7.道徳面の問題に今山積している問題





1974年8月17日

 タンマにご関心がある善人のみなさん。アリヤシーラダンマの土曜講義の第七回目の今日は、道徳の問題にとって今山積しているいろんな問題と題してお話しします。

 私たちは道徳の話に、そしていろんな問題が世界の道徳の発展を妨害している、いろんな問題に関心を持たなければならないと、時々復習させていただきます。自分のことでもないのに詮索する訳ではありません。世界全体を良く知ります。

 「如行(ブッダの一人称。大乗では如来)が世界に生まれたのは、天人も人間も、すべての世界の動物を支援する利益のため」と言われたブッダの言葉を思い出してください。これは当然、ブッダが目指されたことのほとんどは、世界を穏やかな幸福にするため、人物の部分は平和な幸福に、世界全体では平和があるようにするためと現れています。

 「人物の部分は平和な幸福があり、社会の部分は平和がある」。これが、如行が生まれた目的、あるいは世界に宗教がある目的です。だから誰でもこれを見て、自分の義務でないと理解しないでください。

 仏教教団員が仏教の寿命を引き延ばす義務を負うのは、ブッダの望みを不毛にしないためです。別の見方をすれば、私たちは世界で生きる一人なので、世界が衰退するのを見過ごして、苦だけがあるようにするのは正しくないに違いありません。そしてそれは、自分自身を虐めるにも等しいです。だから熟慮して、できるだけ助け合って解決します。

 もう一つ。ここでの道徳の話は、聖人の道徳、仏教の道徳と意味を限定した「アリヤシーラダンマ」という言葉があり、口で言うだけの道徳ではありません。彼らが「庶民の善い道徳」と言うのは、道徳なのに、その上「善い」がなければならないので滑稽です。


 今道徳面の問題は、人間が安楽に危機を脱すことができるか否かの最高に重要な問題です。しかしそのような事実があると見えないので、道徳の話に本気になりません。あるいは道徳面の問題がもう一つ生じて重なります。つまり道徳面に本気にならないことも当面の問題と言います。道徳面の問題を解決することに関心がなければ、四方八方に別の問題が生じて妨害し、道徳面の世界のいろんな危機を解決できなくさせます。

 道徳と呼ぶ物に対する、あるいは道徳の問題に対する現代の世界の人間の感覚は少なすぎます。遠慮なく率直に言えば、まったく関心がないと言うこともできます。今世界中の人は、道徳面の問題の多くのケースに感覚がありません。すっかり他の場所を見るからです。

 特に支障やすべての危機、いろんな問題は、人間の道徳がないことから来ていると見ません。彼らは他の考え方をするので、道徳面の問題を解決できず、そして最高に見落とし、道徳面の問題解決をすることに関心がありません。

 この世界は神様から罰を受けているのと同じです。本当は、自分自身の恩知らずによる罰を受けています。人間は道徳の恩を知りません。道徳は世界を助ける義務があるのに、道徳が世界を助けているのに、人間は踏みにじり、あるいは見過ごしているので、罰を受けているような症状、つまり危機がいっぱいあります。

 つまりいろいろな苦や困難が周囲から押し寄せ、どんどん沈下がひどくなっています。これが復習しなければならない項目です。そのようでなければ道徳に、あるいは今世界にある道徳面の問題に関心がない一人です。


 次にもう一つ見るよう提案したいのは、今のいろんな問題は目を欺く物で、いろんな目を欺く物のように正しく見させません。

 私たちは間違って見、本物を見ていません。本物を見ても正しく見る智慧がないので、常に間違って見ます。これも解決できない原因です。目を欺くと言う、道徳に関わるどんな問題があるか、これから一緒に熟慮して見てください。

 最初に世界に今ある現象を見ます。この世界はどの国も犯罪がどんどん増えています。他へ行ったことがなければ、タイを見ても良いです。いろんな種類の犯罪が生じて、国は無法のようだと愚痴が出るほど混乱します。世界中がそのようです。この世界は一時も平和になる兆しがありません。永久の平和を話す必要はありません。

 世界が混乱し、犯罪行為が溢れているのは、本当は世界の人に道徳がなく、世界に道徳がないことから生じます。これは道徳面の問題です。世界が今破滅に向かっているのは道徳がないからと、何としてもその点を掴んでおいてください。

 これは道徳面の問題ですが、私たちは別の方を見て、教育が十分でない、教育が変化している時代について行けない問題と見てしまいます。私たちは道徳面の問題と見ないで、教育が十分でなく、変化している世界について行けない問題と見ます。

 それと同時に、私たちに今ある、今まであった教育は間違った教育で、道徳を振興させない教育と見えません。感じないので、そのように見えません。これを「目を欺く」と言います。私たちを騙して、私たちは正しい教育があると、つまり道徳を持たせる援けになる教育と理解させますが、本当にある教育は、道徳を持たせる助けになりません。

 私たちは「この世界は道徳が欠けている」と見ないで、教育が十分でないからと見ます。そして誤解します。つまり私たちに今ある教育は道徳を消滅させ、この種の教育が多ければ多いほど道徳を消滅させ、この種の教育が増えれば増えるほど、世界に道徳がなくなると理解しません。

 このように見えなければ、「教育が足りない。教育が足りない」と見るだけで、この種の教育は危険で、多ければ多いほど世界を消滅させると、つまり道徳を無くし、奥にある道徳の問題を生じさせると知りません。そして循環して終わりがなく、教育の問題といたちごっこになります。

 これを、真実どおりに見えなくする目を欺く問題と言いたいと思います。本当は道徳の話なのに教育の問題に見えます。そして実施している教育は間違っていますが「正しい」と見、そしてまだ十分でないと見ます。そして増やせば増やすほど世界に道徳がないことが多くなります。

 「この世界には、人を物質や肉体に陶酔させる種類の教育がある。煩悩を促進するだけなのは、一方的な教育があるから」と良く見ます。つまり賢くするだけで、道徳がありません。時間を賢くなるため、物質的、身体的利益のために使うので、道徳になる行動をする時間がありません。これがこのように目を欺く問題です。


 次は、山積している問題と呼ばせていただく、別の問題です。

 本当の問題が一つあり、そして山積した問題の包囲攻撃が増え、道徳の問題解決の困難を増やします。だから問題は複雑で、「大小、長短の結び目がいっぱいあるくず糸は、引っ掴んで一つにするので、絡まって解けない」というパーリの成句のように縺れます。

 そうでなければ絡み合って解けない森の中のある種の草、ある種の蔦のように非常に絡み合い、本当の問題がどこにあるのか分かりません。割り込むたくさんの問題が、どこから押し寄せて来るのか分からないので、どうにもなりません。

 これは、道徳の問題の上に山積しているいろんな問題はどのようか、知れば、一斉に行動することで正しく片付けることができるので、熟慮して見なければなりません。全部繋がっているので、同時でなければできません。だからすべての問題を二つに分けることができます。

 直接道徳の問題、あるいは当面の問題は、何としても道徳を解決しなければなりません。もう一つは、基礎である道徳の問題の上に、色々山積している問題で、これを山積している問題と言います。この山積している問題は、直接と間接があります。

 今は、山積している問題だけを熟慮します。直接の問題である道徳の話はたくさん話しました。そして問題は世界で今沸騰して苦しんでいる危機にあり、それは道徳面だけの問題で、直接山積している問題は教育に関わる誤解の問題だからです。そして間接的に山積している問題はたくさんあり、全部話せないので、後で例を挙げます。今日は直接山積している問題を見る時間しかないでしょう。


 直接道徳の問題を包囲して山積している問題は、先ほどちょっと指摘したように、教育に関わる誤解の問題です。

 今、詳しく指摘して見せます。それは二つの物、つまり教育と道徳が隠れん坊や鬼ごっこをして、一杯食わせるのと同じです。道徳は重要な物ですが、私たちにはもう一種類の教育があり、道徳教育を道徳の話にしません。だから「介入して道徳面の対処をなり行かせなくする、あるいは正しく経過しなくする問題」と言います。

 この問題は、世界の教育の仕方に関わる誤解です。これが山積した、あるいは目を欺く、あるいは道徳面の問題解決を複雑にする問題です。理解すれば良く、理解できなければ「世界に今道徳がないのは、道徳を持たせる助けになると誤解している教育の話に迷っているから。しかしそれは道徳を消滅させ、あるいは道徳を振興させない」と、次々に考えて見てください

 この迷いを白い闇と呼びたいと思います。

 白い闇とは、何かが本当の一種のように見え、本当に一種の白に見えますが、それは誤りで正しくありません。人は迷って「これは光。これは正しい」とか何とか言います。それが闇を白と、あるいは光と迷わせ、目を欺けば見えません。それは目を欺いて何も見えなくする、目を欺く光です。このように比較するのも良いです。

 手厳しく例えれば、「それはこれらの物を正しく見せなくする白い闇」と例えなければなりません。人は人の見方があり、人の見解があり、人の頑固さがあると明らかに見えるのは、すべて間違いばかりという意味です。しかし彼らには見えるので、それを光と見なし、この種の光に執着します。人は間違った知識、間違った事実、何でもすべて間違いを受け取るので、解決できません。これを白い闇と言います。

 白い闇が耳慣れなかったら、良く憶えておいてください。そして後で使って話せるように、良く憶えてくださいとまでお願いします。人間の群れの中に、まだ他の話がたくさんあるからです。彼らは何をしても間違い、誰も認めようとしない、反論を捲くし立てる白い闇だけを受け取ります。つまり自慢でも自画自賛でも何でも、それは白い闇の話ですが、光と理解します。


 さて次は、今話している話だけを見ます。

 ここでの白い闇とは、正しいと理解して間違って掴んだ教育に関わる問題です。私たちの国も含めて世界にある教育は、実施の仕方を間違っています。正しいと理解するからです、だから彼らに質問すれば、彼らはそれを正しいから実施したと見なさなければなりません。

 間違いと言うのは、それが道徳を消滅させるという意味です。しかし道徳を消滅させると見えなければ、彼らは正しいと見なさなければならず、その後、このような教育はこの世界の問題を解決し、世界を平和にすると夢見ます。

 私も、このような教育があればあるほど道徳がなくなり、平和になる道はないと証明して見せる努力をします。この種の教育は自然の事実に反すので、煩悩に関わる自然だからです。

 自然の法則での事実は、私たちが現代の教育の物質に関わる物が最高に輝かしい物をもたらすことに関わる、便利さ、美味しさ、楽しさなどの物質の話に迷えば、それらは、引っ張って行って惑溺させ、煩悩の話にするだけです。

 ここまで話したら、みなさん、いつも話している言葉を思い出してください。二頭の水牛でも何でも良いですが、二頭で田を耕す話です。一頭は力で、もう一頭は正しい知識です。力である方は引っ張り、知識の方は正しさを生じさせます。今私たちは、力がある狂った水牛しかいません。それは煩悩の粗暴さで引っ張って行きます。つまり物質の話の狂気で、道徳面の善悪正誤の感覚はありません。

 二頭の水牛とは何かと言えば、一頭は現代の教育から得た知識で、二頭目は道徳面の知識と実践です。一頭の水牛の名前は教育で、もう一頭の名前は道徳で、この二頭の水牛を繋げば、世界を安全に、つまり平和に、穏やかな幸福に牽いて行くことができます。

 今教育は管理する物が何もない片面だけの教育で、物質面だけを発展させるために賢くするだけです。人は愚かで「そうすれば世界を平和にするに十分」と言います。これを自然の法則に反すと言います。それは煩悩を増やす点で煩悩に関わっています。

 自然の法則は不動であり、煩悩を促進するようにすれば煩悩を促進し、煩悩を排除するようにすれば煩悩を排除します。今教育は煩悩を促進するので、「煩悩を排除することに関わる自然の法則に反し、煩悩を促進する」と言います。「それは白い闇。最高に欺瞞する闇で、最高に目を欺く」という言葉の意味がハッキリします。

 だからこの種の教育をすればするほど、太って強靭で粗暴な若い水牛、狂った水牛だけに荷車、あるいは鋤を牽かせるのと同じで、最後は破滅に向かいます。今は、この水牛は今世界に毒を作っていて、身体の話だけに惑溺していると見えます。だから町中国中にヤクザが増え、多種多様な犯罪、特に性犯罪は他よりも強烈、窃盗などより強烈です。

 これを「煩悩は、今世界が惑溺している種類の教育から支援を受ける。道徳の話は全部どこかへ捨ててしまい、世界の教育から切り離してしまった」と言います。


 ここも、誰が煩がるのも恐れず、「今、非常に間違いをしている。宗教の教育を、庶民の教育から切り離してしまった」と何度も繰り返したいと思います。

 タンマの話、宗教の話は、かつては庶民の教育に含まれていましたが、近代は切り離してしまう主義が生まれ、学校・高専・大学で教える必要はなくなりました。彼らは「それは個人の話で、知りたい人、善が欲しい人は個人の話として自分で探す」と理由を述べています。

 今彼らは、全員同時に早く学ばせ、誰にでも使える地域の教育をしています。宗教を出してしまわなければならず、そうすれば簡単で、早く、最高に進歩します。宗教を切り離した、あるいはタンマ、道徳を庶民の教育から出してしまったと言います。これは西洋が先で、タイ人は西洋の尻を追いました。

 タイの教育も真似をして道徳の話がなく、本当の宗教が含まれていません。だから教育が物質に溺れさせるので、生じている煩悩のチャンスです。次にその煩悩が私たちを騙します。ここでの煩悩は愚かさ・迷い・無明を意味し、それも私たちを騙して、これらのいろんな問題の複雑な解決に迷わせます。

 これを「道徳面の問題解決に山積する問題は多く、全部取り上げ切れない」と言います。だから見本として取り上げ、それから本当にある物を強調し、主張し、確認させていただきます。

 今彼らには迷いがあり、教育は世界の人間の変化に追いつかないと言います。良く聞いて見てください。この世界の人間社会は激しく回転するように変化しています。なぜかは後で話すことにして、最初の事実は世界、あるいは人間は今、走っているように非常に変化しています。世界にある教育が社会の変化に間に合わず、十分でなく、行き渡らないからです。これが白い闇です。

 社会は本当に早く変化します。これは彼らも認めています。そしてこの種の社会には平和がなく、静かな幸福もありません。そしてその変化は、現代の世界の間違った教育から来ていますが、彼らは、その教育は社会の変化に対して十分でないと責め、「増やさなければならない。大急ぎで集めてその種の教育を十分に揃えなければならない」と言います。

 これを「世界は確実に破滅する」と言います。変化する社会は、物質の発展に惑溺する方向に変化するので、それらの人物に悪劣な考えが生じ、低劣な心にするからです。だから彼らは、その種の教育のせいで犯罪行為をします。それでもまだ「教育が足りない」と言い、反対にそのような教育を増やします。次に犯罪、あるいはいろんな問題が増えます。これは「今ある教育は、社会の問題を解決できる」という迷いです。これが最高に白い闇です。

 今世界中にある教育、あるいは遡っても良いですが、人間の問題を解決できません。つまり世界を平和にできません。若い大きな水牛に引かせるような教育をするからです。彼らは会議をして教育を増やし、世界、あるいは社会の変化に追い付かせると考えます。


 次に世界の教育をこの種の教育にした結果を見ると、道徳を持つことがどんどん難しくなります。この種の教育をすればするほど、国民が道徳を持つのは困難になります。

 簡単に憶えられるように短く言えば、「この種の教育を増やせば増やすほど、国民に道徳を持たせるのは困難で、最高に道徳がなくなる」と言います。国民に道徳がなければ、何が生じるでしょう。これ以上に何が生じるでしょうか。危機が生じ、衰退、破滅その他がどっと押し寄せます。

 現代風のちょっと綺麗な言い方をすれば、いろんな分野の別の問題が生じて増えます。経済の問題、行政の問題、政治の問題、衛生の問題、農業・商業の問題、自然保護の問題、最後は神経の病気、心の病気が世界に溢れる問題です。それが、今実施している教育の誤解の結果である問題です。

 経済の問題を解決できないのは、国民に道徳がないからです。本当かどうか、考えて見てください。国内外の経済問題、あるいは家庭の経済問題でも解決できないのは、人に道徳がないからです。盗みでも不正でも、有利になることでも、詐欺でも怠けでも、道徳がないと言います。

 国の経済の問題を解決できないのは、国民に道徳がないからです。資本家も道徳がなく、労働者も道徳がないので闘争しなければなりません。見ると、道徳がないのをどのように競っているかが見えます。

 統治の問題も成功せず、秩序がないのは、国民に道徳がないからです。国民に道徳がなく、それから道徳のない係官が生まれ、検事、裁判所、刑務所でも何でもすべて道徳がないので、どうにもならないと見なければなりません。それで統治がきちんと秩序正しく、順調に行くはずはありません。統治の問題が生じるのは、人に道徳がないからで、道徳のない係官なら、もっと酷くなります。

 次に政治の問題を見ると、国内の政治、国外の政治、国際間の政治でも、どれも道徳がありません。国際間の政治は、最高に道徳がありません。自分の国を有利にすることを目指し、他人より有利になって自分の国の利益にするからです。政治面の会議はどこであろうと、口では「正しさのため、公正や何やらのため」と綺麗ごとを言いますが、一瞬もぼんやりすれば、不利な立場に立たされます。

 国際間の政治はこのように腐っています。国内の政治も混乱しています。国会と政府に道徳の欠如が生じれば、話になりません。際限なく論争し、国も粉微塵になります。道徳がないだけで、政治は問題が溢れるほどあります。

 次は問題であるべきでない物です。小さなことと言うにも小さくありません。しかし問題であるべきでない人の衛生の話です。人に衛生がないのは道徳がないからです。その人はアパーヤムッカばかりし、酔う水を飲み、夜遊びをし、見世物や芝居などを見、賭け事をし、悪人と友達になり、仕事を怠けるからです。このような六種類、ブッダが言われただけで十分です。これだけの道徳がないだけで、その人は身体面の良い衛生がありません。

 そして次に、心の面の衛生は最高にありません。心の面の衛生が体の面の衛生を促進させるので、心の面の衛生がなく、心の純潔がなく、心の安定がなければすべての衛生が失われます。道徳がないからです。

 他の生業、例えば農業、商業、工業なども同じです。道徳がなければ、あるのは倒産だけです。つまり競争し、奪い合い、妬み合い、盗み合い、いつでも有利になり、全部ダメになります。

 次にもう一つの問題は自然資源です。木や山、洞窟、沼、運河、沢、川などいろいろ、正しく秩序がある状態でなければ、村や町に静かな幸福はありません。雨が降らず、降れば村中町中に溢れて地面に沁み込まない。こういうのは木を全部伐採してしまい、裸の山だけ残った東北地方に見える問題です。雨があまり降らず、降れば町中に溢れます。雨を溜めておく物が何もないからです。だから自然の財産を保護管理する規則があります。

 このような森も、道徳がなければ保護できません。いろんな方面の人に道徳がないので、今森も消滅しそうです。詳しく説明しないでください。すれば他の自然資源も全滅します。六十から七十歳くらいの人なら、何がどれだけ消滅したか、比べて見てください。そしてそれは道徳がない人の欲求による変化です。これは非常に凶悪で、保護する地域社会の利益が見えません。

 三、四十年前、私はパークマークへ歩いて行ったことがあります。四方が真黄色なマファイの森を通ると、どの木も黄色の布で木を覆ったようにマファイの実が鈴生りでした。何分も、ニ三十分歩いても美しいマファイの森は終わりませんでした。今聞いて見ると無いそうです。そこには一本も残っていません。これを、誰によってでもいいですが、変化したと言います。誰も責任を取る必要はありません。だから自然資源は変化し、美しさはなくなり、そして困難、困窮するほど変化しました。

 別の価値がある鉱石、鉱物資源の話はもっと被害があります。この土地は残らず発掘して、価値ある物は何も残っていないと言うほどです。その後それを使って平和を消滅させます。鉱物や金属を掘り出して武器を作り、石油を掘り出して浪費して、この戦争で生き物を消滅させます。

 その次は男女が際限なく楽しさを求める旅行です。これも道徳が十分ない人によって自然資源を消滅させると言い、消滅させる必要もないのに消滅させてしまいます。これは新しい問題が問題を増やし、問題が積み重なって生じます。

 最後の項目は、今神経の病気、心の病気が増えている問題です。これは良く知られています。信じられないほど増えています。誰でも静かでない心で、恐怖や心配ごとを抱えて暮らすからです。できるのは世界を平和でなくするだけなので、心の病気、神経の病気が増えます。だから心の病気、神経の病気の人も、すべての犯罪行為ができます。


 どうぞ、道徳の規則に反した教育の結果は、このように新しい問題を生じさせると見てください。こういうのを山積した問題と言います。だから私たちは考えるべきです。止って見て、思い、何としても考えて、本当に正しい、道徳に関わる自然の法則で正しい教育を実施すれば、社会は「教育が追いつかない」と叫ぶような、狂気に走って行かないと見てしまいます。

 正しい教育を実施すれば、社会は狂ったように衰退の方向へ駆けて行かず、今増えているように、今間違って心配しているように、教育が追いつかなくなりません。正しい教育を実施すれば、水牛二頭の教育になり、教育と並行して行く道徳があり、先ほど話したような問題はありません。

 今、道徳の規則に反した教育は、狂人が走るように社会を変化させ、そして教育が追いつかないと叫びます。この教育は騙され易く、愚図でのろまで、狂ったように社会を道徳に欠けた症状に促進します。このように考えることができれば危機を脱し、新しく変化し、新しい方法に、新しい方針に変化します。道徳があるだけで、これらの多種多様な問題は自然に消えます。犯罪の問題、経済の問題、統治の問題、政治の問題、何でもいろいろ自然に無くなります。

 今解決するのは末端の原因だけで、強制してその機関、この機関を設置し、偉大な名誉があるので国際間の問題を解決できません。あるのは増えるだけで、彼らが「競争で有利になる舞台」と話すほどです。国際連合などの非常に名誉がある世界の機関は何の機関でも、政治面で有利になるための舞台に使われます。だから急いで道徳の問題を正しく解決してください。教育を、道徳を消滅させる道具にしないでください。そうすればこの世界に平和な幸福があります。

 次に、きっと反論者がたくさんいると思います。そして「おーい! このように家が燃えているのに、座って道徳の話をしていられない。今分裂と困苦がいっぱいなのに、座って道徳ばかりしていられない」という簡単な理由で反論します。

 私は他の答えはしません。「今家を燃やしている火が、道徳面の罰、神様の罰です。あるいは道徳が罰を与えています」と答えます。何の罰でも、家の火事と同じ状況にします。家が燃えていても、座って家を火事にする本当の根源を思わなければなりません。飢えて死にそうでも、その飢えが道徳の欠如、道徳がないことから来ていれば、道徳について思わなければなりません。

 だから私は「腹いっぱいになってから道徳を学ぶ」と、他の人が言うように言いません。このように話す人は増えています。このように話す人は、哲学者、智者である政治家、国を統治する権力者でもあります。

 私は、そのような教えを守れば破滅するに違いないと考えます。困窮・損害・分裂は、本当の道徳がないことが原因なので、多少空腹を我慢しても、道徳面を先に良く解決します。そうすれば空腹に堪える必要はなく、悪に堪える必要はなく、何の加害に堪える必要もありません。それは自然に生じます。

 世界中いつでもこのようです。タイばかりでなく、この世界について勉強できるだけ広く世界中を勉強する努力をしていると、同じと気づきます。問題は同じ、人も同じ、同じ問題があり、同じ煩悩があり、同じように有利になり、同じように道徳がありません。だからいつも通り主張させていただきます。


 この主張は「道徳面の問題を取り上げて、教育の実施を熟慮しなければならない」とあります。

 国の教育制度を実施する権力、あるいは義務のある人は、先ず道徳問題を取り上げて良く見なければなりません。隈なく見て、それから道徳があるよう振興する教育制を実施します。それです。そうすれば静かな幸福があります。あるいは危機を脱して、生きて行けます。

 次に物質、肉体、身体的発展だけを目指す教育を実施します。こういうのは道徳を顧みません。だから道徳と呼ぶ物に対して間違った対処をし、間違った行動をします。最後は、今のようにプラタムに罰を下されます。つまり犯罪が溢れ、危機が溢れ、分裂が溢れ、家の火事のようです。道徳の問題を基礎として取り上げ、それから教育、あるいは何でも、道徳の目的に正しく対処すれば、私たち人間に安楽があります。

 話して彼らを笑わせたいと思います。しかし最高に真実と主張させていただきます。つまり道徳省を作って、今あるどの省より良くしなければならないと言いたいです。今私たちには道徳省がありません。「道徳の部分は使い物にならない。道徳省を作って、どの省よりも良くしなければならない」と、教育省にこっそり託させてください。それは、他のすべての省の問題を解決できます。

 私たちにはいろんな義務をするいろんな省が十二あり、このようなのは、すべての問題がぎゅうぎゅう詰めでできません。経済省、あるいは何かの政治は息が詰まって、七転八倒して成り行きません。もし道徳省を作ることができれば、すべての省の問題はなくなります。

 だから投資すべき省と見なすべきです。そしてすべての省の問題を解決できるので、どの省よりも多く設置すべきです。タイも、どこの国もこのような状況にあります。だからそれぞれの省で末端の原因を解決しないで、本当の原因である道徳で解決しなければなりません。

 今世界中が、夢中になって末端の原因を解決しているので、最高に良くても「蟹を捕まえてザルに入れる」状況があります。蟹がザルの中に居るのを見るのはほんの一時で、すぐに逃げてしまい、再び捕まえます。だからこの世界に平和がなく、あるのは永遠の危機だけです。

 次に話してもっとハッとさせれば、「教育を道徳に仕える犬にしなさい」と言います。「仕える犬」というのは、コミュニストがコミュニストでない人を罵る言葉で、良いので、今それを借りて使います。国の教育を道徳に仕える犬にするよう対処します。つまり道徳が何を望んでも、教育を道徳に仕える犬にしてください。そうすれば間違いはありません。それは道徳があるよう促進し、国は静かな幸福になります。

 今、道徳を消滅させ、道徳を推進しない、あるいは道徳の根を掘って崩し、問題が山ほど増えて解決できない種類の教育に夢中になっています。道徳面の問題を解決できないのは、教育が目隠しして、問題を積み上げるからです。こういうのを「直接道徳の問題解決に山積する問題」と言います。教育すればするほど、道徳の敵が増えます。私は、私を信じる人は誰もいないと信じます。教育制度を管轄する人も信じません。しかしいつでもこのように主張させていただきます。

 すべてを、これについて述べた限りでは、直接道徳に山積する問題とまとめることができます。この問題がなければ、正しい教育を実施すれば、その他たくさんの間接的な問題は確実にありません。根源はこれだけ、たった一つの問題にあります。

 つまり道徳を消滅させるほど間違って実施している教育の問題です。私たちが道徳の問題を解決できないのは、教育の面の間違った問題が山積し、山積すればするほど、道徳面を正しくする教育を実施する機会を奪うからです。

 だから向きを変えて、力を集めて注いで、教育の問題を解決してください。道徳の問題の前方を塞いでいる山積した教育の問題を解決すれば、いろんな問題は自然になくなります。しかし早くする助けにするなら、同時に山積しているいろんな問題を解決しなければなりません。

 詳しくはたくさんあるので、次回話します。そして今日は時間がないので、講義を終わらなければなりません。

 今日の講義は、これで終わらせていただきます。




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