともできます。その人物の家の中に置いてあるいろんな物が、正常でないからです。一般的に見て、家が正常なら使い物になります。人の体や言葉を見て正常なら使い物になると言い、つまり道徳があります。

 詳しく見ると、人の身にある何でも正常で、食べること、排泄、いろんな日常の行動が正常なら、大勢で暮らしても正常で、ほとんどの人のようにぶつかり合わず、喧嘩をしないと見ることができます。これを人物の部分の、外部の体と言葉の正常と言います。

 正常という言葉の高い説明をする機会があれば、心の面の正常は、妨害する煩悩が無い心です。最高に完璧に妨害する煩悩がなければ、涅槃と呼ばなければなりません。涅槃の段階の最高の正常です。涅槃の話がこのような状態の道徳の話になります。それはアリヤシ-ラダンマと呼ぶべきです。しかし前回、私は道徳の話に涅槃の話をしませんでした。普通に使う意味の道徳という言葉にしたからです。

 世界のどこででも使っている道徳という言葉は最高に低く、非常に低いです。しかし仏教の世界だけで話せば、特に仏教用語なら、道徳という言葉は涅槃まで遠くなれます。戒・サマーディ・智慧の実践行動のどれも、正常であるためだからです。

 そして最高の正常は聖向聖果涅槃です。だから道徳である聖向聖果涅槃の話をすることもできます。そして本当でもあります。しかし彼らは話しません。だから道徳の話は世俗のレベルの、あるいは社会の形の中で関わる人物間同士の振舞いの低い話だけなので、ぶつかり合わなければ十分です。

 これが、理解し合っておくよう忠告させていただかなければならないことです。でないとすぐに混乱します。アリヤシーラダンマという言葉について述べれば述べるほど汚点のない正常の話です。このように理解しておいてください。


 次に、前回に引き続いてしなければならない義務について話します。復興と話したのは、「それは消えて衰退したので、引き戻さなければならない」という意味です。

 どのように消えたか知りたければ、比較しなければなりません。ここではまだ何十年でもない、身体をすっぽり包み隠す服装をしていた時代と、身体を隠そうと考えない現代を、明らかな証拠で比較することから、まだ何年も経っていないつい最近まで、道徳はどのように消えたかまで、観察して見るに十分なだけ比較します。煩悩が支配すると、これらの魅力的な物を使って自分の利益を追求したがるからです。

 これも、どのように違うか比較して見ます。何が消えたかは、慚愧が消え、破廉恥が現れました。それを復興させて、慚愧と呼ぶ感覚を戻さなければなりません。こういうのを復興と言います。こういうのは元々あったのと変わらないので一部分だけと見なし、失った部分を元どおりに善くします。これを復興と呼ぶことにします。道徳の部分は新たに復興させなければなりません。詳細は自分で考えることができます。


 次に調整になりました。これは変化して行く世界の状態だけに注目します。

 特に世界の教育は変化し、教育に関わるいろんな物も変化しました。人間の要求が変化したからです。次に道徳の部分も世界のいろんな物から、神様のように崇拝しているテクノロジーの話まで、特に教育の変化と適合するよう調整されなければなりません。これは止められません。教育は変化しなければなりません。いろんな職業も変化しなければなりません。これは止められない話です。

 次に道徳の部分はどのようにしなければならないでしょうか。それはいろんな物の変化に応じて変化し、間違った話になったので、それもできません。だからできるのは、今の世界の発展を妨害しないよう、並行するよう調整するだけです。この調整は、最初に教育と呼ぶ物に注目しなければなりません。

 これは「私たちは教育を間違って見て、迷って教育を、世界の人の煩悩欲望で引っ張っている」と繰り返し話したことがあります。だから教育は間違い、害があり、道徳を非常に消滅させる教育になり、道徳を振興しないで消滅させます。教育がこのようなら、このようである分だけ道徳がありません。今も、どんどん道徳を消滅させる教育を崇拝しています。

 少し軽く言えば、教育は道徳を振興しません。彼らは物質の話だけ教育し、物質を使って、テクノロジーと呼ぶ最大限の利益を探求するからです。他にもいろんな物がありますが、教育するのはそれだけです。子供たちが知るのはそれだけで、若者、娘になっても、物質から幸福、楽しさ、陶酔だけを求めます。だからそのようにするための縁を探すので、お金のことだけ、手に入れることだけ、物質面の楽しさ、幸福を求める縁であるお金のことだけを考えます。世界の教育は、これだけです。

 避ける必要がなく、歪曲する必要がない証拠である、私たちに見ている結果は、危機がいっぱいと言います。つまり困難と四分五裂、望ましくないことが増えるので、原因の部分である行動も、受け取る結果の部分も簡単に比較できます。

 荷車しかなかった時代のクルンテープを見たことがありますが、現代は自動車がいっぱいで、道路が足りません。私は見たことがあり、そして荷車を引いていた人の道徳と、自動車を運転する人の道徳を見ると、天と地ほどの違いがあります。話せば無用に人を罵る話になるので、荷車を引いていた人の道徳と自動車やタクシーを運転する人の道徳は非常に違うと、自分で見てください。

 これを結果である部分と言い、それ自体が「進歩発展している教育は、なぜこの問題を解決する援けをしないのか」を教えています。だから最初に調整しなければならない物として取り上げて述べます。つまり教育を先に正しくして、それから道徳を調整すればできます。教育が不十分なら、人は愚かで誤解し、道徳の話を知らないので調整できません。

 あるいは教育は、道徳の敵である方向の頑固になります。それも道徳を調整できません。だから複雑な問題が、少なくとも二倍生じ、教育は変化した現代の世界に追いつかなければならず、その教育は道徳を振興しなければなりません。それでもこの変化が非常に素早く走るようなので、最高に大変になります。


 教育と呼ぶ物を「教育と呼ぶ物は、それ自体が同時にいろいろな物である」と、詳細にたくさん熟慮して見るようお願いしたいと思います。

 教育はそれ自体いろんな物で、体も心も人間を築く物で、そしてまだ生活の基礎、人間の道徳の基礎であり、人間をどの方向に誘導することもできます。私たちがどのような教育を受けても、私たちはその教育に取り囲まれ、その方向だけに思考させられるので、違う教育がある人同士はあまり話が通じません。だから教育と呼ぶ物は人間と、人間に関わるいろんな物を創造すると見なすべきです。

 「教育」という言葉もいろんな方向の意味があり、直接教育その物もあり、教育の周辺の物もあり、教育関連もあり、教育を支持、振興する物もありますが、まとめて教育と言います。良く分けて見なければ欠陥のある行動になります。振興させても勉強だけとか、賢くするだけなど、心、あるいは精神と呼ぶ物に関して、あるいはその他の実践行動に正しい理解をさせません。

 今教育について話すと、テクノロジーという言葉が後ろに付いてきて、もう一つのテクノロジー中毒と同じです。今あるようなテクノロジーを崇拝する教育は、ただのテクノロジーでなく、人間を物質の奴隷にすることで、タンマの言葉では「煩悩欲望の奴隷」と言います。このタイプの教育をすればするほど煩悩欲望の奴隷になり、煩悩欲望から抜け出させるテクノロジーはあったことがありません。

 本当のことを言えば、仏教はテクノロジーですが、反対の義務をするテクノロジーで、人を煩悩欲望から連れ出します。あるいは人を煩悩欲望に勝利させます。これが仏教のテクノロジーです。しかし彼らは夢を見ず、関心がなく、知らず、そして欲しがりません。

 だから教育がテクノロジーを好むなら、物質面と心の面を同時にするべきです。こういうのだけが道徳を振興し、人物の平和な幸福と、世界中の社会に平和をもたらします。要するに教育は道徳を振興する、このような形態があります。

 次に間接的な教育があり、私たちは同じように教育と呼びますが、調整しなければならない部類にある別の名前で呼びます。例を挙げればスポーツです。

 彼らがスポーツと呼ぶ物は、本当は教育の一種で、タンマであり、紳士、あるいは正しい人である心の訓練です。正しいスポーツがあれば、スポーツは精神面の教育です。つまり心より深く、知性、見解、最高の信念まで行きます。しかし今、人は煩悩欲望に導く間違った教育の奴隷で、スポーツもそのようにします。だからヤクザで有利になる、不正なスポーツをします。じっとしていれば人より有利にならず、不正をしませんが、スポーツをすると有利になり、不正をする機会です。

 スポーツは、愚かさが支配する低いスポーツのように勝負の話であるべきではないと、良く見てください。身体を鍛えて健康にする体育であるべきです。本当の高いスポーツは、犠牲を教える心の訓練で、心を高いスポーツマンの心にします。私たちが負けを認め、あるいは誤りを認めて事が治まれば、こういうのをスポーツマンと言います。自分が正しい側でも、いろんな悪い話を静めるために、相手を「勝利側」、あるいは「正しい側」と認め、自分は負け側に甘んじます。

 今、彼らはこのようにしません。彼らは誤りがある側でもあります。それを正しいと見なし、相手の正しさを冒涜し、横暴に侵犯します。スポーツは団結を壊し、復讐心を生み、火炎瓶を投げ合う原因になり、自分の学校を燃やす原因になります。これはスポーツでないスポーツ、教育でない教育から生じます。妖怪のような愚かさで勝ち負けに酔うからです。下品な言葉を使うのを、お許しいただかなければなりません。しかし憶えやすいので、話さなければなりません。

 教育であるスポーツは今、人の心の平和や幸福を消滅させる妖怪の物になりました。だからスポーツの形の部分の教育を解決し、調整しなければなりません。今私たちがニュースで聞くのは、国際間のスポーツで、世界のスポーツも百パーセント不正をしています。どのようにしているか、読んで見てください。

次はその他の教育、芸術の形の教育です。

 ある人は芸術家であり過ぎ、その人は芸術を芸術にします。本当は、芸術は人を繊細にする一つの要素、あるいは一種の教育です。愚かな人たちは芸術のない人です。このように話すのを、誰も信じないかも知れませんが、観察して見てください。繊細に観察する人は愚かでなく、芸術があります。だから繊細な人になるために何かしら犠牲にして訓練をし、芸術を知り、芸術に満足し、自分で芸術を創れなければなりません。

 彼らは賢く深遠、繊細周到で、何でも普通の人より良く見て、タンマを学んでも、宗教を学んでも、芸術心がある人は、芸術心がない愚かな人より深くタンマを見ます。だから芸術は教育の一種と見なさなければなりません。本当の芸術は、道を間違った卑猥な芸術ではありません。

 心を普通より善くするために、何かを美しく、繊細に、緻密に、深遠にすれば、芸術と呼ぶべきです。そしてそれをあのように、そのように、このように有益にする道具として使うこともできます。特に仏教の布教においては、芸術を知っていれば最高に良く、より成功します。

 特に美術と呼ぶ物は難しいという意味ですが、人はできます。できなければ、彼らが良く「芸術のための芸術」と言うような、有益である方にしません。こういうのを、私は「バカ」と言います。芸術のための芸術なら、何の利益もありません。

 芸術は平和のため、あるいは人間の静かな幸福のためでなければなりません。芸術のための芸術にしないでください。今の人が好んで話すように、立て続けに創りまくらないで、静かな幸福のため、あるいはすべての階層の、すべての方向の人間の平和のための芸術でなければなりません。そうすれば人間集団が欲しがる芸術と呼ぶことができます。そして本当は、教育訓練の一種です。

 今世界の人は、これを間違ってしています。芸術のための芸術を創って磨きをかけることに逃避し、何も利益がありません。それが芸術でも、私たちはそれを芸術と認めますが、世界の一部の人たちを狂わせ、平和にとって利益のない種類の芸術に狂わせる以外に、何の利益もありません。

 続いて見る教育は、音楽、あるいは歌と明示したいと思います。これも教育です。

 歌を歌える子は、歌を歌えない子より賢いです。愚かな子は、大きくなっても歌が歌えません。愚かなので、声を使い、舌を使い、口を使い、何を使うにも愚かです。使い方を知っていれば賢いという意味です。使い方を知るには練習しなければなりません。練習すれば教育です。だから音楽と歌は人を賢くし、口や舌などの器官を人間にとって利益があるように使う一つの道具です。

 音楽と歌は、大昔から人間と共にあり、段階的に正しく使って来ました。つまり悪い感情を静めるため、下賤な感情、狂った感情を止めるために音楽や歌を使いました。怒りの感覚、悲しみの感覚、恨みの感覚が生じたら、それらの感情を掃き出してしまうために使いました。だから菩薩堂の中でも使うことができます。正しい方法で使えば、菩薩堂の中でも利益があります。

 つまり音楽や歌を使って悪い感情を洗ってしまい、善い心、あるいは中立の心にしてから神様を思い、プラタムを思い、それより深遠な物を思います。音楽と歌はこのような利益があり、教育になります。

 現代になると、彼らは音楽や歌を人間を消滅させる物として使います。音楽や歌を使って悪い感情、下賤な感情、恥を知らないほど愛欲狂いの感情を刺激し、卑猥でも自覚がないので普通と見ます。他の時代と比較するとびっくりします。いろんなラジオ局で放送している歌も、違う時代と比較して見るとびっくりします。今は煩悩を促進する歌、歌詞があり、静める、あるいは煩悩欲望を抑止しないからです。

 音楽や歌は教育として、道徳の道具として調整しなければなりません。このように直接にも間接にも教育を調整しなければなりません。そうすればそれ自体が道徳と呼ぶ物の調整です。世界が素早く回転している時、交通でも何でも進歩するので、道徳の話も並行するよう調整しなければなりません。だから道徳も含めて、すべての基礎である教育を調整しなければなりません。

 私は「道徳と呼ぶ物を調整するのは、物質面で進歩した世界にふさわしくするため、この世界を物質の奴隷にしないため」と言います。正しい教育と善い道徳を物質の主人にするからです。そして道徳がある心の保護下で、物質が生活を振興します。このようにできれば、弥勒の宗教も途端に現代の私たちに現れます。つまり心が善くなり、物質が発展し、互いに振興し合って、人も確実に弥勒の宗教と呼ぶような生活になります。

 この調整は広く、どの宗教も、宗教とこの世界の文化と適合させなければなりません。今はまだ間違ってしています。「俺、俺の物」の煩悩が著しくあり、他の宗教、他の文化を間違いと見、自分の物以外は悪い物、間違いと見るからです。こういうのを自分の宗教、あるいは文化も知らないと言います。

 道徳の基礎である教育を、人間にとって必要なすべての制度と適合するようにしなければならないということです。政治制度でも、経済制度でも、走るように変化している人間にとって必要なすべての制度、そして国際間、宗教間、いろんな文化の間で、人間社会に影響がないようにします。

 要するに道徳に関わる、あるいは道徳の一部でも、この世界に道徳があるため、そして善い道徳にするために調整があります。

 次は低い言葉で「解決」です。

 調整と解決を分けたいと思います。重さが同じでないので、解決は誤りと見なすべきで、私たちは調整しなければなりません。調整なら誤りでなく、あるいは全部間違いでないので、調整しなければなりません。この行動を正しく使って何を調整すべきか、何を解決すべきかを見ます。しかしある物はまだ関りがあります。同じ物で、調整と解決をしなければならない物もあります。一本足のウサギ、あるいは真直ぐすぎる長老のように執着しないでください。

 例を挙げれば、今世界の人間が物質の奴隷であるのは、調整しなければならない部分があり、ある部分は解決しなければなりません。道徳の衰退の話はタンマが衰退する訳でなく、タンマの行動をする人が物質の奴隷になることで衰退し、世界を破滅に導きます。そして調整すべき部分は調整し、解決、あるいは変えてしまう部分もあります。これが、良く注意しなければならない話です。そうすればできます。

 解決について話すと、例えば幾つかの、ずっと昔から続いている進歩しないこと、あるいは迷信です。進歩しないことは自覚がないことから生じ、進歩がないことを自覚し、認める人は滅多にいません。誰でも出世し、目立ち、早く多くしたいからです。だから進歩しないことは何でも正しく見ないこと、十分に見ないことから生じます。進歩しない教育もあり、最高に進歩発展したと彼らが言う教育も、このように騙すことができます。

 世界中の人が「世界の教育は今発展している。進歩している」と話します。しかし仏教教団員はまた別の見方、もう一つの見方で、「この種の教育は、平和の構築にとって進歩がない」と見ます。本当の仏教徒の言葉では、涅槃への到達にとって進歩がなく、すればするほど涅槃への到達から遠ざかると言います。だから一つの意味で後退と言えます。

 走るように実施し、走るように進歩している教育は、人間の目的を誤れば、目的に到達しない、目的から遠い、目標から遠いと言います。それは後退です。

 しかし彼らが、私が望むように望まなければ話になりません。そして彼らは物質面の進歩を欲しがり、私は心の面の進歩を欲しがります。てんでに別の物を見下す状態で見て、どちらも進歩がないと言います。今私は道徳が低くなり、世界の進歩発展に対して遅れている部分を見ます。誰も援けられないような世界の様式で行かなければならない世界もあります。

 それは解決して軌道に戻す援けをする道徳の義務です。道徳を、走っている時代の人間にとって進歩がない物にしないでください。月の世界へ行くようなのは進歩の話で、人間はこのように進歩したと言わなければなりません。幾つかの道徳も解決、あるいは調整、あるいは同時にしなければなりません。それに誰が責任を取るか誰も思わず、知りません。

 これは、非常に哀れで可哀そうです。誰も責任を取れません。あるいは誰も世界にあるすべての失敗の責任者ではありません。誰も責められません。一つ一つの国も責任を取る人がないのに、世界全体を言わないでください。そして誰も責任を取れないので、どの面のいろんな失敗も、このような政治面も誰も責任を取れません。

 そしてその義務をする人を変え、「不可能」と言い訳し、責任を取る必要はありません。だから引っぱるばかりで、誰も責任を取る人がなく、誰かの誤りとして誰かを責める必要はありません。今世界は走っていますが、道徳は進歩がなく、誰の責任として責めれば良いか分かりません。

 私がこのように話したのをもう一度見ると、意味がないように見えます。つまりできないと見えますが、私は話して知らせるべきと考えます。誰もしなければ、私がしても良いです。何も害があるようには見えません。少なくとも、私自身に利益があります。運良く話すのを聞いて理解する人がいれば、きっと賛同する人もいるので、相談し合い、助け合って解決でき、この集団は善くなり、あるいはこの町が良くなる、こういうのもまだ利益があります。

 迷信と呼ぶ物はどのようか、理解でき、見ることができる意味がありますが、なぜ現代の世界にあるのでしょうか。理由のない迷信が戻って来て以前より増えている今、どのように解決できるでしょうか。

 私が子供の頃、精霊の祠は、探して目薬にしようにもありませんでしたが、今は祠だらけです。霊験のある物は、昔は非常に僅かでしたが、今はなぜ増えたのでしょう。世界が発展し、教育が発展したという時代に、なぜ迷信が戻って成長発展したのでしょうか。これはきっと、発展と関係あるかも知れません。発展が間違い、教育が間違い、道徳が衰退し、それが迷信を発展させるチャンスになったので、迷信が発展しました。

 物質の発展は煩悩を生じさせます。これは確実で、理解できます。そしてわずかな煩悩である愚かさ、あるいはモーハ(迷い)の結果である怖れが、再び迷信が戻った原因です。何かをあまり恐れなければ、迷信は戻りにくいです。

 昔、私たちの先祖はあまり恐れず、恐れなければならない話もありませんでした。あまり怖れないというのは、祖父母たちは徳の話、カンマの話を確信し、喜んで受け入れたので怖がりませんでした。彼らは現代より多く「無常・苦・無我」について話し、それも怖がらない援けになりました。

 一方で徳やカンマを信じたので払い除けることができ、一方でそれはそのようなので、つまり無常・苦・無我なので、払い除けることができました。恐怖が多くなければ、愚かな方へ転げて行かないので、迷信は少なく、する必要がありません。心を妨害する問題がないからです。

 現代になると、人に願望が多いのも恐れを増やします。願望が多いと、恐れも多くなければなりません。そして怒りや困苦も非常に強烈で、それが軽減させる物を探求させる原因で、それ以上良い物がなければ、迷信にならなければなりません。迷信は信仰の一つで、愚かさの信仰でも心の混乱困苦は一時静まり、一時でもまだマシなので、彼らは再び迷信の奴隷になりました。

 だから深く根源まで、あるいは根である恐怖まで、解決しなければなりません。切望が多くあれば、それだけ恐れも多く生じるので、切望を正しくし、丁度良くすることを知れば恐怖も少なくなり、迷信も減ります。

 次にもう一つ、熟慮しないで伝承してきた行動も一部にあります。正しいものもあり、間違いであるものもあります。伝承してきた行動は苦が生じず、複雑困難も生じないので、迷信と呼ぶべきではありません。迷信の形をしていても、正しい信仰でなく偶々正しいのを伝承できたと言うべきです。ほとんどは道徳の話、文化の話がこのような状態にあります。

 伝統習慣、文化や何やらの維持というものは、古くから伝承して来たものの中にあり、非常に助けになります。「賢く選ぶことを知っている」と自慢する現代の学生より信じる力が多いからです。彼らは選んで、そしてしません。たくさん信じて沢山させる力がないので、善くて正しい伝統文化は不毛になれます。

 このような場合はどのように解決し、どのように調整するか。難しい問題だと特別に良く熟慮してください。だからこのように時々繰り返し話して判断するのは、利益があるかも知れません。これらの物が見え、調整できるようにする助けになります。

 先ほど調整について話し、それから解決について話します。そして同じ物を次々に調整し、解決したことを忘れないでください。道徳を調整して、幾つかはまだ解決しなければならないのと同じで、教育なども調整して、解決しなければなりません。そして同じ言葉をどちらにも使います。あるいはそれらの物をどのようにしなければならない、調整しなければならない、解決しなければならない、振興しなければならない、維持しなければならないと、このように決めたどの項目にも使います。

 教育も調整するだけでなく、解決もしなければなりません。スポーツ、政治、道徳を振興しない何でも色々、解決しなければなりません。

 教育、スポーツをどのように解決するか、調整という言葉の冒頭で話しました。調整できないほど悪ければ、解決、あるいは中止しなければなりません。しかし多すぎ、私たちの能力以上に人間同士で関り合う話なら、できる範囲でしなければなりません。

 そしてまだ、他の人たちの権力下にある問題があります。特にこのような民主主義の時代は、誰かが何かをする権力が複雑に絡み合っていて、できないこともあります。民主主義と呼ぶ物が、するべきことをできなくさせていることもあるからです。

 これも良く注意して見なければなりません。どの種類の民主主義がなければならず、そうすれば道徳面の問題を調整解決する障害にならないか、もう一度話さなければなりません。


 次に解決、あるいは調整の規定について話します。私たちは仏教教団員として、ブッダが決めておかれたいろんな教えを思わなければなりません。ゴータミースッタ、カーラーマスッタ、マハーパデーサスッタなどを読んで見ます。私も非常に詳しく講義したことがあり、今話すと混乱するので、念のために名前を明示するので、後で勉強して見てください。

 例えばゴータミースッタは、「どのような行動は仏教のダンマ・ヴィナヤで正しいか」と言います。要するに煩悩の言いなりにならない、煩悩の奴隷にならない、丁度良い生活をする人で、八つの項目があるので、読んで見てください。

 カーラーマスッタなら信仰に関してで、「次々に聞き伝えているからと言って信じない、伝承している行動だからと言って信じない、ブームになっているからと言って信じない、テキストに書いてあるからと言って信じない、話す人が信じられそうだと言って、あるいは自分の先生だからと言って信じない」と、正しさを原則にさせます。

 マハーパデーサのダンマの側は簡単な教えがあり、「一般の教えである大きな教えと一致しなければならない」と簡単に話せる教えがあります。宗教面の教えは何万項目もあっても、このような系統があるとハッキリ説いている自分自身の系統があり、その系統でない言葉は捨てることができるということです。こういうのをマハーパデーサと言います。

 大きなパデーサ、大きな系統はどのようでしょうか。例えば「実体がなく、執着できない」大きな系統があり、あのようにこのように固定的に言うことはできません。死んだ後生まれる、あるいは死んだら生まれないなど、このように言うことはできません。自然の因と縁次第でなければなりません。こういうのを系統、あるいはマハーパデーサと言います。提示したどの言葉でも、その系統から外れれば間違いと言い、切り捨てて良いです。

 これも調整、解決、あるいは絞ることで、絞ってしまうべき部分を全部絞り出してしまえばこのようになります。それらのパーリに依存するだけで、仏教教団員として十分です。


 次にもう一つ、最高に急いで解決するべき物である誤解を見ます。

 ほとんどにあり、そしてどんどん増えているのは誤解で、タイ国内でも「タンマは世界の発展を妨害する」と言うのを、頻繁に聞きます。道徳は世界の発展にとって妨害と、あるいは知足の話、執着しない話など、高いレベルのタンマなら高いほど、世界の発展の妨害になると言います。これは誤解か、もう一つの悪意で、真直ぐでない人です。

 その誤解は、知らないから誤解してそのように話します。しかしわざと言う人もいます。悪意があり、何らかの利益のために「仏教の教えであるタンマは、世界の発展の妨害になる」と言うのと同じです。時には言葉を全部聞かないうちに早合点し、「空の心は世界にある発展を妨害する」と言うのは、空っぽの心という言葉を理解できない人だけです。時には悪意があり、引っ切り無しに反論する習性もあります。

 要するに、プラタム(ブッダの教え)を誤解させる間違った言葉を、急いで解決するべきです。みなさん助け合って、道徳にとって、道徳を持つことにとって、あるいは仏教の発展にとって障害であるこの凶悪な物を、できる限り排除、あるいは解決してください。教育の段階なら、腐った教育を正しくすれば、道徳の面の実践が正しくなり、発展の障害ではありません。

 知足の話は百パーセント誤解で、発展の障害物と見ます。本当は、知足は人間を狂人でなくし、神経の病気でなくするので、安楽で楽しく暮らし、仕事を楽しくします。どれだけできても、どのようにできても、一日一日満足し、その仕事を楽しめます。本当の知足ならこのようです。彼らは「知足は人を何もしなくさせる」と言います。これはバカな人が言います。真似をしないでください。

 執着しない話も同じで、狂うのを、あるいは神経の病気を防ぐ物です。私のお寺には、神経の病気の類の人の訪問が、毎月、毎年増えています。聞いて見ると全部このような形で、神経の病気です。執着があって醒めることを知らないので、何年もしないで神経の病気や心の病気にならなければなりません。執着しない話を理解すれば、執着しないで何でもできます。

 「お金があったら、なぜ頭の上に押戴かなければならないのか。傍へ置くこともできる」と話して聞かせても、あまり理解できません。お金を頭の上に置けば眠れません。何カ月もしないで神経の病気になります。こういうのは心の中の執着が空っぽの時間がないので、休まず頭上に押戴くのと同じです。

 無常・苦・無我の話の誤解、執着しないことの誤解を助け合って解決しなければなりません。眠れない人、あるいは神経の病気になり始めている人は、急いで心を見れば、「原因はここにある」と見えると自分で知ってください。

 これは解決しなければならない物、あるいはどのように解決するかという状況の見本です。時間に限りがあるので、一言漏らさず全部話すことはできません。だから部類ごとに見本だけを話すと、繰り返させていただきます。


 次に振興という言葉です。調整はどのよう、解決はどのよう、振興はどのようで、どのように違うか、どの部分も比較しなければなりません。

 人間同朋に道徳を持たせることを目指し、あるいは少なくとも道徳があるよう努力すれば、彼らは道徳の結果を味わえます。次に互いに振興し合わなければ、それは難しいです。振興は力が非常にあります。アドバイスと説明、元気づけ、そして助けられるすべての支援をするからです。自分の同胞がダンマ、あるいは道徳を持つため、彼らにあるよう、あるいはありたいと考えさせるために振興し、そして成功して結果を味わわせます。

 今は反対の経過になります。つまり無関心で、誘い合って道を探す、あるいはタンマの実践をする勇気、明るさを生じさせません、妨害したり、脅したり、「してはいけない。何も利益がない。必要ない。時代遅れだ」と禁止したりすることも少なからずあります。禁止する人は悪人で、本物でなく、実践しない人、尻尾を切った犬で、他人にも尻尾を切るよう誘います。

 こういうのはたくさんいます。普通の正常な感覚でダンマの実践を禁止するのは、あまりありません。できません。その人の個人的な話である何かがなければならず、それで禁止します。あるいは他の人に禁止させます。あるいはタンマの実践をすることに反論し、そしてダンマの実践でない何かをするよう誘います。こういうのは一部にあり、それが世界でダンマの実践をする勇気をなくさせます。

 次に「すべての物は因と縁で経過する」という項目を思う時、私たち自身にも環境があり、促進する物があり、心を支える物、何でも呼び方次第ですが、それが必ずあります。

 共通の言葉で motive (動機)と言います。何が道徳の motive か、たくさん説明しました。そして環境、あるいは周囲の人物、善意の友達、あるいは最初の段階で持たなければならない善友も含めました。だから私たちは行動すべきです。人間同朋に関心を生じさせ、要求を生じさせ、試して見たくさせます。

 時には私たちは宗教のために、ダンマを批評検討する友達を作らなければなりません。批評検討する友達がいなければ、プラタムを批評検討する時間がありません。あるいは機会が少ないです。だから批評検討する友達を探して見て、多少反論しても善いですが、喧嘩まで行ってはいけません。

 ダンマの本が二冊あったら一冊友達に上げれば、その人は読むことができ、そのダンマを熟慮検討し合う人になれます。こういうのは振興で、一人でするより良いです。今は楽しくなく、できても遅いです。

 次に思わなければならないのは外部の人、つまり仏教外の人です。タイ人でも仏教に興味を持ったことがない人は外部の人と同じなので、その人が(自己)教育を始める関心を引き寄せなければなりません。その人も理解できれば、きっと実践を始めます。

 中には「お節介」と考える人も、失敗したら罰を与えられるとまで、非常に恐れる人もいます。これは怖れすぎです。「じっとしていても楽しくない。彼らにダンマの勉強をさせてもできない。そして彼は何か支障が生じると私を罰し、あるいは怒る」と、こういうのもいます。

 「私たちは世界に一人で生きることはできない」と思えば、世界の中に善い友達を作らなければなりません。そうでなければ、悪人しかいません。

 私たちは、世界を共にする善い友達を持つために努力ます。そうでなければ悪人の、あるいは狂人の最中で暮らさなければならず、それは最高に大変です。私たちは身勝手と言うこともできます。しかし身勝手でなく全体のことを考え、助け合って、この世界に話ができる人がたくさんいるようにします。ダンマを知る人は話が通じる人です。そのようでなければ煩悩があり、話が通じません。だから良い理解の振興を宗教間まで拡大します。つまり世界にある違う宗教まで拡大しなければなりません。

 互いに良い理解を振興するべきです。宗教と呼ぶ物は非常に重要なので、自分の宗教への執着が、話ができなくする原因のこともあります。殺し合って破滅するほど政治面の凶悪な問題を生じさせたと、過去の歴史に現れているのもあります。人が身勝手で世界のことを考えず、全体のことを考えないのでこのような結果が現われ、そして誰を責めて良いか分かりません。

 宗教間で理解することについては、短い要旨にまとめて、前にたくさん話したことがあります。ダンマ、あるいは宗教は人間が作った物ではなく、自然の真実を発見して教えた人間の話と見せました。

 次に「自然」と呼ぶ物は一種類だけで、何種類もありません。誰が発見して述べても一致しなければなりません。それぞれ違う方向、違う角度、違う面を見ても、矛盾と言うほどではありません。矛盾があれば人が勝手に言い、勝手に説明し、愚かさで誤解して反論点を作ります。言葉の外皮を掴み、辺材を掴み、本当のタンマ、あるいは本当の宗教を掴んでいません。

 本当の宗教にすれば一致し、どの宗教も自然の真実の法則です。どの宗教も自然の真実の法則が宗教その物です。違うのは、教祖がその時代の、その土地の自分の弟子のために問題を解決するために発見した部分だけです。それは辺材、あるいは些細な部分で多少違いますが、心臓部は全部同じ、身勝手でないことです。

 それより遠ければ、愚かに「これは私、これは私の物」と執着しないでください。自然の物だからです。それは神様の物で、お前のような愚かな人の物ではないので、お前が「それは私、私の物」と考えれば、全部間違いです。

 すべての宗教を学んで見るようお願いします。その宗教の心臓部に至れば、「自分勝手ではいけない」という、最高に基礎であるこの教えに出合います。あるいは「すべての動物は生老病死の友」と、このようでも良いです。彼らは他の言葉で、他の文型で話しますが、要旨は同じです。私たちは動物の一種で、同じ問題があり、同じ心があり、煩悩から生じた苦があり、自然の成り行きから生じた苦もあるので、助け合ってこれらの問題を解決します。

 宗教間、つまりいろんな文化の、国際間の、人間と人間の良い理解を振興することは難しい問題の一つですが、不可能ではありません。道徳の振興と呼ぶ物、あるいは道徳の基盤である教育を振興して、正しく経過させなければなりません。

 現代にこの世界で何をするにも、道徳で正しくします。敢えて道徳に反したことをしないでください。自然の法則に反し、そして神様の望みに背くと言います。今自然保護でない何かをし、神様の切望を支援せず、それで前よりひどい結果を受け取ります。

 例を挙げれば、産児制限を愚かさで、物質的な規定ですれば、道徳面を支援しません。あるいはタンマの教えの方では善い経過にならず、ますます悪い結果になります。つまり成功しません。心の話が援けなければ成功することはありません。薬の使用、あるいは物質的な方法は、早晩別の常軌を逸した問題が生じ、五体満足でない人間になります。

 それは前よりもっと問題があります。あるいは人工中絶は道徳に反しないと言い、最後には子供を殺すのは道徳に反しないという風潮まで、道徳を解決しなければなりません。休まず間違ってしているのでどんどん遠くなります。道徳の教えに依存しないからです。道徳の教えで心の面を解決し、心を管理すれば、これらの問題は生じません。

 これは世界にある物の見本にすぎず、そして本当にある問題です。だから何の問題でも振興、調整するなら、道徳で経過させてくださいとまとめることができます。道徳を捨てないでください。そうすれば人間は、問題を作って山積させません。あるいは今のように自分の首を絞めないと言います。これらを私は「復興の後、調整の後の解決に続く振興」と言います。


 話したい最後の項目は、振興の後は維持です。復興、調整、解決、振興して何でも良くしたら、その良い状態、あるいはその正しさを維持しなければなりません。これも重要な物の一つです。

 道徳の状態、あるいは教育の状況を正しく解決して、人間社会の利益の良い基礎にしなければなりません。そして助け合って、帰依を授かる儀式のように厳格に維持します。あるいは「私はこのような実践をして命を失っても、この正しさは捨てません」と誓いを立てるという言葉を使っても良いです。

 だから維持に関した儀式が生まれ、私たちが「この体と命を、ブッダとプラタムと僧に捧げます」と言うように、ブッダ・プラタム・サンガの規則、あるいは系統と違ったことはしないところを目指します。これは徹底した維持です。本当に維持があると言えば、問題は終わります。比丘・沙弥・比丘尼が仏法僧に誓うように、何としても維持すれば問題は終わります。オウムや九官鳥のようにあるだけなら、つまり口だけなら、何も結果はありません。

 なぜ維持しなければならないのでしょうか。いろんな物は一瞬で、一日で、あるいは一晩で成功しないからです。それは時間が必要で、それを訓練しなければなりません。花が咲いてから実がなるまで、いつでも正しく暮らさなければなりません。この項目は「これらすべての比丘が正しく暮らせば、世界に阿羅漢が欠けることはない」と言われたブッダバーシタを思いなさいと忠告したことがあります。

 「正しい暮らせば」という言葉は、長い間正しく暮らすことで、パパッとすることはできません。間違いも少しずつ作られ、私たちのこの年齢になるまでにはどれだけの時間でしょう。そして一瞬で解決するのは特別すぎる場合で、期待しないでください。だから正しく暮らして補填します。これが普通の教えです。一瞬で解決できるほど上手なら、問題である何十年も続いている間違いも、特別でなければならないだけです。そして観察して見ると、私たちはこの話に非常に愚かです。

 例えば政治や経済の問題を解決するいろんな専門家会議を翌日終わらせるのは、私はできないと感じます。それはむしろ、目を瞑っている愚かな人の話です。

 その失敗は初めから、子どもの時から大人になるまで何十年もです。そして政治面の失敗も同じで、何十年も失敗し、そして今突然解決するのは間違いで、自然の法則に反します。根本を正しく解決しなければなりません。いろんな方法がなければなりません。そうすれば解決できます。だから維持がなければなりません。長期間、自分の正しさを維持しなければなりません。正しくなった途端、いろんな問題がなくなる訳ではなく、その中に慢性病が隠れています。

 この正しさは、十分長くなければなりません。そうすれば慢性であること、習性である癖、何でも色々抜くことができます。正しさを作るダンマと呼ぶ物の理想、あるいは今道徳の形の正常と呼ぶ物を維持しなければなりません。シーラは正常という意味で、シーラタンマは正常にするタンマで、正常な状態を維持します。あるいはそれをいつでも正常にするための行動です。それは(道徳)は生き物の命の伴侶という言葉を使うべきです。

 生き物は植物でも畜生でも、あるいは人間、天人でも、命があると言います。そして命の伴侶としてなければならないタンマ、あるいは道徳、あるいは正しさ、正常と呼んでも良いですが、それがあります。常軌を逸し正常でなければ、死ななければなりません。常軌を逸していなければ正しいです。それはダンマ、道徳で、命の伴侶としてなければなりません。こういうのは失敗がなく、あるのは正しさだけです。最高に正しさがあれば問題は終わります。

 だから私たちはダンマ、あるいはプラタム、あるいは神様、何でも呼び方次第ですが、それが命と共にあるようにします。これは大原則です。他は枝分かれした小さなもので、その部分この部分の正しさを維持します。食べて、排泄して、水浴して寝るなどしなければならない私たちの身体にも、いつでも維持している正しさがなければなりません。一日だけして、その後はする必要がない訳ではありません。このような話はこのようです。そして心の面の話も同じです。

 次に遠く考え、世界中の人間全体の話、あるいは世界の利益のための宗教の話にします。どうか教育の角度でも、あるいは道徳の角度でも、人間の正しさにとって基礎であり根幹である仏教を維持してください。私たちが維持しなければならない宗教という言葉を使うなら、これが宗教と呼ぶ物で、いつでも三つの部分に分けてくださいと、何度も繰り返し話したことがあるこの話を思い出してください。

 最初の部分の宗教はパリヤッティ、あるいは正しい知識で、宗教の二つ目の部分はパティバティ、実践で、それも正しくしなければなりません。三つ目の部分はパティヴェーダ、洞察する知識である結果、これも正しくします。

 正しい教育、正しい実践、正しい実践の結果があるようにし、正しい教育・実践・実践の結果を受け取らせます。つまり迷わず、愚かに信じず、このように噛み合います。この三つの部分の正しさを維持してください。そうすれば宗教を維持できると言いわれます。どの宗教も、全部このようになります。次に宗教があれば、世界を護る人、人間を護る人がいるので、私たちは一斉に危機を脱します。これがすべての宗教の目的です。

 人間は述べたような真実に応えているでしょうか。それは、人間はどこまで遅れているかによります。人間が走って淵に落ちていれば、話になりません。私は、まだ淵に落ちていない人を護るために話し、「世界の状態はどのように間違いか、あるいは正しいか、今どのような状態にあるか、世界で暮らす人の状態を教育に基礎がある道徳の角度で見てください」と、叫んで戻すことができます。

 だから私は今日、「道徳の復興、調整、解決、振興、維持」という題でもう一度話しました。すべての項目をできるかできないかは考えないでくださいと、繰り返し話させていただかなければなりません。「義務であり、するべきこと」とだけ考え、そしてしましょう。

 助け合って人間を危機から脱させる物を、人間として、仏教教団員として、つまり愚かでない人として復興、調整、解決、振興、維持します。どうかこのようの理解してください。いろんな問題は、自然に良くなります。

 道徳と呼ぶ物について見本として話した復興などの話の講義は、ちょうど時間になりました。今日はこれで講義を終わらせていただきます。




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