8.道徳面の問題に山積している問題 Ⅱ





1974年8月24日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマ・シリーズの土曜講義の第八回目の今日は、まだ途中で終わらなかった前回に引き続いて「道徳の問題解決に山積している問題」という小さな題でお話しします。

 いつものように、今回だけ聞きに来られた方のために、特別の機会を頂戴します。そして前回どんな話をしたか知らずに、部分ごとに話すのを聞かなければならないので、十分な理解ができないのは、仕方ありません。

 私は「道徳面の問題解決のために道徳の問題について話している」と、前回の要旨を復習し、最善を尽くす努力をします。今世界は困難と四分五裂、あるいは危機と呼ぶ規模まで、いろんな種類があります。そして解決できず、あるのは倍増だけです。私たちは目を瞑っているように誤解し、本当の根源である物を見過ごして解決せず、夢中になって末端の原因を解決するからです。

 本当の原因は道徳と呼ぶ物です。道徳の欠如、あるいは欠陥のある道徳は困窮、貧困、四分五列の話で、道徳が完璧なら静かな幸福、満足すべき状態で暮らす話です。

 「道徳(シーラダンマ)」という言葉は、本当の文字では「正常さを作る物」という意味です。パーリ語で「シーラ」という言葉は正常という意味と知ってください。このような場合の「ダンマ」という言葉は普通の言葉で「物」という意味があり、自然にある物なら何でも良いです。シーラダンマとは「正常があるようにする物、正常さを生じさせる物、あるいは正常である物」なので、問題はありません。

 だからこの世界に道徳があれば、世界に問題はありません。問題は異常から生じます。道徳が衰退すれば、正常な状態が異常を来たしたことを意味します。道徳がなければ正常な状態はありません。この言葉はこのような意味があります。これと違うことはあり得ません。

 タイ語はパーリ語、あるいはインドの他の言語を借りて使っています。タイはインドの文化を受け入れたので、多くの言葉をインドから借りて来ました。そしてインドの言葉の語源を勉強すれば、これらの言葉を何とか理解できます。大変なのは、その後他の言語と比較する点で、意味が複雑だったり、曖昧だったり、あるいは違ってしまうこともあることです。

 今最高に確実にすれば、パーリ語の道徳という言葉は「正常にする物」という意味です。体・言葉・心、低いレベル・中間・高いレベルなど何でもたくさんに分けることができますが、まとめれば正常さを作る物だけです。


 世界全体の問題は、正常な幸福で暮らせないことです。道徳がないので、どの段階も「道徳に欠ける」と言うことができます。

 次に私たちが正常さを欲しがると、道徳がないことから生じた末端の原因を解決します。経済の問題、政治の問題、軍事の問題でも、それは末端の原因で、(根源は)もう一段階、道徳がないことに由来しています。だから現在まで解決できません。そしてどんどん酷くなるのは、この世界は道徳と呼ぶ物を見過ごすことが増え、彼らは気づいていないからです。

 世界は今、どのようにこれを見落としているか、良く見てください。昔なら宗教と呼ぶ物は、どこででも教育と双子でした。そして家の中の文化とも双子で、人の血の中にありました。道徳は人の血の中にあり、口で教えなくても、人は道徳を持つことができました。

 今扇情的な物に惑溺するので、道徳は疎遠になりました。一つは物質的楽しさで、そして研究や発明が拡大して増え、その後利益をもたらす物を発見しました。今世界で非常に惑溺しているのは、すべての分野のテクノロジーと呼ぶ物です。だから道徳は消えなければなりません。

 西洋の女性は手首まである長いブラウスと、踝まであるスカート穿き、中東の女性は顔を覆い、足首まで覆わなければなりませんでしたが、それも変化し、覆う部分が少なくなり、今は覆う考えがありません。これは愛欲の話に首っ丈になった変化を表して見せるものです。だから世界は変化しなければなりません。人の心がこれほど変化したからです。

 道徳は、迷いや煩悩欲望の威力で変化した心にあることができないので、道徳は衰退の方向に変化し、場合によっては道徳がないほどと見ることができます。

 人がすべての欲望の物質に迷うことが多くなると、人も道徳を見落とし、結果は身勝手になって現れ、どんどん酷くなります。だから何の分野も身勝手でするので、世界の正常な幸福が失われ、身勝手で物質的な幸福を探求するために略奪が溢れています。

 人の苦や困難が深刻になると、世界中の人は解決の道を探すので、良く調べもせずに解決します。つまり道徳の衰退の結果である小さな点を解決し、その原点、つまり道徳を持たせることで解決しないので解決しません。これは本当に問題であり、最高に深い所にあります。

 この問題を解決できないのは、道徳の衰退から生じる他の問題が幾重にも山積しているからです。ヤシの実の肉を食べたくてもヤシ殻が覆っているのと同じで、他の殻でなく、ヤシ殻がヤシの実を覆っています。だからそれから、あるいはそれが本当にあることから障害が生じます。私たちは、本当の問題を、このように段階的に解決しなければなりません。そうすれば本当に最後の問題を解決できます。

 道徳の問題は、迷って物質面の話だけを好む、あるいは過剰に好むことから生じる身勝手にあります。そしてその間違いから、直接にも間接にも、いろんな問題が発生します。


 直接誤ってするのは、間違った教育を実施する問題、世界中良く調べないで間違った教育をする問題です。つまり実施する教育に道徳があるよう振興しないで、反対に道徳を消滅させます。

 物質式、テクノロジー式教育は物質に惑溺させ、道徳を持とうと考えません。あるいは、道徳は自分の美味しさや楽しさを妨害すると考えます。間違った教育は道徳があることを促進させず、道徳を消滅させる教育になり、その結果、たくさんの問題を生じさせます。直接山積している問題と言います。直接山積している問題である間違った教育は、前回の講義で詳しく話しました。今日は、間接的にある道徳の山積する問題について話します。

 いつでも、幾つかの話す言葉を復習させていただきます。すべての省に仕える犬にするために、すべての省より大きな道徳省を作らなければなりません。すべての省が自分の義務ができないのは、道徳がないからです。

 規定でも人物でも、道徳を妨害する物があります。もし道徳があるよう助ける物があれば、どの省も自分の義務を実践できます。ね、誰にも道徳を持たせる助けをするため、あるいは規則、計画、いろんな方法全般に道徳があるよう管理する援けにするために、道徳省がなければなりません。

 「仕える犬」という言葉を使うのは嫌らしく、あるいは下品ですが、忘れにくい点が良いです。そしてそれはコミュニストたちが使う言葉で、最高に忘れ難く、正しく使えば利益がありそうです。

 これは、このような問題が周囲にたくさん溢れているのは、解決するには呆然としてしまうほど、錯綜したように関わり合っているとハッキリ見せてしまうために、間接的に道徳の問題に山積する問題について熟慮しなければならないからです。世界の人が物質にしか関心がないのは、物質主義のせいです。だから解決の道が見えません。


 次に、道徳の問題に対して間接的に取り巻く問題と呼ぶ物について熟慮して見ます。

 「間接的」という言葉は、理解している言葉と理解します。次に、意図するのは、直接でない問題です。周囲を取り巻く問題だけで、そして主である問題から枝分かれした些細な、ごたごたした問題で、次々に芽を出して、枝葉末節の問題になります。これを間接的な問題、そして親分である問題を取り囲む子分である問題と言います。しかし二つは関りがあるので、子分である問題も親分である問題と一緒に対処しなければなりません。

 間違った教育が道徳を衰退させることについて、そしてその間違った教育が、間接的な問題と呼ぶ他のいろんな分野の問題をたくさん生じさせる、と思わなければならないと、繰り返させていただきます。大学を出てもダンマの話、宗教、あるいは私がここで道徳と呼ぶ物はありません。

 ここでの道徳は高いレベルの物、つまりアリヤシーラダンマ、聖人の道徳で、彼らが好んで言うような「庶民の善い道徳」ではありません。しかし今庶民の善い道徳も、探して目薬にするほどもありません。聖人の道徳を求めるなど、最高に遠くなります。しかし私は欲しいです。これがなければ、世界は破滅するからです。

 二頭の水牛が一つの鋤を牽くように、私たちは宗教、あるいはタンマの系統を引っ張って来て教育と組にするために、力の限り何でもしなければなりません。これらを、間違った教育から生じるたくさんの間接的な問題と呼びます。教育をダンマ、あるいは宗教と呼ぶ物と分けてしまう主義があり、関わらせないからです。


 次に間接的な問題の例を挙げると、全部取り上げて話せないほどたくさんあり、できるのは見本として取り上げて見るだけです。

 この問題も、道徳がない時、道徳に欠陥がある時、揺れて定まらない道徳がある時、道徳が沈んだ時に問題になると述べました。これらは本当にあります。

 どうぞみなさん、心を中立に、純潔にして、私たちの町やこの世界全体、あるいはその人一人まで、全部道徳面の欠陥、あるいは不安定で安定しないことがあるかどうか、本当に見てください。道徳の欠如と言うほどなら「最後は破滅」と言います。欠陥ならまだマシで、不安定ならそれを真直ぐに解決することができます。しかしすっかり沈んで道徳がなければ、人間の最高の厄業と言います。

 次にこれらの物はどのようにあるでしょうか。時間があるだけ例を挙げなければなりません。何か支障があったら、「当て擦る意図はなく、私たちの状況を解決して良くしようと期待してのこと」とお許しください。世界中の人、あるいは他の国の人が解決しないのは勝手です。私たちは仏教教団員で、仏教の種類のタイ人なので、正しさ・善・真実・タンマであること、美しさを崇拝するので、仏教教団員の自然に従って努力しなければなりません。

 見本として取り上げる一番目の問題は、道徳面で沈没する時は、国、宗教、国王に対する忠誠に関した問題があります。

 今、国などに十分な、十分本物の忠誠がありません。あるいは前で拝んで後ろで騙します。口で「国・宗教・国王に忠実」と言うのは、口で言う、あるいは文字で書くだけで十分で、完璧に行動しません。それ以上に、国・宗教・国王とは何かをほとんど知りません。子供たちは幼い頃から記憶して暗唱し、舌が慣れるよう教えられたので、それが何か、彼らは関心を持つ必要はありません。彼らは憶えて終わりです。

 昔の人と比べると、祖父母の時代は本当にそのようにだったと見ること、信じることができます。現代人より国や宗教、国王に対して忠誠がありました。現代人は忠誠の力を全部物質、幸福、楽しさ、物質的美味しさに注ぎ、そっちの方は薄れました。

 「国と呼ぶ物を知らない」と言うのは、「人間の国の消滅はいろんな意味がある」と熟慮して見ます。道徳面の国の消滅なら、道徳に欠ければ人間の国は終わり、動物の国、畜生の国になります。このような状態で国を知っていますか。文化面、心の面の国という言葉もあり、消滅すれば、他の国の文化を好めば、心は他の国にあるということです。これもたくさんあります。

 食、住、遊び、楽しいこと、何でもいろいろな話で西洋の尻を追うのは、心で、あるいは文化的にタイ国を失うほどです。血の中の文化をこのように全部搾り出して、代わりに新しい物、物質式文化を受け入れることを、文化面で国が消滅すると言います。

 次に国を消滅させる原因が政治的な消滅に至るほどなら、国は占領され、他国の奴隷になります。これを政治面の国の消滅と言います。私たちが知っているのは政治面の消滅の話だけで、たくさん話し、非常に恐れます。しかし本当の原因を、「心の面の消滅があれば、確実に政治面の国の消滅が追って来る」と知っているでしょうか。

 私は、政治面の国の消滅は心の面、あるいは文化面、あるいは道徳面の国の消滅ほど悪くないと感じます。「国」という物を、このように知ってください。タイも心の面、あるいは道徳面で国が消滅しないよう、注意しなければなりません。

 次に宗教は心の面、道徳面を維持する基礎なので、消滅させてはいけません。国王は一般に、これらの物を保護して、このような状態を維持する義務がある統治階級であり、王の十正道がある王です。王が王の義務を純粋に行えば、最高に忠誠にするべき人で、人物としてそれ以上の人はいません。道徳・文化の角度でも、政治の角度でも、国中の人の国の消滅に責任を負うからです。だから私たちはこれらを良く見なければなりません。そうすればこれらに対して忠誠があります。

 今道徳がないこと、ダンマの原則で正しい物を好まないことが覆い、それも忠誠の話の問題になります。つまり十分真実でないのが一つ、あるいは前で拝んで後ろで騙すほどです。それで忠誠が不安定になることがその民族の最初の項目です。タイ人ばかりでなく、今はどの民族でも世界中の人の話になり、タイのように小さな国でも人間の話について述べていると知っておいてください。

 間接的な問題が生じ、国・宗教・国王に対して本当の忠誠がなくなるのは、国の道徳の改革を困難にします。この問題は、道徳の問題解決にとって山積する間接的な問題かどうか、見てください。


 次に第二項は、各種のヤクザから生じる妨害である問題でを見ます。

 いろんな形のヤクザであることは、道徳の衰退から、そして道徳を消滅させる間違った教育から生じます。いろんな形のヤクザ、例えば性的な犯罪は、今世界中で、信じられないほど急速に倍増していると認めています。ある国は、平均で七秒に一件、性的犯罪があります。このように読んだことがあります。休まず愛欲に惑溺すると、異常が生じて拡大し、非常に多くの愛欲の問題になります。

 プレイボーイというのは、食べきれない、使いきれない金持ちだけでなく、貧乏人にまで蔓延し、彼らもプレイボーイになりたがります。お金が無い時は探さなければなりません。公正な方法で探せなければ、このようなプレイボーイらしさを買うために不正に探します。だから楽しさ中毒、娯楽中毒になります。ダンマの言葉のように、彼らは「愛欲の物、あるいは物質の基盤である愛欲の物は、数えきれないほど多くの問題。愛欲面の犯罪だけではない」と言います。

 次に怒りによる犯罪があり、まとめて怒りの面の犯罪と言います。怒り、あるいは煩悩による加害です。怒りと呼ばれるものは愛欲、あるいは貪りの犯罪に繋がるので、同時に見なければなりません。

 貪欲の感覚、あるいは愛欲面の貪りは怒りを生じさせる原因で、思いどおりにならないと怒り、そのような物を欲しがらなければ、思うようにならない物は何もないので、怒りはありません。次に愛している物に溺れて思いどおりにならないと、怒らなければなりません。

 怒りの話は、もう一つの問題に分かれます。怒りの心があり、復讐心があり、恨んで狙い、野獣より愚かで残虐な本性があれば、もう一つの分野、もう一つの様式の犯罪である、怒りの心が原因の犯罪が生じます

 人は怒ると人間でなくなり、行動すると返さなければならず、代わる代わる恨んで復讐に燃えるので、どんどん破滅し、同時に残虐な習性、本性が厚くなります。だから今世界中で争っているのは、この原因が一部に含まれています。つまり憎しみ合い、常に復讐心を燃やすと言います。

 次の犯罪の問題は利益を探求することに関わり、直接利益を欲しがり、利益を狙って盗みます。差し迫った人、職業で追い詰められた人も盗みをしなければなりません。

 これを「動物のように追い詰められれば噛みつかなければならない」と言います。しかし人間は、公正な行動の話で切羽詰まれば不正を働くので、雇われて殺すことまで、もう一種類の犯罪があります。その人には何もありませんが、雇われて殺す賃金が欲しくて利益を探求する話です。

 見本を上げるだけで、すぐに理解できます。このような状況は、どのようにこの世界にあり、人同士でも、国際間でも、あるいは世界中まとめてでも、このような行動があります。

 人は二種類に分けることができます。そして滑稽でもあります。ずっと前の講義で一度話したことがあります。一部の人は「泥棒するより乞食の方が良い」という教えを守り、もう一部の人は「金持ちになればなるほど掻き集める」という教え掴み、このように別の道を歩きます。次に「泥棒するより乞食をするほうが良い」は敗北し、最高に負けて後退し、認めて尊敬する人は誰もいないほどです。

 今「泥棒するより乞食をする方が良い」は、「金を持てば持つほど掻き寄せ、そしてま集めたければ集めたいほど掻き集める」に拡大しました。それはまだ心の中にたくさん隠れていて、現れてハッキリ見える犯罪です。

 「金を持てば持つほど掻き集める」は違法でなく、憲法違反でもありません。愚かな人が書いた法律、憲法だからです。だから金持ちなら金持ちほど掻き集めるのは、どんな憲法にも反しませんが、神様の規則に反し、神様の道徳に反します。それは必ず損害の話があり、思い切り罰が当たらなければなりません。つまりこの種の人間を四分五裂、困窮困難で暮らさせ、静かな幸福を探せなくします。

 次に他の種類の犯罪は異常な心、健全でない心があり、本性がヤクザで、生まれながらの悪人か何かです。心の異常を遊びにしないでください。非常に威力があり、たくさんに枝分かれするからです。ブッダ、あるいは仏教には「正しく据えた心ほど重要な物はない」という教えがあります。

 正しく据えた心は、自然の何でもない心でなく、正しく据えた心でなければならないので、盗み、危険、あるいは誤って据えた心より凶悪などんな障害もない側と、正しく据えた心より善い、善意の友達がいない側の二つに分かれます。

 今人は異常な心があるので、心を正しく据えていません。異常な心にする原因はいろいろあり、心が異常なら問題は際限なくあります。このようなのが増えると、途端に、今私たちは狂った人と同じ世界で暮らさなければない問題が生じます。誰が「今私たちは、狂った人と同じ世界で暮らさなければならない問題がある」と見るでしょうか。これはどんどん増えています。

 人、つまり人間は人間でなく、異常な心がある人で、身勝手であることに惑溺し、身勝手を崇拝し、何をするにも煩悩でして、習性になります。あるいは小さな時はまだ善く、大きくなると心を異常にさせられます。それらの大人は異常な心があるので、何をしても異常にしてしまいます。生まれた小さな子どもは心が純潔清浄で、少しずつ間違った方へ回転し、その後どんな問題より大きな問題になります。

 次は中毒に関する犯罪の問題で、それも非常に進歩発展しました。「今まで酒や麻薬などの酔う物は、今のようにたくさんなかったが、今はたくさんある。教育が多ければ多いほど薬物中毒が多い。彼らは世界の最高学府までたくさん教育をしたが、薬物中毒は最高に世界で発展している」と考えて見なければなりません。

 「中毒」という言葉は広い意味があり、物質でも行動でも感覚でも良いです。薬を飲む中毒は酔っ払いになり、怠け者も薬物中毒です。それは心の面の中毒で、怠惰になると快適で、心が大麻を吸う時と同じです。これも心の面の中毒と言います。賭け事は薬を飲まず、吸い込みもしませんが中毒に、心の面の中毒になります。だから犯罪を生じさせることができるので、問題と言います。ね、良く熟慮して見てください。私たちは世界中、たくさんの人が中毒になっています。

 滑稽な考え、あるいは悲惨な考えは、例えばタバコの代わりに吸う中毒物質のない物を発明しました。これはタバコのように害がない、美味しく習慣になる物を作ったのと同じです。こういうのを、これらの人間は賢さであり、進歩であり、文明の面の発展と考えますが、宗教面ではもっと深い愚かさと見なします。これは捨ててしまうべきです。作る必要はありません。

 中毒面の害がない偽のタバコを考えるようなのは、最高に愚かです。時間の無駄で、何の利益もありません。そしてそれも中毒と見なさなければなりません。心の面の中毒です。身体的な害はないのは事実ですが、心の面は元どおりの中毒です。

 こういうのは犯罪行為と呼ばなければなりません。人間が人間の犯罪行為と認めなければ、神様式の犯罪でなければなりません。神様の言葉で話さなければなりません。そうすればこれは犯罪行為と言います。非常に巧みで賢い、しかし必要がない、あるいはまったく利益がないいろんな異常な研究は、不正な意図、愚かさが隠れています。これは精神面の話である、神様式精神面の犯罪行為と見なさなければなりません。

 人間のヤクザ(アンタバーラ)であることに関わるいろんな犯罪の例はこのようです。この愚かさは、タイ語では少ししか知りません。みなさんはきっと、ヤクザとは乱暴で残酷、暴力的で、他人を虐待する人と考えます。しかし宗教の教え、あるいは言語、つまり言葉の規則ではそのようではなく、それ以上です。

 アンタとは暗い、あるいは盲目という意味で、パーラは弱い、あるいは稚さ、あるいは愚かという意味で、合わせてアンタパーラ、盲人のような暗さ、あるいは愚かさです。だから誰かを刀で、槍で、弓や鉄砲で危険にする必要はなく、愚かさによって自殺し、間違った生き方をするまで、いろんな問題で危険にします。

 この世界に間違った教育制度を敷く人は、ヤクザということもあります。「タイばかりでなく、世界中の教育制度を制定する人は間違った様式にし、道徳を振興しないで、反対に道徳を踏みにじる」と、誰に叱られるのも恐れず率直に言います。それがヤクザな人たちです。

 最高に凶悪なヤクザで、刀や槍や鉄砲で人を撃って回り、殺し回るヤクザ以上です。この種類のヤクザは人間の心を消滅させ、精神を消滅させますが、あの種のヤクザが危険にするのは身体だけだからです。だからヤクザの問題は間違った教育から生じるので、世界のすべての分野のヤクザが生まれると、これくらいたくさん見なければなりません。


 次は三番目の問題で、統治の面の問題、あるいは統治する義務のある人、あるいは国の統治する人の統治、あるいは国を平定する問題です。

 道徳が衰退すれば、途端に世界中大問題になります。国の統治者、あるいは不正を退治する人は、できません。係官に道徳がなくなってしまえば、話す必要はありません。一般庶民に道徳がなく、残るのは道徳がある係官だけと言っても、何もできません。今はすっかり道徳がないのと混じってしまいました。

 だから道徳面の衰退は、統治できなくさせます。あるいは私たちが見ているように、新聞紙上で一般に聞いているように、統治の能力をなくします。あるいは統治に本気でなく、正しくなく、公正にしません。言わない方が良いです。しかし道徳面が衰退したから国の統治に不正な統治者に問題が生じたと、重要な要旨を掴んでください。だから統治できなかったり、欠陥があったり、本気でなかったりします。

 例えば今、国中至る所で、ゴロツキを頼りにする保護制度があります。ゴロツキの組織がなければなりません。あるいはゴロツキやヤクザが保護の支援をします。役所の人が保護できないからです。森の中に事務所を設置して建築工事を請け負うのは、ほとんどはゴロツキたちが保護の手助けをしていると聞きました。これも私たちの道徳がどのようかを知る計器です。

 あるいは正常に暮らすにも、一人前のゴロツキに頼らなければなりません。しかし凶悪なヤクザや無頼漢でなく、人が恐れるゴロツキです。このようなゴロツキを頼らなければなりません。その後ヤクザに頼り、それから共産主義の方が良く保護するようになります。それはクルクルと変化し、思わぬ儲け物があるので犯罪行為を歓迎すれば、係官が起訴される段階になります。だから私は「汚職、いろんな収賄は広く拡大、前進して、深く複雑になる」と見ます。この項目の道徳がないからです。

 私はこの問題を直接話したくはないけれど、道徳の衰退がこの問題を生じさせ、この問題が前で妨害しているので道徳面の解決ができないと、それぞれの項目を見ておいてください。直接道徳面の問題だけに触れるには深すぎます。それは道徳がないことの結果であり、このような問題が前を妨害しています。


 四番目の問題は、公正を維持する司法の制度も、不安定でアガティです。

 司法制度、裁判所や検事や刑務局などいろいろは、この制度に含まれ、全部クルクル変化して信頼できません。心の面の道徳が衰退したからです。別の物が現れるとは、ブッダが言われたように「威力は世界の重要な物」です。私たちはそのように言わないかも知れませんが、ブッダはそのように、威力は世界の重要な物と言われました。

 お金の威力、魅力の威力、権力の威力、あるいは善の威力、崇拝すべき愛らしさ、あるいはダンマの威力でも、これらすべてを威力と言い、すべての人は何らかの威力下に落ちています。

 しかし、世界はむしろヤクザの、つまり煩悩の威力下に落ちています。司法制度も腐り、世界は拠り所を失ったようになります。我が国の裁判所と明示しません。国際裁判所も正しくない部分があり、あるいは公正でないと恥をかかされます。世界がそのようだからです。

 国際裁判所に十人裁判官がいるとして、賛成する人が八人だけで、あとの二人が賛成しなければどのように呼ぶでしょうか。それは正しくない部分、あるいはどちらかの側に何かがなければなりません。どこにも出口を知らない人間の話は、投票制度を重要とします。頼る物が何もなく、頼れる道徳がないので、投票を重要としなければなりません。そしてその集団のほとんどの人は道徳がない人で、言うことと投票の結果は同じです。

 これを世界の正義の統計組織も道徳がないので腐ったと言います。この問題を解決する時、まだ賃金や何かを欲しがる人がいるので、これが前方を塞ぎます。あるいは最低でもその人の迷い、意図しない愚かさがアガティの人にします。彼らはこのようにだけ学んで来たので、世界の教育が誤ってしまったので、人や教育から宗教とダンマを切り離してしまったからです。


 これから見ても良いです。時間の無駄ではありません。五番目の問題は、国の清潔、秩序,美しさの問題です。

 人に道徳がなければ、どこかからお金を持って来て、国、あるいは自然の清潔を維持できません。美しさは二種類あります。人間が作った、あるいは維持しているのと、もう一つは自然に経過しますが、美しいです。

 人に道徳がなければ、これらの美しさを全部消滅させます。道徳がなければ美しさを考えません。道徳がない人は美しさを知らない人です。だから国が整っていることを消滅させ、見事な清潔さを消滅させます。あるいは家庭が先で、それから世界の物、自然まで拡大します。人に道徳がないからです。

 今人は、非常に美しさを好み、自然の美しさも好みますが、維持することは少しです。木の種類、森の動物の種類、いろんな美しさを大切にするのは、期待したほど成功しません。道徳のない人は話にならないからです。


 六番目の問題は、浪費を取り上げます。道徳のない人は愚かだから、身勝手だから浪費します。今人は、必要のない物にお金を使い、お祖父さんお祖母さんの基準で必要な物だけに使えば、人は今のように混乱、困窮しません。

 間違った教育を受けた人は、間違った好み、中毒やら何やらいろいろあり、天人と競うような生活に有頂天になります。だから給料が足らず、二倍に増えても使うのに足りません。すごく良い生活に熱狂しているので、二倍になっても足りません。

 これは道徳がないからで、「丁度良い生活」のような節約をしません。だからいつでも奴隷、あるいは餓鬼の状態があります。

 奴隷とは、煩悩が強制してお金を探しに行かせること。それが煩悩の奴隷、経済の奴隷です。餓鬼とは、餓鬼の意味で常に飢えています。餓鬼は幾ら口に入れても満腹を知らず、いつでも飢えています。パーリで「山を一山か二山黄金にしてやっても、一人の欲求には足りない」と述べてあるほどです。一人に黄金の山一つでも、その人の欲求には十分ではありません。そして餓鬼のように飢えると言うのは、世界中、どれほど欲しがっているでしょうか。

 経済の話で、肉体の手入れをするため、いろんな欲情の幸福のために、強制して探求させます。彼らはそのようになりたがり、丁度良い生活をしたがらないからです。際限のない「すごく良い生活」という間違った言葉に迷います。小物の階層の人も大物の階層の人のように、あるいは大物以上に持ちたがります。そのようになると、その人の不正な探求を止められる人は誰もいません。

 ブッダは「ちょうど良い暮らし」と提案なさいました。その人にどれだけの暮らし、どれくらいがちょうど良くても、それだけにします。誰もが同じである必要はありません。しかし全員がその人にとってちょうど良い暮らしをします。比丘は黄衣が三枚、クティ(僧房)はプラ・スガタ(ブッダの尊称の一つ)の一尋と呼ぶ二メートル×三メートル五十で、鉢も一つだけ、その他は何も溜めません。これを、比丘にとって丁度良い生活と言います。在家なら自分の義務に応じて拡大します。

 今道徳がないので、丁度良いだけ、必要なだけ欲しがらず、際限なく、切りもなく欲しがります。手に入れれば浪費し、他人の利益にすることを考えず、手に入れた物の価値が終るまで使わないで、その前に捨ててしまいます。

 人物の部分の経済の話は、以前にプラアーナンダとウデーナ王の話をしたことがあります。聞いたことがない人もいるので、これは仏教の経済の教えと捉えていただきたい話として、話して聞かせたいと思います。

 ウデーナ王は国王で、「この比丘は浪費していて、節約していないのではないか」と疑念があったので、プラアーナンダに質問しました。

 黄衣が古くなったらどうしますか。プラアーナンダは、接ぎを当て、、もっと古く、ボロボロになったら二重に補強しますと言いました。

 二重に補強してもダメならどうしますか。畳んで寝床に敷いで、寝床にします。

 敷いて寝るにも耐えられなくなったら終わりですか。そうしたらもっと厚く畳んで、小さな座布団にします。

 小さな座布団にも使えなくなったらどうしますか。足拭き布にします。

 足を拭くこともできなくなったらどうしますか。燃やして灰を牛糞と混ぜ、クティの土壁を塗り直して綺麗にし、灰のすべての分子を使い切ります。

 だからウデーナ王は仏教に帰依が生じました。考えて見てください。節約の話でも、ダンマに、仏教に帰依させることができます。

 今私たちは道徳がありません。比丘や沙弥もこの項目の道徳がないと白状させていただかなければなりません。黄衣を使うにも、何を使うにも雑で、とことん使い切らないうちに捨てます。こういうのは世界の変化であり、強く責めることもできません。私も支援者の方に「あまりたくさん献じない方が良い。どこにも仕舞っておけない」と言います。

 変化して誤解が重なるばかりで、このように醜くい物になります。次に道徳と言えば浪費はなく、使うに十分、あるいは使い切れないと言う状況があります。在家は衣服がタンスいっぱいあるので、蝶々(タイ語の蝶々という言葉を直訳すると「服の霊」と言う)と呼ばれるほどです。

 浪費すれば、自分の経済の奴隷でなければなりません。餓鬼のように飢えがあり、最後には他人の、他国の経済の奴隷になります。だからいろんな商売のバランスがない問題は、愚かで浪費すること、この項目のタンマを維持しないことから生じます。だから国を他の国の経済の奴隷にしなければなりません。

 貿易均衡が崩れるとか何とかいろいろ言うようなのは、話さなくても良いです。しかし浪費もヤクザであり、道徳がないことから生じる問題で、最高に道徳面の問題解決の前を妨害すると知っておいてください。私は道徳があるよう誘い、彼らは美しく装いたがるので、このように話が通じません。


 七番目の問題は、妬みから生じる問題です。

 人に道徳がなければ、見てください。妬む心があります。僧や沙弥でも妬む気持ちがあり、常に非難する欠点や間違いを探し、僧らしさ、沙弥らしさは全くありません。

 ブッダは「悪口を言わない。危害を加えない。悪意を持たない。妬まない」と言われました。中には妬み、悪意、悪口、加害心がある人もいます。智慧がある人は「アラティ ローカナーシカー=妬みは世界を破滅させるもの」と、異口同音に言います。アラティは一緒に喜ばないという意味で、「俺はお前と一緒に喜ばない。お前がどのように出世しても、俺はお前を喜ばない」。こういうのをアラティ=妬みと言います。そして世界を破滅させる物です。

 それは出し抜き、押しのけ、奪い合い、争奪し、俺、俺の物が目いっぱいあります。世界中がこのようになっています。時には仲間内、家族の中でも妬みがあり、這ってついて来る兄弟間でも妬みがあり、村内にも国内にも妬みがあり、世界にも、世界を支配したいので妬みがあります。

 世界の主人になりたがる人は、世界の支配者になることに誰も関わらせないので、妬まなければなりません。だから妬みの計画があり、互いに消滅させ合います。今世界は妬みで暮らしています。慈悲の道徳がないのでこのよう、誰もが見ているようです。他の幾つもの問題と関わっているので、何の問題か見分けられず、絡まった糸のように縺れています。


 八番目の問題は、怠惰から生じる問題です。

 何も調べないで実施する間違った教育は、怠惰な習性にします。だから私たちの子供、あるいは青少年は働くのが好きではありません。「仕事は楽しい。働くことは楽しい」と感じるまでしつけられた昔の人と違います。現代の間違った教育は、働くことは嫌らしい、厭わしい、飽き飽きする、うんざりすることと見させます。

 だから働かなくてもお金が得られる、あるいは働かなくても何かたくさん手に入る方法を探させます。こういうのは心の面の自然の法則に反します。だから心は衰退し、悪化し、働くことを好まず、仕事が楽しくなくなります。

 私が彼らに「働くことはタンマの実践」と言うと、彼らはせせら笑います。気にしません。愚かな人が嗤うのは悲しくありません。仕事ができるには賢くなければなりません。幾つもの項目のタンマがなければなりません。精進・努力・常自覚等々がなければなりません。だから働くことは、当然それ自体にタンマの実践があることを意味します。このように言うと、彼らは信じません。「仕事は仕事。仕事はお金を得、そのお金で楽しさを求める」と言います。

 次に楽しさに迷うと力を出すことに怠惰になるので、不正に求めます。知性が進歩して省力機を作ると、一方で人間を怠け者にします。つまり仕事を嫌う人が増えて、製造機を使います。そのようにするのは、習性をそのようにする訓練を増やすためです。だから注意してください。それらの物は膨れ上がり、そして過剰であり、人間を異常な人間にします。

 省力機は世界にたくさんの問題を作って混乱させます。それはそこが過剰で、ここが足らず、あそこが過剰です。コンピューターも注意してください。元よりもっと人を愚かに、怠け者にし、頭を使う怠け者にし、相応しくない何かにし、その結果自然の法則に反します。これも仕事を怠ける人たちに含めます。

 間違った訓練、間違った教育があれば、人に仕事を怠ける習性が生じ、昔の人のように働くことが楽しくなく、道徳も衰退します。道徳が衰退すれば、人に仕事を怠けさせ、ごっそり掻き集める話があります。


 九番目の問題は、自然資源から生じる問題です。これも常に思っていてください。

 自然資源は維持しなければならず、振興しなければならず、正しい方法で儲けがなければなりません。地下の財産を乱暴に使い尽くさないでください。神様の物なので、正しい方法で節約し、正しく使い、湯水のように使わないでください。今人間は掘り出して、ほとんど利益のない浪費をしています。そして利益がない殺し合いに使うことが増えています。却ってヤクザな習性を作ります。掘れる人は地下資源を掘って無益な使い方をし、そして人間を消滅させます。

 次に所有者である神様は人間に罰を与え、非常に痛ましい暮らしをさせます。天候も元の自然と違い、すっかり変化しました。自然を消滅させなければならない愚かさもあります。美しく非常に利益がある自然を、あの利益、この利益、その利益のため、つまりその後の衰退のために消滅させなければなりません。こういうのは世界中どこにでもたくさんあります。

 ほとんどの自然は、身勝手な人によって、煩悩・貪り・身勝手によって消滅させられました。これもたくさんあります。彼は何か少し欲しいと、たくさん消滅させます。人が「一担ぎの果物欲しさに木を切り倒す」と言うような、このようにされる木がどこにでもあります。魚が二三匹欲しいとダイナマイトを使って、沼中、堀中の魚が死にます。これは道徳がないと当然自然資源を消滅させ、そして酷くなる話です。


 十番目の問題は、物価高の問題を話したいと思います。

 今物が高く、お金の価値がなく、貧困があり、彼らは経済面だけを見て、「貨幣価格が安い。貧乏人が困窮する」と言います。そして、本当の根源は道徳がないことにあると深く見ません。誰に道徳がなくても、あるいは幾つもの側面でも、このような恐慌を生じさせます。つまり貨幣が安いのは、いろんな方面に関わっています。

 しかし見てください。最後にそれは道徳がないことに集約されます。最近では、今の人はお祖父さんお祖母さん世代のように節約しないと話したように、節約しません。あの角度、この角度をアンバランスにし、そして休みなく変改、循環します。今物価が高く貨幣が安ので、製造業が製造できません。あるいは製造しません。あるいは道徳がないので製造しません。怠け者で、物価高の問題を解決できないからです。

 貨幣が安い話も同じです。愚かさでも、身勝手でも、何ででも正しくない対処が貨幣価格の問題になります。貧しい人が困窮し、平の公務員が困窮します。これらの言葉は今新聞紙上に溢れています。上も下も、外も中も複雑な問題ですが、まとめればその角度、この角度、あの角度の道徳がないこと次第で、根源を知らないことに集約できます。

 道徳のある人は節約家で、慈悲があり、有利になろうとしません。しかし今私たちは一人ではできません。小さな国だからです。大きな国が私たちを虐めれば、私たちは不運を受け取らなければなりません。だから道徳がないことを、彼が経済面の権力を握っている国に投げつけても、誰も反対しません。


 この十の問題は十分であるべき身本で、それは心の面の自然を初め、どこにでもある問題です。次に、もう一種類の問題を見本として取り上げたいと思います。

 特別で新しくて重要な、今世界中に蔓延している問題は、労働者階級と資本家の問題です。

 労働者階級の問題は、貧しい人と資本家である富豪の間の問題で、生じてまだ何十年も経っていません。今まではかなり均一で助け合い、慈しみ合って暮らし、宗教がまだ人の心を支配していたので、あまり知りません。だからこの種の問題はまだ生じませんでした。

 次に、人が宗教を見過ごし始めたのが一つ。省力機を使って製造することを知り始めたのが一つ。それで貧乏人と金持ちの間に凶悪な問題が生じ、仲間を護って抵抗しなければなりません。資本家が一つのグループ、労働者がもう一つのグループと言います。世界中に、この問題に遭遇していない国はどこにもありません。だから世界の問題と言う方が良いです。それは重要な問題です。

 観察好きな人や智者は観察し、彼らは「今世界中で殺し合っているのは、資本家の主義と労働者(プロレタリア)主義の話」とハッキリ言います。資本家の見解は、彼らがまだ世界を支配していられれば彼らの利益と見なし、労働者の見解は、彼らが世界を支配できれば、彼らの貧しさもなくなると言います。だから資本家と労働者が世界を奪って支配したがります。しかしどちらの側も「道徳がないからこのように二つの物が生まれる」という項目を見ません。

 世界に資本家が生まれたのは道徳がないからで、世界に貧困が生まれたのも、道徳がないからです。しかし彼らは見ません。資本家でも労働者でもない仏教教団員である私は、正常な人、あるいはタンマがある人なので、どちらも見えます。

 先ず労働者の角度で見ると、貧困者は今、頭を持ち寄って主義か何かの集団にし、彼らの哲学やら何やらを持ちますが、自然の法則から脱せません。つまり身勝手です。資本家も身勝手で、身勝手がいっぱいで、労働者も同じように身勝手がいっぱいで、道徳がありません。貧しい人は、資本家がすべての道の障害と口実にし、彼らは彼ら自身の欠点を見ようとしません。彼らは一方しか見ないで、自分にアパーヤムッカがあると、つまり衰退の入り口があると見ません。

 仏教の教えのアパーヤムッカ、特に六つは、酔う水を飲む、夜遊びをする、演じ物を見る、賭け事をする、悪人と付き合う、そして自分の仕事を怠けることで、この六種類は人を貧しくします。自分の仕事を怠けるのは教育まで含め、教育を改正しない、教育面の進歩をさせない、これは愚かさで、何をやっても正しく出来ない原因です。

 酔う水を飲む、夜遊びをする、演じ物を見る、賭け事をする部分は金持ちに負けません。そして悲惨になります。教育が十分でなく無知でするので、知らないので、一時煩悩を支配できないからです。

 この村の市場に実話があります。病気で寝ている子の薬を買うお金を三バーツ持った人が、音楽を演じているのに出遭って、うっかりピカピカっとして、切符を買って演奏を見、あるいは映画を観たのかは知りませんが、お金が無くなって、家で寝ている子に飲ませる薬が買えませんでした。これは、一瞬うっかりしたのは煩悩のチャンスと考えて見てください。教育が十分でないから、あるいは心の訓練が十分でないからです。何であれ、こういうのをアパーヤムッカと言います。

 だから六つのアパーヤムッカをよく憶えてください。アパーヤ(悪趣)の入り口の扉を、しっかり閉じてください。そうすれば「貧困」は消えます。次に一方しか見ないで資本家たちだけを責め、自身の部分を解決しなければ成功しません。

 労働者階級をまとめれば、大きな望みを掲げて闘争機関を広く作ります。復讐する人の話になって平等を欲しがる。こういうのは、「自然はカンマの法則によって人をいろいろに創る」というカンマの法則に反します。

 無理に同じにしないでください。全員同じにしないでください。全員が困らないだけで十分としましょう。誰が出世しても、徳や福分(幸運)があっても、放っておかなければなりません。カンマの法則で経過する話だからです。人が金持ちになったら、全員過ちをしていると考えないでください。正しいことをしたお金持ちもいます。

 次にこれらの貧しい人は、私が「金箔を貼った天秤棒主義」と呼ぶ「歯を食いしばって堪える」主義を認めません。名前を出す必要はありませんがある富豪が、天秤棒を仏壇に置いて、その天秤棒に金箔を貼って、「私は中国から一文無しでやって来て、天秤棒一本で身を立てて富豪になり、大物になり、位階勲等がある」と子孫に拝ませました。

 これは金箔を貼った天秤棒主義と言わなければなりません。この人は何も不正をせず、本当の天秤棒の威力に依存しました。人はなぜ、金箔を貼った天秤棒主義で貧困を解決しないのでしょうか。

 チュンポーン(県)に一人の中国人がいます。彼は来たばかりの頃は担いで物を売り、野菜を買って何かを売り、彼は食事としてマカーム(タマリンド)の葉っぱを食べました。住民が「なぜそのようにするのか」質問すると、彼は「病気があって肉や魚が食べられないので、マカームの葉を煮て食べる」と答えました。その後お金持ちになり、小さな乾物屋を開き、マカームの葉と塩漬けの魚などを食べ、大きな店を持つと牛や豚や鶏肉を食べました。

 その人が「なぜ今はそのように食べるのですか」と訊くと、「今はもう、その病気は治った」と答えました。このような忍耐がある人は何人いるでしょうか。これも考えて見るべき一つの見本です。この世界に私が知っている人で、危機を脱し、貧困を脱した人が二三人います。そして資本家を貶さず、誰も貶しません。このような主義があれば、労働者主義は生まれません。

 今いるのは、反対側である資本家に罪を与える人ばかりです。そして資本家を消滅させようと待ち構えます。その後間違った物がたくさんあり、例えば「徳のある人」という言葉がありません。労働者(プロレタリア)主義は、「この世界には簡単に金持ちになり、簡単に何かになる徳がある人が必ずいる」と、徳のある人の状況を認めません。彼らの正しさ、公正、あるいは自由は、抵抗して力で奪って資本家を撲滅することで、仏教が話す言葉を誤解します。

 彼らは「プッタタート」「タンマタート」「サンガタートと自称する人は、奴隷になりたがる人、鎖に繋がれるのを愛す奴隷で、鎖から脱したがらない」と言います。いろんな言葉の意味をどのように理解するか、このような人の見解を聞いて見てください。だから私たちは話になりません。道徳がなく、種類の違う道徳があるからです。

 彼らがプロレタリア主義の奴隷なら、私たちはブッダの、ダンマの、サンガの奴隷になる権利があり、それば何でしょうか。このように公正にするべきです。そうすれば正しいです。

 間違った主義、身勝手一辺倒は、道徳がないことから生じると見て、まとめなければなりません。道徳がないことはこのような考え方を創り、解決を非常に妨害します。世界から資本家と労働者の問題をなくす解決をするには、道徳がなければなりません。道徳がなければ、すぐにそれが妨害して解決できません。

 次に資本家の側はごっそり掻き寄せる自由がある人で、法律や憲法がどのような規定でも、違反しないで行い、彼らは掻き寄せることができると見ます。世界の法律や憲法は愚かな人によって、あるいは資本家の権力下にいる人によって書かれているので、法律にも憲法にも反さないで掻き寄せる隙が開あるからです。だから彼らは経済面の権力がある人で、どのように搾取することもできます。そして機会を狙っていて、鷲よりも鋭い眼差しで掻き寄せます。

 文学の言葉を借りると「鷲の眼差し」というのは鋭く、木の葉の陰に隠れている小さな虫も見えます。彼らは書き寄せることにこのように鋭い視力があるので、早く大金持ちになります。そして権力があり、権力を独占し、掻き寄せることを独占します。彼らは直接にも間接にも、地下でも地上でもします。公正とは、手の長い人は伸ばせるだけ手を伸ばすこと。それを公正と見なします。

 まとめれば、本当は「すべての動物は生老病死の友」というのを忘れています。これは自然の真実、あるいはすべての人に「すべての動物は生老病死の友」と認めさせ、強く守らせるのは神様の望みです。だからまだ宗教が身についていた時代の世界は、このような人は生まれませんでしたが、時代の変化に応じて少しずつ生まれました。昔も大金持ちはいましたが、資本家とは呼びませんでした。仏教の富豪のような金持ちとは別の人、別の様式になりました。

 仏教の富豪には象徴があり、布施蔵を建てました。大富豪なら幾つもの布施蔵があることを意味します。だから製造、あるいは労働者、奴隷でも何でもいても、たくさん製造しても、布施蔵を維持するためでした。労働者は全員一緒に布施をする人で、現代の従業員のように経済の過酷な搾取をする道具ではありません。

 富豪の立場で財産を集めるなら、将来、状況が変化した時に備えて布施蔵を維持するためでした。経典の中にこのようにあります。仏教の富豪は、従業員や労働者から搾取する現代の資本家と雲泥の差があります。

 これらの富豪には、「慈悲は本当に初歩」という教えの仏教、ジャイナ教、あるいは他のダンマの教えがあり、全部同じで「すべての動物は生老病死の友」は心の中に本当にあるものでした。そして現代の資本家のように、国や世界の経済の権力を握りたがりません。

 今道徳がないことは、このような資本家主義を創って、解決するのを妨害します。だから私は「それは山積する問題で、間接的な道徳の問題の解決を阻む」と見ます。ココナツの実の皮はココナツの実を護っていますが、それ以上に、それより強烈に、間違った教育の実施が傷害物であり、問題です。次に間違った教育から生じる結果はあと何十種類もあり、それは間接的な問題、あるいは山積して、この問題の解決をどんどん難しくする障害になります。

 まとめると、労働者主義も資本家主義も、神様式の道徳がないことが原因と見ることができます。正しくすれば、自然の仏教教団員でいることができます。つまり「自然ではこのようでなければならない」という正しい知識があります。自然の、あるいは神様の正しさがどのようでも、人は労働者と階級としてでなく、資本家でもない状態で暮らすことができます。つまりこれらの問題はありません。誰でも個人の満足がありますが、財産などの量が同じである必要はありません。

 これを「今世界中に、どの国にも蔓延している問題は道徳がないことが作った問題で、それが解決を妨害している」と言います。これらの間接的な問題はたくさんあり、全部取り上げることはできません。自然に反した、自然の法則に反した、あるいは神様と呼んでも良いですが、それに反した教育をしていると見せる見本として取り上げました。

 タンマの教え、宗教の教え、特にカンマの法則に反すというのは、最高に見えにくい、パラマッタム(第一義諦)の深い自然の法則に反します。だから世界は困苦と変転極まりない状態にあり、永遠の危機です。道徳がなく、世界を護る道徳の衰退を増やす教育があるからです。

 これは、危機を脱せない、平和の障害を解決できない人間の問題である十分な見本ということです。困難、四分五裂の問題は、直接の原因である「間違って実施する教育」から生じ、そして間違って実施する教育からたくさんの問題が生じて道徳面の正しい解決を妨害する物になると、全部指摘して見せたということです。

 時間になりましたので、今日の講義は、これで終わらせていただきます。




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